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2024年2月11日 (日)

偉大なマエストロー小澤征爾の残したもの、次世代が引き継ぐべきもの

既に報道されているように、日本が生んだ偉大な指揮者の小澤征爾氏が6日、東京都内の自宅で心不全のため死去。88歳

■「世界のオザワ」指揮者の小澤征爾さん死去、88歳 カラヤン、バーンスタインに認められ
https://www.tokyo-np.co.jp/article/308485

2006年頃から体調を崩し始め、一時持ち直したものの、2010年1月、人間ドックの検査で食道癌が見つかり以来、闘病生活が続いていた。そして先日天に召されてしまった。
小澤征爾の日本の音楽に対して遺した功績は数知れない。その中でも特筆すべきは

ウイーンフィルのニューイヤーコンサートの模様。
you tubeも早くも追悼メッセージ
この映像は日本人として誇っていいとう

また長らく常任指揮者を務めたボストン交響楽団(BSO)の小澤征爾への追悼セレモニーの動画
J.S.バッハのG線上のアリア演奏後に黙祷 。思わず涙が出た。

日本人の音楽家でこれだけ世界中からその死を悼まれた人物がいただろうか?

いや、坂本龍一氏、高橋幸宏氏の訃報も世界中から死を悼まれ、リスペクトも得ていたが記憶に新しいが、小澤征爾氏は音楽のジャンルや国籍に関係なく世界中からリスペクトと死を悼まれている。

それは次の映像でわかるのではあるまいか

ベルリンフィルとジャズトリオの共演。「楽譜を忠実に」という発想ではこの演奏は理解できないかもしれない。だがこの演奏はガーシュインの意図から少しも離れていない、ジャズミュージシャンだからこの演奏になり、これこそが音楽である。小澤さんはそれをよく理解していた、だから偉大な音楽をプロデユースできたのである

「小澤征爾が遺したもの」とは何か?

小澤征爾がその膨大な演奏の記録、録音から動画まで残してくれたもの。
いうまでもなくそれらは人類への文化遺産であるが、そこには小澤征爾という一人の音楽家の音楽に対するひたむきな情熱、音楽によってリスナー(聴衆)へのコミュニケーションの軌跡ではないかと思う。

先ほどの動画にも出てきたが、音楽のジャンル、に関係なく音楽の中にある「メッセージ」によるコミュニケーション。「メッセージ」といっても具体的な言語やテキスト情報ではなく、音楽そのものによって伝えるサウンドーいわばハートによる表現によって伝わるメッセージである。
うまくいえないが、演奏する音楽ーサウンドによって聴く人に伝わる演奏が人に感動や情動を伝えることができるーそういった演奏を数えきれないほどやってきた、それが人類への文化遺産として残してくれたし、それが可能になったため「音楽の素晴らしさ」を伝えることができたのである。

つまり音楽はただロボットのように「正確に音符を演奏する」ようなものではなく、一音一音に気持ちを込めそれを人に伝えようという気持ちで演奏しなければならない。俗にいう「ハートが入っている演奏」のことをいう。

そういう「ハートが入っている演奏」を無数に残してくれたのが小澤征爾氏であり、だからこそ彼がマエストロと世界中から音楽のジャンルに関係なく尊敬を集めることができたのである。

私たちはこの小澤征爾と同じ時代にうまれることができたことを感謝し、その遺産を宝物として次の世代にうけつがなければならない

「次の時代に引き継ぐもの」

小澤征爾の遺産である無数の「ハートが入っている演奏」を遺産として引き継ぐことはいうまでもない。

だが一番重要なのはその「遺産」を作った精神をひきつぐことである。

小澤征爾は建前上、クラシックの演奏家である。しかし彼は「ハートが入っている演奏」ーつまり生きた演奏であればクラシックだろうがジャズだろうが、場合によってはロックでも関係なく取り上げる。

大事なのはカタチではない、大事なのは音楽のサウンド1つ1つにこもった気持ち、メッセージを伝える姿勢である。

それが生きた音楽、人々の心をつかむ演奏になるからである。

あとに残されたものとして少しでもこの偉大な音楽家の精神を受け継ぐことができるようにしたいものである。

Matsumoto

R.I.P> マエストロ

 

 

 

2月 11, 2024 文化・芸術音楽 | | コメント (0)

2023年12月30日 (土)

2023年は日本の映画界がほんの少し「世界」に目を向け始めた年ーしかし一方日本の音楽界はより深刻な状況に

2023年も業務上は実質的に終わり「回顧と来年の展望」のシーズンになったわけですが、世界から「ガラパゴス」と揶揄された日本の映画界がほんの僅かですが「世界に目を向けた」年だったかもしれません。

その理由はいうまでもなく「ゴジラーマイナスワン」の日本だけでなく世界的なヒットを飛ばしたわけだからですが、東宝はこの「ゴジラーマイナスワン」を配給するために「東宝グローバル」という会社を立ち上げ、世界に向けた日本の映画の配給の体制を作り上げた点にあります。
つまり本格的に日本の映画をアメリカ国内からヨーロッパまで配給できるようになる、という従来の日本の映画界では考えられなかった体制です。

同時にスタジオジブリの「君たちはどう生きるか」もアメリカでの配給会社経由で全米一位の興行収入を得る等、ゴジラ、ジブリという海外では誰でも知っている日本のコンテンツということもあるんですが、まずは両者とも全米一位を獲得したことから、いい出だしだったといっていいと思います。
何よりも世界に目を向けることを頑なに拒んできた日本の映画界にとっては大きな転換点にもなる可能性が出てきました。

テレビドラマでも1つドラマ"VIVANT"が従来の日本のドラマの常識を根底から揺るがす作品が発表されました。

Mindra_main_vivant_nologo

日本のテレビが作ったとは思えないほど壮大なドラマであり、キャストを含めかかっている予算は半端ではありません。あらゆる意味で従来の日本のテレビドラマとは一線を画すドラマといっていいでしょう。ドラマを今回の場合はU-NEXTですが、ストリーミングプラットホームで流すというのも従来のドラマではなかった点です。(一説によると大手ストリーミングプラットホームに流す話があったようですが、重役陣の猛反対で立消えになったという説もあります)いずれにせよ、モンゴルを始めグローバルなドラマの作り方も従来とは一線を画します。

だが、ジブリはさておき、東宝にしてもTBSにしてもこの成功を全員が喜んでいるわけではなさそうです。

特にTBSでは社内でのバッシングすらあったそうです。実際"VIVANT"にはデイする記事がよく出ていました。

■日本に珍しい大予算のVIVANT をめぐるTBSと批判者の反応にみるテレビ関係者の新時代への対応をめぐる分断
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2023/08/post-2e66d4.html

 

しかし殆どのVIVANT"のデイすり記事をよく見ると共通するのはドラマの具体的な展開や内容には殆ど触れず、リアルタイムの視聴率というテレビのもはや旧態依然といってもいい判断材料を絶対視しその数字のみで批判している点。どの記事もドラマの内容、登場人物に関する点には殆ど言及していない。デイすり記事にしてもあまりにも内容がなさすぎる、と言わざるを得ません

これを見て思うのは映画製作会社でもテレビ局でも旧態依然のビジネスモデルにこだわる勢力と、新たなビジネスモデルを構築しようという勢力の間にせめぎ合いが起きているのではないか、と推測できる点です。

実際日本のいわゆる「芸能界」ー音事協を中心とした世界ーは極端なほどに変化を忌み嫌い、自分たちが築いた「芸能界ムラ」を守ることを何よりも優先する社会だったからです。

しかしその「芸能界ムラ」も今年のジャニーズ事件(これだって国連人権委員会やNHKが取り上げなければ誰も本気にしなかったでしょう)そして先日のダウンタウンの松本の件にせよ、かなり従来では当たり前にように行われた行為が思うようにできなくなりました。

とはいえ、従来の古い「芸能界」のありかたに固執する向きも根強く存在します。守旧派とグローバル派との対立は2024年はより一層激しくなるとみていいでしょう。

問題は今回僅かに「世界に向けた目」を今後より大きく広げることができるのか、それとも「音事協」勢力によって時計の針を戻すようなことが行われるのか。事実日本国内では後者の力の方が根強いのは否定できないので、大きな懸念点になります。

ある意味それが今後の日本のエンタテインメントビジネスにおける重要なポイントになるかもしれません。

もう1つ、一応私は本来音楽肌ですので日本の音楽界に目を向けると、状況はより深刻である、と言わざるを得ません。
「世界に目を向ける」どころか寧ろ実質的にK-POPに支配されている始末で、新しい時代に向けて対応しようというそぶりも見せていません。
あらゆる面でもう世界から置いて行かれてますね。

アニメやマンガが辛うじて日本のコンテンツに世界が目を向けさせてますが、日本のポップスはほぼ無視されています。救いがたいのはここまで酷い状況になっても「グローバル化」への改革の動きが殆ど皆無な点です。

まあ一応映画音楽をやっている立場なので、テーマソングといった場合で日本の音楽の底上げに寄与できるといいな、とも思ってますが..

 

 

12月 30, 2023 文化・芸術日記22ー映画テレビ18- | | コメント (0)

2023年10月 8日 (日)

AIによる作曲について

昨年から喧しいAIの出現による作曲について

ネットではAIの出現でもはや「作曲家など不要(笑)」といった言質が垣間見るが、確かにまだプロが使う程度のレベルではないが作曲ツールのソフトが沢山発売されている。

■文章が「音楽」に。AI作曲は音楽家にとって脅威か、よきツールか。来るべき音楽制作の未来を考える
https://www.cinra.net/article/202306-ai_ymmtscl 

■音楽生成AIの実力とは?作曲ツール「Boomy」を使ってみた
https://yourclip.life/post/about-ai-composition/ 

基本的に私のAIのスタンスをいうと「新たなツールが出てきた」という認識以上のものはもっていない。また一部の人のようにこれでパニックに近い状況に陥るわけではない。あくまでAIの生成レベルが現段階のままである限りは、という条件付きだが..

というのもAIそしてその生成される音楽、そしてその記事について次の点が見逃されている傾向があると思う。

(1)  AIは必ず「元ネタ」をベースに生成されるものであり、「元ネタ」は著作権フリーのものでない限り著作権が存在する、という点
(2)  映像と違い音楽は日本のJASRACは元より世界的にも音楽の著作権は保護されている点

特に(2)が大きな問題で生成AIの元ネタが著作権のある音源だとすれば、折角カッコいい音源をAIで生成、「作曲」できたとしてもそれがあなたの作品として認められる可能性は低いのだ。少なくとも現在の生成AIのレベルでは

但し生成された曲が元ネタの組み合わせが複雑で元ネタの判別が難しいくらいの高度な生成AIだと事情が変わってくるかもしれない。但しその場合は作曲や音楽に関する高度な知識も必要になるので、どのみち趣味レベルで作る人には難しいだろう。

まあ私の周囲にもAIのみで作曲⇒録音して大ヒット曲を作って見せる、などと息巻いている人物がいるが、いわゆる「売れセン」(この言葉も死語になりつつあると思うが)メロデイをAIで生成して曲を作ることは可能だ。

だがそれがヒットするかは、また別の話。音楽のビジネスはそう単純なものではないし、頭で描いたようにはいかないものだ。

まして私が関わっている映画音楽にしても映像や脚本、その他多くの要素を考えつつ作ることになるのでAIだけにまかせればできるというわけでもない。但しあまり音楽について考えていない監督ならそれでもOKかもしれないが...

しかし音楽は著作権法できちんと守られているが役者さんの肖像権、脚本家の著作権とかの規定は音楽ほどしっかりしていない。先日のWGAの交渉結果でもAIに関して「脚本家の仕事機会を奪わない」という規定はもうけたものの、具体的かつ詳細な部分での詰めがあったようには思えない。現在SAG-AFTRAの交渉もAIがらみで難航しているようだが、こちらもどこまで規定されるのか不透明だ。

いずれにせよ音楽より映画、ドラマの方がAIに関して今後も紆余曲折がありそうである。

 

 

10月 8, 2023 パソコン・インターネット文化・芸術音楽16-23 | | コメント (0)

2023年7月17日 (月)

価値観が変遷の時代―業界にも起きている大きな分断

このブログで何回も私は論じているが、好むと好まざるに関わらず現代は数百年に一度の大変革が起きている時代である。価値観が大きく変化しており、10年前の常識がもはや崩れてしまっているのが現代である。日本人同士や日本のマスコミの記事ばかり読んでいるとこの「価値観の変遷」というものが理解できないかもしれないがこれは事実である。とりわけ日本のマスコミはオーソリティに対する忖度しか考えないので世界的に見てももっとも信用できないメデイアといっていい。またネットにはその価値観の変遷を「陰謀論」でとらえる向きが多々あり、間違った捕らえ方や理解の仕方をしている人も少なくない、

インターネット時代に入って最近大きな問題を感じるのは「どれが正しい情報なのか分かり辛い」という点である。

どれも我こそが正論であるかのように書いているウエブサイトが多いが、はっきり言おう、そういう類のもので正しい情報を発信しているところは殆どない。特に陰謀論は99.99%フェイクニュースであり、詐欺的なものと考えて間違いない。

昨今の価値観の違い、いずれもネットでは見事なほどに「陰謀論」に汚染され、しかもそれを本気で信じ込んでしまっている輩が少なくないという点。やっかいなことは陰謀論者は「自分はみんなの知らないことを知っている」という変な思い込みをしている傾向があり、実際には何も知らないのに「自分は人より知識がある」と思い込んでいる点である。

以下の価値観の変遷はネットでは陰謀論に絡めて論じられることが多い、

1.グローバリズム(この言葉嫌いならボーダーレス社会)

2,多様性- ジェンダー、LGBTQ、障害者、人種による差別をしない社会

3.SDG(温暖化も含む)

無知とは恐ろしい。無知は偏見を呼び暴力につながる。

これら3つをその辺の「もっともらしく言うウエブサイト」のことを全面的に信用し、きちんとした学者や学会の説を「デマ」と決めつける人間が多い。

特にグローバリズムをアメリカの陰謀であるかのように主張するのは無知の証明である。トランプ前大統領は反グローバリズムだったし、現在共和党を中心に多様性、LGBTQに反対する運動が大きなうねりとなって起きており、アメリカ社会でも深刻な分断が起きている。こんな状況では陰謀どころの話ではないはずであるが、日本でもその陰謀論を信じ込んでいる人間が少なくない。

そしてもっと嫌なことはこの陰謀論を適用して日本のガラパゴスの状況を守ろうとする動きがあることである、

アメリカ社会と同じように映画でも音楽でも分断が起きている

例えば日本の映画関係者でテレビや大手制作会社との付き合いが主な所は従来の日本のガラパゴス的な体制を遵守し、日本国内の市場のみを見た制作活動を行っている。一方で先日参加した映画プロデューサーの会合で現場で動いている人たちの殆どが海外との合作プロジェクトを行っており、その意味では映画のグローバリズム、ボーダーレス社会の状況についてほぼ私と同じ認識をもっていることを感じた。

現場の第一線で動いている人たちこそが実際に今世の中が何が起きているのかを実感しており、その辺のネットの中途半端な情報で全てを分ったつもり(実際には何もわかっていない)の人たちとは一線を画す。そういうものである。

この分断、世の中の流れがどちらに向くか、おそらくもうすぐ見えてくるだろう。

私は旧態依然の国内のみを見たマーケット観、ガラパゴスな価値観の方向にはいかないと思うし、そちらの方向に日本の映画産業、音楽産業が向かうようでは「滅びの道」を行くことは避けられないと考える。

 

 

 

7月 17, 2023 文化・芸術音楽16-23映画テレビ18- | | コメント (0)

AI時代ーアーチストもクリエイターの「元ネタ」に関する規定に関する提言

前の記事でアメリカ俳優協会(SAG-AFTRA)が経営側が交渉妥結直前に出してきたAIに関する項目で一転決裂ーストライキ決行という事態になったことを当ブログに書いたが、その内容をもう一度おさらいすると

1.SAG-AFTRAの役者全員を一日100ドルのギャラで全身と声をスキャンさせる

2. そのスキャンしたデータ(元ネタ)を永久にスタジオの所有物とし、以後役者には一切のロイヤルテイに関する支払いを発生させない。

3. そのスキャンしたデータ(元ネタ)を本人の許諾なくスタジオは自由に加工し自由に使うことができるようにする

これは役者の肖像権、知財の存在を真っ向から否定する考え方であり、SAG-AFTRAのドレッシャー委員長が怒るのも無理がない内容である。このような提案を当たり前のようにしてくるスタジオ側の発想は時代錯誤的ですらある。

だがこれというのも最近になって急激に発展してきたAIに関するデータの扱い方について世界的な合意が得られていない点が問題である。

まず基本的な点としてAIは

 

 

  1. 常識的な判断をすること

  2. 絶えず学び、その場で適応すること 

  3. 原因と結果を理解すること

  4. 倫理的な推論をすること

具体的には同じ作業の繰り返しをする、単純作業で成り立つ内容の仕事にむいているといわれている。処理能力は膨大、かつ迅速でありデータ処理に関しては人間はほぼAIにはかなわない。だが注目してほしいのは2の「絶えず学びその場で適応する事」

つまりデータ、コンテンツの場合は元ネタによってAIが写真、著作物、音楽等を生成するという点、もっとはっきりいえば

元ネタがないとAIは何もできない。 という点を抑えておかねばならない

そしてその元ネタは著作権肖像権フリー素材を使わない限り知財の権利は残る、という点が重要である、

つまり肖像権、著作権、版権その他の知財に関するロイヤルテイの支払い義務が生じる、支払わないと知財を無断で使用することになり違法になってしまう。先ほどのSAG-AFTRAのスタジオ側の要求はAIによる元ネタの違法使用を認めよ、と言っているのに等しくこれはあまりに酷い内容と言わざるを得ない。

そこでAIを使用する際の規定を厳密に定める必要がある。具体的には

1.元ネタがなにかを必ず登録する
AIに覚えさせる時に「何を覚えさせたか」を必ず記録し、明示すること。そして覚えさせた知財の権利所有者を必ず確認する

2.コンテンツ生成の際、元ネタに関するロイヤルテイ支払い
方法はいろいろあるだろうが、1つの例として欧米が行っている肖像権の「チェーンオブタイトル」のようなロイヤルテイ支払い方法が考えられる。いずれにせよ元ネタの作者、所有者が何らかの形で支払いを受けることが重要である。

3.不正防止のため生成物を第三者が確認する
日本では決して数が多くないがエンタテインメントロイヤーにより知財がきちんとロイヤルテイ処理がされているかを確認する必要がある。

この規定を前世界的に早急に決定させる必要がある。これを早急に提言したい。

噂レベルだが、某映画スタジオはクリエイターも役者も一切使わずにAIだけで映画を作ること画策しているという、それも肖像権、著作権等の知財のロイヤルテイを一切払わずに

そのような暴挙がもし本当にあったとしたら何としても阻止しなくてはならない。

 

 

 

7月 17, 2023 パソコン・インターネット文化・芸術思索,考察映画テレビ18- | | コメント (0)

2023年6月24日 (土)

AIとエンタテインメント産業,そしてこれからの生き方についての所感と考察

A.I.(人口知能)

今後の社会にとてつもない変化をもたらすだろうAI、勿論今後のエンタテインメント産業に対する影響が避けられないだろうこの新たなツールに関して、現在アメリカの映画界が大きく揺れている。

WGA(全米脚本家協会)のストライキが既に先月よりスタートしており、アメリカの映画産業と全米俳優協会 SAG-AFTRAの労使協定 Bargaining Agreement が6月30日で切れる関係で、7月1日からストに入ることはほぼ確実視されている。いずれもAI (人口知能)が交渉の議題にあげられている点で、これは一筋縄ではいかない。特にアメリカのクリエイターはA.I.が自分たちの仕事を奪う脅威として位置づけている向きが強く、AI (人口知能)使用制限を含むルール作りを要求している模様。特にWGA(全米脚本家協会)のAIに関する危機感は強く、<現時点でも激しいせめぎ合いが続いているようである。

■Hollywood writers at rally say they’ll win as strike reaches 50 days
https://apnews.com/article/writers-strike-hollywood-march-rally-actors-1e87e496db3581f251ee4ad7664a96b2

まあ全米脚本家協会は「必ず勝って見せる」といきまいているが、事態解決にはまだ時間がかかるだろう

そんな中、SAG-AFTRAとともにストライキに入ると思われた全米監督協会(DGA)はAMPTP(全米映画テレビプロデューサー協会)とのストライキは回避される見通しとなった。AMPTPの切り崩しが成功した感じで俳優協会の人間から反発も出ているという。

■Directors Guild Avoids Strike, Makes Deal with Streamers and Studios
https://gizmodo.com/directors-guild-agreement-amptp-wga-1850504440

それだけA.I.に対する姿勢が監督と俳優、脚本家と違うのかもしれないが、その前にA.I.に関して、クリエイターはただ忌み嫌うのではなく実際AIになにができるのか、正しい理解をしてからきちんと考えた方がよいように思う。

現段階で普及しているA.I.の機能は以下のとおり。
·画像認識
·音声認識
·言語識別
·制御
·予測*

上記の中で画像認識から制御の上から4つまでは既存のコンピューターで可能だが、一番下の「予測」というのがA.I.にしかできない機能だという。

そして脚本家や役者が恐れているのはA.I.によって以下のことが可能になるからである。

■【A.I.映画研究所】映画の脚本をA.I.に書かせてみた【Vol.01】
https://vook.vc/n/5733

 確かに脚本ができたようである。

また画像生成A.I.「Stable Diffusion」を活用した実在しない女性の画像を生成できることが、SNSでも話題になった。

「リアルと判別不能」ついに動き出した“AI美女” 自動生成される“作品”に著作権はあるのか?
https://times.abema.tv/articles/-/10079112

まあ確かにこれだけ見せられれば、そのうちクリエイターなどいらなくなる、とか脚本家などもいらなくなる、などという論法も出てくると思うが、果たしてそう話が単純なものだろうか?

実際にAIを研究している人がこう書いている

■AIは村上春樹になれない 小川哲さんに聞く「人間との境界」 決定的な違い生む身体の有無
https://mainichi.jp/articles/20230623/dde/012/040/007000c?

今SNS等で蔓延っている「映画はすべてA.I.が作る」「音楽も全てA.I.が作る」、勿論ただ作るだけなら理論的に可能だ。実際に大真面目に考えている輩がいるが、A.I.に「今の売れセンのメロデイ」や「売れセンの歌詞」とかをA.I.に覚えさせて作らせたとする。ヒット曲のあらゆるノウハウで生成された曲をリリースすることは可能だ。だがその曲が果たして本当にヒットするかはまた別の話

そんなので簡単にヒットするなら誰も苦労していない。音楽制作なんてそんな単純なものではない

ちなみに日本のJ-popは「売れセン」なんてことを言いだしてからリリースされた曲が極端につまらなくなった、ということが自分の経験上感じている。CDが売れなくなった、という話もほぼ同時期から出始めた。紙の上、データ上は「売れるはずだ」というデータでも実際にはそう簡単にうまくいかないものである。A.I.に過剰に期待している向きも音楽業界にあるが現実はそううまくは行かない。そういうものだ

上記の文章にも書いてあるようにAIには生成能力合成能力はあるが小説なら村上春樹の文章は書けない、絵ならゴッホのような絵は書けない、音楽ならベートーヴェンやワグナーのような曲は書けない。だからA.I.に勝つにはクリエイターの自己鍛練次第ということ

まあIT業界で話題になっている汎用人工知能(AGI)のリスクを議論が行われており、それはAI研究者が戸惑いを感じているほど人間が制御できない可能性が出てきているというので、そちらは一つ間違えると映画「ターミネーター」の「スカイネット」のような恐ろしいものになる可能性もある。そちらは慎重な研究が必要だろう

しかしA.I.が人間がコントロールできる範囲にあるツールである限りは、それは新たなツールが出現したというのと同じであり作曲であればDAW やDTMにAIが組み込まれた、と考えれば進化したツールが近いうちに出てくるだろう

ちなみに打ち込みやサンプリングシンセが普及したらもはや生音を使う人間なんていなくなるだろう、という言質が一時まことしやかに流れたが生音が現実、今でも使われているのは事実である。要はクリエイターの新たなツールとして新たな表現の可能性を追及すればいいだけのことである。

A.I.は確かに人類や社会を革命的に変える可能性があり、しかも今の普及のスピードを考えるクリエイテイブの現場に普及することをさけることはできない。WGAやSAG-AFTRAでの交渉がどうなるかわからないが交渉結果は世界のクリエイテイブの現場にも大きな影響をもたらすだろう。

とにかく映像や音楽のコンテンツのボーダーレス、グローバル化に加え、A.I.というまた社会を劇的に変化させるものまで現れた。その意味でも人類はまさに数百年に一度という大変革の時代に今生きているといっていいかもしれない

そんな時代にどのように生きていけばいいのだろうか?
一つだけはっきり言えるのは『A.I.との共存社会では「考える力」が必要となる』という点だろう。つまり人間にしかできない力(はず)である考えること、つまり自分の頭で何でも考えて自分で積極的に意思表示をし、自分で作り出す行動を行うこと、これが重要になる。

だがこれは現代の日本人が一番苦手としていることではないか?

日本人は周囲と同調することばかり考えて自分の頭で考えることをしない人が本当に多い。それが政治とか社会に対する無関心を呼び、政府がどんなメチャクチャなことをしていても支持し続けるというおかしな状況を作っている。

A.I.が普及した社会は自分の頭で考えない人は社会にとって無用の長物になってしまう可能性が高い。何も考えずただただ流されているだけの日本人の将来は暗いといっていい。A.I.時代が本格的に到来するにあたって「思考停止」はやめて自分で考えて自分で作り出す行動する癖をつけるしかない。

それがこれからの社会で生き残る唯一の道といえるかもしれない

 

 

 

 

6月 24, 2023 パソコン・インターネット文化・芸術思索,考察 | | コメント (0)

2023年6月11日 (日)

日本のエンタテインメントの「鎖国状態」から開国してグローバルスタンダードなエンタテインメント界に脱皮するために

さてカンヌ国際映画祭も終わり、コロナも明けてようやく映画や音楽もエンタテインメント業界が復活に向けて動くか、と思いきや音楽業界も映画業界も正直いって今ひとつ元気がない。これは芸能人のスキャンダルというのもあるが、私がみたところ日本の映画業界も音楽業界もポストコロナに対する姿勢、戦略というのが全く見えていない点にある。

ちょっと前までこの言葉を使うと業界のメジャー筋から反発されていたが(もっと昔なら下手すりゃ追放されていた)もう今の段階では大っぴらに書いちゃっていいだろう。(当ブログではだいぶ前から書いてはいるが..(^^:) 日本のエンタテインメント業界ー映画も音楽も世界的にみてガラパゴスな体制を作っているのは既に多くの人が指摘しているところである。

ガラパゴスというのは単に他の国と体制というかシステムが違うだけでなくいわば「文化的な鎖国」を行っている点である。日本国内で作られる音楽も映画も大多数は世界に向けて発信することが極めて少ないのが現状で、大多数の人が日本国内しかいまだに見ていない、というのが現状。その関係でカンヌを始めアメリカ映画アカデミーの情報などは殆ど入ってこないし、いわゆる日本の芸能マスコミなどは殆ど報道していない、というのが現実だ。

日本人が知らない「カンヌ国際映画祭」の内情と特異性 ハリウッドとの違いは?
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/323936?

その結果毎年のようにカンヌに出品している是枝監督等は日本では正直「異端」扱いされたりしている。

しかし私が毎回主張している芸術の制作現場のグローバルスタンダード化は遅まきながらスタートしている。

いわゆる昔ながらの芸能界のしきたりにこだわる人から見れば、日本の芸能界を「グローバルスタンダード化する」というと芸能界のトップにケンカを売ることと同じことになるらしい。

だがいつまでも旧態依然の考えにこだわっていると、いつまでたっても日本は世界から置いて行かれてしまう存在になってしまう・

そんなこともあって昨年文化庁が「文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けた ガイドライン」を発表し、海外では当たり前の制作に入るときにきちんと契約をまず締結すること。今までのような馴れ合いで製作開始するのではなく、契約締結後初めて制作に取り掛かるように呼び掛けている

■文化芸術分野の適正な契約関係構築に向けたガイドライン
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/bunka_geijyutu_bunya/pdf/93742601_01.pdf

また映画製作現場がパワハラやセクハラだけでなく、ブラックな現場であることが当たり前だったことを修正すべく、こちらは経済産業省による答申が発表された。

■映画制作現場の適正化に関する調査 報告書
https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/contents/downloadfiles/report/eigaseisakugenbareport2022.pdf

これら一連の動きを業界では「芸適」と略しているが、日本の業界筋は映画、音楽、いや芸能界全般が「変化」を忌み嫌う傾向が強い。実際文化庁の契約のガイドラインについて、役者やアーチスト側で二の足を踏んでいるケースが多いようだし、何よりも経産省の出した「映画制作現場の適正化=13時間労働をMAXとする」という方針に映画会社のクルーのベテラン、トップの人たちが激しく反発している。

実はこれに関しては東京バイスのような海外と日本のクルーが共同で作業する現場で日本側とアメリカ側のクルーで激しい対立がおきているという現実もあり、アメリカの12時間の労働MAXの方針にクルーのベテランのお爺さん連中が激しく抵抗しているからで、人間は長い間の慣習を変えるということが死ぬほど辛いと感じる人たちがいるようである。

一方でテレビ関係に近い人、いわゆる大手映画会社関係は相変わらず旧態依然とした国内中心の考え方だが、海外との合作映画、海外映画関係者とのコラボレーションを中心に動いている日本の映画関係者も増えているのを感じる。やはり映画制作はもはやボーダーレスの時代であり、そうした世界の流れをきちんと把握していれば従来の「日本国内しか見ない」映画マーケット観には決してならないはずである。

だがこれはようやく日本の政策現場が「グローバルスタンダード」(これでも海外よりは働く時間が長い)がようやく始まったというのが現状で、ある人の話だと日本の現場が完全に「グローバルスタンダード」になるまで10年はかかる、という人もいる。

実際幕末から明治までペリー来航から明治維新が実行されるまでに20年近くかかったことを考えると、日本人の意識改革を含めそのくらいかかるのかもしれないが、20年は世界は待ってくれないので、やはりまず10年で可能な限り世界水準で「普通のエンタテインメント産業」になるように努力すべきだろう。

 

 

 

6月 11, 2023 文化・芸術映画テレビ18- | | コメント (1)

2023年3月 4日 (土)

グローバルなイベントを開催するときのデイバーシテイの問題ー文化の違いも影響

日本人の感覚では信じられないかもしれないが、欧米では男性が女性に「奢る」という行為を女性への侮辱だと考える向きがあるらしい。

■Paying while dating: meet the men who pick up the check (and those who don't)
(訳)「デートの時におごる男性と奢らない男性について」
https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2015/aug/27/dating-men-paying-bill-gender-equality 

昨今のジェンダーの多様性、男女平等に関する話で現在欧米でも実は意見が分かれている、というかデイべートの対象になっている話だが、欧米社会で多様性が論じられている中の一環として議論されている。

アメリカのワシントンポスト紙の人気コラム「ミス・マナー」の記事にこんなものもある。
■Miss Manners: When generosity can be seen as insulting
(訳)「なぜ親切心が侮辱とも受け取られかねない場合があるか?」
https://www.washingtonpost.com/lifestyle/style/miss-manners-when-generosity-can-be-seen-as-insulting/2014/10/01/71907532-48d7-11e4-a046-120a8a855cca_story.html

勿論日本人の感覚だと思いやりでやろうとしたことが相手にとって「侮辱」と受け取られる、などとは考えもしないだろう。この記事に関しては異論がある人も多いだろうと思うので皆さんの判断に委ねることにする。

勿論欧米の全ての女性が奢られて「自分が侮辱された」と感じているわけではない。
■ANSWERS FROM A HOT GIRL: SHOULD YOU EVER GO DUTCH ON A DATE?
(訳)モテる女性からの回答ーデートで割り勘にすべきだと思う?
https://www.muscleandfitness.com/women/dating-advice/answers-from-a-hot-girl-should-you-ever-go-dutch-on-a-date/

さてなぜこんな話をこのブログで話すのかというと近々行われる「映画人交流会」ー私はこの会の主催者の一人でもあるのだが...

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上記のイベントで入場料で男性を3000円、女性を2500円と料金設定しているのだが、男性と女性の入場料の違い(男性の方が500円高い)について在日外国人でイチャモンつけてきた女性がいた。料金の金額が違うのが男女平等に反するということである。詰問してきたのが男性ではなく女性である、という点がポイントである

私の対応としては一応英語で「食事で男性と女性の食べる量が違うのでそう配慮した」と説明して納得してもらった。その場で納得してもらったからよかったが、その女性が上記の上記のワシントンポスト紙の「ミスマナー」の記事のように親切心を侮辱と受け取るような人だったら炎上状態にもなったかもしれない。実際問題として女性に男性がそういう配慮するとそれは男性の「傲慢だ」と考える女性が欧米では多いらしい、ということは上記のワシントンポスト紙の「ミスマナー」の記事からも読み取ることができる。 

(著者注:この後全く別の男性から私を「女性差別主義者」呼ばわりした人物がいた。事情を説明しても聞く耳を持たなかった)

ただ繰り返すが全ての欧米女性がそう考えるわけではない。ただ人によってはそういう解釈をする人がいる、ということである。

ただ多様性が様々な見解から議論されている欧米と比べ日本はそういった問題にやや無頓着なのでこういう話を聞くと「面倒くさい」と感じる人がおそらく日本では多数ではないかと思われるが、ただ多様性、男女平等のあり方という議論のありかたは日本国内でももう少しあってもいいのではないかとも思う。

要するにここ10年ばかりの価値観の変化に伴い欧米でもデートを始めとした身近な点からも真剣に考えている風潮があるのと同時に、それに伴う社会の分断が起きている、ということも考えなくてはならない。具体的にはここ10年の全世界的な価値観の変遷ー多様性、SDGs, グローバリズムによる価値観の変化を受け入れる層と拒否する層との間で深刻な分断が起きている、という点だ。アメリカでは前者は民主党支持者でありハリウッドなども前者の価値観の変化を受け入れ推進する層になっている。後者は例えばトランプ支持者を始めそういった価値観の変遷を頑なに拒否する層だ。そしてこの分断は深刻であるが、日本も他人事ではない。日本でも価値観の変化に基づく分断は実は既に深刻である。マスメデイアがそのあたりを報じないだけで実は深刻な分断は既に起きている。特に日本では新しい価値観と陰謀論を結びつける向きが強く、話をさらにややこしくさせている。

日本人はあまり議論が得意な人が少ないし、そういう価値観に触れるチャンスにもなるかもしれないイベントをやりますので「映画関係者」という縛りはありますが、よろしければ映画プロデューサー、映画監督、俳優や女優さんにも会えますのでお越しください。

○日時 : 2023年3月11日(土)
○時間 : 19時・受付開始 22時終了
○会場 : 白夜書房 BSホール
○住所 : 豊島区 高田3丁目10−12 地下1階BSホール


〇行き方 : 高田馬場駅から、早稲田通りを渡ると、パチンコのエスパスがあります。
エスパスと星乃珈琲との間の道を入った道の右側の建物の地下1階です。ビルの1階にはAEON。向かいにはDomino’s Pizzaがあります。※地下へ直接、入る階段を使ってください。ビルの正面玄関は閉まってます


○入場料 : 男性3000円(1ドリンク付)、女性2500円(1ドリンク付)
軽食をご用意いたしますが、遅れて来たら無くなっているかもしれません。
ドリンクは二杯目からは500円です。

 

 

3月 4, 2023 文化・芸術思索,考察イベント・コンサート17- | | コメント (0)

2023年2月 1日 (水)

映画の字幕の作業ー簡単な翻訳では決してありません。

先日ある事務所から翻訳を依頼され、「700語程度の翻訳」ときいて軽い気持ちで受けたが原稿が来てびっくり! なんと字幕翻訳の仕事だった。

おい、ちょっと話違うだろ?これ普通の翻訳の仕事と全然違うぞ、といって依頼主に文句いったら、クライアントに金がないということらしい。金がないというのは日本の映画会社だけじゃないらしい。 

字幕作業が普通の翻訳と違うのは、字幕用に翻訳された文字を台詞のタイミングに合わせて表示させる、つまり映画やドラマのタイムコードに合わせる、という作業がある点。つまり1つ1つの台詞を該当のタイミングに合わせるために可能な限りに正しいタイムコードに」合わせないといけない

そしてそのタイムコードを入れる作業は映画の世界でいう「ポストプロダクション」の作業の工程で行われる。つまり単に翻訳の能力だけでなく映画のポストプロダクションの工程も理解していないとできない作業なのだ。

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しかも今回来た案件、映画の映像を送ってもらって作業開始したら、なんとタイムコードがメチャクチャ! 原稿と映像のタイムコードが全然違う。たぶんこの原稿のタイムコード、編集される前のものらしい。

 翻訳の元原稿は英語だけど、これもかなりいい加減だということがわかった。映画はスイス映画(!?) らしいが舞台はたぶんベルギー、台詞はフラマン語(殆どオランダ語と同じ)とフランス語でたまに英語となぜか日本語まである。一応フランス語はある程度わかるのでガイド的になり訳のミスとかわかったけど、そんなわけで通常の字幕作業より手間がかかってしまった。

それでも何とか無事納品できたが、とにかく「字幕制作」と翻訳は全然別の作業という点はご理解いただきたい。

ちなみに最近は自主制作を含め海外の映画祭に作品を提出することが多くなり、また映画制作のボーダーレス化に伴い海外の映画の日本語字幕作業(特にAmazon Prime,Netflix, Disney Plus等のストリーミングチャンネル)が今後も増えてくることが予想される。その関係でうちの会社としても字幕制作作業について取り組もうとも考えている

ちなみに以下のような料金で考えております。興味ある方はお問合せ下さい

字幕制作 英→日 日→英

  • ショートフィルム 15分以内  3万円
  • ショートフィルム 30分以内  5万円
  • 準長編フィルム  60分以内  7万円
  • 長編フィルム   2時間以内  10万円
  • 長編大作     2時間半以上 15万円

お問い合わせはこちら

 

 

2月 1, 2023 文化・芸術映画テレビ18- | | コメント (0)

2022年10月29日 (土)

また行政が表現の自由に危機をもたらすー「東京都人権部が飯山由貴の映像作品を検閲。上映禁止は『極めて悪質』」

昨年の名古屋で行われた「表現の不自由展」で名古屋市長が従軍慰安婦像を強制撤去した問題が記憶に新しいですが、また行政による「検閲」「表現の自由」に危機的な状況が起きてしまいました。
東京都人権プラザの主催事業として開催されているアーティスト・飯山由貴の企画展「あなたの本当の家を探しにいく」。この展示の附帯事業として上映とトークが予定されていた映像作品《In-Mates》(2021)に対し、東京都人権部が作品上映を禁止する判断を下しました。


これは明らかに東京都の「検閲」に当たる行為であり、自分の気に入らない表現を撤去する、という意味で表現の自由に抵触するものです。


人権部は、朝鮮⼈等の虐殺事件を扱うことに対して懸念を示したとのことですが、


作者の飯山さんは



「この『検閲』は、在⽇コリアンへのレイシズムに基づく極めて悪質なもの」としつつ、小池都知事に対しては、「これまでの⾃らの⾏動が⾏政職員による偏⾒と差別⾏為の煽動となっていることを⾃覚し、本事件が発⽣するに⾄った経緯をあらためて調査し、公に説明してください」と要望しました。



https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26233


全く行政というのは何度同じ過ちを起こすんだろうか?


やりとりを見ていると行政、役人の「臭いものに蓋」という姿勢が見て取れ、そのためには表現の自由を損なってもかまわないという東京都の姿勢が見て取れます。


今の日本はこういう「臭いものに蓋」の類のことが多すぎますね。「コンプライアンス」という名の事なかれ主義。自分の好きな情報しかみない風潮もあるが、何よりも「歴史修正主義」と「レイシズム」に傾倒した言質を支持する動きが日本という国で支配的になりつつあることに大きな危機感を覚える


表現者の端くれとしてこの件は東京都人権部に対し厳重に抗議します。





 


10月 29, 2022 文化・芸術経済・政治・国際 | | コメント (0)

2022年9月14日 (水)

KADOKAWAの角川歴彦会長逮捕にみる日本のコンテンツ制作における「利権体質」への失望

既に報じられている東京五輪・パラリンピックをめぐる汚職事件で、大会組織委員会の元理事で電通の専務でもあった・高橋治之容疑者(78)逮捕の大会スポンサーの選定からみで「AOKIホールディングス」とともに「KADOKAWA」が東京オリンピック・パラリンピックの大会スポンサー選定において大会組織委員会元理事の高橋治之容疑者(78)に対する収賄事件として東京地検特捜部が捜査してきた。

そして本日KADOKAWAの角川歴彦会長が逮捕されたというニュースが飛び込んできた。

KADOKAWAの角川歴彦会長を逮捕 五輪汚職事件で贈賄容疑
https://digital.asahi.com/articles/ASQ9G4WN9Q9GUTIL01G.html

このブログでは角川歴彦会長のコンテンツに関する見解、戦略に対して記事に対して一定の評価をしてきた。

■コンテンツTOKYO基調講演ー株式会社KADOKAWA 角川会長の「ネットフリックスとコンテンツの未来」
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2015/07/tokyokadokawa-1.html

■角川歴彦「グーグル、アップルに負けない著作権法」レビュー
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2015/07/post-d68c.html

しかし電通の高橋容疑者のようないかにも既存の日本の利権構造の中に入り、ライバル社の蹴落としを「収賄」ということで行っていたという余りにも古い体質の中の行為を行っていた、ということが事実であれば私は失望を禁じ得ないのだ。

このオリンピックもそうだが、コンテンツ関係の政策の一環として行われた日本にアニメコンテンツを始めとする「クールジャパン」についてもこのブログで何回か言及した。

●クリエーターやコンテンツ業者から支持されないクールジャパン推進会議の「官製」ポップパワー発信策
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2013/04/post-7cda.html

●このままいけば経産省の「クールジャパン」は間違いなく失敗。マーケット戦略不在とクリエーター軽視が問題
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/04/post-4287.html

これも電通もからんでいるし、KADOKAWAも絡んでいる。

この関係で自民党の大物の森喜朗元首相の逮捕、なんていう事態もありうるかもしれないが、ある電通関係、コンテンツ関係に詳しい人の情報だと、自民党の平井卓志代議士の可能性もあるという

内容が内容なので情報主の名前は伏せさせていただくが、特にクールジャパンに関して詳しい方とだけ書いておく。

そしてクールジャパンにもかなり不透明なお金の流れがあるという。例えばグルメ関係のサイト

https://www.tastemade.jp/food/

このプロジェクトに14億円投入されているという。しかしサイトを見る限りどう考えてもそんなにお金がかかっているとは思えない。調査費、ウエブデザイン、ウエブ立ち上げ費を入れてもせいぜいかかって数百万単位のものにしか見えない。

その入り口は全て電通だという

またこんなのもある。クールジャパン機構だが、https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/creative/2110CoolJapanFundr1.pdf

この36ページ、クロゼットという会社だが実態が不明だという。所在地は日本橋小舟町で机が一つしかない幽霊会社との話も
23ページにはここにもKADOKAWAの名前が

これらを見て結局日本のコンテンツ、スポーツその他国家がからむプロジェクトには電通とその「おともだち」によるなれ合い、利権の分配という話で進められ、本来の目的とは違う方向に動いているという実態

クールジャパンは本来クリエイターや制作関係にお金が行く、という話に当初はなっていたはずだが、いつのまにか結局電通とお友達の金の分配の話、になってしまった。

日本の利権構造は官庁と一部の会社の癒着とムラ社会になっている実態がうきぼりになっている

こういう日本のムラ社会の利権構造に私はほとほと嫌気がさしている。古い。発想が古すぎる。昔ながらの昭和の体質だ。

そういう光景を私は嫌というほどみてきた。なので私は日本的なそういう昭和の利権構造のようなものに見切りをつけ始めている。おそらく今の政治家は政権交代しない限り自浄作用は殆どないだろう。

私が最近日本国内の外資系制作会社か海外との取引にエネルギーを投下しているのはそのためである。少なくともここでは正常な競争とムラ人でなければ恩恵に預かれないということはない。

つまり私はもう日本という国の体質に愛想が尽きた、といっていい。経済活動の面でね。

オリンピックもこれからメスが入るだろう、もしかしたらこのクールジャパンにも特捜のメスが入るかもしれない。入ってほしい。

せめて僅かでも本来の正常な状態にこの国が戻ってほしいと願うものである。

 

 

 

9月 14, 2022 文化・芸術経済・政治・国際 | | コメント (0)

2022年9月 4日 (日)

最高の芸術性と最高のエンタテインメント性を兼ね備えた音楽ージャズ&ポピュラー編

「最高の芸術性と最高のエンタテインメント性を兼ね備えた音楽」。今日はジャズとポピュラー編。
昨日も書いたように音楽の趣味その他が多様化している現代にわざわざクラシックとポピュラーを分ける必要があるのか、とも考えるがあくまで「わかりやすく」するのが目的であり、音楽のジャンルを超えた順位は皆さんなりに考えていただく、ということでご理解願いたい

そして昨日も書いたように私の独断と偏見によるもので、皆さんの中では異論がある方、もしくはもっと大事な曲を私が見逃している、とか選曲の仕方がおかしい、とかいろいろご意見や批判もあるだろうと思う。そうしたご意見や批判は甘んじて受けることにする。大事なことはここで揚げられている曲は間違いなく歴史に残るべくして残った人類史上最高の傑作であるという点である。

例によって順位の基準は以下の3つの要素から決めたものである。いずれもポイントは私の独断と偏見によるもので異論がある方もおられるだろう。

芸術表現の創造性(クリエイテイブ)ー芸術作品として先進性がみられる

芸術作品の完成度         ー作品としての完成度、完璧度

エンタテインメント性      ー高いエンタテインメント性の作品(クラシックの場合 クラシックに詳しくない人でも楽しめる作品)

例によってポピュラー編も僅差であり、しかも第一位が3点もある。

第十位 Brian Eno「Ambient 1 "Music for Airport"」(アルバム) 28.4p

ポップな曲しか聴かない方にはなじみが薄いのかもしれないが確実に音楽の歴史を変えたアルバムであり、今あるヒーリングミュージック、案ビエントミュージックは全てこのアルバムの影響と考えていただいていい。個人的には私の人生を変えたアルバムである。このアルバムはポップカルチャーから芸術音楽まで幅広い影響を与えていたという意味ではこのリストになくてはならないアルバムだと思う。

 

第八位タイ Yes「 And you and I」 28.8p

プログレの普及の名作。メロデイの美しさ、演奏のレベルの高さ、高い芸術性、そしてプログレはクリエイテイビテイの塊である。現代でも最高の演奏家が集まった壮大なシンフォニーといっていい。

 

第八位タイ 「マイルスデイビス"Round about midnight"」(アルバム) 28.8p

「帝王」と呼ばれたマイルスデイビスと伝説のSaxプレーヤーのジョンコルトレーンの共演、これだけでJazzの歴史に残るアルバムだ。誤解を呼ぶ表現かもしれないが、ジャズの演奏は「完璧」にはならないし、逆にあってはならない。演奏自体に無限の可能性を見せるのがジャズの神髄であり、ソロも100人がやれば100通りの演奏になる。それがジャズであり、その神髄を表現したのがこのアルバムである。

番外編 "TUTU"

ジャズファンにはあまり評価が芳しくないのだが個人的にはマーカスミラーのプロデユースが光る大好きなアルバム。日本が誇る故石岡瑛子氏のデザインでも知られるマイルスデイビスの”TUTU”

Jazzのアルバム(だったはず)なのにいきなりオーケストラヒットで始まる等、当時としてはかなり斬新なアルバムだったといっていい

 

第七位 Duke Ellington Take A train 29.0p

 A トレーンとはニューヨークの地下鉄の番号でハーレムからダウンタウンまで行く急行の地下鉄。今のジャズの歴史を作った曲といっていい。1939年に作曲され現代でもスタンダードで確固たる地位を築いている曲、もはや「クラシック」の部類に入れてもいいかもしれない。日本の名だたるジャズ演奏家でこの曲を演奏していない人はいないといっていいかもしれない。

第六位  Beatles Michelle 29.2p

ご存じアルバム「ラバー・ソウル」に収録されている曲だがビートルズの数ある有名曲の中でも私はこの曲が実は最高傑作といっていいのではないかと思っている。興業的にもベルギー、フランス、オランダ、ニュージーランド、ノルウェーのシングルチャートでは第1位を獲得した。また「ミッシェル」は、1967年の第9回グラミー賞で最優秀楽曲賞を受賞した。

この曲のポイントはキーはFminor (へ短調)だが冒頭のコードはなんとヘ長調 (F Major)で始まる。斬新でなおかつおしゃれなコード進行で作られており作品の完成度も高い。ビートルズの隠れた最高傑作といっていいかもしれない。

第五位 Led Zeppelin 天国への階段 29.3p

いわずとしれたロック音楽の不朽の名作。Zeppelinの代表作とする声が多いが、特にこの天国への階段は曲の構成も当時のロック曲としては斬新で、アコーステイックな静かな曲から最後はハードロック調の激しい曲になる等変化に富んだ曲調になっている。クリエイテイブな創りである意味ラベルのボレロのように広い意味での変奏曲に似た構成だといえるかもしれない。

ロックの中でも今でも高い人気を得ている曲であり、作品のクリエイテイビテイもさることながら当然このリストに入ってしかるべき曲である

第四位 Beatles「The white album」(アルバム) 29.5p

ビートルズ唯一の二枚組アルバムであり、「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」や「レボリューション1」といったビートルズの有名曲もあるが実験音楽を始め多種多様な楽曲が収録されており、現代音楽の全ての要素が詰まっていると評されるほど多彩な作品が集められている。その意味でもクリエイテイブとポップ性両方が入っているアルバムといっていい。

 

第一位タイ Steely Dan  Peg 30.0p

ドナルドフェイゲンさんのクリエイテイブさには毎回舌を巻かれる思いだが、このPeg はステイ―リーダン最高のヒット曲である、しかしこの曲のコード進行はちょっと凡人では思いつかないだろう。単純なスリーコードなど1つもない。圧巻は一番を終わったあとの短い間奏ーDMaj7- F#minor- F#minor- DMaj7- CMaj 7 というコード進行。どうすればこんなコード進行が思いつくんだと思う。

Steely Danの曲のクリエイテイビテイの高さはこの曲だけにとどまらないが、これほど創造性、エンタテインメント性、そして曲の完成度を備えた作品はそうないと思う。

 

第一位タイ  Pink Floyd ”The other side of the moon”(狂気)(アルバム) 30.0p

世界で最も売れたアルバムの一つであり、ロックアルバムの最高傑作であることに異論の余地はない。Billboard 200に15年間(741週連続)にわたってランクインし続け、さらにカタログチャート[注釈 4]では30年以上(1,630週以上)に渡ってランクインするというロングセラーのギネス記録を打ち立てた歴史的なアルバムであることからも、高いエンタテインメント性だけでなく高いクリエイテイブと高い完成度をもったアルバムといっていい。それはアルバムのレコ―デイング終了時メンバーだけなく、プロデューサーのアランパーソンズも疲れ果ててしまったことからもわかる

間違いなくロック史上の最高傑作である。

 

第一位タイ  Queen ”Bohemian Rhapsody"  30.0p

今回の個人的な最高の芸術性と最高のエンタテインメント性両方を兼ね備えた作品のチャートを作ろうとしているときに失敗したと思ったのは、どちらも一位になるような曲が複数あり、どれか1つに絞ることができなかった点にある。

このボヘミアンラプソデイーもよくみると普通のポップな曲と全く構成が違う

驚くなかれ、サビがないのである

バラード風に曲が始まるが、サビがなく。イントロとバラードのセグメント、オペラのパッセージ、ハードロックのパート、コーダの複数のセクションで構成されている。何も可も全く異例でありながらリスナーに強力な印象を与え、しかも「オペラ」という切り口とハードロックが驚くほど違和感なく調和している。まさにクリエイテイブとエンタテインメント性、そして曲の完成度、どれをとってもけなす所がない。全く完璧な芸術作品に仕上がっている。

単体の曲としてはロックの最高傑作といっていいだろう。同名の映画も公開されたが、やはり音楽文化の中でも最高峰を見せた曲といっていい。


以上、昨日今日とに二日間にわたり私の独断と偏見によるベスト10を揚げたが、勿論これ以外に歴史に残るような名曲は数えきれないほどあることは事実である。そのためベスト10の中に入れられずお叱りを受けることは覚悟の上だが、私なりの音楽観、芸術観がこれらのリストでわかるのではないかと勝手に考えている。

クラシック、ポピュラーいずれも素晴らしい曲ばかりなのは事実なのでこれを機会にたっぷり音楽を聴いていただければ幸いである。

 

 

9月 4, 2022 文化・芸術音楽16-23 | | コメント (0)

2022年9月 3日 (土)

最高の芸術性と最高のエンタテインメント性を兼ね備えた音楽ークラシック音楽編

音楽は芸術であると同時にエンタテインメントである。これに異論がある人は殆どいないだろう。

しかし音楽の名曲は数えきれないほどあるものの、最高の芸術性と最高のエンタテインメント性両方を兼ね備えた作品は以外に多くはないのではないかと思う。ということで既に9月に入ってしまったが久々の「夏休み特集」の記事は「最高の芸術性と最高のエンタテインメント性を兼ね備えた音楽」のベスト10を揚げようと思う。

勿論いうまでもないことだが、私の独断と偏見によるもので、皆さんの中では異論がある方、もしくはもっと大事な曲を私が見逃している、とか選曲の仕方がおかしい、とかいろいろご意見や批判もあるだろうと思う。そうしたご意見や批判は甘んじて受けることにする。大事なことはここで揚げられている曲は間違いなく歴史に残るべくして残った人類史上最高の傑作であるという点である。

 尚、当初はジャンルに関係なくリストを作る予定だったし、音楽の趣味その他が多様化している現代にわざわざクラシックとポピュラーを分ける必要があるのか、という風に考えるが、一方でそうすると「わかり辛い」という意見が出たこともあり、熟慮の末あえて両者をわけることにした。

むろん「クラシック」と「ポピュラー」でどちらが芸術完成度が高い、とかそんな議論は全くのナンセンスであり私はクラシックでもポピュラーでもどちらもリストに入っている作品は人類史上最高の音楽作品である。という見解に変わりはない

さて以下のリストは次の3つ指標を基にまとめている。

芸術表現の創造性(クリエイテイブ)ー芸術作品として先進性がみられる

芸術作品の完成度         ー作品としての完成度、完璧度

エンタテインメント性      ー高いエンタテインメント性の作品(クラシックの場合 クラシックに詳しくない人でも楽しめる作品)

いずれも10点満点で評価する。

それによる私の独断と偏見の順位は以下のようになる。

第十位 ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」 29.1p

日本人がもっとも好きなクラシック曲の1つであろう。二楽章はよく学校の「下校時間のテーマ」に使われるし、第四楽章はゲーム音楽、最近では大河ドラマの一部に使われる等クラシックを知らない人でも一度は聴いたことがあるはずの曲である。エンタテインメント性は申し分ない。但し一部の人が誤解しているようにこの曲にはネイテイブアメリカンやゴスペル(黒人霊歌)のモチーフは使われていない。また一部音楽評論家でネイテイブアメリカンと二グロスピリチュアルを混同するような議論が起きているのはとても残念である。

 

第九位 チャイコフスキー バレエ「くるみ割り人形」 29.15p

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ご存じクリスマスではもはや定番となっているこのバレエ曲。あらゆるバレエ曲でももっとも人気があり子供から老人まで楽しめるこの曲はバレエ公演としても高いエンタテインメント性を誇る曲である。惜しむらくは台本がややガサツに作られているが、チャイコフスキーの芸術性とエンタテインメントを両立させた音楽がそれを感じさせない。

 

第八位 ドビュッシー「月の光」 29.3p

 

ご存じドビュッシーの曲でももっとも知られている曲で比較的初期に書かれた作品。フランス音楽の影響を受けつつもドビュッシーらしい幻想的な雰囲気を持たせた曲で(ドビュッシーは自分を「印象派」と呼ばれることを嫌っていた)音楽も美しくやはりこのリストに入るべくして入った曲である。芸術性とエンタテインメントを両立したピアノ曲の傑作

番外編

この曲もリストに入ってもおかしくない曲だし、私自身も好きな曲なのでここで揚げておく。ドビュッシー「夢」

尚、ドビュッシー自身はこの曲を気に入ってなかったという。私はドビュッシーらしい雰囲気をもっているし調整も不明確な所が好きなのだが..

第七位 ガーシュイン「ラプソデイーインブルー」 29.4p

ジャズとクラシックの融合、とかシンフォニックジャズなる名称とかそんなことはどうでもいいのだ。これはまぎれもなく1920年代当時の音楽の表現で誰もやってこなかった新しい音楽の時代の幕開けである。そもそもジャズとの融合というが1920年代はまだ現代のようなジャズの語法が完成していない時代で、ガーシュインはジャズという新たな芸術表現の推進者の一人である。ラグタイムのスコットジョップリンが作曲家として認められるために悪銭苦闘したように、ガーシュインはいまだ不当に低い評価を得ているように思う。まさに高い芸術性とエンタテインメント性を両立させた音楽であり20世紀の音楽の歴史を大きく変えた作品である。

番外編

昨年亡くなったガーシュインの音楽を継承した作品。ニコライカプースチン「Concert Etude op. 40 no. 8」

この曲との出会いは衝撃的だった。またたくまにカプースチンにはまった私だが、カプースチンは今侵攻を受けているウクライナの作曲家だけに特にこの曲を揚げたい。ガーシュインと比べモダンジャズの要素を盛り込んでいる。旧ソ連時代のような環境を考慮してもこれだけの作品を作ることができたことは驚愕に値する

 

 

第六位 モーツアルト「フルートとハープのための協奏曲≫ ハ長調 K.299」 29.5p

モーツアルトの数ある協奏曲の中であえてこれを選んだのは1)協奏楽器がやや変則的なこと、2)しかしそれでいて作品として傑作としてできあがっていたこと。
モーツアルトには有名なコンチェルトがたくさんあるが特にこの曲を推薦したい。特に二楽章がとびぬけて美しい

 

第五位 J.S.バッハ「トッカ―タとフーガ二短調」 29.6p

バッハの自筆楽譜が存在せず、他のフーガとは異なった趣を持ち、また曲の規模のわりに内容が平易であるといったことからバッハの作品ではないのではないか、という説もあるようだがこの曲はバッハが即興(バロック時代は即興が寧ろ当たり前だった)で作った曲であり、この曲のボイシング(コード進行)はバッハが多用する7thやデイミニッシュのコード進行はバッハ独特のものと考える(特にこの曲のエンデイング部分のコード進行)イエスを始めEggといったプログレバンドもこの曲を演奏しており、芸術性とエンタテインメントを両立させたバッハの最高傑作の1つといっていい。

 

第四位 モーツアルトピアノ協奏曲第20番二短調 K.466 29.7p

モーツアルトには珍しい短調の協奏曲だが全体として美しく作品としても完成度が高い、二楽章はご存じ映画「アマデウス」のエンデイングに使われた曲である。モーツアルトの数ある協奏曲の中でも群をぬいて美しい

 

第三位 ベートーベン交響曲第九番 作品125 29.8p

やはりこの曲を入れないわけにはいかないだろうな、と思っていたが、この曲自身が後の交響曲の歴史、19世紀から20世紀の初頭の音楽までとてつもない影響を与えたのは事実なので..
ただ私個人は合唱が入った第四楽章を評価しつつも、この曲の最高傑作は二楽章のスケルツオだと思う。オクターブの跳躍の動機とフーガによるスケルツオの最高傑作といっていい。この後幾多の交響曲にスケルツオの楽章があったが、この曲を超えた曲はないと思う。クリエイテイビテイ、曲の完成度、どれをとってもけなすところがない、完璧といっていい作品だ。

 

第一位タイ モーツアルト歌劇「魔笛」  30p

 モーツアルトの魔笛、今でもモーツアルトの歌劇で群を抜いて人気であり、子供から大人までみてこんな楽しいオペラはない。いや、厳密にいうとジングシュピーレ、という今でいうミュージカルの原型といっていい作品である。悪役の「夜の女王」も悪役が出るのにこんなにワクワクさせてくれるオペラがあるだろうか?あの「アリア」を早く聴きたい。そう思わせてくれる。そして当時としては斬新な音楽表現がふんだんに盛り込まれている。まさしく芸術性、エンタテインメント性が見事に両立された作品である。

第一位タイ J.S.バッハ「シャコンヌ」  30p

ラスト、魔笛と一位で同じくパーフェクトなのがこのバッハのシャコンヌ、本来は無伴奏パルテイータ二短調の中の一曲だが、特にこの曲の高い表現力、芸術性、そして作品の完成度、どれをとっても完璧なのだ。私がまだ子供だった頃この曲を聴いて衝撃を受けて以来、私にとってはこれは最高の楽曲という位置づけになっている。バイオリン一本でこれほどまでのインパクトとこれほどまでの壮大な曲はないだろう。

間違いなく人類の最高傑作の1つである。



以上、最高の芸術性と最高のエンタテインメント性を兼ね備えた音楽ークラシック音楽編を終わらせていただく。異論その他はあるだろうと思われるが、続きは懲りもせずポピュラー編に行かせていただく。

 

9月 3, 2022 文化・芸術音楽16-23 | | コメント (0)

2021年11月13日 (土)

京王線事件にからみ映画「ジョーカー」オンエア禁止に対して物申す

もう2週間前だが京王線で乗客刺傷事件が発生し17人けが、1人意識不明の重体(のち意識回復) の大事件を起こしたのは記憶に新しいが、問題はその事件を起こした犯人が逮捕後の取り調べでジョーカーへの憧れについて言及していた点である。

「人を殺して死刑になりたかった」という犯人だが、8月にも小田急線で刺傷事件が起きたが今回の事件はその模倣犯ということだろう。

私事だがその時に東宝シネマ新宿に行っていたために通常は京王線で帰るところを京王線が使えず、やむを得ず小田急線で遠回りで帰宅した。余計な時間と費用がかかってしまったが、それにしても8月の小田急線の事件、そしてその後も新幹線で模倣犯が現れる等、頭のおかしい人間が本当に増えている。

尚、選挙日当日なのでネットには例によって陰謀論がまきおこってるようだが事件が起きたのは8時過ぎで投票が終わった時間なのでそれはないだろう。選挙妨害目的ならやるなら朝かお昼付近にやるはず、最近のネットSNSは何かが起きるとすぐ陰謀論がまことしやかに広がるのは困ったものである。 

しかし映画に関わる人間として看過できない情報が入ってきた。アカデミー賞をもとった映画「ジョーカー」が日本の地上波でオンエア禁止になるとのこと

■映画『ジョーカー』の日本での地上波放送が禁止に
https://hypebeast.com/jp/2021/11/joker-movie-will-be-banned-from-being-broadcast-in-japan

一人のバカのためにこんなことになってしまった。 

18人が重軽傷を負った同事件の容疑者が、逮捕後の取り調べでジョーカーへの憧れについて言及していたことが判明。映画ではジョーカーが電車内で人を殺害するシーンがあり、また同容疑者は犯行時にジョーカーを模した派手なスーツを着用していたことから、同作に強い影響を受けていることが窺える。さらに、その後も同容疑者に倣うかのような電車内での凶行が多発しており、映画『ジョーカー』を地上波で放送することによって、同様の犯罪を助長しかねないとの意見が各方面から上がっているとのこと

はっきりいってこの事件とこの映画を結びつけること自体、全くのナンセンスである。だいたい映画をきちんと見ていれば、人間の心の病み、いい人間がだんだん悪人になる様を描いており、決してジョーカーを擁護してるわけでもはないし、況んや賛美してるわけでもない。ハリウッドやアメリカ映画アカデミーもそれを理解しているから主演のホアキンフェニックスにオスカーの主演俳優賞を授与したのだ。

これは日本社会にすっかり定着してしまった「事なかれ主義」が背景にあり、日本社会全体が考える力が低下してるのとヒステリーの要素増加しているためにこのようなことになる。「事なかれ主義」は社会の悪影響を考慮するのではなく一言でいえば関係者の「保身」が背景にある。責任転嫁を恐れる向きと無気力、無関心、無感動がこのような動きを誘発してしまうのだろう。そしてその「事なかれ主義」と「関係者の自己保身」が自然に社会に「タブー」を作ってしまう。タブーがあり過ぎるのは原始的な社会であり、事なかれ主義を人々に押し付けたら逆に犯罪者、暴徒が増える気がする。

ひとえにこれも日本人の劣化現象の一つといわざるを得ない 

この国の将来は本当に危うい

 

 

11月 13, 2021 文化・芸術思索,考察映画テレビ18- | | コメント (0)

2021年8月26日 (木)

Dare to Overcome アンセム(テーマソング)公開とこのテーマソングの背景について

私が"Dare to Overcome "というムーブメントに関わったのは確かダマー国際映画祭で”Religious Freedom and Business Foundation"代表のブライアングリムに会ったときでその時は「パラリンピックをサポートするイベント」でテーマソング(アンセム)を書いてくれる作曲家を探している、との話だった。当時はまだコロナの脅威とか全くない時で、非常に軽い気持ちで「パラリンピック関連イベント」のテーマソングを書けるということで喜んで引き受けた。まさか今日のような事態になるとは思ってもいなかったが...

 アンセムだから当然曲だけでなく歌詞も必要である。ということで作詞家も公募したが私自身も書いてみることになった。だが作詞作業をしているうちに今回の"Dare to Overcome "の背景にここ10年で社会の価値観が大きく変わっている事実に直面することになった。

その変化は大きく分けて2つある、厳密には"Dare to Overcome "関連でもう1つあるのだが、それは別項で述べる

Dare to overcome

https://dtojp.org/

・ダイバーシテイ(多様性)

ニュースとかあまり見ない人もLGBTやジェンダー問題、人種、そして"Dare to Overcome "が主にみつめている障害者をたちの違いをリスペクトし尊重する、という動きが世界的に広がってきていることはわかるだろう。これらは世界的にも重要な問題として扱われ特に欧米社会でジェンダーや人種に基づく差別を行ったために業界、社会から追放されていく例が多く起きている。

・SDGs(持続的発展目標)

ムリな目標をたてることなく、誰もが取り残されることのない社会、全ての人は社会的発展の恩恵を享受する社会を目指すということ。これはヨーロッパを中心として広がってきた考え方である。

ダイバーシテイとSDGs 残念ながら日本はこの両面で世界から著しく遅れているといわざるを得ない

とりわけダイバーシテイについての日本の状況は悲惨といっていい。日本人は島国のためか「ムラ社会」的メンタリテイが強く「他人と違う」ということは「悪いことである」といった考え方が何となくある。そのため「他人と違う」ことが原因で差別やいじめが日常的に起きている。

これがもっとも顕著に表れたのが今年の東京オリンピックだ。いじめをあたかも武勇伝のように語る音楽プロデユーサー、女性差別をしつこいくらいに繰り返す組織委員長、そして下積み時代の若気のいたりとはいえホロコーストをギャグにしてしまう演出担当者

結果として開会式も閉会式も演出家不在のセレモニーとなり私のようなエンタテインメントに関わる人間としては穴があったら入りたいほどの恥ずかしい内容のものになった。

日本人にもっと「他人と違う」ことをリスペクトして尊重する気風があったら、そうすればこんなことは起きなかったであろう。社会からいじめも差別もなくなるかもしれない、少なくとも少なくすることはできる

"Dare to Overcome " を日本語に訳すと「あえてそれを乗り越える」という意味になる。自分と違うから忌避するのではなくその忌避したい気持ちを「あえて乗りこえる」。それを日本人の端くれである私が音楽で表現する、ということは意味があるように思う。日本人がもっとも苦手とすることだからこそ..

SDGsも最近日本の企業で云い始めてはいるものの、政府や経団連を始めとする日本の大手企業には受け入れられている、とは言い難い。これというのも日本はいまだ「新自由主義」(弱者切り捨てを正当化する弱肉強食の経済政策)に固執する向きがあり、とりわけ政府の経済や人事労務政策を取り仕切る人間が某人材派遣会社代表で筋金入りの新自由主義者だからである。経団連の多くの企業もそれを支持しており、SDGsが本格的に広まるにはおそらくは政権が変わらないと無理かもしれない。いずれにせよ日本はこの面でも大きく遅れている。

「他人と違う」ことを「あえて乗りこえる」 ="Dare to Overcome " それが広まれば差別はもとより戦争もなくなっていくだろう。そして誰もが取り残されることのない平和で自由で平等な社会を目指すことができる。その思いを音楽に私はこめたつもりである。そしてその気持ちをこの曲を聴くことによって共有していただければ幸いである。

ちなみにミュージックビデオの冒頭に手をつないでいる男女が出てくる。一人はイスラエル人、もう一人はパレスチナ人である。この両国がどれだけ悲劇の歴史を歩んできたことはご存じの方も多いと思う。しかしそういう悲劇な歴史を「あえて乗りこえる」 ="Dare to Overcome " ようになってくれればと思う。「違いがある」から憎しみあうのではなく、わかりあう。憎しみは憎しみしか生まないからである。

長くなったがそうした思いを共有していただければ幸いである。

Dare to overcome anthem

作曲、編曲:大野恭史
作詞:大野恭史 Brian Grim

 

 

8月 26, 2021 文化・芸術音楽16-23 | | コメント (0)

2021年8月18日 (水)

NFTマーケット奮戦記 その後

もう先々月になるが今注目されている未来のコンテンツビジネスNFT (Non-Fungeble Token) の商品を実験的にリリースしたことを当ブログにてお知らせした。

■実験発売ーNFT作品を制作し出品してみる。思った以上に悪銭苦闘(汗)
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2021/06/post-e12bb8.html

一部のコンテンツは高値で売られているというNFT.。小生は売り出して既に1ヶ月半を過ぎている。その後も商品の数を増やした。さまざまな商品でNFTマーケットのマーケテイングを行うことが目的だからである。現在リリース中のNFTは次の通り

 

Healing pictures Dusk3Dusk3
Dusk in East Atlantic 0.04ETH (10個)
Healing pictures Dusk3Mountain_sample
Mountains of Tsugaike plateau 0.04ETH (10個)
Yui Little lovers 2ndLl2_large
Yui Little lovers 2nd 0.05TH (10個);
Little Lovers 1Ll1_large
Little Lovers 1 0.05TH (10個);

 これ以外にこれは画像のみminting したコレクションは以下の通り

Ll13
little lovers-1 memories collection
各0.025TH
Yui2
little lovers 2nd Yui_memories
各0.025TH

結論からいおう 

まだ1つも売れていない (T_T)

最初の2つの風景は完全に実験的なNFTで特にDusk in East AtlanticはSNSでは結構「イイネ!」をもらっているのだがなかなか難しい。

Little Lovers関係は発売したセクションも今はなくスタッフはチリじりバラバラの状態なので、今はコンテンツを実質私が管理しているので今回のNFTの実験リリースに利用させていただいた。マーケットを見る限りキャラクターものの方が売れるのではないかという風にも思えたのである。

また市場が主に海外の為日本のマンガ文化的なイラストが好まれるのではないかという思いもあった。日本のマンガ人気は日本人が理解する以上に根強いものがあるからである。Little Lovers関係のリリースは2週間ほど前にリリースしているがとにかくNFT販売に関して苦労しているのは次の2点

1.NFT商品のシェア、プロモーション

NFTリリースでも例えば代表的なNFTマーケットプレイス Opensea のNFT商品数は1700万点を超える。この中から選ばれて買ってもらうのは生半可なことではない。そのため毎日のようにtwitter, Facebook, Instagramといったソーシャルメデイアの告知を行っている。(個人的な経験でいうとInstagramは怪しげな自称プロモーターの売り込みが多く、あまり作品のページビューに結び付いている印象はない。) とにかくマメにソーシャルメデイア(SNS)でのシェア拡散を続けていくしかないのだ。結構大変な作業である。

2.高すぎる「ガス代」

ガス代というのはイーサリウムを始め仮想通貨を使う際に発生する「システム料」のようなものである。これはブロックチェーンごとに価格も違うがこの「システム料」にあたる「ガス代」がNFTの多くで採用されているイーサリウムという仮想通貨で非常に高い水準に保たれている。現状をいうと6000円の買い物をするのに8000円もガス代が必要というおかしな状態になっているのだ。これを何とか解消しないとまずいし、実際これでNFT市場が少し停滞する現状になっている。

今月の5日ー8月5日にイーサリウムの新バージョン「ロンドン」が導入されて、ガス代を下げることが期待されている。だが残念ながら導入されて2週間弱、今のところアップデートの効果が出ているようにはみえないが、もうしばらく様子を見る必要があるかもしれない。そういうこともあり今NFTバイヤーの大半は様子見の状態となっている。はっきり効果がみえるのは今月末ー来月の初めくらいだともいわれているが果たしてどうなるだろうか。あるアナリストの話だと今回の新バージョンはイーサリアムの価値が上がる方向にベクトルが現在以降しているのでガス代が下がるのはもう少し先だという話もある。

いずれにせよ何とか成果を出せるように持って行きたいが、当初考えたような簡単なものではないし、NFT商品=もうかる という簡単な図式でもないようである。

 

 

8月 18, 2021 パソコン・インターネット文化・芸術 | | コメント (0)

2021年7月23日 (金)

東京五輪の次々と起きる不祥事は組織委員会のプロデユーサー不在の実質シロウトによる運営と日本の文化のガラパゴス体質がもたらしたもの

何度もいうが今回の東京五輪、二重三重の意味で本当にお粗末である。

昨日の記事にも書いたが以下の記事で書きそびれたものもあったので改めてリストにする

■もはや“呪われた五輪”? デザイン模倣疑惑、大会延期、女性蔑視発言、いじめ…東京五輪トラブルまとめ
https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/07/22/kiji/20210722s00048000340000c.html 

1. 誘致のスピーチは嘘まみれ
「おもてなし」どころか外国の選手団をないがしろにする扱い
2. 誘致に汚職疑惑
フランス警察が捜査中

3. 五輪ロゴ盗作疑
とてもプロのクリエイターの仕事とは思えなかった。
4. 猛暑でマラソンは札幌に移転が合意のないまま強行 
 マラソンだけでない、ほかの競技も心配
5. 女性蔑視発言で大会組織院長の森辞任
信じられないことだが組織委員会は森氏の復権を進めている
6. コロナで聖火リレーもPV中止
コロナが大会開催そのものを完全に不可能に近くしている
7 オリンピックが史上初延期ー
新型コロナウイルスの世界的まん延を受け、大会の1年延期が決定
8. 開会式の実質的な責任者だった振付師のMIKIKO氏が組織委員会への不信で辞任
延期決定後、組織委員会から連絡のないままIOCから新たな企画案を提示されたことに不信感を持ち辞任
9. 水際対策はザル
10. 選手村からコロナ陽性者
11. 開閉会式の演出総合統括の佐々木宏氏が、人気タレントの容姿を侮辱する演出プランで辞任
12緊急事態宣言下でのオリンピック強行開催のため無観客で五輪開催
緊急事態宣言下のため東京都を含む首都圏1都3県では無観客での開催に
13いじめ自慢 で開会式音楽担当辞任
ほとんど犯罪レベルのいじめを行った人間が「多様化と調和」がテーマのオリンピックの音楽担当には不適格
14 ホロコースト揶揄で開会式演出デイレクター解任
ユダヤ人「大量虐殺ごっこ」というホロコーストを揶揄したギャグを行った人間が開会式のデイレクターというのはまずい

よくもまあこれだけトラブルが起きたものだ。起きすぎである。特に昨日のブログ記事ではもれてしまった振付師のMIKIKO氏のケースをみてなんとなく背景がわかったような気がする.。

要するにそもそも本大会にきちんとした運営プロデューサーがいないのではないかと思うのである

組織委員会とIOCが現場の意向を無視して勝手に決めるなどあってはならない。そのクリエイターに依頼したのに何の連絡もせず勝手に変えたら、誰だってやる気をなくす。大会の大きな変更を余儀なくされた場合は現場を統括するプロデユーサーがクリエイター、アーチストにきちんと説明し、以後の現場運営に支障がおきないように動く、これが運営プロデューサーの大事な仕事の1つである。

東京五輪 は実質シロウトで運営されていていた、と言わざるを得ない。これが小山田、小川の人選ミス、プロデユーサー不在のお粗末な運営、次々と出てくる問題発言という結果になっている。

だがそれだけではない。今回の度重なる不祥事の背景は日本社会のもっと本質的な問題が絡んでいるように思う

実は朝日新聞のこの記事も今回の問題の本質をついてのでので紹介する。日本における文化のガラパゴス体質 である

■開会式担当解任が示す日本の大衆娯楽の「ガラパゴス化」
https://digital.asahi.com/articles/ASP7Q74SWP7QUCVL00C.html

開会式は、オリンピックの理念や開催国・開催都市のメッセージを具体的にイメージさせ、広く世界に伝える場であるはずだが、そうした場に似つかわしくない、いまの日本社会全体の人権意識の低さが露呈した。仲間うちで面白がっているものが一歩外に出ると通用しない、という日本社会のゆがんだ部分が、海外から注目が集まるこの機会に一気に噴出した形だとこの記事は述べている

日本人同士の身内のみ受けるコンテンツを標準にすると今回のような事態が起きる。いじめを武勇伝のように語るのは身内同士では受けるかもしれないが、日本から一歩出れば非道外道と非難されるのは当然。ホロコーストのギャグもアウシュビッツのことなど知らない日本人には抵抗はないかもしれないが日本から一歩でればとんでもないことだと世界に目をむければわかる

日本という国は音楽はもちろんのこと、映画や演劇そのほかでも「日本人同士でウケればいい」という姿勢で業界全体がやってきた。そして今もその体質は変わっていない。なまじっかそれでやってこれた時代が長かったためである。

しかしインターネットで情報もコンテンツも自由に行き交う時代ではそういう考えではもはや通用しないということだ。日本国内にいるとなかなか実感できないが、現代のコンテンツ文化にかかわる人間としてやはり「ガラパゴス化」から日本はいい加減卒業しないと今回のようなみっともない事態が繰り返されることになるだろう

それらを総合して考えると今の日本ははっきりいってオリンピックなどを開催する資格など到底ない国なのである。

ダイバーシテイ、LGBT, SDG,そしてパラリンピックがらみで障害者の社会的復帰と独立を推進するERG

これらは世界的な潮流であるが、今の日本でそれらを完全に理解している人たちがどれだけいるだろうか?相も変わらずガラパゴス体質なのだろうか?

小山田、小川の相次ぐ辞任は今の日本のそうしたガラパゴス体質を背景としたもの、すくなくともそういわれても仕方がないのである。

さらに実現しないことを心から祈るが、オリンピック組織委員会は信じられないことをやろうとしている。女性差別発言で辞任したはずの森喜朗の復権である。

■森元首相に「名誉最高顧問」就任案 五輪組織委が検討
https://newspass.jp/a/2u23w

正気か?

といいたくなる。オリンピック組織委員会の体質に甚だ問題があるといわざるを得ない。というかこれだけ不祥事が続いても何も反省していない、ということがこのことでもわかる。

これから8月8日の閉会式の間、仮にコロナ感染爆発 が起きなくても(起きる可能性極めて大)今回の東京オリンピックは日本の歴史上の最大の汚点の1つになることはもはや避けられないだろう。57年前の東京五輪とは対極の大会だ。個人的には閉会式 が待ち遠しくなる大会になるだろう

 

 

 

7月 23, 2021 文化・芸術 | | コメント (0)

2021年5月29日 (土)

やはり今はエンタテインメントの大変革期ーサブスクだけでなくNFTのエンタテインメントを大きく変える可能性について

このブログをよく読んでいいただいている方がいらっしゃれば私は音楽の方で各サブスクリプションのプラットホームにおけるストリーミングのプロモーションにエネルギーを投入していることはおわかりだと思う。日本国内ではいまだ主流になっているといい難いが(日本ではいまだCDが主流ーおそらく世界で唯一CDにこだわっている国といっていい)全世界的には完全に音楽やエンタテインメントの世界ではパラダイムがシフトしており、サブスクのプロモーションはやはり全精力を投入していこうと考えている。まだ私が考えているレベルには程遠いががんばっていくしかあるまい。

一方では今新たなものが注目を浴びている。そしてそれがエンタテインメントの世界をさらに大きく変えるかもしれないのだ。

今ビットコインの関連で今世界的にNFT(Non-Fungible Token:非代替性トークン)が大きな注目をあびている。

Shutterstock_1862020822710x458

コピーが容易なデジタルデータに対し、唯一無二な資産的価値を付与し、新たな売買市場を生み出す技術で、やや乱暴かもしれないがビットコインシステムの中の「オークション」のようなもので、魅力的なコンテンツ、面白いコンテンツであれば高額で売り出すことができるシステムである。

既存のインターネットのコンテンツのプラットホームはサブスクリプションのプラットホームを見ればわかるようにコンテンツの単価を下げる方向にベクトルが動く。そもそもパッケージからダウンロードだけでも1ケタ下がり(1000円単位から150円)そしてサブスクストリーミングにいたっては1回再生で1円にも満たない(多くは0.5円、Spotifyなどは平均0.3円に過ぎない)

しかしNFTはオークションのシステムなので逆に価格が上がる方向にベクトルが動く。 

実際あるグラビアアイドルが自分のグラビア写真をNFTにかけ900万円の価格がついたという例がある。

元セクシー女優・上原亜衣の画像に計900万円。本人が語る「NFT」の実力とは
https://nikkan-spa.jp/1756310/amp

オークションなので有名人やグラビア系、場合によってはAV系といった人たちがNFT用のコンテンツとして有利かもしれないが、勿論人を引き付ける魅力的なコンテンツをクリエイトできるのであれば誰にでもチャンスはある。

NFTについては今までのITプラットホームにはないある種の可能性を感じる。

そのNFTの公式HPオープンにあわせてのイベントが開催されるという。私もまだ完全にNFTを理解したわけではないのだが、参加してみようと思っている。

新しいエンタテインメント産業の在り方の可能性があることは確かなようだ。

Day1:6月10日(木)11時40分~19時30分

Day2:6月11日(金)11時40分~19時30分

 https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000008.000053581.html

 尚、NFTが何かわからない方はこちらをご覧ください

https://www.sbbit.jp/article/fj/60992

 

5月 29, 2021 パソコン・インターネット文化・芸術経済・政治・国際 | | コメント (0)

2021年2月28日 (日)

SNSは「第二フェーズに入った?」情報やコンテンツ革命がいよいよ本格的に始まる.. かもしれない

先日より不定期だがクラブハウスの「ルーム」のいくつかに参加している。まだ参加して一か月程度だが、クラブハウスは今までのSNSと比べてもいろんなことが違う。音声のみのSNSで会話のみのSNS。会話はサイトに残らずユーザーはその会話を何らかの方法で記録したりメモしたりすることは禁止されている。つまりリアルタイムオンリーのSNSである。

そのため音声の残らない、テキストデータも残らないことから、「炎上」は起き辛くデータが残らないからtwitterfacebookのようにシェアは不可能である。
既存のSNSの代表格のtwitterfacebookなどは参加者の発言の内容によって炎上が起きたりする。私自身も失敗したり酷い目にあったりした経験があるがこのクラブハウスはそういうリスクは既存のSNSと比べると極めて低いと思う。その辺りを考えるとSNSが出現して15-6年、SNSは新しい「第二フェーズ」に入ったのではないか、という気がしている。

Clubhouse

以前このブログで情報革命、もしくはIT革命について述べた記事があった。

■死語とされている"IT革命”という言葉
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2009/08/it-f819.html

実際にはこの風潮に反論するがごとくピータードラッカーの本を引用してこういう記事があったことも述べた。

ITによる革命は緒に就いたばかり 」と主張する本が現れていた。
テクノロジストの条件 (はじめて読むドラッカー (技術編)上田惇生編訳、ダイアモンド社)  である。2年くらい前の記事だが非常に参考にはなった。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20070601/273297/?ST=biz_biz&P=1

この本の詳細はここで触れるつもりはないが、この本の中で情報革命は必ず起きるといってその原動力がEコマースになると云っている。

だが私はSNSも同じくらい革命を起こす可能性を感じている。
実際昔は某D通が完全にシャットダウンしていたハリウッドや海外映画のオーデイションも今SNSを通じて容易に参加できるようになったし、海外の有名人とも接触できる可能性もある。作品制作もボーダーレスになりSNSで情報を探すとかなりすごいことが水面下で起きているのを感じている。

また情報革命はコンテンツ革命ではないかと考えている。今クラブハウスという新たなソーシャルメデイアが生まれそれがまさに進行しているように思う。

SNSがエンタテインメント産業に大きな変化をもたらす可能性はやはり否定できないと思う。それも業界のシステムを根底から覆す可能性を感じる。

特にクラブハウスで特筆すべきは世界的な有名人が参加していて、その人物と同じ「ルーム」に参加してじかに肉声を聴くことができることだ。そういうルームは参加者が他のルームと比べてもけた違いに参加者が多いのでめったにそういう機会に恵まれないが、実際に直接参加者がその有名人に直接質問したりその他の話をすることもできる。

ここ1-2週間でルームを開いた有名人は以下の通り

・俳優:浅野忠信

・ハリウッド映画監督:フランク コラチ(ウエデイングシンガー)

・元NFLのクオーターバック:イーライ マニング

・俳優:ジャレッド レト

・メジャーリーガー選手:ダルビッシュ有

twitterfacebookのようにテキストでのやりとりではなく、実際に会話もするのでまるで本当に電話で話をしているような錯覚にも陥る。話を聴くだけでもいいが、ただ聴いている時はまるでラジオを聴いている気分になる。

参加する有名人からも会話等は残らないので炎上や非難といった余計なことがおきる心配もなくなる。その関係もあって他のSNSと比べれば参加しやすいだろう。

ちなみにtwitterfacebookのアーチストの「公式」なものはたいていの場合アーチストが所属する事務所、エージェントが管理していることが多い。炎上のリスクを考えるとアーチストを守るのに必要な処置であろう。
20210130210540_20210228124601

むろん異論がある人もいるだろうが、クラブハウスの出現でSNSは「第二フェーズ」の時代に移ったのではないかと考える。今後このクラブハウスを始めとする「第二フェーズ」のSNSが文化、芸術、コンテンツ全般にどう影響していくのか。
大変面白いところだと考える。

 

 

 

2月 28, 2021 パソコン・インターネット文化・芸術 | | コメント (0)

2020年12月 6日 (日)

会田誠氏らのヌード講座は「セクハラ」裁判について思う事ー芸術の表現に対する日本人の無理解が予想以上に深刻な件

これは元からそうだったのか、それともここ10年ほどで日本人はこうなってしまったのかわからない。

しかし芸術表現、そして表現の自由というものに対するこの日本という国の人間の無理解は私の予想をはるかにこえるほど深刻な状況であることを感じざるを得ない。

このブログでも書いたが記憶に新しい「あいちトリエンナーレの『表現の不自由展』」での従軍慰安婦像展示に政治権力が介入し一次展示停止に追い込まれた件があった、この件に関しては河村名古屋市長があろうことか展示中止の先導を切ったのだが


■「日本人の心を傷つける」と称して表現の自由を踏みにじった河村名古屋市長と良識を保ち「権力の介入は憲法違反」と批判した愛知県知事

http://kyojiohno.hatenadiary.com/entry/2019/08/06/144114

 これに関しては以下の記事で私は見解を述べている

■あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」中止に伴う私と各表現者の声明。日本社会における表現の自由は本当に危機的な状況である。
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2019/08/post-d06f3b.html

「芸術表現」とは必ずしも心地よいものばかりとは限らない。なかには表現として一部の人にとっては不快に思えるものも存在する。しかしそういう「不快な表現」の存在も甘受し認めることが表現の自由ということだ。

だがどうやらそれがどうしても理解できない人がいるようだ。実は私の周囲にも一人いた。いくら説明しても残念ながら理解してもらえなかった..

そしてこの問題もそうだ、いわゆる「猥褻な表現」というものである。これに関しては当ブログでも何回も取り上げている。

そしてそれがとうとう裁判沙汰にまで発展してしまった。

■会田誠氏らのヌード講座は「セクハラ」 大学に賠償命令
https://digital.asahi.com/articles/ASND46HPJND4UTIL04J.html

今回は京都造形芸術大学が開催した公開講座の中のできごとらしい。
つまりこの場合、受講生は必ずしも美大生や美大関係者とは限らない、ということなのではないだろうか。もしかして美術に一定の関心はあるものの失礼ながら限りなくシロウトに近い人も受講していた可能性がある。

なぜそういうことをいうかというと少なくとも大学にて美術の専門教育を受ける、美大生、芸術大学生ならば裸婦の描き方や裸婦を描いた作品の歴史の勉強は美術の基本中の基本である、ということくらいは普通の美大生なら理解しているはずだからである。実際大学の授業で裸婦のスケッチの課題を行う授業が普通の美術大学ならあるはずである。

そしてもし裸婦ー女性の裸体を描いた作品を見せることがセクハラになる、ということであれば、ルネサンスからアングル等の古典派、そして印象派の大半の作品を見せることが全てセクハラになってしまう。写真もヘルムートニュートン等の写真を見せることも同様にセクハラになってしまう。これでは美術の授業、講義自体が成り立たなくなる。

これが市民団体が「女性の尊厳を傷つける」などと抗議する等、芸術のゲの字も理解しない団体ならともかく今回は大学主催の美術の公開講座で起きたことだけに事態を深刻化している、

伝えられている記事だけしか情報が入っていないのでこれ以上は語らないが、もし女性の裸婦や男性の裸体を見て苦痛だというのであればそもそもこの裁判を起こしている方は何を目的でこの公開講座を受講したのだろうか?正直理解に苦しむ。美術の専門的知識や技能を身に着けたいのであれば人間の体の仕組みまで理解した人体のスケッチ(勿論裸体である)を描くことから始めるのが基本である、ということが理解できないのであろうか?ダビンチ、の有名なスケッチとかみてみるとわかるはずだ。このダビンチの書いた「ウィトルウィウス的人体図」は完全に「学術的レベル」のものである。

250pxda_vinci_vitruve_luc_viatour
レオナルドダビンチの「ウィトルウィウス的人体図」

まぁ日本の裁判官に芸術理解しろ、と言っても無理かもしれないが、芸術に一定の理解を持っている人間であればこんなバカバカしい判決など出せないはずである。

事情があるかもしれないが、一部の人間が「見ていて不快」との理由でその表現方法そのものを否定されるようなことがあればこれは表現の自由にとってゆゆしき事態といわざるを得ない。

ただ前述のように「見ていて不快な表現も許される」ということを理解できない人が今の日本に相当数いることも私は感じている。正直そういう人たちは何をいっても理解しようとしない。この裁判を起こした人もそういう類の人かもしれない。

運営等に課題はあったかもしれないが、少なくともこれからは「公開講座」の受講者も「単に美術が好き」ではなく美術にたいして一定の専門知識を持っている人に限定することも考えてはどうだろうか?

 

 

12月 6, 2020 文化・芸術 | | コメント (0)

2020年10月 1日 (木)

トキワ荘マンガミュージアムに行ってきました

ここのところ悪いことばかり続いたので今日は気分転換。日本でクリエイティブな仕事する人間なら必ず行った方がいい場所です。

日本のマンガ文化の発信地(再現)
トキワ荘マンガミュージアム

Tokiwaso0

Tokiwaso1 Tokiwaso01

左は漫画家が出版社への連絡に使っていた電話ボックス。昭和30年代はまだ一般家庭に電話はありませんでした。右はトキワ荘を右からみた姿

トキワ荘はご存じの方も多いように、手塚治虫に始まり、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、寺田ヒロオ、水野英子等、日本のマンガの歴史を作った人が住んでいました。

皆さんには特にこの部屋をご紹介したいです。実は本当は撮影禁止の部屋なんですけどあまりに感慨深くて撮ってしまいました。

Tokiwaso3

最初は手塚治虫が住み、後に藤子不二雄が受け継いだ4畳半一間 
この部屋で鉄腕アトム、リボンの騎士、そして藤子作品ではオバケのQ太郎が生まれました

日本が世界に発信できるマンガ文化がこの昭和の時代の何の変哲もない部屋で生まれた、という事実、

何ともいえない感慨を覚えます

ミュージアムは60年前の生活ぶりが見事に再現されています>

Tokiwaso5 Tokiwaso4_20201001211501

Tokiwaso6

「神様」と言われる人を慕って全国から若い天才たちが集まった。
そして「マンガ」という革命が起きた。

それがトキワ荘ではないでしょうか?

この日本の歴史でも稀有な出来事がこの昭和当時の何の変哲もない安アパートで起きた、という事実がすごいと思いました。

その「マンガ」が今や日本が世界に誇れるコンテンツとして発展し、戦後の日本文化の大きな金字塔になったといっていいと思います。

Tokiwaso8

トキワ荘マンガミュージアムは今トキワ荘公園と名付けられている公園の中にあります。公園内のモニュメント。

Tokiwaso7

公園のトイレは新進漫画家の作品が「落書き」として展示されています。豊島区はトキワ荘にちなんで次の時代のマンガ家も育てようとしています。

Tokiwaso10 Tokiwaso9

ミュージアムは一時間半もあれば一通り見ることができます。小さいですからね。

昼食は最初からここと決めていました。「マンガ道」にも出てくる中華料理屋「松葉」
漫画家たちが日常的に出前を取っていた店

Matsuba0

店内には漫画家たちの色紙がところ狭しと貼ってありました。藤子不二雄Aさんの色紙がやはり目立ちますね。喪黒服造を書いてます。

鈴木伸一氏はラーメン小池さんのモデル。途中からアニメーターになり今も活躍されています。

Matsuba1 Matsuba2  Matsuba3

これが松葉のラーメン、藤子不二雄のラーメン小池さんのラーメンです。まあ普通の醤油ラーメンですけどね

Matsuba4

トキワ荘マンガミュージアムは西武池袋線椎名町にあります。池袋から1つ目の駅です。駅には赤塚不二夫、石ノ森章太郎、藤子不二雄の画が展示されています。

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でも、実は

西武池袋線椎名町駅ではなく、大江戸線の「落合南長崎駅」の方が近いです。

帰りにトキワ荘ミュージアムには売店はありませんが、近くの商店街にある「トキワ荘通りお休み処」でおみやげを買うことができます。
日本の少女マンガの草分け的存在である水野英子さんのトキワ荘自叙伝とポストカード買いました。 

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トキワ荘商店街の「トキワ荘通りお休み処」で購入することができます。

日本が世界に誇れる数少ないコンテンツ マンガ
この精神を現代に活かすにはどうすればいいか。
これを機会に考えてみたいと思います

 

 

10月 1, 2020 文化・芸術 | | コメント (0)

2020年3月29日 (日)

アーチストや文化関係者をコロナウイルスの自粛に伴い厚く保護するドイツやヨーロッパ諸国と「芸術や文化に税金を使うな」という見解が社会の多数派になっている文化民度の情けない程低い日本

コロナウイルスは経済全般に大変な悪影響を与えているが、アーチスト、とりわけ音楽家はコロナウイルスの感染拡大が報告されてからかなり早い段階で「自粛」の対象になっている。


本来政府が自粛を国民に要求する以上、その自粛に伴う補償をするのが筋だが、特にアーチスト、音楽家に関してはそれを要求すること自体、けしからん、みたいな雰囲気が社会にある。挙句の果てはフリーランスと「普通のアルバイト」は同じであると言い張り、日本のクリエイターや映像、音楽のプロフェッショナル全員を侮辱するような発言がネットであふれているのが現状(殆どが映像や音楽の制作現場など知らないクセに知ったような口をきいている)


先日独立映画鍋に関するイベントで当ブログにて「なぜ芸術に公的支援は必要か」それと「映画の公益性って何?」の両方のイベントについてSNSや「クラウドファンデイングサイト」等で目立ったのが「税金を使って映画など作るな」とか「税金を芸術に使ってほしくない」という声がかなりの数に登ったという点。
一方ヨーロッパでは芸術は「人間が文化的生活をする上で必要なもの」という意識を持っている。それを如実に表した情報が飛び込んできた。


 ■ドイツ。アーチスト及び文化関係の事業者に向けて5000億ユーロ(約60兆円)を拠出
https://news.artnet.com/art-world/german-bailout-50-billion-1815396


まず日本とヨーロッパを比べた上での絶望的な民度の差だ。文化芸術が国家のアイデンティティそのものであることを理解している国と、それが理解できない国。その差が如実に出た点だ。


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「税金を芸術に使ってほしくない」なんていう発言が平気で出てくること自体、日本ははっきりいって三流国であることを自らの言動で証明している。ましてこれは政府の自粛要求に応じる形で自らの仕事の機会を捨て去っているわけである。そのアーチストに「税金を使わないでほしい」だと? 音楽家や芸術家はカスミ食って生きているとでも思っているのか?


日本という国はここ5-6年でITやAIの技術を始め、ビジネスや会社の生産性の低さで実質後進国に堕ちてしまった。そして文化、芸術に関しては残念ながら世界最後進国といっていいだろう。そして実際問題として既に世界からそのように見られてしまっている。「税金を芸術に使ってほしくない」なんていうようでは世界から文化のすぐれた国とは到底おもってもらえるわけがない。日本にいるとわからないだろうが、世界に行くと本当にそれがよくわかる。


 




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3月 29, 2020 文化・芸術 | | コメント (0)

2020年2月26日 (水)

独立映画鍋-「映画の公益性って何?」-出演者不祥事による助成金不交付の問題::芸術や映画に対する日本人の民度を問う

昨年は「愛知トリエンナーレ」を始め表現の自由の危機が叫ばれた年でした。そして映画「宮本から君へ」が文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会(以下芸文振)」より2019年3月に助成金の交付内定がされていたにもかかわらず、2019年7月に「公益性の観点」により不交付決定がなされました。原因は出演者であるピエール瀧さんが麻薬取締法違反で逮捕された点にあります。

 しかしこれを機会に芸文振の助成金に関する要項等が突然書き換えられ、しかもそれが「公益性に反する」というよくわからない、どのようにも受け取れる基準で助成金を不交付にできる、ということになりました。これは昨年の「愛知トリエンナーレ」に関しても、安倍政権にとって「気に入らない表現作品があった」ということで一部の人から「公益性に反する」といって大会運営が危機的な状況になったことがありましたが、ではその「公益性」とは一体何なのか?ということについて語るトークイベントを映画のNPO法人の「独立映画鍋」が主催していましたので行ってきました。

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折しも「新型肺炎ーコロナウイルス」の感染拡大が急速に進んでいるので登壇者はマスクをしながらスピーチという異例のものでしたし、その「コロナウイルス」の関係で通常は有料の「トークイベント」という形で進むのですが、今回はZoomというアプリを使った配信をメインに行いました。私はまだ正式に「独立映画鍋」に参加していませんでしたのでその辺りの情報が来ていなかったみたいです。(汗)

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                今回の司会の舩橋監督と四宮隆史弁護士

今回の大まかな経緯が書かれていますのでここで写真を投稿しますが、

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ご覧になっておわかりのように「宮本から君へ」の助成金の内定通知はピエール瀧氏が逮捕された後に来ていることが分かります。そしてご存じの通りネットやSNSを中心にピエール瀧氏への激しいバッシングを始め大河ドラマを始めテレビドラマ、映画の中の出演カットが立て続けに世間で行われます。
その後4月に芸文振から映画の再編集を行う意思があるかの打診があったものの、制作のスターサンズは拒否

6月にピエール瀧氏が有罪判決をうけると6月下旬に芸文振から助成金を不交付にすると最初、口頭、7月になって「公益性」の観点から不交付が決定された、というのが経緯です。

そして現在芸文振に対して助成金不交付という処分の取り消しを求めた訴訟が行われまして、今回のゲストスピーカーはその主任弁護士の四宮隆史弁護士です。

 ここでのやりとりで、いくつかの問題を四宮弁護士は指摘しておりました。

1.映画の内容、編集キャステイングに対する介入

映画の表現の根幹に関わる編集、キャステイングへの介入はまさに表現への自由そのものへの介入であり、これは芸文振の裁量権の逸脱にあたると指摘されております。

さらに今回は深刻な問題があります。

2.今回の不交付決定後に突然の要項の変更

今回のトークイベントの論点である「公益性」というきちんと定義もされていない文言を要項に追加しました。まるで降ってわいたような文言ではあり、あまりにも曖昧な言葉であり、どうにでも取れる、ことから逆にこれから助成金を申請するクリエイターが委縮する原因にもなりうることを問題にしています。

実際昨年の「愛知トリエンナーレ」のように「権力にとって不都合な表現」というものを「公益性に反する」などと取られる可能性が十分にありこれは表現の委縮、可能性を削ぐものであるといわざるを得ない、ということができます。

ちなみに「独立映画鍋」には代表の深田監督を始めとする日本を代表する映画監督が大勢参加しており、(「万引家族」「真実」の是枝監督も参加されております)深田監督はフランスから助成金をもらって映画制作をした経験もありますので、今回の日本の助成金不交付とその理由に関する事情をフランスの助成金の団体に説明すると失笑された らしいです。

勿論フランス、イギリスその他ヨーロッパにも芸文振のような団体(しかも日本と比べても政府から独立した団体)はあり、助成金を不交付のケースはありますが、日本のような「公益性」というわけのわからない理由ではなく、もっとビジネスの面で、例えば資金の面で事実とは違う内容を記述したこと、とか提出資料の中に虚偽の内容を記した、といった場合に限られます。

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欧米はビジネス、契約社会なので非常にドライではありますが、はっきりしています。

現在株式会社スターサンズさんと芸文振との間で訴訟が行われていますが、一部誤解している向きがありますが、今回の訴訟の目的は助成金の1000万円を芸文振から取ることではありません。
助成金不交付の処分を撤回してもらう、という点だけです。これは必ずしも1000万を取るという意味ではありません。実は「宮本から君へ」はすでにヒット作品になっていますので、今更そんなお金はいらないのです。

但しこの「公益性に反する」などという訳のわからない理由で助成金不交付を受け入れてしまうという前例を作ってしまうと他の映画の申請に悪影響を与えてしまう、しいては文化のありかたに悪影響を与えてしまいます。それを阻止するための訴訟だとお考えください

そのため裁判費用を捻出するためのクラウドファンデイングを現在実施しています。あと2日で終了してしまいますが、日本の文化を守るという観点から皆さんにもご協力いただければ幸いです

・映画制作の未来を問う。出演者不祥事による助成金不交付の違憲性

(クラウドファンデイング)

https://readyfor.jp/projects/jyoseikinsosho

尚、昨年と今回のトークショーで「独立映画鍋」及び「クラウドファンデイングサイト」等で目立ったのが「税金を使って映画など作るな」とか「税金を芸術に使ってほしくない」という声がかなりの数に登ったという点です。

ヨーロッパでは芸術は「人間が文化的生活をする上で必要なもの」という意識を持っているのに対し、日本人は「芸術などなくてもいいもの」「税金で芸術などとんでもない」「形のないものに価値などあるはずがない」などと考える向きが強いようです。

これに関してはあえていわせてもらいます。

日本人は芸術に対する民度があまりに低すぎます。

文化、表現に対する無理解、無関心という傾向が強く、特に日本人にこの傾向が強いのですが好きなもの=いいもの、嫌いなもの=悪という風に短絡する向きが非常に強いという点です。

日本という国はここ5-6年でITやAIの技術を始め、ビジネスや会社の生産性の低さで実質後進国に堕ちてしまいました。そして文化、芸術に関しては残念ながら世界最後進国といっていいと思います。そして既に世界からそのように見られてしまっています。

そこから先進国に復帰するにはどうすればいいか。私は日本人の意識改革しかないと考えます。その意識改革は文化的な礎があって初めてなしうるものです。

「税金を芸術に使ってほしくない」なんていうようでは世界から文化のすぐれた国とは到底おもってもらえません。日本にいるとわからないでしょうが、世界に行くと本当にそれがよくわかります。

その意味でもこの問題、皆さんでお考えいただければ幸いです

 

 

 

2月 26, 2020 文化・芸術 | | コメント (0)

2020年2月 8日 (土)

カズ・ヒロ氏のオスカー再ノミネートにみる「島国根性」にこだわる日本人の将来が絶望的な件

周知のように日本時間の10日の午前(現地LA時間夕方―夜)に恒例のアカデミー賞授賞式がハリウッドのドルビーシアターで開催されるが以前「チャーチル」でメイクアップ賞を受賞した旧名 辻一弘さんー現カズ・ヒロ氏は「スキャンダル」で二度目のノミネートとなった。

意外に知られていないが昨年の3月にアメリカに帰化し日本国籍を捨てた。そのため今回仮に「スキャンダル」で二度目のオスカーをとっても今度は日本人としての受賞ではなくなる。このことを「理解できない」と考える日本人も多いかもしれない

■カズ・ヒロ氏、またもやオスカー候補入り。国籍と名前を変えた心境を聞く
https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20200114-00158572/?fbclid=IwAR3pIucxqKmQAnUPXgkGkYmKButC6FnqM4YfeOeP-eapZBsrdNjrOO8X_KU 

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本人のコメント


日本人は、日本人ということにこだわりすぎて、個人のアイデンティティが確立していないと思うんですよ。だからなかなか進歩しない。そこから抜け出せない。一番大事なのは、個人としてどんな存在なのか、何をやっているのかということ。その理由もあって、日本国籍を捨てるのがいいかなと思ったんですよね。(自分が)やりたいことがあるなら、それをやる上で何かに拘束される理由はないんですよ。その意味でも、切り離すというか。そういう理由です

「日本人が日本人であることにこだわりすぎる」

確かにこれがある限り日本という国がグローバリズム社会に対応していくことはほぼ不可能だろうといっていいと思う。 これはビジネスだけでなく、映画、音楽、その他の芸術すべてに云えることだと思うが、日本人特有の「島国根性」を捨てないと後の世に生き残れないのは事実だと思う。そして現在大きなうねりとなって世界を動かしていくグローバリズムの流れはもはや誰にも止めることができない。しかし日本人の多くはどうしてもこの「島国根性」を捨てることができないようである。

おそらく、大多数の日本人は世界の波に取り残されてしまうだろう。残念ながら日本の将来は暗いといわざるを得ない。

今グローバリズムだけでなく価値観そのものが大きく変化しつつある。「革命」といっていいくらいに変化しつつある。残念ながらそのこと自体に気が付いていない日本人が少なくない

残念ながら日本はここ数年で完全な後進国に転落した。(これも認めようとしない、気が付いていない日本人が多い)その後進国転落が再び先進諸国に仲間入りするにはグローバリズムに動く社会に適応するために「島国根性」を捨てるしかない。

 

 

2月 8, 2020 文化・芸術 | | コメント (0)

2019年12月14日 (土)

映画、情報社会の圧力ー表現者としてのこれに徹底抵抗する必要性と表現の自由の危機

今年もあと僅かだが今年は映画、アートその他で表現の自由を蔑ろにする「圧力」が社会にみなぎっていた。そんな中。、日経新聞に以下のような記事があった。


■<回顧2019>映画 情報社会の圧力に抗う
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO53215160R11C19A2BC8000/


記事を引用する



芸能人の不祥事が世間を騒がせる度合いが大きくなったことも、情報社会の一面だ。映画の公開中止や延期、改変が相次いだ。犯罪は許されないし、出資企業などが否定的評価のリスクを避けたいのはわかる。しかし明らかに過剰と思われる自粛も少なくなかった。


日本芸術文化振興会が内定していた「宮本から君へ」への助成金を、出演者が麻薬取締法違反容疑で逮捕されたことを理由に不交付とした。さらに要綱を改正し「公益性の観点から」不適当と認められる場合は助成を取り消せるようにした。「公益性」という概念は曖昧で、拡大解釈も可能だ。今後、助成への公権力の介入や表現の自由の萎縮を招く恐れはないか。



目に見えない同調圧力が社会に広がっている。危機感を抱く映画人たちは声をあげ始めた。川崎市の懸念を受けてミキ・デザキ監督「主戦場」の上映を取りやめたKAWASAKIしんゆり映画祭に対し、白石和彌、井上淳一の両監督が抗議し、自作の出品の取り下げを表明した。是枝裕和監督は自作上映時に「主催者側が作品を取り下げるのは映画祭の死を意味する」と訴えた。結果的に同映画祭は「主戦場」の上映に踏み切った。



現代の情報化社会では芸能人が不祥事を起こすとまるで自分が「正義の味方の権化」のような顔をして徹底的に叩きまくる人間がネットには本当に多い。一方で政治家の不正やゴマカシ隠蔽には全く無関心ー寧ろそれを批判する人間を非難して叩いたりする。これはまさに日本社会がいかに劣化したかを示す証拠だと私は考える。あえていうがこういう行動は本当の正義ではなくエセ正義をふりかざしているだけである。 


一方で映画やドラマの出演者の不祥事に過剰に自粛したり作品を変更する行為、ことなかれ主義は結果的にエセ正義をふりかざしている輩の行為を正当化させていることに他ならない。


 今の日本社会には異常といっていいほどの同調圧力が社会にみなぎっている。それに購うためにも、それらの圧力に対決する覚悟と気概をプロデユーサー、監督その他関係者が見せて欲しいものである。「事なかれ主義」や圧力に簡単に屈することは文化を死なせることと同じである。来年は今の日本社会を可笑しくしている同調圧力、事なかれ主義、エセ正義にたいする徹底抗戦を始める年にしたいものである。


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助成金がカットされた「宮本から君へ」ー結果的にはヒット作品になった








12月 14, 2019 文化・芸術 | | コメント (0)

2019年10月24日 (木)

緊急集会 なぜ芸術に公的支援は必要か? みんなで考えるニッポンの文化に出席しました。

既にご存じの通り「あいちトリエンナーレ」に対して文化庁が「書類の不備」などという意味不明の理由で助成金を不交付する決定を下しました。

あいちトリエンナーレに対する補助金の取扱いについて

http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1421672.html

また映画『宮本から君へ』の助成取り消し、同じタイミングで交付要綱も改正するという事態が発生しました。

■映画『宮本から君へ』の助成取り消し、交付要綱も改正。プロデューサーは「文化芸術にとって由々しき事態」と怒り
https://www.huffingtonpost.jp/entry/miyamoto-kara-kimie_jp_5daa5d48e4b0f34e3a75b604

こうした状況に多くの映画関係者を始め、クリエイター、アーチストその他の芸術家が危機感を表明
そんな中NPO法人「独立映画鍋」が「緊急集会 なぜ芸術に公的支援は必要か? みんなで考えるニッポンの文化」というイベントを下北沢のアレイホールで行い、「独立映画鍋」に参加しているシネマプランナーズの寺井さんとFacebookグループ「エンタテインメント業界キャステイング」の管理人という立場もあって参加してきました。

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私はかなり早めに来ましたが、開始時間が近づくにつれて満員状態になってきました。特に映画関係者にとって切実な問題ですからね。

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イベントは「独立映画鍋」の共同代表である深田晃司監督と土屋豊監督のお二人で進行されましたが、基本は出席した映画関係者による発言を中心に進みました。 また「あいちトリエンナーレ」のキュレーターの方とスカイプにて実際の現場での生生しいお話も聞くことができました。また会場にはマスコミ関係者も多数駆けつけました。

必ずしもこの順番には進行しませんでしたし、全てについて論じられたわけではありませんが、大きく分けて次の4つの内容について話されました。むろんこういう問題に最初から一回のトークイベントで結論など出るはずはありませんが...

1.芸術に税金を使うこと

2.表現の自由と検閲

3.公益性とは

4. 今後の文化庁との向き合い方

結論からいいましてかなり有意義な話、情報を得ることができました。これら4つの項目に関してはかなり議論内容が重複した点(特に1.3. )がありますので項目別に順にふれることはしません。尚、先に書いておきますが4. 今後の文化庁との向き合い方 の姿勢については文化庁に対して「抗議声明」が出すものの文化庁のイベントには参加するというスタンスをNPO法人「独立映画鍋」はとるようです。これは抗議の意思は示しながらも『話し合い」のドアを閉めることはしない、という意味で私はこれは正しいスタンスだと思います。

ただ議論の中でポイントとなる話を書きますと

(1) 今の日本は「公益」と「国益」が混同されている

まず大前提として国が芸術文化にお金を出すのは「公益」のためであります。つまり商業主義とは違うその国の文化のありかた(伝統も含めて)を維持するためのもので、これは政治的や社会的立場というものは本来超えたところで「文化、芸術」を尊重することによって「公益」が保たれるという認識で、少なくともフランスを始めとするヨーロッパ諸国などはそれを維持しています。しかし最近の日本を見ますと「文句があるなら自腹でつくれば?」「市民を不快にさせる芸術になぜ補助金が?」「税金に頼るな!」等の文化庁の補助金不交付に賛成する声も少なくありません。つまり国(実際には以前も書きましたように「日本芸術文化振興会」(以下芸文振)は独立行政法人であり、全て国の予算で賄われているわけではないので、「国の補助」というのは厳密には正しくありません)の補助を受けているのに国にたてつくとは何事か。という議論です。

実際SNSに関してもそういう主旨の発言が多数みえますが、これらに共通するのは「公益=国益」という認識がベースになっての議論です。しかしそもそも「公益」とは特定の政権とか団体とは無関係に思想宗教に関係なく公の利益となるものであり、たとえ今は利益をもたらしていなくても後の時代に思想、立場に関係なく全ての人が恩恵を被るものー公共性の高い利益ーを「公益」といいます。

「国益」とは国家の利益ですが、その国の政権、政策によって大きく変わるもので例えある政権にとって「国益」なものは政権交代すると「国益」にならないというケースがあります。然るに昨今の安倍政権を見ていると「公共性のあるもの」は全て「政権のもの」という風に私物化している傾向が見えます。安倍政権のNHKという公共放送をーとりわけ政治報道部は顕著ですがー完全に私物化し政権の広報放送化していることからもわかります。

これはイベントで話されたことではなく私見ですがひとことでいえば、安倍政権が「公益」を「国益化」していることから両者の区別がつかなくなっている人が増えている、ということもできます。

(2) 助成金の不交付が頻繁に起きることで、アーチストへの委縮効果、不必要な自己規制を誘発

芸文振は9月27日付けで助成金の「交付要綱」を以下のように改正しました。芸文振はこの「交付要綱」の変更は「あいちトリエンナーレ」とは無関係だといっていますが、私的にはやはり額面通りに受け取ることはできません。

「公益性の観点」から助成金の交付が「不適当と認められる」場合に、交付内定を取り消すことができる

例によっていかにも官僚が書きそうな「どうにでも取れる」文章で、取り方によっては政権にとって都合の悪い表現(安倍政権が「公益」を「国益化」している)を「公益性の観点」から不適当という風に決めつけることもこの文章から可能になってしまいます。

 当然このような曖昧な表現は助成を受けようとするアーチストに対して一定の「委縮効果」をもたらすことは否定できません。それでなくても「助成対象」の映画、アートその他にはトリエンナーレのキュレーターの方もおっしゃっていたように「検閲は日常茶飯事」であり、その意味では日本ではヨーロッパのように「金は出すが口は出さない」といいアームズレングス(Arm's Length)の状況はなかなか生まれないのかなという点はあります。

一方で海外の例を取ると、韓国、マレーシア、シンガポール等は検閲があり通らない場合は上映すらできなくなりますが、日本は助成金が降りないだけで上映はまだ自由だ。という話もありました。

(3) SNSの「炎上」に対してアーチストや作品関係者はもっと発言すべき

あいちトリエンナーレに関してもおびただしい苦情の電話と凄まじいネットでの炎上がありました。ただ苦情内容やSNSでデイスっている人たちの全員ではないにせよ殆どの人に共通するのは

作品も見ていない、展示会場にも行っていない  という点です。

作品も見ていない、映画の場合は映画もみていないでSNSで誰がが書いた情報(多くはデマに近い)を鵜呑みにして拡散する、今日本のSNSを見てもそういうことが多すぎます。あいちトリエンナーレに関しての苦情の全部とはいいませんが、おそらく9割以上は作品も見ていない、会場に入場もしていないで他人のデイスったツイートやその他の投稿の真偽をよく確かめもせず鵜呑みにして炎上に加担する、というパターンです

私はこういうことはいい加減やめさせないといけないと思います。

以下は私見です

 以前当ブログにも書きましたが、同じパターンで酷い状況がありました。いずれも第二次大戦の日本軍がらみの映画ですが、映画を見てもいないでデマを流し「反日映画」と決めつけ、あろうことか産経新聞というマスメデイアまでがそのデマに加担した事件がありました。

 ■映画「アンブロークン」鑑賞ー不屈の精神を描いた良質の作品ー映画を見もしないで反対運動していた奴らは恥を知れ!!
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2016/02/post-2d22.html

こちらの映画もそうですね。出演の香川輝之さんには嫌がらせ行為が頻発したようです。

■映画「ジョンラーベ」上映会にて鑑賞ー史実に忠実ですが反日映画ではありません
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2015/12/post-242e.html

いずれも実際に見ましたが、反日映画とはとても言えない内容と断言できます。「アンブロークン」に関して言えば寧ろ戦争の体験を戦後「日本人を赦す」ことで救われたという言説があり、1964年の東京オリンピックの聖火ランナーで日本人と仲良くリレーしている様子も描かれます。産経新聞がもっともらしく書いた「人肉のシーン???」など勿論ありません。

いずれも映画を見てもいない人間が勝手に思い込みや「ネトウヨ好みのデマ情報」を鵜呑みにして拡散され正式な公開上映ができなかったという日本人としては本当に恥ずかしい一例といえます

ですからこういうことはアーチスト、クリエイターがもっと声を揚げないとダメな例といっていいでしょうね。第二の「アンブロークン」,

「ジョンラーベ」を出さない意味でも...

こんなハッシュタグなどいかがでしょう? #デイスるのはいい但し作品を見てからしろ

作品をみてないのならデイスるなってことですね。こうした風潮の背景、すべては今の政権があらゆるところで日本という国をおかしくしていることが原因だと思います。イベントでは誰もそこまで言わなかったですが、ここでははっきりいいます。ですから現在の危機的状況を変えるには政権を倒さないといけないということができます。

ただ一方でアメリカのように公的助成の殆どない国でもショートフィルムやアートイベントとか資金を得られるシステムがきちんと存在する事情を考えますと「文化助成」の在り方、それと映画資金調達のありかたについて改めて議論すべき時期に来たのかもしれません

 

 

 

10月 24, 2019 文化・芸術イベント・コンサート17- | | コメント (0)

2019年10月19日 (土)

このタイミングでの芸術文化振興会の助成要綱を改正をみて日本の表現の自由を制限しようという勢力の存在を危惧する

このブログでも何回も取り上げている「表現の不自由展」

先日愛知県の大村秀章知事の指導のもと、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の全面再開が決まった。

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https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d9b1a05e4b03b475f9ca3a1

それに対して相変わらずクレームが殺到したが、大半は作品も見てもいない、ただネットの一部の情報(主にネトウヨ系)を鵜呑みにしてクレームしているもので本来は相手にする価値もないのでたいした問題ではない。

https://mainichi.jp/articles/20191009/ddm/001/040/126000c

だがやはり一連の動きで断じて看過できないのは今回の騒ぎに乗じて全く正当といえる理由なしに文科省が補助金不交付を一方的に決めたことだ。

https://biz-journal.jp/2019/10/post_121358.html

一度決まった補助金が取り消される例は聞いたことがない。再開に向けての動きの出鼻をくじくようなタイミングも怪しい、そしてさらに今回文化庁が所管する独立行政法人日本芸術文化振興会(以下、芸文振)が、芸術文化活動を助成するために交付する助成金に関し、その交付要綱を改正したことだ。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20748

いずれもあたかも打ち合わせでもしたかのようなあまりにも絶妙なタイミングではないか。これは。助成金の「内定取り消し」にあたり、「公益性の観点から不適当と認められる場合」、内定や交付の決定を取り消すことできるようになった。つまりこの新項目追加は「表現の不自由展」の補助金不交付を事実上正当化できる項目となる。それが目的と考えるのが普通だ

そもそも「公益性の観点から不適当 」というのは具体的にどういうものを指すのか?これは取りようによってはどうにでも取れる表現であり、今回の補助金不交付が安倍首相の側近中の側近といわれる萩生田あたりから出てきたことが胡散臭い。これは慰安婦を表現した少女像など、日本会議系の歴史修正主義者が背景で大きく動いた可能性が高い。

要するに安倍政権を支える「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟」「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」といった議員グループ及びその支援組織が日本の表現の自由を事実上空洞化させようとしている動きをみせているということだ。

表現者の端くれとしてこの状況に強い懸念と表現の自由の事実上を制限する動きに断固抗議するものである。

「『展示の中身が気に食わないから金を出さない』ということを認めれば、萎縮効果が働き、お上に都合の悪い文化事業は行われなくなる。文化庁が自分たちの判断で表現を萎縮させたのならば、自殺行為であり、存在意義が無くなるので廃止したほうがいい」(立憲民主党:枝野代表)

是非野党にこの動きを追求してもらいたいものである

 

 

10月 19, 2019 文化・芸術 | | コメント (0)

2019年8月 6日 (火)

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」中止に伴う私と各表現者の声明。日本社会における表現の自由は本当に危機的な状況である。

今回起きたことは前の記事でも津田氏の「仕掛けパフォーマンス」の件やいろんな情報が錯綜しているが、とにかく甘受できないのは表現の自由というものを理解していない政治家が政治介入を行って、図らずも「表現の不自由展」のパフォーマンスを河村名古屋市長が行動したという点である。

河村名古屋市長の問題点はこちらの記事に書いてある。興味ある方は参照されたい

■「日本人の心を傷つける」と称して表現の自由を踏みにじった河村名古屋市長と良識を保ち「権力の介入は憲法違反」と批判した愛知県知事
http://kyojiohno.hatenadiary.com/entry/2019/08/06/144114

今回の事態で救いは大村愛知県知事はまだ良識を持った人物だった点かもしれない

この件は一応表現者の端くれの私としては実に腹立たしい、到底容認できないものである。そしてその見解は私だけではないことをここに示そう

■「表現の自由」不要と言うに等しい 展示中止に危惧の声
https://www.asahi.com/articles/ASM8564C0M85UTFK00X.html

今回の事態は一部保守派の人間も懸念を示している

政府や行政に批判的な人でも納税している。政府や行政に従順、ないしは意向に沿ったものにしか拠出しないということは、決してあってはならない(自民党 武井俊輔衆院議員)

「検閲以外の何ものでもない。これでは公的な芸術祭には『政府万歳!』の作品しか出せなくなる」(自民党の別議員)

勿論他の表現者も声明を発表している

■「表現の不自由展・その後」の中止をめぐり日本漫画家協会が声明文 表現の自由の大切さ強調
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1908/06/news077.html

何もいう必要はない。

最後に『誰がために憲法はある』製作運動体の声明。以下そのまま掲載する。

「表現の不自由展・その後」の展示中止について

8月4日、『誰がために憲法はある』製作運動体(監督・井上淳一、製作・馬奈木厳太郎、配給・太秦株式会社)は、「表現の不自由展・その後」の展示中止を受けて、声明を発表しました。

Seimei

日本の表現の自由が本当に危機的状況だということがご理解できれば、と考える次第。このようなことが前例となって定着することを断じて容認できない。この記事に掲載した日本漫画家協会が声明文、映画、『誰がために憲法はある』製作運動体の声明を全面的に支持します。

 

 

8月 6, 2019 文化・芸術 | | コメント (0)

2019年1月24日 (木)

低予算で作るなんてまったく自慢にならないーそろそろコンテンツ制作現場の「ブラック化」をやめるべき

昨日はシンガーソングライター、女優、映画監督と多彩な月元映里さんの映画二本のスクリーニングがあり、見に行つた。

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今だからいうけど、実はこの映画の企画段階で制作の事務所(モデル事務所)に伺ったことがあり、そこでの印象は正直制作というものを全く理解していないどころか、寧ろ明らかに制作スタッフ馬鹿にしているところすらあった。確かに一部の芸能プロは自分たちは「キャスト」であって「スタッフクルー」はその下の存在だ、などと思い込んでいるところが少なくない。この事務所も例外ではない印象を持った</br>

誰が云ったのか知らんが「今映画は『タダ同然でできる』」なんてことを真に受けて、必要な経費を殆ど出さない状態で、しかも無謀なことに一気に三本も作るなんていうことを平気でやる事務所。「映画なんて簡単にできる」なんていう思っているとしか思えない行動で、制作工程をとことん愚弄しているのがわかる。普通映画制作なら当然かかる必要経費すら出さないで結果的に月元さんはかなりの額を自腹切って費用を捻出している。

一応スタッフクルーの端くれである自分はこういう扱いに腹立たしさを覚えたが、月元さんは驚くべき忍耐強さと情熱で海外で受賞できる映画に仕上げた。これがすごい、俺にはとてもできない。しかもハナから映像制作の工程など理解していない事務所だけに月元さんの苦労は生半可なものではなかったことが容易に想像できる。

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シンガーソングライター、女優、ボーカリスト、映画監督と実に多才な月元さん

今日本で「低予算で映画作る」なんてことを自慢する雰囲気がある。
「カメラを止めるな」もそういう低予算でクオリティの高い映画を作るのはデイレクター、映画監督の功、手腕を評価すべきであってプロデユーサーは寧ろ恥だと思わないといけないはずなんだが、日本ではそう考えるプロデユーサーが極めて少ない、
「300万で映画できるんだ、それで何十億の収益あがるよね?」といった柳の下のドジョウばかりを狙うという情けない発想しかしない始末。「いいものをつくる」のではなく「いかに安く作るか」なんてことしか考えない業界人があまりに多すぎる

本来なら月元さんのような低予算でこれだけの実績を上げるというのがいかに素晴らしいことか、そしてその苦労に報いるために少なくとも「普通の予算で」次回は映画を作る環境を作ってあげる、とかを考えるべきなのだが、実際の業界はその真逆な考え方しかしない人間が多く、その実態にただただ呆れるばかりだ。

ちなみに「タダ同然で作った」月元さんの映画がどれだけの実績を積んだが以下に示そう

映画 「虹の橋をかけぬけて」

受賞

・マドリッド国際映画祭
外国語映画 最優秀助演女優賞
(月元映里) 受賞

・モナコ国際映画祭
independent spirits award受賞 

ノミネート

・アムステルダム国際映画祭
・ミラノ国際映画祭、(複数ノミネート)
外国語映画
最優秀主演女優賞(藤木かおる)、
最優秀助演女優賞(月元映里)、
最優秀オリジナル脚本賞


・インド calcutta国際映画祭 finalist

・Los Angeles Film Awards Official selection
・Mediterranean film festival Cannes ノミネート上映
・ロンドン国際映画祭 現在ノミネート決定
(複数ノミネート)
最優秀 撮影賞
最優秀 編集賞

 

映画 「奇跡のクリスマス」

受賞

・インド calcutta international cult film festival
outstanding archievement award  受賞

・ニース国際映画祭 外国語映画
最優秀主演俳優賞(SADA) 受賞受賞
・New York Film Awards
ベスト新人監督賞  受賞
・Los Angeles Film Awards
2位 Honorable mention 賞   受賞

ノミネート

・マドリッド国際映画祭、
・アムステルダム国際映画祭、
・ミラノ国際映画祭(多数ノミネート)
外国語映画
最優秀監督賞、
最優秀作品賞、
最優秀オリジナル脚本賞、最優秀主演俳優賞(SADA)、
最優秀編集賞、
ベストビジュアルエフェクツ オア デザイン

よくこれだけ受賞やノミネートされたものである。まぐれではこんなことにはならない。あの状況で投げ出さずよくここまでのクオリティに仕上げた、と唯々脱帽、感心するしかない。月元映里という非凡な才能でないとできなかったことだ。

そして実際見た作品は想像以上にすばらしいできだった。

本来ならこれだけでとてつもない実績という認識になるはずだが救いがたいのは「タダ同然で作った」このモデル事務所はどうもこれらの受賞の価値を全く理解していないようなのだ。

豚に真珠とはこのこと。本来なら映画など作る資格などないところだといわざるを得ない

こういう状況を見て私はこういわずにいられない

こういうブラックな流れ、いい加減止めるべきではないか?

もっとはっきりいうと

低予算で映画作る、なんて何の自慢にもならない

ということだ。

かくしてキャストやスタッフクルーのギャラが日本は世界一安い国なのだ。とても先進国のギャランテイとはいえないレベルなのだ

何度も書いているように映像制作はどんどんグローバル化している。コンテンツ制作はもはや国内市場のみを前提として作る時代はとっくに終わっているのだ。

だからこそこんなことが普通に、当たり前のように行われている実態は恥である。低予算しか調達できないことを恥だとも思わないプロデユーサーはあえていうが、プロデユーサー失格である。

そして何よりもクリエイターやスタッフクルーを愚弄、はっきりいえば人間だと思っていないようなところにコンテンツ制作に関わって欲しくない、と思うのである

 

 

 

1月 24, 2019 文化・芸術 | | コメント (0)

2018年12月19日 (水)

クラシック曲=著作権がない=ということにはならない理由、映画やドラマで使用する場合はなるべく新録をお勧めする理由

以前から伝えられていたことだが、著作権の保護期間が権利者の没後70年にまでのびることが正式に決定した

■日本のレコード製作者/実演家も権利保護期間70年に延長へ。EUと協定
https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1158745.html

TPP11協定が日本国について効力を生ずる2018年12月30日から施行される。つまり12月30日から大晦日を含めて、一旦著作権が切れた以下の日本の作曲家の著作権が復活することになる、

山田耕筰 (1965年没) 中山晋平(1952年没) 早坂文雄(1955年没)etc

いわゆる第二次大戦敗戦規定(連合国側でなく枢軸国の国籍を持つ作曲家)で戦時加算されなかった、ドイツやイタリア、ハンガリー等の作曲家では

リヒャルトシュトラウス (1949年没) パウル ヒンデミット(1963年没)ゾルターン コダーイ(1967年没) etc

等の著作権は復活することになる

尚、「春の祭典」のストラビンスキーや「剣の舞」のハチャトリアンなどはいずれも1970年の死亡なのでまだ著作権は旧規定でも生きていますのでお間違いなく

クラシック音楽の主だった曲の多くが著作権が消滅している曲だが、ここで大きな誤解が生まれている。つまりクラシック曲の著作権が切れているからといってクラシック音楽の音源を好き勝手にどこにでも使っていいというわけではない。

著作権というのは確かにわかり辛いが、そうであるがゆえに大きな誤解が生じる

実は作家の著作権が消滅しても別の著作権がまだ生きていることが多い

それが著作隣接権というものである

著作隣接権とはひとことでいえば、音楽は小説や美術と違い著作である作曲行為を「演奏」という行為によって作品を再現する、というプロセスが必要である。

つまり作曲家の作品の楽譜を演奏する人には作曲家の作品とは別に権利が存在する、ということで近代にレコード等の普及によっていわゆる「演奏歌唱」が著作物として別に例示されることになった(だいたい1920年代くらいから)

つまりクラシック音源で作曲家の権利は消滅してもその曲を演奏した演奏家の権利はまだ存在しているのである。ここが分かり辛いところであろう。

そもそもこれはレコードという記録媒体の普及によって生まれた権利で実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約( International Convention for the Protection of Performers, Producers of Phonograms and Broadcasting Organizations:略称:実演家等保護条約、ローマ条約など)と許諾を得ないレコード複製からのレコード製作者の保護に関する条約に「著作隣接権」の協定が存在する

平たく言えば映画やドラマ、TV等の放送媒体でクラシック音楽を流そうと思っても「著作隣接権」の観点から許諾、ロイヤルテイを支払う必要性が出てくるということだ。クラシック音楽だからタダで使えるわけではないのである。ここの部分を誤解している人が非常に多い。

さらにもう1つ音源についてわかり辛いのは、音楽における原盤権の存在である。

原盤権著作権はよく混同されるが両者は全く別の権利である。両者を分かりやすくわけると次のようになる

・著作権ー著作物に対する作家、(隣接権の場合は演奏家)に関する権利で原則これは個人のクリエイター、パフォーマーがもっているもの。音楽出版社が代理として管理する場合も多い

・原盤権ー 音源に関する権利でやや著作隣接権と似ているために余計に混同されるが、制作した音源が許諾なく別の業者が販売できないための権利である、原則レコード会社、出版社等の法人がもつ。原盤権はその音源を制作費を出したところが原則持つことになる(契約その他の都合で変わる場合もある)

このように多くの場合クラシック音源は例え著作者である作曲家の著作権が消滅しても著作隣接権や原盤権が存在している場合が殆どであり、使用する場合は必ず使用料、ロイヤルテイが存在する、ということは覚えておいた方がいいと思う。

よく映画音楽制作でバジェットがないからクラシック音源を使うとかいう話があるが、上記の通りタダでは使えない。

基本的に無料の著作権フリー音源でもない限りタダで音源を使えるということはありえない、

そのため、映画にあるクラシック音源を使いたい、という場合は2つの選択しかないのだ

(1)  使う音源の権利者に使用料を支払う
(2)  新たにクラシック音源を録音する

経験上、多くの場合後者の方が安上がりである。前者の場合手続きが面倒だし、許諾がおりるのに時間がかかる場合が多い。隣接権フリーのlクラシック音源のNAXOSという業者もいるが沢山の曲を使うことを考えたら、経験上映画のために新録した方がいい、(この場合あ勿論著作権料は発生しない)

映画音楽制作ではクラシック音源を使う、という話がよくあるのでそれを検討している監督さんはなるべく新録される方をおすすめする、トータル的にはその方が安上がりである、


12月 19, 2018 文化・芸術 | | コメント (0)

2018年8月25日 (土)

「カメラを止めるな」権利騒動ー日本全体の知財保護の意識と体制構築の必要性を叫ぶ

カメラを止めるな!!」に関する著作権、原作か原案かとかでウエブやソーシャルネットで原作者の和田氏をデイスったりというのが相変わらず続いたりしていますし、和田氏と「カメ止め」側の対立を煽ったり、和田氏が「カメ止め」の舞台版の権利を主張したり、としかどうも議論があさっての方向にしかいっていないのが気になっています。

実はこの事件で問題になっているのは「売れたから出てきた」とか「最初は絶賛していたくせに売れたら原作者を主張し始めた」とか和田氏の動向ばかり注目されていますが、以前の記事にも書きましたが和田氏の行動内容は問題の本質では全くないということです

実は昨日とある飲み会でとあるENBUで講師をしていらっしゃる方で内情もよくご存じの方と話をして大まかではあるものの内情をしることができました

結論からいいましてこの騒動で何が問題かというとこれは知財の扱いがあまりに稚拙だったことが原因であり、これは「カメ止め」云々ではなく、日本という国全体が知財に対する認識があまりに低すぎることが問題なのです

そもそもこの「カメラを止めるな」は専門学校ENBUが定期的にワークショップをかねて作っている映画で今回はその七回目に当たるそうです。そして主要役者が15万ずつだしあって(当然これは出資者にあたりますから今回のお金を出した出演俳優は映画収益から出資した応分に利益分配を受ける権利があります)作った単なる自主映画として作られ、映画もせいぜい小さな映画館のレイトショーで一週間くらい公開されればいい、くらいのつもりで作られたものでした。過去の6回の作品に関しては殆どそれで終わっているようです

しかし今回は本当に「想定外」に受けました。劇場では満席、立ち見続出、みるみるうちに公開劇場が拡大、という単なる自主映画が本当に「想定外」な展開になりました。そしてついに単なる「自主映画」だったものがシネコンで劇場公開(しかもここでも満席続出!!) これは日本の映画にとって革命的にすごいことではあり、既存の映画界の常識を復すものでした。しかし極めて残念ながらここにボタンの掛け違いが生じてしまいました。

私的には少なくともこの段階で「カメラを止めるな!!」は知財の専門家を入れるべきだった、と考えます。原作だ原案だ、とか著作権とかいった問題を解決する知財の専門家です。欧米、ハリウッドの映画ですとたいていの場合劇場公開の際にこういった専門家が出てきて、関係者に対する契約書を作ります。それをスタッフキャストの代理人を務める各エージェントと交渉して妥結するというしくみです。海外のエンタインメントの役者、クリエイターに弁護士の資格をもったエージェントが必要なのはこのためです。

つまりシネコン拡大時に知財の専門家をENBU側として入れて、利益の分配を含め関係者の権利の詳細確認という作業を行うべきだったのにそれを怠った、先程の関係者の話ではその必要性すら理解していなかった模様です、(どうも今現在ENBUのプロデユーサーの方があまり事態の深刻さを理解していない感じです) 先日のENBU側のコメントも正直いっていただけません。企業や行政の不祥事の時のコメントと何ら変わりません。(そもそも全くの別物と認識で進めてきた時点で敬意を欠いていたと考えるべき。何よりも残念なのは今回の件の一連の対応で原作者への敬意が微塵も感じられないことが残念です)

それにしてもネットを中心に和田氏が「カメ止め」の舞台版をやりたい云々とかがあさっての方向に議論がいっており、これらは問題の本質の理解を歪めるばかりか事態の正確な把握をかえって難しくしてしまいます。和田氏がどういうつもりか、とか金がいるのかいらないのか、という話はどうでもいい話で、問題は今回の知的財産に対する扱い方が果たして正しかったのか、ということが最大の問題であり、未来の日本のコンテンツ産業にとって重要だということです。

正直日本でもクリエイターに発注する際に「権利買い取り」(それもスズメの涙程度の金額で)というのがメジャーシーンですら当たり前のように横行しているのが現状、(そもそも総務省を始め行政ですら「権利買い取り」を推奨している始末)ですが、本来は「権利買い取り」などあってはならないのです。

そのクリエイターの権利を守るために知財の専門家のエージェントがクリエイターの代理人となっていることが海外では当たり前になっており、映画制作を始めコンテンツがグローバル化していく現在、日本国内でも早急にその体制を構築することが急務だと考えます

今回もENBU側に知財保護としてやるべきことさえやっていれば話がこんなことにはならなかったと考えます。残念ながらこの対応の仕方には問題が多々あったといわざるを得ません。(、以前の記事にも書いてあるように和田氏は最初から「原案者」としてクレジットされており、映画の企画以前から接触がある。「売れたから急に出てきた」わけではありません)。救いは上田監督は解決の方向で動く、と明言しており、その方向で上田監督主導で円満に事態が解決していくことを期待しています

 

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尚、どうもFlashを始め週刊誌は明らかに上田監督側と和田氏との対立をあおるような論調が多い傾向があるし、和田氏がどういうつもりか、なんていう(デマも含めて)情報は問題の本質の理解を阻害するものなので私としてはスルーすることをおすすめします

 

 

 

 

 

 

 

8月 25, 2018 文化・芸術 | | コメント (0)

2018年6月17日 (日)

パルムドール受賞是枝監督の「公権力から距離を保つ」発言批判に見る日本社会の国家主義化と文化芸術のあり方の無理解にふれ

もう既にソーシャルネットその他で是枝裕和監督の「万引家族」のフランスカンヌ映画祭のグランプリにあたる「パルムドール受賞」に対して安倍政権がそれほど積極的に称賛していない(少なくともフィギュアスケートの羽生選手に対する「国民栄誉賞」などとくらべると明らかに態度が違う)というフランスの『フィガロ紙』の記事等が伝わっているので今さらという人すらいるのではないだろうか?

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■カンヌ受賞の是枝裕和監督を祝福しない安倍首相を、フランスの保守系有力紙が痛烈に批判
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%8C%E5%8F%97%E8%B3%9E%E3%81%AE%E6%98%AF%E6%9E%9D%E8%A3%95%E5%92%8C%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%82%92%E7%A5%9D%E7%A6%8F%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E5%AE%89%E5%80%8D%E9%A6%96%E7%9B%B8%E3%82%92%E3%80%81%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%BF%9D%E5%AE%88%E7%B3%BB%E6%9C%89%E5%8A%9B%E7%B4%99%E3%81%8C%E7%97%9B%E7%83%88%E3%81%AB%E6%89%B9%E5%88%A4/ar-AAy3v97

このような風潮に対し林大臣は「『万引き家族』がパルムドールを受賞したことは誠に喜ばしく、世界的にも高い評価を受けたことは誇らしい。来てもらえるかわからないが、是枝監督への呼びかけを私からしたい」と、回答。この政府が表明した「祝意」について、是枝監督はブログで

実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。

この発言に対し、いわゆる保守派論客からネトウヨ、安倍政権支持者等から一斉に批判が巻き起こったのは周知のとおり

その保守派、ネトウヨあたりから聞こえる批判を見てあまりのレベルの低さに呆れるのだが、やはり一向にこの騒ぎが収まらない様子なので当ブログでもひとこといわせていただく

まずもっとも多い批判

・「公権力とは距離を保つと言いながら助成金はもらうのか。それは筋が通らない」映画は「日本芸術文化振興会」という国から独立した独立行政法人による助成であり「公権力」に金を出してもらったという認識は誤り

まず文化芸術振興のための助成金があるのは事実だが、根本的な誤解としてこれは国の制度ではあるものの「政府」や「公権力」の金ではない

知らない人もいるが文化庁には「日本映画製作への支援に関する募集」を毎年行っており文化庁の厳密な審査の上で支援が決定される。さてここで支援を行うのは少なくとも形の上では「文部科学省」でも「文化庁」でもない。

独立行政法人「日本芸術文化振興会」である。もう一度いう、独立行政法人である。つまり国からは独立した一行政法人に過ぎない。

独立行政法人 日本芸術文化振興会

しかもこれから先が大事なところだが、日本芸術文化振興会は100%国の予算で運営されているわけではない。国の助成予算も相当数あるのは事実だが、それ以外に寄付金、国立劇場の入場料収入、広告収入等によって運営されている。

http://www.ntj.jac.go.jp/assets/files/about/document/yearbudget29.pdf

だからそもそも「日本芸術文化振興会」による助成金を受けたからと言って「公権力」から助成を受けたという認識はそもそも正しくない。

なのにあたかも林文部相や安部首相のポケットマネーから助成されたくせに、などといった勘違いコメントがあまりに多すぎる。日本人としての文化助成の権利であると「日本国の制度」を利用しているだけで、その制度を利用することと「現在の政権からの政治的アピールによる表彰」は全く別物なのだが、その差が理解できない人間が多いということだろう

第二の批判内容

・「国の制度を使ったのに公権力を批判するのはおかしい」「フランス政府が始めたカンヌ映画祭のパルムドールと文化庁からの助成金を返納しないと理屈が合わない」そもそも是枝監督は祝意を辞退するにあたっての理由を述べただけで国との対決姿勢を示したわけではない、「パルムドール受賞」で十分に助成金に見合う貢献をしている

最近の日本がおかしいと思うのは「権力に距離を置く」とか「権力に対する批判」をしただけで過剰反応する自称文化人、論客が非常に多いことだ。、

上記でものべたように是枝監督は祝意を辞退するにあたっての理由を述べただけであり、公権力との対決姿勢を打ち出した訳ではないし、そもそも助成金を貰ったら国におもねらなきゃいけない、なんて思考の方がおかしい。海外では助成を受けた受けないに関係なく表現の自由という観点から、社会、国、その他の者に対して批判的見解を入れることは寧ろ当然であるという認識の方が常識である。当たり前である。なぜなら文化であり芸術だからだ。

寧ろ独立行政法人の助成で制作した作品が、日本のパルムドール作品として世界に知れ渡った時点で、助成金分を超える成果貢献しているわけで、それだけで十分に助成金に見合う結果を出しているのだ。なぜ公権力に媚びる必要があるだろう?

国の助成(くどいようだが直接は独立行政法人からの助成である)を受けたから国に媚びを売った作品にするのが当然だ、などという考え方自体が文化、芸術に対していかに無理解であるかということを自らの言動で証明しているのと同じである。

はっきりいってそんなこともわからん輩が文化人面してえらそうに発言する昨今の風潮の方がよっぽど危険である。(そしてそういう発言を礼賛するネトウヨ系、保守系も同様だ)

それでは是枝監督に対して批判をやめようとしない保守系論客に聞きたいのだが、もし次のような場合はあなただったらどうする?

奨学金をもらっている日大の学生がいたとして、監督の命令で危険なプレーを強制的にやったあとこの学生は日大の監督を批判して全ての真実を記者会見説明した。

あなたはこの場合「奨学金もらっているくせに監督にたてつくのか?」とこの学生を批判するだろうか?

日大に対するあれだけ批判がおきたがあの当事者の学生が仮に奨学金をもらう奨学生だったとしたらそれに対して学生を叩く自称文化人は結構いるだろうか?是枝監督への批判をやめようとしない保守系論客を見るとたぶん彼らの批判の矛先は日大ではなくその学生に向いたかもしれない、と思ってしまう。

「学校の制度」を利用しているのだから、なんでも学校のいうことに盲従するのが当然だ、というロジックを彼らなら摘要するだろう

最近の日本の風潮に少しでも権力にたいして批判する姿勢をしめすと過剰にその当事者を批判する動きが目立つ、ネトウヨの社会への悪影響もあるのだろうが日本の言論界にも国家主義的な風潮が蔓延していることに大きな危機感を覚える

何よりもここには「公権力=お上」という観点から政府が上の立場であって、国民はそれに従うのは当然だ、というロジックが見え隠れする。トップダウンで下の立場の人間が上に従順になるのは当たり前だ、そういうロジックで政治行政を行っているとしか思えない人物が少なくないし、それに迎合する「文化人」とか呼ばれる人種が最近急増している。

だがそれが民主主義=国民主権という基本理念とは真逆の考え方である、最近のネット論客、保守系論客や自称文化人を見るとこのロジックを決定的に理解していない部分を感じざるを得ない。

困ったことにそういう「国民主権」を無下に平気で否定する人物が政治家に少なくないのも事実で、とりわけ安倍政権になってとりわけその傾向が顕著になっている。日本は民主主義のはずであり、主権は国民にある。そのことを理解しない政治家、文化人、論客が多すぎる

それが文化芸術に対する無理解、とも相まって是枝監督に対する批判につながったという背景があると思う。あえていうが日本社会の文化芸術のレベルの低さをこの騒動は露呈してしまったといっていい。とても残念ではあるが..

 

 

6月 17, 2018 文化・芸術 | | コメント (0)

2018年3月28日 (水)

音楽も映像も復活するのはもはやグローバル化しかない

昨日の記事で日本とアメリカを始めとする海外の映画制作費の違いについて述べた。世界第三の経済大国である日本が映画制作では世界でも最低レベルのバジェットしかない、というこの現実について述べたが

■制作現場や実態を何も知らない奴が映画や音楽の制作費の少なさを嘆く関係者を叩くな!!
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2018/03/post-f47c.html

しかし実はどうすればこれを解決できるかというのは実ははっきりしている。

日本の制作予算がこんなに低い原因は

日本の音楽業界も映画業界も国内市場しか見ていない

からでそのための解決方法は                        

           ↓ ↓
   制作のグローバル化を推進する

これしかない。 小学生でもわかる解決方法だと思う

このブログでも映画制作に関して現在急速なグローバル化が推進されている点は既に言及しているが、グローバル化の進み方は私の想像すら超えるスピードで動いている。この動きはもはや誰にも止められないであろう。

グローバル化に比較的消極的といわれる音楽業界もメジャーではなくインデイースの分野だが実は大きく進行している。世界各地のインディーズレーベルを代表する音楽業界団体「Merlin」が展開され、その中に日本のインデイースレーベルの団体IMCJ (Independent Music Coalition of Japan)が加盟していることが発表された。

■「インディーズレーベル新時代は既に始まっている」音楽ストリーミングとコンテンツ輸出で急成長する「Merlin」が注力する海外展開
http://jaykogami.com/2018/03/15057.html

■New Industry Group for Indie Artists Formed in Japan
https://www.billboard.com/articles/business/8257428/japan-independent-music-coalition-indie-artists-group

日本のメジャーレコードの思考の硬直化は以前から述べているが、メジャーがもたもたしている間に最先端のインデイースレーベルは確実にグローバル化の方向で動いている

映画でもネットフリックスが日本アニメ「デビルマン」を制作、全世界に配信を開始し、私の知り合いの役者多数が出演しているネットフリック制作のジャンレト主演のヤクザ映画"The Outsider"を制作、配信する等、グローバルのアニメ、映画制作が進行している、アマゾンも同じ動きを示しているし、ハリウッド全般もアメリカ以外の合作をどんどん推進している。この流れをみると映画制作にもはや国境はないといってもよい

但し、音楽も映画、映像もグローバル化するとはいってもそこには大きな障害がある。そのため日本の音楽産業、映画産業の本格的なグローバル化に進むには大きなハードルを越えなくてはならない

大きくわけると以下の二点

1.制作者、出演者、が「国内向けー内向き」の制作に慣れ過ぎてしまい、グローバルなコンテンツ制作についての意識を持って行くことは容易ではないこと

これは云ってみれば幕末の日本人の意識と同じで、長い間「鎖国」の中にあった日本の制作者、出演者が「全世界の市場」を意識しながら映像コンテンツ制作を行わなければならない、という時代に入ったということだ。これは必然的に「今までの経験則」が通用しなくなることを意味する。制作される作品は「全世界に配信」されることを前提として制作に励まなければならないし、制作現場に外国人との共同作業が当たり前のようになってくる。「日本的な慣習」というものに固執すると制作現場がうまくまわらない場合が多々出てくることを意識しなければならない

2.音楽、芸能界のシステムが外国からみると「ガラパゴス」な点

おそらくこれがもっとも大きな問題ではないだろうかと思う。

ご存じの通りハリウッドを始めとする海外は全てエージェント制を敷いている。アーチストとエージェントは1対1の同等な立場であり、その分アーチストも自立した意識を持たなければならない。

一方日本は音事協を中心とした「芸能プロダクション」の体制で、いってみれば芸能人は「会社に就職する」という感覚に近い。時折芸能人と芸能事務所のやや「浪花節」的な関係(なぁなぁな関係といってもいい)もあったりするので、その意味でハリウッドが敷いている「エージェント制」とは相いれない部分がある。

また芸能人の契約には問題が多々ある。NHKドラマ「あまちゃん」で人気となったのんさんが独立の際にトラブルとなったケースなどは記憶に新しいが、芸能タレントが所属の事務所を辞める際に、他の所属先と契約を結べない等昔からある芸能界の契約慣行を問題視する動きが出ている。

■芸能人らの移籍制限「違法の恐れ」 公取委、見解公表へ
https://www.asahi.com/articles/ASL1L7V2KL1LUTIL054.html4

スポーツ選手や芸能タレントなどフリーランスの働き方をする人に対して、不当な移籍制限などを一方的に課すことは、独占禁止法違反にあたる恐れがあると、公正取引委員会の有識者会議が示す方針を固めたことがわかった。公取委は2月にも結論を公表し、適切な人材獲得競争を促す。(朝日新聞)

もう3月に入っているが今日現在公取から正式な最終結論は出ていないが、この見解通りに正式違法認定されれば殆どの芸能人の契約が違法となる。正式な結論はまだ出ていないが、これだけ大々的に公取が発表した見解が最終結論で真逆になる、というのは考えにくい

決定されれば事実上音事協の崩壊を意味することになり、その時こそ日本のショウビズのガラパゴスが終焉することになるが、果たしてどうなることであろう?

いずれにせよ1つだけはっきりいえることがある。それは

音楽も映像も産業として復活するにはグローバル化しかない

という点である。そしてそれは着々と進んでいくであろう

 

 

3月 28, 2018 文化・芸術 | | コメント (0)

2018年3月 6日 (火)

JASRACの音楽教室からの徴収前倒しで容認ー天下り癒着と三権分立を無視した暴挙ー請求が来た音楽教室は絶対に支払には応じないで下さい

一昨日の記事の続きになるが「音楽教育を守る会」の齋藤事務局長とも連絡を取り合い昨日文化庁内で行われる
文化審議会著作権分科会において音楽教室への徴収前倒し容認について審議される、との情報があった。
http://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1401785.html

 

そしてこの記事

 

■著作権料徴収認める答申=JASRACに音楽教室から―文化審
http://sp.m.jiji.com/generalnews/article/genre/social/id/1976724

答申は、同法で使用料規定は届け出制になっており、裁定制度で個別の利用に著作権が及ぶか否かは判断できないと指摘。裁定による徴収保留は予定していないとし、長官が裁定をした日から徴収可能とした。

 ただ、JASRACに対し、徴収に応じない音楽教室には司法判断確定まで督促をしないなど、社会的混乱を回避する措置を取るよう求めた。
 

 

確かに文化庁長官の最終裁定はおりていないものの、通常これjは答申どおりに長官の裁定が降りるのが通例なので、事実上これで裁判係争中であるにも関わらず音楽教室に対する請求を行うことが事実上可能になった

 

私は高級官僚のいかなる形での天下りに反対するのが持論だが、それはこういった官僚と関連団体の癒着を呼ぶからであり、今回のこのケースはまさにその典型といえる。

 

JASRACと文化庁の間でどのような「裏取引」があったか知らないが、間違いなく天下りがらみで今回の答申が行われたとみるべきだろう

 

この裁定には2つ大きな問題がある

 

1、「音楽教育を守る会」及びその他の音楽教室の著作権の演奏権に関する支払い請求をしないよう行政指導の申し入れがあったにも関わらず、その申し入れを事実上無視する答申を出したこと→ 重大な背信行為 道義的問題

 

2.裁判係争中であるにも関わらず著作権演奏権の請求を事実上強行すること 三権分立を事実上否定する暴挙

 

齋藤事務局長も「徴収の是非が判断されず、裁判係争中にこのような答申がでることは大変残念」とコメント

 

裁判の口頭弁論ではJASRAC側に司法の判断を待たずに請求を強行する暴挙を徹底的に糾弾すべきであろう。また全国の音楽教室もこのような姑息な手段を取るJASRACに対して抗議の声をあげて欲しい。音楽文化の明日を守るためにも是非皆さんの力が欲しい

 

一点だけ全国の音楽教室に申し上げたいのは

 

仮にJASRACから著作演奏権の支払いの請求が来ても少なくとも裁判が結審するまでは決して支払に応じないでいただきたい。

 

例え1つの音楽教室が請求に対して支払ってもそれはJASRACにとって「既成事実」となり裁判に悪影響を与えることになる。これこそがJASRACの狙いである。

 

裁判に勝つためには手段を選ばないJASRAC  今回のような姑息な手段に屈してはならない

 

 

 

 

3月 6, 2018 文化・芸術経済・政治・国際音楽16-23 | | コメント (0)

2018年2月 6日 (火)

ハリウッドの「セクハラ騒動」以降、おかしなフェミニズムが台頭し芸術論にも波及ーそれに対しマンチェスター市立美術館が「捨て身」の対抗策

ご存じの通りハリウッドのプロデユーサーによる「セクハラ事件」でゴールデングローブやグラミー等で欧米のシンガー、女優たちによる「セクハラに対する反対運動」のパフォーマンスが随所で見られた

そのことに対しては私は反対するものではない

だが最近はこれがエスカレートしていき明らかに行き過ぎのレベルにまで発展していっている。例えばメトロポリタン美術館に展示されている「バルテュスの少女画」は猥褻だから撤去すべきだ、などという運動が起きている。

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■芸術か、わいせつか論議 NY、バルテュスの少女画
http://www.sankei.com/world/news/171225/wor1712250030-n1.html

勿論メトロポリタン美術館はこれを拒否している。例によって実にバカバカしい議論である

さらに最近F1の商業権を獲得したリバティメディア社は「長きにわたってグリッドガールはF1の一部であったが、この慣習は我々のブランド価値にそぐわず、明らかに現在の社会的規範から外れている。F1とそのファンにとって適切で妥当なものではないと思う」(F1商業面マネージングディレクター、ショーン・ブラッチス)と表明した。

■『F1グリッドガール廃止』で騒然。改めて知っておきたいグリッドガールとレースクイーンの文化
https://www.as-web.jp/supergt/266415?all

一部の性差別廃止論者から廃止すべきとの主張があったためといわれる

尚、日本の大半のメデイアはこれを「レースクイーン廃止」と報じているようだが、レースクイーンは和製英語でありF1には公式には存在しないためこの報道は正確ではない。グリッドガールはレースクイーンのように水着等の露出も少なく、大会主催者やサーキットがおそろいのきちんとした衣装でレース場にいる。(写真) 

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これに関してイギリスの女性スポーツ保護団体Women’s Sport Trustは「明白な決断を下してくれたことに感謝している」と表明しており、各フェミニズム団体も歓迎しているという。

だがこの見解が本当に世の中の大多数の女性の考え方だろうか?

私は違うと思う

そもそもグリッドガールを女性差別とか女性蔑視と決めつける事はグリッドガールをやった女性たちすべてを侮辱しているのと同じである。そして当の日本独特の「レースクイーン」は元よりグリッドガールをやった女の子たちから「自分たちは差別された」などと発言したのは聞いたことがない。

また仮に日本のような露出の多いいわゆる「レースクイーン」の場合でも彼女たちの美しさを讃えレースイベントに花をそえているのであり、その行為の一体どこが女性蔑視、女性差別なのか理解に苦しむ。寧ろ彼女たちの美貌を讃えているのであって、彼女たちを「道具」にしているわけではない。

何かこういうのって昔「ミスコンは女性蔑視だ」などと大騒ぎしたバカなおばさん連中と本質的に変わらない気がする。誤ったフェミニズムは当の女性から支持を失って運動が衰退していった過去の歴史をもう少し直視すべきだ。実際こういう運動は女性の大多数から見放されて尻すぼみになったではないか。

そして先ほどの「バルテュスの少女画」の猥褻論とは別にイギリスのマンチェスター市立美術館が、 J. W. ウォーターハウスの《ヒュラスとニンフたち》(1896)の一時的な撤去に乗り出した。

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この美術の猥褻論にしても先程のグリッドガールの件でも私がいつも違和感を感じるのはおそらく以下の部分を大きく取り違えている点だ

1.女性の裸体=性的対象、猥褻と短絡的にむすびつけること

2.女性らしさ=女性差別や蔑視と短絡的にむすびつける

この2点ではないだろうか?

これを言い出したらビーナスを描いたルネッサンスの絵が全て裸の女性ということで猥褻になるのか、という話だ。お堅い古典派の作風でしられるアングルの裸婦など全て猥褻になってしまうではないか。

実は今回《ヒュラスとニンフたち》の撤去はある意図がある。美術館側の文言をみると

女性を「受動的な着飾り」や「ファム・ファタル」とする「非常に時代遅れ」な表現であると当該学芸員クレア・ギャナウェイにより注意書きがなされていた。今回同館は、セクシュアリティな表現を公共の場において飾るべきか否かが議論される現代において、「裸の少女たち」が描かれた同絵画は人々に討論を促す作品のひとつであるとして撤去に乗り出した。

同美術館は「ヴィクトリア的幻想に打ち勝とう!」の文言をブログ上に投稿し、非難を一蹴。ギャナウェイは「この撤去はけっして強制的な圧力で作品の自由な鑑賞を制限するものではない」「現在美術館は、ジェンダー、人種、そしてそれにまつわる表現について複雑な問題を抱えていおり、私たちはその問題について、積極的に議論したいと考えている」としている。

 また同時に、この決定は昨今活発化している「MeToo」や「Time’s up」運動の影響も大きいと語り、議論活発化のために美術館の来訪者に対して、同作品が飾られていたスペースに自らの意見を書いたポストイットを貼り付けるように促しているが、その多くが非難の声となっている。またツイッター上では、セクハラや性差別に対しての抗議運動の要素を都合良く利用した、単なる独善的行為だとの指摘も多く見られる。

これらは一見グリッドガールの件のような「偏ったフェミニズムー過剰なフェミニズム」に基づいた行動のように見えるが、よく見るとそうではないことがわかってくる。

これは、#MeeToo 的「過剰フェミニズム」によってもたらされるかもしれない未来を疑似体験することで、もう一度芸術表現についての思考を世界に喚起する。ということがどうやら目的のアートプロジェクトのようなのだ。

自らに非難殺到させることで、芸術におけるヌードは猥褻ではない!という世界的オピニオンを誘発し形成するといういわば「捨て身」の猥褻論に対する対抗策ということもできる。

実際、美術館はわざと美術の猥褻論に対する否定的な見解を寧ろ煽るような発言をしている。言ってみれば「確信犯」的にソーシャルメデイアで「炎上」させている、といういわばアートパフォーマンスなのかもしれない

それによって上記の《ヒュラスとニンフたち》とか上記の「バルテュスの少女画」猥褻論が実に陳腐に見えてくる。それこそがマンチェスター市立美術館の意図なのかもしれない。

過去フェミニズム運動、少し古いが「ウーマンリブ」運動なるものが、結果的に過剰で偏った方向に動いたために結局当の女性から支持を失い運動が下火になる。過去のフェミニズム運動はそれの繰り返しではないのか。

上記の芸術猥褻論やグリッドガールを廃止させて喜んでいる状況を見ると過去の教訓からフェミニズム運動をしている人たちは何も学んでいないように見える。共通するのは上記述べた次の二点に対して大きな意味の取り違えをしているからである

1.女性の裸体=性的対象、猥褻と短絡的にむすびつけること

2.女性らしさ=女性差別や蔑視と短絡的にむすびつける

過剰な偏ったフェミニズムはかえって女性の声を結果的につぶすことになってしまう。某ハリウッドプロデユーサーのように自分の立場を利用して女性に性的関係を強要するのは言語道断だが、それと女性の美しさを讃え、あえていうが妖艶さを愛でる行為は全く別のはずである。

そこを混同してはならない


2月 6, 2018 文化・芸術 | | コメント (0)

2017年2月 9日 (木)

David Bowie is himeself (デビッドボウイ展) 見に行きました

正直決してアクセスがいいところではないのでなかなか行けなかったんですが、ようやく天王洲アイルの寺田倉庫内での「デビッドボウイ展ーDavid Bowie is himeself」を見に行きました。

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Davidの衣装の多くをデザインした山本寛斎のデザインした掲示板で来場者の多くが「寄せ書き」をしていました。

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会場内は勿論撮影はできませんので、撮影はここまでとなります。これ以降の写真は"David Bowie is himself"の公式サイトから借用しました。著作権、肖像権は"David Bowie is himself"にあります

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昨年の初め、ちょうど一年前のあの衝撃的な訃報から、いまだにその死を受け入れることができなくなっているほどアーチストDavid Bowie の存在はあまりにも大きいものでした。そしてこのExhibitionにて私たちが失ったものの大きさを改めて知ることにもなりました。

デビッドボウイー本名 David Robert Haywood Jones,は単にロックミュージシャンだけではなく、デビッドボウイというカルチャーそのものということができると思います。音楽だけでなく映像、アート、パフォーマンス、俳優としてこれほどの幅広い影響を与えたアーチストはいなかったと思います。このExhibitionではデビッドボウイの業績を見て改めていかにすごいアーチストであったかを実感することができると思います。

会場はデビッドボウイのミュージックビデオは勿論のこと、ツアーや映像等で着用した衣装が展示されていました、(写真は公式サイトから) 音楽もデビュー当時の「デイビージョーンズ」時代の曲から最後の作品の「ブラックスター(当ブログでもレビューがあります)」を聴くことができます。

デビッドの本名 David Robert Haywood Jones,から初期の「デイビージョーンズ」ですが、我々がよく知っている「デビッドボウイ」という芸名を使ったのは1966年とデビッドが19歳の時、同じ歌手で別人のデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから変えたといわれています。ボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイナイフから取られたそうです。

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この衣装は昨年のグラミーでデビッドボウイ追悼ステージでレデイガガが着用していました。デザインは勿論山本寛斎さんのものです

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会場ではめったに見られない展示物も展示していました。デビッドボウイが描いた絵画です。写真は三島由紀夫をデビッドが描いたものです

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会場ではデビッドボウイの出演した映画からの抜粋も上映されていました。その中でデビュー当時でまだ無名時代に出演した短編映画"The Image"も上映されていました。ここでしか見られない貴重な映像です。

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音楽だけでなく、アート、映画、映像、パフォーマンス、このExhibitionを見てさまざまな面で改めて偉大さを実感した次第

ちなみに私はりんかい線の「天王洲アイル」駅から会場の寺田倉庫まで来ましたが、りんかい線の「天王洲アイル」駅に貼ってあるポスターの写真をスマホ等で写真を取り、チケットを会場のインフォメーションに見せますと

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Exhibitionのオリジナルステッカーをもらうことができます

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いいお土産になるんじゃないでしょうか? (^^)

4月9日までやっています。チケットはこちらで買うことができます。

http://davidbowieis.jp/tickets/


2月 9, 2017 文化・芸術 | | コメント (0)

2016年10月14日 (金)

ボブデイラン ノーベル賞受賞についてどう考えるか

毎年10月になるとノーベル賞の発表が行われる、今年も医学、生理学賞で日本の大隅良典東京工業大学教授が受賞する等の話題だった。そして毎年のように文学賞では村上春樹が受賞するのではないか、といわれていたが今年も受賞できなかった。

その文学賞になんとボブデイランが選ばれた。

■ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞
http://amass.jp/79450/

音楽文化に携わる私でもさすがにこれには驚いた。小説、詩、随筆等ではなくミュージシャンが選ばれたのである。

この受賞に関して当のボブデイランはノーコメントを貫き通しているが、スウェーデンのストックホルムにある選考委員会のダニウス事務局長によると

「選択は予想外に思えるかもしれないが、もし長い時を振り返ると、ホメロスとサッフォーが見えるでしょう。彼らは、音楽のもと、もしくは劇場の中演じられる必要のあった詩的テキストを書いていた。これは、ボブ・ディラン氏の場合も同様だ。我々はだって、今に至るまでホメロスとサッフォーを読み、私達にはそれが気に入っている。我々はディランを読めるし、読まないといけない」

スイス・アカデミーは「偉大な米国の歌の伝統の中で新たな詩的表現を作ってきた」として、ボブ・ディラン氏をノーベル文学賞受賞者に選考したらしいが、これはどう考えればいいだろうか?

ひとことでいえば歌詞の内容を文学のと同等に扱うようになった、ということじゃないか?と思う。

以前から歌のと文学でいうは違う、と私も云っていた。実際作り方がかなり違う

しかしどちらも言葉を使った上での表現、レトリックであることに変わりはない。歌詞はメロデイに乗せて歌われることを前提としている。詩の中には歌詞にされる場合もないわけではないが、一般に特定のメロデイに合わせて作ることを想定していない

今回のボブデイランのノーベル賞受賞はメロデイに乗せる歌詞も文学の一分野である、ということを明確に認めた、といえるのではないだろうか?

いずれにせよ音楽文化、そして音楽家にとって喜ばしい受賞であることに変わりはない

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10月 14, 2016 文化・芸術 | | コメント (0)

2016年10月 2日 (日)

ボランテイア、ノーギャラで出演(演奏)していいケースー実はいわれているほど多くはない

先日の記事において俳優やアーチスト、演奏家、プロフェッショナルに対するブラックな求人広告、あるいは強制ボランテイア、ノーギャラで出演(演奏)するケースがいまだ頻発している点について述べた。こうしたケースは全く減るどころか寧ろ内容的に酷くなってきている印象がある。

私は演奏家として、クリエーターとしてボランテイアのありかたを決して否定するものではない。実際セプテンバーコンサートなどでボランテイアの演奏も行っている。

出演の中には「お金以外のメリット」が得られる場合がある、という人がいる。確かにそういう場合はないとはいわない。しかし最近その「お金以外のメリットがある」という点だけが一人歩きし、一部の人間に悪用されている傾向すら感じるのだ。映画出演でもどこかのイベントスペースでも当たり前のようにノーギャラ出演を要求することが頻発している。

だが「お金以外のメリット」が得られる場合というのは実はそんなに多くはないのだ。

例えば予算がないという理由で俳優に映画にノーギャラで出演するケースだが、「お金以外のメリット」が得られる場合というのはどのような場合か。考えられるケースをまとめてみよう。ノーギャラで出演していい場合だ

1.その映画が世界有数の映画祭等で入選、入賞する、あるいは劇場公開される等、出演した俳優、女優にとって「大きな実績」になる場合

こんな作品ははっきりいってそんなに多くはない。そのためノーギャラで出演を頼まれた場合は脚本やその監督の力量、将来性等をよく吟味する必要がある。はっきりいって「これは!」という作品はそんなにあるものではない

2.その映画が社会的、福祉的、(場合によっては政治的)テーマがあり、その映画の出演によって出演者自身の社会に対するメッセージを発信できるケース

これは出演者自身がかなり社会に対して強いメッセージを発したいという場合に限る

3.映画の主旨、映画のスタッフとの強い信頼関係があることを前提に「面白い作品」を作るためにノーギャラで出演する

当たり前だがこの場合映画のスタッフ、プロデユーサーと旧知の間柄でお互い強い信頼関係で結ばれている、というのが大前提である。お互い全然知らない者同士に要求することではない

少なくとも初対面でお互いよく知らない人間にノーギャラで出演させるという場合はよほど映画その他についてきちんと説明し、その主旨に賛同できるかきちんと確認することがポイントである。ノーギャラで引き受ける場合はこの案件が本当にお金以外のメリットが発生する可能性があるのかきちんと見分けてから判断する必要がある。その判断は決して簡単ではないので、そういう観点からも軽々しく引き受けてはならない

いずれにせよそうしていいケースは決して多くはない。

少なくともネットで一部の人間が考えるほど「お金以外のメリット」得られるケースなど滅多にないのだ

ミュージシャン、演奏家の出演でも同じことだ。

ノーギャラで演奏、出演していい場合「お金以外のメリット」が得られる場合は以下の場合が考えられる

1.その会場で演奏することによって、将来にわたって何らかの仕事や宣伝上のメリットが発生する、もしくは発生する可能性があるケース

実はこういうケースは音楽家の場合、特に限られる。お祭りやショッピングモール、病院等でのボランテイア演奏で何か仕事に結び付くケースは殆どないといっていい。宣伝効果だってたいしたものではない。せいぜいCDを数枚売るため以上の意味にはならない

こういうケースがあるとすれば音楽プロデユーサー、CMプロデユーサー、映画監督、イベントプロデユーサー等の「業界関係」がわんさかいる場所での演奏といった場合に限られる。最近保守的な音楽業界でもようやく交流会なるものをやることが多くなったが、ノーギャラ、ボランテイアでやって仕事や宣伝上のメリットが得られるとしたらこういう場合しかない

2.社会的、福祉的(場合によっては政治的)テーマを持ったイベントで、そのイベント出演によって出演者自身の社会に対するメッセージを発信できるケース(アーチストのイメージ構築に役立つ場合)

私が毎年参加するセプテンバーコンサートなどがまさにそれである。音楽家として「平和のメッセージ」を伝えたい意思を持っている人が参加することで意味が出てくる。平和と愛を信じるアーチスト、演奏家としてのイメージも構築できる

但しこのケースはかなり悪用もされている。「地域に貢献」とか「患者や高齢者の慰労」を名目に事実上、ボランテイアを強制するケースも後を絶たないからである。

3.旧知の人間のために「特別に」演奏するケース

これは俳優の場合と同じである。全く見知らぬ人間に対してこれをやってはならない

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上記に揚げたケース以外にもありうるかもしれないが、いずれにせよ出演の機会を得られるからといってホイホイ引き受けるのもいかがなものだろうと思う。
その場合は出演依頼する人間の人間性はよく見ておいた方がいい。

これは出演依頼に限らないことだが、依頼する人間が以下のタイプにあてはまる場合は引き受けない方がいいだろう。仮に仕事であってもこういうタイプと仕事するとロクなことはない

1.自分のところでボランテイア出演をするとこんなにすごいことになる等、やたらに「凄そうな」話ばかりして「ボランテイア出演」を強引に推し進めようとする輩 
メリットがあるかどうかを判断するのは出演者側であって、出演を依頼する方ではない。自分で「メリットがない」と思ったら堂々と断るべき

2.ボランテイア出演を断って激昂する(酷い人間だと激しく罵倒する)人間 
タダで出演してもらうのに、何えらそうな態度を取っているのかといいたい。人を人とも思ってない輩だ。こんな人間とつきあってもいいことはないでしょう。でも結構こういうタイプの人間が残念ながら少なくないのも事実

3.すぐ「ナアナア」のなれあいのような関係になる 
こういう人間はビジネスでは極めていい加減なことが多いのでやめておいた方がいい

とにかく一向に減らない「ボランテイア」を強制やノーギャラ出演

とりわけイベント主催者には、少なくともちゃんとしたプロに出演して欲しいのであれば当たり前のようにボランテイア出演を要求するのではなく。ちゃんとそのための予算を取ってほしいと思う。それができないのなら、プロレベルの出演を諦めるか、イベント自体にミュージシャンを使おうとなどと思わないことだ

どこかの病院のように自分たちの医療技術はただでは売らないが音楽家の能力、ノウハウにはビタ一文払わんで当たり前のような顔しているようではその医療機関の見識が疑われようというものだ

詳しくはこの記事→「ボランテイア演奏」に関する勘違いと音楽家やクリエーターを人間扱いしていないこの国の風潮

形の見えないものでタダで当たり前だ。という価値観

そんな価値観が横行する日本という国は世界では一流の国には決してなれない

 

 

 

10月 2, 2016 文化・芸術 | | コメント (0)

2016年8月 6日 (土)

「音楽は趣味」という感覚が抜けず音楽を仕事としている人間をバカにする、また目に見えない技術やノウハウには価値がないーそう思い込んでいる人間が多数の国は絶対に「一流国」にはなれない

一昨日ブログ記事を書いて少し記事を書く気になってきたけど、前々からこのことについて書こうと思っていたのでやはり書かせて頂く

こんなブログ記事をみつけた。
■ミュージシャンに言ってはいけないこと
http://k-yahata.hatenablog.com/entry/2014/06/15/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%81%AB%E8%A8%80%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8

質問だけリストアップするとこうなる

1.プロ目指してるの?
2.音楽だけで食えてますか?
3.プロですか?
4. やっぱ上手いんすか?
5. 誰々って上手い?
6. 夢を追っかけてるんだ
7. 好きなことを仕事にできていいね
8. あーいう仕事しないの?
9. 楽器弾いて
10.教えるのなんて楽しくないでしょう?

まあ全部ではないが、私も上記の中のいくつかは実際本当にいわれたことがある。
まさしく「音楽=趣味」という感覚で、我々を「趣味を仕事としているろくでもない奴ら」と考えているとしか思えない発言ばかりである。実際私も仕事で企業だけでなく一般(つまり「音楽」や「芸能」の仕事に関わっていない人、という意味だー自分たちを「一般でない」という意味ではない、最近文章読解力が低い人間が増えているので困る)の人と音楽家の派遣やイベントの打ち合わせをしている時に「音楽なんて所詮娯楽だ」「空気と同じようなものだ」と受け取れるようなニュアンスの発言をよく聞く。言った本人は必ずしも悪気はないのかもしれないが、「音楽家」に対してある種の偏見を持っていると感じている人が多いのも事実である。

実際我々がステージに上がる、上がれるようになるためにどれだけの練習、検証、調査等を行っているかを理解している人がどれだけいるのだろうか? たぶん遊びながら、道楽にふけりながら面白おかしく暮らしている、などというステレオタイプの偏見で見ている人が多いのではないだろうか?

だからタダで演奏しろ、などと平気でいえるわけだし、音楽がネットで流れていてもそれがただであるのが当たり前だ、などという感覚が当たり前のように横行するわけだ、

要するに

形のないもの、技術、ノウハウー要するにモノでないものはただで当たり前だという感覚だ、

あえていう、それは日本という国がいかに文化の程度が低いか、ということの証明でもある

ちなみに私の友人が上記の質問に関して見事なほどの模範解答を示しているので引用させていただく。本人に迷惑がかかるといけないので名前は伏せますが

・プロ目指してるの?
・プロですか?

あなたはご自分の仕事のプロとして胸を張れますか?
運とか巡りあわせで今の会社に入社され、売上予算を達成する「駒」の一つで、いつもアタフタしてるんじゃないですか? 失礼ですけど。
それで社会保険・厚生年金保険・有給休暇・ボーナスを貰えていいご身分ですね。

・音楽だけで食えてますか?

あなたご自身やご家族が満足されるフィーを頂いてますか?

・やっぱ上手いんすか?
・誰々って上手い?
・あーいう仕事しないの?

(よくビジネス系サイトにあるベンチャー成功者とかの記事を示して)
あなたも、こういう人ですか?

(筆者注:よくベンチャー系や自称コンサルなどといわれる「ネット論客」が何もわかっていないくせして、「自分が世の中のことを全てわかっている」かのような勘違いで上から目線でもっともらしいことを書く低俗な記事のことを指している)

・夢を追っかけてるんだ

「現実」の厳しさはあなた以上に認識していると思いますけど。

・好きなことを仕事にできていいね

好きな分野だからこそ、好きでない仕事もしなきゃいけないことって多いんです。このつらさはあなたにはおわかりになれないかと思います。

それに嫌いだったらお辞めになられたら?
「嫌いなことをしなければ生きていけないのが世の中」とお考えなら、よほどつまらない人生を送られてるんですね?

・楽器弾いて

いくら払っていただけますか?

・教えるのなんて楽しくないでしょう?

部下を育てるのって嫌なんですか?
あなたには人に教えることで自分も気づきを得る、という体験はないのですか?

さあ皆さん 反論ありますか?

もっともそのレベルならまだ笑い話で済む可能性あるが、この話はそうはいかない。本日リオのオリンピックの開会式が行われたが

■『技術はタダじゃない』オリンピックの通訳ボランティアの対応がヒドイという記事を読んで思うこと。
http://junkuwabara.com/?p=7673

「なんで10分で終わる仕事にそんなに多く払わないといけないんだ?」

 

「10分でできるように10年勉強したからです」

人の能力を認めない…じゃないけど、技術職に対してこういう対応が当たり前のように行われる社会、上記の文章にもあったけど『通訳はボランティアが妥当との見解は外国語学習への無理解を示すばかりか、通訳や翻訳業の否定にも結びつきかねない』

これはまさしく

形のないもの、技術、ノウハウー要するにモノでないものはただで当たり前だという感覚だ。

日本人の語学力の低さは今更いうまでもない。私は英語は少しはできるのでこんな経験をしたことがある。

、御茶ノ水駅で海外の人が英語で道を聞いていた。イスラム系の服装をした女性で多少マレーなまりはあるもののきれいな英語で話をしたが、周囲の人間は話しかけられて狼狽するばかりでロクに対応をしていなかった。

私は英語は一応話せるので対応して、電車の方角が違っていたのでその辺りを諸々を教えてあげたが、その瞬間周囲から人がすーっと引いていくのを感じた。そのマレー系のイスラム女性は私にはお礼をいったが周囲は私を見てみぬふり、まるで宇宙人でもみているような素振りだった。

お前らそんなに英語話すことが珍しんか?

これが日本人が外国人に対して行う「おもてなし」実態である。

こういう実態でありながらある程度英会話能力のある人間のノウハウ、技術を当たり前のように「タダで提供しろ」というのが政府、行政、そして一般の人たちが英会話能力や通訳、翻訳のスキルを持っている人たちに対する基本姿勢である。

こんなことを書くとまたネットのバカな暇人が炎上を仕掛けようとするだろうが、(何せ熊本復興のボランテイアを「売名行為」などと難くせをつけて叩くことが正当化されるのが今の日本のネットだ) 実際こういう輩はてめえでは何もできない、やらないただ人をネットで叩くことしか頭にない可哀相なおバカさんだ。そういうバカを結果的にマスコミはつけあがらせているのである。

はっきりいう、形のないもの、技術、ノウハウー要するにモノでないものはただで当たり前だという感覚を持っている人間が大多数な国は決して一流国にはなれない

こんな情報が広がったら欧米社会からは日本は確実に軽蔑されることは間違いない

むろん 全てのボランテイアを否定する、というわけではない。だがボランテイアというのは本人の自主的な意思に基づいて行われるべきもので、決して第三者や国がそれを強制していいものではない。まして苦労して得たスキル、技術に対しては相応の経緯と代償を払うべきものである。そこの部分を国、行政、そして日本国民全体が大きな勘違いをしている。

このことは日本が技術やノウハウを尊重する一流国になれるか、それともあくまでボランテイアという原則にこだわり、結果として海外からの人たちに対する「おもてなし」ができないまま2020年オリンピックを終えてしまうのか、2つに1つの選択を迫られているといってもいいだろう。

 

 

 

 

 

8月 6, 2016 文化・芸術 | | コメント (1)

2016年7月18日 (月)

コルビジェ設計の上野の国立西洋美術館が世界遺産登録ー実は大野も若干ですが関わりました

報道で既にご存じの通り20世紀の偉大な建築家であるル・コルビュジエが設計(実際には「基本設計」)した東京上野の国立西洋美術館が世界文化遺産として登録された。

この世界遺産登録の手続き自体は今から4年前くらいに始められ、3年前に「ル・コルビュジエと国立西洋美術館」という映像を制作した。この映像は私がよくおつきあいする製作会社による制作のため、この仕事で映像用の音楽を制作した

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Corbusier02

これはル・コルビジェの設計した貴重な文化遺産として紹介するために事実上、ユネスコ向けへのDVDを作ったもの。公である台東区が制作したプレゼン資料なので私は元より監督やス タッフのクレジットは一切入っていない。間違いなく世界遺産登録のための資料映像になっており、最終納品まで紆余曲折があったようだがとりあえず身を結んでよかったと思う。

東京都としては自然遺産である小笠原諸島に次ぐ世界遺産となり、東京都23区内では初めての世界遺産となる。いずれにせよ関係者の皆さん お疲れ様でした。

ちなみに何か祝賀式典でもあるのだろうか?式典でコルビジェにゆかりのある音楽というと実は現代音楽になってしまう。電子音楽の先駆者といわれる、エドガーヴァ―レーズとかコンピューターミュージック(といってもmidiとか生まれる20-30年以上も前の話し)の先駆者のイアニス・クセナキスとか。 ちなみにクセナキスは本職は建築家でコルビジェの建築事務所でも働いていたので、もし「コルビジェと音楽」なんていうイベントがあったらクセナキスの作品を取り上げないわけにはいかないだろう。

但しいずれもとてもじゃないが、「親しみやすい音楽」とは程遠い。

特にヴァ―レーズはともかく今クセナキスのようなやりかたで作曲や編曲をしている人間は皆無といっていいだろう。まあ、ああいうことをやってみました、という実験的試み以上の意味は残念ながらない。現代音楽にありがちだが、「どんな音楽」よりも「何をやったか」の方が重用視される時代だったからね

7月 18, 2016 文化・芸術 | | コメント (0)

2016年5月22日 (日)

アーチスト、音楽家、芸術家には二通りのタイプがいて両者は相容れない

もう結構音楽の分野でも映像だけでなくアート、その他様々な分野でも一定の仕事をしてきたので経験上あることがいえる、と自分では考えている。

これは音楽に限らないが、芸術家、アーチストには大きく分けて2通りのタイプがいるということだ。

1つはある特定の分野を狭く、深く追求するタイプで音楽でいえば、スタンダードジャズの正当派、アカデミックな背景のクラシック音楽等で徹底的に機能美、構造美、表現の形にこだわるタイプだ。基本的に自分が取り組んでいる音楽の形式、表現語法以外は興味を示さず、いわゆる「正当派」といわれる音楽語法の追及にこだわる人たちである。クラシック、ジャズ以外に演歌、ヘビーメタル系のハードロックもこのタイプに入る、機能美、構造美、形式美に徹底的にこだわる人たちだ。

そしてもう1つは前者とは全く逆、広く、浅く音楽語法を扱うタイプで前者とは逆で音楽の形式には全くこだわらず、新しい音楽のありかたを追求するタイプ。基本的に既成概念の音楽を破壊し、音楽語法の新たなる可能性を追求するタイプ。勿論、ベースとなる各音楽のジャンルはあるものの、必要なら全く違う音楽の世界とのコラボレーションや音楽語法の導入を厭わないタイプ

私の音楽をご存じの方ならわかるだろうが、私は明らかに後者のタイプである。そして音楽に限らず、私のやることなすこと全てがそうした考えの基で進められている。

しかしそうであるがゆえに私のやりかたを気に食わない、理解できないという人たちも少なくない、ということも感じている。いわゆる音楽業界でメインストリートを歩いている人たちの業界関係のトップの一部からあまりよく思われていないことは風の噂で聞いているが、同じ音楽家でも狭く、深く追求するタイプの人たちもどうも私のやりかたを理解できないらしい。

この記事で音楽家にとってオイシイ募集案件が投稿されたにも関わらず、応募がグループの参加人数に比してあまりに少ないこと、その中には9月に劇場公開されるドキュメンタリー映画「涙の数だけ笑おうよ」でジャズトランペット奏者を募集した案件もあり、その募集時にグループ内から該当者が数名いたにも関わらず一人の応募がなかったことをも紹介した、そうした募集案件に対してあまりにも積極性に乏しい傾向に対して苦言を呈させてもらったのだった。

 

ようやく予告編が公開になったけど、予告編の最後のところにジャズトランペットを聴くことができます。

 

実は本日グループを管理ページを見ていてあることが判明した。

 

このブログ記事を参加者に公開したあと一時的に3-4人参加者が減ったんだけど、その退会した人全員が例のグループ内で私が把握していたジャズトランペット奏者であることが判明した、

 

要するにグループの募集案件に興味がない、ということなんだろう。今回のドキュメンタリー映画の音楽でフィーチャーされたトランぺッターの牧原さんはあちこちに名前が出て大きな実績になるのにね。
応募しなかった人は「損した」という認識すらないんだろうな、逆に私が檄を飛ばしたようなコメントがうざったく感じた、ということなんだろう

 

まあ何だかなあ、という感じだがそれがあの人たちの「選択」ということなんだろう。

 

勿論その「選択」については何かいうつもりはない。要するに自分たちが追及している「正当派」の音楽以外は興味がない、もっと積極的に応募しろ、などと余計なお世話だ、とでも思ったのだろう

 

基本的にジャズもクラシックも「正当派」を追求する人ー上記の狭く、深く追求するタイプーは自分のやっている音楽以外は認めない傾向をもつ人が少なくない。

 

たぶん「正統派」のジャズとかクラシックしか興味ない人たちはあのグループの方針とは合わない、ということなんだろうと思う。実際私のグループでは違うジャンルの人同士、違うメデイアで表現をしている人たち同士のコラボレーションを推奨している。まさに広く、浅く音楽語法を扱うタイプだがそれらは「正当派」を追求する人ーとは相いれないということなのだろう、まあそういうものだと割り切るしかない

 

正直いって去る者は追わない。

 

 

このグループの目的はそれもただのソーシャルネットではない。リアルな仕事やイベントを実施し、つながりから音楽家のリアルな活動、実益に結び付けたり生み出したりするグループである。ソーシャルネットはやりかたさえうまくやればリアルな実益を生み出す可能性があるネットツールであると考える。そのツールによって停滞している音楽の世界を活性化したいし、なんかできそうな感じを最近もっている

 

おそらく私は音楽家としてもソーシャルネットのグループの管理人としても「正当派」を追求する人狭く、深く追求するタイプーの人たちとは相いれない存在になるだろう。でもそれはもう仕方がないと思う

 

人からなんといわれようがわが道を行くのみ、である

 

 

 

 

 

 

5月 22, 2016 文化・芸術 | | コメント (0)

2016年2月15日 (月)

司馬遼太郎Nスぺ「この国のかたち」-「日本人は今無感動体質」になってしまっている

ご存じの通り私は歴史小説が好きで司馬遼太郎の作品も好きである。

その司馬遼太郎没後20年にあたり香川照之がホストとなっていた「この国のかたち」

非常に面白かった。と同時に司馬遼太郎が我々に残した未来の言葉を聴いていずれもドキッとした。二十年前といえばまだ日本がバブルにうかれてまもない頃、その頃に既に現在危機的な状況にある日本をある程度予見していたような部分を感じた。

第一回の第1集  “島国”ニッポンの叡智(えいち)

ここでは「島国」をキーワードに日本文化をどうかたち作ったのかに焦点を当て、境ゆえに海の向こうから来る普遍的な文化に憧れ続け、とりわけ江戸時代の鎖国政策が外国に対する好奇心を高め明治維新の「奇蹟」につながった点を揚げた。→日本人の感動体質

第二回の第2集  “  “武士”700年の遺産

鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神で江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった、と指摘している。

いずれも司馬遼太郎らしい的確な分析をしているが、冷静に考えてみて愕然としたことがある。なぜならいずれの点に関しても「現代の日本人が忘れつつある、いや既に忘れている」ことを指摘しているからである。

第1集  “島国”ニッポンの叡智(えいち)に関しては司馬遼太郎が懸念していた「日本人が無感動体質になるのが怖い」という点

そして第2集  “  “武士”700年の遺産では日本人が私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神を忘れる点である。

後者の“名こそ惜しけれ”の精神は今の政治家の姿を見れば一目瞭然であろう。先日辞任した甘利のように「政治資金」という名で私腹を肥やすことしか考えない昨今の政治家。

大久保にしても西郷にしても明治の著名な政治家は寧ろ死んで借金しか残さなかった。「あさが来た」で一躍注目された五代友厚も大阪の商工業に大きく寄与したが本人自体は借金しか残していない。初代首相の伊藤博文も殆ど財産を残さず、僅かに残った財産も死後地元に寄進している。明治の政治家には「公のため」のことしか考えず全く私利私欲の概念がなかったのである。今の政治家とえらい違いだ。

だがここは音楽や芸術関係のブログなので特に前者第1集  “島国”ニッポンの叡智(えいち)で司馬遼太郎が大きく懸念した「日本人が無感動体質になるのが怖い」という点にこだわってみたい。なぜなら私は既に現代の日本人は「無感動体質」になっていると感じているからである。

「無感動体質」とは何か? それはかつて日本人が向けた海外への好奇心、新たなものへの憧れと挑戦する心であった感動体質を失うということである。

特にこの傾向はインターネットが普及してからが顕著である。インターネットが普及することにより情報が氾濫し、ネット経由であらゆる情報を手にすることができるようになった。それがネットの四六時中はりついているような輩の間で「自分は世界のこと、ありとあらゆることを熟知している」などという勘違いをする輩を大量に生んだ。何を話すにしても「上から目線」で話しネットの断片的な情報で「自分は何でも知っている」という勘違いをする人間。これはちょうど江戸時代僅かに長崎の出島という狭いところでしか海外の情報が入ってこなかった江戸時代とは寧ろ対極にあるということができよう。

むろんそのような断片的な情報、そして安価な「正論」「正義」とかふりかざして他人を攻撃することも頻繁に行われるようになった。「荒らし」「炎上」「晒し」-我々が普段日常で嫌というほど目撃するインターネットによる負の部分である、

一方日本社会を見ると行政だけでなく、日本企業の間にはびこっている風潮ー「失敗を極度に恐れる風潮」「無難」「事なかれ主義」である。サラリーマン社会で何か問題が起きると「査定に影響する」一つ間違えれば「リストラの対象になる」などという強迫観念が蔓延し、「新しいことにチャレンジする」ことをためらう風潮が出てきた。こうした風潮は普通に考えれば馬鹿馬鹿しいナンセンスクレームにも過剰反応する風土を作り、かくしてクレーマーが何か難くせをつければCM、番組、映画等の上映、オンエアの禁止などということが頻発する社会になる。

どれもこれも日本人が「無感動体質」になっているからこそ起きることであり、司馬遼太郎の懸念はまさに的中してしまっている、

この「無感動体質」は日本人の後者の“名こそ惜しけれ”の精神を悪用されてさらに酷い状況を作っている。それがファシズム的な全体主義が蔓延し、ネトウヨを増長させている原動力にもなっている。司馬遼太郎も戦前の軍国主義の日本人の“名こそ惜しけれ”の体質が戦前の軍部の「統帥権」と結びつき、軍部の暴走を許した,としている。今安部政権は「緊急事態条項」で戦前の軍部の「統帥権」と同じことをやろうとしている。

まさに司馬遼太郎の懸念が現代の日本に当たってしまっている。まさにそんな状況ではないだろうか?

この流れを変えるには我々日本人が昨今の風潮に流されることなく、もう一度原点に戻り、素直に感覚を研ぎ澄まし、文化、コンテンツ、情報に対してもう一度かつてのような純粋な気持ちを取り戻すしかないのではないだろうか?その辺の知ったかぶりしているITギーグ、「ネット住民」ネトウヨなど無視し、再度の「感動体質」を取り戻すことを考えるしかあるまい。良質なコンテンツ、情報をクリエイトするのはそこの部分からでないと難しいだろう

今日本人は文化、経済、ありとあらゆる点で岐路に立っていることは間違いない。大事なことは思考停止の状態から脱し、「感動体質」と私利私欲を排し公(パブリックへの意識)をもった“名こそ惜しけれ”の精神をもう一度考え直す必要性に迫られているのかもしれない

2月 15, 2016 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年9月 2日 (水)

東京五輪エンブレム 使用中止事件を見てー「パクり」について考える

既に報道されているように2020年の東京オリンピックエンブレムの盗作問題で佐野研二郎氏のデザインの使用を中止する決定をオリンピック委員会は決定した。

東京五輪エンブレム 使用中止の方針固める
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150901/k10010212001000.html

Ologomarks570

左がドビ氏、右が佐野氏の作品である。

当ブログの記事にも書いたが偶然の一致にしてはあまりに似すぎており、しかもこの記事を書いたあと佐野研二郎氏には他にも盗作疑惑とされている件があり、昨日の記事で書いたサンプルの時点からの工程を発表もさらに盗作疑惑が浮上するなど、さすがのオリンピック委員会も庇いきれなくなった、ということもあるだろう。

どうも佐野氏の制作スタイルとして画像や写真の共有サイトPinterestなるコレクションサイトからからのパクって作品を作るというのがあるらしい。ここで気になったのは、佐野氏は「作品をパクって作るのは現代では当たり前である」かのような言質を述べていた点である。

佐野氏はwikipediaを参考にさせていただくと博報堂デザインにいたようだが、私自身も博報堂とのおつきあいがあるが、多額の金額を扱う広告代理店の世界でもあのような仕事ぶりだったのだろうか?

何度も書くが、結果的に自分の仕事が他人の作品に似てしまう、ということはよくある。しかし今回の佐野氏のケースは明らかに「パクリ」という意図的な確信犯であり、それとは明らかに違う

■佐野氏 使用例で転用を認める
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20150901/4583271.html

お恥ずかしい話だがJ-popの世界では当たり前のようにこの「パクり」が行われている。それどころかいかに「他人のおいしいところを「わからない」ようにパクるか」ということが競われている始末である。

佐野氏が確信犯的に行い、本人の表情からみても「これのどこが悪いの?」かといわんばかりの表情を見るとデザインの世界でも当たり前のように行われているのだろう

そこであえて「パクリ」というものについて考えたいと思う。

まず大前提の話として「パクリ」結果的に似てしまう は全然違う、ということはおわかりいただけるだろう。結果的に偶然作品が似てしまう場合、似ている部分はあっても詳細な部分まで瓜二つ、などというケース は殆どないからである。佐野氏の上記の東京エンブレムのようにTのフォントの詳細まで偶然似てしまう、ということは通常まず考えられない。

そして大前提として作曲家を始めとするクリエーターは基本的には「意図的に」誰かの作品に似せた作品を作ってはならない。例えプロデユーサー/デイレクターに「誰々の作曲家のあの曲のような感じで」というオーダーを受けても「意図的にその作品を盗用」してはならない。

当たり前の話である、

しかしデザイン、そして音楽のJ-popの世界などで「意図的な盗用=パクリ」の例は後を絶たない、特にJ-popの世界ではもはや当たり前のように行われ、「いかにしてうまくパクるか」が音楽業界のいう「すぐれた作曲家」などと言われてしまう始末、いわば盗用、「パクリ」がほぼ公認されている、といっても過言ではない。デザインの世界は門外漢なのであえていわないが佐野氏の反応を見る限り、それほど珍しいことではないように見える。

それではなぜこの「パクリ」なるものがJ-popの世界では重用視され、なくならないのだろうか?
実はここの部分に焦点をあてないと問題の本質が見えてこないし、今回のような事態の再発防止にもならない。

J-popの世界に関して言えば、音楽の世界に「売れセン」(=つまり今はやっている音、今の若者が好むサウンドやメロデイで作る)なる言葉が出てきてからおかしな方向に行き出したといえる。つまり音楽のサウンド的に「今流行っているサウンド、歌詞」を徹底的に分析し、その「流行っている要素」1つ1つを「コラージュ」という名目で「メロデイや歌詞をパクる」ということが横行しはじめた。つまりある種のマーケット理論を音楽制作に導入し、そのマーケット理論中心に全ての制作管理を行うものだ。

そしてやっかいなことにそのマーケット理論による音楽制作は一時大成功した時期があった。いわゆる音楽バブルの時代である。

「売れセン」中心のマーケット理論は長い間の成功体験によって結果的に画一的な音楽マーケット理論を生み出した。その結果音楽マーケットの多様性は失われ、音楽業界が考える「売れセン」といわれるもの中心になった。勿論「売れセン」は多少時代によって微妙な差はあるにせよ、基本的なマーケット戦略は全く変わらなかった。今のメジャーシーンがジャニーズとAKB系のアイドルに集約されているのも「売れセン」画一的な音楽マーケット戦略によるところが大きい。

その「売れセン」画一的な音楽マーケット戦略「パクリ」は音楽制作の過程において必要不可欠なものになってしまった。かくして盗用、「パクリ」がほぼ公認されている、音楽業界になってしまったのである。

多少事情も違うがデザインや映像でもかなり似た事情があるのではないだろうか。広告代理店の使命はクリエイテイブな企画を作る、ということではなく「企画を通す」ことが至上命令となっている。

そして特に最近の風潮として大企業は冒険をしたがらないという傾向がある。つまり「斬新な表現」よりは「どこかで聴いた(見た)ことのある表現」の方を見せられて安心する、という傾向がある。CMやイベントを始めとするタレントも「誰でも知っている名前」を見ると安心するようだし、そういった風潮が佐野研二郎氏のようなはっきりいってクリエイテイビテイの著しく劣るといわざるを得ないデザイナーでも第一線で仕事できたのではないだろうか。企業の「無難、リスクのない」という名目で独創的なものを否定してきているような気がする

だとすればこれは佐野研二郎氏の作品が盗用云々、という問題だけでは解決できないものがある。

尚、単純に「パクリ」の手法についていえば佐野氏の「パクリ」の仕方はあまりにも下手である。あれだけすぐに「パクリ」とわかる手法はいかに「パクリ」が公認されているJ-popの世界でも通用しない。「パクリ」ではあっても「パクリ」とすぐにわからないようにしなければならないからである、

私は昨今の日本でこういった画一的なマーケット理論という誤った戦略、さらには新自由主義、市場原理主義的なエコノミストの理論がかなり現代の日本をおかしくしているような気がする。

まずここでいいたいのはわけのわからない画一的なマーケット理論をコンテンツ制作というクリエイテイヴな世界に持ち込むのはやめにしたらどうか、という点だ、

知り合いのテレビプロデユーサーの所にはレコード会社から「タイアップ用」でデモCDが机から溢れんばかりに送られてくるという。そのプロデユーサーは律儀な人なので1つ1つデモCDを聞いていたらしいが途中で嫌気がさしたという

それは どの曲を聞いてもみな同じような感じ からで

そして何よりも  いい曲は一曲もなかった

これでは自分たちで作った方がマシだ、 といっていた。業界全体が画一的なマーケット理論で音楽を作るとこうなるのである。

視聴者もバカではない。全てのレコード会社がこれでもか、といわんばかりに同じような曲とアーチストばかり出していたらじっくり聴こうなんて気はおきなくなるだろう。音楽業界衰退の原因はここにもある。

盗用、「パクリ」がほぼ公認されている業界が健全なはずがないし、クリエイテイブであるはずもない。音楽の世界は残念ながらこの惨状になってしまったが、もし映像、デザイン等の他の世界もこうした訳の分からない画一的なマーケットの論理で制作されているとしたら日本のコンテンツ制作は極めて深刻な状況といわざるを得ない。

尚、「他人の作品を使用=クリエイテイブではない」といえるか、というと一概にそうともいえない。 「コラージュ」という違った作品の一部を組み合わせて全く別の作品を作る手法もあるし、風刺等の目的で他人の作品を使う「パロデイ」という手法もある。だがそれらはいずれも「コンセプト」や思想を既成の物を使って「思想」として表現するというクリエイテイブな動作であり他人の曲のおいしいところを「バクる」音楽業界公認(?)の盗作行為とは一線も二線も画すものである。以前も別記事で紹介したが、歴史上最初のパロデイ作品としてマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp  1887- 1968)の作品をご紹介しよう。

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新国立競技場にせよ今回の東京五輪エンブレムにせよ2020年の東京オリンピック関連で本当にみっともないことが続く。特にエンブレムの件では下手すりゃ「日本のデザインのレベルはこの程度」などと思われかねない。おそらく良心のある多くの日本のデザイナーの方々は今回の事態に対して忸怩たる思いがあるのではないだろうか? 再度制作される東京エンブレムは公募になるそうなので、その中から名誉挽回に繋がる作品が生まれることを期待する

9月 2, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年8月31日 (月)

クリエーターのプライドはどこ? オリンピック委員会の佐野研二郎氏が堤出した原案説明に思う

この件に関しては以前当ブログの記事に書いたが

勿論どんな作品もたまたま誰かの作品に結果として似てしまう、ということは起こりうる。
但し実際にそういうことが起きた時に、1クリエーターとしてどう行動するかが重要である。

はっきりいってもし一応クリエーターの端くれであれば、「どの作品に極めて似ている」などと言われたら俺だったらその時点で別の作品に作り直す。 一応クリエーターとしての矜持があるのなら普通はそう考える

今回見ると最初のサンプルの時点からの工程を発表したようだが、そもそも最初の段階から別のパクリの疑惑まで出る始末ではっきりいって恥の上塗り

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ここに見えるのはクリエーターのプライドではなく「保身」だ。それが非常に残念である。

実に見苦しい言い訳や小手先の屁理屈だ。曲りなりも博報堂等の大手広告代理店で仕事をしていたにしてはお粗末すぎる。

悪いがこれだけでこの人のクリエーターの能力を疑わざるを得ない

何度も書くが結果として自分の作品が誰かの曲に似てしまう、ということはよくある。
しかし普通はあそこまで似ないね。

Pinterestなる写真共有、画像のコレクションサイトからのパクリのようだが、パクリが当たり前になっているJ-popにしたってロコツにわかるパクリはしない。ばれたら著作権問題に発展するからだ。

どうも佐野氏の手法を見るとそのあたりの「パクリ」に関しては大したデフォルメもバリエーションも加えないで使っているようにも見える。

つまり同じパクるにしても、もう少しマシなパクリの仕方にしろよ、ということだ。

もう発表して商品化してしまったらもう仕方ないけど、まだ商品化の前のはず。今だったら作り直す時間はあるだろう。何せまだ5年あるんだからね。

パクリ、が得意なクリエーター。なんてあまり聞こえのいいもんじゃないと思うが、

俺だったらそんないわれ方されるのは嫌だね

それがクリエーターのプライドってもんじゃないのか?


8月 31, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年8月13日 (木)

エリックサテイとその時代展に行ってきました。

今年から「ラグタイムコンサート」のシリーズをやっていますが、その関係ですっかり忘れていたのですが今年はエリックサテイの没後90年でした。その関係で渋谷のBunkamuraにて「エリックサテイとその時代展」をやっていまして、ようやく今日見ることができました。

 

Satie01

 

Satie02

エリックサテイは変人とかいわれますが、サテイ→J ケージ → Bイーノ
という「現代の音楽」(現代音楽ではない)に大きな系譜が存在し。ある意味では現代の音楽の租といってもいい人で影響は計り知れません。

Satie_erik

Erik Satie 1866-1925

この人がいなかったらアンビエントもニューエージミュージックもたぶんなかったといっていいでしょう。

エリックサテイという人は単に音楽家という枠だけに収まらない人で19世紀末から20世紀初頭のパリの芸術運動に大きな影響を与えた人でもあります。それだけにサテイの同時代の芸術家、演劇、映像といったものの展示が楽しみでした。

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まずエリックサテイは一応クラシックのカテゴリーに入りますが、あまりクラシックという感じがしません。理由は代表作の「ジムノぺデイ」を見るとわかります。

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何とジムノぺデイ第一番は Gメジャー7.Dメジャー7の繰り返しです。
それが何となくリラックス、癒しの効果を与えているんですね。

会場ではサテイの直筆の楽譜の展示やサテイにちなんだ絵、ポスター等が展示されていました。

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ジムノぺデイ第二番の直筆楽譜、楽譜の訂正の跡があるのが何ともサティらしい(^_^)

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画家、シャルル・マルタンとのコラボレーション、「スポーツと気晴らし」の楽譜とマルタンの挿絵

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勿論会場は撮影禁止だったのでこの目録から写真を取りました。会場でサテイの音楽のCD付で¥2600で売っています。

あと会場には伝説のバレエ「パラード」の再現舞台の一部上映等がありました。「パラード」は演出がジャンコクトー、美術がパブロ ピカソ、そして音楽がエリックサテイというすごいメンツのコラボレーション作品です。

最晩年の作品のバレエ曲「本日休演」の資料等も展示されていましたが、バレエ曲のために作ったルネ・クレール監督の「幕間」の上映は見ることができませんでした。サテイが書いた唯一の映画音楽作品となったはず、だったのです残念ながらやはりフィルム自体を探すのは困難だったのかもしれません。

展示としては非常に内容のあるものでした。やっと来れてよかったです。

 

 

 

8月 13, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年7月31日 (金)

2020年東京オリンピックのエンブレム盗作騒動ーはっきりいってこれはアウト!!

既にマスコミで報道もされているように2020年に開催される東京オリンピックのエンブレムについて、ベルギーのデザイナーが「自分のつくったロゴの盗作だ」と訴え、法的措置を取るという。

■「盗作だ」ベルギーのデザイナーが法的措置へ 2020年東京オリンピックのエンブレム
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/29/emblem-plagiarism_n_7900370.html

一応クリエーターの端くれとしていうと結果的にできあがった作品が「誰かに似てしまう」ことは決して珍しいことではない。私も全く盗作の意図はないにしても「誰々のあの曲に似ている」などと言われたことがあるし、またテレビやとあるアーチストの曲でも「自分の曲に似ている」などというケースもよくある。

音楽の盗作騒動の裁判では有名なところでは服部克久と小林亜星両氏による裁判の例があり、この裁判は小林氏の勝訴で終わったが、実際にはこういう盗作裁判で決着をつくことは寧ろ稀である。

では今回のケースはどうだろう? 「盗作された」と主張するベルギーのオリビエ・ドビ氏のリエージュ劇場のロゴと渦中の佐野研二郎氏の作品を比べてみよう

Ologomarks570

左がドビ氏、右が佐野氏の作品である。

結論から言おう。 盗作かどうか、という関係でいうとこの作品は明らかにアウトである

理由はドビ氏のTheartre(テアトル)のTと佐野氏の東京のTを見ればいい

Ologomarks
ドビ氏のTheartre(テアトル)のT

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佐野氏の東京のT

みればおわかりだと思うがTの文字(キャラクター)の形態、文字デザインが殆ど一致している。違いは赤文字のがあるかないか、のだけの違いである

これが例えばTの文字の上下の部分のいずれかがRがない(丸みをおびていない)別の形が付加されている、とか似たデザインでも細かいところが微妙に違っていれば「偶然似てしまった」で済むが、ここまで文字型、フォントが一致していると「盗作でない」と言い切るのは難しい

勿論偶然類似だけで著作権侵害にはなかなかならないのも事実だが、ドビ氏のデザインは劇場(Theatre)のTとリエージュ(Liege)のLをかたどってあの形になっているとすぐにわかるが、佐野氏の場合はTとどの文字をかたどってああなったのかはちょっと不明なところがある。東京オリンピックにLの文字なんかないし、偶然の一致にしてはできすぎな面はある。これは何らかの意図でこうなったと考える方が自然であろう

この佐野研二郎なる人物は博報堂デザインにいた人物らしくスマップの27時間テレビのポスターのデザインとかをやった人物らしいが、それにしては独創性、クリエイテイビテイの面でマークをつけざるを得ない。何よりも作品に新しさを感じない。デザインとしても申し訳ないがあまりセンスにいいものを感じない。

私自身はもう関わっていないが、J-popなどはパクリや盗作すれすれのことを日常的にやっているだけに余計にこういうことに関心がいってしまうが、そのJ-popですらあまりにロコツなパクりはあとで問題になる可能性があるので控える傾向がある。デイレクター連中は全員サラリーマンのため「問題になる」ようなことは起したくないためだ。

とはいえそういう作業が日常的に当たり前になっていくとだんだん、そういう配慮に対して鈍感にはなっていく可能性は小さくない。今回の盗作騒動にはそういった背景があるのではないか、という気がするのだ。佐野氏は博報堂や電通で仕事を今まで中心にやってきた経歴を見るとそう勘ぐってしまう。

実が変な話、企業の広告関係の担当者は最近の傾向として「斬新な表現」よりは「どこかで聴いた(見た)ことのある表現」の方を見せられて安心する、という傾向がある。タレント、俳優で「みんなが知っている有名人」の名前が入っていると企業の広報担当者が安心するのと同じだ。要は「斬新なことをする」ことでリスク、冒険を避けるという傾向が強いためであり、昨今の日本企業の風潮として「冒険、リスクを極力避ける」という傾向が年々強くなっているのは否定できない。

日本はそうやって長い間、企業の「無難、リスクのない」という名目で独創的なものを否定してきたような気がする。しかしそんな仕事ばかりしていると本当に日本は「クリエイテイブじゃない国」ということで世界中から軽蔑されてしまうのではないだろうか?


7月 31, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年7月 4日 (土)

コンテンツTOKYO基調講演ー株式会社KADOKAWA 角川会長の「ネットフリックスとコンテンツの未来」

前の記事にもかいてありましたが今年の「コンテンツTOKYO」のメインの目的は株式会社KADOKAWAの角川歴彦会長の基調講演を聞きに行くのが目的でした

ご存じのように角川歴彦会長は川上さんのドワンゴの合併(買収)を行い、旧角川書店とドワンゴを合併して株式会社KADOKAWAと命名しメガコンテンツパブリッシャーというコンセプトを打ち出した方です。

Kadokawa00

実は当初は「一億総クリエーター時代の本格的到来とコンテンツ産業の未来」というタイトルでしたが、当ブログの記事にも書きました10月のネットフリックスの日本進出に鑑み、急きょ講演のタイトルを「ネットフリックスとコンテンツの未来」と講演の内容が変更になりました。

感想だけ先述べますと「きわめて有意義な講演だった」といっていいと思います。さまざまな面で大いに参考になりました。

そんな感じで講演がスタートしました

Kadokawa03

講演の基本的な中身はこんな内容で進行しました。

Kadokawa02

内容をざっくりまとめますと以下のようになります

1.NetFlixは第二の黒船か

実はなぜこのネットフリックスの日本進出が今後のコンテンツ産業に大きな影響を与えるかといいますとネットフリックス単体で既存の地上波テレビ、動画配信サイトやモバイルのキャリアサービス(dアニメ。dTV等) 全てが関係してくるためです。

Apple Google 等の既存のIT企業とNetflixの違いは一口でいうと

Apple  Google  Amazon ー デジタル流通網はあるが、メデイアではない(コンテンツの制作もない)

NetFlix - デジタル流通網+ 制作 + メデイアを持っている

つまりNetFlix は元々ビデオのレンタル宅配業者からスタートしたこともあり映画、映像コンテンツの第一次(劇場) 第二次(DVD パッケージ) 第三次(ストリーミング配信)の全てを自前でできる点が従来と違う

2.IP2.0について 

IP2.0とは昨年角川アスキー総合研究所が主催する勉強会で今まで以下の内容の勉強会が行われました。

1.グローバル時代の著作権・特許ルール
2.機械が生み出すデザイン、
機械が生み出す知財」とどう向き合うのか
3.モノが情報になる時代に企業はどうする


等を筆頭とした新しい時代における著作権のありかたについて論じられましたが、特に新しいイノベーションが起きている時に

ユーザ―の使い勝手      クリエーターの権利
(規定を緩やかにすることを希望)               (権利ロイヤルテイ強化を希望)

という全く相反する両者の折り合いをどうつけるか、という点を真剣に議論すべきだと角川会長は述べられ、私も全くこれには同意します。既にサブスクリプション、ストリーミング等の時代では既存の著作権法では
もはや対応が難しくなっていると指摘しています

3.カタカナ”カドカワ"が目指すものー企業のカタチ 

そもそもカドカワがなぜドワンゴと合併したのか、といいますとアメリカのApple  Google  Amazon といった会社に対抗するためにはコンテンツだけでなく技術(ITノウハウ)も同時に所有していないと太刀打ちできないと会長が判断したためのようです。

一方でIT会社は従来のバーチャルの世界だけにとどまっていては限界があり、リアルな世界の方向に目を向けないといけないという背景があり、実際Googleは本の宅配を開始しています。

グーグルはなぜ宅配事業をするのか? 米国では当日配送の物流サービスも !
https://netshop.impress.co.jp/node/310

つまり企業体として以下のような現象が起きているとのことです

IT バーチャル       リアルな業態、リアルな世界を志向

既存のリアルな業態  バーチャルな世界、IT技術導入を志向

それを考えると旧角川書店とドワンゴが合併したのはほぼ必然だったということができます

実際角川会長は今日の講演で最大のポイントをここの部分で述べています

それは21世紀の企業が生き残るためには

オフラインのリアルな世界だけでは勿論だめだがオンラインーのデジタルに偏ってもダメ。両方を使いこなさないと生き残れない 

この点は私も激しく同意します。

4.所沢Cool Japan Forest 構想 

ここの部分に関しては以下のリンクページをご参照ください。カドカワさんは他の出版社さんの協力も仰いでいます

■COOL JAPAN FOREST 構想
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/shiseijoho/keikaku/cooljapanforest/

■ニコ動ページ
http://live.nicovideo.jp/watch/lv222792604

http://ir.kadokawa.co.jp/topics/20150604_v84er.pdf

<感想と考察>

今大きく 変化しているコンテンツ産業の環境で、とかくネット上ではクリエーターや著作者の権利を軽視する見解が多い傾向にあることを考えると角川会長の広い視野で明確な戦略を持って今後のコンテンツ産業のありかたについて論じていることに対し敬意と尊敬の念を表します。

その中でそれが私の属する音楽の世界でここの部分に関してどのようにとらえたらよいのかについて改めて考えたいと思います。

1.著作権

率直に言って音楽配信にせよ、今後始まるストリーミングにせよ現行の著作権のシステムー特に既存のCDパッケージと同じパーセンテージで運用するという発想は基本的に無理があります。正直いって現行のシステムではアーチストやクリエーター(作曲者、作詞者)にとってたいしたメリットにはなっていません。ここのアーチストやクリエーターに対する分配の取り決めについては根本的に考え直す必要があります。

そしてカドカワの会長がおっしゃったように、ユーザーへの使い勝手をよりよくする部分とクリエーター、アーチストの権利強化の部分をどう折り合いをつけるか、ここの部分は極めて重要なポイントであると考えます

2.音楽の事業形態

音楽配信が出た時「CD等のパッケージはもはや無用の長物である」という論調が圧倒的でした。しかしそれらはアーチストとファンとの関係のビジネスモデルをあまり理解した見解ではないと私は繰り返し述べてきました。

またCDが出てアナログレコードが無くなったかというと今アナログレコードが復活していることは当ブログの記事でも述べました。ソフトやデジタルシンセが出てアナログシンセが消えたかというと最近の楽器フェアを見ますと寧ろ逆です。ネットの論調はとかく頭でっかちになりがちですが、いい加減何が出てきたから何が無用と考えるのはやめたらどうでしょうか?

つまり、デジタルが出てきたからアナログは無用、ITのバーチャルが出てきたからリアルな部分は無用ーこういう短絡的な白でなければ黒しかない、右でなければ左しかないという発想

こんな単純な発想では21世紀は生き残れない

ということは私も感じています。

先ほどの角川会長の言葉

オフラインのリアルな世界だけでは勿論だめだがオンラインーのデジタルに偏ってもダメ。両方を使いこなさないと生き残れない

これは私も現場で動いていてひしひしと感じることです。

音楽配信は音楽配信で必要、ウエブサイトやSNS, You tubeといったネットツールもおおいに活用すべき。

しかしそれだけで全てOKではないということです。

リアルな世界での活動 それはライブだったり、アナログレコードだったり、勿論CDだったり、

多くのITギーグ連中が「旧態依然」だと蔑んでいるようなものも実は今後重要だったりするわけです。

本当にネトウヨなんかもそうですが、白か黒、左でなければ右という単純な発想しかできない人間がネットでは多すぎますね。バーチャルだけでリアルに目もくれない、いわゆるリア充になれない、そういう人は21世紀は生き残れないということです。

リア充だ、リア従じゃない、なんて話はもはや時代遅れということです。

角川会長の話、本当に面白かったです。旧ドワンゴの川上さんといい世の中で今何が起きているかきちんと把握した上で戦略を練っているのがわかります。

先着300名に角川会長の本をいただきました。あとで読んでレビューを書かせて頂きます。


グーグル、アップルに負けない著作権法 (角川EPUB選書)

 

 

 

 

7月 4, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年6月 8日 (月)

トニー賞2015年を見て

「王様と私」で日本人として初めてトニー賞のノミネートを受けた渡辺謙で注目された今年のトニー賞

オスカーとかグラミーは毎年見るけどトニー賞を見るのは実は初めて。

舞台演劇、ミュージカルの最高賞で基本的にブロードウエイの劇場で公演が行われている演劇とミュージカルが対象の賞。 オスカーが基本的にハリウッド、ロサンジェレスでの劇場公開されている作品を対象にしているのと同じでいずれもアメリカの賞ではあるが、エンタテインメントの最高峰の賞であることに変わりはない。

ベストリバイバルミュージカル「王様と私」が選ばれたので渡辺謙の受賞に期待がもたれたが結局、残念ながら受賞ならず。しかし日本人としてここまで来たという実績を作った渡辺謙には最大限の敬意と賛辞を送りたい。

私は見ていないのでどんなミュージカルなのかわからないが、Fun Homeがベストミュージカルを初め主要4部門を受賞している。「王様と私」も四部門受賞【リバイバル賞、主演女優賞、助演女優賞、衣装賞)

トニー賞の詳細は英語だけどこちらをご覧ください。

http://www.tonyawards.com/en_US/nominees/index.html

初めてトニー賞授賞式を見た感想は、やはりミュージカルならではの各俳優さん、女優さんのパフォーマンスも楽しめるし、いろんなミュージカルの「オイシイ所」が楽しめるのでそれだけでも楽しい。

だが、見ながら思ったのはやはりこのトニー賞もオスカーやグラミーと同様の共通点が見られた点だ、

1.第一は過去の文化遺産をとても大事にして、それらを尊重している点である。それらを文化として尊重し、それらから多くを学んでから、新しいものを創造していく。これはクリエイテイビテイの基本である。

ところが当ブログで何回も指摘しているようにそこの部分を勘違いしている輩が日本には多い。よく「過去を知るかどうかは新しいものを生み出せるかどうかには関係ない。むしろ過去にとらわれないことが新しいものを生む可能性がある」という主張をしている連中、

こういうのはとりわけJ-pop系に多い

しかしこういう奴らの作品を聴いて「ものすごい作品」に出会った記憶は少なくとも私はない。どれも「何々風をぱくる」ものだったり、面白くもおかしくもない、創造性の欠片も見られない作品ばかりである。 

そこには文化などない。芸術なんていうのもおこがましい。
日本の音楽文化のレベルの低さがそういうところにも見られる。

2.第二は受賞作品は純粋に投票によって決められるということ。

賞の権威を保つためにはそれが絶対に必要なこと。本来は当たり前なのだが当たり前じゃないのが日本である。(涙) 日本の〇コード●賞とか有◎大賞等が舞台裏どうなっているかは今更ここで述べるまでもない

アメリカという国そのものについてはいろんな問題はあるが、エンタテインメントに関してはまだ健全に機能している。そして競争はとてつもなく激しいが努力した人間は評価される、

それが本来のあるべき姿である。

ちなみに私はとある映画で「ミュージカル(のまねごと)風の映画」をやったことはあるが、まだ本格的に舞台やミュージカルの音楽を書いた経験はない。ブロードウエイは「ブロードウエイの作り方」というのがあり、それを身に付けなければならないが、機会があればやってみたいものだ。


6月 8, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年6月 2日 (火)

コンテンツ制作に「正当な」費用を払おうとしない人たち、コンテンツ制作は簡単にできると思っている人たち

実は最近、もう1つ気になっていることがある。

私は昨今の風潮から低バジェット(予算)の仕事をするには慣れているが、最近その低バジェットが限度を超えているレベルのものがある。
いくら低バジェットとはいえ、クオリティを保つのに最低限必要な金額というものがある。つまり低バジェットといっても、まともなクオリティを保つのは不可能なバジェット金額というものがある。

だが最近時々そういう「限度を超えた」バジェットで映画なり、音楽を作ろうとしている人たちがいる。しかもそれで「まともな」クオリティになると本気で考えているようなのだ。

それだけではない、そういう人たちの制作スケジュールを見るとほぼ例外なくメチャクチャなスケジュールを組んでいる。例えば映画制作でまだ予算確定もしないうちから撮影日程だけどんどん決定して行って、しかもまだクランクアップ(撮影終了)もしていない時に映画祭提出のスケジュールまで組んでいる。しかもその途中にまだ最初の映画もできていないうちから「次の映画の撮影日程」まで決める(!!!)」

ありえないだろう? 普通そんなこと?

どうも映画にしても何かホームビデオの撮影のノリでできる、音楽にしてもカラオケボックスで歌う感覚で音楽ができる、

そう考えているとしか思えない人たちがいる。

それが映画とか音楽とか全く関係のないズブのシロウトがやっているのならまだわかる。(それでもそういう認識の人たちは困るけど)

信じられないかもしれないが上記のメチャクチャな計画とバジェットで制作進行しようとしているのは、本来我々制作の世界に近いと思われる芸能事務所なり、モデル事務所だったりする。新規事業と称してそういったところが制作を始めているのだがそれが実にお粗末な実態で進行しているところが少なくない

自分たちの所属女優なり、モデルが撮影現場やスタジオでどれだけ制作現場が大変なものなのか、見ているはずである。
なのに誰が考えてもシロウト以下の考えで制作進行しようとしているところが少なくない。

まず第一に思うのは我々の制作の仕事はそんなに第三者からみて「簡単に」見えてしまうのだろうか?そんなに「誰でもできそうな仕事」に見えるのだろうか?

第二に音楽でも映像でもコンテンツ制作はタダでできるはずなどない。ITやコンピューターのソフトウエアまではいかないが、正当な予算は必要なのである。例えばITのシステム維持のソフトには数千万払う会社がなぜ音楽や映像を二束三文で作ろう、などという発想をするのだろうか?

何度もこのブログで論じているが、今この国は「クールジャパン」なる日本のアニメやゲームのコンテンツを初め、日本の文化を世界に売り込もうとするプロジェクトを経産省の旗振り役で押し進めようとしている。当然そのコンテンツはクリエーターによって創造されたものである。

だが上記の2点のような考えで、100円ショップの価格でコンテンツを作ろうなどと考えている会社にはクリエーターを尊重したり、敬意を示す態度は微塵も感じない。それどころかまともなクオリティで制作するのは不可能なスケジュールとバジェットでいいものができる、などともし本気で考えているとしたらそれは世の中で制作に従事しているスタッフ全員への侮辱に近い。
(そもそも100円ショップの商品程度の予算と工程しか組まない作品が映画祭で受賞どころか入選する作品という「宝石」に変わる、などと本気で考えているとしたらバカとしかいいようがない)

つまりコンテンツやクリエーターの仕事の価値など到底理解しているとは思えない。そのような国の人間が自分たちの国のコンテンツなどをまともに売れるわけなどないのである。

どこかの某有名IT企業のようにクリエーターにボランテイアを強制してギャラを支払わない、などというのは言語道断だが、同じようにコンテンツ制作関係者や専門家を愚弄しているとしか思えない会社ももってのほかである。

いずれの場合も3流以下の会社だ。そういうところとは仕事をしてはいけない。

ここで云う一流とは必ずしも「有名な企業」とか「有名人」という意味ではない。某有名IT企業のように誰でも知っている企業でも体質は3流以下の会社などいくらでもある。

問題は仕事の進め方が一流かどうか、だ。いわゆる有名企業や有名芸能人でなくても仕事ぶりが超一流の人はいっぱいいる。長年制作現場にいたので仕事の進め方が一流かそうでないかは見ていてわかる。

私はそういう人や会社としか仕事をしたくない。


6月 2, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2015年3月28日 (土)

いまだに頻発!? プロへのボランテイア強制やタダで依頼するケース

当ブログでも以下の記事を書いていまだにアクセスが多いのだが

プロ、クリエーターに無償(ギャラなし)で仕事依頼する風潮について
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/06/post-2ea1.html

「ボランテイア演奏」に関する勘違いと音楽家やクリエーターを人間扱いしていないこの国の風潮
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/08/post-4eac.html

どうもいまだにこういうケースが頻発しているらしい。ネットでは一番こういうことを理解してほしい人にこの記事のメッセージが届いていないようである。

先日も私には珍しくfacebookの公開記事としてtwitterにも流したのだが私のFB友人以外の人数百人という驚くべき数の人がこの記事に「イイネ!」をしていた。

 

プロに無報酬で仕事を依頼してはならない。
当たり前の話なのだが、こういうことを書くと反発をする輩が後を断たないのはなぜだろうか?それは以下のことが理解できないからだろうと思われる。「正当な報酬」を支払わずにプロに仕事を依頼して反発を招く人のパターン

 

(1)「プロにタダで仕事を依頼する場合、お金以上に価値あるものを支払わなければ、それはプロに対する侮辱or搾取である」ということを理解していない。


(2)「プロにとってお金以上に価値あるもの」を支払っていると依頼者は思っているが、プロにはそれほどの価値があるとは思えない「報酬」でしかない。

(3)友人・肉親・恋人に対して「甘え」がある。

(4)ボランティアをしたいプロもいるだろうから、と、プロに依頼してしまう。プロの方から申し出ればそれは「ボランティア」だがプロに依頼している時点でそれは「ボランティア」ではない、ということを理解していない。

■プロにタダで仕事を依頼するために必要な条件
http://fromdusktildawn.hatenablog.com/entry/2014/06/16/151723

実際いまだにこういう内容のことを書くとネットでは反発を食らうらしい。そして当たり前のようにプロフェッショナルに対して「タダで」依頼するケースがどうも後を断たないようである。それにしてもこういう当たり前のことをネットでいうと批判されるというのは何なんだろうか?特に「ボランテイア」は自主的な意図でやる場合にのみ「ボランテイア」として成立するのであって、他人から決して強制されるべきものではないという当たり前のことが理解できない人間が多すぎる。(実際「ボランテイア」を断って人でなしよばわりされたことが何回かある。)それだけ「ボランテイア」活動というものをきちんと理解していない人間が日本では多すぎるというこだろうが、何よりもこういう話が肝心の仕事を依頼しようとする人間の間に十分に行き渡っていないため、こういうケースが後を断たないのであろう。

プロフェッショナルな仕事に対する敬意、というものがない社会に未来はない。そして正当な報酬を支払わずにプロにタダで仕事を依頼するのは、侮辱搾取のどちらかであって、プロたちの反発を招くのは当然。

こんな当たり前なことがなぜ理解できない人間が多いのだろうか?

 

 

 

 

 

3月 28, 2015 文化・芸術 | | コメント (0)

2014年8月19日 (火)

ろくでなし子や写真家・鷹野隆大の作品撤去騒動に見るもはや時代錯誤な日本の「猥褻」の定義とその馬鹿馬鹿しさ

このブログでも行政やその他が「猥褻」(わいせつ)に関して議論する際、その表面的、なおかつ芸術に関する無理解、無知をベースとして不毛な議論に対して批判をしてきた。

記憶に新しいアーチスト「ろくでなし子」さんの猥褻配布による逮捕騒動

■ろくでなし子さんが会見「女性器はありのままでいい」 無罪を訴える
http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/24/rokudenashiko_n_5616007.html

そして名古屋市の愛知県美術館で開催されている「これからの写真」展でこんなことがあったらしい

撤去しなければ検挙するといわれ、やむなく展示変更となった愛知県美術館展示について写真家・鷹野隆大さんに聞く
http://www.webdice.jp/dice/detail/4347/

いずれも女性、男性の性器が表現される、というこの国のあまりに表面的で一律な「猥褻の定義」を元に警察が動いた例である。

鷹野さんの作品は結果的におおわれているため、実際に見ることができないが、何度もいうように芸術表現云々などという論議はあさっての方向に行く反面、「性器が表現されている=猥褻」などという一義的な猥褻の定義などいい加減やめたらどうなのか

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ヘルムートニュートンの墓石と生前の写真

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警察の「圧力」で展示方法を変えた鷹野作品

例えば世界的な写真家のヘルムート・ニュートン(1920-2004)、には性器が移っている写真作品などたくさんある。だが少なくとも日本国内以外でそれらの作品が猥褻だ、などという話は聞いたことがない。そんなバカなことをいっているのは日本人くらいである。

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あとルネッサンスの絵を見れば性器が描かれている著名な芸術作品などゴマンとある。

たとえば、左図のルネッサンス画家マザッチョ(Masaccio)(1401年 - 1428年)の有名な「楽園追放」

いうまでもなく「禁断の実」を食べたアダムとイブが神の怒りを買い楽園を追放される様を描いた作品だが、見ての通りアダムの男性器がはっきり描かれている。

この作品が猥褻でなくて、鷹野隆大さんの作品(上記の「覆い隠された]作品)が猥褻である、という根拠、理由は一体どのようなものなのか警察に是非聞いてみたい。

もしマザッチョの作品が芸術で鷹野隆大さんの作品が芸術でないから、などという理由だとしたらこれは鷹野隆大さんに対する侮辱でもあり、警察がそのように結論づけた、理由、根拠は薄いといわざるを得ない。

たぶん私の予想ではそんな根拠など示すことなどできないであろう。

元々芸術のゲの字も知らん奴らが勝手に決めているだけの話だ。

いい加減こんなバカバカしい、時代錯誤ともいうべき猥褻の定義とやらをやめたらどうなのか。

実際性器がダメだ、などといっても今はインターネットの時代、海外のサーバーを使ってしまえば「無修正AV」などストリーミングし放題だ。そうなるとインターネットの時代ではもはや一国だけの猥褻の定義に固執したところでもはや何の意味もない。

日本の猥褻の定義が時代錯誤であるのは明らかである。

またいわゆるモザイクもの(無修正でない)AV作品でも女性の暴行や強姦を誘発しかねないようなAV作品も存在する。それらが猥褻でなくて ろくでなし子さんや鷹野さんの作品が猥褻だ、などという理論的根拠は一体どこにあるというのだ?

いかに馬鹿馬鹿しい定義であるかわかると同時に、この日本という国の文化程度の低さを実質的に露呈した結果となっている。

少なくとも鷹野さんの作品はいやしくも美術館で展示している、それだけで十分芸術を意図したものであることは明らかである。

もうこういうバカバカしい騒動はいい加減にしてほしい。あえていうが日本の恥だ。

 

 

 

 

8月 19, 2014 文化・芸術 | | コメント (0)

2014年8月13日 (水)

「ボランテイア演奏」に関する勘違いと音楽家やクリエーターを人間扱いしていないこの国の風潮

<例によって長文注意>

まず告知だが一昨年の緊急入院を除いて毎年参加しているセプテンバーコンサート
例年は一回のみの参加だが今年は考えるところあって二回演奏します。

・ 9月11日 18;00開場 19;30開演   アートカフェフレンズ (30分ステージ)

・ 9月14日 18;00開場 19;30開演   下北沢 音倉  (20分ステージ)

これは昨今の安部政権の集団自衛権容認による事実上の憲法9条の骨抜きの状態で、69年間戦争をしなかったこの日本という国が実際に戦争に巻き込まれる可能性が出てきたことに対する危機感のためである。

過去8年間セプテンバーコンサートの参加で今年ほど強い危機感を感じながら参加したことはない。

この状況は一音楽家として音楽によるメッセージを発しないわけにはいかないと考えたために今年は二回に分けで参加する

セプテンバーコンサートは勿論、ボランテイアとしての参加である。

いうまでもなくこれは自主的な参加、私自身の音楽家として、人間としての信念を表明するために行っているものである。誰からも強制はされていない。

つまり本来ボランテイアは本人が自主的な意思主体的な意思を持って参加するもの であって、

決して他人や第三者がそれを強制したり、本人の意思に反する形で無理矢理参加させる、ということは絶対にあってはならないことである。

当たり前の話だ

ところがその当たり前の話を理解できない、勘違いしている人間がこの国には少なくない。

たとえばイベント等でプロにボランテイアを要請が来てそれを断るとすると

「あなたにはボランテイア精神がないんですか? この地域に貢献しようとは思わないんですかっ?」

、とまるでボランテイア演奏をしないこちらをあたかも犯罪者呼ばわりするような輩がいる。実際私も複数回こういうことを経験した。

私の直接の知り合いではないが、実際こんなことを経験した演奏家がいる。

『ボランティア演奏』ということ
http://ameblo.jp/meg-harp/entry-11754655210.html

去年、こんなに世間が賑わっているシーズンにも、病院に入っていて遊びにも行けない方というのはたくさんいらっしゃるんだよなと思って、どこかの病院にボランティア演奏に行こうと思ったんです。

で、どこか演奏できそうな病院はあるかな?と思って調べてみたら、

『無料で演奏してくださる方を募集しています。プロに限ります。』

と書いてあるところがあって、一瞬で萎えた

 

 

 

<中略>

、「タダでも演奏したいんです」という気持ちを「あ、うちプロ以外お断りなんでwww」って拒否るってどうなのよ。

そもそも、音楽家というのは労力に対しての収入が返ってくることは滅多にないので、やはり「無料」というのはとても厳しいものがあるのです。

<中略>

数年前にある病院にボランティアで演奏に行ったんです。

交通費が往復でガソリン代込みで1万円近くかかって行ったところだったのですが、
「是非弾いてください」
とのことだったので、時間もあったので行って来て演奏したんです。

演奏終わって、そちらの院長先生とお話していたら、

「うちの家内は趣味でピアノをやってましてね、家にスタインウェイがあるんですよ」
とのこと。

※スタインウェイ=1千万超のピアノ

この院長先生は趣味でそんな高いピアノ買う余裕があるのに、どうして1ヶ月の食費もままならない私はわざわざここに1万円も出して自分の演奏を提供しに来たんだろう、とすごく疑問に思いました。

この二つの話で呆れるのは、病院にしてもその「院長先生」とやらの医者にしても、「医療」という技術を売って医療費、診療報酬と患者から日常的に取っている人種であるつまり自分の技術はタダでは売らないが、音楽家の技術に対してはビタ一文払わないで平気な顔をしているということになる。

上記の例のようにスタインウエイのような高級ピアノを買う金がありながら、音楽家に対しては「当然ボランテイアで弾いてくれるよね?」などと当たり前のように要求する人間。上記のブログ主が怒るのも当然だし、もしその記事の口実に叩いているアホな人間がいたとしたら(いたとしてもどうせアホでヒマなネット住民だ)そちらの人間の方がはっきりいって頭がおかしい。なぜならこのような行為は

全く恥を知らない行為であると同時に音楽家を全く人間扱いしていない行為だ。

こんな人間がこの国には本当に多い。当ブログでも同じようなことを書いたが

プロ、クリエーターに無償(ギャラなし)で仕事依頼する風潮について
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/06/post-2ea1.html

この記事にも書いてあるが、プロに対してギャラを払いたくないために

あなたにはボランテイア精神がないんですか? 無償で貢献しようとは思わないんですかっ?

と音楽家やクリエーターに要求することは、

一流レストランのシェフに対して

あなたにはタダで料理しようとは思わないんですかっ?食べ物を無料で提供しようとは思わないんですかっ?

といって食い逃げを正当化する行為と全く同じである。

もしこの話を聞いて、食品という物品とクリエーターや演奏家の演奏といっしょに考えるのはおかしい、と考えた人がいたとしたら、あなたはロのノウハウ、技術に対して何の価値や敬意も払っていない証拠だ

形ないものはタダで提供するのが当然だと 思っている証拠だ、

今この国は日本のアニメ。ゲームを始めとするコンテンツ、料理、文化を世界に対して売り込もうという「クールジャパン」なる運動を経済産業省が旗振り役でやろうとしている。

これは日本の独特のノウハウや技術を世界に対して売ろうという企画である。

しかしノウハウや技術に対して全く価値を見出さない国が、自分たちのノウハウや技術を世界に対して売れるわけがない。

また「クールジャパン事務局」にもクリエーターにはタダ同然で働かせ、クリエーターにはピタ一文権利すら渡さず、官僚とその周囲だけでおいしいところだけ取ろう、などという無茶苦茶なことをやりかねない人間が少なくないのも事実。そこにはクリエーターを尊重し敬意を表す態度など微塵もない。

こんなことを平気でやってどの面下げてクールジャパンだ、といいたい

話がそれたが、

何度も云うようにボランテイア演奏、いや演奏だけではないが、ボランテイアというのはあくまで本人の自主的な意思によって行われるべきものである。

そういう人間に対してはイベントやその他の主宰者は当然ボランテイアをやる人に感謝の意を表明し、最低限のことー(せめて弁当とか交通費くらいは出すとかetc) を行ってボランテイアの善意に対して報いるのは人間として最低限の当然のマナーではあるまいか。何かそれが今忘れられているような気がする。

何かボランテイアをするのが当たり前だ、あるいはボランテイアを拒否するのは人でなしだ、などという「善意」をかさに来た暴力(といっていいだろう)行為が最近頻発しているような気がする。

人を人として見ていない、何かそんな人間がこの国に増えてはいないだろうか?

また上記のブログ主のように特に今日本という国は、演奏家、とりわけクラシックの演奏家が自分の演奏を発表できる場所は確かに少ない。

それをいいことにおもにクラシックの演奏家の足元見て「善意」をかさに来た暴力ボランテイアを強制する例が後を断たないわけだ。また結局それに負けて話に乗ってしまう演奏家が多い、という問題もある。

だがね、結局そういうボランテイア演奏を強制する連中は皆さんの演奏の価値なんか、ハナからわかってない。価値など最初から認めてない。だから平気でタダでやれといってくるわけだ。

どんなに皆さんが素晴らしい演奏をしてもこういう連中にはその価値など理解できるわけがない。はっきりいって豚に真珠だ。 そんな連中のために演奏してもあなたのためには絶対にならないしはっきりいって時間の無駄だそういう口車には決して乗ってはいけない:

来月私が参加するセプテンバーコンサート

この集団自衛権をかさに「今日本が戦争に巻き込まれるかもしれないんですよ。どうしてタダで演奏しようとは思わないんですか?」

などという輩がいないことを祈るが、もし万が一そんなことを平気でいう奴が出てきてもそんな話に乗ってはいけない

演奏家もクリエーターも自分の技術、ノウハウが命である。その価値を自ら貶める行為はしない方がいいと思う。

 

 

 

 

8月 13, 2014 文化・芸術 | | コメント (3)

2014年6月12日 (木)

プロ、クリエーターに無償(ギャラなし)で仕事依頼する風潮について

本日twitterにこれを書いたらたちまちリツイートの数が100を超え、今も増え続けている。

「モノには原価があるけど 技術はタダでしょ。こういう発言を実際見たことがある。日本からこの風潮がなくならない限り閉塞状況は続くと思うしどの面下げてクールジャパンだ、ということになる。■どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか::

どうも昨今ネットではこの話でもちきりらしい。当ブログでもこういう記事を書いた。

■コンテンツー形のないものにお金を払いたがらない日本人ー文化程度の低さ、文明国家とは到底いえないコンテンツに対する意識
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/02/post-1031.html

この記事の中でもtwitter経由でこのような情報が入ってきた

サイバーエージェントはイラストを作家に依頼した際、ギャラの事を聞かれて「そんなことより、XXさんには夢とか無いんですか?有名になりたいとか名前を
売りたいとか」とか言いだして、ギャラのことをうやむやにしようとしたそうで、すげえなと思いました いい根性の会社だと思います
 

上記の記事があれだけリツイートが多いというのは実際問題として同じようなシチュエーションを経験している人が多いということだろうか?

■どうしてプロに無償で仕事依頼しちゃダメなのか:http://d.hatena.ne.jp/goto-ahiru/touch/20130207/1360241556

私もサラリーマンを経験した時代があったが、サラリーマンにはサラリーマンなりの大変さがあるのがわかるが、それでもサラリーマンは変な話「天から給料が降ってくる」立場で極端な話別に仕事をしなくても困らない。しかし私のようなフリーランスは一時間一時間が直接生活にかかってくるため、そういうわけにはいかない。我々はサラリーマンと違って「時間」とその技術を売って生活しているのである。

一方、先日の記事では批判してしまったが、つぶやきかさこさんの有名な記事があるがこれが昨今の事情を言い当てている

サラリーマンは自営(フリー)の気持ちがわからない
http://kasakoblog.exblog.jp/15108812/

実際問題として「サラリーマンの担当者」の中にはプロやクリエーターが"技術"をお金に変えて生活しているということを理解できていない人が少なくない。上記の記事の中で"技術"を無理やりモノに置き換えて例えると、

八百屋さんに「このリンゴ、タダでちょうだい」とか
「今日の買い物分、全部タダにして」と言っているようなものです。
場合によっては、「数日分の買い物をタダにして」位のこともあるかも。

さらに「ここの店はタダでくれるよー!って宣伝してあげるね」と

いかにおかしなことを云っているかわかるであろう。

"手に職系"技術者は一般的な雇用と異なり、時間+αによってその職業が成り立っています。
この+αこそが、その人ならではの"技術"。

このことを理解できない人間が本当に多い。

モノには原価(仕入れ値)があるんだよ。
"技術"はタダでしょ。ちょっとやってくれてもいいじゃん!!

こういう発言を実際本当に目の前でしている人間を見たことがある。
結構有名な会社(はっきりいうがベンチャー系にものすごく多い)の人間で平気でこういうことをいう奴が多い

しかしこの記事

ギャラを言わずに仕事を頼む会社は要注意
http://kasakoblog.exblog.jp/15191248/

これらを見ると単なる「コンテンツ」とか「ノウハウ」はタダでしょといった短絡的な観点だけではない日本社会、しいては日本人自身の国民性に関わる問題があるように思える。

私は日本とアメリカ両方の社会を知っているので、いい悪いは別としてアメリカと日本の社会の体質はある意味水と油であることがわかる。だからいわゆるIT系やエコノミストの中によくいるエセグローバリスト連中のいう、アメリカはこんな素晴らしいシステムなのに日本がこうなっていないのはおかしい、などといった論調には激しい違和感を覚える。これは両国のローカライゼーションの特質を無視した議論であり、日本がアメリカ社会と同質の社会になるべきだ、などという議論は全くのナンセンスである。

アメリカはよくも悪くも契約社会であり、ビジネスのことになると徹底的にドライである。それはメジャーリーグを見ればわかるが、どんなにファンやチームメイトに愛されている選手でも契約その他の事情で他のチームにトレードに出されるなどということは珍しくない。どんなに親しくても、ビジネスはビジネスというきちんとした線引きが良くも悪くもできている。

一方日本は「情」というものが人間関係に大きなウエートを持っている。それが日本の情感、風情さまざまなところに影響している。友人や親戚が困っていたら損得に関係なく助けてあげるという風潮がある。そのため「お金の話をするのはいやらしい」という雰囲気がどこかにある。そのためギャラ、納期といったビジネス上一番大事な情報がウヤムヤにされた状態で仕事がスタートするケースが少なくない。それが悪い方向になるといわゆるナアナアの関係になってしまう。そうすると「友達だから」「ちゃちゃっとテキトーでいいから」などを理由に無償で頼むなどということが横行することになる。そしてその日本人の「情」というものが地域のボランテイア活動、組織の方まで拡大するともっとやっかいなことが起きる。

故やなせたかし氏が「ボランテイア」意識で全国のゆるきゃら200以上を無償で書いていたのは有名な話だが、それらの多くは「地方公共団体なので金がない」とか「町おこしにご協力を」とかなんとかいいくるめてタダ働きさせたようだが、それを気軽に受けたやなせ氏も問題あるものの、当たり前のように頼んでくる地方公共団体も酷いものである。

だいたい作家に頼むときに「あなたには地域愛がないんですか? 地域に無償で貢献したいとは思わないんですか?」とかさっきのサイバーエージェントの例のように「あなたには夢がないんですか?」などといってギャラの話をさせない、ギャラを払わない、などという行為ははっきりいわせてもらえば 恐喝、脅迫そして詐欺行為と同じである。上記のやなせ氏のケースでいえば地方公共団体がそういう犯罪行為を何の疑問ももたずにやっていたことになる。これはやはり恥を知れ、といわざるを得ない事例である。

勿論制作予算というものがあり、それが十分なものでないケースはよくある。その場合は事前にクリエーター、プロにきちんと説明し、今回は十分なギャラでなくても別の仕事でそれを返すように配慮する、などといったことをやるべきである。

私もよく「タダで曲を書いてくれ」と頼まれることがある、ひどい場合は知り合いでも何でもない人間から頼まれたことすらある。(はっきりいって非常識にも程がある) 云うまでもなくそういう仕事は絶対に受けない。(実はギャラがないというのは「仕事」ですらない)

絶対に受けないのは別に金もうけ主義ー守銭奴(笑)だからそういっているのではない。私は結構自分の仕事の対価で多くの企業、クライアントさんからお金をいただいているが、そんな無償の仕事を受けてしまったら私の能力を評価して私の仕事の発注を下さるクライアントさんに対して失礼にあたるからだ、

プロの"技術"をタダにさせるというのは、その人がその業界で生きていくのに大事なものを軽んじる行為なだけでなく、業界全体にまで影響を及ぼしかねないことなんです。
無償や低価格でも引き受ける人がいることが広まったら、業界内での買い叩きも起こりかねない。
だから、あくまで「親しい間柄」で「特別な場合」に「好意」でする場合を除いて、プロの技術者は無償で仕事することを好まないのです。

私このブログを読んでいる人が私の音楽、曲についてどう評価されているかは知らないが、少なくとも私をプロフェッショナルとして評価し、仕事の依頼を下さる方がいらっしゃる以上そういう人たちの礼を失する行為は絶対にしてはならない。またそのことによって私以外の音楽プロフェッショナルの評価も結果として下げてしまうことになるのである。だから余程の正当な理由もなくプロとして無償の仕事を請け負うというのはやってはならないし、依頼する人もたとえ友人だろうが親戚だろうがそういう依頼はしてはならないのである。


またプロだからって、否。プロだからこそ、「ちゃちゃっとテキトーに」なんてできないんです。
プロとしてのプライドなどもありますが、いい加減なものが自分の仕事として広まるのは、その"技術"が売り物だけに避けたいのです。
だから好意の無償仕事であっても、殆どの方が有償の仕事と変わらない仕事をしていると思います。

そうプロである以上、どんな仕事でも手を抜くわけにはいかないんだよ。極端な話をすれば100万の仕事も5万の仕事も手間的にはそんなに変わらないのだ。え? と思うかもしれないがそれが現実なのだ。プロとして生きている以上どんな仕事も手を抜くことはできないのである。

つまり少なくとも、クリエーター、プロフェッショナルに何か仕事を頼もうと考える場合には日本的な「情」の要素、ナアナアの要素は絶対に持ち込まないで欲しい。ということだ。ボランテイア的な活動を一切否定するものではないが、それはあくまでクリエーター、プロの自主的な意思に基づいたものでなくてはならず、決して何等かの形での強要や本人の意思とは違う形でそれが行われてはならない。

アメリカ的な契約社会の全てがいいというつもりはないが、少なくともフリーランス、クリエーター、プロフェッショナルに仕事関係で接触する場合はビジネスはビジネスという形で徹底していただいた方がいい。

それがどうしてもできない人は、少なくても仕事関係の方面でフリーランス、クリエーターの関係者とおつきあいをすることはやめていただきたい。

日本からこの風潮がなくならない限り日本の閉塞状況は続くと思うし、そういう行為を続けてどの面下げてクールジャパンなんていうんだ、ということになる。そうなれば日本は世界中の笑いものだ。

 

 

 

 

 

 

6月 12, 2014 文化・芸術 | | コメント (0)

2014年5月19日 (月)

美味しんぼ騒動を見てー過剰反応と「風評」を盾にした言論と表現の弾圧、独裁国家の体をなしてきた日本(今回も長文注意)

既にご存じの通り「美味しんぼ」の福島の描写で騒動が起きている。

この騒動の成り行きを見ていると当ブログで書いた以下の構図と全く同じであると感じる、

■放送禁止のCMに見る日本の「表現の自由」の危機と日本社会を閉塞させている病原菌たち

https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2013/03/cm-b0f6.html

■ドラマ「明日ママがいない」その他CMの状況に見る、安部政権の表現の自由項改悪とは別のもう1つの危機

http:/kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/01/cm-af54.htmll;

■当事者気取りで『大声で」批判する表現の自由をなくす害虫たち;

https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/02/post-852e.html

すなわち以下の構図を見ることができる

ある表現に対して「過剰反応」するクレーマーの大合唱が起きる
(今回の場合、政治家、官僚そしてマスコミ)
             

これにネットの「ヒマ人」連中が便乗して叩く
           

その「批判」に表現の発行元が腰砕けになり、自粛、発行停止等の措置を取る
(事なかれ主義、発行元トップの「保身」

そして以下のようなことが実際に起こった

「美味しんぼ」休載へ=19日発売の最新号で釈明-小学館
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-2014051700128/1.htm

「美味しんぼ」“風評”釈明で識者の見解集約 次号で特集記事掲載へ
http://www.oricon.co.jp/news/2037043/full/

私はこれは日本の表現の自由の危機である、と何回も書いてきた。クレーマーという害虫によって放送禁止の追い込まれた数々のCMや脚本を書きなおさざるを得なかったドラマ「明日ママがいない」それと同じ構図のことが今回も起きたわけである。

但しCMとドラマのケースと違うのは、今回のクレーマーは原発の悪影響を可能な限り「小さく」報道したいという思惑の政治家と官僚、そして電力会社の広告がなくなることを恐れた大手新聞を始めとするマスコミである。政治家、とりわけ原発の利権を守ろうとする政治家はまあ過剰反応するのは予想できる。だがいつものことだが、今回のマスコミの反応はいただけない。

さらに今回も問題なのは「きちんとした取材に基づく表現」と言っておきながらいとも簡単に腰砕けとなったビッグスピリッツの発行元の小学館である。

1.権力迎合、権力に従順なマスコミ

まず今回大々的にバッシングに加わったマスコミだが、1つ問いたいのはそもそもマスコミは今の福島の現状に対してどれだけきちんと取材活動をしているのか、という点である

あの震災から3年以上経過したが、福島第一原発の周囲には一部のフリージャーナリストを除き、マスコミ関係者は殆ど取材らしい取材をしていない。それは報道各社が「官邸記者クラブ」内の報道協定の元「コンプライアンス」に基づく取材自粛という名の「報道しない自由」を行使しているためである。殆どのマスコミの情報は政府や東電の流す、信憑性に乏しいといわざるを得ない情報を垂れ流ししているだけである。

つまりそんなマスコミがあの「美味しんぼ」の内容を風評をばらまく、などと批判する資格が果たしてあるのか? という点だ。

マスコミ各社がきちんとしたジャーナリズム精神に基づき、今福島で何が起きているのか、真実は何なのかをきちんと取材していた上での批判ならわかる。だが残念ながらどうみてもそのようには見えない。

そもそも放射能について「どのくらい以上が危険」で「どの程度なら問題ないのか」その情報が一般国民には殆ど開示されていない。そもそもシーベルト は値が問題なのではなく、その値がどれだけの時間枠(1時間なのか、一日なのか)表示されているのかが問題である。そのことを政府は勿論のこと、マスコミ 各社は殆ど何の取材もしていない。

私がとある専門家のサイトに書かれていることを記事に書いた。私が見たところもっとも信頼性が高い人の記事なのでご興味のある方はご覧いただきたい。

■放射能値ーどのくらいが危険かの認知方法について
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20131107

政治家の中でもこの知識が広がっているとは思えない

小泉進次郎氏「美味しんぼ」描写に反論 「あれだけ行ってるのに鼻血流したことない」「行くたびに元気
http://www.j-cast.com/2014/05/14204709.html

政治家なんてどうせ一瞬かそんなに長い間現地にいくわけではないだろう。問題は放射能の値ではなくその場所にどれだけ長くいたか、という点、そして抵抗力の低い子供たちと大人を同じ尺度で語るのもおかしい。そんなこともわからん奴が「反原発」など語るなといいたい。

反論があるマスコミ関係者は反論をしていただいて結構、ただしネットのヒマ人君たちはご遠慮願いたい。あなたたちにかまっている暇はない。

2.自分の表現に責任と信念がない発行者

そしていつもながら世間の批判にいとも簡単に腰砕けになる発行者、今回は小学館なわけだが、そもそも「美味しんぼ」のような人気マンガがこういうことを描けば大きな反響が出るくらいのことは予測できたはず。そしてビッグスピリッツ側は「きちんとした取材に基づく表現」と言っている。ならば自分たちの取材した内容に対してもっと自信を持っていいだろうし、批判があれば反論すればいいだけのこと。

その辺の大企業の広告担当者のようなシロウトならともかく、小学館はれっきとした言論機関であり出版社である。なぜ自分の出した表現、言論に自信を持つことができないのか?会社のトップも「事なかれ主義」「保身」にかられ、販売自粛などという措置をとるのは「腰砕け」といわれても仕方がないし、言論機関として恥ずかしいとは思わないのか。といいたい。

美味しんぼに登場した松井英介医師は別に個人的に知っているわけではない、だがこの人の語り口等を見ると意図的に風評やデマを流す人には見えない。

そしたらはたせるかな、こんな情報が飛び込んできた

福島県双葉町で鼻血「有意に多い」調査 「避難生活か、被ばくによって起きた」
http://www.j-cast.com/2014/05/16204959.html

福島県双葉町では、鼻血などの症状の統計が有意に多かった――。岡山大などの研究グループが町の依頼で健康調査したところ、こんな結果が出ていたことが分かった。一体どうなっているのか。

   健康調査は、岡山大、広島大、熊本学園大のグループが、「美味しんぼ」で鼻血の症状を訴えた井戸川克隆町長時代の2012年11月に実施した。全町民にアンケート用紙を配って調査したため、町に配布などの協力を依頼した。

体がだるい、頭痛、めまい、目のかすみ、鼻血、吐き気…

 その中間報告が載ったのは、熊本学園大の中地重晴教授が13年11月に学術雑誌に発表した論文だ。「水俣学の視点からみた福島原発事故と津波 による環境汚染」の論文によると、住民には原発事故による健康不安が募っていることから、放射線被ばくや避難生活によるものかを確かめるために疫学による 調査を行った。

    比較するために、双葉町のほか、福島県境にあり放射線汚染地域でもある宮城県丸森町筆甫地区、さらに原発から離れた滋賀県長浜市木之本町でも 調査した。その結果、双葉町と丸森町は、体がだるい、頭痛、めまい、目のかすみ、鼻血、吐き気、疲れやすいなどの症状で、木之本町よりも有意に多かった。

   特に、両町では、鼻血が特に多く、オッズ比を取ると、双葉町が3.8、丸森町が3.5もあった。双葉町では、ほかに肥満、うつ病など様々な症状がオッズ比3以上の高い値を示し、両町では、消化器系の病気や神経精神的症状も多かった。

    論文では、「これら症状や疾病の増加が、原子力発電所の事故による避難生活又は放射線被ばくによって起きたものだと思われる」としており、事 故の影響であることを明確に認めている。今後は、双葉町が行った住民の動向調査から、被ばくとの関係をも調べる予定だとしている。

美味しんぼの情報が「風評をばらまく」といってバッシングしていた政治家やマスコミ関係者はこの論文に対してどう反論するつもりなのだろうか?

そもそも日本人は「議論する」ということをケンカと勘違いする人間が少なくない。アメリカの学校なら"Debate'(デイベート)"という時間をもうけるが日本の殆どの学校はそんなことをしていない。万事丸く収めて、討論するということを学校で教えていないためであろう。批判と誹謗中傷の差が理解できない人間も多い。ちなみに「批判」は議論の問題点を指摘する行為であり、誹謗中傷は問題点もクソなく人格を言葉によって傷つけることである。こういえば小学生程度の頭の人間でも両者の差がわかるであろう。

ちなみに言論と批判については藤子不二雄さんが「エスパーマミ」でこのようなことを書いている。

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「あいつはけなした、僕は怒った。 これでこの一件はおしまい」

そのとおり、これでいいのである。批判するのも自由だし、それに対する反応も自由。だけど相手の言論を封殺するような行為は断じてしてはならない。それが自由と民主主義の社会に住む人間の鉄則である。

今回の騒動は議論というものに対して未熟な日本人の体質と、原発の利権を守ろうとする政治家とマスコミによって事実上の言論弾圧が行われている、という点が大きな問題である。

今や安部にいいなりの広報機関となりつつあるマスコミ、きちんとした情報が公開されていない社会。そしてこのあからさまな言論弾圧

この国が急激に独裁国家に向かっていると感じざるを得ない。


5月 19, 2014 文化・芸術 | | コメント (0)

2013年12月 1日 (日)

商業主義と芸術表現の融合を目指した文化人ー堤清二氏を悼む

出張等で記事が一日遅れてしまいました。

もう日付変わって3日前のできごとですが、セゾングループ代表の堤清二氏が86歳で亡くなりました。西武セゾングループを業界首位までに押し上げ、一方では辻井喬というペンネームで詩人、作家として活動した二つの顔を持っていた方です。

セゾングループは特徴あるアートワークで有名でまさに芸術表現とコマーシャリズムを見事に融合させた人で私自身も堤さんの考えに影響を受けました。セゾングループのさまざまなイメージ戦略の関係で私もずいぶんお仕事をさせていただきました。その意味では堤清二氏には多大な恩があるといっていいかもしれません。

■死去した堤清二氏、経営に文化を融合 セゾン文化生む
http://www.asahi.com/articles/TKY201311280405.html?ref=com_top6

ご本人は「自分は経営者でも作家としても問題児」と言っていましたが、私は寧ろそれを誇りにしていたように思います。 音楽の分野が特に顕著ですが昨今は商業主義ばかりが優先され、芸術表現、アーチスト独自の表現というものが著しく蔑ろにされている傾向を感じます。それだけに今こそ堤清二氏のような存在が必要だったということができるかもしれません。そう問題児のどこが悪い、そう言い放ってもいいのではないでしょうか?

心からご冥福をお祈り申し上げると同時に故人の生前の様々な功績に敬意を表させていただきます。

86歳で亡くなった元セゾングループ代表の堤清二さんは、業界首位にもなった百貨店を経営するかたわら、詩人・作家の辻井喬として日本の戦後をみつめてきた。経営者から作家まで幅広い人たちが、二つの顔を持っていた稀有(けう)な存在を惜しんだ。

 堤さんは、鉄道や百貨店を展開する西武グループ創業家の次男として生まれた。

 詩や小説に興味があった本人は、もともとは「家を継ぎたくなかった」という。ただ、父の故堤康次郎さんの遺言で、本業の鉄道は異母弟の義明氏に、百貨店は堤さんに継承された。

 堤さんの豊かな才能は、百貨店経営にいかされた。1973年には渋谷パルコを開店。このなかの西武劇場(現パルコ劇場)から小劇場ブームが広がった。小売業に、現代美術や演劇などの文化事業を融合させる経営手法は「セゾン文化」という言葉を生み、同社の売り上げを押し上げた。


12月 1, 2013 文化・芸術 | | コメント (0)

2013年9月 8日 (日)

2020年東京五輪に向けて日本を真の意味で「クリエイテイブな国」にするための考察

今朝未明、2020年の東京五輪開催が決まった。福島原発の問題とかの懸念は払拭されないままだが、それは別の記事で論じるとして音楽の1クリエーターとして私がもっとも懸念し忸怩たる思いでいること。

それは今の日本音楽界のクリエイテイビテイがあまりにもお恥ずかしいほど酷いレベルであるという点

はっきりいう。このままじゃ日本の音楽は世界中からの笑いものになる、音楽制作の現場にいる人間としてはこの状況を打開するために何かを考えないと、現状では日本人としてあまりにも恥ずかしすぎる。あと7年あるが、7年しかないということもできる。

とはいえ、今の音楽業界のトップに発想の転換をさせるのは100%不可能である。文系の人間に偏微分sinθcosθの入った複雑な数式を理解しろというようなものである。となると我々が独自で何らかの方法を考えて世界中をアッといわせるようなものを作っていくしかない。開会式でAKBやジャニーズのようなものだけを全面に押し出されてしまってはたまったものではない。考えただけで精神的な拒絶反応を感じる。

そのためにも何らかの方策を早急に考えなくてはならないが、その前に現代においてそもそもクリエイテイブとは何ぞや? ということの自問自答から始めないといけない。その中で次の記事の中にヒントがあるような気がする。

■クリエイティビティという言葉を振り回すのではなく、本質的に創造的であれ
http://www.kohkoku.jp/sp/201310

MIT Media Labの教授の石井裕氏がカンヌ広告祭で今年から新設されたイノベーション部門史上初めて"Cinder"というコンピューターソフトウエアが受賞した時のインタビューである。

映画祭とならぶ世界的にも重要な広告祭でコンピューターソフトウエアが受賞したこと自体が前代未聞だが、長い文章なので、重要なポイントだけ引用する。

<前略>

「クリエイティビティ」と口で言うのは簡単だけど、なにが本当の創造性なのかという根源的な問題。まず伝えようと思ったのが、僕らがMITでやっているエンジニアリングやアートを結びつけようとする方法論や物の考え方。

 

カンヌが初めてソフトウェア自体を、創造力として評価したんです。広告クリエイターや映像作家がつくる作品ではなく、その作品を作ることを可能にしたコーディングのアーキテクチャ自体に賞を与えようと。むしろ、作品そのものより、アーキテクチャ(創造を下支えするための構造)>自体のほうが創造的な時代なんじゃないかと。

<中略>

自分は理系だとか、自分はネクタイをしめているサラリーマンだというように、「ラベル」を貼った段階で、既に決定的に、自分の戦う空間を狭くしてしまっている。 インターディシプリナリー(専門領域を超えること)はすごく大事なんだけれども、理系、文系、デザイナー、アーティスト、技術者がコラボレーションするというのは、本当のインターディシプリナリーじゃない。 アーティストというだけで、C+を駆使して、コーディングすることが、全く期待されてないのはなぜか。プログラムが、どういうふうにつくられるのか、何なのかが理解できない。何がつくれるか、つくれないかもわからないで良いと思っている。それは大きな機会損失だと思う。 一方、エンジニアに対しては、アーティスティックな、まさにこういうコンセプチュアルな貢献がまったく期待されてない。それぞれ自分たちの役割分担の中にとどまっている。 そういう定義された区分けから産まれるもの自体に、明らかな限界があって、各人が美学と工学の両方をつかんでいなければ本当はダメなんです。すなわち、アート、デザイン、サイエンス、エンジニアリング、そしてビジネス、この5つのランゲージを全部しゃべれて、すべての世界に翻訳するに耐え得る深いアイディアだけをやろうとしなければ、これからは一切戦えない。ですから、理系・文系とか、あるいは課長・部長とか、メディアとかアイディアだとか、なんだとか、ラベリングが完了した時点で、ものすごく人間本来のルネッサンス的、躍動的な才能の半分が封鎖されてしまっているということ。 これから求められるのは、絶対に、ルネッサンス・ボーイズやルネッサンス・ガールズです。

<中略>

そういう意味でMIT Media Labがユニークなのは、芸術と科学といったような分類学自体もほとんどなくて、サイエンスをやりながら音楽をやったりすることとかが、スタンダード。最高のハッカーでありながら、すごいスカルプター(彫刻家)であるとか、コンピュータグラフィックスのプロなんだけれども、ダンサーであるとか、少なくともアート&デザイン、アート&サイエンス両方ですごくとんがったものがない限り、化学反応は起きない。そういう意味で各人の頭の中にそういったエージェントがいて、切磋琢磨しながら常に議論している。それが普通。

 

自分の土俵でないところの様々な分野に自分のノウハウを持っていってリアルタイムで翻訳してみると、そこでまた僕の頭が活性化する。そのリアルタイムの翻訳力、インプロビゼーション、自分と違ったコミュニティの価値観が刺激になる。違う業界のランゲージをできれば500ミリセカンドで理解する。次の500ミリセカンドで自分のアイディアを翻訳して投げかえす。その訓練がとても大事なんです。

昨日話されていた中でオーラリーの天体模型のハンドルの話が、とても印象的でした。血液など循環系、身体性から筋肉、細胞に至るまでを動かしているハンドル、そういった部分を人間になぞらえると、極めて多くの情報をアニメイトしていくこと、それらを同期していくことで我々は生きていると。

<中略>

カンヌフェスティバルも、クリティカルなセミナーのタイトルなどを見ていると、本当かよ、本気で考えているのかよと、議論をふっかけたくなります。この製品を本当にアドバタイジングしたいのか、このパッケージを、この会社を。 クリエイティビティ・フェスティバルと銘打つのであれば、その場しのぎの雪かきみたいなものは、やめて欲しい。
飛行機の機内誌のただページを埋めているだけの商品広告とか。21世紀に創造的に生きようとしている人がこれだけいる中で、「一体これは何ですか?」と思わず言いたくなるのもあるじゃないですか。創造性という言葉だけは会場中を走り回っているのに。

<中略>

問いをつくること。受験戦争みたいに、正解の存在が保証された問題を速く解く、間違いなく解く。あるいは、あったりまえのことを言う。日本の優秀大学系の人は、いわゆる古い意味での優秀なので、失敗したくないんですね。例えば「どう思いますか」と聞くと、「とてもおもしろいです」。確かにそういう考え方もあると思いますが、全く意味がないですよね、悪いけど。エントロピーが全く減らない。一言で言うと、人の人生を無駄にする。ピンぼけで7秒無駄にしたという話で。
君との対話を通して、僕は一体どんな新しい事を学んだのだろう?「とてもおもしろかったです。ありがとうございます」。どんなレッスンを学んだの?140字に要約して呟いてみて。顔が点になってしまう。だから、何を学んだかも言えない。学んでない。学んでも、それを表現できない。人に伝えられない。

<中略>

去年ここで審査員をさせていただき、ひしひしと感じたのは、カンヌフェスティバルで受賞している企業って、結局、広告だけじゃなくて、会社の業績も企業カルチャーも非常にうまくいっているブランドばかりです。Google、Apple、BMW、MERCEDES、NIKE、素晴らしいフィロソフィーを発信するという広告と、商品設計が世界をリードしているということが、ほとんどイコールというか、いい意味での連鎖反応になっている。 つまり「ものがたり」と「ものづくり」の関係性こそが、企業じゃないか

<中略>

クルマや家電、PCにおけるこのスペック競争。何か思考停止しているんじゃないのと感じる部分もある。More is Betterじゃなくて、Less is Moreという、そういう哲学でなければいけない。昨日の講演後の対談でも言いましたが、サイレンス、あるいは空白が大事だということ。
人々の想像力と記憶で補完されて初めて完成する作品の強さ。


だから、エンプティーな心と物体の間を埋めさせること。音とドットの間にサイレンスがある。それが日本の美であって、そこを完膚無きまでにあらゆるピクセルで埋めてしまうのは、センスレスではないか。うちの父はIBMのコンピュータのプログラマーだったんです。彼からもいろいろ学びましたが、彼が持ち帰ってくるIBMの広報誌が『無限大』というすばらしい雑誌で、そこには文化的・哲学的なすばらしい考察があふれていました。たとえば歌舞伎や能に対する感性の考察で、余白にどれだけの趣が構築されているかを論じていた。アメリカ人というのは、文化的な不安で、無言を嫌ってしゃべりまくるでしょう、でかい声で。日本の美は、サイレンス。あるいは、空間の白い部分。
余白の設計で受け手の想像力を生めることが、日本の美学のコアだと思う。

<中略>

他流試合、異種格闘技を通して、彼ら、彼女らが急速に伸びる、そんな環境を作り続けたい。 僕は、出る杭力、道程力、造山力の3つって言っている。 出る杭力って、結局、出る杭は、力いっぱい頭を打たれて、打たれて。だから、生き延びるためには打たれないところまで、出すぎちゃうしかないんだと。道程力は、僕の前に道はない、僕の後に道はできる。要するに、自分で道を切り開く。100m競争で人より速く走ることは競争じゃない。誰も分け入ったことのない原野を一人切り開いて、孤独に耐えて全力疾走する。そこには観客も審判もストップウォッチもないんだということ。最後の造山力は僕の経験から。僕はMITに来たときに未踏の山を登ろうとやってきた。しかし、結局山は自分で造らなければならなかった、ということ。僕はゼロから山自体を造り、それに最初に登頂することができたからこそ、MITで生き残ることができた。そういう真剣勝負の緊張感を学生にも伝えたい。

<中略>

2200年の子孫に、2200年の地球に、一体どういうメッセージを、どういう文明を、残すことができるか。

最近はネットで長い文章を読むのが極端に苦手になった人が増えているのでポイントを整理するとこういうことになる。

1.作品の前にアーキテクチャー「創造を下支えするための構造」、つまり作品がおかれている環境、形式そのものを変えることから考えること

日本人は特に「形から入り形から少しでも離れたもの」を嫌う人間が多い、音楽の世界は特にその傾向が強い。しかしまずそれを否定することから始めないと創造的にはなれない

2.自分のフィールドだけに閉じこもるのではなく他分野との「他流試合」を積極的に行うこと。そこから新しいアイデアがわいてくる場合もある

音楽の世界の人はとかく近視眼的というか、自分の携わっている分野以外には興味を示さない人が多い。しかしこれだけメデイアや情報が発達した現代だからこそ自分とは一見無関係に思える分野とのコラボレーションから思わぬ展開や発想が生まれる可能性がある。
余談だが私が最近、劇伴関係に力を入れているのも、こういう「他流試合」から何かアイデアが生まれるのではないか、という期待もある。

3.たえず「問い」をつくること。今のやりかたでいいのか、何よりも今の作品が作品の受け手とコミュニケーションを取れる作品なのか

表現はコミュニケーションである。これが基本。その上で絶えず自問自答し世の中のいろんなことに対して問題意識を持つ。
あえていわせてもらえれば「今の売れセンを作れ」などという発想は完全に思考停止の発想である。今の音楽業界は作曲、作詞のクリエーターに思考停止を要求しているのである。そこにはクリテイブな世界は存在しない

4.その上でこの表現が「日本人にしかできない表現か」「日本独自のものになるか」を考える

これは必ずしも日本の伝統美を入れろ、とか日本の伝統音楽の素材を入れろとかそういうことではないと思う。勿論それらを素材とするのも1つのやりかたではあるけど本質的な問題ではない。何が日本人にしかできないものか、はクリエーター一人一人が考えればよい。

5.最後にこの作品が次の世代に残るものであるかどうか

実はクリエーターの中に「残るものを作る」と考えることを嘲笑する人たちがいる。「そんなこと考えても無駄だ、歴史のみがそれを決めることができる」という観点からだ。勿論自分で自分の作品が次の時代に残るなんてことを決めることはできない。しかし少なくとも残ることを願って作品を作ることは悪ではないはずだ。いわゆる現代音楽とかいわれる曲で残る曲など殆どないだろうが、それ以外の音楽なら残すことは可能なはずだ。
そして何よりも上記のインタビューの中で石井氏が書いた次の言葉

2200年の子孫に、2200年の地球に、一体どういうメッセージを、どういう文明を、残すことができるか。

クリエーターはそのことをたえず意識すべきであり、情報やコンテンツがあふれかえっている現代では寧ろそれを考えることの重要性が増してきているような気がする。

私は現在「新しいサウンドコンテンツ」の構想、打ち出し方に七転八倒しているのもここの「答え」を見つけようとしているからではあるが、....

石井氏のこのインタビュー記事を読むとやはり世界はこちらの方向に動き始めているんだろうなと感じる。

9月 8, 2013 文化・芸術 | | コメント (0)

2013年6月14日 (金)

パロデイ論ー宮藤官九郎の「あまちゃん」の脚本とマルセル・デュシャンのレデイメイド思想

先日の記事、「あまちゃん」のkyon2の歌に見るパロテイとパクリの違いの続きになるんですが...

その記事で日本ではなぜか「パロデイーというものをあまり評価しない風土がある、と述べました。そしてパロデイーというものと、音楽業界が良くやる「パクリ」は全く違うという点を述べました。

どうも「パロデイー」というものを「えげつない」「(パロデイーされた人に対し)失礼だ」と考える向きがあるようです。
しかしそれは違うと思います。

たとえば今週放送した「海女ソニック」なるイベントも、いうまでもないですがとある有名な音楽イベントの立派なパロデイーですが、それ以外にニセの「レデイ―ガガ」が複数登場することでレデイ―ガガに似てもにつかない人物がレデイ―ガガをまねしようとするおかしさを演出していて、そのミスマッチぶりが笑えせてくれるのです。それはレデイ―ガガを誹謗したものではなく、レデイ―ガガという強烈な存在感があるアーチストだからこそ、それをまねしようとする「凡人」がおかしくみえるわけです。そこに「えげつない」笑いはありません。民放のお笑いバラエテイの方がよっぽど「えげつない」笑いだと思います。

さて下の写真を見てください

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これはフランスのアーチスト、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp  1887- 1968)の作品(?)でアートシーンにおけるパロデイーの先駆的な作品です。

このマルセル・デュシャンレデイメイドという既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えただけのものをオブジェとして提示した人で、この人の場合作品というよりは「コンセプト」や思想を既成の物を使って「思想」として表現する、と説明した方がわかりやすいでしょうか?

モナリザの絵にヒゲを書き、絵の下に『L.H.O.O.Q.(エル・アッシュ・オ・オ・キュ)』を仏語風に続けて発音すれば『Elle a chaud au cul(エラ・ショー・オ・キュ)=彼女のお尻は熱い』という意味になります。

レデイメイドというコンセプチュアルアートをベースに誰もが知っているモナリザにヒゲを書き、いささかお下劣な(笑)コメントを加えることからもこれがある意味パロデイーの元祖であり、レデイメイドというのは既製品を「コラージュ」することによってある表現を作るという意味では、現代のデザイン等に結果として大きな影響を与えたということもできます。何よりもクラブDJなどは「既製品」である市販の音楽を「コラージュ」して組み合わせることによって全く違う音楽の表現を作る、という意味ではある意味レデイメイドの表現方法ということもできます。

つまりパロデイーというのはデュシャンの行ったレデイメイドの表現手法の中の一つである、と考えます。それを考えれば明らかに他人の曲のおいしいところを「バクる」音楽業界公認(?)の盗作行為とは一線も二線も画すものであることがおかわりいただけるでしょう。

さて、それをふまえて話の中心をパロデイーに戻しますと、そもそもパロデイーされた元ネタがそれなりの存在感や社会的知名度がなければ「パロデイー」でも面白くありません。モナリザにヒゲを書いたマルセル・デュシャンモナリザだから効果的なのであって、無名の作家の作品にそれをやっても何も面白くありません。

つまりそこには元ネタを冒涜するどころか寧ろ敬意のニュアンスすら感じます。

ちなみに映画監督のクエインテイン・タランテイーノの作品を見ますと、過去の作品のパロデイーのオンパレードです。たとえば「キルビル」などは深作欣二作品のパロデイーが多く目立ちますが、その意図は勿論冒涜ところか、過去の作品に対するオマージュ、敬意の意味があるのはいうまでもありません。

それを考えますと、どうも日本という国ではそこを勘違いしている人が多いように思います。昔大平正芳という政治家がいて、「アーウー」という口癖をよくお笑い連中がモノマネの笑いのネタにされた人がいました。首相も務めた人物で在任中に急病で逝去したのですが、その口癖をネタにされたことに対して「失礼だ」と秘書が怒ったそうです。しかしそれに対し「政治家でネタにされるようになったのは一人前の証拠だ。寧ろ喜ぶべきだ」と諭したという話があります。政治家もパロデイーの対象になるのは存在感、認知度があるからパロデイーされるのであるわけで、ネタにされないような政治家は寧ろ無能な政治家の証明といっていいかもしれません。

今回大ヒットの「あまちゃん」の脚本を担当した宮藤官九郎氏は、その内容を見ると日本国内に「パロデイー」の本当の意味の市民権を確立しようとしているのではないか、という気がしてなりません。 いずれにせよこの冴えわたる脚本がドラマの大ヒットの原因であることに疑いの余地はありません

6月 14, 2013 文化・芸術 | | コメント (0)

2013年4月14日 (日)

クリエーターやコンテンツ業者から支持されないクールジャパン推進会議の「官製」ポップパワー発信策

日本のポップパワー発信10策 --- 中村 伊知哉
http://agora-web.jp/archives/1528714.html

発信10策とは

1. 主要国首脳会議、World Economic Forumその他海外首脳の集まる会議において、ポップカルチャー宣言を首相が表明するとともに、ポップカルチャー政策を一元的に推進する機関を設立し、民間から登用する長官が世界中を渡り歩く。

2. アジア、南米等の新興国向けにポップカルチャー専用のテレビ3チャンネルを編成するとともに、同番組を世界にネット配信する。

3. 初音ミク、ピカチュー、ガンダムなどのキャラクターについて国際ネット投票を実施し、上位5名をポップカルチャー大使に任命し、Facebookやtwitter上で多言語観光キャンペーンを打つ。

4. 映画、放送番組、音楽、アニメ、マンガ、ゲーム、デザイン、7種のデジタル・アーカイブ構築を推進するため、著作権制度等の特例措置を講ずる。

5. 京都、沖縄などの地域やコミケ、ニコニコ超会議、沖縄国際映画祭などのイベントを10件、国際ポップカルチャー特区として認定し、二次創作や税制等の特例措置を講ずる。

6. 海外及び国内の20大学に日本ポップカルチャー講座を開設し、アーティストを講師として派遣するとともに、その場を利用してアニメ、ゲーム、音楽などを創作するワークショップを開催する。

7. 30本の人気アニメの権利を開放し、世界中のアニメファンに日本のPRビデオを二次創作してもらう。

8.  アニメやゲームの制作力に基づくデジタル教材を50本制作し、途上国にODAで情報システムとともに提供する。

9.  日本を代表する100人のクリエイターのメッセージ動画を配信する。

10. 正規コンテンツ配信サイト、アーティストのブログ、問題のないファンサイト等1000サイトを選定し、無償で英中西仏葡の翻訳を付して発信する。

上記の策でどういうことをしようとしているのか今1つ見えないし、そもそも4.5.7.8.などやりかたを1つ間違えると収集のつかなくなる可能性がある。何よりも上の話は「コンテンツ無償開放」とか「著作権特例措置」とかクリエーターから見れば権利をこのプロジェクトのために放棄しろ、という話ばかりである。それによってクリエーターやコンテンツホルダーによってどんなメリットが出てくるのかまったくわからない。

そして何よりもコンテンツ業者だけでなく別方面からもこの方策に批判的な記事が出ている。

「官製」ポップパワー発信策は“無用の長物”である!
http://blogos.com/article/60134/

 

先日の当ブログの記事でも秋本氏のクールジャパンに関する発言に関して批判的な記事を書いたが、上記の北村隆司氏の記事に書いてあるように私も経産省を始めとするこの一連の訳の分からない振興策には「やめてほしい」といわざるをえない面がある。

そもそも「コンテンツ無償開放」とか「著作権特例措置」とかいうクリエーターに権利を放棄せよ、といっておきながらインフラに金を使っても肝心のソフトに金をかけないなど、全く何考えているのかわからない。この振興策をみてクリエーターや文化が発展すると思うクリエーター,メリットがあると感じるクリエーターやコンテンツホルダーははっきりいっておそらくいないだろう

そもそも官僚がマンガ、アニメ、ゲーム等の日本のコンテンツを心の底ではバカにしているというのはこの政策内容からも見え見えだ。官や国が作る発信策ならクリエータ―はほいほい喜んで協力するとでも本気で思っているのだろうか? こんな連中の作る政策をそもそも誰が信用する?(特に日本の官僚ほど信用できない人種はいないといっても過言ではない)

コンテンツやソフトやクリエーターをハナから重視していない連中が発信策を考えてもクリエーターの現場からみればはっきりいって「ありがた迷惑」だろう? いや「ありがたく」すらない、それよりも将来有望のクリエーターに積極的にその活動資金を援助するとか、コンテンツの明日を担う人材をこういう振興策で育てるとか、何かそういう具体的な姿勢がみえればいいが、残念ながらそういった姿勢が微塵も感じられない。これじゃコンテンツ制作者から「余計なことをするな」といわれても仕方がない。

それにかえって政府や官がソフトの内容に口を出す可能性も出てくる。つまり言論表現の自由の観点からも問題が出る可能性がある。

おそらくこれに協力する、支持するクリエーターは殆どいないだろう。

文化のぶの字も知らん奴がわけのわからん文化振興策を世界に発表しても世界中の笑いものになるだけだ。

 

 

4月 14, 2013 文化・芸術 | | コメント (0)

2013年3月30日 (土)

Adobe調査ー「最もクリエイティブな国・都市」は日本・東京について

すでにいろんなところで報道されているAdobe社のこの調査

■「最もクリエイティブな国・都市」は日本・東京 でも日本人は自信がない──Adobe調査
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1204

「最もクリエイティブな国」は日本、「最もクリエイティブな都市」は東京──米Adobe Systemsによる「クリエイティビティー」(創造性)に関する調査でこうした結果が出た。日本は世界からクリエイティビティーを高く評価されている が、その日本人は自らをクリエイティブだとは考えていないという興味深い内容だ。

 調査は今年3月から4月にかけ、米国、英国、ドイツ、フランス、日本の18歳以上の成人5000人を対象にオンラインで実施した。

 「最もクリエイティブな国」として36%の回答者が日本を挙げ、米国の26%を10ポイント上回ってトップだった。英仏独では日本を挙げた人がトップだったが、米国と日本では米国を挙げた人が最多だった。

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「最もクリエイティブな国」。日本人と米国人は米国がトップ、英仏独は日本がトップ

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「最もクリエイティブな都市」

 

ただ、自らを「クリエイティブだ」と考えている日本人は19%にとどまり、ダントツの最下位。平均では39%で、米国では52%がそう考えていた。自らの クリエイティビティーを発揮できているかどうかという質問に「はい」と答えたのも日本ではわずか17%にとどまった。クリエイティビティーが経済成長のカ ギになると考えている人も日本は最低(76%)だった。

うーん。どういう調査方法をしたのかわからないがやはりこの結果は納得できない。

この結果は日本人が奥ゆかしいから?  いや、違うと思うな

自らを「クリエイティブだ」と考えている日本人は19%にとどまっているのは極めて当然の結果だと思うし、実際問題として日本のコンテンツ制作現場なんか見ても寧ろ「クリエイテイブじゃない」傾向の方を強く感じる。はっきりいって日本ほどクリエイテイブとは逆の方向にベクトルが動いている国はないんじゃないかな、と思う。

少なくとも音楽に関して言えばクリエイテイブな世界とは到底言い難い。寧ろクリエイテイブというものを否定している世界、といっても過言ではない。

変な話昨年のロンドンオリンピックの開会式や閉会式を見ても、日本が仮に2020年にオリンピック開催地になったとしたら、イベントは例によって電通が仕切って浅利慶太の演出などという悪夢のパターンを連想するし、出てくるのはゴジラはまだいい方だがアニメ、メイド、ジャニーズAKB(????) 考えただけで悪夢の開会式や閉会式になる。

だから恥ずかしいから日本でオリンピック開催せんでくれー

と個人的には思う

思うにヨーロッパで日本のクリエイテイブの評価が高いのはおそらくマンガ、アニメの影響があるのではないだろうか? だとすれば今の日本の現状に関して表面的な理解しかしていないからそういう評価になるのではないだろうか?

だが現実は大企業が「事なかれ主義」や「無難で差しさわりのない」仕事ばかりやって、ちょっとでも変わったことをすると「そのようなことは前例がない」などと企業人ではなく役人の発想の人間が溢れているのが現状

そんな国がクリエイテイブな国であるはずがない。

3月 30, 2013 文化・芸術 | | コメント (0)

2012年1月27日 (金)

偉大なイメージクリエーター石岡瑛子氏逝去

訃報の記事はあまり書きたくないのだが、日本が世界に誇る偉大なクリエーターの訃報を聞いた時は愕然とした。

■イメージ創出の巨人”石岡瑛子氏、逝去

http://www.advertimes.com/20120127/article52221/

私がまだ学生の頃PARCOの意味不明、しかし強烈なインパクトを与えたCMが話題になっていた。仕掛け人は石岡さんである。

どこからそういう発想が出てくるのだろうという豊富なイメージを打ち出し、しかもそれを商業的な成功にまだ結びつける手法は身を置いている世界は違うとはいえ、石岡さんの作品はクリエイテイビテイの面でいろんな意味でお手本といえるものだった。

コッポラの「ドラキュラ でコスチュームデザイナー賞でオスカー受賞、その他にもシルクド・ソレイユ「ヴァレカイ」, ロックミュージカル「スパイダーマン」の衣装を始め数々の世界の舞台で活躍されたのは周知のとおり

80年代に渡米し、ニューヨークを拠点に活動をしてからは日本に戻ってくることはなかった。やはり昨今の日本の現状を察知してクリエイテイビテイを全く重視しない日本の現状に愛想がつきたのではないか、と思う。

今日本、特に音楽業界では失敗を恐れるどころか失敗を絶対に許さない状況で、そこには「売れセン」(と彼らが勝手に考えている)曲以外は受け付けない、そして一度でも失敗すれば永久に仕事は来ない、そんな世界になってしまっている。そこにクリエイテイビテイが入る余地はない。いや、寧ろクリエイテイビテイ存在自体を否定しているといっても過言ではない。私はこれこそ音楽業界が衰退している原因だともうだいぶ前から言っているのだが、どうせそんなことをここで言っても無駄だ、石岡さんは日本の音楽界のこんな酷い状況におそらくは呆れて嘲笑しているに違いない。

石岡さんの表現は一見難解に見えるが実はかなり単純明快である。そしてクリエイテイビテイ商業性が見事に融合した作品だった。これこそがアートを始めとする表現のあるべき姿である。

石岡さんの訃報は日本に真の意味の表現者がいなくなってしまった。そんなことを象徴するできごとのような気がしてならない。

心からご冥福をお祈り申しあげます。

1月 27, 2012 文化・芸術 | | コメント (0)

2011年9月 7日 (水)

【台風12号】那智勝浦町の被害と熊野那智大社

台風12号 県内各地で暴風雨、洪水 土砂災害警戒続く 和歌山
http://bit.ly/plJk7N

  もう20年も大昔の話ですが、この辺りへフィールドレコーデイングに行きました。当時発売されたばかりの立体音響が録音できるダミーヘッドマイク”アーヘナコプフ"を使って森の音、せせらぎの音等の自然音の録音にいったことがありました。 とてもいいところだっただけに大変心を痛めています。

今年は本当に大きな災害が多いですね。フィールドレコーデイングとはスタジオ屋外の音を録音する作業のことをいいます。私の初期の環境音楽の背景にある鳥の声、せせらぎ、波の音はこの那智勝浦地域でフィールドレコーデイングで録音されたものを主に用いています。当時はサウンドエンジニア2人、レコード会社のプロデユーサーと私4人で那智勝浦から山間の川湯温泉の地域まで行きました。この辺りは原生林が多いところで自然音の録音には持って来いの場所でした。特に川湯温泉は大塔川から温泉が湧き出てきて天然の露天風呂が存在する地域で、とてもよい思い出があります。鮎の塩焼きも食べられるほど水も綺麗でした。その川湯温泉も大きな被害に見舞われたようです。

 ■世界遺産・熊野那智大社にも土砂 http://bit.ly/rg5hZe

世界遺産の熊野那智大社も大きな被害で土砂に相当埋まったようです。ここでは那智の滝の音を録りに行きました。もっとも滝の音はダミーヘッドマイク”アーヘナコプフ"を使ってもピンクノイズのようにしか録れませんでしたが...

現地は道路や鉄道も寸断され復旧に必要な物資や機材の輸送もままならないようです。この辺りを行った人ならわかりますが山からすぐに海になるくらい平地が少ないところです。道路も山や海沿いに作るしかない地形なんですね。

復旧には相当な時間がかかってしまうようです。今年は大震災もありましたし災害が多い年です。もうこれ以上ないことを祈ります。

9月 7, 2011 文化・芸術 | | コメント (0)

2010年12月15日 (水)

相変わらず曖昧な「性的描写」の定義と危険な規制強化

既にご存じの通り 都条例改正案:本会議で可決され、 性的描写の規制強化が始まった。

■都条例改正案:本会議で可決され、 性的描写の規制強化
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101216k0000m040042000c.html

当然ながら出版業界、漫画家を始める表現者は反対を表明した

都青少年条例:出版労連が抗議声明
http://mainichi.jp/enta/book/news/20101216k0000m040093000c.html

都青少年条例:「今後も反対」出版倫理協議会
http://mainichi.jp/enta/book/news/20101216k0000m040094000c.html

前にもこのブログで書いたように何をもって「猥褻なのか」の定義が曖昧である点を指摘していたが、ここで都側の定義を引用すると

「刑罰法規に触れる性的行為の中でも特に反社会性が強い強姦(ごうかん)、児童買春や、民法で婚姻が禁止されている近親者間の性交などを当然なことのように描いたり、全編のほぼ全てをこうしたシーンの描写に費やしたもの」

だそうだ。これで問題ないと思っている方はやはり表現の可能性を理解していない人たちである。この定義でもれっきとした文学的な作品でも容易に規制の対象に入れられてしまう可能性がある例をこれからお見せしよう。

例えば民法で婚姻が禁止されている近親者間の性交などを当然なことのように描くストーリー」という点。これだと次のような漫画作品があったとしたら規制の対象作品に加えられてしまう可能性がある。というか規制される可能性が高いといっていい。

例えば古代エジプトの王族では兄妹間の婚姻がごく普通に行なわれたが、仮に誰かがこの古代エジプトでの兄妹のラブストーリーを描いた、セックスシーンも豊富に描かれていた漫画があったとしよう。この場合どんなに文学的なストーリーとして組み立てても上記の定義では「猥褻な性的描写」の表現という範疇に入ってしまうだろう。(実際「王家の紋章」という漫画では登場人物に姉と弟の恋愛物語のストーリーがある)

もっといえば古事記の衣通姫 ~いそとおしひめ」允恭天皇の長男で実の兄と軽の太子との恋に落ちた古事記の中でももっとも美しく切ないラブストーリーだが、これは「有害図書」ということになるのだろうか? もし誰かが衣通姫と軽の太子とのロマンチックでエロチックな恋愛ストーリーを書いたとしたら記の定義だと民法で婚姻が禁止されている近親者間の性交などを当然なことのように描くストーリー」なってしまう。規制の対象になってしまう可能性が高い。

まだまだある。「源氏物語」「ギリシャ神話」など古典文学を題材にしたり、同性愛を描いた漫画は対象になるかという質問に「基準を超える性的な描写があるかで判断される。」というが「基準を超える性的描写」とは何か? あまりにも曖昧である。「源氏物語」などエロチックに書こうと思えばかなりかけるし実際登場人物の光源氏と紫の上とのやりとりにはかなりきわどい表現もある。「ギリシャ神話」ビーナスなど殆ど裸で登場している。

このように表現とはさまざまなケースが考えられるだけに一義的には決して決められない。そして何よりも恐ろしいのは上記の定義による「表現狩り」が推進されてしまうことである。こうなると漫画家を始めとする表現するアーチストの活動を極端に制限してしまう可能性が高い。(特に最近この手のものに異常なほど執念を燃やしかねない「ヒマ人」が多いことからも大いに懸念される)

都青少年条例:民主「世論」に配慮 出版業界、根強い反発
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101216k0000m040091000c.html

賛否を決めるために開いた10日の民主の総会では、明確な反対論も出たが、「世論への対応も必要」「妥協せざるをえない」など消極的な賛成が相次いだ。反
対してきた民主の若手都議は「執行部は統一地方選で『民主はあんな漫画を擁護するのか』と有権者から指摘される事態を懸念していた」と明かす。

有権者から指摘? 「声無き多数派?」  全く意味がわからない。具体的にどういう人たちなのか?声すら揚げない連中が一体何をしゃべっているというのか? 例えしゃべっていたとしてもそれが本当に社会の多数派なのか? 一部のノイジーマイノリテイと混同していないか?

今回の都の議会の決定は表現の自由という憲法が保障している基本的権利に対する重大な挑戦であり、「表現狩り」を推進するものとして重大かつ厳重なる抗議を表明する。何よりも日本が世界に数少なく誇れる「漫画」という文化を破壊する可能性が高い条例案であるといわざるを得ない。

ちなみにこの法案を推進した石原都知事はこんな発言をしている。(twitter経由)

石原都知事が、「大連立すればいい。みんなで渡れば怖くない。消費税も憲法改正も」と記者会見で。この男の真意は、結局そこにあるということ。

http://twitter.com/#!/kou_1970/status/14505496950087680

なんでこんな人間があんなに支持されるのか理解できない。リコール活動を起したいぐらいだ。

 

 

 

12月 15, 2010 文化・芸術 | | コメント (0)

2010年6月17日 (木)

都青少年健全育成条例改正案:都議会本会議で否決

さて、この件も先日の当ブログの記事
性描写規制改正案、都議会で否決の公算

https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2010/06/post-799c.html

昨日この改正案が都議会で民主、共産など野党会派の反対で否決されました。

都青少年健全育成条例改正案:都議会本会議で否決 9月にも再提案

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100617ddm012010052000c.html


しかし都としては飽きもせず改正案を練り直し、9月定例会以後に再提案する方針だという。何度もいうように何が猥褻で何が猥褻でない、などということを明確に定義することなど不可能である。これは過去何回も試みがなされ、いずれも失敗している。そしていうまでもなく表現の自由にも抵触する問題である。

こういう問題を論じるときに危険なのは一部の人間の独断と偏見で訳のわからない線引きがされる可能性が高い点で、今回の都の基準でも水戸黄門の由美かおるやドラえもんの「しずかちゃん」の入浴シーンがよくて他は駄目、なんというあまりにも馬鹿馬鹿しい議論が大真面目に論じられるという事態が発生している。

「青少年の健全な育成」、というのは確かに大事なことだがそもそも「健全な育成」の定義は何か。そこの部分すら曖昧のまま、表現についての猥褻論議をするなど笑止千万である。何度もいうが芸術表現とは何たるかを理解していない人間がこんなことを論じることの危険さ、滑稽さはもう一度考えてみるべきだろう。

6月 17, 2010 文化・芸術 |

2010年6月12日 (土)

性描写規制改正案、都議会で否決の公算

性描写規制改正案、都議会で否決の公算

http://www.news24.jp/nnn/news89040516.html

こうなることはやる前からわかっていたのではあるまいか。どれが猥褻でどれが猥褻でないか、なんてものは明確に定義できるものではないし、こういう会議があってきちんとまとまったためしがない。何でも水戸黄門の由美かおるやドラえもんの「しずかちゃん」の入浴シーンがよくて他は駄目、なんという引用するのもバカバカしい議論が大真面目に論じられているなんてことが伝えられるが、はっきりいって時間と税金の無駄使い以外の何者でないし、当ブログの先 日の記事にも書いたがまさしく、滑稽である。しかもこの行為、滑稽だが全く笑えない。

詳しくは当ブログのこの記事を参照されたい

■都で議論されている非実在のわいせつ表現規制の滑稽さ
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2010/05/post-7e66.html

先日の記事に関連したことだが、その記事で首都大学教授の宮台真司氏が指摘しているように子どものレイプ被害者は激減しており、1960年と2000年の比率だと10:1ーつまり10分の1に減ってい る。年齢別でも減っていて、子供に対する性犯罪が増えているとか、子どもがどんどん被害にあっているとか、そういう事実は少なくとも日本ではまったくない。そういう情報が流れればウソ、煽りということになる

詳しくは

「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/20/news084.html

そもそもこの「児童ポルノ」の問題はヨーロッパのとりわけカトリックキリスト教原理主義勢力から発しており、彼らお得意の「価値観の押し付け」により、日本に対して圧力がかかってきたわけである。このキリスト教原理主義勢力というのは実に困ったもので、体質ははっきりいってカルト宗教に限りなく近いのだが、アメリカや欧米諸国の政府に対して多大な影響力を持っている。いまだに終わる兆しが見えないイラク戦争にしたって、そもそもこのキリスト教原理主義勢力が実質的にブッシュ政権を動かしたものである。

だからこういう主張に対してあまり日本は相手にする必要はないのだが、どうも「海外の圧力=黒船」であるかのように勘違いする体質が日本にある。だが、これが表現の自由を制限する可能性があるのはここでわざわざ云うまでもない。

石原都知事は飽きもせず再提出しようとしているはずだが、元々は作家だった(あるいは本人はもう呆けてそのことをもう忘れたのか?)当人が表現の自由というものに対して理解がないというのは、表現者の端くれとして情けなくならないのか、私は不思議でならない。

6月 12, 2010 文化・芸術 |

2010年5月22日 (土)

都で議論されている非実在のわいせつ表現規制の滑稽さ

宮台真司首都大学教授は著書によって賛同する場合としない場合があるのだが、今回の漫画家らが主催した「どうする!?どうなる?都条例──非実在青少年とケータイ規制を考える」に関しては宮台氏の見解に激しく賛同する。

そもそも児童ポルノなどというのは欧米の例によって他国の文化の短絡的な理解によって自分たちの価値観の押し付けから生じ、その結果それが日本に対して外圧として向けられたものだが、例によって「キリスト教的なファナテイックな思い込み」によって例によって猥褻の定義が非常に曖昧なまま決められようとしている。行政が政治が表現の本質を理解せず、自分たちの独断と偏見のみで決めようとするこういうことになる、というまさに典型である。宮台氏がいうようにここまで来るともはや「滑稽」である。

「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/20/news084.html

多くの方々がおっしゃってるように、子どものレイプ被害者は激減しています。1960年と2000年の比率ですと10:1、10分の1に減ってい る。年齢別でも減っていて、性犯罪が増えているとか、子どもがどんどん被害にあっているとか、そういう事実はまったくないので、そういう情報が流れればウソ、煽りということになりますね。

 山口弁護士 がおっしゃったことですが、第7条プラスアルファですが、非実在青少年に関わる姿勢は、ゾーニングの顔をした表現規制だということですよね。青少 年に頒布し、云々かんぬんと描いてあるんですが、これは構成要件が非常に不明確なんですね。構成要件が明確で罰則規定があるほうがまだマシで、構成要件が 不明確で、罰則がない。しかも第18条6、まん延抑止規定というやつですね、「青少年視覚描写物をまん延させることにより青少年をみだりに性的対象として 扱う風潮を助長すべきでないことについて……機運の醸成に努める責務」を都民全員が負うという。従って7条の努力義務と、責務を合わせると、市民の悪書狩 りを奨励する、あるいは非常に恣意的な行政指導を根拠付ける可能性があります。構成要件の不明確なゾーニングは表現規制に限りなく近い。

 これも山口弁護士がおっしゃったことですが、質問回答集は 完全に無意味。なぜかというと法理学の基本原則ですが、「憲法は立法意志がすべて。法律は条文がすべて」ということです。福田元首相が「法律の解釈は前内 閣に必ずしも引っ張られない」という有名な発言を残したことで知られています。人事異動や議員の改選があれば官僚答弁も付帯決議も法解釈を拘束しません。 「条例の解釈の誤解」(と都の担当者が説明していること)は苦笑です。本当はここで爆笑と書きたかったかったんですが……裁判官による「誤解」の可能性を 表すからです。その「誤解」を、将来は裁判官がまるまるやるでしょう。

 さらに言えば、誤解の可能性は官僚による裁量行政による権力と権益の余地を意味しているわけですね。<中略>

一般には保護法益、法律が立法される利益は明確でなければならない。なぜかというと、行政権力は社会のためにあるからです。社会が主で行政が従だか らです。で、保護法益には個人的法益と、社会的法益がある。つまり個人の、人権保護のための立法と、社会の利益のための立法の2つある。

 実在する青少年を被写体とする表現は、個人的法益を侵害します。この場合の個人的法益とは人権、あるいは人権のベースになる尊厳ですよね。だか ら、自己決定で子どもが出演していても、将来禍根を残さないようにパターナル、上から目線で介入せよという理屈が成り立つわけですが、非実在青少年の場合 には、そうした、人権を侵害される当事者は不在。ですから、表現規制は個人的法益が目的ではない。

 では社会的法益が目的になりますが、社会的法益には一般に2つの考え方があり、人 権内在説と人権外在説です。人権外在説は人権に外在する秩序の利益があるとする立場で、刑法175条(わいせつ物頒布など)の公序良俗という概念 が典型です。

 一般に、こうした表現規制に人が賛成する場合、とりわけ日本においては、秩序の利益、公序良俗に反するという通念が機能する場合が少なくないと想 像されます。社会が成熟するにつれて、大半の先進国は人権内在説にシフトしていきました。つまり人権の実現の両立可能性や共通基盤を焦点化する方向に変 わってきた。こうした人権内在説を踏まえると、非実在青少年規定に関わる社会的法益は極めてあいまいで、よく分からない。

 「ありうる理解」の1つは「悪影響論」ですね。改正案の7条の1に「青少年に対し性的感情を刺激し……犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害す る恐れのあるもの」を規制するんだと書いてあります。質問回答集を見ると「子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐため」と書いてあります。

 ところが、メディアに悪影響を帰責する「強 力効果説」なるものには学問的根拠は一切ありません。学問的に有効なのは、「限定効果」を証明するデータですね。1つはメディアが直接素因、つま り暴力性や性的変態性を形成するということはなく、引き金を引くだけだ、という限定性。もう1つは、対人関係に保護されずにメディアに接触する環境こそが 問題だと。つまり引き金を引く場合でも、人と一緒に見るかどうか、親しい人と一緒に見るかどうか、そうしたことで影響が全く異なってくるという実証データ があり、これがポイントなんですね。

 ですから、効果研究から主流学説が推奨するのは、メディアの受容環境の制御こそが最善の策ということなんですね。それができない場合の緊急避難と して表現規制があるべきだということです。そうした最善策の努力を放棄していきなり次善の策に飛びつくのであれば、これは完全に行政の怠慢であると言わざるをえない。

次に、社会的法益に関するもう1つの理解は「社会的意思表示論」という立場です。

 例えば刑事罰の機能については、(1)犯罪抑止あるいは犯罪被害の抑止、(2)被害者や家族、社会的正義の感情的回復、(3)そして「社会的意思 表示」、つまり社会の規範のありかを示す──という3つの機能があると言われています。

 で、強力効果説の無効と、実際の被害者の不在ゆえに、(1)も(2)も問題外で、残るは(3)、社会的意思表示がポイントになるんですね。規範の ありかを示すために条例があるんだという観点からすると、その描写の対象が実在するかどうかは確かに関係がないわけです。ただその場合には問題が2つあっ て、代替的な社会的意思表示の手段がないのかどうか、あるいは既にされていないのかどうか、あるいは副作用がどれくらい大きいのか、ということなんです ね。

 で、代替的意思表示手段は既に存在するんですよ。質問回答集項目5「これまでも、性的な刺激を強く受けるような漫画などについては、その子どもの 健全な成長が妨げられるのを防ぐため、条例により、子どもに売らない、見せないための取り組みを行ってきました」。<略>従来の取り組みで社会的意思表示の実現が不十分だったという証拠は一切ない。そういう世論もないんですね。

つまり代替的手段があるにもかかわらず、7条の2(非実在青少年の規定)を加えることの社会的副作用とはなんだろうか。なんといっても運用の恣意性 なんですよね。

 さっきの公序良俗問題と区別するために言っておくと、ぼくは国会や裁判所に呼ばれて、刑法175条は廃止しろという議論をずっとしてきています。 それは表現規制をやめてゾーニング規制にしろということなんですね。ゾーニングならすべていいわけではなくて、ゾーニングも限定されていないと意味がなく なってしまうんですけれども。

 学問的には「わいせつ物」という実体はなく、社会的文脈がわいせつ感情をもたらすだけなんですね。具体的に言えば、非性的空間に性的なものが持ち 込まれた時にわいせつ感情がもたらされる。だから、わいせつに関わる規制は、社会的文脈の制御だけが社会学的には合理性があります。夫婦の営みがわいせつ ですか? 学会における映写がわいせつですか? 違うんですね。文脈次第で変わるわけです。恋人に対してして良いことをそうじゃない人にすれば当然わいせ つになるわけです。

 ただし、複雑な社会ではわいせつ感情を含めて感情の働きが人それぞれ、つまり多様化する。であるがゆえに、幸福追求権に「不意打ちを食らわない権 利」を書き込むのが合理的だということになって、先進各国は表現規制からゾーニング規制にだんだんシフトしてきた。日本もシフトするべきだという立論をし てきたわけです。

 構成要件が非常に不明確であるがゆえに、表現規制として機能する7条の2を含む今回の改正案は、市民による検証を阻害する。表現規制による最大の 問題は、何が表現規制されたのかが、表現規制によって分からなくなってしまうところにあるんですね。ですから、厳格なゾーニングが一番良いわけです。

設定に関係なく子どもに見えることを取り締まれば、日本的表現への死の宣告です。「東京国際アニメフェア」を共催する東京都にとっても恥ずべき無理解の露呈になります<略>

子どもを守りたいのはみんな同じだよ、当たり前だよ。ここで事業仕分けと同じ論理が必要なんです。目的は良いとして、手段はそれでいいのか。官僚の 利権は、良さげな目的に隠れた不合理な手段にこそ宿るんですよ。高齢者保護の目的は良いとして、さてその手段で良いのか。同じように青少年保護の目的は良 いとして、さて、その手段で良いのか。これが問題なんですね。

 「子どもを守る」という目的はいいに決まってる。しかしメディア規制は疑問ですね。なぜかというと悪影響論はNGだったでしょ。社会的意思表示論 もNGですよね。そうすると、メディア規制によって何をしようとしているのかよく分からない。さらに、行政がこういう問題に関与することがいいのか。後で 言いますが、社会的な関わりを前提とした行政の関わりでない点、行政の勝手な暴走である点でNGです。関与の仕方の是非と言うことについては既にお話をし ました。全体および社会をスルーして、いきなり行政が出てくるところがおかしい。

 最後に「市民社会の本義」。これを確認したい。いわゆる「雨漏りバケツ」問題、つまり「雨漏りがまん延すればバケツへの需要が生じるのは当たり前 だから、市場や行政がバケツを用意すればOK」になります。しかし、本当は屋根を葺(ふ)き直すことが本義ではないでしょうか。バケツの提供はあくまで緊 急避難的な処置、弥縫策ではないでしょうか。

 これは比喩です。社会の自立こそが本義です。つまり屋根を葺き直すということですよ。社会が変なら社会をちゃんとする、それを補完するのが行政の 役割で、社会を行政に依存させてはダメ。ということはメディアの善し悪しについて、行政が呼び出されるわけはない。親がなんとか言えよって話ですよね。

「現実の枠」より「表現の枠」のほうが大きいのは当たり前ですよね。だからぼくたちは、表現を通じて現実を選べるわけです。従って、現実よりも表現 のほうに逸脱が目立つのは当たり前です。それは社会の常態=コモン・ステイトですよね。そして、この「現実の枠」を超えた表現に対して議論するのが社会成 員の責務であるわけです。

 ところが「現実の枠」を超えた表現を、行政が封殺しようとしている。これは社会の自立の自殺に当たるわけですね。まあ、他殺ですね、行政による。

<以下略>

卑しくも石原都知事は「以前は」作家だったはずである。その作家だった人間がこの論理を理解できないとしたら、作家としての評価も後世下がるのは避けられないだろうね。

5月 22, 2010 文化・芸術 |

2010年3月17日 (水)

芸術表現が何たるかわかっていない人間が「猥褻」の定義なんかできるのか

■都の漫画の性描写規制案 結論先送りの方向

http://www.news24.jp/articles/2010/03/17/07155505.html

例の「児童ポルノ」の件もそうだが、一体何が芸術で何が猥褻なのか、
それを一体誰が判断するのか?

非常に曖昧だし、やはりこれは危険な行為である。

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子供の裸=児童ポルノというのならレッドツェッぺリンの「聖なる館」のジャケット(写真)が猥褻になってしまうのか、
裸が猥褻というのならヘルムートニュートンはポルノなのか、

それと同じでデビルマンやキューテイーハニーが「漫画の性描写」に当たるのか、

こういうものを一部の人間の独断と偏見で決めるのはやめるべきだし、表現の自由を否定するものである。
こういう議論はずーっと昔からあって、結局判断基準が曖昧のまま進んでしまう。
完全な決着を見たためしがない。

芸術の価値もわからん人間が勝手に自分たちの基準で定めてしまうことに非常な危険を感じる。
芸術表現が何たるかわかっていない人間が「猥褻」の定義なんかできるのか

3月 17, 2010 文化・芸術 | | コメント (0)

2010年2月18日 (木)

「マクドナルド依存症」に見る最近の「ジャンクフード文化症候群」

Yomiuri Online の「発言小町」にこんなものがあった。

■マクドナルド依存症

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0910/261932.htm?g=01

■33歳独身の日本人女性がマクドナルド依存症に苦悩する毎日 (ガジェット通信)

http://getnews.jp/archives/47706

私はハンバーガーに対してはうるさい人間だが、Macdonaldは先日のアメリカンバーガーは別としてあとは基本的にジャンクフードといっていい。

だいぶ前の記事だがこのブログでも以前こういう記事を書いた。

■生とリアルの価値が理解できない病気=ジャンクフード文化症候群https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2009/02/post-cad5.html/

ジャンクフードばかり食べていると人間の感覚が麻痺してくる。
本当によいもの、美しいものを受け付けなくなり、いわゆる本当の一流ものよりジャンクフード、大量生産ものの方が美味しい、美しいと感じる「感覚の倒錯」が起きる。

・リアルな女性よりも「アニメ美少女」の方がいいと考える人間。
・一流の演奏家の演奏より薄っぺらな打ち込み音楽の方がいいと感じる人間。
・生の楽器の音より安っぽいシンセの音の方が「いい音」と感じる人間
・一流のシェフの料理よりそれこそマックやコンビニの弁当の方が美味しいと感じる人間


実際こういう人間がものすごく増えている。

これが進むと歴史に残るような文化が蔑ろにされ、廃棄すらされてしまう危険性
そして大量生産もの、安物、ジャンクフード、ファストフードの方が「価値がある」という考え方が主流になってくる可能性がある。いや、すでにそう なりかけているかもしれない。

読売に投稿した女性はそうした自分の傾向に対して悩んでいるだけまだいい。
それに対して疑問すら思わない人間の方が圧倒的に多いはず。

これが現代人の感覚をどんどん鈍感にさせ、想像力等も失わせている、そんな気がしてならない。

2月 18, 2010 文化・芸術 | | コメント (0)

2009年8月13日 (木)

音楽をめぐる怪談話(@Д@;

さて、お盆の季節になりました。ということでちょっと遊んでみようと思います。(^_^)

この季節というと怪談!!

ということで音楽の世界にも当然その類の話があります。

例えばクラシック音楽で有名な話、かつてのアナログのLP盤の話でフルトヴェングラー&ウイーンフィルベートーヴェンの交響曲第7番(EMI)の終楽章には、「呪いの声」と噂される女性の声が入っていました。実は私も聴いたことがありますが、残念なことに(!?) CD盤ではマスタリングの作業で除去されたようです。

またブルースのレイ・チャールスが飛行機に乗ろうとしていたところ、「いやな予感がする」といってスタッフ全員を別の飛行機に変えようといつになく強硬に主張(ふだん、レイはそんなことをいう人ではありません) そうしたらみんなが乗るはずで乗らなかった飛行機が本当に墜落してしまった、というこれまた有名な話があります。

 また業界では有名で都内の十大心霊スポットの一つである某社のスタジオーここは昔お寺の墓場の跡地に建てられ、元々の墓場はなぜかすぐ隣のトンネルの上に移設されているのですが、ここはもうはっきりいって怪談の宝庫ですね。タクシーの運ちゃんもあまりこのそばを通りたがらないです。私もこのスタジオで数えきれないほど仕事していますが、特に三階のラウンジのあたりは有名な心霊体験スポットの1つにはなっていますね。私も深夜1人でラウンジに入った時(自販機がたくさん並んでいるため)誰も居ないはずのところに人に気配を感じたことがあります。(私は霊感の強い方ではありません。)ちなみに財津和夫さんは決してこのラウンジのそばに近寄ろうとしないそうです。いわく「いつも不気味な女の人の顔が見える」とのことで...

 有名な話としては岩崎宏美さんの万華鏡」はこのスタジオでレコーデイングされました。私はこのエンジニアとも古い知り合いですが「絶対にあんな音は録っていない」と断言しています。 

もっとすごい話をしましょう。もう20年くらい前なので時効だと思いますが怪談で有名なあの"I川J"さんの怪談話もあのスタジオで録音されました。レコーデイング終了後"I川J"さんの車がよりによってスタジオの隣のトンネルに入ったとたん原因不明のエンストで煙が出てしまい、車が動かなくなったという話があります。しかもその車、前日に整備点検したばかりとのこと。

 まあスタジオというところは元々怪談が多いところですけどね。今はなきソニー信濃町スタジオもかなり不気味な話が多くありました。結構その辺を捜しますとまだまだ私も知らない話が出てくるかもしれません。

 さて、クラシック音楽の作曲家にまつわる極めつけの怪談話というと「ハイドンの頭蓋骨」の話があります。それはハイドンの死後、頭の部分だけが150年間切り離され続けたという話で、オーストリアの刑務所管理人であるヨハン・ペーターという者がハイドンの死後、ウイーンのフントシュトゥルム墓地を掘り起こし、無断で彼の首を切断して持ち帰っていたあたりから、かなり猟奇的な犯罪へと発展していくことになります。

 この事件が発覚したのは、1820年にエステルハージ侯爵家のニコラウス2世が、ハイドンがエステルハージ家の所領であるアイゼンシュタットに埋葬される事を生前に望んでいたことを知って、改葬しようと掘り起こしたためだったりします。主犯のベーターは、「骨相学」ということになるのでしょうが、頭蓋骨の形態と知的才能の間には関係があるという学説の信者で頭蓋骨を計測するのが趣味だったそうです。

 薬品などで綺麗に処理されたハイドンの頭蓋骨は、綿密な計測が終了した後、従犯のヨゼフ・カール・ローゼンバウムという熱烈なハイドンのファンに渡され彼の家の専用の祭壇に安置されることになります。彼らはハイドンの熱烈な崇拝者だったようで、頭蓋骨を持ち去り、丁寧に保存し続けたようですが、この頃から奇怪な出来事が起こり始めたそうです。ある夜、ローゼンバウムの妻が、この頭蓋骨から不気味なうなり声があがっているのをはっきりと聞いたというのです。

それからうなり声はたびたび聞かれるようになり、最初は半信半疑だったローゼンバウム自身も、ある夜、頭蓋骨がアゴをカタカタ鳴らしながら自宅の中を飛び回っている場面を目撃したそうです。

うなり声と空を飛ぶ場面をたびたび目撃するようになり、ついにローゼンバウムは頭蓋骨を手放すことにしたそうです。医師→解剖学者→その息子→ウィーン大学の病理研究室と経て1895年にウイーン市からウイーンの楽友協会に鑑定と保管が以来され、事実上、楽友協会の所有になったようです。

 その後、二度の世界大戦の主要な舞台となったこともあって、なかなか首と胴体は再会できなかったのですが、1954/06/05に公式な二度目の葬儀が行われアイゼンシュタットの墓地で150年ぶりに首と胴体が一緒に埋葬された ・・・ 事になっています。

 いやあ奇怪な話があるもんですね。というわけでお盆の時期にふさわしい怪談話でした。

裏飯屋 

 

 

 

 

8月 13, 2009 文化・芸術 | | コメント (0)

2009年2月12日 (木)

生とリアルの価値が理解できない病気=ジャンクフード文化症候群

二次元の女と三次元の女、見つめたいのはどっち?

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0902/12/news017.html

女性の生肌よりアニメの「理想化」された視覚の方がよいと思う人たち、
この問題をいわゆるバーチャルとリアルとかを対比して論じるつもりはないし、いわゆる「オタク文化」に対する偏見を助長させるつもりは毛頭ない。アニメや二次元の画像を始め、DTM等の打ち込み音楽(「ノイズ」を排除した文化)の存在自体を否定するものではない。私自身その関連の仕事もしているのでその価値は理解しているつもりである。しかしこの問題は現代の文化を論じる面ではかなり深刻な問題を宿している。

実は音楽でも全く同じことが起きている。

生のフェンダーローズの音よりもシンセの「エレピ」の音の方が「よい音」と感じる若いミュージシャンが驚くほど多いし、ギターのフレットの音やバイオリンやチェロの弓の音を「ノイズ」だといって嫌う人間も多い。ピアノのサステインペダルの踏む音を「耐えられない」という若いミュージシャンがいたのを覚えている。

つまり全部市販のシンセの音が基準になり、シンセの音が全てよくて「生」の音は「ノイズっぽい音」「良くない音」という風になってしまう。

アニメの女性が良くて実写の女性を受け付けない、というのはまさにこれと同じ

例えて云えばカップラーメンやファストフードの味が基準になり、レストランの一流シェフの味の価値が理解できなくなる、そういう味が耐えられなくなってしまうのだ、私はこれを「ジャンクフード文化症候群」と呼んでいる。これははっきりいって立派な「現代病」である。つまりジャンクフードという客観的なレベルからみれば基準以下のレベルのものを「良い」と考え、基準以上のレベルのものを「悪い」と考える、つまり物事の価値の判断基準が本来の文化の基準と比べ完全に倒錯してしまう状態をいう。

実はこの現象、10代ー20代の若者に非常に多い。この状況はかなり深刻である。当然ながら本当の「本物の文化」を理解する感性などないし、その感性を磨かないで成長してしまったため、「本物の味、音。視覚等」を理解する感覚がすっかり麻痺あるいは退化してしまった状態である。

私はこれは現代の文化にとって極めて危機的な状況だと考える。「本物の料理、本物の音楽、本物の絵や美術」を理解する能力がなくなってしまえば、これらの文化が後世に伝えられることはないだろう。もしかしてそれらの価値を理解できない人間が、文化に対して取り返しのつかないことをする事態が起きることを懸念する。

オタクだから必ずしも生身の女性を受け付けない、ということとは限らないが、こうした「生」のものに対する「ジャンクフード文化症候群」がいわゆる「アキバ系」の大半になっているとしたらこれは問題だ。

人間の感性の危機かもしれない。特に従来の質の高い文化、伝統文化を「ノイズの多い文化ー無価値な文化」として理解されず、廃棄すらされてしまう可能性を大きく危惧する。

ちなみに音楽で以下の点に1つでもあてはまる人がいればあなたは「音のジャンクフード文化症候群」にかかっている可能性が高いといえよう

1.ギターのフレット(指が弦を押さえる音)をノイズ、うるさいと感じる

2.ピアノのペダルの音をノイズ、うるさいと感じる

3.ウッドベースの指が弦を押さえる音をノイズ、うるさいと感じる

4.トランペットやSAXなどの吹奏楽器から漏れる息の音をノイズ、うるさいと感じる

5.バイオリン、チェロ等の弦楽器の弓が弦に触れる音をノイズ、うるさいと感じる

6.バイオリン、チェロでフォルテ(強い音)を弾くときの弓の音(カチ!って音)をノイズ、うるさいと感じる

7.ドラムの皮を緩めたときになる共鳴音(周囲に伝わる振動音)を聞くとノイズ、うるさいと感じる


8.生ピアノやエレピよりシンセのエレピやピアノの音の方が「良い音」と感じる


9.ビンテージシンセの音より安物シンセの音の方が「良い音」と感じる。



まだまだあるけどこのくらいにしておきます。

2月 12, 2009 文化・芸術 | | コメント (0)

2008年7月14日 (月)

日本人はコンテンツを芸術ではなく単なるコミュニケーションツールとしか見ないのだろうか?

7月も中旬になり、2008年も後半、今年の始め2008年は音楽業界の滅亡の年になるのではという記事を書いたが

2008年音楽業界滅亡を前提にー何をすべきか
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2008/01/2008_dca0.html

ご存じの通り石油その他の高騰による消費の冷え込み、円高等で景気が後退しているのは明らかである。政府はまだこの時点になっても景気後退を認めていないが、これは既に明白な事実である。しかし今のところはその状況にも関らず何とか「まだ」持っている。

ネットのコピーが音楽業界衰退の原因ーそれを業界幹部はずーっと云い続けていた。確かにコンテンツはタダであるべき、という雰囲気はネットユーザーの中に根強くあるのは事実だが、しかし衰退の原因はそれではない。音楽業界が一番衰退した原因は何か、勿論それは音楽業界人がいまだに旧態依然のビジネスモデルにこだわり時代に対応していない、ということが大きいが、最大の原因を探すならばひとことでいえばそれはネットのせいではなく、それは「携帯のせい」ということになる。

またネットマガジンのサイゾーの引用になってしまうが、白田秀彰氏のインタビュー記事に日本人のコンテンツに対する意識を的確に表現したものなので紹介しておく。

新時代・あらゆるコンテンツは「ニコ動」でイジられる!(前編) (サイゾー)

http://www.cyzo.com/2008/07/post_728.html

同 後編) サイゾー

http://www.cyzo.com/2008/07/post_729.html

これを読んで少し絶望的な気持ちになったのは日本人はそもそも「コンテンツ」というものを芸術や文化としてみているのではなく、単なるコミュニケーションツールとしてしか見ていないということだ。つまり学校や職場で同僚や友人から孤立しないためのコミュニケーションツールとしてテレビ番組や音楽を利用するといった構図だ。

90年代のバブル時代は音楽とはドラマやCMのタイアップ曲だったりカラオケで歌いやすい曲だったりしたものがヒットした。(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。特にいわゆるトレンデイドラマ全盛の当時は若者であれば「誰もが見るもの」であり、メーカーはそのドラマタイアップ獲得のため湯水のようにお金を投入していた。

つまり、学校や職場の友達や同僚とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く、音楽はそのための単なる道具に過ぎなかった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くための道具であり、そのため「みんなが聞いているから」というのがCDを買う理由となった。いかにも日本人らしい音楽の買い方だと私見では思う。本人たちはそのタイアップの音楽が好きというつもりで買ったかもしれないが、実際はその曲の音楽性ではなく、単なる学校や職場で孤立をしないためのものであった。

しかし携帯が特に若者のコミュニケーションツールにとって変わるとコピーで事足りる音楽に金を使うものなどいない。そして10-15年前と違いCDを聞いても友達は出来ない。と周囲のコミュニケーションツールとしての役割を音楽が果たせなくなった状態では売れなくなって当たり前だ。つまり平たく言えばコミュニケーションツールとして携帯が音楽にとって変わったのである。

海外でもこういった面が全くないとはいわないが、そこが文化の基盤がきちんとできている欧米と日本との差、ヨーロッパにはクラシック音楽があり、アメリカの白人はカントリー、黒人はR&B ソウル、JAZZと「生活の隅々まで根ざした音楽が存在する」。しかし残念ながら日本は沖縄地方を除いてそれがないのだ。もし着メロやカラオケが「生活に根ざした音楽」だと思っている人がいたら、それは音楽文化を理解していない人の弁だ。

生活に根ざした音楽は音楽が鳴ると自然に踊るし、歌う。今日本人でカラオケボックスにいかないで自然に歌ったり踊ったりする人はどれくらいいるのだろうか? 日常生活に音楽がありますか? おそらく「ある」という人の方が少数派かもしれない。

ゆえに日本人にとってコンテンツは単なるツールでしかなく、ツールである以上煮て食おうが焼いて食おうがユーザーの勝手である。という理屈になる。そういう風土からはクリエーターに対する敬意や尊敬など生まれにくい土壌になるだろう。

こうした国に本当に次の時代に継承するコンテンツー文化、芸術が生まれるだろうか?

まあ先日の司馬遼の言葉じゃないがIT系の連中にとっては文化より文明を選ぶんだろうな。(「文化とは、民族内でしか通じないローカルルールであり、文明とは誰もが民族間でのコミュニケーションを実現するグローバルルールだ」 by 司馬遼太郎) でもそういう連中に限ってグローバリズムっといっておきながら、著作権関係の決め事では欧米の決まりごとより日本しか通じない「払わない」という理屈を優先するというご都合主義な人が多いですがね

それでクリエーターが日本からいなくなっても俺の知ったことか、ということなのだろう。

とにかくこういう話を聞くと日本という国が「コンテンツ王国」になる可能性は限りなく0に近い。


7月 14, 2008 文化・芸術 |

2008年4月27日 (日)

美の巨人ー石田徹也

私の友人なら私があまり地上波のテレビを見ない人間であることはよく知っていると思うが、その中で数少なくレギュラーで見ている番組は何とテレビ東京の「美の巨人」(毎週土曜日: 22;00-22:30)である。

http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/index.html

世界遺産が日曜の六時に移って、薄っぺらな内容のない番組になりもう全く見る気が失せたから、今やこの番組が私がレギュラーで見ている地上波テレビの殆ど唯一の番組といえる。(あとは殆どBSかケーブルだ)

アレンジと打ち込みの作業中、手を休めて見たのだが、今回の特集は石田徹也」、1973年生まれの画家の作品はかなり衝撃的だった。日本にもこんなオリジナリテイあふれるインパクトのあるシュールな絵を書く人間がいたのかと思った。

Tetsuya002

 

「囚人」

Tetsuya012_3 「飛べなくなった人」

 Tetsuya040

 「燃料補給のような食事」

とても「イラスト」的だがどこかシニカルで滑稽でまたもの悲しさもある何とも不思議な絵である。絵に出てくる人間の表情は無表情で無気力ー何か現代の人間の姿を象徴している。ちなみに本人は否定しているがこの絵は自画像、もしくは自分の分身なのではと思っている。人間と機械を合体させる手法はキリコなどの表現主義的であり、またどこかマグリットをも思わせるシュールで幻想的でもある。それでいて私的にはかなり表現が「ストレート」な印象をも持った。

ようやく画壇に世界に誇れるほどの画家が出たと思ったら、残念ながら3年前に小田急線の踏切事故で夭折、まだ31歳の若さだった。(事故の状況が不自然なことから自殺という説もある)

公式サイト
http://www.tetsuyaishida.jp/

もう一人、タイプは全く違うが「天才」といわれた山田かまち(私と2つ違い)がいるが、彼も事故でまだ十代の若さで夭折している。この石田徹也にしろ「天才」といえる人間が長生きしないのはとても残念である。ちなみに山田かまちもギターのシールドと電源コードを間違えて感電死、と我々の常識じゃ考えられない事故で他界している。

いずれにせよ、自分にしかないオリジナルな表現をしている人間は日本という社会で生きていきにくいということだろう。この石田も晩年、かなり「自分の新しい表現に苦しんだようである」

海外でも非常に評価が急上昇の日本の画家である。事故死(!?)が本当に惜しまれる

それにしてもこういうアーチストが日本にいた。
日本のアートシーンもまだ捨てたもんじゃない。

音楽は? ふーむ(-_-\)


4月 27, 2008 文化・芸術 | | コメント (0)

2007年11月22日 (木)

モリース ベジャール死去 80歳ースイスローザンヌで

スイスのバレエの振付師のモリースベジャールがスイスのローザンヌで死去、80歳だったそうです

日本語のリンクはまだありません。とりあえずフランス語のリンクで
(後ほど日本の記事が出次第発表いたします)

「振付師のモリースベジャール死す」
http://www.20minutes.fr/article/196191/Culture-Maurice-Bejart-est-mort.php

フランス語は私は若干つたないですがだいたいの訳を書きますと
「ベジャール氏が創立者で20年以上代表を務めるスイス、ローザンヌ ベジャール現代バレエ団はモーリスベジャールが木曜日に80歳で死去したことを発表した。
 バレエ団として公式な発表は午後2時に次席代表のエリックトロール氏が発表したが、詳細で正確な情報はこれからとのこと
 ベジャール氏はここ数週間、肝臓の疾患で入院しており、ベジャール氏の訃報は同病院の12階(日本だと十三階に当たる)で行われた。 」
訳に一部不正確なところがあるかもしれませんー英語ほど自信がないので...)

ついでに

「振付師のモリースベジャール死去」
http://www.france-info.com/spip.php?article41470&theme=36&sous_theme=40

日本語のリンクです
・訃報:モーリス・ベジャールさん80歳=振付家
http://mainichi.jp/enta/art/news/20071123k0000m060109000c.html

もうあのボレロは見れないんでしょうかね

ちなみにYou tube にQueenとMozartを効果的に使った映像があります
http://www.youtube.com/watch?v=K5crrernfAY

ベジャールの言葉に「私のスペクタクルは、裏返しにはめた私の愛の手袋」
すばらしいですね。
また最高の表現者が逝ってしまいました。
心からご冥福をお祈りいたします




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11月 22, 2007 文化・芸術 |

2006年1月30日 (月)

ビデオアートの先駆者ナムジュンパイク氏死去

ビデオやメデイアアーチストの先駆者として活躍したナムジュンパイク氏が死去したそうです。73歳だという

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060130i515.htm?from=main5

S1103r01

ビデオアートの先駆者として、私もニューヨーク滞在時代に 実際にホイットニー美術館でのレクチャーやローリーアンダーソンとのパフォーマンス等を見て大きな衝撃を受けたことがある。そして印象深いのは私がニューヨーク滞在時に初めて衛星放送やミュージックビデオ等を組み合わせた伝説のビデオショー「Good Morning Mr.Orwell(おはよう、Mrオーウエル)」のオンエアをみたこと。これはものすごい衝撃だった。

メデイアを使った新しい表現を絶えず追及していた姿勢は私に とっても芸術家として生きた見本であった。

ミュージックビデオ、いや今はPV(プロモーションビデオ)というのか。それが当たり前になったが、彼のGood Morning Mr.Orwellから22年、あれから音楽のみならず芸術全般の表現は斬新になっただろうか。私は寧ろ後退、退化している気がしてならない。-特に音楽に関しては

私はしばらくビデオアートなるものに関わったことがあるがそれは取りも直さずナムジュンパイク氏の影響である。<./p>

とにかく1つの時代が終わった感じがする

ご冥福を心よりお祈りいたします。 合掌

1月 30, 2006 文化・芸術 | | コメント (0)

2004年12月17日 (金)

私なりの20世紀音楽論

本来音楽史というと地球全体を見据えた上で何処かの音楽はどうだったといった議論になるはずなのだが、殆どこういった場合いわゆる欧米中心の歴史論になってしまう。たとえばインドなどは西洋に負けないどころかそれ以上の音楽体系と歴史があるのだが、私も残念ながらそれらをきちんと論じるほど勉強をしているわけではないので、ここではいわゆる伝統的な欧米中心の音楽歴史論になってしまうことをご容赦いただきたい。21世紀に入っているのにそのような狭い範囲でしか論じられない自分が少々情けないと思っている。

  20世紀の音楽のみならず文化芸術全般についてある歴史家は「大衆文化の花開いた世紀」などと論じるかもしれない。しかし私はそれは違うと思う。第一にこの大衆文化なる言葉は私は大嫌いだ。だって考えてみれば非常におかしな話で元々芸術、文化は大衆というか一般人民のものであり、別に一握りの音楽専門家のためでもないし、いわんやいわゆる特権階級のものではない。確かに表面的には19世紀.まで芸術文化は貴族や特権階級が中心に享受しているように見える。だが映画「アマデウス」でも描かれていたがモーツアルトの音楽を支持して、後世に伝えていたのは貴族や特権階級ではなく一般の市民階級であったことを思い出して欲しい。あるいはシューベルトは死後認められたというけど、当時の多くの人々は彼の愛らしい歌曲のメロデイは知っていた。(ただ作者はシューベルトとは知られてなかったようだが) 昔から良質の音楽は一般市民に支持されて後世に伝わっていたことが多いことを未だに多くの音楽史研究家や音楽評論家という人たちは認めようとしていない。そのためにこのような考えが未だに大手を振ってまかり通っている。

 それを云うなら貴族や特権階級のコントロールから完全に解放された世紀と云った方が私は正しいと思う。(最もヨーロッパ等の一部の国ではいまだに特権階級は存在するが) 一方では資本主義、商業主義の発展という別の面もあるが、とにかくいわゆるポピュラーミュージックが花開き、20世紀の音楽の発展に大きく寄与したことには誰も異論はないだろう。一方ではこれは19世紀以前から続いた伝統的な西洋音楽の事実上の終焉をも意味していると思う。

  前者には異論はなくても後者に異論を持つ人は多いかもしれない。特にいわゆるクラシック系の音楽をやっている人たちにとっては。では21世紀に入った現在、20世紀の伝統的な西洋音楽家で現在大きな影響を与えている人はどれくらいいるだろうか?

 まず20世紀の前半だけにしぼって見れば私が本当にすごい作曲家だと思うのは3人しかいない。ジョージ・ガーシュウィン、ベーラ・バルトーク、そしてデユーク・エリントンである。この他アービン・バーリン は多くの名曲を残したし、スコット・ジョップリン(20世紀の人とは言えないかもしれないが)の多くのラグタイムの名曲もあるが、この3人が作った音楽の質、後世への影響、という面でずば抜けている。この3人の中でいわゆるクラシック系の人はバルトークだけである。(ちなみにここではドビュッシー、ラベル、サテイは19世紀の作家と定義している)
  ではストラヴィンスキーは? 彼が本当に面白かったのは「春の祭典」や「ペトルーシュカ」を書いていた初期の頃だけで、「新古典派」以降の音楽は実に退屈だ。
シェーンベルク?ウイーン楽派? 12音技法なんて実にくだらない。いわゆる芸術音楽をおかしな方向に持っていったA級戦犯といっていい。あれだけ音を無機的にして芸術でござい、なんてふざけるなといいたい。
ジョンケージ? 私は彼を音楽家ではなく思想家として見ている。彼は「どんな曲を書いた」というより、「どんなことをしたか」で記憶されるだろう。彼の思想が現在私が取り組んでいる環境音楽に間接的にせよ影響を与えているのは事実である。今では当たり前になっている自然音の音楽への導入や、日用品を打楽器にする等、当時としては革命的な概念といえよう。そうした面は確かに認めるが、それらはあくまで芸術思想の面で革命的なのであって、そういった点でも彼は音楽家ではなく思想家と考えた方が自然である。(同じようにマルセル・デユシャンも美術家というよりは思想家である)

  20世紀の後半は50年代から特に80年代初頭くらいのロック音楽が黄金時代を築いたのは今さらいうまでもあるまい。特筆すべきアーチストが多すぎてこのページでは到底足りないのでここでは割愛する。ひとくちにロックといってもヘビメタからAORと多岐に渡り過ぎるし、更に80年代以降からジャンルの多様化が押し進められ、テクノミュージック等に進化したりしている等、それら全てについてここで論じるのは不可能である。ただ20世紀後半の音楽はこうした多くのアーチストの様々な試行錯誤に支えられて発展してきたのは事実である。

  いわゆる芸術音楽という方面に目を向けると特筆すべきは70年代中頃から出てきたミニマリズムが揚げられる。このミニマリズムはいわゆる現代音楽に事実上最後の花を裂かせたといってよい。ステイーヴ・ライヒやテリーライリーの名前を揚げるまでもあるまい。このミニマリズムはブライアンイーノを始め私がやっている環境音楽にも多大な影響を与えたし、近年ではクラブミュージックにも大きな影響を与えているのは周知の事実である。

  20世紀の後半はこのミニマリズムとロック音楽を初めとするポピュラー音楽を中心に発展してきたが、ここ10-20年だけで見ると実は本当の意味で新しいものは出ていない。つい先日までアンダーグラウンドで盛り上がっていたDrum'n Bass とかトランス系、アンビエント系といったクラブミュージックも結局はミニマリズムをクラブ風に料理したに過ぎない。いろんなアーチストが様々な音楽スタイルをコラージュして様々な試行錯誤を繰り返しているが、残念ながら本当に新しいものは出ていない。その意味で20世紀末は音楽史的には停滞した時期だといえるだろう。

  ポピュラー音楽もだいたい90年くらいから商業主義の部分がやたら強固になりアーチストの活動もその範囲内に制限されている。その商業主義のシステムは強固でアーチストは徹底的に管理されており、その様子を見ると下手すれば19世紀以前より自由がないのではと思うくらいである。こうした状況の中アーチストはある選択を迫られている。つまりメジャーレコードにお世話になって必ずしも自分がやりたくない音楽をやるか、自分で制作からCD販売まで全てやって自分のやりたい音楽にこだわるか。それはアーチストの生き方しだいだが決して簡単な選択ではない。別貢のクリエイテイヴに生きるということでも述べているように現代はクリエイテイヴに生きるのは簡単ではない。

   何よりも問題なのはここ20年、本当の意味で新しいものが生まれていないという点だろう。これは必ずしも"アバンギャルド"云々ということではなく、感覚的にも音楽語法的な面でも。これは一方では映像、特にILMのようなSFX制作会社から革命的な映像表現が発表されているのと比べると対極にある。

   私が本当に新しいものを生み出せるかどうかはわからない。しかしチャレンジだけはしてみたいと思っている。何よりも絶えず新しい試みをする精神だけは大事にしたい。それを失ったらもはやクリエータとはいえないと思うからである。そうした中でもしかしたら新しいものが生まれるかもしれない。

12月 17, 2004 文化・芸術 | | コメント (0)

2004年3月19日 (金)

クリエイテイヴに生きるということ

私はプロとして仕事をしてもうすぐ20年になります。たいていプロの世界で仕事をしていると、「よーし 一発当ててやる」という風に考えるものですが、私は天の邪鬼なのか「売れる」作家というよりは「クリエイテイヴ」な作家という風に思われたいのです。それはこの仕事を始めた時もそうでしたし今でもそうです。(当ててやろうと考えたことがないといえばウソになりますけど(^^:))

  しかしひと口に「クリエイテイヴ」といってもどういうものをいうのかと聞かれたらなかなか明確な答えはしにくいものです。簡単にいえば「人のやっていないことをやる」ということですが、ひとつ間違えると単なる変人になってしまう。「クリエイテイヴであること」と「自己満の世界」って結構紙一重の所がありますから....

  私はその答えを探すためにプログレッシヴロック、現代音楽、最近のトランス系やドラムエンドベース系のテクノ等あらゆるクリエイテイヴと思われる音楽に触れました。その中で一番幻滅したのは現代音楽で、何やらすごく高度なことをやっているように見えても、とにかく大半の曲は聴いていてつまらない、聴くこと自体が苦痛ではっきりいって一度聴いたら二度と聴きたくない曲が殆ど。唯一ステイーヴライヒ、テリーライリーといった"ミニマル音楽"にふれたのが収穫でした。何よりも「現代音楽」という名前でも殆ど聴いていて現代を感じない、寧ろ古臭いものすら感じたのでとにかくすぐに離れてしまいました。

  しかし、この現代音楽というやつは間接的ではあるにせよ実は私がやっているヒーリング音楽や最近のアンダーグラウンドのクラブシーンには結構影響を与えていることは否定できません。そもそも環境音楽という考え方自体、ジョンケージからの思想的影響を通してブライアンイーノに受け継がれているし、イーノの影響を否定できない私としても間接的には影響を受けているという見方もできます。また私自身は好きではないですがノイズミュージックのコンセプトはかつて"騒音の音楽"を提唱したルイジルッソロの考え方そのものですし、前述のクラブミュージックはミニマリズムのコンセプトそのものです。音楽評論家によっては環境音楽やクラブミュージックを「現代音楽」と呼んでいる人もいるくらいです。

 確かにレイヴイヴェント等は大きな音楽ムーブメントになっていますし、クリエイテイヴィテイという面では いろんな試みがされていますが、何分この世界はDJが支配しているので、私のような個人作曲家は面白くないところもないではありません。しかし今現在最も未来の音楽を暗示している音楽であることは事実でしょう。現在この方向から私なりの新たな音作りを模索しているところです。最も最近少し下火になりつつあるのを感じていますが........

 もうひとつの問題はやはり現代があまりにシステマテイックな世の中になっている点で、現代に生きようとすれば誰しもこのシステムから逃れられないという点かもしれません。どんな音楽も生産→消費、コマーシャリズムのシステムの一素材に過ぎずかつてのように芸術が"残りにくい"システムになっている面もあるかもしれません。それを克服するにはクリエイテイビテイとコマーシャリズムが両立できればよいのですが、云うのは簡単、特に最近はなかなか難しい世の中になっていると思います。

 70年代のプログレッシブロックについてはその「クリエイテイビテイとコマーシャリズムが両立できた」希有な例と云えるかもしれません。音楽にはパワーがあったし、絶えず新しい試みをしていたし、何よりも時代がああいう音楽を求めていたので興行的にも大成功しました。ああいうことが今果たしてできるでしょうか?私はできると信じて今までやってきたのですが最近は少し自信をなくしてきています。私は興行的成功は勿論目指しますが、何よりも絶えず新しい試みをする精神だけは大事にしたいと思っております。それを失ったらもはやクリエータとはいえないと思うからです。

  私は現代はある意味では人類史上「クリエイテイヴ」に生きるのが最も難しい時代かもしれません。確かに現代は表現の自由があり、テクノロジーもかつてない程進んで表現の可能性が広がったはずなのに私の作品を含めて何故か新鮮さを感じる作品が少ない感じがします。私が自分の生涯の中で誰もが新鮮に感じる音楽を創ることができるかどうか。もはや決して若いという年齢ではありませんが、チャレンジだけはしてみたいと思っております。

  音楽家というのは結局自分の音楽が全てです。もしこのページを読んでいる人で私がどういう音楽を作っているのか興味を持っていただければ幸いです。


3月 19, 2004 文化・芸術 | | コメント (0)

2004年2月22日 (日)

奇人変人が多い大作曲家の人物像

ここでは珍しくクラシック音楽の話をしよう

 

  クラシック音楽というものは歴史の波に揉まれているだけあって当然のことながら名曲、名作が多い。しかし「こんな素晴らしい曲を書く人なのだからすごく立派な人でしょう?」などといった世間知らずのお嬢さんのようなことを云うなかれ。実はいわゆる大作曲家の多くは奇人変人の類いにあてはまることが多い。

 

  しかし大作曲家といわれる人たちは多かれ少なかれ伝記作家や音楽評論家たちによって美化されている。特にモーツアルトやシューベルトといった人たちは若くしてしかも貧乏のうちに死んだということもあって過剰なまでに美化されている。しかし実像は今あるイメージとはかなりかけ離れているのを御存じだろうか。

 

   20年近く前に映画「アマデウス」というのがあったが、その映画に描かれている破天荒なモーツアルトの姿に憤慨したモーツアルトファンが少なくなかったようだ。だが実際のモーツアルトは(たぶん)あれよりもっとひどかったようである。実はモーツアルトは手が付けられない程のイタズラ小僧で舞踏会で女の子のスカートをまくったり、ウイッグにイタズラをしたり等しょっちゅう女の子にチョッカイを出していた。そのことがザルツブルグ大司教の怒りを買ったわけだが、それだけではない。モーツアルトの友人の手紙を見るとまあシモネタ、ウ◯コネタがバンバン書き込まれていて、「紅顔の天才美少年」というイメージはこの手紙を読むともろくも崩れ去る。実際あまり知られていないが「オレのケツを舐めろ」という題名の曲すらある。もっともこれは日本でいうアカンベーと同じニュアンスで英語にも"Kiss my ass"という表現がある。

 

 そしてシューベルトの場合だがこれはモーツアルトよりもっと深刻だ。彼が31才という若さで極貧のうちに死んだという人生を後の伝記作家や音楽評論家たちがあまりに美化し過ぎた結果、主にクラシック系の作曲家の間に「シューベルトシンドローム」なるものがはびこってしまったのである。つまり「生前は殆ど認められず極貧にも負けず素晴らしい作品を残したーなんて素晴らしい作曲家なんだ」というわけである。おかげで「生前認められなくてもいずれはシューベルトのように評価される」などという馬鹿馬鹿しいことを考える人間まで出てきた。シューベルトのような生き方こそ作曲家の理想であると云わんばかりだが、作曲家の端くれである私からみれば冗談じゃない、ふざけるなといいたい。迷惑もいいところである。

 

   実際にはシューベルトは物凄くだらしない男であった。背も小さく服装にも無頓着、人つきあいも悪く無愛想な男だったという。当然映画「未完成交響楽」(すげえクサイ映画(-_-;))のような恋愛などできるわけはない。また極貧というけど高荻泉氏によると割と頻繁に売春宿に出入りしていたらしい。女遊びをするくらいの金はあったようである。一般的なイメージの「清貧」とも違う。おかげで梅毒にかかってしまい、精神的にも不安定になったようである。例の「未完成交響曲」が未完成に終わったのもこの辺りと関係があるという話もあるが真相はわからない。いずれにせよシューベルトも一般に知られているイメージとはかなり違う。

 

   ついでにいうならー話をモーツアルトに戻すがーモーツアルトの晩年も後世云われる程貧乏ではなかったという。確かに以前より大幅に収入が減ったのは事実らしいが一部に伝えられているような「餓死」するほど貧窮はしていなかったようである。少ないギャラだったが作品の依頼は結構あったようだ。これも音楽学者、音楽評論家たちが美化するあまり「モーツアルトは清貧のうちに死んだ」というイメージでなければならないという思い込みが「餓死説」まで飛び出させた要因であろう。

 

  これらはほんの一例に過ぎない。各作曲家に対してよいイメージを持ちつづけたいとお考えの方には申し訳ないが、しばしば事実は小説より退屈なのだ。(これって誰の言葉だったっけ?)歴史に残る大作曲家がどんなに偏屈で、決して友だちにしたくない人間が多いか以下に示そう。タイプとしていくつかに分類できる

かんしゃく持ちタイプ
ベートーベン

  -数々の名曲を残したベートーベンだがまさに「偏屈が服を着て歩いている」という言葉がぴったりの人物だったという。しばしばかんしゃくを爆発させしかも元来の一本気な性格が禍いして多くの友人や恋人が彼のもとを離れていった。極めつけは弟の子を弟の死後引き取ったのだがこの甥のカールはベートーベンの過剰なまでの干渉についには自殺未遂まで行い、その結果この数少ない肉親から絶縁状までたたきつけられた。またベートーベンは数々の良家のお嬢さんと派手な恋愛をしたがいずれも別れてしまった。おそらく女性の方がついていけなかったんだろうね。ちなみにベートーベンの臨終の言葉は「喜劇は終わった」ーふーむ自分でちゃんとわかってはいたようだ。

  
マーラー
       武川寛海氏によると「マーラーは天才だったらしい」何の天才かというと「敵を作る天才」だったという。この人もかんしゃく持ちで、自分と思想や思考が合わない人物に対してはどんな温厚な人物も怒らせてしまったらしい。つまりケンカの天才だったわけである。おかげでマーラーは「反ウイーン楽派」から徹底的に攻撃されることになった。晩年マーラーは極端な厭世感にとらわれるがこの時は人をよせつけない雰囲気に満ちていたという。個人的には初期のマーラーは結構好きなのだが晩年の厭世感あふれる雰囲気の曲には正直ついていけないところがある。武川氏の話しを聞いて納得、なるほど友だちになりたくてもなれない人物のようだ。

 

バルトークー
       バルトークの作品は私自身結構好きなのだが、その音楽は決してお世辞にも親しみやすいとはいえない。人間的にもその通りだったようでコリンウイルソン氏によると「バルトークはまれなほど親しみにくい人間だった」という。プライドも高くかなりのかんしゃく持ちだったという。確かに何となくあの音楽を聴いているとわかるような気がする。



自分勝手タイプ
ブラームス

  このブラームスという男、相当なひねくれものだったらしい。しかも自分勝手。ブラームスは生涯を独身で通したが、実は25才の時大学教授の娘、アガーテ フォン ジーボルトなる女性と婚約していた。しかしどうも気が進まないということでブラームスは悩んでしまう。そして何とよりによってアガーテ本人に相談するのである。いわく「僕は君を愛している。でも僕は束縛されたくない」と面と向かって云ってしまったのである。アガーテは当然ブラームスを捨てる。そりゃそうだろうな。女性から見たらなんて勝手な男なのと思っただろう。
またこんな話しもある。アメリカの大学からの作曲の依頼、それもかなり大きな仕事だったのだが彼は即刻断わっている。いわく「船で大西洋何か渡りたくないーだって船が沈んだら恐いもん」 アホか。

チャイコフスキー
単なる自分勝手ならまだしも、人を傷つけるのはよくない。実はチャイコフスキーはホモだった。現代でも同性愛に対する偏見は存在するが19世紀の話だから今よりもっとひどかっただろう。従ってそれを隠したい気持ちもわからないではないが、よせばいいのにホモの事実を隠すためにチャイコフスキーはアントニーナという女性と結婚してしまう。しかしホモが異性と結婚するものではない。チャイコフスキーはアントニーナとの「夜の営み(夫婦だから当然である)」に耐えきれずとうとうノイローゼになってしまい、最後には自殺未遂までやってしまう。可哀相なのは妻のアントニーナの方である。普通の夫婦生活もできず夫をノイローゼにさせたということで悪妻にされてしまったが、ひどいのはチャイコフスキーの方であるのはいうまでもない。自分勝手もここまで来ると罪である。



神経質タイプ
ショパン

ベートーベンが「偏屈が服を着て歩いている」ならショパンは「神経質が服を着て歩いている」ような人間だった。時々そんなつもりでいったんじゃないのに何気なくしゃべったひとことで怒ったり、勝手に傷付いたりするような人間があなたの周りにいないだろうか? 実はショパンはまさにそういう人間だった。実際こんなことがあったらしい。ショパンがファンだという女性に「僕の曲ってきれい?」と質問したら女性が「ええ。とてもきれいで大好きです。」といったらショパンは突然怒り出した「僕の曲はきれいだけなのか、それしかない音楽なの?」って泣きながらその場から走り去ってしまったという。そんなこと誰もいってないだろうが。この話からして、いっしょにいるだけで本当に疲れる奴だ。
  こういう人間だが結構ハンサムな男だったから女性遍歴は豊富である。しかし多くはこの性格のためにすぐに別れてしまう。しかしラッキーな奴で母性本能が強く包容力のある素晴らしい美女と出会う(羨ましいぜ(-_-†)。女流作家のジョルジュサンドである。サンドは友人に「彼(ショパン)は時々私に子供のように甘えてくるの」と手紙に書き送っていたが、赤ちゃんプレイでもしとったんか、お前らは。
しかしさしものジョルジュサンドもこの異常なまでの神経過敏な男についていけなくなり、結局は別れてしまう。それからまもなくショパンは39才の若さで死ぬが、こんな性格なら早死にするわな。友だちどころか私は近寄りたくもないね。


シューマン
シューマンは元々「うつ」の気があった。精神医学者の丸野先生に聞くと、生真面目で神経が細やかな人ー神経質な人間が「うつ」にかかりやすいという。この「うつ病」は実に恐い病気である。私ごとで恐縮だが友人が2人も「うつ」が元であの世に行ってしまっているので、この恐さはわかる。シューマンの晩年を見ると典型的な「うつ」の症状である。この「うつ」はシューマンが若き日のブラームスを迎え入れた当たりから始まる。シューマンの妻クララとブラームスが「いい関係」(不倫?)になっていったのは有名な話だが、どうもそれとシューマンの精神病は何らかの関係があると考える方が自然である。特に「うつ病」の人は妄想も膨らみやすいのでそれからシューマンの症状が悪くなっていっても不思議はない。
  先程「うつ」が元で友人が2人亡くなったといったが実はいずれも自殺、もしくは自殺に近いことをして死んでしまった。同じくシューマンも投身自殺を図ってしまう。シューマンの場合は自殺未遂となったが、結局この後は殆ど寝たきりー最後は殆ど植物人間状態だったという。真面目過ぎて神経質な人というのはひとつ間違えるとこういう不幸な事態に陥る。この当時はストレスマネジメントなるものは存在しなかったからであろう。最近日本でも「うつ病」になる人が増えているという。日本ではまだ職場でのストレスマネジメントの導入が世界的に見ても大幅に遅れているが、シューマンのような悲惨な死に方を防ぐ意味でももっと積極的に導入すべきではないかと私は考えている。少し余談だが...



ヴォルフ
フーゴーヴォルフは日本での知名度は必ずしも高くはないが、いわゆるワーグナー派に属した作曲家で、歌曲の面で多くの実績を残した人。シューマンと同じく「うつ」の症状で投身自殺(未遂)を図ってしまい、救出後完全な狂人になってしまう。もっともヴォルフの場合は若い頃の梅毒がきっかけであるといわれる。梅毒というのは精神的に不安定になることが多いといわれる。しかしもともと神経質な性格で悩み多き性格でもあったようである。晩年の「うつ」も梅毒の再発がきっかけであったようだ。セックスするにも性病には気を付けましょう



イヤーな奴タイプ
メンデルスゾーン

メンデルスゾーンは父親が銀行家だったこともあり、裕福な家の息子でしかも幼い頃から天才としてもてはやされていた。学校も一流の学校を出て、父親の財力に任せて自家製のオーケストラまで持っていた。これだけでも充分にイヤな奴だが、性格も結構イヤな奴だった
  メンデルスゾーンは若き日のワーグナーに会っているが、ワーグナーがメンデルスゾーンを尊敬していたのとはうらはらに、メンデルスゾーンは実にワーグナーに対して意地悪なことをしている。メンデルスゾーンはかの有名なゲバントハウスでワーグナーの「タンホイザー」序曲を演奏しているが、わざとテンポを極端に速く演奏してしまい全体が理解不可能にしてしまう。演奏が終わった時メンデルスゾーンは薄ら笑いを浮かべていた。オーケストラのあるバイオリン奏者がその表情を見てメンデルスゾーンはこの曲の価値をわかっていながらわざと変な演奏をしたことを悟ったという。ニッコリ笑って若手潰しである。事実このためワーグナーは大きな損害を被ることになる。本当にイヤーな奴である。


ワーグナー
さて、メンデルスゾーンに嫌がらせをされたワーグナーだが、「イヤな奴」という点では負けてはいない。いやある意味ではもっとひどいかもしれない。とにかく野心家で自分の成功のためには手段を選ばない男だった。他人の讒言をしてライバルを蹴落とすなんてことも一度や二度ではなかった。借金も踏み倒すは、友人から詐欺同然に金をまきあげてドロンするわ、親友の嫁さんを強奪して自分の妻にしてしまったこともある。(その嫁さんというのは音楽史上でも稀に見る女たらしで有名なF.リストの娘、コジマである)。まあとにかくこの男、そういった友人に対する「裏切り」の例は枚挙に暇がない。
  そして極め付けはバイロイト公に気に入られ、そのため国家予算の半分を使ってワーグナー専用の祝祭激情を作り、それによって「ニーベルンゲルンの指輪」という壮大な楽劇を作ったことだ。音楽史上最高傑作に数えられる作品だがこのためにバイエルン地方の領民が貧困にあえぐ結果になった。当時のバイロイト公ルードヴイヒ2世がワーグナーに心酔したためにこのようなこと起きたのだが、これを「芸術のための貴い犠牲」と取るか、貴族の道楽のために領民から搾取をしてきたと考えるか評価は別れるところだろう。
   ワーグナーの音楽は確かにすごい音楽でしかも麻薬みたいな所がある。ワグネリアンという熱烈(狂信的?)なワーグナーファンも結構いるし(私の知り合いで毎年欠かさずバイロイトまで出かけていく人がいる、その熱意には感心するけどね)イヤな話しだけどヒトラーを始めナチスの連中はワーグナーが大好きな連中だった。かのゲッペルスはワーグナーの音楽を用いて実に絶妙な演出を行い、効果的な大衆操作を行った。ワーグナーの楽劇は壮大なファンタジーがあるけど、しかしそれらはかなり多くの犠牲によってできあがったものであることは忘れてはならないと思う。



いわゆる奇人、変人タイプ
ブルックナー

ブルックナーという男は実に地味ーな男である。コリンウイルソン氏はブルックナーに関して面白いことを云っている「彼は不思議なほど不幸な男で、いわゆるチャーリーチャップリン的人間であったことがわかる。大工が椅子の上から落とすペンキ缶は決まってこういう男にふりかかるのだ」何かわかるような気がする(^^;)
  実はブルックナーは自分に極めて自信がない男だった。彼の交響曲は当時の観客の好みに合わず初演が不評に終わることが多かった。そのため彼は曲を発表する度に書き直している。それも手直し程度のものではない。殆ど全く作り直しといってよい。かくして同じ曲でありながら複数の楽譜が存在するというややこしい事態が生じる。それをさらにややこしくしたのは、ブルックナーの熱烈な支持者だった指揮者、ヨーセフ・シャルク、フェルデイナンド・レーヴェ等が作品を「わかりやすく」するために更に楽譜に手を加えたためにブルックナーの演奏をするのにどの楽譜を使って良いのかわからないということになってしまった。これも自分の作風、音楽そのものに自信をもつことができなかったブルックナーの性格が原因である。
ブルックナーの自信のなさは私生活でも出ている。彼は女性遍歴らしいものが殆どなく女性とまともに会話することすらできなかったようである。(72才まで生きたが一生童貞だったという話もある)心理学者の富田隆氏によればこういう自分に自信のない男はロリコンになりやすいと云っていたが、果たせるかなブルックナーは初めて会った十代の女性に結婚を申し込んだりといった常軌を逸したことをしている。非常に不幸でアブないオッサンである。


サテイ
サテイは作品からして変なものが多い。「歯のない鴬のように」弾くピアノ曲、フワフワした形の前奏曲、極め付けは同じフレーズを何万回も繰り返す「ヴェグザジオン」なる作品まである。(演奏時間は20時間を超える)これはハッキリいって変人でなければ書けない曲である。風ぼうもチビで服装にも無頓着、お世辞にも美男子とはいえない。当然女性にもてるわけなどない。
  しかしそんなサテイも生涯に一度だけ熱烈な恋愛をする。相手はシュザンヌ・ヴァラドンというルノワールやロートレックの絵のモデルをやっていた女性で現代でいえばさしずめグラビアアイドルといった所だろうか。尻軽女としても有名で多くの画家や、実業家との交際があったようだ。ちなみにそうした遍歴の中でこの女性が後の画家ユトリロを生む。しかしユトリロには母親らしいことは何ひとつしなかったようだ。ユトリロ自身はそれがトラウマになり、逆にそれがユトリロの作品の源になったのだから巡り合わせというのは不思議なものである。
話しはそれたが、グラビアアイドルとおたくっぽいさえない男、どう考えてもうまくいくはずがない取り合わせで、当然短い悲恋に終わってしまう。しかし別れた後もサテイはシュザンヌ・ヴァラドンの肖像画を大事に自分の部屋に飾っていたと云う。いわく「おれの人生で唯一の女だ」いやー一途というか健気というか....


今まで変人奇人の話しばかりしてきたが、どんなものでも例外は存在する。人間的にも比較的「まとも」な大作曲家もいたのである。


比較的「まとも」な大作曲家
バッハ

「音楽の父」とかいわれているバッハだが、ヨハン・セバステイアン・バッハは根っからの職業音楽人であった。彼は音楽の内容に関してプロとして譲れないこだわりはもっていて、その方針を巡り雇い主と対立したということがあったようだが、それがもとで奇行に及んだという記述はない。バッハ自身非常に謹み深い性格で自制心の強い人間であったようである。待遇や職場環境の都合で転職を何回かしたが、徹底的にプロフェッショナルとしての仕事を全うしていた。加えて家族をとても大事にしたらしく、よき父親として子供の教育も行っていたようだ。息子の何人かは音楽家として大成している。
  

ハイドン
このハイドンという人は苦労人である。車職人の息子という音楽とは無関係な環境で育った平民出身の少年が宮廷楽長の地位まで登りつめたのだから18世紀の時代では破格の出世である。しかしそこまでの道のりは当然平坦なものではなかった。ハイドンは音楽家を目指すのにはあまりにも恵まれない環境に育っており、そのため彼は床屋の職人として働きながら音楽の勉強をするという苦学生のような生活をしていた。その過程で音楽の教師に自分の作品を見せると「平民出身のお前は生意気に作曲などするのか」といって目の前で自作の楽譜を破られるなどという屈辱的なこともあった(ひどい教師だ!!) しかしハイドンには持ち前の明るさとタフさがあり、そうしたことにくじけることはなかった。
  私生活も恵まれているとは言い難い。若い頃ある女性と結婚するがこの女性が音楽に全く理解がない女性で、ハイドンが音楽の練習のために夜遅く帰ってきたのを、亭主が浮気していると勘違いして毎晩のように夫婦ゲンカをする始末。これにこりてハイドンは二度と再婚に応じていない。
  だがそうした不幸にもめげずついにエステルハージー公爵家の宮廷楽長の地位を手に入れる。ハイドンとエステルハージー公爵はウマがあったのか晩年までこのエステルハージー家に仕えることになる。
  たかが貴族の使用人ではないか、という意見もあるだろうがハイドンは決してその地位に安閑としていた訳ではない。音楽家らしい気骨も見せている。例えば次のような話がある

ある貴族の会合の演奏会でハイドンの作品を聞いて何人の出席者が居眠りをしているのにハイドンは気付く。これにカチンときたハイドンはそれならば貴族が眠れないような曲を作ろうということで生まれたのが、かの有名な「びっくり交響曲」である。今の我々が聞けば別にどうってことはない大きさの音だが、当時の貴族はこれを聞いて腰を抜かしたと云う。音楽家のプライドが「びっくり交響曲」を作ったといえる。

  またこんな話もある。 当時のハイドンやオーケストラメンバーはエステルハージー家の公務にからみ多忙な生活を強いられていた。オーケストラメンバーに疲れが見えそろそろ休暇が必要であることを知ったハイドンは一計を案じて「告別」交響曲なるものを作る。これは最終楽章で オーケストラメンバーが一人また一人とステージを去っていくパフォーマンスを行うというもの。これを見たエステルハージー公爵はハイドンの主旨を汲み取りオーケストラメンバー全員に休暇を与えたと云う。なかなか味なことをする人である。

こういう人物だから人望はとてもあった。奇人変人が多い大作曲家の中でハイドンは珍しく悪評が少ない。若い頃から苦労しただけあって、人間もできていたのであろう。


 

さていろんな作曲家の奇人変人ぶりを書いたが、私は別に悪口を書いているつもりはない。また大作曲家が奇人変人であることを悪いといっているのでもない。寧ろ歴史に残るような音楽を書く人は「フツー」過ぎていては新しいものなど書けないのである。ただ、彼らの業績を賛美するあまり、作曲家の人物像まで美化してしまう伝記作家や音楽評論家が時々いるが私はそういうのは感心しない。彼らは作曲家であると同時に人間なのである。従って長所もあれば欠点もある。それでよいではないかと思うのである。この奇人変人の記述を不快に思った人もいたかもしれないが、そういう人は伝記作家や音楽評論家の作った美化した姿に惑わされていると私はいいたい。

 

 

 

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2月 22, 2004 文化・芸術 | | コメント (0)