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2023年7月17日 (月)

AI時代ーアーチストもクリエイターの「元ネタ」に関する規定に関する提言

前の記事でアメリカ俳優協会(SAG-AFTRA)が経営側が交渉妥結直前に出してきたAIに関する項目で一転決裂ーストライキ決行という事態になったことを当ブログに書いたが、その内容をもう一度おさらいすると

1.SAG-AFTRAの役者全員を一日100ドルのギャラで全身と声をスキャンさせる

2. そのスキャンしたデータ(元ネタ)を永久にスタジオの所有物とし、以後役者には一切のロイヤルテイに関する支払いを発生させない。

3. そのスキャンしたデータ(元ネタ)を本人の許諾なくスタジオは自由に加工し自由に使うことができるようにする

これは役者の肖像権、知財の存在を真っ向から否定する考え方であり、SAG-AFTRAのドレッシャー委員長が怒るのも無理がない内容である。このような提案を当たり前のようにしてくるスタジオ側の発想は時代錯誤的ですらある。

だがこれというのも最近になって急激に発展してきたAIに関するデータの扱い方について世界的な合意が得られていない点が問題である。

まず基本的な点としてAIは

 

 

  1. 常識的な判断をすること

  2. 絶えず学び、その場で適応すること 

  3. 原因と結果を理解すること

  4. 倫理的な推論をすること

具体的には同じ作業の繰り返しをする、単純作業で成り立つ内容の仕事にむいているといわれている。処理能力は膨大、かつ迅速でありデータ処理に関しては人間はほぼAIにはかなわない。だが注目してほしいのは2の「絶えず学びその場で適応する事」

つまりデータ、コンテンツの場合は元ネタによってAIが写真、著作物、音楽等を生成するという点、もっとはっきりいえば

元ネタがないとAIは何もできない。 という点を抑えておかねばならない

そしてその元ネタは著作権肖像権フリー素材を使わない限り知財の権利は残る、という点が重要である、

つまり肖像権、著作権、版権その他の知財に関するロイヤルテイの支払い義務が生じる、支払わないと知財を無断で使用することになり違法になってしまう。先ほどのSAG-AFTRAのスタジオ側の要求はAIによる元ネタの違法使用を認めよ、と言っているのに等しくこれはあまりに酷い内容と言わざるを得ない。

そこでAIを使用する際の規定を厳密に定める必要がある。具体的には

1.元ネタがなにかを必ず登録する
AIに覚えさせる時に「何を覚えさせたか」を必ず記録し、明示すること。そして覚えさせた知財の権利所有者を必ず確認する

2.コンテンツ生成の際、元ネタに関するロイヤルテイ支払い
方法はいろいろあるだろうが、1つの例として欧米が行っている肖像権の「チェーンオブタイトル」のようなロイヤルテイ支払い方法が考えられる。いずれにせよ元ネタの作者、所有者が何らかの形で支払いを受けることが重要である。

3.不正防止のため生成物を第三者が確認する
日本では決して数が多くないがエンタテインメントロイヤーにより知財がきちんとロイヤルテイ処理がされているかを確認する必要がある。

この規定を前世界的に早急に決定させる必要がある。これを早急に提言したい。

噂レベルだが、某映画スタジオはクリエイターも役者も一切使わずにAIだけで映画を作ること画策しているという、それも肖像権、著作権等の知財のロイヤルテイを一切払わずに

そのような暴挙がもし本当にあったとしたら何としても阻止しなくてはならない。

 

 

 

7月 17, 2023 パソコン・インターネット文化・芸術思索,考察映画テレビ18- | | コメント (0)

2023年6月24日 (土)

AIとエンタテインメント産業,そしてこれからの生き方についての所感と考察

A.I.(人口知能)

今後の社会にとてつもない変化をもたらすだろうAI、勿論今後のエンタテインメント産業に対する影響が避けられないだろうこの新たなツールに関して、現在アメリカの映画界が大きく揺れている。

WGA(全米脚本家協会)のストライキが既に先月よりスタートしており、アメリカの映画産業と全米俳優協会 SAG-AFTRAの労使協定 Bargaining Agreement が6月30日で切れる関係で、7月1日からストに入ることはほぼ確実視されている。いずれもAI (人口知能)が交渉の議題にあげられている点で、これは一筋縄ではいかない。特にアメリカのクリエイターはA.I.が自分たちの仕事を奪う脅威として位置づけている向きが強く、AI (人口知能)使用制限を含むルール作りを要求している模様。特にWGA(全米脚本家協会)のAIに関する危機感は強く、<現時点でも激しいせめぎ合いが続いているようである。

■Hollywood writers at rally say they’ll win as strike reaches 50 days
https://apnews.com/article/writers-strike-hollywood-march-rally-actors-1e87e496db3581f251ee4ad7664a96b2

まあ全米脚本家協会は「必ず勝って見せる」といきまいているが、事態解決にはまだ時間がかかるだろう

そんな中、SAG-AFTRAとともにストライキに入ると思われた全米監督協会(DGA)はAMPTP(全米映画テレビプロデューサー協会)とのストライキは回避される見通しとなった。AMPTPの切り崩しが成功した感じで俳優協会の人間から反発も出ているという。

■Directors Guild Avoids Strike, Makes Deal with Streamers and Studios
https://gizmodo.com/directors-guild-agreement-amptp-wga-1850504440

それだけA.I.に対する姿勢が監督と俳優、脚本家と違うのかもしれないが、その前にA.I.に関して、クリエイターはただ忌み嫌うのではなく実際AIになにができるのか、正しい理解をしてからきちんと考えた方がよいように思う。

現段階で普及しているA.I.の機能は以下のとおり。
·画像認識
·音声認識
·言語識別
·制御
·予測*

上記の中で画像認識から制御の上から4つまでは既存のコンピューターで可能だが、一番下の「予測」というのがA.I.にしかできない機能だという。

そして脚本家や役者が恐れているのはA.I.によって以下のことが可能になるからである。

■【A.I.映画研究所】映画の脚本をA.I.に書かせてみた【Vol.01】
https://vook.vc/n/5733

 確かに脚本ができたようである。

また画像生成A.I.「Stable Diffusion」を活用した実在しない女性の画像を生成できることが、SNSでも話題になった。

「リアルと判別不能」ついに動き出した“AI美女” 自動生成される“作品”に著作権はあるのか?
https://times.abema.tv/articles/-/10079112

まあ確かにこれだけ見せられれば、そのうちクリエイターなどいらなくなる、とか脚本家などもいらなくなる、などという論法も出てくると思うが、果たしてそう話が単純なものだろうか?

実際にAIを研究している人がこう書いている

■AIは村上春樹になれない 小川哲さんに聞く「人間との境界」 決定的な違い生む身体の有無
https://mainichi.jp/articles/20230623/dde/012/040/007000c?

今SNS等で蔓延っている「映画はすべてA.I.が作る」「音楽も全てA.I.が作る」、勿論ただ作るだけなら理論的に可能だ。実際に大真面目に考えている輩がいるが、A.I.に「今の売れセンのメロデイ」や「売れセンの歌詞」とかをA.I.に覚えさせて作らせたとする。ヒット曲のあらゆるノウハウで生成された曲をリリースすることは可能だ。だがその曲が果たして本当にヒットするかはまた別の話

そんなので簡単にヒットするなら誰も苦労していない。音楽制作なんてそんな単純なものではない

ちなみに日本のJ-popは「売れセン」なんてことを言いだしてからリリースされた曲が極端につまらなくなった、ということが自分の経験上感じている。CDが売れなくなった、という話もほぼ同時期から出始めた。紙の上、データ上は「売れるはずだ」というデータでも実際にはそう簡単にうまくいかないものである。A.I.に過剰に期待している向きも音楽業界にあるが現実はそううまくは行かない。そういうものだ

上記の文章にも書いてあるようにAIには生成能力合成能力はあるが小説なら村上春樹の文章は書けない、絵ならゴッホのような絵は書けない、音楽ならベートーヴェンやワグナーのような曲は書けない。だからA.I.に勝つにはクリエイターの自己鍛練次第ということ

まあIT業界で話題になっている汎用人工知能(AGI)のリスクを議論が行われており、それはAI研究者が戸惑いを感じているほど人間が制御できない可能性が出てきているというので、そちらは一つ間違えると映画「ターミネーター」の「スカイネット」のような恐ろしいものになる可能性もある。そちらは慎重な研究が必要だろう

しかしA.I.が人間がコントロールできる範囲にあるツールである限りは、それは新たなツールが出現したというのと同じであり作曲であればDAW やDTMにAIが組み込まれた、と考えれば進化したツールが近いうちに出てくるだろう

ちなみに打ち込みやサンプリングシンセが普及したらもはや生音を使う人間なんていなくなるだろう、という言質が一時まことしやかに流れたが生音が現実、今でも使われているのは事実である。要はクリエイターの新たなツールとして新たな表現の可能性を追及すればいいだけのことである。

A.I.は確かに人類や社会を革命的に変える可能性があり、しかも今の普及のスピードを考えるクリエイテイブの現場に普及することをさけることはできない。WGAやSAG-AFTRAでの交渉がどうなるかわからないが交渉結果は世界のクリエイテイブの現場にも大きな影響をもたらすだろう。

とにかく映像や音楽のコンテンツのボーダーレス、グローバル化に加え、A.I.というまた社会を劇的に変化させるものまで現れた。その意味でも人類はまさに数百年に一度という大変革の時代に今生きているといっていいかもしれない

そんな時代にどのように生きていけばいいのだろうか?
一つだけはっきり言えるのは『A.I.との共存社会では「考える力」が必要となる』という点だろう。つまり人間にしかできない力(はず)である考えること、つまり自分の頭で何でも考えて自分で積極的に意思表示をし、自分で作り出す行動を行うこと、これが重要になる。

だがこれは現代の日本人が一番苦手としていることではないか?

日本人は周囲と同調することばかり考えて自分の頭で考えることをしない人が本当に多い。それが政治とか社会に対する無関心を呼び、政府がどんなメチャクチャなことをしていても支持し続けるというおかしな状況を作っている。

A.I.が普及した社会は自分の頭で考えない人は社会にとって無用の長物になってしまう可能性が高い。何も考えずただただ流されているだけの日本人の将来は暗いといっていい。A.I.時代が本格的に到来するにあたって「思考停止」はやめて自分で考えて自分で作り出す行動する癖をつけるしかない。

それがこれからの社会で生き残る唯一の道といえるかもしれない

 

 

 

 

6月 24, 2023 パソコン・インターネット文化・芸術思索,考察 | | コメント (0)

2023年3月23日 (木)

日本のWBC制覇は選手が力的に世界レベルーグローバルスタンダードーによるスキルやトレーニング向上の成果。エンタテインメント界もやる気になればできる

昨日のWBC(World Baseball Classic)のサムライジャパンの優勝は素晴らしかった。MLBを始めとする野球好きの私にとっても忘れられない大会になった。

まずは選手の皆さん。おめでとうございます!そして感動をありがとう!お疲れ様でした。と申し上げます。

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これは昨今の停滞した日本、あらゆる面で後進国に転落してしまった日本に大きな希望を与えるものであり、この国も日本人今後の取り組みの仕方によってはこの日本という国の再生も決して不可能ではないことを証明してくれたものと感じている。

今回のサムライジャパンの優勝は2009年の優勝より遥かに価値のあるものと感じている。なぜなら

1) 2009年当時のUSAチームを始めメジャーリーガーの参加は少なかったが、今回のUSAチームを始め強豪チームは全員メジャーリーガーであり各国の最高の選手が終結したチーム同士だったこと

2) 大谷選手を始め日本人選手の体力、パワー、野球のスキルが2009年当時と比べて飛躍的に向上したこと

今回決勝戦を見ても驚いたのは日本選手が並み居るメジャーリーガーと比べてもパワーでもスピードでも全く遜色なく戦ったことである。それゆえUSAチームと日本チームが力と力の対決が見られたことだ。

極めつけはこれだろう。

FOXのアナウンサーも"The Best against the Best" と評したこの対決。世界最高のプレーヤー同士の対決をWBCのクライマックスで見られるとは、まるで誰かが映画の脚本を書いたのではないかと思うくらいだ。

だが大谷選手だけではない。今回のサムライジャパンは史上最強といわれるだけあって、世界中を驚かせた選手が多かった

投げた球の殆どが160キロを超えた佐々木朗希投手(千葉ロッテ)は既に注目されていたが, 弱冠20歳ながら150キロ後半を投げた髙橋宏斗投手(中日), などはメジャーリーグの全球団のスカウトを騒がせるに十分だった。そして不調ではあったが史上最年少の三冠王や村上宗隆選手(ヤクルト) , 岡本和真(巨人) も注目されている。

これはひとことでいって日本のプロ野球選手が一人ひとり個人のレベルが底上げし、世界レベルのアスリートに育てることに成功したことに他ならない。パワー、スピード、スキルいずれも「グローバルスタンダード」になりメジャーリーグと何ら遜色のない選手が多く育ったためだと思われる

これはちょっと前だったら考えられなかったことだ。日本人は欧米人に体力ではかなわない。パワーとスピードでは負けるに決まっているというのが半ば常識に近かったからである。

なぜそれができたか?

それは日本人メジャーリーガーが次々と出てきたことが原因と思われる。1990年半ばの野茂英雄投手がパンドラの箱を開け、イチロー選手の大活躍で、後に続けとばかりに「世界に挑戦する」選手が次々と出てきたこと。松井秀喜選手、そして忘れられがちだが先発投手としてノーヒットノーランを達成した岩隈久志投手を始め日本人選手がメジャーリーグに挑戦することが珍しくなくなった。そしてその流れが二刀流の大谷翔平選手のエンゼルス入団につながる。

ここで重要なことは日本人が一流のメジャーリーグの選手になることで、調整方法、トレーニング方法といった情報もメジャーリーガーでない日本人選手の間に拡散共有されたことである。それが今までの日本の選手の練習方法で時代遅れだったものを修正し、最近は高校野球にまでそれが浸透していった点である。以前はプロとアマチュアはお互い壁を作り、プロの選手のアマチュア指導が禁止されていた、という信じられない規定があったが、それらは撤廃されていった。そしてパイレーツにも所属した桑田真澄元選手のようにアマチュア球団の指導をすることが多くなった結果、そしてかつての巨人の星よろしく、根性主義、精神主義に固執する指導者は時代錯誤の指導者として忌避されるようになり、アマチュアでも世界レベルの指導方法が浸透していくようになった。

 それが野球の選手育成の「グローバルスタンダード」化を生み、世界レベルの選手を次々と創出することになった。それらすべてが今回のWBCの14年ぶりの制覇につながったといえるだろう

 だが問題がないわけではない。それは日本の球団オーナーや経営者がまだ「昭和脳」の人物が多い点にある。

思い起こせば野茂投手がドジャースに挑戦するときの世間の反応は冷たかった。スポーツ新聞は競って野茂投手に対する批判的な論調を展開し現場で野茂投手と衝突することも珍しくなかった。今でもそういう傾向がなくなったとはいえないが、日本のサラリーマン層は野球選手を自分と同じサラリーマンと同一視する傾向があり、年俸での契約更改時にはたいてい世間は「社員が社長に楯突いている」といった感じでみていた。最近は以前ほどではなくなったが、まだそういうものの見方がなくなったとはいえない。野球選手は自分の運動能力、アスリートの才能を球団に売るフリーランスであり、だからこそフリーエージェントの権利は選手の寧ろ人権として当然保有すべきものなのである。

あと以前ほどではなくなったが、球団側の「既得権益」に固執する体質も根強い。メジャーリーグのインターナショナルドラフトへの参加も拒否したまま、フリーエージェントの権利も10年はメジャーと比べても長い、最近はポステイングシステムという「妥協の産物」も外圧によってしぶしぶ球団側が承認しているが、一方で日本のドラフトにかからずメジャーに挑戦した選手を二度と日本の球団がドラフトや契約をさせないようにする「田沢ルール」なるものを一方的に決めた。

田沢ルールとは https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/202011050001-spnavi

 そもそも才能流出と考えること自体まさに「島国的発想」である。逆に日本は広島カープのようにドミニカの若者の学校を作り優秀な選手を広島がドラフトする例があり、それを「才能流出させている」と非難する言質など聞いたことがない。要は自分たちの「既得権益」を守るためのケツの穴の小さい行動である。これこそ「昭和脳」の発想であり時代遅れ、どころか「時代錯誤」といっていいルールである。

そして数年前公取(公正取引委員会)から「田沢ルール」は独禁法に抵触するとの指摘がなされ、廃止された。当然のことである。

だが「田沢ルール」廃止に対する異論は球団トップの間で根強い。残念ながら野球の現場では「グローバルスタンダード」が進んでいるが経営のトップにはまだ「昭和脳」が支配している。これが日本再生の大きな障害になっている。

そして全く同じことが映画や音楽のエンタテイメント業界についてもいえるのである。

実際日本の芸能界を「グローバルスタンダード化する」というと芸能界のトップにケンカを売ることと同じことになるらしい。

実際音事協の標準の契約書は公取によって「違法の可能性がある」と指摘されている。彼らが死ぬほど恐れているのはアーチストがその契約書の違法性を裁判に持ち込むことで、そのことにより「音事協の契約書は違法性がある」という判例ができてしまえば音事協そのものが崩壊する可能性があるからである。

 だがそろそろ自らの既得権益を守ることをトッププライオリテイにするのではなく、真にアーチストのためにいいことはなにか、日本の映画や音楽、そして文化のためになることはなにか?それを真剣に考える時期に来ているのでは、と思う。WBCではサムライジャパンが優勝し「グローバルスタンダード」による世界レベルのチームとなった。だが日本の映画と音楽はアニメを除き、世界から大きく後れをとり、世界に無視すらされている。

 俳優もミュージシャンも狭い日本の芸能界ではなく、世界のショウビズに名乗りを上げることがどんどん起きないと全体のレベルの底上げにはならない。渡辺謙、真田広之を始めハリウッド映画に頻繁に出る俳優はいるが現行ではまだまだ少ない。

 日本のエンタテインメントが世界レベルになるには、サムライジャパンが大いに参考になるのではないか、と考えている。サムライジャパンのWBC制覇はそれに対する希望を与えてくれたといえる

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3月 23, 2023 スポーツ日記22ー思索,考察 | | コメント (0)

2023年3月 4日 (土)

グローバルなイベントを開催するときのデイバーシテイの問題ー文化の違いも影響

日本人の感覚では信じられないかもしれないが、欧米では男性が女性に「奢る」という行為を女性への侮辱だと考える向きがあるらしい。

■Paying while dating: meet the men who pick up the check (and those who don't)
(訳)「デートの時におごる男性と奢らない男性について」
https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2015/aug/27/dating-men-paying-bill-gender-equality 

昨今のジェンダーの多様性、男女平等に関する話で現在欧米でも実は意見が分かれている、というかデイべートの対象になっている話だが、欧米社会で多様性が論じられている中の一環として議論されている。

アメリカのワシントンポスト紙の人気コラム「ミス・マナー」の記事にこんなものもある。
■Miss Manners: When generosity can be seen as insulting
(訳)「なぜ親切心が侮辱とも受け取られかねない場合があるか?」
https://www.washingtonpost.com/lifestyle/style/miss-manners-when-generosity-can-be-seen-as-insulting/2014/10/01/71907532-48d7-11e4-a046-120a8a855cca_story.html

勿論日本人の感覚だと思いやりでやろうとしたことが相手にとって「侮辱」と受け取られる、などとは考えもしないだろう。この記事に関しては異論がある人も多いだろうと思うので皆さんの判断に委ねることにする。

勿論欧米の全ての女性が奢られて「自分が侮辱された」と感じているわけではない。
■ANSWERS FROM A HOT GIRL: SHOULD YOU EVER GO DUTCH ON A DATE?
(訳)モテる女性からの回答ーデートで割り勘にすべきだと思う?
https://www.muscleandfitness.com/women/dating-advice/answers-from-a-hot-girl-should-you-ever-go-dutch-on-a-date/

さてなぜこんな話をこのブログで話すのかというと近々行われる「映画人交流会」ー私はこの会の主催者の一人でもあるのだが...

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上記のイベントで入場料で男性を3000円、女性を2500円と料金設定しているのだが、男性と女性の入場料の違い(男性の方が500円高い)について在日外国人でイチャモンつけてきた女性がいた。料金の金額が違うのが男女平等に反するということである。詰問してきたのが男性ではなく女性である、という点がポイントである

私の対応としては一応英語で「食事で男性と女性の食べる量が違うのでそう配慮した」と説明して納得してもらった。その場で納得してもらったからよかったが、その女性が上記の上記のワシントンポスト紙の「ミスマナー」の記事のように親切心を侮辱と受け取るような人だったら炎上状態にもなったかもしれない。実際問題として女性に男性がそういう配慮するとそれは男性の「傲慢だ」と考える女性が欧米では多いらしい、ということは上記のワシントンポスト紙の「ミスマナー」の記事からも読み取ることができる。 

(著者注:この後全く別の男性から私を「女性差別主義者」呼ばわりした人物がいた。事情を説明しても聞く耳を持たなかった)

ただ繰り返すが全ての欧米女性がそう考えるわけではない。ただ人によってはそういう解釈をする人がいる、ということである。

ただ多様性が様々な見解から議論されている欧米と比べ日本はそういった問題にやや無頓着なのでこういう話を聞くと「面倒くさい」と感じる人がおそらく日本では多数ではないかと思われるが、ただ多様性、男女平等のあり方という議論のありかたは日本国内でももう少しあってもいいのではないかとも思う。

要するにここ10年ばかりの価値観の変化に伴い欧米でもデートを始めとした身近な点からも真剣に考えている風潮があるのと同時に、それに伴う社会の分断が起きている、ということも考えなくてはならない。具体的にはここ10年の全世界的な価値観の変遷ー多様性、SDGs, グローバリズムによる価値観の変化を受け入れる層と拒否する層との間で深刻な分断が起きている、という点だ。アメリカでは前者は民主党支持者でありハリウッドなども前者の価値観の変化を受け入れ推進する層になっている。後者は例えばトランプ支持者を始めそういった価値観の変遷を頑なに拒否する層だ。そしてこの分断は深刻であるが、日本も他人事ではない。日本でも価値観の変化に基づく分断は実は既に深刻である。マスメデイアがそのあたりを報じないだけで実は深刻な分断は既に起きている。特に日本では新しい価値観と陰謀論を結びつける向きが強く、話をさらにややこしくさせている。

日本人はあまり議論が得意な人が少ないし、そういう価値観に触れるチャンスにもなるかもしれないイベントをやりますので「映画関係者」という縛りはありますが、よろしければ映画プロデューサー、映画監督、俳優や女優さんにも会えますのでお越しください。

○日時 : 2023年3月11日(土)
○時間 : 19時・受付開始 22時終了
○会場 : 白夜書房 BSホール
○住所 : 豊島区 高田3丁目10−12 地下1階BSホール


〇行き方 : 高田馬場駅から、早稲田通りを渡ると、パチンコのエスパスがあります。
エスパスと星乃珈琲との間の道を入った道の右側の建物の地下1階です。ビルの1階にはAEON。向かいにはDomino’s Pizzaがあります。※地下へ直接、入る階段を使ってください。ビルの正面玄関は閉まってます


○入場料 : 男性3000円(1ドリンク付)、女性2500円(1ドリンク付)
軽食をご用意いたしますが、遅れて来たら無くなっているかもしれません。
ドリンクは二杯目からは500円です。

 

 

3月 4, 2023 文化・芸術思索,考察イベント・コンサート17- | | コメント (0)

2021年11月13日 (土)

京王線事件にからみ映画「ジョーカー」オンエア禁止に対して物申す

もう2週間前だが京王線で乗客刺傷事件が発生し17人けが、1人意識不明の重体(のち意識回復) の大事件を起こしたのは記憶に新しいが、問題はその事件を起こした犯人が逮捕後の取り調べでジョーカーへの憧れについて言及していた点である。

「人を殺して死刑になりたかった」という犯人だが、8月にも小田急線で刺傷事件が起きたが今回の事件はその模倣犯ということだろう。

私事だがその時に東宝シネマ新宿に行っていたために通常は京王線で帰るところを京王線が使えず、やむを得ず小田急線で遠回りで帰宅した。余計な時間と費用がかかってしまったが、それにしても8月の小田急線の事件、そしてその後も新幹線で模倣犯が現れる等、頭のおかしい人間が本当に増えている。

尚、選挙日当日なのでネットには例によって陰謀論がまきおこってるようだが事件が起きたのは8時過ぎで投票が終わった時間なのでそれはないだろう。選挙妨害目的ならやるなら朝かお昼付近にやるはず、最近のネットSNSは何かが起きるとすぐ陰謀論がまことしやかに広がるのは困ったものである。 

しかし映画に関わる人間として看過できない情報が入ってきた。アカデミー賞をもとった映画「ジョーカー」が日本の地上波でオンエア禁止になるとのこと

■映画『ジョーカー』の日本での地上波放送が禁止に
https://hypebeast.com/jp/2021/11/joker-movie-will-be-banned-from-being-broadcast-in-japan

一人のバカのためにこんなことになってしまった。 

18人が重軽傷を負った同事件の容疑者が、逮捕後の取り調べでジョーカーへの憧れについて言及していたことが判明。映画ではジョーカーが電車内で人を殺害するシーンがあり、また同容疑者は犯行時にジョーカーを模した派手なスーツを着用していたことから、同作に強い影響を受けていることが窺える。さらに、その後も同容疑者に倣うかのような電車内での凶行が多発しており、映画『ジョーカー』を地上波で放送することによって、同様の犯罪を助長しかねないとの意見が各方面から上がっているとのこと

はっきりいってこの事件とこの映画を結びつけること自体、全くのナンセンスである。だいたい映画をきちんと見ていれば、人間の心の病み、いい人間がだんだん悪人になる様を描いており、決してジョーカーを擁護してるわけでもはないし、況んや賛美してるわけでもない。ハリウッドやアメリカ映画アカデミーもそれを理解しているから主演のホアキンフェニックスにオスカーの主演俳優賞を授与したのだ。

これは日本社会にすっかり定着してしまった「事なかれ主義」が背景にあり、日本社会全体が考える力が低下してるのとヒステリーの要素増加しているためにこのようなことになる。「事なかれ主義」は社会の悪影響を考慮するのではなく一言でいえば関係者の「保身」が背景にある。責任転嫁を恐れる向きと無気力、無関心、無感動がこのような動きを誘発してしまうのだろう。そしてその「事なかれ主義」と「関係者の自己保身」が自然に社会に「タブー」を作ってしまう。タブーがあり過ぎるのは原始的な社会であり、事なかれ主義を人々に押し付けたら逆に犯罪者、暴徒が増える気がする。

ひとえにこれも日本人の劣化現象の一つといわざるを得ない 

この国の将来は本当に危うい

 

 

11月 13, 2021 文化・芸術思索,考察映画テレビ18- | | コメント (0)

2021年7月19日 (月)

小山田圭吾五輪開会式の楽曲担当辞任問題 IOC 大会組織委員会を含め日本社会の膿が続々出る「恥かき五輪」

コロナパンデミック第五波が発生中の中、東京オリンピックが強行されようとしているが、その中で開会式の音楽を担当していた小山田圭吾が中学時代にいじめを行っていた記事が拡散され、ネットで大炎上が続いていた。

先ほど小山田圭吾は五輪音楽の辞任を発表した。

■小山田圭吾さん 五輪開会式の楽曲担当辞任 過去に同級生いじめ
https://mainichi.jp/articles/20210719/k00/00m/050/255000c?

そのいじめの記事は「ロッキング・オン・ジャパン」の1994年1月の記事で私も今回の騒動で初めて読んだのだが、27年前でもこんな記事が堂々と掲載されてたことに驚きあきれた。

Oyamada

ロッキンオンといえば音楽評論家の重鎮の渋谷陽一氏が編集長を務める歴史ある雑誌である。そのロッキンオンがこのような酷い内容の記事を掲載することに社内でなんの議論も行われなかった、ということが驚きである。

そのロッキンオンは遅まきながら本日インタビュアーの山崎洋一郎氏による謝罪文を発表した。

■ロッキング・オン・ジャパン94年1月号小山田圭吾インタビュー記事に関して
https://www.rockinon.co.jp/news/150893

 小山田圭吾も謝罪文を発表したが、最初は作曲家の辞任ではなくむしろ続ける意思を示していた。

 ■小山田圭吾さん謝罪文全文 自身のツイッターに掲載
https://www.asahi.com/articles/ASP7J67FTP7JUTIL03F.html

正直これがまずかったと思う。本人は謝罪したつもりだったかもしれないが、これではおそらく被害者には伝わらないだろうし、本気で謝罪したのか、と疑われても仕方がない。

小山田圭吾がこの状況でオリンピック開会式での仕事を強行すると二重三重の意味で深刻な状況をもたらす。

1. 小山田圭吾 のアーティストイメージに致命的なダメージを与えること。
2. 多様性や平和共存のイメージに最も似つかわしくない人物がオリジナル曲を提供しこれだけで東京オリンピック の事実上失敗になる
3. このような人物の参加で日本の国としての品格威信がガタ落ちになること

辞任しなかったらおそらくアーティストとして再起不能になったと思う。それほどまでに重大な事態だったのだ

一部のネットユーザーに「なんでそんな昔のことを蒸し返す」と言う輩が少なからずいたが、このいじめの内容は昔だから許容できる内容ではない。なぜならこれは人権問題に直結する内容だからである。
昔の自分の犯罪レベルと言っていいいじめの報いを何十年後の今受けたのだ。自業自得であり同情の余地など1ミクロンもない。

よくネトウヨや保守系の人たちに「アーチストはなんでアッチ系の人が多いの?」などという輩がいる。

だが、アーチストは本来社会的弱者や社会で虐げられた人たちを代弁し、応援するのが当たり前で、このような発言を行っている者は音楽や芸術の本質を理解していない人間の発言である。ロック音楽は社会の不条理や圧政者たちに対する反抗から生まれた音楽であり、ほかのジャンルの音楽も多少イデイオムは違うにせよ、社会の底辺にいる人たちへの視点がないと人を感動させることなどできない。

だから社会的弱者、底辺に苦しむ人たちをいたわり、その人たちを勇気づけ夢を与える存在でなくてはならない。それこそはエンタテインメントでなければならないはずだ。障害者をいじめたり虐待するなどもってのほか。そのような行為を自慢するだけでこの人物の人格を疑わざるを得ない。数十年前だから、という免罪符など存在しない。

日本の教育からいじめがなくならない原因は、虐められる側にも問題がある、悪いとの変な考えを持っている人間が、特に教師側に少なくないことである。今回の問題となっている和光学園にも甚だ問題があると言わざるを得ない。少なくとも今回の件は氷山の一角という話もある。この件に関しては声明を発表すべきと考える。

今回小山田が辞任したことで問題が解決した、と考える向きがあるようだが、とんでもない。辞任してもこのような人物を選んだという事実はきえないのである、
菅や与党自民党や公明党が目論む「オリンピックで国民はコロナ を忘れる」は失敗し海外からも非難の嵐だろう。オリンピック開催中に感染爆発が起きずとも(起きる可能性極めて高いが)間違っても東京五輪成功とは言えなくなるだろう。

まさに「恥かき五輪」になる。やはりオリンピック強行は誤り

 

 

7月 19, 2021 経済・政治・国際思索,考察イベント・コンサート17- | | コメント (0)

2020年5月31日 (日)

コロナがダメ押しした時代の変化、もはや「コロナ以前には戻れない」ポストコロナ時代

緊急事態宣言が月曜日に解除されて一週間が経とうとしています。既に北九州市などでは「第二波」のようなクラスターが発生してしまい、関東地方もこの週末にどういう影響が出るか懸念されています。

今回のコロナで日本ではなかなか導入が進まなかったテレワークが大きく普及しました。なかにはかなり嫌々ながら導入した会社もあったようですがZoom会議が普及し一部の会社は完全に定着したといっていいようです。なかにはテレワークを標準化した会社もあったようです。

■日立 在宅勤務を標準へ コロナを機に新たな働き方に転換
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200526/k10012445681000.html

全般的に見て「テレワーク化」で成功した会社と失敗した会社でかなり格差が生じているというのが実態のようです。技術者系が多いメーカーでは概して成功しているし、それに伴い通勤費やそれほど広いオフィスが必要でなくなることから今後も「テレワーク」中心に行く方向に行く会社が増えるとは思いますが、一方では緊急事態宣言が解除されて「直ちにテレワークをやめるべきだ!」などと主に管理職系から主張している会社も少なくないようです。事務系が多い会社ほどその傾向が強いようですが、ズームで済む打ち合わせを地方の支店との打ち合わせにわざわざ経費を使って出張したり、という効率の悪いことをやり続ければ会社の競争力が落ちることは避けられません。やはりいくら中間管理職系が嫌がっても会社というのは「経費を削ることができる」とわかるとそちらの方向に動くものです。やはり「テレワーク」の標準化は避けられないと思います。

まあ管理職の間で「テレワーク」を嫌がる理由は単に「昭和脳」という理由だけではないようです。こちらを読むとなるほど、と思いますね。組織の中で生きてきた人だからこそ出てくる欲求のようです。
■テレワーク阻む 管理職の承認欲求
https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO5938761021052020000000

一筋縄ではいかない問題もあるようです。しかしこのことが「テレワーク」に対する流れを止めることになるとは到底思えません。

もともと私のブログでも現代は100年に一度くらいの大きな変化が起きている、ということを「コロナ以前」から書いていました。ですが結果的にこのコロナウイルスの災禍がその革命ともいえる大変化を決定的にした、ということはいえるかもしれません。おそらく「テレワーク」普及によって広いオフィスも不要になり、オフィス街の飲食のニーズも減るでしょうから様々なマーケットが変革するのは避けられないかもしれません。都市の構成が大きく変化していくのは避けられないでしょう

私は日本人の一つよくない点として「カタチ」にこだわる人が非常に多いことを感じています。しかし「カタチ」など単なる手段にすぎません。時代や社会環境によってどうにでも変わるものです。「カタチ」にこだわる人は時代の急激な変化にはついていけなくなる可能性が高く、今回のコロナの状況はまさにそれではないかと考えます。

さて、こちらは音楽ブログなので音楽関係の話にうつりますと、音楽の世界は「カタチ」にこだわる人が非常に多い点が揚げられます。そのため変化を忌み嫌う人が多くそれが音楽コンテンツのデジタル化に対しても対応が遅れる原因を作ってしまいました。私はもう20年近く前からこのことを指摘してきました。業界では誰も聞く耳を持ちませんでしたが...

今回のコロナ以後、私は2つのことにエネルギーを投入しようと思っています。

1. サブスク(ストリーミング)の強化

2.映画音楽の分野ではグローバル化(海外とのプロジェクト)

この2点を強化しようと考えております。

特にサブスクですが、日本は世界でもはや殆ど唯一CDという商品形態に固執している国ですが、当ブログでも今回のコロナ災禍でCDが音楽の主力商品であり続けることは難しいと指摘してきました。ただでさえ長いCD不況で体力がなくなっているCD販売店が今回の二か月近い緊急事態宣言による閉店にどれだけ耐えられるか。全部ではないかもしれませんがかなりの店が閉店を余儀なくされる可能性が高いです。またコロナによってアイドルの必須イベントの「握手会」ももはや開催不可能になっていますし、アーチストのライブの手売りもそもそもライブ自体ができない状況ですからCDの手売りというのも難しい状況になります。

といえば海外ではもはや主流になっているSpotify Apple Amazon, Google,といったプラットホームによるサブスクリプションしか事実上アーチストの収入源はなくなってしまう、というのが現実です。

このことは私が管理しているFacebookグループで既に何回も書いていますし、サブスクリプションによるプロモーションの姉妹グループまで作りましたが、正直反応はメッチャ鈍いです。海外の人と接したり海外にいったりすれば実感としてわかるんですが。日本に住んでいると「CDがなくなる」とうことが実感として感じていない人が多いみたいですね。でも気づいてから動いても遅いんですけどね

Spotifyに関してはPlaylist参加のためにFacebookのグループコミュニテイで活動していますが、日本人で動いているのは私だけみたいです。いやもしかしたら他に日本人の方がいるのかもしれないですが、目立たないですね。いずれにせよ現在海外の人のCuratorのplaylistにSpotifyで6つ、Apple Musicで2つ参加していますが、ようやく月3000回を超す再生回数を得ることができ、Spotifyのアルゴリズムをようやく刺激することができたようです。来月は少し思い切ったことをやってさらに再生回数を増やそうと思っています。

Spotify_algorithm

目標は勿論Editorial (公式プレイリスト)に乗る事ですが、おそらく私がとてつもない再生回数と収入を得ないと日本の音楽関係者の顔色は変わらないのかもしれないですね。とはいえそれを達成するのは誰がやっても簡単にはできませんが..

どうも今の日本の音楽関係者をみると何をやろうにも受け身に見えてしまうのが気になります。

・私のもう1つのメインの映画音楽ですが、もともと映画のボーダーレス化は「コロナ以前」から存在しており、日本のインデペンデント筋は既にそのボーダーレスに対する認識を持っていますが音楽と同じでメジャー系の会社はなかなかそちらの方に頭が動かないようです。

アメリカでもLAは日本より遙かに厳しいロックダウンの体制であるにも関わらずいまだ解除のメドがたっておらず、7月までずれ込む可能性が大のようです。そのためLA関係はすぐには動かないようですが、しかし企画プロットその他は水面下で動いていますし、NetflixやAmazon Primeは既に制作を再開しています。ヨーロッパやコロナ収束に比較的成功している東アジアでは企画が動きつつありますのでまずはそちらを責めるのが順当でしょう。

コロナによってサブスクを始めとする「配信関係」とボーダーレス、この2点が大きく進むことは間違いありません。既にいろんな人がいっていますが「コロナ以後」は「コロナ以前」には決して戻らないのです。戻らないのであれば今のうちに「コロナ以後」に関する動き。準備をするのは必要でしょう。そして今のような時期だからこそ、「コロナ以後」に向けた様々な準備ができる時だと考えます。

 

 

5月 31, 2020 思索,考察 | | コメント (0)

2020年5月18日 (月)

「芸能人は政治発言するな!」は民主主義を理解しないアホの発言!それがあたかも正論のように広まる日本社会の深刻度と民度の低さ

この件、本来なら私が音楽以外の記事を書くブログの方にすべきなのかもしれないが..

http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/

しかしやはり芸能人、文化人への人格そのものに対する攻撃であること。そしてこの問題は芸能界、音楽界そのものに対する差別的偏見に基づいた風潮によることを考えるとやはりこちらのブログの方が適切だと考えた。

ことは勿論本日、本国会での成立が見送られた(らしい)検察庁法改正法案あの発言に対して一連の芸能人の発言に対するネットでの攻撃である。攻撃した主な層はネトウヨが主だろうが、いわゆる他人を叩くことしか考えない「ネットのヒマ人」も少なくなかったし、また(特にきゃりーぱみゅぱみゅのケース)「おたく」と言われている連中も攻撃に加わった。

■きゃりーぱみゅぱみゅ「♯検察庁法改正案に抗議します」に戸惑うファンも
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200510-01845750-tospoweb-ent

■小泉今日子への嫌がらせ「ウイルス同様、それ以上に怖い行為」TBS金平氏が批判
https://www.daily.co.jp/gossip/2020/05/16/0013348145.shtml

彼らの言い分は殆どこの一点に集約される

・芸能人は政治にはシロウトだから政治的発言はするな! 黙ってろ!!

これがどれだけいろんな意味で酷い発言かみてみよう

(1) まず第一に例えそれが自分の意見と違うものであっても発言することを否定するのはそのタレントの人格否定そのものであること。

そもそもネットには「自分と意見が違う」というだけで激昂する人間が多すぎる。寧ろ人と人は意見が違う事の方が当たり前であって、多様な価値観を受容するようにしなくてはならない。しかしその多様性というものを理解できない人間が多すぎる。

(2) どんな職業であろうが日本国民であれば自国の政治に物申す権利はある。それが自由と民主主義の国の常識であり、人が発信する自由を脅かす行為は発信しようとする人間の人権侵害に当たる。また芸能人だから政治発言はするな、と圧力をかけるのは職業差別にもあたり二重三重の意味でけしからん行為である

時々日本人をみると北朝鮮のような独裁国家に住むことを望んでいるのではないかと思いたくなることがある。そのくらい上記の行為はあまりにも自由と民主主義を理解していない人間の発言であり行為であるといわざるを得ない。

この2点をもってしても日本人の民主主義を理解していない民度の低さを見て取れる。

勿論未確認情報だが、芸能人に発言するな!と圧力をかけるのは官邸の意向をうけたD通のアルバイト、なる話があるがそれはここでは置いておこう。要はこのような行為、発言があたかも正論のように広まっている事実に日本は実は後進国である、ということを自らの行為で証明しているにすぎないのである。

無論こういう風潮に対して芸能人からの反撃もある

■芸能人の政治発言めぐり爆問・太田、きゃりーぱみゅぱみゅ強力擁護
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200517-00010003-wordleaf-ent

■泉谷しげる 芸能人の政治的発言に「納税者が政治がおかしいって言うの当たり前」
https://www.daily.co.jp/gossip/2020/05/17/0013349291.shtml

まあ納税の話が出たが、勿論別に納税しなければ政治的発言するな、という意味ではない。(そもそも芸能人を攻撃しているネットのヒマ人はちゃんと納税しているのか疑問だが) 低所得者は物申せないようにも聞こえてしまうのであまりこの話を持ち出したくはないが、芸能人も納税者の一人。それも多くの場合平均的な納税者より高い金額を納税している。その人たちに政治的な発言をするなと攻撃するのは不合理でもある、といっていいだろう。

勿論メデイアはこのような行動をとる人間があたかも社会のかなりの層に及ぶかのようにミスリードしているが、実際に検察庁法改正案に賛成する人間は散発的で殆どいないことがわかっている。「エセ正義」や「安倍政権擁護」に明け暮れるネトウヨもネットユーザーの2%に過ぎないといわれている。今問題となっている「自粛ポリス」も同じくらいの割合だろう

僅かなノイジーマイノリテイーがSNSやネット全体の中で異常な発言力を持ってしまっている点が甚だ問題である。極端な意見ほど目だってしまいそれが増幅され社会に悪影響を与えているという構図だろう。またこういうノイジーマイノリテイーにすれば有名芸能人を叩くことで自分たちの存在感が示せる(と勝手に彼らは考えている)というのが今回の一連の芸能人への攻撃に繋がっている可能性がある。

いい加減こういうノイジーマイノリテイーがネットで影響力をもつような構造を変えないといけないのではないか?でないと日本のネットのレベルは酷い状態のままになるだろう。

 

 

5月 18, 2020 パソコン・インターネット思索,考察 | | コメント (0)

2019年5月15日 (水)

空母「いぶき」佐藤浩市発言ー産経記者阿比留瑠比の「やらかし」で関係者への炎上、圧力をかけ表現の自由の危機的状況を発し続ける産経新聞とネトウヨ

あらかじめ書きます。かなり毒をはきますのでそういう文章が苦手な方はスルーしてください

先日から映画『空母いぶき』についての佐藤浩市氏の発言が炎上を起したり、高須や百田などのおなじみのネトウヨ論客がこれに便乗して俳優佐藤浩市を叩いている事件

何の話かわからない方は、まあこちらを読んで下さい。

・「佐藤浩市が安倍首相を揶揄した」は言いがかりだ!

https://lite-ra.com/2019/05/post-4711.html

・佐藤浩市の発言炎上、批判する百田尚樹氏は「安倍首相を揶揄」と“曲解”の可能性

https://biz-journal.jp/2019/05/post_27882.html

安倍晋三を揶揄している?、というのが原因のようだが例えそうであっても政治権力者への批判、揶揄は言論の自由の観点から当たり前のことでありそもそもそんなことで目くじらをたてることがおかしいのだが、昨今の状況からネトウヨはちょっとでも安倍批判に結び付く言質を特に有名人が行うと逆上するーそれも逆上するだけならまだしもそれを拡散させ、大騒ぎを起してしまう点は困ったものである。

ところが私も該当部分を読んでみて今回のケースはそもそも「首相の揶揄」すら行われていないことが明白となった

原文

「最初は絶対やりたくないと思いました(笑)。いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残ってるんですね」
「彼(首相)はストレスに弱くて、すぐにお腹を下してしまうっていう設定にしてもらったんです。だからトイレのシーンでは個室から出てきます」

この文章のどこにも「安倍晋三」の文字もなければ「安倍晋三」を批判したり、それこそ揶揄していると思われる言質など見当たらない。この文章のどこをどう読めば「安倍晋三を揶揄している」「安倍晋三を批判している」ということになるのだろうか

それに関して解説している記事をみつけたので引用する

■炎上した『ビッグコミック』の佐藤浩市『空母いぶき』インタビュー原文を読んだら、完全に原文と文脈を違えて引用した産経記者のやらかしであった 
https://www.cinema2d.net/entry/2019/05/14/040555

どうやら発端は悪名高き産経新聞の記者の阿比留瑠比氏のFacebookの投稿らしい

殆ど今回の炎上に加担したネトウヨ、高須クリニック院長、そして百田和樹等、佐藤浩市を叩いている殆どの人間はおそらく「ビッグコミック」の原文を読んでいない。原文を読まずにネトウヨ連中の拡散した(たぶんデマに近い)情報を鵜呑みにして憤慨し炎上に加担しているだけである

だが上記の文章によると産経新聞・阿比留瑠比記者だけは原文を「一応」読んでいる。そして激怒している。「総理を演じることに抵抗があった」の後の「でも」から始まる重要な分をすっとばして「お腹を下す設定にしてもらった」接続した彼の引用文がひたすらコピーを繰り返し、誰も原文を読まずにネットの炎上が起きている。
つまり阿比留瑠比記者は単に読んでも理解できなかっただけである。そして自分に理解できる文脈、「ネットでサヨクがよく安倍総理のお腹の病気を馬鹿にしているから、佐藤浩市もきっとそうなんだろう」という文脈にとびついて、デタラメに編集した意味のつながらない引用文を流してしまったというのが真実らしい

そしてネトウヨのいつものパターンでデタラメに編集した意味のつながらない引用文ー実質的にデマーをネトウヨが理解できる文章として拡散して大騒ぎを起し映画制作現場、表現者、クリエイターに圧力をかける、といういつものパターンを引き起こしたのである

いい加減こういうアホらしいことをやめたらどうだ。だいたい佐藤浩市の批判側は私の見るところロクに原文を読んでおらずひたすら拡散されている発言をそのまま鵜呑みにしているだけである。そしてそれを「有名人」という理由だけで拡散するメデイア。いい加減こういう低レベルなことをやめたらどうなのか?

そして何よりも産経新聞の記者とあろうものがこんな中学生でも理解できる文章をきちんと読解できないとは、こんな記者を雇い続けるとは産経新聞のレベルがわかるというものだ。こんなことをしているから産経新聞は部数が落ち込み実質的には東京と大阪のみの発行となりもはや全国紙とは到底いえないレベルの新聞になったのである。そして今回は明らかに「極右のやらかし案件」であり結果的には産経もそれに加担しているのと同じである

また今回この炎上事件に加担した高須院長などは論外にしても百田尚樹は今回の「極右のやらかし案件」によって映画界や演劇界から失った信頼はとてつもなく大きいと思う。なんせサッカーの本田圭佑を三流選手と呼ぶのとほぼ同じ行為をしたのだ。

ちなみに当の映画関係者はネトウヨ系のバカ騒ぎに冷ややかである

 ■玉川徹氏、佐藤浩市発言に「単に安倍応援団の人が怒ってるってだけの話」
https://hochi.news/articles/20190514-OHT1T50033.html

特に百田の作家にあるまじき行為はもはや相手にする価値のない人物として断じるべきであり、メデイアもこのような人物の発言等を取り上げるべきではない。三流以下はどちらなのか自明の理であろう。

「私は自分の作品の映画化に関して、キャスティングに口出ししたことは一度もない。しかし、もし今後、私の小説が映画化されることがあれば、佐藤浩市だけはNGを出させてもらう」

残念ながら今回の件で致命的なダメージを受けるのは百田の方だ。おそらく百田作品が映画化されることは二度とないであろう。そのくらい今回のやらかし事件の代償は大きい

とにかくメデイアもこのネトウヨや「極右のやらかし案件」を取り上げ過ぎ。アホのから騒ぎよりも伝えるべきことは山ほどあろう。それが日本の表現の自由、言論の自由を結果的に空洞化させてしまうことは報道機関として考えるべき

 

5月 15, 2019 思索,考察 | | コメント (0)

2019年3月13日 (水)

ピエール瀧の逮捕による映画公開やドラマ放送や配信中止の風潮に異を唱える

昨日芸能関係で衝撃の事件が報道された。

■ピエール瀧容疑者、韓国紙幣で薬物吸入か 自室から押収
https://www.asahi.com/articles/ASM3F33GLM3FUTIL001.html

こういう事件が起きるといつものことだが放送、映画、音楽関係者の間には動揺が広がった。そしてピエール瀧のしょんないTV」(毎週木曜深夜)を放送する静岡朝日テレビは13日、番組の「休止」を発表、ピエール瀧容疑者登場のゲームを販売自粛、そしてかつてメンバーだった「電気グルーヴ」もピエール瀧逮捕を受けて中止となった。

■電気グルーヴ全国ツアー東京公演、ピエール瀧逮捕を受け中止
https://natalie.mu/music/news/323624

そして大河ドラマ「いだてん」(低視聴率の問題だけでなくまたケチがついてしまった..)やその他映画の公開中止の動きも出てくる。こういう不祥事が起きると必ず決まってこういうことがおきる

だが私はこういう風潮にあえて異を唱えさせていただく。

いうまでもないがピエール瀧を擁護する気などさらさらない。だがいだてんや「アナと雪の女王」もピエール瀧が出演したという理由だけで放送やDVD発売中止等の事態を懸念してあえていわせてもらう

出演者の一人の不祥事が原因で出演作品そのものを否定するのは間違っている!

そもそも俳優の不祥事でなぜ作品の公開中止やオンエア中止をしなければならないか?そのロジックが理解できない。
映画もドラマも俳優一人でできるものではない。多くのキャストとスタッフの努力によって作られた作品でありキャスト一人の不祥事でその作品そのものを否定するというのはあまりに短絡的で安易ですらある。
公開禁止オンエア禁止で誰が得するのか。誰も得しない。 強いて言えば不祥事を起こした人間の出演で悪質な暇人クレーマーその他による炎上、騒ぎによる面倒を避けたい。つまり東日本大震災直後にイベント開催を「不謹慎」とかいって叩いていたいわゆる「不謹慎廚」のようなクレーマーの続出で自分の地位が危なくなるという保身の論理であろう
つまりひらたくいえば「事なかれ主義」である。

暇人クレーマーなど本来誰からも相手にされないような社会失格者ばかりであり本来相手にする価値もない連中だ。 そういう連中が難くせやクレームで炎上をしかけようと手ぐすねしている。 他にやることがないのか、といいたくなる連中だ、 こういう連中のクレームなど本来スルーすればいいのである

映画会社、放送局、その他のトップの保身や面倒な騒ぎを避けたいため、「事なかれ主義」が蔓延し、その「事なかれ主義」のロジックが広告代理店、放送局、映画製作会社すべてに蔓延してしまい映画の公開中止、番組のオンエア中止という行為が正当化される。
だが「事なかれ主義」は一種の官僚主義を生み日本社会を閉塞状況におく最大の原因となっている

そう考えていたらシネマトゥデイで私と同様な主旨で論じている記事がみつかったので紹介する

■作品に罪はあるのか?俳優不祥事による映画公開中止はなぜ
https://www.cinematoday.jp/news/N0107452

Cinema_theater

そろそろ出演者の不祥事によって映画公開やOA中止や商品の発売中止という措置が本当に正しいのか議論すべき時期に来ていると思う。 何度でも云うが一人の俳優の不祥事と作品の本質は無関係である。作品は作品 出演者は出演者、全く別のものである。

 

 

3月 13, 2019 思索,考察 | | コメント (0)

2018年12月31日 (月)

平成最後の大みそかで音楽、映像のコンテンツ産業の激動の変化の時代に思う

本日は平成最後のおおみそかになります。

それにしてももう次の元号が決まっているでしょうに、政府が発表しないためカレンダー業界とかは困っているようですね。いっそのこと元号なんかやめて西暦に統一したら、なんていったら怒られますでしょうか?

いずれにせよ日本にとって1つの時代が終わるわけですが音楽産業も映画産業も大きな変化の時期に来ています。

CDの時代が完璧に終わった日本以外の音楽業界

まず音楽業界、

日本にいるとわかりませんが欧米では「音楽不況」はもはや過去のものになりつつあり欧米では完全にV字回復している点を当ブログの記事で述べました。

ストリーミングでアメリカ音楽市場がV字回復-でも日本ではこのままでは無理
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2018/04/v-6f77.html

まあ音楽業界筋の反応は今年の4月も現在も信じられない、ありえない"といった反応ですが以下の記事を見ればもはやと"CD"というメデイアは完全に過去のものになってしまったのはもはや否定しがたい事実といわざるを得ません

■「CD離れ」の始まったグラミー賞。CDスルーする新世代が追い風に
https://news.yahoo.co.jp/byline/jaykogami/20181229-00109465/

英HMVが事実上破綻 -ネット配信に押され
https://this.kiji.is/451391345103455329

勿論欧米と日本では音楽ストリーミングに大きな役割を果たすソーシャルネットの環境は欧米と日本では大きく違います(下図)。そのためSpotifyもApple Musicも日本は欧米と比べても有料視聴者数はかなり少ないです。そのまま音楽産業側がいうように日本で同じことはできないという言い分も分からないではありません。とはいえ欧米でこれだけCDが事実上消滅の状況になっている現状で日本だけがいつまで旧態依然のCDパッケージ中心のビジネスモデルを維持できるかは疑問です。

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ジェネレーションZ(現在の18-28歳くらい)に関する調査で、どのソーシャルメデイアに使用頻度が多いかについての調査表

日本の音楽産業も映画産業も「バブル」時代にオイシイ思いをした世代がちょうど経営のトップにたっています。この世代はその「バブル」時代のオイシイ思いが忘れられず、バブル時代のビジネスモデルや事業形態を絶対視してそれ以外の形を受け入れない人間が多いように思います。

そしてトップがそのメンタリテイだとそれが従業員にも伝染るものです。かくして日本の音楽業界はいわゆる音楽不況が始まった時期からそうですが変化というものに極端に弱い業界になってしまいました。
コワいのは「ガラパゴスで何が悪い!!」などといいかねない人間が少なくない昨今の日本です。世界から30年は置いていかれている現状で残念ながら音楽では世界最後進国になってしまっています。そして一番そのことを理解していないのが日本の音楽業界関係者です。

そして変化の対応に対して鈍いのは日本の音楽業界だけではありません。映画、芸能界全般も今大きな変化のうねりが来ています

グローバル化、ユニバーサル化した映画制作現場

それが当ブログでも何回も述べている映画制作の「グローバル化」あるいは「ユニバーサル化」と呼ばれる動きです。とりわけインデペンデント系で大きな変化が起きつつあり、それこそ「革命」といっていいことが起き始めています。それはFacebookグループのエンタテインメント業界キャステイングの管理人をしていて実感します。

ちょっと前だったら日本人がハリウッド映画に関わることすら夢の夢でした。仮にそういう案件があっても某大手広告代理店や大手製作会社が仕切って殆ど役者は自由にオーデイションに参加することができませんでした。 それが今では日本国内では無名でも普通にハリウッド映画にチャレンジできる時代になりました。今海外の映画出演のキャステイングコールの情報が普通に入ってきますし、同グループの参加者も複数ハリウッド映画に出演している人が少なくありません。かつてはそういう情報は大手代理店や大手製作会社が全部ブロックしていたのですが、ソーシャルネット時代に入りそういう情報をブロックすることはもはや不可能になりました。

また撮影現場でも海外とのコラボの撮影はもはや珍しくなくなりました。欧米の映画撮影隊とのコラボ、中国やアジア圏とのコラボ、ちなみに私は今年だけで台湾映画と中国ドラマ(撮影クルーは殆ど香港のスタッフ)にミュージシャン役で出ています。

しかし映画の方も音楽業界同様、そうした変化に対する反応が鈍いように思います。

これというのも日本の「メジャー」は映画でも音楽でも一部例外はあるものの、基本は「日本国内の市場」しか見ていない点です。実際映画にしても音楽にしてもプロデユーサーに「グローバルに全世界に作品を打ち出していく」といってもまるでこちらが宇宙人であるかのような顔をされることが多いのが現状。その意味でもこと「メジャー」に関して言えば音楽も映像もそんなに大差がないといっていいかもしれません。

私はもう「メジャー」など放っておいて私から直接海外とコンテンツや制作請負のやりとりをやろうという発想に変えて行こうと思います。

そして新時代への移行には芸能界の既存の体制ではもはやグローバル時代に対応するのはほぼ不可能と考えます。特に映画制作、映像コンテンツ制作がこれだけグローバル化していう現在、日本だけ日本のやりかたがあるので、知財の契約結びません、エージェント導入を許可しませんwwなんていったって通用するわけがありません。もはや全世界的にエージェントが肖像権、著作権、そして出演料その他の条件について協議するのが全世界の常識となっていますので、この流れに日本だけ逆らうというのはどうにも難しいでしょう。そして役者、アーチストの「ユニオン」というものが必要ですが過去大手事務所にことごとくつぶされてきた経緯もあり、そう簡単にはいかないと思います

つまりインターネットから波及したグローバリズム、SNSというものが少なくとも音楽や映画の世界を変えつつあるという構図が見て取れるわけです。

これが来年どのような展開になるか、正直まだわかりませんが1つだけいえることは大きなチャンスが生まれつつあるということでしょう。

お正月期間は結構ヒマになりますから、こうした思索にふけるのもいいかな、とも思っております。

いずれにせよ映画業界も音楽業界も今激動の変化の波にさらされています。この荒波で沈んでしまうか、乗り越えて大きな存在になれるか、今瀬戸際だと思いますので来年はさらに果敢にチャレンジしていく所存ですのでよろしくお願いします。
 
 皆さんよいお年をお迎え下さい

12月 31, 2018 思索,考察 | | コメント (0)

2018年9月14日 (金)

コンテンツ制作に古いメディアが復活、でも懐古趣味にあらず。デジタルとアナログが共存し始めた時代

アマゾンは1冊から必要に応じて印刷、製本できる少数製本システムを配送センターに整備すると発表した。

■アマゾン、1冊から製本 少数出版システムを整備 自費出版・復刻需要に対応
http://www.sankeibiz.jp/smp/business/news/180913/bsd1809130500006-s1.htm

アマゾンはご存じの通りデジタル出版であるkindleを業界に先駆けて発売したのだが、そのkindleが出てきた時もう紙媒体は無用の長物だとまことしやかにいわれた。そのアマゾンが紙媒体を出すというのは何とも皮肉だが、実はこういう「昔のメデイア」の復活がコンテンツ関係の各方面で起きている。

音楽では欧米でStore Daysのムーブメントをきっかけにアナログレコードが復活に動き、今や全世界に普及している。日本でもあんなに「アナログレコード」を「アナクロ」などとバカにしていた日本メーカーも今や東洋化成だけでなく、ソニー、ビクター、コロンビアが生産ラインを復活させているが、製造ラインが足りない状況が続いている

アナログレコーデイングも復活しており、なんとアンペックスがハーフインチ中心だが、オープンリールテープを増産し始めている。

その関係で今や音楽は海外ではストリーミング配信とアナログレコードという商品ラインナップが定着しつつある。(残念ながらそこにCDはない)

フィルムもハリウッドで復活している。35mm 70mmはデジタルや4Kでは出せない豊かな映像を撮影することができるからだ。そして
フィルムが復活している一方でデジタル映像でyou tube に予告編が流れる。

そこに懐古趣味は存在しない。つまりデジタルとアナログが共存し始めた時代だ。

アナログやデジタルを対立関係として見るのではなく、いわば「違う役割」の製作チャンネルとして両者は共存して発展していく。繰り返すがアナログ回帰とかアナログの制作を行っているからといって懐古趣味では決してない

それこそが健全なメディアのあり方と考える。

9月 14, 2018 思索,考察 | | コメント (0)

2018年9月 4日 (火)

インデペンデントの映像制作から大きな変化のうねりーこの活気をグローバル化につなげたい

改めて書くけど私は基本は作曲家である。

だが映画、ドラマ、その他CM商業映像のための音楽制作を行っている関係で音楽家であるにも関わらず、映像の世界、とりわけ映画の世界にどっぷりつかってしまっている。

そのことを理解できない音楽関係者も少なくない。私が何をやろうとしているのか、全く理解できない人もいるようだ。

だが映画やドラマ等の音楽(あえて「劇伴」という言葉は使わない)をやっている人間からすれば全く自然な行動だ。なぜなら映画音楽作家は音楽人ではあるが同時に映画人でもなければならないと考えるからである。

そして今インデペンデント系を中心に大きな変化が起きている。それこそ「革命」といっていいことが起き始めている。

第一の大きな変化は映画、映像制作の完全なグローバル化だ。ちょっと前だったら日本人がハリウッド映画に関わることすら夢の夢だった。仮にそういう案件があっても某大手広告代理店や大手製作会社が仕切って殆ど役者は自由にオーデイションに参加することができなかった。 それが今では日本国内では無名でも普通にハリウッド映画にチャレンジできる時代になった。実際私が管理するFacebookグループ音楽&映像関係キャステイング交流会では海外の映画出演のキャステイングコールの情報が普通に入ってくるし、同グループの参加者も複数ハリウッド映画に出演している人が少なくない。これは数年前では考えられなかったことである。インターネットとソーシャルネットがそういった既存の体制を崩しつつあるのだ。

かくして先日開催したハリウッド女優のJune Mayaさんを囲むランチ会、定員を少な目にしたもののあっという間に定員の倍が集まったし

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「夢を叶える人になる!ハリウッドへの道☆ランチ会」でハリウッドにチャレンジするための様々な話をランチしながら行う会。意識の高い人ばかりだったので活発なトークが展開された。こういうことが普通に行われるようになった。

そして今私もはっきりいうが、「映画制作にもはや国境なし」と断言してもいい

一昨日も別の交流会に参加した。Facebookグループ音楽&映像関係キャステイング交流会でも何回か交流会はやっているが、交流会をやる時には参加者は大きくわけて2つに分かれる。自分の席を中心に動かず名刺交換の挨拶を待っている人と自分の席をたって積極的に動く人だ。前者は圧倒的に音楽関係者が多く、後者は圧倒的に映画関係者が多い。いい悪いは別として音楽関係者というのはシャイな人間が多いのかこういう交流会になると積極的に行動することは少ない

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自分の席に座って待っている人

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活発な活動をしている人

実際音楽&映像関係キャステイング交流会での募集投稿に対する態度も音楽関係者と映画関係者では対象的だ。映画関係者の多くは積極体にオーデイションや募集投稿に応募するのに対し、音楽関係者の応募は本当にまばらである。消極的といってもいい

実はそれが大きな懸念材料になっている。

それは今「カメラを止めるな」(多少権利問題、知財の扱いでゴタゴタが起きているが)という従来の映画の常識を根本から崩す動きが出ている等、非常に活気をおびているインデペンデントの映画の世界だが、一方で一向に回復の兆しが見えない日本の音楽界を象徴しているようにみえる。

以前の記事にストリーミング関係で欧米の音楽市場はV字回復したが、日本だけ完全に置いてけぼりを食っていることを述べた。

■「音楽世界最後進国」の国から世界に追い付くための対策を始めます
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2018/07/post-bad4.html

■残念ながらCDはなくなる運命にある しかしパッケージが完全になくなるわけではない
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2018/07/cd-9e14.html

詳細は上記記事を読んでもらうとして一言でいえば海外のようにストリーミングで億単位の再生回数を確保するためにはグローバルに全世界向けに作品を配信していくしか生き残る道はない、ということである、

これは映画でも同じだが日本の「メジャー」は一部例外はあるものの、基本は「日本国内の市場」しか見ていない点である。実際映画にしても音楽にしてもプロデユーサーに「グローバルに全世界に作品を打ち出していく」といってもまるでこちらが宇宙人であるかのような顔をされる。これだけグローバルな動きが出ている現在でもそういった動きを全くつかんでいないのである。たぶん意味すら理解していない

映画でも音楽でもメジャーが落ちぶれている時に新しいインデペンデントのうねりが出てきてインデペンデントが過去のメジャーにとってかわる、ということは歴史を見ると何回も起きている。スターウオーズだって今こそは大メジャーだが最初の「新たなる希望」が公開された当時はマイナーなインデペンデント映画に過ぎなかったのである。これはコッポラやスピルバーグも同じ、

今まさにそういう時代が訪れようとしている。しかも日本国内だけなく全世界に作品を発信したものを作ることができる。新たな時代に突入しようとしている

そして映画音楽を作曲している人間としてこのうねりに乗り、同時に音楽もその「グローバル」な流れに載せたいと考えている。全世界に向けて配信する作品を作る時代に入ったからだ、だから音楽関係者に意識改革をしてほしいのである

そしてみんなが笑える時代の到来を期待しましょう。ということでこの写真..

Koryukai090203

9月 4, 2018 思索,考察 | | コメント (0)

2018年2月17日 (土)

ますます元気になる映像制作の世界、それに引き換えますます低迷する音楽の世界 それを変えるにはどうするか?

前から読んでいらした方なら私がFacebookグループ「音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」の管理人をしていることはおわかりになるだろうと思う。

主に仕事やオーデイション情報を掲載しているグループで音楽関係者と映画映像関係者両方を入れている。基本プロフェッショナルレベルで仕事をしている人しか参加承認をしていないのだが、なぜ映画映像関係者と音楽関係者が同じグループにいるのか、ということが理解できない向きが多い(とりわけ音楽関係者からそういう内容の疑問をよく聞く)

これも以前書いたかもしれないがなぜこのようなことをしているかというと以下の目的があるからである、

1.音楽を世の中に広めるためには「映像」という媒体が必要であるという観点から音楽と映像のコラボレーションの機会を増やす(いわゆる「タイアップ」だけでなく映像制作プロジェクト、You tube等で拡散する必要性)

2.急速にグローバル化している映像制作に音楽を組み込んで、グローバル化で大きく後れを取っている音楽の世界の活性化をもくろむ

しかし残念ながらまだ道半ばというのが現状だ。
特に最近苦戦しているのはグループ投稿に関する映像関係者と音楽関係者の反応の違いだ。

ひとことでいえば、映像関係者(映画監督、俳優、女優、その他クルー)は投稿をよくチェックしていて募集投稿に対する応募も積極的だが、音楽関係者は一部の人間をのぞいて投稿を殆ど見ていない、見ても応募には極めて消極的である(ある調査だと音楽関係者の7割はグループの投稿を全く見ていない、見てもスルーというデータが出ている)

また昨年も映像と音楽のイベント両方をやったが映像関係のイベントはたいてい満員御礼かイベントによっては人があふれんばかりの出席者だったが、音楽関係は一部を除いて動員では著しく苦戦した。

つまり映像関係者と音楽関係ではあまりに対照的な状況ー

もっとはっきりいえば映像はグローバル化も手伝ってますます活気をおび盛り上がっているのに対し、音楽があまりにも停滞、低迷しているのが浮き彫りになった。

正直この状況で音楽関係の募集投稿その他の掲載イベント企画に関してもかなりモーテイベーションが落ちたことは否定できない。実際音楽関係の募集投稿はただでさえ少ないし、あっても普通のアルバイトと同じか少し毛の生えた程度のものしかない

そういう背景も音楽関係が投稿に対する積極性が下がっている原因かもしれないが、私は大きいと感じているのは映像関係者、女優俳優さんはオーデイションが当たり前なので、オーデイション情報を必死に収集し参加しているが、音楽関係者は違う、

応募が少ないから募集投稿に関して興味がないのかというとどうもそうではないようだ。実際「こういうのがあるけど興味ある?」と聞くと「興味あります、是非やってみたい」という声が帰ってくる。じゃあなんで応募しなかったか聞くと「声がかからなかったから」という答えが返ってきた

つまり興味があるから自分から積極的に応募してアクションを起こすという発想はなく、ひたすら「声がかかるのを待つ」という姿勢のようだ。

これが事務所関係となるともっと酷い、昨年も映画「再恋(さいれん)」のエンデイングテーマの募集をグループにしたところグループ参加者で音楽業界関係者のこの件について聞いてみたら驚くべき答えが返ってきたのだ。

「え? そんな募集あったの? 全然見てなかった」

なかには「なんで教えてくれなかったんだ?」と怒って食って掛かってきた者さえいた。

こういうのを見て思うのは音楽関係者は一部の人間を除いて「受け身の姿勢」が是とされ、応募に対して積極的に働きかけるというのは「ハシタナイ」とすら思っているらしい。

折角情報が入ってもそれを活用する術という点では映像関係者と比べて著しく劣っているといわざるを得ない。

まあ音楽関係者のネットツール(サブスクリプションやYou tube関係を含めて)に使い方、そして今回のネットツールの使い方を見ても音楽関係者には情弱が多い、と言わざるを得ないのだ

私が一番心配しているのは、映像制作関係は今水面下でグローバル化に伴い、殆ど「革命」といっていい事態が起きているのだが、このままだと間違いなく音楽関係は映像、アニメ、ゲームから置いて行かれる可能性が高いという点だ。

勿論日本の芸能人にも事務所依存体質が強いが音楽家はさらに強い。メジャーで長い間仕事している人間であればあるほど事務所への依存体質が強い傾向がある、

だがその事務所依存体質も変わって行かざるを得ないことが起きている

■TV局へ悪評・報酬遅延 公取委が見た芸能界の移籍問題
https://www.asahi.com/articles/ASL2H3WMLL2HUCLV003.html

■独占禁止法をめぐる芸能界の諸問題
http://www.jftc.go.jp/cprc/katsudo/bbl.files/213th-bbl.pdf

公正取引委員会が芸能プロの契約書を「違法の可能性高い」という方向でまとめている。もしこれが正式に公正取引委員会によって「違法」と認定されれば音事協を始め日本の芸能プロの体制は根本から崩れていく可能性がある

その時に従来のような「事務所依存体質」でいいのか?ということをもう1度自分で問い直す必要があるかもしれない。

これは意識改革の問題である。

今コンテンツ制作の現場が急速なグローバル化が進んでいる現在、日本の音楽関係者は従来の「内向き」「事務所依存」の姿勢で生き残っていられるか? というのが大きな問題だ

その時に「音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」の募集投稿に応募するのが「メジャーらしくない」「ハシタナイ」なんていう考えを捨てられるかどうか、である。

そのためにも映像のグローバル化によりますます活気をおびている映像制作の中に音楽をいかに組み込んでいくか、そのための試みは重要なものと思いませんか?というのが私の姿勢だがいかがだろう?

ますます活気をおびる映像制作の世界、ますます低迷する音楽制作の世界、

あまりに対照的になってしまったこの状況を少しでもいい方向に変えたい、

そう考えて今の活動をしている次第である。まだ私が望んている状況には程遠い状況ではあるが,,


2月 17, 2018 思索,考察 | | コメント (0)

2017年2月10日 (金)

JASRAC音楽教室から「著作権演奏権徴収」ーなぜ私は反対するのか?どこに問題があるのか(長文注意!!)

先日からJASRACが「演奏権」を根拠にヤマハ音楽振興会や河合楽器製作所の音楽教室から著作権演奏権を徴収すると発表して以来、私は反対運動を始めた関係で私の周囲の音楽関係者や音楽愛好家の多くは署名に参加していただいた、賛同して署名していただいた方には御礼を申し上げたい

■音楽教室から著作権料を取らないで!! 日本の音楽教育存続のために
http://bit.ly/2kEhYKP
(urlが長すぎるためにbit lyに変換しています)

但しどうも最近の日本という国は「反対運動する」という行動をネガテイブに受け止める向きが少なくない、というのも今回の署名活動で感じた。そういう風潮は私は権力者が好き放題できる土壌を作るもので極めて危険で困ったものだと考える。一方で以下のような反論や批判に遭遇した点については問題をわかりやすくするために論じておいた方がいいだろう。

・「カワイやヤマハは商売でやっているだから徴収は当然だ」
・「演奏権は『免除規定』に入っていないのであなたの主張はおかしい」
・「音楽教室が善でJASRACが悪であるかのような論法は問題だ」
等々

それらの論に私なりの考えを述べさせていただく。やや順が逆だが一番下のJASRAC=悪という流れはネット全体にかなり蔓延していたのは事実だが、私は寧ろネットのそうした論調には今までは やや距離をおいてきたつもりである。

しかし今回のJASRACの方針にはあまりにも問題がありすぎるのだ。あまりに問題がありすぎると同時に、本当に音楽教育や音楽制作の現場を知っている人が言い出したのかはっきりいって甚だ疑問だ。そのくらい的外れな主張なのだ。

と同時に何度もいうようにこれは音楽教育のシステムそのものを崩壊させる危険性がある。今回ばかりはJASRACは超えてはならない一線を越えた、といわざるを得ない

どこが問題かを整理すると以下のようになる

1.少人数、多くの場合1対1の音楽教室で「演奏権」を適用するのが適切かどうか

既にヤマハ音楽振興会や河合楽器製作所のほか、ピアノ教師らでつくる全日本ピアノ指導者協会など7企業・団体が「音楽教育を守る会」を結成したのでおそらくこの件は裁判にまで発展すると思われるが、その際に最大の争点になるのがここの部分であろう。

JASRACも批准している万国著作権条約パリ改正条約では教育目的での著作権は「免除規定」となっているが確かにそれは「複製権」や「翻訳権」を規定していて確かに「演奏権」は規定していない、それが今回のJASRACの新方針の根拠だが、なぜパリ条約で「演奏権」を規定されていなかったのかを考えると今回の争点のポイントが見えてくる。

音楽教育に詳しくない方、音楽の世界を知らない人には理解できないかもしれないが音楽教育は基本「個人レッスン」を中心に進行される。そもそもこの「個人レッスン」とは何かそのプロセスを知っているものなら、今回の「音楽教室」の「演奏権」摘要がいかに的外れなものかがわかるはずだ。なぜなら「個人レッスン」は演奏家の場合は「演奏の技術」を習得、練習するための「訓練」の時間のことをいう。著作権法では「公衆に聞かせるための演奏は使用料が発生する」と書かれているが、音楽教室では音楽的にみて「演奏」といわれるまでのレベルになるための「訓練の時間」であり、教師以外はその「演奏の訓練、練習」を聞いている人間はいないーつまりそこに聴衆はいないのだ

パリ改正条約に「演奏権」の規定がない、よく考えれば当たり前の話だ。なぜなら教育課程では「演奏」は一般に「訓練」であり人からお金をとるレベルの「演奏」ではないからである。これは国際的にコンセンサスが取れているはずであり、「訓練」「教育課程」である以上「演奏権」の規定などする必要はない、という判断でパリ改正条約はまとめられた、と考える方が自然である。

寧ろ「音楽教室」での「訓練」「練習」に「演奏権を摘要」などと海外にいったら「はあ?」何云っているの? バカじゃないの?」 という反応の方が強いはずだ。JASRACの中の誰が言い出したのか知らないが、今回の新方針は「演奏の訓練」ということをやったことのない音楽に無知な人間が言い出したか、CD関係の収入が減ったから他のところから搾り取ろうと考えて「演奏権」で難くせをつけて確信犯的に徴収すると言い出したか、どちらかと思われても仕方がないのだ。

実際海外の著作権信託団体 ASCAP BMI 等が今回のJASRACが主張するような形で著作権料を払っているというのは私は聞いたことがない。もし具体例があるのならご教示いただきたいものである

反論ある方、「荒らし」や「炎上」目的の発言でない限りいつでも受けて立ちますよ

2.音楽教育とはいえ、ヤマハやカワイは企業活動として利益を追求しているから徴収は当然だ。音楽の個人教師も同様だという見解は適切か

まず正直にいうが私も仕事として河合楽器製作所の海外向けの音楽教材制作に従事している。確かにそれは「事業」であることは否定しない。それはヤマハやカワイだけでなく宮地楽器や島村楽器、スガナミ楽器とて例外ではない。

だが、「教育」というのがからむ時点でこれを単純に「事業だ」「利益追求だ」と一言で片づけてしまうのはやはり違和感がある。確かにこれらの音楽教室は「事業」として生徒から「授業料」ー「月謝」なり「練習室を借りる」等で収入を得ているがその内訳をよく分析すると、例えばCDやDVD等のソフトウエアの著作権とはやや趣が異なる.。少なくとも同列に論じるのは無理がある

ここで「授業料」の一般的な内訳をみてみよう

(1) 指導教員に対する報酬(音楽のノウハウに対する対価)
(2) 教材、楽譜等の代金 
(3)  練習室の使用料(練習室の場所代 問題の「演奏権」が発生するとすればここだろうーここに「演奏権」が存在するかどうかは上記に記したとおりだ)

殆どの場合著作権料は教材費からJASRACに著作権料が支払われている。つまりここで既にJASRACへの支払いが既に存在している

(1)は音楽教師が音楽大学その他で培ったノウハウに対する対価でここには著作権料は関係ない。(2)に関してはにあるように今までもそうだが楽譜や教材から著作権料が既にJASRACに支払われており、ここでは正当な権利処理が行われている。最大の問題は(3)で普通に考えれば場所代だけで済むはずだが、JASRACはここでの「訓練」を「演奏」と主張しているのが今回のケース、これに対する私の考え方は上記に示した通りである。

このように「授業料」取るのが利益を追求している、というのであれば私立学校や大学も同様に「授業料」を取っている。企業なら利益追求で「学校法人」なら追求ではないと安易に云ってしまうのも問題のような気がするが、問題はJASRACの浅石理事長は将来的には「学校法人」からも徴収する可能性の含みを残している点である。つまりこの方針にJASRACは例外規定をもうけるつもりはない、というのがどうも本音のようだ

つまりJASRACは国際的に批准しているパリ改正条約の精神ー教育に対する「免除規定」そのものを否定している可能性が大なのだ。

だとすればこれは甚だ問題だ

3.そもそも包括契約の作家の分配の明細が不明確であり、これが不信感を生んでいる(本当に作家に分配されているのかも怪しい)

この「包括契約」というのは実はJASRACがよくやっているやりかたで、街のライブハウス、ジャズハウスの殆どがJASRACに収容キャパに応じた金額を年間払い、その代りJASRAC信託楽曲を好きなだけ使っていいという内容のもので、元々はNHKや民放に対して始めたものを、店舗、コンサートホールその他に拡大したものである。このことによってライブやコンサートの演奏曲目をいちいち報告する手間は省かれる。これらはすべて著作権の「演奏権」を徴収する基本的なシステムと化しており、今回の音楽教室からの徴収も基本的にこのシステムで行われる

だが、この「包括契約」ーこれが甚だ不明確で問題があるのだ。

というのも私は元正会員でいまだにJASRACの会報とか自宅に届くがこの「包括契約」による作家への分配が具体的にどのように分配されているのか。全く正会員、準会員ですらはっきりわからない、というのが実情だ。

これに関しては以前総会でも何回か質問がでたがJASRACはいまだ会員や信託者に対して明確な回答を示していない。少なくとも私のしる限りではみたことがない

つまりこの「包括契約」会員に対して均等に分配されているはっきりとしたデータを示さないまま「演奏権」を口実に著作権料の徴収だけは進めていく。ここにJASRACに対する不信感の温床がある。

そうすると音楽教室からの「演奏権」徴収は作家にきちんと分配されないのではないか、単にJASRACの理事長や幹部の給料や退職金に消えるのではないか? そう思われたらこれは社会的な理解、承諾を得ることは難しいだろう

4.「演奏権」を事実上独占している点が「暴走」の原因

この署名活動をしている際にとあるITマーケット系の人間から「そんなのNextoneに変えればいいじゃない」などといっていたが、Nextoneはまだ期日は明らかにしていないものの「ようやく」これから「演奏権」の信託ができるようになるわけで、それまでは前身のe-licenceやJRCには「演奏権」の信託権はなかったのだ。だから前身のe-licenceやJRCと信託契約を結んでも「演奏権」だけはJASRACに信託しなければならない、というおかしなことがおきていたのだ。

そのため有名曲、みんなが演奏したいと思うような曲の殆どは現実問題としてJASRAC信託曲だ

嘘だと思うのなら自分で調べてみるがいい。おそらくあなたが知っている曲の大多数はJASRAC管理曲だ。以下のサイトで調べることができる

http://www2.jasrac.or.jp/eJwid/ 

だが昨年の最高裁の裁判でJASRACは主に放送に関してだが独占禁止法に違反したことを認めた、これはいうまでもなく包括契約に基づく「演奏権」のことである、

・JASRAC、自らの独禁法違反認める 他社の参入排除
;http://www.asahi.com/articles/ASJ9G466TJ9GUCVL00K.html

ここでいう「他社」とはいうまでもなくNextoneのことである。この話は一見放送関係のみの話に見えるが実質的にはJASRACの「演奏権」の独占が独禁法に違反したと認定したのと同じである。実際Nextoneの前身のe-licenceやJRCには「演奏権」の信託権は持つことはできなかった。、はっきりいえばJASRACに妨害されていた、というのは紛れもない事実だからだ。

とはいえ、いわゆる有名曲の殆どはJASRAC信託曲であるから仮にNextoneが念願の「演奏権」の信託権を得ても海外曲を始め有名曲の権利者の多数がJASRACからNextoneに変えない限り独占状況は変わらない。エーベックスを除く殆どのレコード会社は少なくとも当面はJASRAC信託を変えるとは思えないので(何せ、ちょっと以前と違うことしただけで拒絶反応を示す体質を持つ業界だ) 海外の権利保持者はどうせ信託機関は3年ー10年で更新のはずなのでJASRACからNextoneに信託を変更することを推奨したい

5.そもそもJASRACが守っているのは何か? 音楽文化を保護する気が本当にあるのか?

最終的にはこの疑問に到達する。表向きは作家の権利を守るため、などと主張しているが先ほどのように音楽教室から包括契約で分配したものをきちんと均等に作家に分配されているのか、甚だ不明確ではっきりいって怪しい

一方で大手の音楽教室だけでなく将来的には100%確実に波及する街のピアノの先生や小さな音楽教室は今回の方針で存続の危機にたたされるのは火をみるよりも明らかである。つまりはっきりいえば

分配が不明確な包括契約の為に街の音楽教育の苗床を犠牲にする ということをやろうとしているのである。

となると今回の措置は一体誰の為か音楽文化を保護し育てるという気がJASRACに本当にあるのか? 

といわれても仕方がないだろう

いずれにせよ社会的にも、そして先ほど言ったようにロジックからしても今回の方針には、無理がある。、JASRACが折れない限り裁判に発展するだろう

 

最後にもしこれを読んで私の今回のJASRACの音楽教室に対する「演奏権」徴収に反対運動に共鳴していただいた方はよろしければ以下の署名サイトからお願いします

 

 

 

 

2月 10, 2017 思索,考察 | | コメント (2)

2017年2月 5日 (日)

音楽教室から「演奏権」寝耳に水徴収ー反対団体も発足し広がる反対運動ー今後の展望

既にご存じの通り私の方でも今回のJASRACの本来は「免除規定」の中で不文律となっていた教育現場での「演奏権」を問わない慣例を破って「演奏権」徴収の方針をまとめた件、
対抗措置としてヤマハ音楽振興会や河合楽器製作所のほか、ピアノ教師らでつくる全日本ピアノ指導者協会など7企業・団体が「音楽教育を守る会」を結成しました。

教室を運営する事業者に広く参加を呼びかけ、教室での演奏は教育目的で演奏権は及ばないという法解釈を共有していきたい。JASRACと主張が平行線をたどる場合は、司法判断を求めることも検討したい(代表に就任したヤマハ音楽振興会の三木渡・常務理事)

私もこの会の活動に対する支持を表明します。そもそも音楽教室は演奏を聞かせてお金を取る場ではなく、練習して、技能を身につける場です。そのために使用する楽曲は、楽譜や教本の購入時に著作権料を支払っています。少なくとも日々のレッスンは先生と生徒間でのみ使用されており、そこに聴衆は存在しません。そこから「演奏権」を取るなど全く持って筋違いも甚だしいです。なぜなら「演奏」を完成させるための練習であり、その「演奏」はまだ商品レベルにも達していないからです

ヤマハもカワイも庶民を対象とした音楽教育の根幹を担ってきた会社であり、この両社に対する「演奏権」の一方的な課金は単なるアリの一穴ではすみません。いずれ街の小さな音楽教室や個人のピアノ教室、さらには一般の学校教育にまで波及するのは火をみるより明らかです。これは日本国内の音楽教育の存続を危うくし日本の学校から音楽の授業が消える可能性すらあります。決して大袈裟な話ではなく音楽文化の苗床である音楽教室の殆どが運営していけなくなる、つまり音楽家の後進指導の苗床が根絶やしにされるという事態につながりかねません。

確かに著作権収入がCDの売り上げ減、配信の伸び悩み等で落ち込みが激しいことを理由から背に腹を変えられない状態に追い詰められているという点もあるようです。それだけにやみくもに重箱の隅をつついて金をしぼりとろうという、一番人から嫌われるパターンですが、そういう態度が見て取れます。

しかし何度も繰り返しますが著作権の「演奏権」はほぼJASRACが実質的に独占的に保有している権利であり、明らかに独禁法に抵触する内容だと思います。ここの部分を誰も突いてこないのが不思議でなりません。JASRACの「演奏権」独占を事実上取り上げる措置を取らない限りこの横暴はどんどんエスカレートしていくと思います。今回のJASRACの動きはその意味で極めて危険な兆候です。

ちなみに私も元JASRACの正会員ですが(現在は「信託者」ー単純に年会費払うののが嫌なので(笑))実はJASRACの個人の正会員や準会員等には「クラシック系」や「歌謡曲」系と大きく2つに分かれ、実はJ-pop系は本当に僅かです。(というか総会に行くとわかりますが殆どいません。)今回の措置についてたぶん浅石理事長は「あくまで営利目的のヤマハやカワイを対象にしたもの」などと説明するでしょうが、その説明を鵜呑みにして自分たちは無関係、などと本気で考えた正会員や準会員がいたらそれははっきりいってバカです。

なぜならこれは最終的には街の小さな音楽教室や街のピアノの先生、音楽講師をターゲットにしていることは明らかだからです。

私の知る限り正会員や準会員で生徒を持っていない、教えていない作曲家は殆どいないはずです。そういう人たちにも今回のJASRACから請求が来ます。殆ど会員が何らかの形で割を食うでしょうね。

そのことに気づいたら今年のJASRACの会員総会、果たしてどうなるでしょうね。はっきりいって紛糾しなかったら私は驚きますね (^o^)

いずれにせよJASRACの幹部が考えるほどこれはすんなりといかないと思います
私も署名活動で「抵抗」します

「JASRAC : 音楽教室から著作権料を取らないで!! 日本の音楽教育存続のために」 に賛同をお願いします!

署名 サイト ↓

皆さんの助けが必要です。よろしくお願いします

2月 5, 2017 思索,考察 | | コメント (0)

2017年1月10日 (火)

青山学院監督「強いチームの作り方」を読んで音楽産業の低迷の原因が笑えるほどみえてきた点

お正月恒例の行事の「箱根駅伝」 今さらいうまでもなく青学の三連覇、史上四校目の駅伝三冠を達成した圧倒的強さを見せた。

むろん勝てば官軍という感じだが、かつての弱小チームがこれほどまで圧倒的な強さを身に付けた原因は何なのか、ということは各方面から強い関心を抱かれている

そこで箱根駅伝開催前の青山学院大学の原晋監督のコメント
■青学・原監督が明かす「強いチームの作り方
http://toyokeizai.net/articles/-/151432

これを読んで思った。ここで「原監督」が強いチームを作るために「やってはならないこと」があまりにも笑ってしまうほど今の音楽産業、レコード会社にあてはまってしまうことに気づいたからだ

1.「業界の常識」を疑うことを知らない

まず必要なことは、「業界の常識を疑うこと」です。世の中にあるさまざまな業界、業種には、そこだけで通じる常識があります。中にいると気づかないかもしれませんが、その常識は、世間の常識と比較すると、ときに非常識と思えるものや時代遅れになっているものがあります。

そのとおり。
音楽業界の人間の間には「音楽業界でしか通用しない」常識というものがゴマンとある。音楽業界関係者同士である種の「ムラ社会」を形成し、この世界でしか通用しない価値観や常識で何でもごり押しをしようとする。

2.変化に気づかず新たな手段を調べることもなく否定し拒絶する

同じ場所に長くいると、時代の変化に気づかないだけでなく、気づこうとさえしなくなります。そういう組織だと、仮に新たな指導法があっても、「ああいうものはダメだ」と試すことも、調べることもせずに否定し、拒絶してしまいます。

これでは、チームを強くできません。

業界という小さな世界に固執して、大きな世界の流れを直視しないと、時代遅れどころか手遅れ。新しい発見やアイデアは外と交わることで生まれます。そのほうが業界内の常識を時代に合わせてダイナミックに転換できると、私は考えます。

音楽業界人とつきあっているとわかるが、「ちょっとでも従来と違うやりかた」をやろうとすると激しい拒絶反応が返ってくる。Spotifyが導入にこれだけ時間がかかったのも、結局は「新しいシステムを導入」することに対する根強い拒否反応が業界にあったからに他ならない。

また同時に「新しい考え方」をきちんと理解しようともしておらず、Spotify等のサブスクリブションシステムを「プロモーションの一環」ではなく「音楽の最終アウトプット」であるかのように逆に思い込んでいる節がある。

私などはずいぶんネット時代にいろんなことを提案したことがあるがことごとく拒否された、それも罵倒嘲笑付きで(笑) とにかく新しいこと、従来と違うことに対してこれほど拒絶反応をロコツに示す業界も珍しいといっていい。

それで従来の「業界の常識」「業界の伝統的なプロモーション方法」に固執し、いまだに音楽バブル時代の成功経験が忘れられず、「その時に成功したやりかた」に固執しているのだ。

3.時間かけて作る土台となる環境づくりを否定ーすぐに結果を出したがる

強いチームをつくるには、時間がかかることも忘れてはならないことです。

人は結果をすぐに求めたがりますが、強いチームをつくるための土壌、つまり環境を整えるには相応の時間が必要です。そして、その土壌ができれば、誰が監督になっても強いチームであり続けることができます。
<中略>
新入社員をじっくり育てる余裕もシステムもなく、いきなり現場に投入する。結果が出なければ、「デキない社員」の烙印を押す。上司はそういう社員のミスを恐れて、仕事を抱え込んでしまう。

どう考えても組織にいい影響を与えるとは思えません。そういう組織は、土壌がどんどん枯れていって、やがて芽が出ない畑になってしまいます。だからこそ、強いチームをつくりたいなら、まず目を向けるべきは環境づくりなのです  

いつの日からか、音楽業界は「アーチスト」をきちんと育てることを放棄してしまった。
新人アーチストはメジャーデビューできたとしても殆どがワンショット契約。それもたいしたプロモーションなど行わない。
酷いケースになると「配信のみ」なんてケースもあるが、tunecoreを始め配信に関して自由にできるインフラがある現状ではそんな契約はアーチストに殆どメリットがないのでそんな契約ならやらない方がいい。

AKBが「受けた」という理由から「アイドル」なる女の子が寧ろ過剰供給気味であり、「1つが受けた」ということがわかると猫も杓子も「柳の下のどじょう」を狙っているというのが今の業界の現状。

上記の文章同様、アーチストをじっくり、きちんと育てる余裕もシステムもなく。結果が出ないアーチストが「ダメアーチスト」という烙印を押す。メーカーは「失敗」を恐れてアーチストの新譜をどんどん出さなくなってしまう。

これがまさに現在起きていることである。

もっとも上記の文章にもあるように「人材を育てない」というのは音楽業界に限らず今の日本の企業社会全体にいえることかもしれないが..

一般の会社でも上記のような仕事の進め方をしている会社を私はゴマンとみている。そういう会社が大きく発展することはないだろう。仮に一時的に成功したとしても絶対に長続きしない

まあそんな現状である。これら原監督が「成功する集団を作る」ために「やってはならないこと」を二十年以上長きにわたって続けてきたことになる。そしてそのメンタリテイを音楽産業側は頑なに変えようとしなかった

まあ低迷して当然だね。これは

まあこんなことをこのブログは立ち上げ当時からいっていたわけですが、業界関係者の大半からは聞く耳をもたれず、罵倒され、とある大手メーカーの社長からどうやら「出入り禁止」を私は食らっているらしい(笑)

だからこんなことを書いても無駄だとわかってはいるけど..

まあ一部の業界関係者にだいぶ罵倒されたお返しに、今年はいよいよ「日本の音楽業界の常識」とやらをことごとく破壊しようと考えている。

ツールは揃いました。そしてだいぶ機は熟していると感じていますのでね

それに私がわざわざやらなくても実質もう機能していないからね。日本の音楽業界というシステムは

とにかく青山学院大学の原晋監督の記事を読んで、私が音楽業界について感じていたこと、そしてやろうとしていること、全て間違いではない、と感じた次第

1月 10, 2017 思索,考察 | | コメント (0)

2016年5月10日 (火)

ミュージシャンも意識改革を 受け身の姿勢でなく自分からどんどん働きかけましょう。でしゃばりで何が悪い!!

当ブログでは今更、という話だが音楽業界が低迷して長い。
しかし音楽業界のトップはいまだに改革を頑なに拒否し、いまだに過去のビジネスの形、慣習に固執している。そのため「従来の形」から少しでも逸脱したビジネス形態は非難の対象にすらなり、拒絶反応に近い反応がかえってくる。

しかしそれは業界トップではなくミュージシャンに対しても同じことがいえる場合がある。

結論からいって今昔の音楽事務所におんぶにだっこ、事務所に全てまかせっきりという意識でやっていてはダメだ。実際もはや音楽事務所だってミュージシャンをそんなに支えきれない。しかしミュージシャンの多くはまだそういう意識のままでいることも少なくないようだ。

ご存じの通り私はFacebookで「音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」というグループを運営しているがそのグループでは音楽の仕事の募集案件を掲載している。他には俳優、女優、映画関係者も多数参加しているので映画、CMの出演案件も掲載している。(正直「音事協」関係者から見れば「けしからんサイト」ということになるであろう(笑))

その中で先日スポンサー名は守秘義務があるためいえないがこんな案件があり、グループ内の募集記事として投稿した。

CM出演案件 リゾート地での結婚式のCM  (全国OA)を始め全てのメデイアで放映

女性
▽オペラ歌手(新婦役)・・・オペラが歌える。(ほぼプロ並みが好ましい) 20代後半~30代前半 1名

男性
▽ピアノ伴奏者(新郎役)・・・楽譜を見てピアノが伴奏できる。20代後半~30代前半 1名

ギャラが女性が20万、男性10万 

クラシックの演奏家のCM出演などそうそうあるものではない。極めてオイシイ内容の案件である。

音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」には女性のオペラ歌手は私が把握している範囲では30人前後はいる。

これは応募が殺到すると思われた

ところが募集締め切り後、実際に応募したのは3人にとどまったという

実は別件ではこういうことがあった。私が音楽を担当した9月劇場公開予定のドキュメンタリー映画「涙の数だけ笑おうよ」の案件でジャズトランペット奏者を募集した。グループ内でジャズトランペット奏者が複数いるのはあらかじめ把握していたが、何と一人も応募者も来なかったのである。 結局知り合いの事務所にかけよって該当者がみつかり事なきを得たが、どうやら募集の投稿をしても殆ど見ていない参加者が相当数いるようである。とりわけクラシックやジャズの演奏家にこの傾向が顕著である。

どうも一部のグループ参加者の人たちを見て気になるのは、何事にも受け身の姿勢しか持っていない人が多い、という点である。いわれれば一応こなすがいわれないと何もしないし、折角目の前にチャンスがぶらさがっているのに何の行動も起こそうとしない人が多いのだ。
殆どの音楽事務所が音楽家の生活をまるごと支えきれる状態ではない以上、仕事をできるだけ多く取るためにみんなしのぎを削らないといけないはずである。口あけて待ってたって仕事なんか来やしないのだ。

こんなことでこの厳しい業界環境を生き抜いていけるのか、
正直甚だ心配である。

実際最近気になることがある。「音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」にはさまざまな募集案件を掲載しているが、映画、映像や声優関係の募集案件は探せばそこそこあるのだが

音楽関係の募集は極端に少ない  のだ

少ない、ホント少ない  この状況をみても音楽業界、マジにやばい、と思ってしまう

まして上記のようなオイシイ案件などそうそうあるものではない。なぜ必死になって取ろうという姿勢を見せないのだろうか。

それを見るとあることがいえる。
つまり音楽業界のトップだけでなく、音楽家も意識改革が必要だ。ということ

もう事務所が手取り足取り面倒みてくれる、なんて時代はとっくに終わっている。

映画の世界、ゲームの世界ではグローバル化、国際競争の中に巻き込まれる状態が起きつつある。音楽もそれから無縁になる、ということはありえないはずだ。

日本人は目立つとすぐに「出しゃばる」などという輩がいる。

だがアーチスト、音楽の分野で生きていくのであれば「出しゃばって何が悪い!!」という意識くらいもっていないとダメである。

繰り返す日本の音楽家も意識改革が必要である。

5月 10, 2016 思索,考察 | | コメント (0)

2016年3月26日 (土)

無料広告モデル終焉と映像コンテンツが主役の時代ー音楽は映像メデイアなしには拡がらない

今年の初めに書いた当ブログ記事のコラムでやや誤解する向きがあるので補足の意味を込めて書く

■デジタル偏重、デジタル絶対時代の終焉ーインターネットは「旧メデイア」に実は「完敗」したという事実
http;//kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2016/01/post-f2a0.html

ケーブルテレビ等の有料放送が定着しているアメリカは映画、ドラマ、等の「有料コンテンツ」が完全な主役であり、無料コンテンツのバラエテイやネットのバイラルメデイアを始めとする「トラフィックを稼ぐための」無料コンテンツ、のビジネスモデルは実質崩壊している、という点の主張だが、日本ではいまだにテレビ=地上波のテレビという風に受け取る向きが強い、ケーブル、スターチャンネル、WOWOWといった有料放送は「二次的なサービス」であるかのように扱われているからだ。

だが日本の地上波のテレビの番組がバラエテイを始めとする内容のない、差しさわりのないつまらないものになっていることはもはや周知の事実となっている、ネットでも同じだ、感傷的、感動的なコンテンツをあたかも自分の記事であるかのように掲載して姑息な手段でトラフィックを稼ぐバイラルメデイアを始め、デマやゴミ情報であふれるネットの現状を見て思うのは結局無料コンテンツ=ゴミ、という事実は動かしがたいものがある。それはよく考えれば当然のことで「無料」というのは価値がない、ということでこうなるのは必然の帰結ともいえる。

実際you tubeやツイキャスを始めとする映像コンテンツサービスも「有料ビジネス」が開始しているのも結局は無料でクオリティの低いコンテンツなどより、有料でも高いクオリティの映像を見た方がいい、というユーザーの意思が明確になったから、ということができるだろう。これは何よりもインターネットのプラットホームを作ったITグローバル企業がいち早くこの事実に気づいて動いている。実際、「ネットフリックス」「アマゾン」が劇場公開映画を制作する、という劇場公開やレンタルとストリーミング両方をてがけたハイブリッドな方向に動いており、Googleも映像パッケージを始めとする日用品の宅配という「リアル」な事業に乗り出しており、Appleやこの面では少し遅れをとっているマイクロソフトもいずれ、そちらの方向に動くと思われる。

ついこの間まで「全てのコンテンツは無料であるべき」などといった考え方があたかも正論であるかのようにいわれていた時代からみると隔世の感は確かにある。ネット住民が固執した「インターネットはあらゆるメデイアを凌駕し社会に革命をもたらす」という価値観はもはたネット住民のはかない夢となって終わったのである。

これらの傾向を見るとあることがはっきり見えてくる

それは 21世紀はやはり映像コンテンツが主役  という事実である

それも低クオリティないかにもシロウト作ったような映像コンテンツではダメだ。

クオリテイの高い映像コンテンツでないとダメなのである。そういう映像コンテンツの需要がこれから増えていくだろう、

このことは自動的に現在地上波のテレビやネットの無料コンテンツでトラフィックを姑息な手段で稼ぐといった無料広告モデルの事実上の終焉をも意味する

デジタル技術は「誰もが気軽に映像を作れる時代を作った」といわれる。それは一見正しいように見える。確かにデジタル技術はコストダウンといった面では確かに大きく貢献したが、実はそのことはプロとアマチュアの境界線がなくなったことを意味しない。
インターネット社会になって一つ良くない傾向だと思うのはプロフェッショナリズムに対して敬意や尊敬の念というものが減退している点である。だがデジタル技術で自分ではよくできた映像だと思っだとしてもアマチュアは騙せてもプロの目はごまかせるものではない、意外にここを理解していない輩が多いのである。

それに音楽でもインストルメンタルなら、DTM及びDAWで一人で作ることも不可能ではないが、映像は決して一人で作ることはできない、必ずカメラ、照明、音声その他多くのスタッフがいないとできないものなのである。そのスタッフクルーの腕次第で映像のクオリティは大きく左右される。寧ろシロウトクラスの腕だとすぐにばれてしまう。そういうものなのだ。

だからプロの手による高いクオリティの映像でないと当たり前だが人はお金を払ってその映像を見ようとはしないだろう。そうでないと結局ネットにあふれているゴミコンテンツの仲間入りをする以外に道はないのだ。

ネット黎明期では実は「テキスト情報」が主役だった。しかし今は映像が完全に主役になりつつある。映像の表現が何よりも一番直接的であり、ある意味一番「わかりやすい」からである。「ネットフリックス」「アマゾン」といったITのプラットホームの巨人が映画やドラマに投資を始めている点もその点が大きい。ひとことでいえば映像を制する者が21世紀を制するといってもいい。そのくらいこれからは映像、それもクオリテイの高くて「売れる」映像は重要な商品となってくる。

映画、ドラマ、ゲームの市場はその意味ではかなり将来性の高いものになるが、問題は私も関わっている音楽の市場である。残念ながら「映像」という媒体を通してでないと音楽は広がって行かないという現実は受け入れざるを得まい。ライブハウスやコンサートホールを回ったところで知れているからである。

その意味でこれからは音楽家といえども映像、映画、ドラマの世界にかなり近いところに自らを置いておいた方が得である。私が今管理しているFacebookグループ「音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」というグループでも映像関係者、映画キャストならびにクルーを積極的に受け入れている。なぜ音楽のグループなのに映画、ドラマ関係者がこんなにいるのか?と疑問を呈する人も少なくないが、これからの時代は映像関係者と音楽関係者がかなり密接な関係を持つことは極めて重要であると考えるからである。

また非常に幸いなことに私は映画や劇伴関係の音楽の仕事を中心に行っている。実際この道に自らを特化することによってかなり自分にはいろんな意味で世界が広がったし、これによって自らも大きく得をしたと考えているからである。

映画やドラマの音楽は誰でもできる仕事ではない。適性があるのだ(「才能」ではない「適性」である) 監督の要求、プロデユーサーの要求にこたえなきゃならない、という使命があるし、そしてたいていの場合充分な時間がない(汗) 監督によってはかなり無理難題も来る。それにこたえられるひとでないとダメなのだ。

そして自分の為にしか曲を作れない人は絶対にこの仕事に向いていない。私が「適性」といったのはまさにここである。

昔は映画や劇のための音楽というとクラシック系の作曲家が担当するのが定番みたいだったが今は違う。昔はオケのスコアさえかければよかったが、今はDTM DAWの能力がほぼ必須といっていい。事前にpro toolsでオケのシミュレーションまでする必要性がある。でないと本番のレコーデイングの前に監督からある程度これでOKという言質をもらわないと、実際オーケストラ等のレコーデイングの本番の時に一つ間違えるとえらいことになる。そういうことを事前に起きないように作業しなくてはならない。また昔は「クラシック音楽」の知識さえあればよかったが、映像のニーズの多様化に伴い、ジャズ、ポップス、ロック等のポピュラー系の素養も少なくとも最小限はもっていないと映画やドラマの音楽の作家として第一線で行うことはできない

その意味で私がこういった分野で仕事ができたのは非常にラッキーだったといっていい。これからは映像のために音楽を作れる、というのはこれからの時代大きいと自分でも肌で感じる。楽ではないけど今の道に進んで正解だとは思っている。そうした上でより有益でなおかつクオリティの高い音楽制作を続けて行こうと思っている。音楽の世界を再生するにはこの方法しかない、と思っている。

という意味で間違いなくこれからは映像の時代ー映像を制する者が21世紀を制する 時代なのだ。その意味では今までIT業界にさんざん振り回された感のあるコンテンツホルダ-ではあるがようやくコンテンツホルダーにとって望ましい時代が訪れてきたといっていいかもしれない。ネット住民は「ネットが全てを凌駕しネットのみで全てを完結できる」などという宗教にすら近い(中川淳一郎氏のいう「ネット教信者」)見解に固執しているが、実際にはネットをいかにリアルな実益、コネクション等にむすびつけるか、という観点こそが重要である。

とはいえ、株式会社カドカワの角川歴彦社長のいうようにプラットホームによって覇権を握っている角川歴彦社長のいう「ギャング4」)(Google, Apple, Amazon, Microsoft)に対抗するためにはコンテンツホルダー側もIT技術を装備しておかないと対等にはわたりあえない、というのも事実であろう。映像の時代とはいえ、そこを怠るとまたIT業界振り回されることになりかねない。

映像の世紀とはいっても権利が阻害されたり、映像の価値を不当に安物のように扱われるのが当たり前の時代になってはならないのである。

3月 26, 2016 思索,考察 | | コメント (0)

2015年11月18日 (水)

相変わらず続く表現の自由を奪う安価な「正義」を武器としたナンセンスクレーム

既にご存じの方も多いだろうが新しい公開中の『劇場版 MOZU』に出演している俳優の伊勢谷友介が10日、同シリーズの喫煙シーンが大飯ということで問題視、批判の声が大きく上がっていたことに対してインタビューに答えた

■伊勢谷友介「MOZU」喫煙シーン批判に反論 ネット上では賛同の声
http://www.cinematoday.jp/page/N0078017

劇場版からシリーズに参加した伊勢谷はこの日、フォロワーからそのことについてどう思うかと尋ねられると、「本当にどうでも良いと思ってる。そういう所やーやー言われても、無視していくべきだと思う」と回答。

 続けて「映画の空気や、キャラクターのバックグラウンドを作る小道具捕まえて社会的な是非とか、本当に無駄だと思う。悪役の言葉使いが悪いとかと同じ範疇の話」と持論を展開した。

 さらに、別のフォロワーからの質問に答える形で伊勢谷は「論点が違うのよ。映画の小道具責めてもしょうがない」と自身の見解を明かし、「タバコが嫌いなのを映画に当てつけてる。映画の時代背景やキャラクターのバックグラウンドは善悪ではない」とつづっている。

 これまでもたびたび話題になってきた映画やドラマの喫煙シーン問題。おととし公開された宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』が問題視されたことも記憶に新しいが、伊勢谷の意見にネット上では「正論。例えも素晴らしい」「タバコ吸わないが、全くその通りだと思う」「小道具いとかまで含めて映画なんだから。別に喫煙をすすめる意図はないでしょ」などと賛同する声が目立っている。

伊勢谷自身が云っているとおり、「正論」を武器として重箱の隅をつつき、クレームを正義の味方気取りで映画やドラマ等のケチをつける愚か者が多すぎる。

映画で女性の裸が出たらレイプを奨励することになるのか?
映画の悪役が暴力を振るっているのを描いたら暴力を奨励していることになるのか?

違うでしょ? 

よって映画で喫煙シーンが多い=喫煙を奨励することにはならない。
そう主張するのは全くのナンセンス
ドラマ上の演出と現実の差がわからない人間が多すぎる。

私の別のブログ記事にも書いたが

攻撃の武器としての「正論」「正義」で攻撃を正当化する狂気社会
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20150829

おかしな「正義」おかしな「正論」というものがこの国を非常に不健康な社会にしていると思う。こういうエセ正義をまかりとおらせる風潮には恐ろしさすら感じる。過剰に禁欲的な世界を作ることが精神衛生上悪く腐敗のもとになっていくのは中世ヨーロッパの歴史が証明しているだろう。

「正論」「正義」で自分の行為の全てが正当化できる、などと考えて表現や言論の自由に対して圧力を加える輩が多いのは本当に困ったものである。


11月 18, 2015 思索,考察 | | コメント (0)

2015年6月22日 (月)

アーチスト、ミュージシャンが政治批判するのは「はしたない」という社会的雰囲気について

今日は久々に吠えさせてもらう

私は本業は音楽家だが、ここ数年政治に関してブログに書いている。別に書きたくて書いているわけではない。政治の状況が「書かざるを得ない」状態にしているのだ。

だがそれに対して私の周囲でも「あまり望ましくない」といった目で見る人間が実は少なくないことを感じているし実際ある人からも忠告されたことがある。実際芸能人やアーチストがそのような発言を行うと、その辺のおバカなネトウヨだけならまだしも、一般の人ですらひいてしまう雰囲気がこの日本には確実にある。

だがあえてここでいわせてもらう。

音楽家が政治批判してどこが悪いのだ?

なぜそれをハシタナイ、などと思うのだ? 私には全くそれが理解できない

寧ろそういう雰囲気こそ危険ではないのか? 

今政治に無関心な人間でも、今安部政権が何をやろうとしているか小耳くらいにははさんでいるだろう?安部政権は戦争のできる国づくりをめざして、今国会では強引に安保法制を成立させようとしている。

明らかに違憲の法案を与党でまさに強行採決するという暴挙を決行しようとしている

それに対してなぜ異を唱えてはいけないのだ? ここで異を唱えずに黙っている方がよっぽど危険だとは思わないのか? あなたの子供、兄弟、親戚が本当に戦地に行かされるということが現実になりつつあるのだ。それに対して黙って見ていろというのか?

ミュージシャンがアンチテーゼを叫ばなくなって久しい。
なんの為に発言力の強い立場になったのか。それはおそらく周囲がそういった行為はハシタナイ、などといって止めた可能性がある。

紅白で政権を揶揄するパフォーマンスを見せた桑田佳祐、ラジオで「安倍はバカ」発言をした爆笑問題の太田光、作家では『宰相A』 (新潮社)で積極的平和主義の本質を暴露した田中慎弥、「戦前、戦中のような時代がやってくる」と警告を発した中村文則、さらには「安倍首相の右翼的な動
きが恐ろしい」
と発言した蛭子能収等

ネトウヨを中心とした匿名の自分の意見に何も責任持たない連中がたくさん叩いて腰砕けにはなったが、寧ろこういう発言が出てくることこそが民主主義社会で必要なことなのだ。それを理解できない人がネトウヨという愚か者連中だけでなく一般の人の中にも浸透していることが私は恐ろしい。つまり面倒くさいこと、難しいことは考えたくないという思考停止の風潮だ、

ゴッチことアジカン後藤がとても真摯に真剣に自説を冷静に伝えている。自分の言動がけっして小さくはない事を知っていての今回の発言だ。ある意味ミュージシャン生命掛けての事だと思う。こういうミュージシャンにどんどん出てきてほしい

■アジカン後藤が「どうやって早く安倍政権を終わらせるかを考えている」と…桑田圭祐とは違う本気度

http://blogs.yahoo.co.jp/honjyofag/65685724.html

私はたいして影響力がある人間ではないが、大学の先輩であるにも関わらず安部政権を本気で倒そうと考えている。倒さないとこの国は本当に取り返しのつかないことになる。

音楽家が何か言っても世の中なんか動かせるわけない。

そう思っているあなたはこの例をあげればそれは単なる先入観、思い込みであることはわかるはずだ。

音楽に詳しくない人でもこの曲は知っているだろう。

 

 

 

 

この曲が世界の反戦運動にどれだけ影響を与えたかは今更いうまでもないだろう

 

あとこの例も挙げたい。産経新聞が元安部政権の閣僚の曽野綾子のアパルトヘイド容認発言を掲載したが、ピーターガブリエルはネルソンマンデラを国際的圧力のもと釈放させ、そのアパルトヘイドの廃止につながる曲を発表した。

 

 

 

サラリーマン化し上司や政府のいうことに盲目的に従うように訓練された多くの日本人はこういう人前での発言に対していつのまにか抵抗感を感じるようになったのかもしれない。思考停止のクセをつけさせられたのかもしれない。

 

しかしそれじゃ日本全国全てブラック企業のようである。

 

安部晋三は元々日本を戦前の秩序に戻そうという信念を持っていた。これは嘘ではない。本気でそう考えている。だから危険なのだ。

 

このまま声もあげず何もしなかったら、確実に政府を批判しただけで公安に逮捕される、などということが日常化する社会になり、あなたの子供や兄弟や親戚が戦場で死んでいく社会になる。これは脅しではない。このままだと本当にそういう社会になる。

 

それを止められるのは今しかないのだ

 

 

 

6月 22, 2015 思索,考察 | | コメント (0)

2015年5月15日 (金)

クリエーターの矛盾ー自己矛盾があるからクリエーターになるというその本質

当ブログでもクリエイテイビテイについてさまざまな観点から論じているけど、こんな記事を見つけたので、

一応バイラルメデイアなのでシェアするのは若干心理的抵抗があるものの、断言はできないがどうやら著者本人が書いている記事のようなので...

■心理学者が指摘した、クリエイターにありがちな「10の矛盾」。一般人にはわからない?
http://tabi-labo.com/120317/paradoxical-creative-people/

一応クリエイターの端くれとして音楽、サウンドを制作しているが、ここで書いてあることは「クリエイターの矛盾」という書き方をしているが、クリエイターというものの本質を見事についているので紹介する。

矛盾というが、そもそも基本的に自己矛盾を抱えているからクリエイテイブに走るのであり、その自己矛盾をある意味「自己表現」というものに特化することによって精神のバランスを保っているのがクリエーターだと考えている。

ただただトレンドに沿って「何々風をぱくる」なんて行為の中には自己矛盾など存在しないし、そういう行為では決してクリエイテイブにはならない。

さて、この文章に揚げられている「10の矛盾」を自分にあてはめてみると

01.エネルギーに溢れているけど静かで落ち着いている

私をご存じの方からは普段の私の姿がどう見えるのかわからないが、確かに自分の中には燃えるような何かがまだ存在しているような気がする。時々自分でもてあましているくらいである。

02.賢いけれど無知な部分がある

確かに日本の音楽業界とかだと、「何が流行り」とかいう雑音が多く結構そういう情報に惑わされることも少なくない。若年の頃は結構そういう情報に流されていたと思うが最近はそういうものはどうでもよくなってきた。大事なことは「今、何をやりたいか」「何を表現したいか」ということ。それが原文にあるように「一般的常識と言われるような固定概念からは無知」といわれればそうなのかな。

03.遊びが大好きでも、無秩序は嫌い

ここでいう遊び、というのはテーマパークに行くとかそういうことではない。自分の感性、フィーリングを広げるという意味では確かに当たっている。それに意味のないバカ騒ぎ、というのは確かに昔から嫌いだった

04.空想の中にいるけれどとっても現実的

非常にに逆説的だけど「ヒット曲で一発あててやる」なんて考えて音楽やっている人間の殆どはあまり音楽業界では長持ちしていない。こんな作品を創りたい、未来の音楽はこうかもしれない、などと考えている人間の方が細々ではあるがしぶとく生き残っている。今の私そのもである。(^^;)

05.外交的で内向的

私もそうだがクリエーターというのは必ず両面性を持っている。ある意味二重人格といえるかもしれない。だから葛藤が生まれ新たな表現をしようという衝動が生まれる

06謙虚だけれど自分に誇りをもっている

よく勘違いする奴がいるが、誇り=プライドは自分の仕事の中、作品を生み出す行為の中に示せばよく、それを口にだしていうものではない。時々「俺は天才だ」と自称する勘違い野郎が自称クリエイターの中にいるがごく一部の例外を除き。経験上こういう奴が本当にすごかったことはほとんどない。あと訳の分からん音楽事務所で「うちはメジャーだ」などと大威張りしている勘違い事務所も時々あるが、そういうところはたいていの場合たいした事務所ではない。経験上本当の一流アーチストやスタッフというのは逆に腰が低いものである。だから前述のような行動をとるアーチストや事務所、スタッフは二流以下と考えていい。

07.男女それぞれの視点を持ち合わせている

これは両面性がある、ということなんだろうが自分ではわからないので保留

08.革新的で保守的

上記の原文だと歴史や古い文化=保守的、新しいもののみを見る=革新的ということらしいが、よく「過去を知るかどうかは新しいものを生み出せるかどうかには関係ない。むしろ過去にとらわれないことが新しいものを生む可能性がある」なんていう輩がいるけどそれは違うと私も思う。なぜなら。そんなふうに言ってるヤツがまともな作品をつくっている例は私の知る限り1つもない。上記原文にも「歴史や古い文化という領域を吸収せずにクリエイティブになることは不可能だ」と書いてある。同感だ

09.仕事に対して情熱があるが冷静に見ている

これはクリエーターという以前にプロならば当然の取り組み方といえる。

10.創作に苦悩するが楽しさも感じている

実はこれがあるからクリエーターはやめられないのだ。今までの常識を復した作品ができたときはやはり快感だもの

当ブログはクリエーター関係者も結構見ているので、皆さんが果たしてこれに対してどう思われるか。いずれにせよネットの記事にしては珍しく的を得た記事だと思う。

5月 15, 2015 思索,考察 | | コメント (1)

2015年1月29日 (木)

企画書作成ー昔と今

明日打ち合わせがあるのでそのための企画書作成の作業をしていました。

企画書というものを書くのは結構すきな方です。実はかつてペーペーの頃電通や博報堂のための「企画書」制作作業に従事していました。しかし企画書の書き方は昔と今でだいぶ趣が変わりました。

、今では考えられないですがかつては企画書を書くだけでお金をもらえる時代がありました。そのために調査資料等のデータも揃えなくてはならず、企画書は数十枚くらいになりました。その当時はB4で企画書を作るのが普通で企画書の作業だけで膨大なものでした。(官公庁は当時はB4での提出が原則だった)

今はA4で1-2枚です。それ以上は書いてはい けないのです。時代がかわりましたね。

一般的にはパワーポイントを使ってプレゼン資料を作るというのがかつては企画書の常道でしたが、最近はパワーポイントはあまり使われません。たぶんパワーポイントもそう遠くないうちに殆ど使われなくなるでしょう。

企画内容の要点と概略を書く。それで終わり。それ以上書いても誰も読まないからですね。

ただ個人的には文章読解力が社会全体として落ちているような気もします。従ってこういう企画書の書き方っていいことなのか、悪いことなのか、今でも私の中 でスッキリしません。

企画書の中身は勿論ここでは明かせませんが、私が年頭に書きましたいかに自分の価値を高めるかーいかにコンテンツの価値を高める、の活動の一環だと思います。仮に通りそうでしたら状況について引き続き書くことができますが、果たしてどうなりますか?


1月 29, 2015 思索,考察 | | コメント (0)

2015年1月16日 (金)

Je suis n'est pas Charlieー言論の自由と風刺、誹謗のはき違えが横行する昨今について

この件に関してはいろいろと思うところがあったがなかなか書く時間がなかった。ようやく書くことができた。

パリでのCharlie Hebdo 紙についての記事内容は後述するとして、当たり前のことだが一連のテロ事件(スーパーマーケットでの罪なき人間が殺害された件は云うに及ばず)についてはいかなる論拠をもってしてもこの行為は正当化できるものではない。私も言論や表現の自由を何よりも尊重し、守る立場にある人間だが、しかしだからこそ今回の事件の背景を可能な限り客観的に検証していく必要があると思った。

今回の一連のテロ事件の背景にはCharlie Hebdo 紙のイスラム教の予言者マホメットに対する風刺が背景にあったという。勿論「風刺」や「批判」に対して暴力,テロを行使するのは論外だが、「風刺」の中身を検証すると確かに問題がないとはいえない部分がある。

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左図が数ある問題の風刺画の中の1枚だが、フランス語で「最後まで読んで笑わなかったら、ムチうち100回の刑だぞ」と書いてある。他にもいろんな風刺画があるが、この風刺画に関して一般のイスラム教徒の間で不快感や反発が広がっている。

そもそも欧米には「風刺」あるいは「皮肉」に関する文化がある。アメリカでも"Sarcasm(皮肉)"を用いたジョークがアメリカのスタンダップコメデイアン(一人の人間がジョークが「漫談」すること)の1ジャンルとして確立されており、「風刺」「茶化し」が文化の1つとして定着している。
ヨーロッパでも同様で「風刺画(カリカチュア)」の文化は19世紀の新聞の普及から定着している。しかしその「風刺」は主に政治家や「社会的地位のある人物」に向けられているものの、なかにはかなりえげつないものもあるのも事実である。

問題は欧米で定着しているこの「風刺」あるいは「皮肉」に関する文化は必ずしもアジア地域、とりわけイスラム圏に対して定着しているわけではない、という点だ。実際日本でも"Sarcasm(皮肉)"というものを否定的に受け取る社会的背景がある。ましてイスラム教は元々体質的にそういったものを受容しない傾向の強い宗教であることは想像に堅くない。

つまり冗談を通じない人間に冗談を云っても、ユーモアどころか1つ間違えれば誹謗中傷と受け取れかねない。

ということだ、

この件に関しては「言論の自由」とそれを守る戦い、という単純化した図式で語る傾向が全世界的にあるが、ことはそう単純ではない。

つまり言論の自由は重要だ、 だからといって誰に対して何をいってもいいわけではない。

元々言論や表現の自由というのは政治権力が自分たちの都合の悪い言論や表現を封鎖しようという動きを防ぐためにある。政府や政府のトップの政治家に対する批判、風刺は当然自由と民主主義を守るためには絶対必要なものであり、それはいかなる内容なものであっても容認すべきだ。この原理は「第二の権力(もっとも最近は政治権力にすり寄っているようにみえるが)」であるマスコミに対しても同様である。

だが政治権力やマスコミは社会的に強い影響力を持ち、社会的には強者である。

だからこそ政治家やニュースキャスターとかの社会的影響力の強い人間に対しては時には批判や風刺を容認すべきであり、それこそアメリカのスタンダップコメデイアンの"Sarcasm(皮肉)も容認すべきであり、寧ろ社会的バランスの上でも必要なことなのだ。

だが社会的影響力のない一般市民に対してはどうだろうか?

その場合は「風刺」あるいは「皮肉」に対しては最大限の配慮がなければならない、いや原則としてそれは仲間内で冗談が通じる間でない限りやってはならない。アメリカでも"Sarcasm ジョーク)は社会的弱者に向けてはならない、という不文律がある。当然のことである。

つまり「風刺」あるいは「皮肉」冗談と受け取るか、誹謗中傷と受け取るかは受け取る人間次第なのだ。

そしてそこには当然文化の違い、というものが介在する。

このブログでも何回も述べているがグローバルな社会であればあるほど、ローカライズ、つまり国別の文化の違いを認識することから始めなければならない。一部のエセグローバリストのいうような「世界中が金太郎飴のように均質な社会がグローバル」という視点は誤りである。

そのような状況でコンテンツ、文章、そしてあらゆる表現の形式は国境に関係なく広がってしまう。そうした場合に当然文化の違い、に基づく表現の受け止め方の違い、という問題は必ず発生する。

ある表現が特定の文化圏には受けても別の文化圏では受けない、そういうことも十分にありうるし我々コンテンツメーカーもそういったものを受容しなければならない。

そして当然、「風刺」あるいは「皮肉」がある特定の人に対して誹謗中傷になりうる、ということも想定しなければならない。

ここで最近、権利意識のはき違えが見られ大きな違和感を感じる。それは言論の自由はあっても他人を誹謗中傷する権利はない、という当たり前のことが理解できない人間が増えている点である。   

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それゆえ、この問題は単にテロが言論の自由を封鎖する、という単純な問題ではないことは明らかである。もしあなたが言論の自由だから、他人を茶化したり誹謗中傷するのも権利だ、などと考えているとしたら、ヘイトスピーチも言論の自由だ、などと主張する在特会のような恥ずべき団体とあなたは同じレベルの人間、ということになる。こいつらは国際的にも非難されているし、日本の恥といっていい存在である。

言論の自由という権利をはき違えるとこんなとんちんかんな屁理屈が平気で大手を振ってまかり通ることになる。

グローバルな時代だからこそ、文化の違いに基づく表現の受け止め方の違いを想定すべきであり、ましてパリは北アフリカから主にくるイスラム系住民も多いことからなおさら、その配慮をすべきであっただろう。その意味では私は"Je suis Charlie"(私はシャリ―)ではなく"Je suis n'est pas Charlie"(私はシャリ―ではない)の方である。

とはいえ、このような文化の違いに配慮しない「風刺」あるいは「皮肉」に対しては、同じく言論やその他の表現によって応酬すべきであり、テロのような暴力では事態を悪化させるだけだ。今回のテロ事件でフランスの一般イスラム系住民が迫害されたり暴力を受けたりという事件が発生しているようだが、フランス国民に対しては自制を呼びかけたい。

最後に少し救いがあるとすればフランス国民のテロの抗議デモでジョンレノン"Imagine"を全員が歌ったこと。英語の歌を人前で歌いたがらないフランス人には珍しいことである。

Paris_rally_charlie_hebdo_jan_11

そう戦争や暴力ではない、文化の違いを乗り越え話し合いの解決をすべきなのだ。

憎しみは憎しみしか生まないのである。




1月 16, 2015 思索,考察 | | コメント (0)

2014年2月23日 (日)

コンテンツー形のないものにお金を払いたがらない日本人ー文化程度の低さ、文明国家とは到底いえないコンテンツに対する意識

私は作曲を始め、コンサルタントもやっているわけだけど以下の状況と同じ状況によく出くわす

以下はとあるfacebookでシェアされた記事だがあまりにも思い当たることが多いので引用させていただく。本人にご迷惑がかかるといけないので匿名にさせていただく

ふつう
レストランに入って「お金はないけど、高いものを出してくれ」
という人はいない。


ふつう
「お金がないから、今月は給料半分でいいよね」という会社もない


でも、コンテンツ業界にはそれがある


質が高い記事を書いてください。でもお金はほとんどありません。
最高のデザインをしてください。でも予算は少ないです。
ぜひコンサルしてください。飲み代おごりますから。


相応の対価を払わなければ、受け取ることはできない。
それは有形の商品でも、無形のサービス・ノウハウでも同じことです。

コンテンツに相応のお金を払わないのであれば、
ビジネスをやる資格はないと思います。

コンテンツに相応のお金を「払えない」のであれば、
それはビジネスモデルが破たんしているということです。

クリエイターやコンテンツホルダーに
相応の対価を払わないのは失礼。

ただし、クリエイター側にも責任がある。
そういう仕事を受けてしまうから。


そういう、失礼なダンピング業者と付き合わなくて済むように
常に自分が強く、成長していかなければいけないと思いました

私もよくこういうことを平気でいう会社や人に出会うけど、結局私自身が受けなくてもそういうタダ働きを率先してやってしまう奴がいるからこういうことが問題であることを考えもせず云ってくる人間が後を絶たないわけだね。

結構自治体やそれなりの社会団体でも平気でこういうことを云ってくるところが多い

私はそのため案件を持っている潜在的クライアントがその辺りの意識をきちんとしているかどうかを引き受ける前にまず最初に見極めることにしている。

また制作だけでなくコンサル一般でいっしょに仕事をしている人間でもそこの部分をきちんとわかっている人間でないと仕事をしない。
予算は少ないってどのくらい? といってもそれがリーズナブルな範囲だったら受けるが、殆どタダ同然のような金額ならもう相手にしない

だがもう一つ問題があって結局そういうタダもしくはタダ同然の仕事でも受けてしまう人間がいる、という現実もある

昨今かまびすしい「ゴースト問題」も新垣氏の場合は若干事情が複雑だがJ-popの「ゴースト問題」などはまさにこのケースである。

結局「仕事が欲しい」 という強迫観念のもとメチャクチャな条件でも受けてしまうのだ。そういう「奴隷同然」のように扱われている人間がゴマンといるはずなのに誰も名乗りでない のは「業界から干される」ことを恐れているからだろう。おそらくA社S社を始めとする業界関係者にに相当な「締め付け」を食らっている若い作曲家は大勢いるだろうね。殆ど恐喝に近いこと が行われているかもしれない。これが表沙汰になれば間違いなく音楽業界が根底からひっくり返るからだ。A社もS社を始め業界関係者の多数も内心ビクビクしているはずだ。

だが結局「自分を安売り」していい結果になることは絶対にない。これは私もやってみて実感したこと

また自分の音楽を「無料で」どんどん流すことがプロモーションだ、などといわれた時代があった。たまたまある例でそれが成功したからそれがまことしやかに伝わっているのだ が、結局それは自分をタダ同然の価値に自らを貶めることに他ならないなぜならネットというものは情報やコンテンツをフラットにするからだ。価値を下げる 方向にいくことはあっても上がる方向に行くことは決してない。唯一その例外はその無料コンテンツに付随する別の付加価値や条件がある場合のみだ、しかしそれは寧 ろ例外事項として考えるべきなのである。

コンテンツに相応のお金を払わないのであれば、
ビジネスをやる資格はないと思います

こういうことを平気で行う会社や人間が後を絶たないのは結局そういう「自らを安売り」「自ら進んで奴隷状態」になる人間も少なくないからである。実績が欲しいという気持ちはわかるが、一度ただ同然になった人間が高い価値を持つようにもっていくのは難しい。不可能に近いといっていいかもしれない

何にせよ作曲家で「ゴースト」なるものが存在すること自体、そして以下のような発言が当たり前のように出てくること自体

質が高い記事を書いてください。でもお金はほとんどありません。
最高のデザインをしてください。でも予算は少ないです。
ぜひコンサルしてください。飲み代おごりますから。

日本は到底先進国といえるような国とはいえない

文明国家とすらいえないのである

<追記>

こういうことが最近あったようです。事実とすれば本当に酷い話です。

サイバーエージェントはイラストを作家に依頼した際、ギャラの事を聞かれて「そんなことより、XXさんには夢とか無いんですか?有名になりたいとか名前を 売りたいとか」とか言いだして、ギャラのことをうやむやにしようとしたそうで、すげえなと思いました いい根性の会社だと思います

まあサイバーエージェントなんて所詮この程度の会社か、といわれればそれまでだが、こういわれて殆どギャラ無し同然で受けてしまうクリエーターも少なくないということだろう

上記の私の文章に書いてあるようにコンテンツに相応のお金を払わないのであれば、ビジネスをやる資格はない。Amebloで多くの芸能人のブログを有する会社がコンテンツに対してこの程度の認識しかない、ということであれば多くの芸能人のコンテンツはこの会社にぞんざいに扱われるだろうから、こんな会社にブログを作るのはやめた方がいい

ITの世界ではもてはやされているサイバーエージェント社だが、上記のtweetが事実であるのならばこの会社はまあブラック企業という噂はきいていたが間違いなく三流以下の会社といわざるを得ない

2月 23, 2014 思索,考察 | | コメント (0)

2013年3月30日 (土)

コンテンツを世界に向けて発信する

私のブログをいつも読んでいただいている方はおわかりだと思いますが..

私はエコノミストとかIT系の人たちがよく論じる「グローバリズム」という主張とは一線を画した見解を持っています。
なぜなら彼らのいう「グローバリズム」にはどこかバランスを欠いているところがあるように感じるからです。

「グローバリズム」というのは決してアメリカやヨーロッパがこうだから日本もこうあるべきだ、という世界中が金太郎飴のように同じになることではなく

地域の特性ー「ローカリズム」をも考慮した上で「グローバル」な価値観とバランスを取って関係性を構築していくーーそのことによって地域の特色も生かせるし、その国特有、独特な文化を生み出し世界に対してもそれを発信することが可能になるからです。

どうも「グローバリスト」といわれる人たちはこの点を理解しているようには見えないんですね。この観点なしにTPPとか押し進めたら本当に日本という国は大変なことになってしまいますが

「グローバリズム」派のエコノミストといわれる人たちの論調を見るとこの観点が欠けているような気がしてしょうがありません。

しかし一方では日本という国は「変わる」ということを極端なくらい嫌う体質もあるのも事実です。今大河ドラマで「八重の桜」をやっていますが幕末から明治という日本の歴史の上でももっともドラステイックに社会が変わった時代を実現するのに、多くの幕末の志士を始めとする血が流れなければなりませんでした。

それくらい日本でものごとを大きく変える、というのは難しいことなのかもしれません。

しかしある意味今はそういう時代、同じような局面に差し掛かっているような気がします。

私は情報革命というものがもし本当に起こるとすれば、それは「コンテンツ」そのものの革命ではないかと考えています。

だからこそ映画、音楽を始めとする「コンテンツ制作」の現場の人間は意識を変える必要があると思うのです。

しかしコンテンツ制作の業界ーとりわけ音楽業界は「変わる」ことを極端に嫌う業界であることはこのブログでも再三再四指摘してきました。

それは私たちで変えていくしかありません。業界が変わらざるを得ない状況を作るしかないのです。

昨日先月の日本から世界に向けて映画を発信しようという集まりに参加しました。
ご存じのように私は交流会というものにずいぶん参加しましたが、1つの目的に向かって動き出すこの集まりには期待をしています。

是非かけ声だけでなく次は具体的な企画の内容をブレーンストーミングする機会を作り、映画のコンセプト、脚本等を詰める作業を始めることができればと思います。

日本という国はハードウエアは外国にどんどん売ってもマンガ、アニメ等の一部のコンテンツをのぞけば世界に向けて音楽や映画を発信しようという発想になかなかなりません。

音楽業界もようやくきゃりーぱみゅぱみゅや"Perfume等の海外への売り込みを少し考え始めてはいるようですが、まだ積極的にはとても見えまぜん。

実際ちょっと前に音楽を海外に向けてどんどん売っていこうなどといおうもんなら「お前はバカか」といわれました。それが日本の業界の体質です。

しかしそれは日本人の集まりが力を合わせて世界に向けて実際に映画等を発信してみてオスカーなり何なりを実際に取ったら嫌でも業界は変わっていくだろうと思います。

いや、変わらざるを得ないはずです。

昨日の集まりからそういう流れが出てきてほしいと心から願うものであります。

この集まりで短編か長編の映画ができることを期待するとして..

もう1つ  例の「みんなでレッドカーペットを歩きましょう」のプロジェクトでは

ブラックコメデイものの短編を1つ、場合によってはもう1つ近々てがけます。もっとも最初のブラックコメデイは脚本があがってますが、もう1つはまだ脚本すらあがってません(^^;) 

ちなみに最初のブラックコメデイはだいたい頭の中で音楽の組み立てができています。

そして年内目標に長編を同じ監督で作る予定です。

いずれも海外の映画祭その他に打ち出す予定と聞いています。

まあ既存の業界の人たちから何といわれようがそういうチャレンジを続けていきたいと思います。

この閉塞している日本社会を打破するために 

「変わる」ことを頑なに拒否する業界を変えるために

3月 30, 2013 思索,考察 | | コメント (0)

2013年1月17日 (木)

情報化社会のパラドックスー「美しいもの」というものに鈍感になっていき情報感度も下がっている現代人

Facebookを通じて次の写真と記事をシェアした。次の記事を読んでほしい

Joshua_bell_playingairport

ある寒い1月の朝、一人の男がワシントンD.C.の駅で座りながらバイオリンを弾き始めました。彼はバッハの曲を1時間程演奏しました。その時間帯は通勤ラッシュだったため、約1100人がその男の前を通りました。
 
3分後、ある中年の男はバイオリンを弾いている人がいると気づき、足を止めました。しかし、結局止まったのはほんの僅かな時間で、数秒後にはその場を離れました。
 
1分後、バイオリニストはやっとお金を稼ぐことができました。ある女性がケースに1ドル札を投げ入れましたが、彼女は止まることなく歩き続けました。
 
少しした後、壁に寄りかかって彼の音楽を聴く者が現れましたが、腕時計を見るとすぐに歩き始めました。会社に遅刻しそうだったのです。
 
一番彼の音楽が気になったのは、3歳の男の子でした。彼のお母さんは急いでいて、男の子の腕を強く引っ張りました。それでも男の子はバイオリニストを聞こ うと足を止めます。お母さんは男の子の背中を強く押し、無理やり歩かせました。それでも男の子はずっと後ろのバイオリニストを見ながら去って行きました。 他の子供も同様でしたが、親は全員例外なく止まることなくその場を去りました。
 
彼が演奏した一時間内で、足を止めて彼のバイオリンを聞いたのはたった6人でした。お金を入れてくれたのは20人程でしたが、止まった人は誰もいませんで した。稼いだお金はたったの32ドル。彼が演奏をやめ、駅が沈黙に包まれた時、気付いた人は誰一人いません。拍手はなく、このバイオリニストを認める人は いなかったのです。
 

バイオリニストの名前はジョシュア・ベル。彼は世界で最も才能のあるミュージシャンの一人です。彼はたった今、歴史に残る傑作を演奏したのです。それも3億円のバイオリンを使って。
 
彼の駅での演奏の二日前、彼のボストンでのコンサートのチケットは、一枚一万円するものの全て売り切れました。
 
これは実際にあった話です。ジョシュア・ベルが素性を明かさず行ったこの演奏は、人々の視覚・嗜好・優先順位を研究するための実験としてワシントン・ポス ト紙によって行われました。私たちは本当に「美しさ」を理解しているのだろうか?それをちゃんと足を止めて味わっているのだろうか?予想していない状況で も、才能を感じ取ることはできるのだろうか?
 
一つ結論として言えるのは、
 
もし私達は世界で最も才能のあるミュージシャンが、歴史上一番の傑作を演奏してさえ気付かないのであれば、私達は他にもきっと多くの「美しいもの」を見過ごしているのではないか?

私もストリートで演奏ということをやってみて同じ状況を経験した。 どんないい演奏しても人は立ち止まってくれない。そんな中でも一生懸命演奏しても微々たる収入しかないし、CDを買ってくれる人がいればもうけもの、という感じだ。

CDが売れなきゃライブで稼ぎゃいいじゃないか、それでやっていけるでしょ?なんてという人がいるけど実はそんな簡単な話じゃない。 ジョシュアベルのような一流の演奏家の演奏なら素晴らしい演奏で私ならじっくり聴いてみたいが、「情報」や「コンテンツ」が溢れすぎている現代においてはどんな美しいものに対しても人間が鈍感になってしまうということだろう。 これをマーケテイング用語で「ブラインド効果」というそうだが、情報化社会ではその「ブラインド効果」によって「美しいもの」「や「重要な情報」をシャットダウンしてしまうのだろう。

熱心に聴こうとしたのは子供だけ、というのが子供がいかに現代のシステムに毒されていないかということの証明でもある。 その意味では「情報化社会」とかいわれるが、人類や文化にとって本当にそれはいいことなのか? と考えてしまう

結局情報やコンテンツがあふれすぎると良質なコンテンツに対する感性も鈍くなり、くだらない内容のコンテンツの方が「需要」が出てくる、ということじゃないか、と思う。 「最近のテレビはくだらないから見ない」などと云う人が多い割にはくだらないバラエテイの方が視聴率が取れているという現実。 逆にジョシュアベルのような間違いなく歴史に残るような人が演奏しても誰も耳を傾けない。 すべてが表裏一体のような気がする。

つまり 情報量が増える事は、情報感度が下がる事

ではないかと思う。

これを考えるといくらストリートミュージシャンをやっていても情報やコンテンツが溢れすぎている現代ではそこから芽が出る可能性は低い。実際情報収集手段があるのに、課題を与えられても能動的に必要な情報を探す手段を思いつかないような人間は多い。またブログやウエブサイトの記述の記述の一部分のみを読んで「全て理解した、全て読んだ」気になっている人間が非常に増えていることを感じる。

情報化社会になってかえって情報感度が下がる、情報やコンテンツの理解度が減る。
残念ながらインターネットを中心とする情報化社会というものは結局人間の能力を下げてしまっただけではないかと思わざるを得ない

何たるパラドックスだろう。これこそ哲学者市井三郎のいう歴史のパラドックスでなくてなんであろう?

1月 17, 2013 思索,考察 | | コメント (0)

2012年3月11日 (日)

忘れられない日ー東日本大震災から一年を迎えて

あの日から今日で一年。

2011年3月11日は日本にとって忘れることのできない日になった。二万人の命が失われ、多くの人が考えもしなかった悲惨な生活に追い込まれ、今も住み慣れた土地に帰ることができないでいる。大地震と想像を絶する津波が人と建物、財産を飲み込み、原発事故はエネルギー政策に対する従来の価値観を変えざるを得なくした。それだけではないが、とにかくあの震災は第二次大戦の敗戦に匹敵するインパクトを日本社会に与えた。

この"311"はテロと自然災害(半分以上は人災だが)の違いはあるがアメリカ人にとっての"911"に匹敵するできごとである。あの時自分はどこにいて、何をしていただろう、ということを多くの人は思うに違いない。
その日、私は仕事場であるスタジオで作曲の作業をしていた。震源地から遠く離れていた自宅でも震度5強を記録し、パソコンやモニターを落ちないように懸命に抑えていたのを覚えている。震災のショックに輪をかけたのはよりによってその仕事は後になって私にとっては思い出したくもない仕事の1つに結果としてなってしまったこと。震災によって少なくとも4つの仕事が結果キャンセルとなり、年度末のかき入れ時に経営の面でも打撃を蒙った、そしてその後の計画停電により業務の進行にも支障をきたす事態も発生。本当に昨年の最初の三ヶ月は私にとっても最悪の時期だったといえる。

それは私の個人的な事情。もっとも深刻なのは震災から一年たっているのにもかかわらず被災地の復興が進んでいないこと。原発、放射能の関係でいまだに住み慣れた土地に帰れない人たち。瓦礫の処理も進まず復興の着手すらできないところも多い。日本の政治家の無能ぶり国民の生活よりは自分の保身しか頭にない日本の高級官僚(とりわけ原子量保安院などは震災発生時に適切な行動を取らなかったばかりか、嘘に嘘を重ねたという面で国民に対し重大な犯罪行為を犯したといってもいいだろう。今月で廃止されるが遅きに失したくらいだ)福島第一原発の対応も含め、東日本大震災は半分以上は間違いなく人災である。日本の政治行政が制度疲労を起している証拠でもある。

被災地の皆さんが心から笑顔で生活できる日は果たして来るのだろうか。そういう日が一日も早く来る日を願ってやまないが、仮にそうなっていても私たち日本人がこの東日本大震災を忘れることはないだろう。

3月 11, 2012 思索,考察 | | コメント (0)

2011年9月21日 (水)

付加価値をつけないと生き残れないコンテンツビジネス

まずいずれ正式にお知らせするが、私が兼ねてから企画していた音楽(サウンド)をテーマとした新コーナーのオンエア日が決定した。1分ほどのコーナーだが、不思議なコーナーだからたぶんおわかりになると思う。内容は見てのお楽しみとして、いずれ然るべき時期になぜあのような企画を考えたかをこのブログで記そうと思う。

さて、音楽や映像といったものを扱うのをコンテンツビジネス、というようになったのは勿論インターネットやウエブサイトというメデイアが出てきたからだが、そもそもコンテンツというのは中身、中に入っているもの、のことをいう。だからただのテキスト情報の場合もあるし、画像、映像、そして音楽等、システム、ウエブサイトの中に表示されているもの全般をいう。

そしてそのコンテンツビジネスというものだが、一見聞こえはいいが実は実態はかなり問題がある。

というのはインターネットというのはよくも悪くも世の中をフラットにする。つまりインターネットという世界は情報やコンテンツが結果として供給過剰な状態になる。だから以前もこのブログの記事を書いたが、(しかも反論らしい反論がなかったからおそらく皆さん認めているんだろう)インターネットというのは情報やコンテンツの価格を下げるー値崩れさせる特性があるために、価値が下がる方向に行くことはあっても決して上がる方向にはいかない。

平たく言えば例えば弊社で行なっている音声コンテンツ制作の仕事ープロのナレーターを使って編集、ファイル化する作業ーはプロフェッショナルな作業ではあるが、同時にノウハウさえ、持っていればどこの制作会社でも制作可能である。つまり「替わり」が捜せば必ずいる仕事だ、そしてインターネットで「替わり」を見つけるのは難しいことではない。そうなるとインターネットを通じて制約した仕事のコストは放っておくとどんどん低下していく。しまいにはタダまでいかなくともタダ同然に近くなっていく。それが残念ながらインターネットにおけるコンテンツビジネスの運命である。

それを「市場の要求だから当然だ」というかもしれない。いわゆる市場原理主義者的な主張だが、最近わかったのは新自由主義ー市場原理主義者ーとインターネット万能論者ネットに関してちょっとでも否定的なことを書くと過剰反応する人々ーのかなりの部分は実はオーバーラップしていることがわかった。全員ではないかもしれないが、たぶん6-7割はほぼ同じ層(いわゆるB層?)だろうと思う。(いずれ別のブログで詳しく書くが大半がおそらくニートフリーターといった「勝ち組でない」人たちだ。)

つまり今のままでいけばコンテンツビジネスに明日などないのである。

そうした状況に対抗するには方法は1つしかない。

それはいかにコンテンツに付加価値をつけるか、である。

前にも書いたがインターネット情報やコンテンツの価格を下げることはあっても上げることはない。よってインターネットのみでブランド化するというのは不可能であり、付加価値をつけるのも不可能である。

となるとやはりインターネットというバーチャルな世界ではなく、リアルな世界で付加価値をつけることを考えるしかないのである。

これも何度も書いているがリアルがあるからこそバーチャルがある。インターネットではいまだに既存のメデイアよりネットの方が優れている、とかネットを中心とした新たなシステムは既存のメデイアやシステムを凌駕するといった類の言質でないと納得しない人間が少なくないが、いい加減そういったインターネット万能論の夢うつつから醒めて、もっと客観的に現実を見るべきだろう。だから我々はリアルな世界で付加価値をつけることを考えるべきである。

その付加価値の付け方は様々であろう。まさにケースバイケースである。
リアルがあるからこそバーチャルがあることを念頭に付加価値をつけることができれば主導権を握れるのはコンテンツプロバイダーである。そしてそれによってしか、コンテンツプロバイダーの生き残る道はないのである。 

9月 21, 2011 思索,考察 | | コメント (0)

2010年9月 9日 (木)

ジャーナリスズムの危機は今のジャーナリズムのシステムの中にある?

ここ数日忙殺された。もう月曜日のニュースだがアフガンで決死の取材活動の上、タリバン勢力に拘束された常岡浩介(つねおか・こうすけ)さんが無事解放される。とりあえず無事に帰ってこれてよかったと思う。

アフガンで不明の常岡さん、武装勢力から5カ月ぶり保護

http://www.asahi.com/international/update/0905/TKY201009050147.html

こういうフリージャーナリストの多くは大新聞等がなかなか行けない危険地域に出かけ、身の危険を百も承知で取材をする人たちで彼らの存在はまだ体を張ったジャーナリズムがまだ存在しており、私としては敬意を表する。mixiや2ちゃんでは彼らの背景も知らないくせに相も変わらず「自己責任だ」とか「みんなに迷惑をかけた」(彼らがおまえにどんな損害を与えたというんだ?)とかほざいているおばかさん連中が多いが、彼らは危険を百も承知で高いリスクを負って仕事をしており、大手新聞やマスコミが伝えられない真実を体を張って取材しているのだ。(当然彼らのギャラは普通のジャーナリストより圧倒的に高い)彼らのような存在はまだジャーナリズムの健全な部分を残している人たちといっていい。

だいたいいわゆるジャーナリストには大きく分けて3種類いる。

A: 上記の常岡さんのように大手新聞やマスコミが行けない危険地のリスクの高いところでフリーで取材するタイプ

B:  別の仕事を持ちつつその合間に取材活動をしているタイプ

C: ある特定の企業、団体の「スポンサー」のバックアップによって取材や執筆活動を行なうタイプー当然ながらある特定の企業、業界団体その他の利益を代弁する立場になる

実はジャーナリストでは上記の中では最後のCタイプが圧倒的に多いことをご存じだろうか? 特に音楽評論家、音楽ライターの大半はこのタイプだし、私がよく批判的なコメントを行なういわゆるITジャーナリストの殆どはこのCタイプに該当すると考えて差し支えない。

私はこういう連中がはっきりいって大嫌いである。しかし残念ながらもはや彼らの存在は完全に日本のジャーナリズムに定着してしまい、今さら彼らを否定したところでどうしようもない。このCタイプのジャーナリストは企業や業界団体の利益を代弁し、世論操作の役割も果たしている。事実上のロビイストといっていい。そして残念ながら多くの場合彼らの世論操作、誘導は見事なまでに成功している。

これはメデイアリテラシーが世界でも最低レベルといっていい日本だから余計効果的である。今でもマスメデイアで流されるCタイプジャーナリストの言質、発言を真実だと思い込みそのまま鵜呑みにしているとしか思えない人間が多い。

特に日本の音楽評論はもう20年くらい前に事実上死んだといっていい。まともに音楽を評論できない評論家、多くはメーカー系の手先で決してアーチストに対して否定的なことを書かないように彼らの言質は厳密に管理されている。ここに言論の自由の入り込むスキはない。

何かというと「言論の自由」とか「知る権利」とかを持ち出して自らの行動を正当化するマスコミ連中だが、実はこういったコマーシャリズムのコントロールによって言論の自由が事実上死んでしまっている現実がここにある。

これはジャーナリズムがビジネスになってしまったのが主原因である。法律的には言論の自由が存在しても、商業主義が言論の自由を殺してしまったのだ。

日本の音楽ジャーナリズムは死んでもう久しい。健全な音楽評論がなくなったため音楽家、クリエーターと音楽評論家のかつてのような葛藤、対立の構造はなくなっている。

音楽業界衰退の原因がここにもある。

大事なのは我々がジャーナリズムのいうことを鵜呑みにせず、もっと厳しい目でマスコミの報道をみなくてはならない。マスメデイアの情報が全て真実だと思い込むほど危険なことはない。

欧米では学校のカリキュラムにメデイアリテラシーに関するものを入れているが、日本はいまだにそれがない。文部科学省に答申されたことはあるようだが結局事実上握りつぶされている。 官僚にとってもマスコミにとっても視聴者が健全なメデイアリテラシーを持つことほど都合の悪いことはないからである。

ジャーナリスズムの本当の危機は今のジャーナリズムのシステムの中にある

9月 9, 2010 思索,考察 |

2005年11月19日 (土)

クリエーターと人間性

実は先ほどのアレンジをしながらその合間にmixiに某コミュ二テイに時々書き込みをしていた。

そのコミュ二テイ、某テレビ関係者の非常に傲慢な態度と言動によってものすごく荒れていた。mixiをやっていてあんなに荒れたのは見たことがない。具体的には「意見を聞く」と称してトピックを立て、みんながいろいろ意見の書き込みを書いた後「実はこの意見をある会合のための参考にする」などとマスコミの隠れ取材的な方法を取った。発言者がみんな怒り出しだのは云うまでもない。(しかも自分は「良識あるマスコミ人」と自称するおまけつき)

まあこの男、マスコミの傲慢さ丸出しで最後には「嫌なら訴えろ、できないんだったら黙っている」とか「コミュの人たちの誹謗中傷(と本人は主張、この人には批判や疑問は全て誹謗中傷になるらしい)により「精神的苦痛を受けた」ので警察に訴えるなどと脅迫すつ始末。まあやれるもんならやってみろという感じだが、mixiがさながら2ちゃんねる状態になった。

まあマスコミには時々傲慢な人間がいるし、私もずいぶんそういう人間に会ってきたがここまでひどいのはちょっと記憶にない。ちなみに経験上、地方新聞や地方局といった小さなマスコミ関係者はきちんとしている人が多いが、いわゆる大新聞や地上波キー局(勿論NHKも含めて)には時々「オレはマスコミだ。文句あるか!!」といった唯我独尊的な傲慢な人間がいる。全員がそうだとは言わないが、決して少なくないのが現実だ。

ちなみにこの男「フジテレビ社長賞も頂いてるし、報道局長賞もいただいている」と主張している。ある人によると業界では有名な人なんていう情報もあるが、勿論その事実を確認したわけではない。こういう人間のいうことはあまりあてにはならないし、だいたいそんなところでそういうことを持ち出すなんてどうかね。私なら「それがどうした」といってやるがまあこういう人物はあまり相手にしたくないので...
(ちなみに私はSigraphとNHKから賞をいただいてますけどねーいいたくないけど..)

しかしその中の話でクリエーターは人間性よりも作品で評価されればそれでいい。という話が出たとき確かに少し考えてしまった。いや、この男が本当にクリエータだったのかは知らんし、知りたくもない。だが確かに北大路魯山人、三島由紀夫、太宰治などは作品は評価されても人間性はお世辞にもいいとはいえない。彼らの人間性について読むと3人とも決して友達にはしたくない人物である。 (もっとも作品が評価されたのは彼らの作品が人間の一面を 深くえぐっていたからだが)

また音楽でいえば歴史に残る有名な作曲家などは奇人変人そろいである

確かにそういう面はあるかもしれない。でもだからといって作品さえよければ人間性が最悪な人物でよい、というのは何か免罪符のような気がして私は嫌だ。

勿論私はクリエータの端くれという自認はあるし、音楽家、作曲家である以上自分の作品が全てなのは確かだ。私は作ってきた作品の全てがそうだったかはともかく、どの作品を作るにしても誠心誠意取り組んでいるつもりである。しかしそれと人間性0でいい、というのは全く別の問題のはずだ。

過去には確かにそういう人間は多かったかもしれない。しかし私は他人は他人、自分は自分でやっていくつもりだ

 

 

 

 

11月 19, 2005 思索,考察 | | コメント (0)