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2019年1月 3日 (木)

新春コラムー「情報革命」はようやく始まってきた?昨今のエンタテインメント業界の状況を見て

もうだいぶ前に当ブログでこんな記事を書いていた

■死語とされている"IT革命”という言葉
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2009/08/it-f819.html

P.F.ドラッカーについてはご存じの方も多いだろうが、この記事で当時「情報革命」について論じている箇所があった。2009年の記事だが当時はまだ「ネット万能論」「IT万能主義」のような論調がネットで根強くあったが一方でそれらに対して「IT革命? どこが革命なんだ?」とか「IT革命なんてもはや死語じゃないか?」などという論調も勃興し始めていた。

要は産業革命の進展の仕方と今の情報革命の進展のしかたを照らし合わせているのだが、IT革命と産業革命を比較すると、コンピューターの誕生に相当するものとして、蒸気機関の発明がある。蒸気機関は社会や産業に大きな革新をもたらしたが、ドラッカー氏の見立てによると「産業革命前から存在していた製品の生産の機械化だけだった」。真に世の中を変えたのは鉄道である。蒸気機関の実用から鉄道の出現まで、ざっと50年かかっている。

コンピューターによるIT革命も同じだとドラッカー氏は指摘する。つまり本格的なコンピューターが生まれて50年がたったが、やったことは大きく言えば機械化であり、これからいよいよ「鉄道」が出現するという。

現代の我々にとってインターネットという便利なツールが出現したのが事実だが、まだ以前のビジネスの形をそのツールをつかうことによって「機械化」したに過ぎない。だから情報の数は多くなったが社会のしくみは殆ど何も変わらずに今日まで来ている。しかしそれらは単なる前ぶれに過ぎない、とドラッカー氏は指摘する。

ドラッカー氏は、鉄道が登場した10年後あたりから、「蒸気機関とは無縁の新産業が躍動を始めた」と述べる。それは電報や写真、光学機器、農業機械、肥料であった。一連の新技術の登場の後に、郵便や銀行、新聞などが現れ、鉄道が登場した30年後には、近代の産業と社会制度が確立した。ドラッカー氏は来るべき社会にも同じことが繰り返されると主張する。


 今後20、30年の間に、コンピュータの出現から今日までに見られたよりも大きな技術の変化、そしてそれ以上に大きな産業構造、経済構造、さらには社会構造の変化が見られることになる

 IT革命からいかなる新産業が生まれ、いかなる社会制度、社会機関が生まれるかはわからない。(中略)しかし絶対とまではいかなくとも、かなりの確率をもって予測できることがある。それは今後20年間に、相当数の新産業が生まれることであろうことである。しかもそれらの多くがIT、コンピュータ、インターネット関連ではないであろうことである。

 上記の最後の赤字の部分が非常に面白い。確かに産業革命では鉄道よりもその周辺の事業が大きく発展し、大もうけをした。IT革命も同じことになるだろう、というのがドラッカー氏の主張である。

実はもしかしたらドラッカー氏のこの主張はひょっとしたら正しいのではないか、と最近の社会の動きを見て思い始めた。

勿論.これは私の勝手な解釈なので当然異論がある人もいるだろう。まあそういう方は聴き流していただきたい

だがITといってもそれ自体は単なるツールに過ぎない。そして「革命」というのは価値観が変わる事であって単にツールによって便利になることではない。つまりIT革命というからにはITというツールによって社会の価値観が根本的に変わる、ということである。

だが最近のエンタテインメントの動きを見ていると少し「価値観」が変わってきつつあるのではないか、と感じていることがある。具体的にいうと

1.コンテンツ制作、マーケットのグローバル化、またそれを前提としたプラットホームの誕生

私は既に何度も「今やコンテンツ制作に国境なし」と書いているが、以前の記事を書いている時はまだSpotifyもここまで大きくなっておらずまだApple Musicではなくitunesのみだった。NetflixAmazon Premiereもまだ現在のような形では存在していなかった。

ここで従来と違うのは

(1)「ネット配信」というのが「ダウンロード」ではなく「ストリーミング」中心になっていること。
(2) コンテンツを全世界に配信する、という前提でリリースされること

これはまだ欧米と違いSpotifyApple Musicの普及率が低いという面もあるので特にそうだが、従来の日本のメジャーの産業のように「ドメステイックな市場」のみをみていればいい時代は完全に終わった点が揚げられる。

2.制作現場のグローバル化

私は既に何度も書いていますが映像制作のグローバル化は予想以上に進行しもはや外国との合作が当たり前になりつつある。私のようなものでも昨年中国ドラマ、台湾映画2本に出演しているのでこうした動きは今後活発化することはあっても小さくなることはないだろう。

これはある意味ではドラッカーが主張した「Eコマース」が産業革命の「鉄道」に匹敵するという主張に迎合するのかもしれない

2.コンテンツ制作、マーケットのグローバル化、またそれを前提としたプラットホームの誕生

私はキャステインググル―プの管理人をしていて着実に5-6年前と現在とは違う世の中になりつつあることを感じている。例えばハリウッドのオーデイション情報など以前では現地に行かないと手に入らないものだった。それがFacebookを始めとするソーシャルネット経由で普通に手に入るようになっている。

以前なら日本の場合そういう情報は大手広告代理店や大手製作会社が仕切って外部からの情報を一切遮断していたものだ。だが今国内向けに遮断してもソーシャルネットその他でそういう情報は簡単に入るためかつてのように情報を遮断することはできない。語学の能力が一定限度あればすぐに拡散可能である。

上記の1.と2、で今までと違うのはコンテンツ制作、キャステイングに関して従来とは大きく価値観が変わっていく、という点だ。コンテンツ制作の制作予算も従来の日本国内のみではなく、全世界を前提として作るためバジェットが一転豊富になるし、全世界配信を前提としているためコンテンツに対して日本国内だけなく多様な価値観も反映しなくてはならなくなる。

これはある意味「革命」に近いことが起きている、といっていい。そしてその革命はドラッカーのいう「Eコマース」の関連した動きとして発生したものである。

だが私はその「Eコマース」の論法にもう一点加えたいと考えている

実は産業革命の「鉄道」に匹敵する革命の原動力はSNSなのではないか、という仮説

私はもう1つソーシャルネット(SNS)もこうした「革命」に一定の寄与をする産業革命の「鉄道」に匹敵するとも思っている。

ソーシャルネットというものの存在が従来は大手が独占してきた情報を一般に開放する力を持ち、世界中のキーパーソンともつながることができるSNSは制作現場のグローバル化、ボーダーレス化に寄与し、結果的に「グローバル化」を始め情報やコンテンツの「Eコマース」を含むやりとりが推進されていく、SNSはその意味では情報による革命を推進する確実なプラットホームになりうると思う。

勿論まだ始まったばかりだ。ただ「革命」というのは私は「IT革命」というよりは「情報そのもの」あるいは「コンテンツそのもの」の革命ではないか、とも思っている。IT技術というのは単にきっかけに過ぎない、大事なことは情報やコンテンツがインターネットの出現によって「価値観が変わる」というレベルにまで影響を与えているという事実だ。

今後これがどう寄与するか、私の分析が果たして正しいのか。大変興味があるところである

 

 

 

1月 3, 2019 音楽コラム | | コメント (0)

2015年9月 6日 (日)

間違いだらけの現代音楽史(5)ーループする音楽の歴史 1980年代で止まっている音楽の歴史

夏休みの音楽コラムシリーズ、9月に入ってしまったが今回がこのシリーズ最終回である

前回は「音楽アカデミズム」と。「反アカデミズム」に焦点をあて後者の「反アカデミズム」の音楽や思想の方がポピュラーミュージックの世界を中心とする現代音楽に影響を与えた面を語った。

特にステイーブライヒ、テリーライリー(R&Bのプロデユーサーとは別人)のミニマリズムのポピュラーミュージック全般の影響は大きい点を述べた。

だが一方のポピュラーミュージックの歴史を見ていくと、このミニマリズムの点を除いてはジャズでもロックでも西洋音楽(クラシック音楽)と同様のプロセスを経ていることがわかるのだ。

下の図を見てほしい。

これはジャズ、ロック、そしてクラブミュージックの歩みとそのアーチスト名を大ざっぱに整理すると全く共通のプロセスを経ている。

勿論下の図は全てのアーチストを網羅したものではない、というかこの限られたスペース内で全ての音楽やジャンルを網羅、反映することなど不可能である。ひとことでジャズ、ロックといっても細かくわければ100を超えるジャンル、音楽のスタイルが存在するので当然ながら全てについて語ることなど不可能である。従ってやや乱暴で大ざっぱな分け方になってしまうことをご容赦いただきたい。「あのジャンル、あのアーチストが抜けている」というご指摘は申し訳ないが勘弁していただきたい。

 

Music_history3

上からジャズ、ロック、クラブミュージック(テクノ)と3つのジャンルの大ざっぱな動きを示しているが、要はいずれのジャンルもクラシック音楽の歩み同様

調整  ⇔   無調

という変化を繰り返しているのだ

ロックでは誰もが知っているビートルズから主にプログレッシブロック経由でピンクフロイド(エコーズ、原子心母)とかキングクリムゾン(太陽と戦慄)など完全に無調音楽に志向しているし、メタル、デスメタルなどもある種無調音楽を志向している。

ジャズでは黎明期のガーシュイン、デユークエリントンからモダンジャズのビバップを経由して明らかに十二音を意識したジョンコルトレーン、完全にジャズを無調音楽にしたフリージャズのオーネットコールマンがいる。

S1257r02

このシリーズで再三再四紹介している20世紀の音楽史からポピュラーミュージックに対する視点を音楽史家に排除させる結果を作ったテオドール・アドルノ(写真左1903-1969)はジャズに対する批判を展開した。その中でアドルノはきっちり『寸法を合わせた』即興という名の偽りの個性尊重を規格に則った技巧で表現できるジャズ演奏専門の語法が全面的に開発された」といっているが、アドルノが生きている時代にコルトレーンやオーネットコールマンが既に活躍しており、アドルノが彼らの音楽を聴いていたとはどうしても思えないのだ。

なぜならコールマンもコルトレーンの演奏、いずれにも「きっちり『寸法を合わせた』即興」なる演奏など存在しないからである。アドルノがポピュラーミュージックやジャズに対する偏見を持たず、ビバップを始めとするモダンジャズ、フリージャズを聴いていればおそらくポピュラーミュージックに対する見方は大きく変わったであろう。

偏見とは無知から生まれる。その観点からすれば基本的にアドルノのポピュラーミュージック観は非常に偏っており、まともに扱う価値のないものとすらいってもよい。

ロックやクラブミュージックに関しても同様の見解を持つことができるが、問題はいずれのジャンルも

調整  ⇔   無調

という変化を繰り返している、

つまりどういうことか。1980年ー1990年代を境に音楽の歴史はあたかも針飛びしているCD、オーバーフローしたデジタル機器のように同じパターンを繰り返しているのである。

実際本当の意味で「従来とは違う」音楽語法というのは実は1960年代後半に生まれたミニマルミュージック以来、生まれていない という事実があるのである

もっとはっきりいえば音楽の歴史はミニマル以来、あるいはポピュラーミュージックでは1980年―90年代以降

止ったまま

の状態なのだ

これはCDが売れない、とか音楽不況というのとは別問題だが、その意味でも今は音楽の歴史上、暗黒の時代に突入しているといえるかもしれない。

音楽史として止ったままなのだ。 勿論いわゆる「現代音楽」も例外ではない

これは果たして打開できるものなのか、果たして本当の意味での新しい音楽表現など生まれる可能性があるのか?

正直わからない。 だがクリエーターの端くれとしては真剣に考えなければならない命題であろう

 

 

 

9月 6, 2015 音楽コラム | | コメント (0)

2015年8月30日 (日)

間違いだらけの現代音楽史(4)ー生きた文化のありかたを捨てたアカデミズムが支配した「クラシック音楽」とその流れに贖った反アカデミズムの音楽

前回まで従来のクラシック音楽中心史観とは違い、「コード譜」や現在のポピュラーミュージックのアンサンブルのリズムセクション等の基本部分の成り立ちについて述べてきた。そこの部分はとりわけ音大系の音楽史研究家から完全に無視されてきた部分だからである。

今回は比較的今までの「現代音楽史」に比較的近い20世紀の音楽のありかたについて述べると思う。

とはいえ当然ながら従来の音大系の現代音楽史観とは基本的な観点が違うことはお断りしておく。

まずは下の図を見ていただきたい

 

Music_history2_2

 

ペースに限りがあるので必ずしも主だった人全員をいれたわけではないが、20世紀初頭から現在にいたるまで大まかな作曲家と音楽楽派の流れを書いたものである。

ドビュッシー、ラベルなどのいわゆる印象派(ドビュッシーは自分の音楽を「印象派」と呼ばれることを嫌っていた)に始まり、現代音楽史を考える上ではお決まりの、シェーンベルク、ストラビンスキー、バルトーク等の名前から現代に生きている作曲家まで網羅しているが、さすがに全員を入れるスペースはない

横軸は時代だが実はポイントはこの図の縦軸である。

多少順不同の部分はあるものの、実は上に行くほど「アカデミック」-もしくはクラシック的。下に行けばいくほどアカデミズムから離れ、下の方にいくとポピュラーミュージックに近くなる。

特に第二次大戦後の動きを中心に実はこの両極、つまりアカデミズム反アカデミズムの対比がクラシックー西洋音楽の流れの中で基軸に入っていく

誤解のないように書いておくが私は別にクラシック音楽とポピュラー音楽の両方を論じて、どちらがどちらより優れているとか、どちらが好きか云々を論じているわけではない。はっきりいってどちらより優れているなどという議論は全くのナンセンスである。

ただ20世紀に入ってからの調整の崩壊(厳密にはワグナーの「トリスタン和音」が崩壊の始まりともいわれる)が始まってから西洋の芸術音楽の混迷が始まると同時に、アメリカからラグタイム→デイクシーランド→ジャズという新たな音楽の息吹が生まれた時代に西洋音楽の混迷の部分のみを見て新たな音楽文化の息吹、ムーブメントを「大衆音楽」などという訳のわからないレッテルを貼ってその本質を知ろうともせず、無知と偏見と決めつけだけで終わらせている点が問題なのである。

そのような音楽史観がいまだに音楽大学を中心とする音楽観を支配しているというのは大変不幸な点であるが、その要因を作っている「音楽アカデミズム」については後で触れるとして、まずは上記の表の中で本人の生存した時期を表した横線で「オレンジ色」の作曲家は現代のポピュラー音楽を含めた「現代音楽(いわゆる「現代音楽」ではない)」に大きな影響を及ぼしていると考えている作曲家である。

その中で比較的真ん中(実際にはやや下)の「エリックサテイ」をご覧いただきたい。

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エリックサテイは前回の「間違いだらけの現代音楽史(3)の最後でも述べたように単に現代のポピュラーミュージックの世界だけでなく、アート、演劇を始め19世紀末から20世紀初頭のありとあらゆる芸術に対して大きな影響をもたらした人物である。20世紀から現代における様々な新しい音楽には何らかの形でサテイの影響がある。

しかし音楽史家はサテイを「変わり者」、異色の作曲家としてとらえる向きが強い。だが上記の表を見ていただくとわかるが、サテイの後世への影響は広範囲に上る。サテイを崇拝したフランスの「六人組ーLe Six」の作曲家たちは結局無調主義の方向から西洋音楽の伝統をベースとした「現代音楽」の流れの方に発展し、一方ではサテイの「家具の音楽」をそのまま空き缶や日用品を打楽器にした「リビングルームミュージック」を始め、「音」という概念を変えた、ジョンケージやアンビエントのブライアンイーノにまで影響を見ることができる。

変わった作品ばかり、というイメージがあるサテイだがそれぞれ未来の音楽を見据えて現代音楽に強い影響を与えている。いわば現代の音楽の父、という位置づけをしてもよい。

さてここで私はわざわざ現代音楽という表現と「現代音楽」の2つをわざわざ分けている。なぜなら両者は名前は似ていても中身は全く違うからである。

ひとことでいえば前者は本当に現代という時代を反映した音楽であり、後者は「現代音楽」という名前の音楽のジャンルである。この「現代音楽」なる音楽のジャンルは大きく分けると二種類の音楽がある。

それは「音楽アカデミズム」(西洋音楽)の流れに基づいた音楽と、その動きと真逆の「反アカデミズム」の音楽である。「反アカデミズム」の音楽は従来の西洋音楽の伝統や作曲語法を大きく否定したものであり、その意味では同じ「現代音楽」と呼ばれる音楽でも両者は水と油である。

そもそもこの「音楽アカデミズム」が現在のような体制に構築されたのはいつ頃かはわからない。19世紀以前にも絵画の世界の「サロン」に相当する楽壇のようなものは存在したようだが現在のような形になったのはおそらく第二次大戦以降ではないだろうか。

この傾向は20世紀に入り作曲技法が複雑さを極め、19世紀までは作曲者が演奏に加わることは普通だった時代から、作曲者と演奏家が完全に「分業化」し始めたこととも関係する。(但しバルトークなどは健康状態がよい時は自作をよく初演していた)

「音楽アカデミズム」と。「反アカデミズム」の詳細について述べるととてもこのブログ記事では足りないが、やや乱暴かもしれないが両者の違いを表にすると以下のようになる。

現代音楽の種類 「アカデミズムの現代音楽」 「反アカデミズムの現代音楽」
基本姿勢 西洋音楽の伝統、作曲技法を尊重
機能美や構造美を追求
西洋音楽の伝統を破壊、ジャンルもポピュラー、民俗音楽、その他新たな要素を積極的に取り入れる
特徴 作曲技法(エクリチュール)の複雑さを競う 既存の音楽の手法を否定。場合によっては4分33秒(ジョンケージ)のような「作曲」ですらなくなる時も
演奏の姿勢 新即物主義的(Sachlich)で楽譜に忠実に、即興を嫌う 演奏家の自由を即興を含め容認。形に一切こだわらない
備考 基本的には20世紀前半までの西洋の伝統を尊重する「現代音楽=アカデミズムの現代音楽 民俗音楽、コンピューターミュージック、ポピュラーミュージック、電子音楽等あらゆる新しい要素を積極的に取り入れる
影響 アカデミズムの現代音楽以外の音楽には一切影響を及ぼしていない ミニマリズムやジョンケージの思想はアンビエント(環境音楽)やクラブミュージックに対して大きな影響をもたらした

ポイントは演奏の姿勢のところにある新即物主義的(Sachlich)である。新即物主義というのはパウルヒンデミートが展開した芸術運動であるが、ヒンデミートがそれを意図していたのかわからないが、西洋音楽の中で「即興=演奏家の勝手な主観的な行動」という考えで忌避され、否定されるようになった。

それが演奏家の演奏は元より、作曲家の作曲技法まである種の「方程式」、「メソード」以外を受け付けなくなり現在の「音楽アカデミズム」の形が完成した。これはいまだに東京芸大を始めとする音楽大学の音楽教育の基本姿勢である。

アカデミズム反アカデミズムの両者の社会的影響の差は明らかである。前者は音大系の世界を中心に非常に閉じられた(クローズド)な世界になり、アカデミズムという狭い世界の中でしか影響を及ぼしていないし、及ぼしようもない。昨年初めの佐村河内のゴースト騒動の当事者の新垣氏などはこの世界の出身だが私のように音大の作曲家受験を志した人間でない限り一般の方は知る機会など殆どないのがアカデミズムの「現代音楽」の世界である。

一方、反アカデミズムの方はジョンケージやラモンテヤングがプログレッシブロックからトランス系、ジャングル系のクラブミュージックに大きな影響を及ぼす等、現代音楽に大きく影響を及ぼした。特にステイーブライヒ、テリーライリー(R&Bのプロデユーサーとは別人)のミニマリズムは「モード」という新たな調整の概念を打ち出し、それがポピュラーミュージックの「コード譜」とも合体し、1990年末のクラブミュージックのムーブメントにも大きな影響を及ぼした。

元801、とロキシーミュージックのキーボーデイストだったブライアンイーノが上記の表で重要な位置を占めていることからも反アカデミズムの現代音楽がいかに現代の音楽シーンに大きな影響を及ぼしているかは明らかである。

即興的な演奏を否定し作曲家の作曲技法まである種の「方程式」、「メソード」以外を受け付けないーいわば生きた音楽文化のありかたを捨てたアカデミズムが支配した「クラシック音楽」の世界がクラシック音楽を芸術ではなくいわば芸能に近い存在にしてしまったことは大きな不幸といわざるを得ない。その意味で反アカデミズムの現代音楽の存在が20世紀後半の音楽文化の停滞を辛うじて防ぐことができたということができるかもしれない。

最近はクラシック系の演奏家でもそうした動きに対して異なる方向を模索している人たちがいる。そういう人たちがクラシック音楽のありかたそのものを変えるとまた少し面白いものになるかもしれない。

しかし残念ながらそれも80年―90年代までの話である。

最終回の次回は袋小路、音楽の歴史が実質的に止まってしまっている現状について述べる

 

 

8月 30, 2015 音楽コラム | | コメント (0)

2015年8月14日 (金)

間違いだらけの現代音楽史(3)ーポピュラーミュージックのアンサンブル形式の確立、即興性の復活と西洋音楽を死においやった即物主義的音楽アカデミズム

前回の「間違いだらけの現代音楽史(2)」にてポピュラーミュージックにおけるコード譜のシステムの確立で同時にそれは同じ「調整」ではあっても伝統的な西洋和声とは根本的に違うものであることを述べた。

それが現在のポピュラーミュージックの記譜法や作曲の根本をなすものであり、同時に西洋の伝統的な音楽形式がこの1930年ー1950年の時期に事実上の終焉を迎えたことを述べた。

その西洋音楽のその後の現代の音楽(何度も書きますがここでは「現代音楽」のことをいっているのではない)にどのような影響を及ぼしたかについてはこの記事の後に述べるとして、ここではコード譜の確立と同時にできあがったポピュラーミュージックの「アンサンブルの基本方式」についても述べることにする。

そもそも間違いだらけの現代音楽史(1) にて述べたガーシュインの時代はまだ現代のようなポピュラーミュージックのアンサンブルの基本形は確立されていなかった。ガーシュインの音楽が「シンフォニックジャズ」と呼ばれるのは、現在のようなジャズを始めとするアンサンブルの基本形を知っているガーシュインよりも後の時代の人間がそう呼んでいるためで、実際に現在のポピュラーミュージックのアンサンブルの基本形が確立したのはガーシュインの晩年時代の1930年代といわれる。

一般的にジャズでもロックでもその他のポップスでも基本となるのはご存じの通りベースドラムス(時にはパーカッション)による「リズムセクション」であり、それにギター(エレキ、アコ―ステイック)とボーカルが加わるのがバンドの形式の基本である。ピアノやオルガンといった鍵盤が使うことも多いが、バンドの形式に必ずしも絶対になければならないものではない。

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ベイビー・ドッズ(1898-1959)

そのバンド形式でポイント「リズムセクション」の中心であるドラムセットが現在のような形式になったのは1930年代で元々は19世紀末(1894年頃)のアメリカのマーチングバンドのために開発されたものをジャズドラマーのベイビー・ドッズが演奏中に左足を規則的に動かしていたのを見た観客が「せっかくならその動きを利用できないか」と考えた結果、左足で二枚のシンバルを叩き合わせるペダル付の楽器(現代のハイハットの原型)を開発、ニューオーリンズのデイクシーランド華やかなりし時に最高のドラマーとして名声をほしいままにしたといわれ、それが現在のドラムセットに発展していった。それがデイクシーランドバンドとなり現代のロックを含めたあらゆる「バンド」形式の原型となる(その後ドッズはシカゴに移転)

現在のようなコード譜のシステムとバンドアンサンブルの形式が定着した正確な年代ははっきりしないがだいたい1930年代にはそれがジャズを始めとするポピュラー音楽の中で定着していったと思われる。

コード譜は一般にベースの音を中心にコード(和音)が表示される

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だがこのような楽譜の形式は過去西洋音楽にも存在した

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そうバロック音楽における通奏低音(コンテイニュオ)である。通奏低音はベース音にチェンバロ等が和音を弾くが殆どの場合、チェンバロパートが書かれることはない。チェンバロはまさに現代でいうコードを演奏していたのである。両者はドラム等のリズムセクションがない点以外は殆ど同じといっていい。またチェンバロは鍵盤があるためピアノに近いというイメージがあるが、楽器の構造は寧ろギターに近い。弦を鍵盤とともに動く爪ではじいているからで、ギターのピックで演奏するのと同じである。

そしてバロックと現代のバンドでさらに共通する点は、共に即興性があるという点である。

上の楽譜の赤文字のA ↓を見てほしい。これはJ.S.Bachのブランデンブルク協奏曲第三番の部分だがベースのコード譜が書かれているだけであとは一切何も書かれていない。これは和音以外は何も演奏しないという意味ではない。 

通奏低音のチェンバロ奏者が自由に即興していい、という意味なのである。

ポピュラー音楽もだいたいラグタイムの末期からブルース、前述のデイクシーランドの勃興あたりから即興演奏が主流になり始め、前述のベイビー・ドッズなどは即興ドラマーとしても高い評価を得て行った。その後ジャズは即興演奏を中心に発展していきジャズ=即興といっても過言ではないほど不可分になっていく

このように昔のクラシック音楽には明確に即興を容認していたのである。私の知る限りはでは少なくとも19世紀までは作曲家は即興演奏を日常的に行っていたものと考える。

有名なリストの「ラ・カンパネルラ」はリスト自身が即興演奏したものを楽譜化したものだし、同時代の伝説のバイオリニスト、パガニーニなどは即興バイオリンの名手であった。

それが20世紀初頭の即物主義(Sachlich)という芸術運動をきっかけに、演奏家は楽譜に忠実に、一切の余計な解釈を入れてはならないという運動が起き、西洋音楽の中では実質的に即興演奏というものが否定されるようになった。それは勿論20世紀に入り作曲家の技法が複雑化した、という事情もあるのだが、私は結局この即物主義(Sachlich)こそが西洋音楽を実質的な死に追いやった元凶ではないか、と考える。

ストラビンスキーなどは「演奏家は作曲家の操り人形のごとく音を出せばいいのだ」といったそうだが、そのような極端な「楽譜絶対主義」というものが現在のクラシック音楽、音楽のアカデミズムに根強く残っているのも事実だ。

即物主義というのはヒンデミットを中心とした作曲家の芸術運動の1つに過ぎなかったのだがとりわけ音楽大学を中心としたアカデミズムを中心に定着した。元々即物主義はロマン派や表現主義の否定から始まり、主観的過ぎる表現に対するアンチテーゼとして出現したのだが、それが音楽のアカデミズムにおいて楽譜やその楽譜の解釈に関する主観を排した演奏という概念に変質し、結果的にクラシック音楽=再現芸術 という1つの図式が定着し、これが現代でも音楽アカデミズムの基本をなしている。即興演奏は「主観的過ぎる表現」として忌避され、その結果いまでもアカデミックな音楽教育を受けた演奏家の大半は即興演奏ができない、と現象もこうした即物主義(Sachlich)な方針を持つ音楽アカデミズムに起因している。

実はこの段階で西洋音楽というものは実質的に死を迎えたのである。形式を絶対化し形骸化が進んだ段階で芸術というものは死を迎えるそもそも再現芸術などという言葉自体が芸術形式の形骸化の象徴である。

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ポピュラーミュージックに対する批判、偏見を助長し、20世紀の音楽史からポピュラーミュージックに対する視点を音楽史家に排除させる原因を作ったテオドール・アドルノ(写真左1903-1969)はジャズ、ポピュラー音楽の即興演奏を「エセ個性尊重である」と批判し、きっちり『寸法を合わせた』即興という名の偽りの個性尊重を規格に則った技巧で表現できるジャズ演奏専門の語法が全面的に開発された」といっているが、そもそもアドルノがラジオ等で聴いている時代にはクラシックのアカデミズムでは即物主義的な音楽教育が完全に定着し、そもそも即興演奏自体を否定する社会になっているので、アドルノの主張する「即興演奏におけるクラシック音楽の優位性」などというものは全くのナンセンスである、(いわゆる「自分のことは棚にあげて」とはこういうことだ) それに何よりも1950年代からのモダンジャズに始まり、1960年代に始まるフリージャズをもしアドルノが聞いていればアドルノの主張内容は根本的にひっくりかえる。なぜなら両方ともあらかじめ「寸法を合わせた」即興など存在しないからである。

これから考えるとクラシック音楽における音楽アカデミズムに起因する形骸化がクラシック音楽に対する大衆の興味を萎えさせ、当時新たな表現の世界を模索していた、ジャズ、ブギウギ。そして1950年代のロカビリーを始めとする1960年以降のロック音楽のムーブメントが社会的に主役になっていったのは極めて自然の流れといわねばならない。クラシック音楽はアカデミズムの即物主義的教育が支配した時点で本当にクラシック=過去の音楽表現の域を出なくなってしまったのである。

ではクラシック音楽は現代のポピュラーミュージックに何ら影響を及ぼさず、隔絶した存在になってしまったのか、もはやカビの生えた死んだ文化になってしまったのかというと実はそうともいいきれない。何でも例外があるのである。

それには一旦19世紀に戻るが今年没後90年を迎えるある異端の作曲家の存在を揚げなければならない

もうおわかりだろう。その作曲家の名前はエリックサテイ

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エリックサテイ(1866-1925)

私自身も影響を受けたが単に現代のポピュラーミュージックの世界だけでなく、アート、演劇を始め19世紀末から20世紀初頭のありとあらゆる芸術に対して大きな影響をもたらした人物である。20世紀から現代における様々な新しい音楽には何らかの形でサテイの影響がある。

ということで次回はこのサテイを始めとする後のアバンギャルド、ダダイズムを始め、音楽のアカデミズムとは真逆の(=反アカデミズム)の音楽の流れが現代のポピュラーミュージックに対してどう影響していったかについて述べる

 

 

8月 14, 2015 音楽コラム | | コメント (0)

2015年8月 3日 (月)

間違いだらけの現代音楽史(2)ー1930-1950年代ーコード譜システムの確立と西洋音楽の伝統の事実上の終焉

前回の「間違いだらけの現代音楽史(1)」にて、1920年代にジャズの音楽語法を発展させ新たな音楽を作ろうとしたガーシュインと十二音技法のシェーンベルクを共に「1920年代の最先端の音楽」と評し両者を同等に扱った。

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従来の音楽史ではジャズを「大衆音楽」として西洋の伝統音楽とは完全に別物として扱い、ドイツの音楽評論家、哲学者のテオドール・アドルノ(1903-1969ー左写真)の強い影響下にある音楽史観によってジャズを始めポピュラーミュージックに対する批判的見解を広め、それがいまだに西洋、特にクラシック音楽の世界のポピュラーミュージック観の基本をなしている点を指摘、そういった音楽史観に対し私は異を唱え、それによって現代の音楽の歴史が全く誤った形で認識されている点を指摘した。

こうしたアドルノのポピュラーミュージックに対する偏見ともいっていいくらいの短絡的な見解、非常に狭い範囲での音楽の捉え方についてはまた別の機会で述べるとして、要はそのアドルノによるポピュラーミュージック史観によって西洋音楽の伝統主義者は調整を失い、新しい音楽に対する方向性を大きく見失った20世紀前半の音楽とは対照的に新たな音楽語法、音楽の体系が確立していっている点を全く多くの音楽史家は見逃してしまったのである。

実際1930年代以降、西洋の伝統音楽とジャズそしてそれをベースに発展していったポピュラー大衆音楽は全く対照的な歩みをすることになる。

シェーンベルクが十二音技法による音楽語法を中心に「新ウイーン楽派」がそれを発展していく一方でストラビンスキーが次々と作風を変える「カメレオン状態」が始まりヒンデミットの新即物主義から古典主義とバラバラの展開を始めることになる、この傾向は第二次大戦の1960年代まで続く。わずかにベーラ・バルトークが東ヨーロッパやトルコ等の民族音楽から新たな音楽語法で後世に影響を与えたものを作った点が指摘される(後述するがバルトークは明らかにジャズの語法も研究していた)

だが実質的に西洋の古典音楽の伝統はこの時期に衰退し、バルトークヒンデミットを古典主義のカテゴリーに入れることに抵抗を示す人もいるだろうが、この両者が西洋の古典音楽に最後の花を咲かせたといってもいいだろう。

一方ジャズは1930年代に音楽語法の基本が確立し、ガーシュインからデユークエリントンに音楽の発展がバトンタッチされ現代のポピュラー音楽の体系が出来上がり始める

その体系とはコード譜のシステムである。

西洋音楽の研究家はコード譜は「調整」の一環であり、音楽の語法発展なしに過去の西洋音楽メソードを模倣したに過ぎない、などという見解を持っている人が多い。だがそれはポピュラーミュージック中身を全く表面的な理解しかしていない見解である

確かにコード譜は「調整」ではある。但し西洋音楽の「調整」とは根本的に異なる。

それは西洋音楽の「調整」基本コンセプトである「和声」とコード譜は成り立ちもコンセプトも全く異なるということを抑えて行かねばならない

どう異なるか。まず下の図 西洋和声の基礎の和音進行である

 

Choral1

いわゆる主音(トニック)属音(ドミナント)下属音(サブドミナント)で我々ポピュラーの人間はスリーコードと呼んでいるものである。和声では確かに基礎をなすものである。

これが対位法、カノンをとりいれると以下のようになるが

Choral2

これが元で偶成和音、借用和音などという和声用語が必要になるがしかし和声の基本は変わらない。

いずれもソプラノ、アルト、テノール、バスによる4声のコラール(合唱)をベースに西洋の和声というのはできあがっている。

一方「コード譜」は4声のコラールではなく元々はギターのフレットのタブラチュア ー(Tablature, Tabulature) が起源になっている。これはギターの奏法を指や数字で示したもので起源は意外に古く14-15世紀のルネッサンス時期にさかのぼる

Tab1

Tabmono

初めはリュートの楽譜として使われたが、次第にギターにも一般的に使われるようになり、自然にギターの鳴らす和音(コード)を表示するようになる。

西洋コラールの和声とギターをベースとしたコードには同じ「和音」でも根本的に異なる点がある。それは西洋和声はソプラノ、アルト、テノール、バス各声部の横の動きを重視することで最終的に和音の響きを作り上げる。そのために各声の間の相関関係には厳しい規制が設けられ、かくして2つの声部が同じ方向に5度や8度で動く(並行5度、並行8度)等は和声の禁則として厳しい規制がもうけられる。

一方「コード譜」はリュートやギターのフレットを中心に発展してきているので寧ろ自然に並行5度や8度が当たり前のように出てくる。これは指をフレット上で自然に滑らせば自然にそういう和音進行になっていく。つまり縦の動きを重視するのである

また「コード譜」は西洋和声ではありえないコード進行もつくりあげていった。西洋和声では通常は属音(ドミナント)→下属音(サブドミナント)に移る和音進行というのは決してありえないが、いわゆる「ブルースコード」では属音(ドミナント)下属音(サブドミナント)を含んだ12小節単位のコード進行が使われる。これはブルースだけでなくロックを始めあらゆるポピュラーミュージックに取り入れられている

これらを見ても西洋和声とコード譜は同じ「調整」ではあっても根本的に違うものであることがおわかりいただけるだろうか?

さて、改めて前回の記事「違いだらけの現代音楽史(1)」で提示した図を改めて見ていただきたい

History_music

筆者注:今更だが上記図において不覚にも「デユークエリントン」の名前を記入するのを忘れてしまった、後悔先に立たず、である(汗)

ギターはクラシック音楽でも使用はされたもののやはり上の図のジャズ、ブルース、ブギウギといった音楽で頻繁に使用されるようになった。ジャズもこの後ビバップ、モダンジャズそしてその後フリージャズ等さまざまな形に変貌していったし、ブルースはソウルから現代のR&B(リズム・エンド・ブルース)に発展していく。

このように西洋古典音楽がどんどん衰退していく中、ポピュラーミュージックの方は「コード譜」のシステムを中心にどんどん発展していった。こういう言い方をすると激昂するクラシック系の音楽史家もいるだろうが20世紀は西洋音楽の伝統が事実上終焉し、それに変わりポピュラーミュージックが20世紀の音楽の主役に取って代わったというのが真実に近いだろう。

西洋音楽の伝統とポピュラーミュージックの違いは他にもある。現在最も最たるものは即興性であろうが、それは別の項で述べる。

はっきりいえるのは現在プロでポピュラーミュージックの世界で仕事をしようと思えば即興できることがほぼ必須といっていい。現在仮にステージやレコーデイングでもらう「コード譜」の殆どは以下のような感じである

Chord

私は一時的に「現代音楽」とかいう音楽に関わったのでわかるが1950年代以降の西洋音楽ーいわゆる「現代音楽」と呼ばれるものはさまざまな表現語法が多くの作曲家によって試行錯誤が行われたがどれも新たな表現語法としては定着することはなかった。それどころか西洋音楽の作曲技法(エクリチュール)の複雑さのみを競い、だんだんミニコミューン化していった、こうした流れの現代音楽を私は「アカデミズムの現代音楽」と呼んでいる。例の佐村河内騒動で注目された新垣氏などはこのカテゴリーの中に入れることができる。これについても別項で述べることにする

 

 

 

8月 3, 2015 音楽コラム | | コメント (0)

2015年7月12日 (日)

間違いだらけの現代音楽史(1)ー1920年代は十二音技法もジャズも「最先端の音楽」だった

興味のない人にはどうでもいいかもしれないが、7月11日はジョージガーシュインの命日でもある。そのガーシュインは「ジャズとクラシックを融合させた作曲家」という評価を一般的に音楽史家によって下されているが、実は私はずーっとそれに違和感を持っていた。

理由はそもそもジャズという音楽はガ―シュインの人生とともに発展し市民権を得た音楽であり、ガーシュインが作曲家としてスタートしていた時期はまだジャズの黎明期ですらなかったからである。この点を理解しているクラシック系の音楽史家はどのくらいいるのであろうか? 少なくともガーシュインの初期のヒット曲「スワニー」「アイゴットリズム」の時はまだジャズの前身であるラグタイムの影響をはっきり見ることができ、ちょうどラグタイムが大衆によって飽きられ始め、ニューオーリアンスにてデイクシーランドをきっかけに新たな音楽へのムーブメントが産声を揚げはじめた頃ということはおさえていかねばならない。

20世紀の新たな音楽の動きについては殆どの音楽史研究家はドビュッシーやラベルの印象主義に始まり、シェーンベルクを始めとする十二音技法をきっかけとした、新ウイーン楽派による無調主義が20世紀に勃興し、これはいまだに現在に至るまで今日のヨーロッパの伝統的エクリチュールを用いた現代音楽(後述の「アカデミズムの流れの現代音楽)の主流の音楽語法となっている。

一方で同時代より発展してきた現代のポピュラーミュージックに対して強い影響を及ぼしている、ジャズやブルースといった音楽の流れはヨーロッパの音楽史研究家によってほぼ完全に無視されてきた、といっていい。彼らはポピュラーミュージックに対し、「大衆音楽」などという軽蔑的ニュアンスを持った言葉で語り、一部の音楽史研究家を除いて音楽史の流れの中でそれらの音楽をまともに扱うことはほぼなかったといっていい。

だがいまどき十二音技法が現代の私たちの聴く音楽(「現代音楽」ではない)に大きな影響を及ぼしたなどと感じている人などまともな感覚の人間なら殆どいないであろう。一方でジャズ、ブルース等で使われている「コード」の概念は完全に現在のポピュラーミュージックを制作する上で欠かせない概念である。ロックは勿論のこと、最近のクラブミュージックやノイズ音響系にいたるまで、ラグタイム→ジャズ→ブギウギ→ロックといった音楽の影響と無縁でいられる音楽など殆ど存在しないといっていい。

つまりどちらの音楽がより後世に大きく影響を与えたのは火をみるよりも明らかなのに、いまだにポピュラーミュージックを含めた形で音楽史をきちんと語るということが殆ど行われていないというのは驚くべきことだ。既に21世紀初頭も過ぎた現代でも私たちは20世紀の音楽を非常に偏った目で語るー当然学校の授業ですらそうであるーことが大手を振ってまかり通っているというのは不幸としかいいようがない。

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これというのも西洋の音楽史の基本的な視点が今世紀の初めのドイツの音楽評論家、哲学者のテオドール・アドルノ(1903-1969ー左写真)の強い影響下にあるためと考えられる。アドルノは彼と同時代のジャズを始めポピュラーミュージックに対する批判的見解を広め、それがいまだに西洋、特にクラシック音楽の世界のポピュラーミュージックに対する偏見や一面的理解を助長しているといわざるを得ない部分がある。一方で同時に後述する「アカデミズムの流れの現代音楽や西洋の伝統的音楽史観の限界点を見ることもできる。

これからの私の記述はどうしてもアドルノのポピュラーミュージック史観に対して批判的にならざるを得ない面はある。しかし一方で昨今のJ-popを始めとする現状にはアドルノの指摘が当たっている面も確かにあるのでそれは何回かあとのこのシリーズの記事でその点について書くことにする

夏休みシーズンにも入ったのでこの私の考える20世紀音楽史観について何回かに分けてこの点を論じようと思う。私は別にクラシック関係者ではないし、いわんや音楽大学のアカデミズムとは全く無縁なところで生活しているため、別に世の中の音楽史研究家から総スカンを食らったり非難されても正直痛くもかゆくもない。だが一応クラシックや現代音楽に対しては(特に「現代音楽」は一時やっていた時期があるので)一定の見識を持ち、同時にポピュラーミュージックの世界に身を置き、それらの音楽の流れについて一定の知識も持っている人間からすればどうしてもこの点を声を大にして言いたいのである。

20世紀の現代音楽史は間違いだらけ  と

尚、ここでいう音楽史というのは音楽の歴史の上での評価方法についてである。

まず最初のこの記述をみただけで既に多くの西洋音楽の音楽史研究家は卒倒するはずだ。

それは 

シェーンベルクもガ―シュインも1920年代の音楽の前衛(アバンギャルド)だった

いう点

まず下の図を見てほしい。

20世紀初頭から中頃(1950年代)までの西洋音楽の動きとポピュラーミュージックの動きを示したものである。ロックの黎明期は厳密には1940年代末に息吹き始めるのだがこの表では割愛する。

History_music
シェーンベルクはガーシュインより四半世紀前に生まれているが、77歳と当時としても長命な人生ではあった。一方ガーシュインは僅か39歳で夭折したが、活躍していた時代は全部ではないが重なっている。

上の図でJAZZ(赤線)とシェーンベルクを始めとする新ウイーン楽派(黒線)見ていただくとおわかりだろうと思うがほぼ同時代にそれぞれのムーブメントが起きていることがわかるであろう。

シェーンベルクは無調、十二音技法を使った音楽語法で新たな表現の可能性を追求したのに対し、ガーシュインは当時大きな音楽ムーブメントになりつつあったジャズを通して新たな表現の可能性を追求した。要は「音楽の可能性」の追求のベクトルが違っていただけで当時勃興しつつあった新たな音楽による表現の可能性をともに追求していたのである。ちなみにシェーンベルクもガーシュインも一見音楽の共通点は見えないが、お互いかなり親交を結び認め合っていたことは事実のようである。実際ガーシュインは十二音技法に強い関心をよせていたという記録が残っている。

さて、結果的に後世の音楽にどれだけ影響を残したかどうかはさておき、十二音技法が1920年代当時は「今までにない音楽語法」であったことには異論の余地はない。

だがジャズに関しては先ほどのテオドールアドルノが激しく批判している。

ポピュラー音楽の特徴は『構造的な規格化」である。この「規格化」は「様々な反応をも規格に収まるよう方向づける。ポピュラー音楽に耳を傾けるという行為は、……自由で寛容な社会に生きる個人という理想とはまったく相容れないような、機械的な反応のメカニズムの中にからめとられることになる」

ポピュラー音楽の姿勢は「エセ個性尊重である」 その最も極端な例が「(ジャズの)即興演奏である。……今やそれはきっちり『寸法を合わせた』即興という名の偽りの個性尊重を規格に則った技巧で表現できるジャズ演奏専門の語法が全面的に開発されたといっていい

アドルノのいう『構造的な規格化」というのはメロデイ―がキャッチ―であったりというだけでなく一番、二番とソロとかAメロ、Bメロ、サビといった点を例えば西洋音楽のソナタ形式の第一主題(テーゼ)、第二主題(アンチテーゼ)と対照的なテーマを提示部、展開部、再現部という風に展開するヨーロッパ古典主義音楽との対比の観点から云っているようだが、一方で西洋音楽の歌曲も一番、二番、Aメロ、サビのような部分は存在するわけで、これを見る限りアドルノは西洋の古典派音楽形式以外は音楽ではない、といわんばかりである。それをいうのならイタリアオペラのアリアとか一体どうなるのだ?

自由で寛容な社会に生きる個人という理想とはまったく相容れないような、機械的な反応のメカニズムの中にからめとられることになる

もはやヨーロッパの古典主義形式の音楽など何の意味もなさない現代人からすれば寧ろ古典派音楽の形式の方がはっきりいって自由で寛容な社会に生きる個人という理想とはまったく相容れない」形式であることは言うまでもない。

ちなみに先日私はピアノのための「ロックンロールソナタ」なる曲を書いた。曲自体は全くクラシックには聞こえず、たぶん大多数のクラシック演奏家はこの曲を演奏できまい。しかし音楽の形式をよく見てもらうとわかるが、アドルノの大好きな「西洋の古典音楽」形式になっている。そう「ソナタ」という以上本当にソナタ形式になっている。アドルノはこれを聴いたとしたらどういう反応を示すだろうか(笑)

アドルノのもう1つの即興演奏(ソロ)は「エセ個性尊重である」 論に至ってははっきりいってお笑い草だ。そもそも既に20世紀初頭に「即興演奏」そのものを否定した音楽演奏の即物主義(Sachlich)がクラシックの演奏で1930年代には完全に主流になっていることをアドルノは知らないのだろうか。知らなかったら無知の極みだし、知っててジャズの即興音楽に対しあれだけケチをつけるとしたら、そこには悪意すら感じてしまう。この演奏の即物主義(Sachlich)はいまだにクラシック音楽教育の基本姿勢になっており、実際この教育を受けた音大出身者の大半は即興演奏そのものができない。

大部分の人間が8小節、16小節のコード譜のみでソロすら満足に弾けないクラシックの人間がジャズの即興演奏を『寸法を合わせた』即興という名の偽りの個性などと決めつけることが滑稽極まりない言動である、ということに音大系の音楽史家はなぜ気づかないのだろうか? 私は不思議でならない

ちなみに私はフリージャズをやっていたのでいうがフリージャズなどは「決められた小節数」での即興である方が寧ろ少ない。ある程度ジャムセッションに慣れている人間なら他のプレーヤーとのアイコンタクトで「そろそろソロを終える」ことを伝えることが多い、本物の即興ジャズとなると演奏している演奏家ですら、どのくらいの演奏時間になるのか予想もつかないのが事実である。

アドルノの論法を見ていて思うのはおそらくラジオを通して聴いたジャズの「ヒット曲」しか聴いておらず実際のジャズのライブとか、ジャズやポピュラー音楽のアナリ-ゼなどは100%していない、と断言できる。それをしていればあんな狭い一面的な音楽解釈になるはずがないからだ。それどころかウイーン古典派の音楽は詳しいかもしれないが、たぶんそれ以外のロマン派の表題音楽、イタリアオペラ、といった「他のクラシック」も私はあまり聴いているようには思えない。はっきりいって音楽評論家にしても聴いている音楽はある特定の音楽に偏っており、視野も狭い一面的な音楽の理解しかできていない。このような人間の見解がなぜかくも尊重されるのか私は不思議である。

偏見とは無知から生まれる。アドルノのポピュラーミュージック批判論を見るとそういった典型的な無知による偏見のパターンであるといわざるを得ない。しかしそういうポピュラーミュージック批判論がクラシック音楽の音楽史観の主流になってきた、というのは不幸としかいいようがない。

さて、先程ガーシュインがジャズという語法で新しい音楽を追求したと述べた。音楽史家は十二音技法は調整を破壊することで既存の音楽を破壊したが、ジャズは調整は維持したままで表現語法を発展させていない、などという人もいるが、その人はジャズコードというものをどれだけ知っていて云っているのか疑問だ。

そもそもジャズコードは確かに基本となるキー(調)があるが西洋音楽の伝統的なT(トニック) (ドミナント) S(サブドミナント)(注:いわゆるこれが3コードというものである)なんていう決まりなどハナから無視しているし、基調となるキーも曖昧であることはよくある。専門的になるので詳細は触れないが、基本的にはジャズのコード進行は和声学でいう「借用和音」「偶成和音」の連続であり、またそれらの和音は西洋の和声学のように必ず「解決」するとは限らない、いや解決しないことの方が寧ろ多い。その意味でジャズコードも伝統的なヨーロッパの和声を破壊しているのである。

ちなみにチャーリーパーカーからジャズの「調整感」が崩れ始め、ジョンコルトレーンに至っては完全に無調、十二音の影響を思わせるものすらある。たぶんガーシュインが長生きしていたらコルトレーンのようなことをやっていたのではないか、とも思うのである。

いずれにせよ十二音もジャズもほぼ同時代に新たな表現語法として発展していった。そのためガーシュインの77回目の命日に合わせて彼の評価を次のように修正したい

ガーシュインはジャズとクラシックの融合を図った

         

ガーシュインはジャズという語法で新たな音楽を模索した

次回はこの新たな音楽語法とシェーンベルク以降の音楽への影響、そしてジャズ音楽のさまざまな語法の変化について述べる

 

 

 

7月 12, 2015 音楽コラム | | コメント (0)

2013年8月19日 (月)

大胆仮説!! ドヴォルザークの「ユーモレスク」に見るラグタイムの影響

今日は事実上「お盆明け」になるんでしょうか。まだ夏休みモードの方もいらっしゃると思いますので少し音楽談義をここで行いましょう。

クラシックにそれほど詳しくない人でも「交響曲ー新世界から」を作曲したボヘミア(現チェコ共和国)の作曲家のアントニン・ドボルザーク(写真)という作曲家の名前を聞いたことがある人は多いのではないかと思います。

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アントニン・ドボルザーク1841-1904

 

そのドボルザークは1891年から1895年の間にアメリカ ニューヨークのニューヨークナショナル音楽院の音楽院院長に就任し、その経験からドボルザークの代表作と呼ばれる交響曲9番「新世界より」を始め弦楽四重奏曲「アメリカ」そしてチェロ協奏曲が作曲されました。アメリカの音楽院教授を務めるかたわら、ネイテイブアメリカンアフリカ系アメリカ人の音楽に興味を持ち、上記の3作品はその強い影響を反映して作られたもの、といわれております。

またドボルザークは1893年の「ヘラルドトリビューン」にて『黒人の旋律の真の価値』(The Real Value of Negro Melodies.)という論文を発表し、合わせて『アメリカの音楽』(American music)という論文も発表し、アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの音楽の豊かさを啓発しました。

実はこの論文をネットで探したのですが、原文を探すことができずおそらくは国会図書館にいっても見つかるかどうか、という状態ですので具体的にどのようなことが書かれていたのかわかりません。もしご存じの方がいらっしゃれば是非教えていただきたいのですが、1つだけわかるのはドボルザークの両方の論文、ならびにアメリカ帰国後の一連の作品についてかなりさまざまな誤解や誤った認識が広まっている点を感じます。
例えば弦楽四重奏曲「アメリカ」二楽章Negro Spiritual(黒人霊歌)のメロデイを借用した、などという議論がまことしやかに論じられていますがこれは明らかに誤りです。また交響曲9番「新世界より」のあの有名な第二楽章がネイティブ・アメリカンのメロデイというのもドボルザーク本人が否定しているように、実際にはドボルザークの完全なオリジナル曲です。上記の3作品はアメリカの音楽にかなり触発された面はあるにせよ、メロデイを始め曲全体はボヘミア調であり、ドボルザークの代表的なオリジナル作品といっていいと思います。

そもそもドボルザークアフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの音楽論に関して多くのクラシック系の音楽学者や評論家はこれらの音楽に関して無知をさらけ出しているように思います。例えば弦楽四重奏曲「アメリカ」二楽章Negro Spiritual(黒人霊歌)論ですが、このメロデイは五音音階(ペンタトニック)になっていますが、実はNegro Spiritual(黒人霊歌)の音楽には五音音階はありません。五音音階が多いのはネイティブ・アメリカンの音楽の方で、アフリカ系アメリカ人の音楽はヨーロッパの音楽とアフリカの音楽やメロデイを融合したものが多く、ネイティブ・アメリカンの音楽とは全く異質なものです。

実はアフリカ系アメリカ人の音楽に最初に興味を持ち始め作品に取り入れたのはアメリカの歌曲作家のフォスター(Steven Foster1826-1864)ですが、かれはあくまでアイルランド移民の観点からNegro Spiritual(黒人霊歌)の音楽を取り入れました。しかし必ずしも系統だってアフリカ系アメリカ人の音楽を取り入れているといえない面もあり、その扱い方には議論が分かれるところです。ちなみにフォスターの音楽の流れは後のアメリカの「カントリーミュージック」の原形につながるもので、そのためフォスターをアメリカ音楽の父という人もいます。しかしながら彼の作品はヨーロッパでは全く無視されていました。

アフリカ系アメリカ人やネイティブ・アメリカンの音楽についてヨーロッパで一定の関心がもたれるようになったのは既に作曲家としての地位を確立していたドボルザークの論文だからこそ一定の関心を呼んだのですが、それに対する解釈は両者の音楽に対する音楽学者や評論家の無理解からかなりとんちんかんなものになっています。(特に両者をかなり混同した議論が目立ちます)

実際のアフリカ系アメリカ人の音楽は先ほども書きましたようにヨーロッパの音楽とアフリカの音楽やメロデイを融合したもので、実際には合唱曲や歌曲のような形が多く、これがのちのゴスペルに発達し現在のソウル、R&Bになります。

Scottjoplin

 

一方インストルメンタルも当然存在し、こちらもヨーロッパの音楽とアフリカの音楽を融合した新しい音楽が生まれます。19世紀末から発達し始めたのはラグタイムというスタイルの音楽です。代表的な作曲家としてアメリカの作曲家スコットジョっプリン(写真)という作曲家がいます。

 

スコットジョっプリン(1867-1917

実はドボルザークの作品でラグタイムの影響があると思われる作品があります。その作品はこれもドボルザークの代表作と呼ばれる作品「ユーモレスク」にあります。なぜか不思議なくらい誰もこのことについて論じないのですが

まずはドボルザークの代表作「ユーモレスク」 クラシックに詳しくない人でも聴いたことがあるんではないでしょうか?

 

次にこの「ユーモレスク」 のエンデイング部分をお聴きください。かなり特徴的なエンデイングです。

 

 

 

これは我々ポピュラー肌で仕事している人間ならこのコード進行を聞いてすぐにピンときますが、メジャーコードの中に同属のマイナーコートを挟ませて最後にまたメジャーコードで終わる。という終わり方、これはブルースコードの進行そのものです。

 

ご参考までに上記スコットジョップリンの代表作「メイプルリーフラグ」の一節をお聴きください。非常によく似ていることがわかると思います。

 

このブルースコードを音楽芸術作品に取り入れたのがアメリカを代表する作曲家のジョージガーシュイン、このプレーズも皆さん聴いたことがあるはずです。

 

はい、「のだめカンタビーレ」に使われていた曲ですね。ブルースといわれるフレーズはここの部分のことをいいます。

勿論ドボルザークラグタイムを聴いたという決定的証拠はありません。しかし実はドボルザークは大の鉄道好きで知られ、休日は蒸気機関車でアメリカ中を旅をしたという記録が残っています。19世紀末はラグタイムの絶頂期でもあり、アメリカのタバーン(居酒屋)では必ずといっていいほどラグタイムが鳴っていました。旅先で夜居酒屋で一杯、なんてことを当然ドボルザークはやっていたと想像がつきますので、ドボルザークが実際にラグタイムの音楽を聴いたとしても別に不思議ではありません。

実際に聴いたとすれば興味深々でラグタイムにふれたのは想像にかたくありませんので、その時に経験が代表作「ユーモレスク」 に反映された、と考えるのは不自然でしょうか?

ドボルザークは都合4年間アメリカの音楽院で教鞭をとりましたが、残念ながらその時の学生から特記するような作曲家は生まれませんでした。

しかしドボルザークの作品を聴いて作曲家になろうと決意した青年がいました。その青年の名前はジョージガーシュイン

奇しくもガーシュインが単なるポップミュージックの作曲家だけではなく、芸術音楽の世界を志そうと思ったのはドボルザーク「ユーモレスク」を聴いてからでした。やはりドボルザークの感じ取ったアフリカ系アメリカ人の音楽の可能性を追求し、その精神を継承したのがガーシュインだったといえるのではないでしょうか?

現代のポップミュージックでアフリカ系アメリカ人の音楽の影響を受けていないものはありません。その意味ではドボルザークの先見の明は多くの音楽作品の傑作とならび評価していいのではないでしょうか?

 

 

 

8月 19, 2013 音楽コラム | | コメント (0)

2011年4月28日 (木)

J-pop滅亡宣言

震災とかいろいろありましたが、とにもかくにもGWが来ました。

まあ私のこのブログはいわゆる音楽業界の表通りを歩いている業界人、業界人で残り少ない甘い汁を吸っている人たちからは極めて評判の悪いブログになってますが(笑) 今日は連休前というわけではないですがまたかなり過激で刺激的なタイトルにしました。

まあ私は日本の音楽業界の万年野党みたいなものかもしれませんが..まあそれはさておいて... 今日は日本の音楽界を再生するためにはかなり過激なことを考えないともはや駄目だという結論に至りました。例によってまたかなりの長文なので興味ある人だけ後半を読んでください。

まあ私はもう6年くらい業界の将来を憂い、さまざまなことを書いてきましたがもうはっきりいって絶望感しか日本の音楽業界に対して持っていません。

先週のオリコンチャートもチャン・グンソクがオリコントップを飾っているのを見てももう既に日本の音楽界はもはや事実上韓国や台湾のアーチストに完全に負けています。そして以前も話しましたが昨年の年間オリコンチャートはAKBが独占という誰が考えても異常事態。

そして1998年を皮切りに12年連続の右肩下がりの業界、一向に止まらない業界リストラや再編成の嵐。こうした状況にも関わらず、危機感のかけらも持っていないレコード会社やプロダクションの関係者たち。

私はもうだいぶ前からこういう人たちに何かいうのも疲れてしまいました。だって云っても無駄だもの。

こうして考えるうちにJ-popの現場がどうなっているかを改めて考えると3つのことに最近気がつきました。

1.低レベル化した制作現場

最近音楽業界がここまでひどくなったのは業界の元々あった体質も確かにあります。しかし結局はプロデユースするコンテンツのクオリテイも業界衰退の大きな原因ではないか、と
感じるようになりました。例えば記憶に新しいこのブログで一時凄まじいアクセスがありましたが、Ka-tunの盗作騒動

https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2010/12/kat-tun-3543.html

ど素人の曲を盗作しても気づかない、なんとも思わない制作体制、

デイレクター連中は曲をそんなに聴いていないし、どの曲が一番いいか、きちんとした判断する能力もない、というのがばれてしまった。私がコンペに参加するのをやめたのはコンペに提出しても果たしてきちんと聴かれているのだろうか、きちんとしたコンセプトを持って採用しているのか甚だ疑問だったわけです。今回の事態はその制作体勢のお粗末さをまさに露呈しました。

(尚、掲示板等で誤解している人がいるようですが、あの
記事はKa-tunを責めているのではなく、制作スタッフを責めているのです
Ka-tunは寧ろこの件では被害者といっていいです。)

こんなプロとして恥ずかしいことが起きる、ということ自体ちょっと前では考えられませんでした。

2.頭でっかち理論で「音楽」をしなくなった作曲家たち

そしてもう1つ、最近特にJ-pop作曲現場の最近の考え方で妙な考えがあたかも正論であるかのように広まっています。

それは「現代ではもはやルーツの音楽の存在など無意味な存在になっている」という考え方。これはいわゆる主に>東浩紀氏の「動物化するポストモダン」の理論から「すべての文化が「データベース」に解体される。データベース同士も価値中立的なものと考えられます、そのためもはやルーツの音楽なんてものはもはな何の意味もなさない」という考え方です。

実はこの「データベース」を元に主に90年代中頃からいわゆる「ヒット曲」の殆どは作られていたことをご存じでしょうか? これあるスタイルの音楽ーR&B ならR&B  ユーロビートならユーロビート
のサウンドがミリオンセラーになったら、その音楽のサウンド、歌詞等を徹底的に分析し「何が受けたのか」という点を「マーケテイング」の観点から徹底的に分析し、同様な傾向で少し趣向が違う音楽を作る、というメソードを行なうことです。つまり音楽というものをマーケットの観点からスタテイックに、冷酷なほど分析し、「データベース化」し、その「データベース」のコンビネーションをどう作るか、というコンセプトメーキングを行ないます。これはサウンド、アレンジは勿論ですがJ-popの場合特に歌詞に重点がおかれます。こういうメソードで音楽を作ることを「売れセン」の音楽を作るといい、音楽は作品ではなく「製品」として作られます(あえて創られますという漢字は使いません。使いたくもないです)

その結果、どういうことが起きたか? といいますとJ-pop好きな子はExileが本物のR&Bだと思い込んでいる人がかなりいます。つまりどういうことかというとJ-popの「R&B風のデータベース」で作られた音楽を聴いたからそれによって自分がR&Bの全てを理解している、と錯覚してしまい「ニセモノ」を本物と思いこまされている現象がおきているのです。例えば音楽でブルースは12小節で構成されているという基本中の基本を知らないし知る必要もない、基本中の基本を知らなくても「データベース」は全て相対化、しているからそんなことを知らなくても自分はR&Bの全てをわかっているなどという大勘違いが当たり前のように行なわれています。これは私が以前警鐘を鳴らした現代の情報社会の「わかったつもり症候群」にも通じているのですが残念ながら最近の若者にこういう人間が少なくないんですね。

つまり「体や心」で音楽をやっているのではなく(それも思いっきり頭でっかちの)」で音楽をやっている、これを突き詰めるとどうなるか、おそらくこの音楽手法のデータベースの組み合わせでできる可能性があるのは例えて云えば「ノリのないロック」「即興のないジャズ」風のポップスだったりする可能性が高いといえます。

これははっきりいって食べ物でいえば、食品添加物の塊のような食品を「本物の料理だ」といって出しているようなものです。日本人の大多数はそういった音楽に耳を毒されている傾向がはっきりいって強いと思います。

私はそんな音楽は聴きたくないし、作りたくもない。しかし皆さんのよく知っているいわゆるJ-popと呼ばれる曲のまあ全部とはいいませんが、まあ7-8割はこういう作られかたをしているといっても過言ではありません。

私は最近の視聴者はそろそろそれに気づき始めたのではないか、と感じています。そりゃどんなに味オンチな人でも食品添加物の塊のような食品を食べ続けたらげんなりするはずだし体にも悪い。それが最近のオリコンチャートにも反映されているように思います。

はっきりいいます。こんな音楽はそもそも文化なんて呼ぶのもおこがましい。単なる消耗品以外の何ものでもないと思います。それがJ-popというものの本質であり実態です。残念ながら..

いわゆるポストモダン論ばかり読んでいるとものごとの表面的な部分にばかり目がいって本質をあまり見ていないことが多いと思います。つまり私は音楽業界を立て直そうとするならまずJ-popそのものを否定、破壊するしかない、という結論にいたりました。「音楽のポストモダン」とかシュミラークルとか頭でっかちな音楽議論はもうたくさん。音楽の原点に立ち返り何が人の心を動かす音楽かをもう一度追及すべきだと思います。

平たくいえば、プロのミュージシャンたち全員に言いたいのは。

ちゃんとした音楽をやろうよ。きちんと地に足のついた音楽を

ということです。そのためには既存のJ-pop的な音楽の作り方を完全に否定するしかない、というのが私の結論です。

3.日本人は音楽が好きなのではない、音楽をめぐる「シチュエーション」が好きなだけ。

さて、視聴者のことをネガテイブに書くのはいかがなものか、という意見もあると思いますが、しかし残念ながら事実は事実として書かなければなりません。

実は元々J-popというのは一般庶民にとって単なるコミュニケーションツールに過ぎませんでした。勿論純粋にアーチストを支持した音楽ファンもいるにはいましたが、音楽業界はそうではない人たちをJ-popのメインの購買層にしました。理由は簡単でその方が人数的に圧倒的に多いからです。

従って1990年代中頃までは昔売れていたCD、音楽とはドラマやCMのタイアップ曲だったりカラオケで歌いやすい曲だったりしました(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットしたのです)。特にいわゆるトレンデイドラマ全盛の時は若者であれば「誰もが見るもの」であり、そのため「みんなが聞いているから」というのがCDや音楽を買う理由となっていました。つまり元々日本人の大多数にとって音楽はそのための単なる道具に過ぎなかったのです。音楽はコミュニケーションのネタであり、職場や学校の中での関係性を築くための道具であり「孤立しないための」道具に過ぎませんでした。

つまりここで見えてくるのは音楽を文化として享受するのではなく、音楽の周囲にあるシチュエーション(ドラマのタイアップ、カラオケetc etc) を享受するためのものに過ぎませんでした。もっと平たくいえば音楽を楽しんでいるのではなくシチュエーションを楽しんできたのです。はっきりいってこういう音楽の楽しみ方しか知らない人は本当の意味で音楽が好きなのではありません。

しかしこれは日本独特の文化の事情があるためです。つまり実はそもそも日本には最初から音楽文化といえるものはないのです。そんなものは明治の始めに殆ど捨ててしまいました。

というのもアメリカやヨーロッパの音楽も表面的にはカントリーやR&Bの語法がさまざまな形で混ざり合っているように見えます。しかしそのルーツ部分は健在です。それはグラミーの映像を見たってわかります。アメリカの白人にはカントリー黒人にはR&Bソウルというルーツがファンダメンタルとしてきちんと存在しており、また機能しています。

私は日本にはそうした「ルーツの音楽文化」がそもそもないため(強いていえば演歌)、「ルーツの音楽」というものがそもそもリアリテイとして感じないールーツの音楽といっても実感がわかないーという極めて不幸な状況下に日本はあります。従って先ほどの「ポストモダン論→売れセン」などという考え方の方が多くの業界人を始め視聴者の間ですら「リアリテイを感じるように見えてしまっている」のではないか、と考えます。

勿論心から音楽を愛する人もいるにはいます。しかし残念ながら社会の少数派といわざるを得ません。圧倒的多数は音楽を「好きなつもり」になっているだけで実は心底音楽文化を愛しているわけでは残念ながらありません。繰り返しますが単に音楽をめぐる「シチュエーション」が好きになっているだけです。

本来なら70年代フォークや昔の歌謡曲あたりがそのルーツ、ファンダメンタルを担わなきゃいけないと思いますが残念ながらそこまでなりきれていない、これは日本の音楽産業がそうなるのを阻んだといってもいいかもしれません。

以上の3つの部分を見るにつけわたしはもうJ-popなる音楽は寧ろ滅亡した方が音楽文化のためであるという「J-pop滅亡宣言」をここで行ないます。なぜならもうこんな音楽には未来がないからです。

しかし新しいものは必ず生まれます。否定だけでは何も生まれませんが、次のステップに行くにはまず「否定」と「破壊」から始まります。織田信長が近世のあらゆるものを破壊したように..

そして音楽業界には絶望していますが、まだ日本人には絶望していません。

なぜならやはりいいものはいい、ときちんと理解し評価してくれる人たちはいるからです先日ドラマですがJin 仁が日本でも高視聴率を記録し海外80カ国放送が決定しているという例もあるように

いいコンテンツであればそれが適正な方法で広まれば必ずいい評価はしてくれる、ということができます。

先ほどの3つの理由の3は、ちょっとどうしようもないですが、1と2なら我々で改善できると考えます。

どうせ私は万年野党(笑) でも誰かがこういうことをしなければなりません。とにかく日本の音楽界のそういった面から私は決別しようと思います。

 

 

4月 28, 2011 音楽コラム | | コメント (0)

2011年2月14日 (月)

日本人は音楽が好きなのではなく音楽をめぐるシチュエーションが好きなだけではないか

まず最初にお断りしておくがこれはあくまで「マス」としての音楽についての話である。個人レベルでは音楽文化をこよなく愛する人間は私の周囲におおぜいいるし、そういう

しかしあえてこういうタイトルの記事にしたのは、昨年私がNHKに出演した時に話をした昨年のオリコンのシングルの年間ランキングの状況からである。

オリコン記事「AKB48がシングル1、2位独占…TOP10はAKB48と嵐の2組のみ」
http://www.oricon.co.jp/news/rankmusic/83085/full/?from_todaysnews

オリコン年間シングルチャート
http://www.oricon.co.jp/music/special/2010/musicrank1220/index02.html

つまり昨年の年間シングルチャートはこういうことである。

シングルチャート 年間 2010年 ベスト20

1. Beginner                      AKB48

2. ヘビーローテーション              AKB48

3. Troublemaker                  嵐

4.     Monster                                  嵐

5.   ポニーテールとシュシュ                AKB48

6.  果てない空                                  嵐

7.  Lφve Rainbow                             嵐

8.   チャンスの順番                          AKB48 

9.   Dear Snow                                   嵐

10. To be free                                    嵐

一方本日グラミーの発表が行なわれ年間最優秀アルバムにカナダのインデイースグループのArcade Fireが受賞する等のサプライズもあり大変盛り上がると同時に、最近のアメリカやイギリスの音楽状況は何だかんだいわれながらも、まだ音楽のファンダメンタルズがきちんと機能していることを示した。

■第53回グラミー インデイースバンドの最優秀アルバムとB'sの松本孝弘受賞
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2011/02/bs-cd6e.html

この両者の状況を比較して1ついえることがある。

それは日本の大衆音楽、ポップス文化終わったということである。

元々J-popというのは一般庶民にとって単なるコミュニケーションツールに過ぎなかった。勿論純粋にアーチストを支持した音楽ファンもいるにはいたがそうではない人たちがJ-popのメインの購買層となった。昔売れていたCD、音楽とはドラマやCMのタイアップ曲だったりカラオケで歌いやすい曲だったりした(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。特にいわゆるトレンデイドラマ全盛の時は若者であれば「誰もが見るもの」であり、そのため「みんなが聞いているから」というのがCDや音楽を買う理由となっていた。つまり日本人の大多数にとって音楽はそのための単なる道具に過ぎなかった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くための道具であり職場や学校その他で「孤立しないための」道具に過ぎなかった。

つまりここで見えてくるのは音楽を文化として享受するのではなく、音楽の周囲にあるシチュエーション(ドラマのタイアップ、カラオケetc etc) を享受するためのものに過ぎなかった。もっと平たくいえば音楽を楽しんでいるのではなくシチュエーションを楽しんできたのである。

はっきりいおう。こういう音楽の楽しみ方しか知らない人は本当の意味で音楽が好きなのではない。「音楽が好きか?」と聞かれたら殆どの人が「好き」と答えるだろう。だがそれはコミュニケーションツールがもたらすシチュエーションが好きなだけで本当にその音楽を文化、芸術として愛しているわけではない。アメリカ人のようにカントリーやR&Bによるカルチャーが生活の隅々までいきわたり意識の深いところで音楽のファンダメンタルズを享受しているわけでは断じてない。

アメリカの白人系の音楽にはカントリーファンダメンタルな文化として存在しているし、黒人系にはR&B ソウルファンダメンタルとして存在している。勿論双方の音楽の要素はさまざまな形でミックスはしているが、大地の基礎部分ではまだこのファンダメンタルがきちんと根がはっている。今日のグラミーでも冒頭でアレサフランクリンのトリビュートやカントリーミュージシャンの活躍等、少なくともアメリカでは何だかんだいわれても音楽のファンダメンタルズ健在である。だから今年のグラミーでも純粋に音楽でアーチストは勝負しているのだ。

そして昨年の日本の年間チャートを見て何がいえるか?

それは純粋に音楽だけまじめにやってますというアーチストは日本ではトップアーチストになれないこと。芸能やバラエテイとの接点が多いという点だけがアーチストの重要なファクターになってしまっているという点

つまりここに真の意味での音楽などない

なぜなら日本の音楽文化は残念ながら演歌以降、音楽のファンダメンタルズといったものが一切ないのだ

だから携帯が特に若者のコミュニケーションツールにとって変わってしまうと、音楽はもはやコミュニケーションツールとしての役割を終えた。そして結局芸能、バラエテイと密接にからむものでない限り売れない、というものになってしまったのだ。

つまり「マス」としての日本人は別に音楽を本当に愛しているわけではない。ただ「好きなつもり」になっているだけだ。

なぜなら沖縄人を除く日本人はアメリカの白人(カントリー) 黒人(R&B) ブラジル(サンバ&ボサノバ) イタリア(カンツオーネ) スペイン(フラメンコ) といった生活に根付いた音楽文化を持っていないからである。それらは明治の時に捨て去ってしまった。

だから今の日本人はシチュエーションを楽しむしかないのである。大半の日本人にとって音楽はその道具に過ぎない。

 

 

 

2月 14, 2011 音楽コラム |

2011年1月 4日 (火)

新春音楽コラム1ー音楽ポップス文化は事実上死んだ。文化としてJ-popを蘇らせるために(長文)

昨年末、ひょいとしたきっかけでNHKラジオ第一の私も一言!! 夕方ニュースで昨今の音楽業界について語る羽目になったが、友人だけでなく親戚一同や知り合いの知り合い等まで聞かれてさまざまなご意見をいただいた。その中で意外だったのは年配の人から「今の若い世代の音楽を否定していてよかった」などという反応が帰ってきて面食らった。私はそんなに保守的なことを云った覚えはないのだが、どうもそのように受け取った人は少なくなかったらしい。 いろいろ話をしてみると私の「J-popと比べるとまだ演歌の方が音楽文化として地に足がついた活動をしている」という発言がそのように受け取られたらしい。

確かに私自身は演歌関係者の知り合いはいるし歌謡曲系の仕事はしたことはあるが、いわゆるきちんとした正統派の演歌の仕事は今まで一度もしていない。ただ上記の発言は演歌系の活動の内容を見て特に地方でのアーチストの支持、支援はJ-popの人たちと比べると確固たる体制で運営されている現実を見た上での発言である。いうまでもないが演歌と比べてJ-popが劣っているなどという意味ではない。そんなことは思ってもいない。また私自身は日常的に演歌など殆ど聞かないし、その分野に作家として活動する可能性は殆どないといっていい。

ただこの現実はある面で深刻な問題をつきつけている。それはJ-popがメデイアその他で多くの露出があったとしても、果たして文化としてきちんと定着しているのか、という問題である。例えば先日のラジオ番組で話しが出た昨年の年間シングルチャートを見てみよう。

シングルチャート 年間 2010年 ベスト20

1. Beginner                      AKB48

2. ヘビーローテーション              AKB48

3. Troublemaker                  嵐

4.     Monster                                  嵐

5.   ポニーテールとシュシュ                AKB48

6.  果てない空                                  嵐

7.  Lφve Rainbow                             嵐

8.   チャンスの順番                          AKB48 

9.   Dear Snow                                   嵐

10. To be free                                    嵐

11.Love yourself

~君が嫌いな君が好き~                   KAT-TUN

12  桜の栞                                       AKB48

13. This is love                                    SMAP

14  また君に恋してる/アジアの海賊    坂本冬美

15  LIFE~目の前の向こうへ~            関ジャニ∞

16.  BREAK OUT!                               東方神起

17  Going!                                      KAT-TUN

18  Wonderful World!!                       関ジャニ∞

19  はつ恋                                           福山雅治

20  CHANGE UR WORLD                       KAT-TUN

これを見て何がいえるか? ベスト20Avex系のアーチストがいない、とか事務所の戦略の勝利(とりわけAKB48の)の成果ということもできるがやはり私が問題にしているのは、上記ベスト20の中で純粋に音楽で勝負しているアーチストが演歌系の坂本冬美しかいない、という点である。福山雅治も一応ミュージシャンではあるが龍馬伝を始めとした俳優という"副業"(といったら怒られるかな)でテレビに多く露出しているし、他は多かれ少なかれ芸能バラエテイ系の要素が密接にからんでいる。つまり芸能界との接点が多いという点だけがアーチストの重要なファクターになってしまっており、純粋に音楽だけまじめにやってますというアーチストは日本ではトップアーチストになれないことを意味している。

この現象は私はかなり深刻に受け止めている。はっきり云ってポップミュージックの世界としてはかなりヤバイ現象といわざるをえない。

これはなぜなのか? その答えは音楽業界の基本戦略にありこのブログでも何回も論じてきた。つまり音楽を文化としてでなく消耗品として売ってきたことが主原因である。

何よりも日本のポップスは本当に今日本人の生活に密着しているだろうか? 何度もいうがポストモダンで本物の音楽を知る意味がなくなったとか、さまざまな音楽の語法を組み合わせることで"本物"の意味がなくなったとかポストモダン論者はいうが、アメリカの白人系の音楽にはカントリーファンダメンタルな文化として存在しているし、黒人系にはR&B ソウルファンダメンタルとして存在している。勿論双方の音楽の要素はさまざまな形でミックスはしているが、大地の基礎部分ではまだこのファンダメンタルがきちんと根がはっている。

だが日本の音楽文化は残念ながら演歌以降、そういったものがないのだ

つまりJ-popは何ら音楽文化に新たなファンダメンタルを形成してこなかったのである。つまり私のJ-popと比べるとまだ演歌の方が音楽文化として地に足がついた活動をしている」という発言は演歌を賛美したのではなくJ-popの将来を憂えての発言なのである。

そして現代、情報(それも大半は「価値」があるようにみえて実はたいして価値のない情報である)ばかりが過多になり、そのことによってウェブ時代の音楽進化論 (幻冬舎ルネッサンス新書 ) に書いているように事実上 ポップスー大衆音楽が終焉を迎えてしまう、という点である。上記の年間 2010年 ベスト20の内容はそれを残念ながら証明してしまっている。それゆえこの現状は極めて深刻なのである。

上記のアメリカの白人や黒人の音楽事情を鑑みて一つだけ日本と大きな差が存在する。

それは日常生活に音楽がないことである。日常生活に音楽があるということはどういうことか? 別に着うたをダウンロードしたりカラオケにいったり、i-podで音楽を聴くことが生活に音楽があるということではない。それらは全てうわべだけのものである。それはもっと精神的に奥まで入り込んでいる音楽であり、酒を飲んだら自然に歌うもの、楽しかったら自然にでる踊り等我々の深層心理まで入り込んでいる音楽である。残念ながらアメリカの白人、黒人、南米系、ヨーロッパ系の人たちには全てそういった音楽が存在する。

しかし残念ながら現代の日本人にはそれがないのである。

そしてWeb時代に入り、うわべだけの情報のみで頭でっかちになり、断片的な情報、テレビを通したうわべだけの情報だけで全てを理解したという勘違いをしてしまう人間が増え、日常の中の実感として生活感が希薄になってしまう。共同体の概念はうすれ、人とのコミュニケーションが極端なほど下手になる。そうした傾向が音楽を始めとした文化の存続を極めて危うくしてしまう。

実際問題として音楽業界も新作ではなく昔の名曲のカバーを追う傾向が強くなっている。テレビ番組も過去のヒット曲ばかりを追う番組が増えた。新しくヒットソングが生まれたとしても、カヴァーされたりする事も少なくなった。今パワープレイされている曲が10年後も懐かしく、暖かく迎えられる可能性ははっきりいって極めて低いといわざるを得ない。70年代、80年代までのポップスはそれがあったにもかかわらず、だ。

つまり日本の大衆音楽、ポップス文化はもはや死んだも同然、といっていい

よってそういう事態を避けるためには演歌にとって変わる新しいJ-popが文化として定着する方法を考えるしかない。そのためには単にうわべだけのものではないJ-popが生活の中に定着した音楽として発展していかなければならない。今までのように百均の商品のごとく消耗品として売ってしまっては将来がないのである。それにはどうすればいいか。それはこれからの音楽プロデユーサー、クリエーターが真剣に考えるべき命題である。

これだけはいえる。現在の「メジャーレコード」には、もはやそれを実行するのは100%不可能である。もはやメジャーもインデイースも実質的に差がなくなった現在、彼らに期待するのは無理である。この状況から音楽文化を立て直すのは生半可ではないが次のことはいえるかもしれない。

1.とにかく「売れセン」という概念は捨てる

2.各クリエーターは自分にとっての音楽のファンダメンタルズは何かをもう一度問い直す。冷静に立ち返れば自分の頭の中に必ずあるはず。

3.これから自分のクリエートする音楽が日本人の生活、日本人の深層心理の中に定着しうるものであるか、どうか(つまり日本人の生活の中に密着する音楽になりうるか)

上記の3つを考える場合、寧ろネットとは可能な限り離れたところで考えるべきだろう。ネットはあくまでツールに過ぎない。そこで垂れ流される情報に惑わされるとかえって自分が見えにくくなる

ちなみに日本の中で殆ど唯一、音楽が生活に密着している地域がある、それは沖縄地方である、だから沖縄出身のミュージシャンの表現は本土と比べて説得力がある。案外彼らにこれからはリードしてもらうしかないのかもしれない。

1月 4, 2011 音楽コラム | | コメント (0)

2010年11月20日 (土)

J-popに関する一考ー「売れセン」という概念放棄の勧め

さて、これから事務所の録音ブースの工事が来週始まり、それと同時に本来の本職である作曲の方の作業をしなければなりません。内容はまでいえませんが「自主作品」の着手も開始し、あとこれも内容はまだいえませんがとある「社会事業」にからみで曲を2曲ばかり作らなければならなくなりました。 また私は原則としてコンペには参加しないんですが、なりゆきで不本意ながら1つあるコンペに参加せざるを得なくなってしまいました。本当は弊社のアーチスト奥津恵をある映画のテーマソングのオーデイションを受けさせるのが目的だったのですが、やるといってしまった以上やらないわけにはいきません。(でも正直気分が今一つ乗らないのでコンペに通すのは難しいかな、とも思います).. 

そんなこんなでやることが多いのはありがたいんですが、やはり最大のエネルギーを注入するのは「自主作品」の方になります。良質な音楽であると同時に遊び心もたっぷり入っている。そんな音楽の構想ではっきりいって「人のやらないこと」(少なくとも私が知っている範囲ではまだ誰も私が今やろうとしていることは誰もやってません)をやろうとするのは楽しいですね。音楽業界は「売れセン」という言葉にがんじがらめになっていつのまにか人がやらないことをやってはならない、という雰囲気ができてしまっています。私はそれを打破しないといけないと思っています。

そこでこの「売れセン」というものを考えて見ましょう。音楽業界で「売れセン」なる言葉が出てきたのは私の記憶に間違いなければだいたい1990年頃からだと思います。いわゆる音楽業界がこの世の春を謳歌していた時代で、現在の惨憺たる状況を見ればまさに夢のようです。

この「売れセン」というものは本当のところ何でしょうか?

実はこれ結構誤解している人が多いです。よくR&B が受けたから同じような感じのR&B の曲を作ることが「売れセン」だと誤解する人がいますが、実はそんな単純なものではありません。二番煎じ、三番煎じ等の、コピーに限りなく近いもの出せば必ず売れる、などというほどマーケットは単純ではありません。(実はレコード会社のプロデユーサーでも「売れセン」というものをよく理解せず二番煎じ、三番煎じを出せばよいと勘違いする人間も少なくありません。)

これはあるスタイルの音楽ーR&B ならR&B  ユーロビートならユーロビート系のサウンドがミリオンセラーになったら、その音楽のサウンド、歌詞等を徹底的に分析し「何が受けたのか」というエッセンスを取り出し、同様な傾向で少し趣向が違う音楽を作る、というメソードを行なうことです。つまり音楽というものをマーケットの観点からスタテイックに、冷酷なほど分析し、「データベース化」し、その「データベース」のコンビネーションをどう作るか、というコンセプトメーキングを行ないます。これはサウンド、アレンジは勿論ですがJ-popの場合特に歌詞に重点がおかれます。

つまり今時の10代ー20代はどういうメロデイラインを好むかーそれこそ「ここのフレーズは上げ、ここのフレーズは下げ」などという細かい部分を徹底的に構成します。詞でしたら「今の女のコが好むギミック、いいまわし、それこそ恋愛相談から占い等のデータまで徹底的に分析し、それらをコンシーブした上で歌詞の内容が決められます。この作業は私が大学で専攻した「情報理論」に基づく作曲、作詞作業そのもので、音楽の作品を作るのではなく音楽の「製品」を作るプロセスです。その「データベース」に基づいて作曲、作詞作業を行うことを「売れセンの音楽を作る」ということになります。

この作業を徹底的に行なったのがご存じAvexなんですが、実はこれを始めたのはAvexではなくビーイングの長戸さんですね。Avexは長戸さんのメソードを徹底的に質と量で市場に攻めていったわけです。

そしてそのメソードによる市場戦略はご存じの通りかなりの面で一時成功しました。「データベース」に基づいて作られた音楽を唯一の音楽体験になってしまう世代が存在することになり、それがこれからの音楽のありかたである、かのように考えるプロの人間も少なくありません。

しかし「データベース化」には限界があります。なぜならそれは表面的な組み合わせに過ぎず、いわばいろんなサウンドや歌詞をジグゾーパズルのように組み合わせるのと同じです。

今年の始め私はこういうコラムを書きました。

■新春コラムーいわゆるポストモダン時代のルーツ音楽の存在(例によって長文です)
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2010/01/post-7dcd.html

ここでは音楽のポストモダン論の観点から、「こうした「データベース」シュミラークル( オリジナル作品のコピー作品や「データベース」が生まれ繁殖し、オリジナル作品は絶対的な価値を失い、すぐれたコピー作品と同等になるーつまり何が本物で、何が本物でないか、ということが区別できなくなってくる)という観点からオリジナルの音楽=ルーツ音楽と考え、あらゆるジャンルの要素がばらばらに解体されて、R&Bのリズムでロック的なギターが入り、ラップをする、といういったような様相を帯びてきて全ての音楽が「ジャンルを構成する要素がばらばらデータベースに解体されるという考え方です。それによってルーツ音楽の価値というものが事実上意味をなさなくなり、全ての要素は相対的なものでしかない、という観点でこれはまさに「売れセン」の音楽の「データベース化」の基本コンセプトなわけです。

私はこれに関して異を唱えました。それは音楽手法のデータベースというのは単なる作曲技法のエクリチュールに過ぎず、それは単なる表面的なものであること。しかしその組み合わせで本当に「ノリ」とか「音楽の即興性」とか、もっといえば人間の魂のこもった表現できるものであろうか?という疑問を呈しました。ーつまり魅力」というものがデータベース化できるのか?ということである、できると考えている人がいるようですが文化というのはそんな単純なものではありません

ルーツの音楽は
「エッセンス」であり、それは「ノリ」とかリズム感とか、即興性、そして表現力そのものであります。それらは1テーク、1テークは「データベース化」は可能かもしれませんが法則化はほぼ不可能だと思います。つまりルーツの「エッセンス」を完全にデータベース化することは不可能である。ということができる。したがって音楽のデータベース化」をつきつめるとどういう音楽ができるか? できる音楽は「ノリのないロック」「即興のないジャズ」風のものになる。例えどんな流行っている音楽でもあなたはそんな音楽を聴きたいと思いますか? 少なくとも私は聴きたくありません。

実はそうした音楽の
データベースに基づく音楽の「製品化」されたサウンド、そういうものに消費者が飽きてきた。というのが音楽業界の本当の衰退の原因ではないか、と私は結論するに至りました、つまり以前もいいましたが音楽を「文化」ではなく、「消耗品」として音楽を売ってきた、それが消費者が音楽文化を大切にしようと意識をなくさせ、タダでコピーできるのなら買わなくてどんどんタダコピーしてしまおう、という行動に駆り立たせています。音楽産業は自分の「製品」「売れセン」「製品」にしたいと考えるあまり音楽を100均の商品などと同じような「消耗品」に自らしてしまったのです。

「消耗品」である以上「流行」が終わったらもはや「使い捨て」されるしかありません。そういう道を自ら選んだのが今の音楽業界です。

だから私はここで声を大にしていいます。音楽業界を本気で再生したいと考えているなら今すぐ「売れセン」という概念を捨てましょう。

そんなことできるわけない!!という声が聞こえてきそうです。なまじっかこれで大成功した体験があるだけにそう簡単に捨てられないと考える業界関係者が多いのはわかってます。あるいは私のこのひとことで、日本のJ-pop関係者の殆どを敵に回したかもしれません。

それでも音楽業界を再生するのであれば、この「売れセン」を捨てるしかない、と私は思います。また業界関係者から脅迫のメールでも来るかな (笑)


11月 20, 2010 音楽コラム |

2010年5月 5日 (水)

生活に根ざした沖縄の音楽文化と「文化」を捨てた本土

GWの休暇で沖縄旅行に家族で行ってきまして本日
帰ってきました。

実は沖縄に行くのは初めてなんですが、娘が「美ら海水族館に行きたい」というたっての要望もあり、私自身も沖縄に行ったことがないのでいい機会でもあり行ってきました。詳しいレポートはこちらをご覧下さい。

沖縄に行って帰ってきました(Kyojiのよろずひとりごと)

http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20100504

尚、後程美ら海水族館、に関するレポートも書きますので詳しくは私のtwitterページをご覧下さい。 http://twitter.com/kyojiohno

さて、プロの音楽の世界では多くの沖縄出身のミュージシャンが活躍していますが、また独特の文化も持っているだけに勿論以前から興味を持っていました。しかし一方では上記のKyojiのよろずひとりごとでも述べていますように

先の大戦にて大きな犠牲と、日本軍による事実上の強制的な集団自決「ひめゆりの塔」などの悲劇的な歴史があることから、遊びに沖縄に
行くというのは気がひける部分がない、といえば嘘になります。
しかし一方では沖縄は観光を基幹産業にしようという目標から、沖縄の地元に観光客としてお金を落とすのも、ある意味貢献でもあるので、今回はそういった面は抜きにして楽しむことにしました。

周知のとおり沖縄には琉球時代からの独特の文化があり、それが沖縄の人たちの生活のさまざまな部分で根付いています。沖縄は観光を県の基幹産業に据えていて、沖縄の文化をまさに自らの差別化、特徴として全面的に打ち出しています。沖縄の人たちをみますと自らの文化に誇りと自信を持っていることを強く感じますね。何よりも音楽をやっている私としては彼らの音楽の取り組み方ー音楽が生活に根ざしている部分ーについては考えさせられました。

ちょうど恩納村の琉球村に行ってきましたので、そこでエイサーを見る機会がありました。興味を持ったのはリズムの中に独特の「タメ」を持たせているんですね。以下ダイジェストに編集していますがちょっとご覧になってください。

この「タメ」はなかなか簡単にはできないと思います。沖縄の人はプロでなくても普通に三線(さんしん)を弾ける人が多く、お祭りやお祝いでは自然に沖縄風の踊りになります。

琉球村で観光客に沖縄の踊りをいっしょに誘うシーンがありますのでそれも見てください。

 

中央で踊っている一升瓶を頭に載せたおばあちゃんが印象的です。このおばあさん、88歳だそうです。残念ですが本土の人間と沖縄の人間の踊りではノリが全然違います。ちなみに琉球にはチャンダラーという道化の役がありますが、

 

Cimg1035_2

お気づきの人もいらっしゃるでしょうが、ドリフターズの志村けんのバカ殿は明らかにこれのパロデイーです。ちなみによく知られた話ですが志村けんのギャグ「変なおじさん」は沖縄民謡の「ハイサイおじさん」をパロデイーにしたものです。本土の人間はすっかり志村けんに洗脳されてしまってますんで、「ハイサイおじさん」「変なおじさん」に聞こえてしまいます。(笑)  何か申し訳ない気がしますね。

それにしても自分たちの文化に誇りを持ち、生活の隅々まで音楽が存在しそれをベースに次世代の音楽にまで取り組んでいる沖縄と、明治時代に自らの伝統を事実上捨て、ただマスメデイアに操作されるがままに音楽の消費財のみを追っかけている本土、

残念ながら音楽のファンダメンタルズの部分で本土は完全に負けていると認めざるを得ません。はっきりいって今のままでは本土の人間は音楽文化の面で永久に沖縄の人には勝てないでしょう。

それを思うと私は屈辱感にすら苛まれました。なぜ、日本本土には本物の音楽が生まれないのか、育たないのか、 それは生活に音楽がないからです。
気がついたら悔し涙すら出てきました。

琉球は十六世紀までは独立国でした。それまでは日本よりはどちらかというと中国(当時は明)とのつながりの方が強かったでしょうね。十六世紀に薩摩が侵入してきて中国(明or清)と日本のダブル朝貢(ちょうこう)という形で乗り切ってきました。しかし明治以降清国の国力の低下もあって、大国の思惑に振り回される形で結果的に琉球は日本に編入されて以来、第二次大戦以降のアメリカ支配の時期を除いては日本の一部となってしまいました。
沖縄の人たちは今でも自分たちが日本人という認識はないでしょうね。それにも関わらず本土の人間を恨むのでもなく、明るく我々に接してくれる沖縄の人たちを見ますと、今基地問題で揺れている沖縄の人たちの希望が可能な限りかなうことを願わずにはいられません。

ちなみに観光地でのお土産屋のおばちゃんたち、商魂たくましいですね。ついつい口車に乗って買っちゃいます。(笑) でも少しでもお金を落とすことで本土が沖縄にしてきた罪滅ぼしになれば、とも思います。

 

 

 

 

5月 5, 2010 音楽コラム |

2010年4月25日 (日)

音楽業界衰退の原因は「音楽の消耗品化」が主原因

さて、今週はゴールデンウイーク前の最後の週となります。今週は「連休前に打ち合わせを」もしくは「連休前に作業終了」という案件が多いため月曜日からびっしりスケジュールが詰まっています。まあありがたいことではありますが、基本的な問題は何ら解決されていませんので、今年から本格化しているさまざまな動きも止めるわけにはいきません。その案件も含め連休前にやらなければならないことが多いので、スケジュールがびっしり状態になってしまったわけです。

既にHMVの買収や新星堂のリストラに始まり、音楽業界の大カタストロフィが始まりつつありますが、これはまだまだ序の口、もっともっとショッキングなことが起きるでしょうね。

さて、この原因の1つに音楽の違法コピーの件があることは確かではありますが、昨今の状況からCDが売れなくなった原因は音楽配信である、という説もどうも違うことが判明しました。 しかし先日の記事にも書きましたが問題はCDのパッケージが高い、とか音楽配信がどうか、とかいうのは単に表面的な問題
過ぎず
それはコンテンツに魅力があるかどうか、ということが先決なのではない
か? という気がしています。つまり今メジャーレコードが本当にユーザーにとって魅力的であるというコンテンツを供給していない、ということの方が大きい
のではないか、という気がしています。

実は今日本の音楽業界で「音楽を文化として..」とか「音楽は芸術である」などと云おうものなら罵倒と嘲笑が待っています。してその傾向は年々強くなっています。「音楽は売るもんである」という方針からレコード会社によっては「音楽を理解している人間がデイレクターになってはならない」などという方針を打ち出している会社もあるくらいです。その結果、「売れセン」の傾向の音楽以外は受け付けず、「売れセン」二番煎じ、三番煎じが出すそしてそれがマーケテイングだなどという大勘違いを業界全体で行ってきたという点。その結果「音楽の消耗品化」が徹底して行なわれ
短絡的な「似非マーケティング」「似非ブランディング」が行なわれました。

その結果どういうことが起こったか? どこのCD店も「同じような」商品しか
そろえていないし、テレビもラジオも「同じような」音楽しか鳴らなくなってしまい、その結果消費者離れが起こってきた。というのが本当の原因のような気がします。

CCCDがどうのこうの、音楽配信がどうのこうの、CD等のパッケージは時代錯誤だなどという観点は音楽文化の単に表面的な部分しか見ていない観点であり、実は音楽業界衰退の本質的な問題とは無関連とまではいわないにしても、根本的な原因ではないのではないか? と最近思うようになりました。 

だから、私は声を大にしていいます。

音楽は消耗品ではない。 文化である。

音楽業界が今日のような状況になったのは、音楽を「消耗品」にしてしまった音楽業界自身の責任である。「音楽を文化として..」とか「音楽は芸術である」というと罵倒か嘲笑をする体質それが原因だと思います。結果的には自分で自分の首を絞めていたことに殆どの人間が気がつかなかったのです

とはいえ、いわゆる「メジャー」系のレコード会社、音楽事務所の思考の硬直化はもはやいかんともしがたい状況です。はっきりいいますがこういうところはいっそのこと全部つぶれてくれた方が音楽文化のためかもしれません。(もうこの段階になったら媚を売る必要もないのではっきりいいますけどね) 

まあ実際の結果はわかりませんが、いずれにせよ今年から来年にかけて音楽業界、CD業界が壊滅的な状況になるのは避けられないでしょう。寧ろこれを音楽文化再生のための好機と考えた方がいいかもしれません。

とにかく私は他人が我々について何をいおうと我道を行くだけです。

 

 

 

4月 25, 2010 音楽コラム |

2010年1月25日 (月)

作家の著作権をないがしろにする業界が「著作権を守れ」といっても説得力はない。

さて、先日のCDショップ大賞の第一回の発表が行なわれましたが、とにかく公正な投票によって決まるー本来なら当たり前のことが日本では殆ど行なわれてこなかったこの実態、これからいろんな意味で、いろんな面で大変だとは思いますが、是非関係者にがんばっていただき健全な音楽業界に戻していただきたいと思います。

ちなみにランキングについてはこんな記事があります。

「金で買ったランキング!?」新人歌手ICONIQの"着うた1位"に疑問符

http://www.cyzo.com/2010/01/post_3682.html

さて、昨日のブログでも少し触れましたが同じ「サイゾー」の記事で

作詞も作曲も......実は自分で作ってない? Jポップ界の"偽装表示"疑惑

http://www.cyzo.com/2010/01/post_3654.html

まあ「サイゾー」というネットメデイア、情報の信頼性に問題がない、といえば嘘にはなるがしかし大手メデイアが絶対に扱わない情報を報道するし、時々正しいことも報道しています。いわゆる芸能ワイドショー系の報道内容が殆ど信頼性がない現在、それよりは参考になると思います。特にここで書いてあることは音楽業界で働く人間としてはほぼ規定の事実といっていいです。

それと同時に、バンドマンや歌手のことを「アーティスト」と呼ぶ習慣も一般化した。「自分で作って、自分で歌い、さらにルックスもいい」というのが、音楽界で活躍するスターの条件となった感もある。しかし、ある音楽関係者は声を潜めてこう話す。

「実は、プロの作家に楽曲を提供してもらっているのに、あたかも自分で作ったかのようにして発表するアーティストは多いんです。自分で作った、と述べたほうがプロモーションの場でも盛り上がるでしょうし、ファンからも尊敬の眼差しで見られますからね」

 音楽業界でそうしたケースの代表格と目されているのが、俳優業もこなす大物歌手Gだ。彼の楽曲のほとんどは本人名義の作詞・作曲クレジットで発表されているが、実はその大半はプロの作家の手によるものだという。

「Gがすごいのは、インタビューなどでは100%自分で作ったように話すことですね。作家からレクチャーを受けた内容を整然と話すのは、さすが大物俳優(笑)。メディア側が気付かないケースも多いようですよ」(前出関係者)

実はゴースト作家の存在というのは音楽業界では半ば公然と当たり前のように存在しています。また誰かが書いた曲を土台にして別の人間が全く別の作品を作る、なんてこともよく行なわれます。(私も何回かやられたことがあります) そしてそうなった場合本来の作家にはクレジットはおろか一文も支払われない場合があります。(はっきりいって盗作でしょう) 

これらは嘘ではありません。しかしこの実態を訴えた人間が事実上業界より永久追放されたケースもあります。

ですからこのサイゾーの記事などは我々からすれば「何をいまさら」という記事なんですが、今までこういう記事は音楽事務所がつぶしていたために表沙汰にはなっていません。

私はそのためここ十数年、コンペというものにもわざと参加していませんし、そういう作業を行なう事務所とのつきあいも避けています。どこがこういうことをやっているかという固有名詞はさすがにここではいえませんが...

しかしこういうことはいえます。CDコピーのせいで音楽業界が駄目になった、という以前に一番作曲家や作詞家の権利をないがしろにしているのは音楽業界自身だという事実がある、という点です。アーチストの権利、著作権を守るなどといっても業界自体が作家の権利をないがしろにしているようじゃ説得力も何もあったもんじゃありません。

業界自身が著作権の決め方をいい加減にしているんだから一般消費者がさらにいい加減になるのも仕方ないのかもしれません。

アーチストや著作権を守るまえにまず自らの襟を正さないと不正コピーや著作権侵害の動きを止めることはできないでしょう。 本気で音楽業界を再生させたいのならまずそこからメスを入れるべきだと思います。


1月 25, 2010 音楽コラム | | コメント (0)

2009年10月18日 (日)

加藤和彦さん「音楽でやるべきことがなくなった」に思う

昨日の衝撃的な訃報から一夜、

加藤和彦さんの遺書の中に書いてあったとされる「音楽でやるべきことがなくなった」のひとこと。この一言は本当に重い。

http://www.youtube.com/watch?v=fqTpp9BMm-g&feature=player_embedded

加藤さんはつい最近まで精力的な音楽活動をしていた。しかしやはり昨今の音楽業界の現状にかなり悩んでおられたようである。

不正コピーによるCD等の販売激減、友達からのデジタルコピーをパソコン経由でもらって、ipodに不正コピーとか、 自分でCDを持たずに、対価も払わずにそのデジタルコピーを持つことが犯罪であるにもかかわらず、おそらくほとんどの人たちが 何らかの形でそれを犯していると思う。そういう現状が加藤さんの悩みのタネになっていたのは間違いない。

それに伴う、売上減、売り上げが上がらなけりゃ、次のための制作費もダウンし、 それどころか生活費もダウン・・・

はっきりいって殆どのクリエーターがこの現実に直面している。加藤さんほどの人でも例外ではなかったようだ。

勿論「メデイアで流すための音楽」-音楽のクリエイテイブでない部分でかなりの神経も費やさなければならない、という現状もある。殆どの人はいまだに地上波のテレビに流れている音楽が世の中の音楽の全てであるかのように錯覚して、「音楽が売れないのは自業自得だ、くだらない音楽ばかり作るからだ」だという。

しかしそういう人たちがメデイアがあまり流さない加藤さんの名曲の数々をどれだけ知っているというのか。知ろうともしないで地上波のテレビに流れている音楽が全てだと思い込み、正統な対価も払わずに「流行っている」音楽を一銭も払わずに楽しむ。こういう人がネットの書き込みを見ても、本当に多いと感じる。そこにはクリエーターに対する敬意、配慮の意志が全く感じられない。

以前私は

「情報やコンテンツなんてタダでしょう」とか「コンテンツを大量に不法コピーしてネット内で垂れ流す」ことこそがネットの中でコンテンツ流通のあるべき姿である》、などということがあたかも正論であるかのように広まっています。困ったことに経済産業省や総務省の役人までこの考え方を支持しています。

と書いたら「これ、どこの国の話ですか?」と聞かれたことがある。私ははっきり「日本です」と答えた。実際問題、総務省も経産省も「ネット法」によってそれを実現しようとしているし、ネットユーザーの大半がそれを望んでいるのは明らかでしょう。

しかしそれが実現したら今世紀中に音楽を作る人も、映画を作る人もいなくなるでしょう。そういうことに対する想像力にかけている人間がいかに多いか。ネットの問題の1つとして想像力が極端なほど欠けている人間が多すぎる、というのも問題の1つであろう。

こんなことをいうと「すぐにネットのせいにする」などという人がいる。勿論ネットだけが原因ではない、しかしコンテンツ産業の衰退の大きな一因であることは紛れもない事実である。ちなみにそう主張する人で本当にいかなる場合でも正統な対価を払って音楽を楽しんでいると言い切れる人がどれだけいるのか?絶対不正コピーなど一度もしていない、といいきれるのならそれを主張してもいい。

加藤さんの自殺はもしかしたらそういう風潮に対する抗議の意味もあったのかもしれない。

加藤さんはクリエーターとしてナイーブな方だった。それが今回の不幸な事態になったのかもしれない。今クリエーターは作家であると同時にビジネスマンでもないと、生き残れない社会になっている。精神的に図太くないと生き残れないのだ。そのことも深く考えさせられた今回の事件である。

 

 

 

 

<追記>

 

加藤和彦さんの遺書に書いてあったと伝えられる文です。

、「世の中が音楽を必要としなくなり、もう創作の意欲もなくなった。死にたいというより、消えてしまいたい」

音楽の仕事に従事する人間である私にとってはあまりにも悲しすぎる、せつなすぎる言葉です。

 

 

 

 

 

10月 18, 2009 音楽コラム | | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月15日 (土)

メジャーレーベルを捨てた矢沢永吉のニューアルバム『ROCK'N'ROLL』

メジャーレーベルを捨てた矢沢永吉の新作が音楽ビジネスを変える!? http://www.cyzo.com/2009/08/post_2558.html

正直いってやっと日本にもこういう動きが出てきたか、というのが率直な印象。海外ではマドンナがワーナーとの契約を解消するなど、海外では「メジャー離れ」はかなり加速しているのに日本ではこういう動きはなかなか起きなかった。

今CDの流通も配信もメジャーでなければできない理由はどこにもない。スタジオやスタッフに恵まれているアーティストは インディーズでもまったく問題ない。 それにメジャーといったってたいした宣伝をするわけじゃないし、そのくせマージンだけはわんさか取っている。普通に考えればこういったアーティストが出てくる事は至極自然な事。

しかしこれはメジャーで十分に知名度が行き渡り権力やパイプを持っているから可能なやり方ではある。 マドンナでもレディオヘッドでも無料DLやそれに近いやり方で新譜をリリースしてもビジネスとして成立するのはパッケージの世界での成功があり、ライブ公演で莫大な利益を得れるトップアーティストだからだ。新人アーチストはこうは行かない。それゆえ私も自社のアーチストの奥津恵のインキュベーションに七転八倒する毎日が続いている。

しかし奥津メジャーでなんてことは私は微塵にも思っていない。仮にメジャーに提出したところで給料の出ない印税のみ契約、ワンショット契約(デビューシングルが売れなかったらそこで終わり) と悲惨な契約となるのは火を見るより明らか、世の中に出ることもなく使い捨てにされる可能性の方が高い。私は奥津を使い捨ての消費財にするつもりは毛頭ない。それゆえ苦しくとも今の道を続けるしかない。

それでも「メジャーデビュー」「夢の芸能界」に憧れ不当な契約をする新人は少なくないだろうな。また日本の音楽事務所の連中はまだ「メジャー信仰」を持っている思考停止の人間が多いし、新人のアーチストの親とか親族からたんまり金を取ってデビューできないまま終わってしまう悲惨な例もたくさん知っている。そういう思考停止アナログな人間が多いから総務省や経済産業省でのコンテンツ流通促進委員会でIT関係の会社や役人にいいように付け込まれる。

 でも矢沢さんのようなビッグアーチストがこういう行動を取ることによってそうした「メジャー信仰」による幻想がなくなる方向に行くのであればそれはすばらしいことである。しかし私は正直懐疑的である。こういう動きが加速するかというと少なくとも日本国内では難しいかもしれない。

桑田圭祐さんやミスチルなどがいい例だがこういったアーティスト達は育ててもらったレコード会社を支えている為 インディーズで、なんて微塵も思わないだろう。実際こういうビッグアーチストの中で「メジャー」という肩書きにこだわっているアーチストも少なくない。

だがそうしている間に「メジャー」自体が全て崩壊する可能性もあるが... さて今年の夏から秋までを乗り切れる「メジャー」レコード会社や大手プロダクションはどれくらいあるだろうか?

8月 15, 2009 音楽コラム |

2008年10月 1日 (水)

「情報やコンテンツはただであるべき」という考えは情報化社会をかえって崩壊させる。

10月に入りました。音楽や音声のコンテンツ制作屋としても作曲やアレンジャーとしてもこの秋はおかげ様で忙しくなりそうですが、最近「情報とコンテンツ」に関してある思いを強くするようになりました。

現代はいうまでもなく「情報過多社会」です。ネットは勿論いわゆるマスメデイアからも情報があふれています。しかしその分これは自然の摂理ですが情報のエントロピーも増大していて、おそらくこの傾向はどんどん加速していくでしょう。実は数学には「情報理論」というものがあり、式が難しいのでここでは記しませんが、要は情報が増えれば増えるほど情報の内容が無秩序になっていくというものです。私は大学でこれを専攻したのでわかりますが、現代社会はまさにこの状態になっているといえると思います。

情報量というのは「起こりにくさ」です。数値が高いほど「起こりにくい」ということになり、低いほど「起こり安い」と定義します。エントロピーは最終的に無限大の方向に行くというのが自然科学のエントロピーの法則といいますが、その情報量を扱う統計学のエントロピーは最終的には情報は無限大に拡散していくことを意味します。平たくいえば今の情報過多社会は今にもまして情報が洪水のように流れでる状態になっていくということになります

こうした中で情報やコンテンツがあふれていくということは何を意味するでしょうか?それは情報やコンテンツの供給過多を意味し、情報の需要を大きく上回ることになってしまいます。今既にこの状態になっています。それゆえ「全ての情報やコンテンツはタダ(無料)であるべきだ」という概念が台頭し、今ネットユーザーのおそらく過半数以上はそう考えているように思います。

だがちょっと待ってください。私が大学で情報理論を学んでいた時にずーっと引っかかっていて今でもひっかかっていることがあります情報量というのは単に「起こり辛さ」を表現しているに過ぎず(確率)、例えば「自分が宝くじに当たった」事象と「見知らぬAさんが宝くじに当たった」事象は、前者の方が有意義な情報に見えますが、両者の情報量は全く同じなのです。つまり数学の情報理論は個人・社会にとってどれだけ意義のあるものかというのは無関係なんですね。

しかし実際には情報に接する場合その情報が本人にとってどれだけ有意義でかというのが大事なのであって、情報がどんなにあふれていても本人にとって有意義でない情報ははっきりいってゴミ同然ということになります。つまり情報量が増えるということは、情報の自分にとっての価値ということを必然的に自分で高い次元で選択する能力が必要なわけです。そのためには情報やコンテンツに対するリテラシーを今まで以上に持つことが重要になります。

情報やコンテンツに対するリテラシーとは自分で情報やコンテンツの価値の内容を一定のレベルまで理解した上で信頼性を自分で調べ客観的に評価する能力のことです。流布されている情報を鵜呑みにしては決して駄目で、また情報やコンテンツを単に自分の好き嫌いだけで判断してもいけません。そういう能力を身に着けないとこれからの情報過多社会には生き残れないということがいえます。マスメデイアの情報に煽動され、踊らされる人々は情報弱者の類に入れられてしまうかもしれません。

無料=タダというのは要するに「価値がない」ことを意味していますから、情報やコンテンツに対するリテラシーが入る余地がなく、情報のエントロピーが増大することによってより無価値なものになってしまいます。つまり無料の情報やコンテンツは結局ゴミかゴミ以下の扱いしか受けなくなるということです。それを考えるとメデイア、特にマスメデイアの情報やコンテンツは一見無料とはいっても実際には「スポンサー」が買っているもので、その結果間違いなく恣意的かつ、意図的な情報操作を行っているものであります。そして情報が今後も今まで以上にあふれていく状況を考えればこの傾向は今後ますます強くなることはあっても弱くなることはありえない、といっていいでしょう

それらの情報は情報やコンテンツに対するリテラシーという観点から見れば失礼ながらゴミかゴミ以下の価値しかないものでしょう。情報やコンテンツを受容する人は無料で接するわけですから。つまり全ての情報やコンテンツをタダにすべきという議論は全ての情報やコンテンツを結果的にゴミかゴミ以下の価値にすべきだといっているに等しく、この考え方は情報化社会の情報やコンテンツの質の低下を招き、結果的に情報化社会を実質的に崩壊に招くといっていいでしょう。

そのためやはり有料コンテンツ、そしてコンテンツにお金を払う背景は残すべきであり、それに対するユーザーの啓蒙も必要でしょう。私の考えではネットが普及するに当たりそのコンテンツの権利、権利者への尊重の啓蒙をきちんとしていなかったのが今日の状況を作っているように思います。

コンテンツメーカーは今まで以上にコンテンツの質の向上にエネルギーを投入すべきであり、ユーザーがこのコンテンツならお金を払ってもいい、と思わせる内容にしなければなりません。音楽に限っていえば音楽配信のプラットフォームがmp3のままでよいのか、(いいはずがない)という問題があります。それと特に最近の若い世代に対して「音楽のすばらしさ」というものをいかに伝えていくかというのも重要な要素です。

ネットが社会に定着して十年以上、コンテンツビジネスがビジネスとして生き残れるか、コンテンツが文化として次の時代に継承されるか、これからが正念場でしょう。

10月 1, 2008 音楽コラム |

2008年8月20日 (水)

音楽業界に関して質問をいただきました。

先日ある高校生のA君よりメールをいただき、私のブログを読んでいくつかの質問をいただいた。私のこのブログは結構多くの学生さんに読まれているのは承知しているが、(アクセス解析でac.jpや.eduが結構たくさん来ているので) 直接質問をいただいたのは初めてである。何でも学校の「課題研究」で「音楽配信」のレポートを書いていらっしゃるらしい。

その件の詳細を書く前に、まず、私は音楽業界ではしがない1業者ーそれもかなり零細な業者ーに過ぎないということはご理解いただきたい。また一般の人から見れば必ずしも音楽業界のメインストリームの中にいるとは見えないかもしれない。本当に業界の中では「取るに足らない人間」の一人である。

そんな私が音楽業界のことをあれこれブログに書いているのは音楽家の端くれとして音楽文化を大事にしたいという思いと、1998年以来ずーっと右肩下がりの業界に対して業界のトップが改革を行おうという姿勢を全く示さないばかりか、現状を改革しようという人間をどんどん会社の外に追い出す、といった行動を見るに及びかなり怒りを覚えたのも事実である。そのため2-3年前の私の記事にはかなり辛らつな表現が入っている。

しかし今は経営のトップの人間ですらそんなことを考える余裕がないこともわかっているので最近はそういう書き方を控えているし、残念ながら現在の流れはもはや変えようがないということも感じている。それより自分がどうこの最悪ともいえる音楽業界の中でどう生き残っていくかを考えるほうがよっぽど大事である。それほど事態は深刻なのだ。

前置きが長くなったが、そのため本来なら以下のような質問は私なんかより津田大介さんにお聞きした方がより私よりも詳しくきちんとした答えができると思うのだが、なぜか津田さんと連絡がとれなかったらしくそれで私のところに来たらしい。津田さんは先日あるオフ会でお会いしたが非常に気さくな方だったので、きちんと紹介したら答えてくれるとは思うのだが... だが以下の質問は結構多くの方が持っている疑問だと思うのであえてここで公開して私の考えを述べさせていただきます。(勿論高校生のA君の了解はいただいています) あくまで私の考えなので的を得たものかどうかは皆さんで判断して下さい。

質問は3つあり、質問のあとに私がA君に対する答えを書いています。

>・今ネットや携帯での音楽配信が広く普及してCDの売り上げがますます下がって
いますが、この先CDが無くなってしまうことはあるのでしょうか

私個人はなくなることはないと、思っています。
少なくとも音楽配信が現在のmp3フォーマットのままでいる間は,という条件ですが、といいますのはmp3の音質ではCDの方がはるかにまさっていますので...

但し将来的に光ファイバーが現在よりはるかに高速になりさらに大容量のファイルの転送が可能になればまた事情が違ってくると思います。

注:mp3がCDと同じ音質だと思っている人が多いようですがそれは誤りです。

>音楽配信が広く普及することによって、レコード会社などの企業にどのような影響が及ぼされるのでしょうか
音楽産業の体制を変えざるを得なくなると思います。
現在はCDのみで利益を出す体制ですが、これからはCDだけでなく着メロ、音楽配信
等、アーチストの収入を総合的に管理する体制を作るしかなくなるでしょう。

>今海賊版の楽曲がたくさん出回っていますが、それがいずれ無くなる時がくるのでしょうか。そして海賊版に対して、レコード会社等はどのような対策をしているのでしょうか。
海賊版を完全になくすことは不可能です。
ただ、日本はまだ諸外国に比べればまだマシな方です。

とはいえ、現在ネットの世界で著作権やアーチストの権利を尊重する意識が非常に低いのも事実です。

うまくいく、という保証はありませんが、著作権を始めとするアーチスト、コンテンツ の権利に対する啓蒙が必要だと思います。それをやらないとコンテンツを作る人自体が将来いなくなる可能性すらあります。

今、懸念しているのは特にIT系の名だたる企業の代表ですら「全てのコンテンツは無料であるべき」といってはばからない人物がいることです。これは私の考えですがコンテンツを無料、もしくはタダ同然にすることによってプロのクリエーターの生活が成り立たなくなり最終的には、取引できるコンテンツ自体がなくなってしまう、そのことによってかえってコンテンツビジネス自体が崩壊してしまうことです。そのことを理解できない人間が現在あまりに多すぎると感じるこの頃です。

以上が私の質問に対する答えですが、皆さんはどうお考えでしょうか?


8月 20, 2008 音楽コラム | | コメント (0)

2008年1月 2日 (水)

新春コラムーデジタル技術は「コンテンツ制作現場」を理想的にしたか?

明けましておめでとうございます

このブログー音楽制作、音コンテンツの制作者のブログで特に「音楽業界」について述べてきましたが、今回もいささかIT関係者に対してやや刺激的なタイトルになってしまいました。

まあ先日世間にはびこっている「IT革命論」に対して批判的なコメントをした上で、今回のコラムのこのタイトル、これで私を「守旧派、保守派」「昔の方が良かった論者」であるかのようにレッテルを貼られ、私を誤解する人もいらっしゃると思いますので、あらかじめお断りさせていただきますが、私は日常の業務でDTMやDTPを行っている人間であります。MACなどはMac Classic以来20年来のユーザー、ClassicからSE30 Power Mac LCからG3 そして現在のG5 Dualで五台目になる。ほぼ4-5年に一度は機種変更をしている計算になる。
インターネットなどは殆ど中毒状態で長い間ネットやメールチェックしないと不安になる方だ。 ちなみに地上波のテレビは一週間でおそらくトータルしても四時間も見ないだろうが、ネットは少なく見積もってもその十倍の時間は見ている。そんな人間である。

そんな人間なら無条件で現在のデジタル化した社会やインターネットの可能性について諸手を挙げて賛同するであろうと思ってしまうだろう。勿論ネットの可能性やデジタル技術の恩恵などは人に云われるまでもなく人一倍認識している。ネットを含むデジタル技術のさまざまな恩恵については今ここで改めて述べるまでもない。また音楽を職業としている私を含めクリテイテイブな仕事をする人間が、業界の中で最前線で仕事をするためにはデジタル技術、DTM,DTP技術は必要不可欠といってよい。これがないと実際本当に仕事にならない。

尚、ここでお断りをさせていただくが、ここではあくまで制作現場、つまりコンテンツプロバイダーの立場からの視点で述べさせていただくものである。勿論、最終的にはそれはユーザーやそのマーケットにはねかえってくる問題ではあるのだが、クリエーターの生活現場環境が悪ければクリエイテイビテイや作品のクオリテイに悪影響を及ぼすのは必至だ。だがその点について巷にあふれているIT関係の書籍やメデイアに登場するデジタル社会の著作について、的確にその問題点も指摘している文書が驚くほど少ない。特に音楽制作、デザイン、写真等のクリエイテイブな分野の現場についての問題点を指摘した書籍は私の知る限り殆どない。

一般にデジタル技術によってコンテンツ制作の現場では少なくとも2点においてメリットがあるといわれている。

第一点は表現の可能性ー特に映像面においてはデジタル技術によって不可能が可能になった点は多いのは今更いうまでもない。

第二点は業務の効率化である。以前では一日作業だったのが半日で済んだり、といった作業の効率化が大幅に進んだ。当然それはコストダウンにも結びつき、実際大幅なコストダウンが画像、映像、音楽、デザイン等のコンテンツ制作の現場で実現した。これはユーザーにとって何よりのメリットだ。

だが実際にはその本来はコンテンツプロバイダーにとってもメリットであるはずのこの2点の裏にはいくつか問題がひそんでいる。そしてそれがかなり本来「理想的」な環境にするはずだったものが実際には寧ろ逆の方向に状況を誘導している。勿論業界によってやや事情が異なる面もある。特に上記の第一点は映像や画像の表現の可能性を拡大した。(特にCGの分野について) しかし第二点については多かれ少なかれどの業界にも共通していると私は思う。

ちなみに音楽の世界に限って云えば上記の第一点のメリットについては機能しているとは云いがたい。音楽のデジタル技術というとサンプリング音源やシンセ、特にソフトシンセの分野だが、皮肉なことに機材が充実した現代の方が、シンセサイザーや電子音楽の草創期の作品などと比べるとイマジネーションや表現力という点で残念ながらやや後退しているといえる。草創期には機材がなかっただけに作曲家、クリエーターが自分のイメージに合った音楽を作るためにさまざまな創意工夫があった。現代はボタンを押せばプリセットの音源で殆どの場合事足りてしまうという事情があって、プリセットの音源を大幅にいじって新たな音源を、などという工夫をしている人は寧ろ少ない、特に最近は曲制作に締め切り等の時間で余裕がないからかつてのように制作で膨大な時間をかける、ということが難しくなってきている。そのため創意工夫、イマジネーションという点ではこと音楽に関して言えば寧ろ後退しているだろう。寧ろ音の「演出力」という点ではDJ連中の方がよっぽど心得ていると思えるのが、音楽クリエーターの端くれとしては寧ろ悔しい

そして第二点のコストダウンー実はこれが大きな問題なのである。デジタル技術は音楽、写真、映像、デザイン等の制作の大幅コストダウンを実現した。特に90年代中頃からのデジタル技術の進歩は凄まじく加えて90年代末kらの長いデフレ期間は特に出版業界や音楽業界の制作単価を大幅に下げた。これはすなわちそれらの制作に従事している会社の売り上げを必然的に大幅に下げることにもなった。特に音楽業界についていえば音楽業界が好調でピークだった90年代初頭に比べアーチストのアルバムの制作費が大幅に減った

89-94年 一アルバムにつき  600 - 1000万
95-98年 一アルバムにつき  400 - 600万

現在   一アルバムにつき  100万-150万

ピーク時に比べなんと1/10近くである。最近はメジャーレコードでも製品に(!!) (そう、プリプロやデモではなく製品にである)宅録(pro tools等の機材で自宅で作れないかということ)で作れなどと平気で要求するデイレクターもいる始末。それがどういう意味か、わからずに、である。最近のデイレクターはスタジオでもどういう作業をしているのか把握していないで、単なる弁当の手配屋になっている場合が多い。当然こんな状況だから現場で仕事をしているスタッフの収入は寧ろ減っている。

コストダウンはユーザーにとってはよいことである。コストパフォーマンスも重要であることは確かだ。だが、コンテンツは物品ではない。クリエーテイビテイが反映している手作りのソフトである当然コストを過剰に落とせばクオリテイは落ちてしまうものなのだ。そこを忘れている人間が多すぎる

加えて既にこのブログで何回も述べているように音楽業界の慢性的な不況、その状況がさらに事態を悪化させた。

特に仕事によっては一曲千円とか、殆どアルバイト、それもかなり割りに合わないアルバイトの仕事もある。当然そんな仕事はプロがやる仕事ではない。そこそこの利益を出すためには仕事の量をこなすしかないが、量をこなすにしても限界がある。

何度もいうように「コストは際限なく下がる」なんていうのは幻想だ。 コストパフォーマンスには限界がある。加えてデジタル化によるコストダウンの波は作曲家、や音楽家、プレーヤーたちの生活を大幅に圧迫している。私の友人にカメラマンやデザイナーもいるが彼らの状況も似たようなものである。

つまり、デジタル技術はコンテンツ制作現場をどう変えたか?


答え;現場の人間の生活が苦しくなった。 である。



特にほんの一部の人間を除き、作曲家、アレンジャー、プレーヤー(演奏家)などは殆どワーキングプア状態といってよい

ついてにいえば「デジタル化」に対応するために、大幅に設備投資をした上で、仕事の量はたいして減らずに「売り上げが大幅に下がった」というのが実態だ。これはたまったものではない。

しかし残念ながら一度こういう傾向が始まったらもうこの流れはとまらないだろう。デジタル世界は地球全体をフラット化する、というのはこういうことである。これに対処するにはコストカット競争をし極限にコストダウンしたものを作るか、他人と違ったことー何か他と違う付加価値をつけたもので売るかのいずれかしかなくなる。しかしコストダウンはもはや限界を超えていることは明らかだから、やはり自分の仕事にいかに付加価値をつけるかー他人を明らかに差別化したコンテンツを作るかーしか生き残る道がなくなるだろう。

しかし音楽業界、特に日本の音楽業界とはおかしな業界で「他人と違った仕事をする」ことを是としない業界である。特に「売れセン」などというおかしな言葉が使われてから尚更「他人と違ったことをする」ということを極端に嫌うようになった。今の音楽業界はある傾向のサウンドが受けると業界全体がそれのマネをする、そしてそれがマーケテイングという大勘違いをもう十年以上続けているのだ。だがそういった考えではおそらくこれからのデジタル化によるグローバル社会では生き残れないだろう。私は以前から再三再四この点を指摘してきた。

そうした点を見るにつけ私はある結論に達した。デジタル化の波ではコンテンツプロバイダーが生き残るためには請負中心に仕事していてはおそらく未来はない、ということである。勿論そういう請負系の仕事がなくなることはないだろう。しかしそれで一財産を築けるなんてことはありえないし、安い単価の仕事を大量にこなしても「ワーキングプア」の状態から脱しきれまい。特にこの時代を生き残るためには「いかに人と違ったことをするか」「いかに人と差別化できるコンテンツを供給できるか」これしかあるまい。つまりデジタル化というものは、クリエーターの生き方まで大幅に変わらざるを得ない状況を作ってしまったといえる。

クリエーターとして生き残るためには発想を転換しよう。人から仕事をもらうことだけ考えては未来がない。残念ながらそれが現実のようだ。

1月 2, 2008 音楽コラム | | コメント (1)

2007年3月 2日 (金)

私のコラム「なぜ私は音大へ行かなかったか 」に関して

私の以前に書いたコラム「なぜ私は音大へ行かなかったか 」というコラムがあります
https://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2005/01/post-03fe.html

 

これは私がかつては音大受験を目指したもある事情で断念した背景を説明しそれに関して日本の音楽大学の現状に関して批判記事をかいたものである。なかにはあえて音大関係者にはやや刺激的な表現も盛り込んでいるがこれは一向に現状を改革しようという意図が音大の特にトップの人に見えないためあえてそのような表現を盛り込んだものである。

 

このコラムはもう掲載してから5-6年はたっておりあまりに昔に書いたものなので私も書いた正確な日にちは覚えていない。そしてこのコラムに関して何人かの音大生等から反応があったがどちらかというと内容に賛同したり等ポジテイブな反応が帰ってきてやや拍子抜けしていたが、先日音大関係者と思われる人物よりある反論が私に送信された。残念なことにその人物は自分の名前、ハンドルネームすら名乗っていない。そのため本来なら無視していもいい発言なのだが、問題の本質をやや突いている部分もあるのでその発言の主旨と私のそれに対する応えをここに掲載しておきます。これが今の音大及びクラシック音楽の教育に関してある問題提起、一石を投じることになればそれなりに意味があると考えた上でのこのブログの掲載です

 

尚、この人物非常に残念なことに私の回答に関して何も返信して来ていないのがとても残念である。文章はだいたいの主旨をまとめた形で公開させていただきます。
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「殆どの音大生はアドリブができない」「クラシック音楽以外の音楽に無知である」
この表現に関してこの発言者は「クラシック音楽は「再生芸術」であることを理解していない発言だ、「再生芸術」にアドリブなど必要ない。音大生がクラシック以外の音楽に無知だというのならあなたはクラシック音楽に関してあまりに無知だ」

という主旨の発言をメールで送信してきました。

 

それに対する私の反論は以下の通りです

 

まずクラシック音楽が現在「再生芸術」であることくらいわかっております。ここで私が問題としているのは、我々が「クラシック音楽」と呼ばれている音楽は「最初から再生芸術だったのか」という点です。私はそれはNOだと思います。なぜならさまざまな資料から少なくとも19世紀中頃までは演奏家や作曲家の「即興」というのは間違いなく行われていることがわかっています。ショパンは「私の楽譜の裏の意味をわかって欲しい」といっていますし、リスト、パガニーニは即興の名手でした。あの古典的なイメージの強いブラームスですら、酒場でのピアノのアルバイト時代はかなりの即興の名手だったことがわかっています。(楽譜なしにどんな曲も瞬時に弾くことができたという記録が残っています)。
つまり少なくともリスト、ブラームスが生きていた時代までは我々が「クラシック音楽」と呼んでいる音楽は「再生芸術」ではなく「表現芸術」であったといって差し支えないのです。

 

それがだいたい19世紀末から20世紀の始めにかけて作曲家と演奏家の「分業化」が始まりました。と同時にご存じSachlich 注*(=即物的)なー楽譜に忠実に弾くという考え方が広まり、演奏家が即興するなんてとんでもない、などという価値観が急速に広がりました。これは作曲技法が複雑化したというのもありますが、20世紀に入り作品の初演に作曲家自らが演奏するということがだんだんなくなりました。(ただしバルトークなどは健康を害した晩年を除きピアノを使った大半の曲を自分で初演していました)そして現在に至っています

 

つまり私がいいたいのはかつて「表現芸術」であったものが現在「再生芸術」となっている。しかもその「即物的に楽譜に忠実に演奏する」方法があたかも作曲者の意図に忠実な唯一の正しい演奏方法であるかのように誰もが思っている、思わされている。私はそれに対して疑問を投げかけています。なぜなら「表現芸術」の演奏と「再生芸術」の演奏には自ずと表現の説得力に違いが出るからです。

 

演奏というのは本来は「表現芸術」であったはずです。それがいつのまにか「再生芸術」になったとたん、演奏に面白みがなくなったと感じた人が多いのではないかというのが私が提起した問題です。バッハの時代などは通奏低音だけで「好きなように弾くように」という感じで五線紙が空白なものがたくさんあります。リストの「ラカンパネルラ」はリストが即興で作ったものを楽譜にしたものです。私はその点を問題にしていることがおわかりいただけるでしょうか?

 

注:*Sachlich (ドイツ語)ザッハリッヒードイツ語で即物的のことをいう。特に「新即物主義」という芸術思潮が20世紀初頭ー主に第一次大戦儀に入り起こり「飾りめいたものを取り払って、物自体を描写していこう」という芸術運動がおき、演奏でも「余計な演奏はしないで、楽譜自体をそのまま忠実に弾こう」という意味になる。つまり「新即物主義」ーNowe Sachlichkeitに即した演奏とは即興や装飾的な演奏そのものを否定するものである。この運動を境にクラシック音楽は「再生芸術」と化した。
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ここに私は今の音楽教育の基本問題があるように思う。私見ではSachlich「新即物主義」は第一次大戦後にヨーロッパで起こった一芸術運動に過ぎない。いってみれば過去の芸術思想である。その芸術思想に基づいた音楽の演奏法を100年以上も続けていることに誰も疑問を持たないのが私は不思議でならない。

 

何度でもいう、19世紀の作曲家・演奏家は間違いなく即興演奏をしていたのである。記録はいくらでも残っている
それがドイツの「新即物主義」以降そうした即興演奏を「悪」として、かつて「表現芸術」であったものが「再生芸術」になった、しかもその「即物主義」的な方法論こそが作曲家の意図を「正しく再生」する唯一の方法だと誰もが信じて疑わない。実際その演奏方法でバッハやモーツアルトやベートーベンが本当に喜ぶのだろうか?何か音楽の根本の部分を忘れていないか、と思うのである。

 

なぜ「新即物主義」的な演奏が定着していったのか、その原因を考えるに要は
1.新即物主義的な方法の方が演奏技法を指導しやすい。
2.方法論を「規格化」できるためアカデミズムを構築しやすい

 

という2つの原因が考えられる。つまりこの方法論の方が指導するのに楽だからというのが主な理由ではないかと思うのである。(反論のある音大の先生はいつでもコメントしてください)

 

私が音大を受験しようとしている時に「表現する」ことに関して否定的な指導されたことが私自身どうにも納得がいかなかった。ジャズやロックは「表現するのが当たり前」な音楽表現なのにクラシックはその「表現する」行為そのものを否定した。しかしモーツアルトは自分の演奏を本当に「ただ再生」していただけだろうか?

 

このコラムはそのことに関する問題提起でもありました。

 

いずれにせよ、16小説ソロを弾きなさい、コード譜はこうです、といってソロが弾けるようでないと少なくともポピュラーの世界でプロは務まりませんよ。ということはもう一度云って置きましょう。ちなみに私は音大出でもちゃんとアドリブやソロが弾けるプロフェッショナルな人たちをおおぜい知っています。

 

最後にこの記事の主旨とは関係ないがこの発言者、あまり感心できない発言もしている。私はこの発言にあまりに呆れてこの項目には触れる気がしなかった。発言の主旨は「音大を批判するなら音大を出てからにしろ」というもの、つまり音大出でない限り音大を批判するなということだが、外部からの批判を受け付けない、声に耳を傾けない体質があるとしたらこれは問題だと思いませんか? 私は日本の音楽文化が良くなってほしい、そのためには音楽の教育機関にもう少し時代に即した教育をして欲しいと願ってのこのコラムだが、音大卒でない奴は黙ってろということならこれは非常に傲慢な発言といわざるを得ない。これでは日本の音楽教育の明日は残念ながら暗い

 

せっかく問題の核心に触れる発言をしながら残念ながら最後の部分でこの発言者のレベルがわかってしまったのが残念である、

 

3月 2, 2007 音楽コラム | | コメント (4)

2006年12月27日 (水)

[コラム」モーツアルト記念の年の最後ですがいわゆるモーツアルト効果について

以下のコラムは2年ほど前に私のメルマガの「Kyojiの音楽談義」に掲載されていたものです
今年はモーツアルト生誕250周年に当る年でその年末ですが念のためこのコラムを掲載した方がよいと思いここにも掲載します。尚、最後の部分は今回掲載するに当って一部加筆いたしました
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もうだいぶ前ですが北野武の番組で「モーツアルト効果」なるものが紹介されて、大反響だったようです。この「モーツアルト効果」というのはモーツアルトの音楽を聴くと単にリラクセーション効果だけでなく発想力や思考力が高まるといった内容でフランスの医師、ドンキャンベルが提唱したもので、それがたけしの番組でまことしやかに流れたものだから、大変な反響で発売元にユニバーサルはうれしい悲鳴を上げたとかという話です。

 私自身、モーツアルトの音楽は結構好きですが、しかしながら私自身はこの「モーツアルト効果」というものには懐疑的です。モーツアルトの音楽の特徴としてよく揚げられるのは

1 ダイナミックレンジが狭く、テンポの変化も少ないのでリラクセーション効果はある。
2 わかりやすいメロデイと高い芸術性が見事に融合している
3 音楽の構想が精密で厳格なため逆に展開も予想しやすい

といったものが揚げられます。ドンキャンベルはこの3つの要素が人間の思考を高めるといっていますが、まず1については殆どのニューエージ、環境音楽からイージーリスニングも同じ音楽の特性を持っており何もモーツアルトに限ったことではないと思っています。それに私が最もおかしいと思っているのはキャンベルが推奨しているモーツアルトの音楽のリストがあるのですが、その中の曲でテンポでかなり早い曲―たとえばプレストのような超早い曲も入っていることです。これは音楽療法の基礎である同質の原理を全く無視しており、人間の脈拍より遥かに早い曲をリラクセーション効果のある曲として推奨していること自体、このキャンベルという人は音楽療法の基礎をあまり知らないといわれても仕方がありません。どうも私の見たところ単にキャンベル氏の好みで曲を揚げているという風に考えた方が自然です。(ちなみにキャンベル氏はフランスのモーツアルト協会の理事もやっています)

2についてはモーツアルトの天才たる所以だと思っていますが3に関しては私は異論があります。モーツアルトは確かに音楽史上は「古典派」といわれ音楽の形式はきちんとはしていますが、それを持って展開が「予想できる」というのはあまりにも表面的な解釈しかしていないように思います。いずれにせよ上記の2,3が人間の頭脳、発想力をよくするという根拠は私にはまだ曖昧に思えます。
 実はモーツアルトに関してはこの「モーツアルト効果」だけでなくうつ病によいとか、胎教によいとか何かと音楽療法の議論の時に出てくるのですが、どうもすっきりしないものを感じるのです。モーツアルトの音楽の何曲かは確かにリラクセーション効果があるのは事実です。それを否定するつもりはありません。(但しモーツアルトであれば何でもよいとは限りませんけどねードンジョバニの幽霊のシーンとか、トルコ行進曲とかをリラクセーション効果があるという人ははっきりいって頭がおかしいと思います) しかしモーツアルトの音楽だけがリラクセーション効果があるわけではありません。

私の音楽コラム「ヒーリングCDとその効果について」にも書いていますがお医者さんにはなぜかクラシック好きな人が多く、彼らが音楽療法について語る時にどうしてもクラシック音楽中心になってしまうのがどうも私はなじめないのです。特にキャンベルの本を読んでいると、どうもきちんとした科学というよりはキャンベルの個人的趣味からモーツアルトといっているような気がしてならないのです。

<加筆>
先日NHKの視点・論点「まん延するニセ科学」という番組を見ました。
http://www.youtube.com/watch?v=9LNRYsyWgEY

見かけは科学のようで実は全く科学的ではないものの情報が氾濫しています。どこどこの大学の先生が云ったからといってそういう情報をあまり鵜呑みにししない方がいいのではないでしょうか?

12月 27, 2006 音楽コラム | | コメント (0)

2006年5月 7日 (日)

{コラム] 250周年のモーツアルト狂騒曲

丸の内の丸ビルで「モーツアルト展」なるものが
開かれているらしい

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060503-04412721-jijp-soci.view-001

誤解のないように断っておくが私はモーツアルトの音楽は 基本的に大好きである。また今年は生誕250周年(正確には今年の1月27日で生きていればモーツアルトは250才になる、 てーそんなことありえるはずがない(^^::) ということで モーツアルトの話題が多くなるのはわからなくはない

ただ根が天の邪鬼なのか誰でも彼でも「モーツアルトは いい」とかいう話になるといささか正直な話げんなりする。 実際文化人から、タレントまで「モーツアルト」の話を テレビなんかでしているのをよくみかける

まあNHK教育テレビのクラシック系の番組ならまだ 仕方ないかもしれない。

だけど僕自身どうしても次の2種類の人たちがモーツアルト のことを語っているのを聞くとどうにも癇に障る

1.訳のわからない音楽評論家や「モーツアルト研究家」 なる人間がモーツアルトを語っているのを聞くときまるでモーツアルトは市場最高の天才作曲家でモーツアルト 以外の作家は全てカスだといわんばかりに語る輩

2 音楽療法で「モーツアルト効果」なるまやかしの理論をもっともらしく論じている輩。モーツアルトの音楽にヒー リング効果がある曲があるのは事実としても、あたかも モーツアルトが他の音楽と比べあたかも特殊な音楽であるかのように語っている奴

(※モーツアルト効果とは
  モーツアルトの音楽には免疫力や、精神安定場合によってはうつ病にも効果があるというもの。モーツアルトの音楽 を聞くことによって受ける精神的作用をモーツアルト効果という。フランスの精神医学者デーブキャンベルが提唱しているものーちなみにデーブキャンベルはフランスのモーツアルト協会の理事でもある)

前者の場合ーだいたいクラシック系の音楽評論家にありがちなのだが自分の好きな作曲家を始め、ある特定の音楽形式を 絶対視しそれ以外の音楽を認めないという傾向がある。彼ら の話を聞いていると、寧ろ宗教に近いものを感じる。当然ポ ピュラーを含め音楽全般を客観的に評価する能力は彼らには ない。まあクラシック系の評論家でも黒田恭一さんのような 人がもう少し増えれば少しは偏った音楽観で音楽を語られなくなると思うのだが...

後者の場合は本当に困ったものだが実は日本の音楽療法学会では寧ろ主流になっている。だがはっきりいおう。別にモーツアルトでなくてもゆっくりとした美しい音楽であれば同じ効果は得られるのだ。絶対にモーツアルトの音楽でなければ こういう効果はでないという訳ではない。まあ埼玉医科大学の和合治久教授は必ずしもそこまでは云っていないようだがドンキャンベル氏などは明らかに全てのモーツアルトの音楽にこの効果があると述べているがこれは明らかに疑問だ。

例えばドンジョバーニの幽霊出現の音楽にヒーリング効果があるとは考えられない。

そして何よりもこの理論は個人の音楽的嗜好に関する観点が欠けていると思う。音楽療法というのはもっと多様的な面があり モーツアルトといえども、受動的音楽療法(私は受動的 音楽リハビリテーションと呼んでいるー詳しくは私の音楽 コラムー音楽療法についてをご覧下さい)の素材の1つに過ぎない。

モーツアルトの音楽は確かに美しい、すばらしい芸術である。またモーツアルトは(実際の人物像はかなりくだけた人物で あるが)比類なき天才であったことも確かだろう 。

しかしだからといってモーツアルトの音楽が他の音楽と比べ何か「特殊な」音楽であるという観点には同意できない。モーツアルト生誕250周年ーせっかくだから訳のわからない偏見は持たずに「普通に」モーツアルトの音楽を楽しもうでは ないか。モーツアルト自身もそれを望んでいるだろう

5月 7, 2006 音楽コラム | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 7日 (火)

{コラム]なぜ私は「現代音楽」をやめたか

皆さんは「現代音楽」なる音楽のジャンルがあることをご存じだろうか
知らなくても決して恥にはならないし、この音楽を一生知らなくても損することは何もない

「現代音楽」とはアバンギャルドの流れ、もしくはクラシック音楽の近代以降の流れを踏襲している。音楽で、一応建前上は「最先端の感覚、時代の先を行く音楽」のことをいう。実はあの坂本龍一氏や久石譲氏もかつてはこの音楽をやっていたことは意外に知られていない。
私はクリエイテイヴに生きるということというコラムでも書いたが私自身作曲家、音楽家として生きようと決心した時にとにかく「クリエイテイブ」な人間ー音楽のクリエーターでありたいという思いは強かった。今でも基本的にはそれは変わっていない。
その「クリエイテイブ」な人間でありたいという思いが、もう20年も前の話になるが私に「現代音楽」なるものに向かわせた原因でもある。

しかし私ももうやめてしまった。そしておそらく二度と戻ることはないだろう

なぜ、やめたか? いろんな理由がある。こんな音楽をやっていたら「食えない」というのも勿論理由の1つでないとはいわない。しかし最も大きな理由は「現代音楽」というものが本当に「最先端の感覚、時代の先を行く音楽」なのかという点である。

はっきりいおう。「現代音楽」というやつは何やらすごく高度なことをやっているように見えても、とにかく大半の曲は聴いていてつまらない、聴くこと自体が苦痛ではっきりいって一度聴いたら二度と聴きたくない曲が殆ど。なかにはジョンケージといった人のさるまねでとても音楽とはいえないものもあった。(ちなみにジョンケージは私にいわせれば「音の思想家」であって「音楽家」ではない)何よりも「現代音楽」という名前でも殆ど聴いていて少しも現代を感じない、寧ろ古臭いものすら感じたのがすぐに離れてしまった理由である。

勿論収穫が全くなかったわけではない。音楽の視野が広がったし私が関わっている環境音楽などは間接的にミニマリズムの影響を受けている。実際ステイーヴライヒ、テリーライリーといった"ミニマル音楽"はいわゆる「現代音楽」というものの枠を超えて様々な音楽に影響を与えている。例えばクラブミュージックのトランス系等はミニマリズムをクラブ音楽風に料理したに過ぎない。またアンビエント、環境音楽はミニマリズムの変形という見方もできる。

また先ほど話が出たジョンケージのコンセプトも気がつかないうちに我々は影響を受けている自然音を音楽に取りいれたり、空き缶や新聞紙をパーカッションで使う(子供音楽の楽団によくあるやつーこれってなんて云ったっけ?)等はジョンケージが始めたことである

しかしそれも今から30-40年前の話、実はそれ以降本当の意味で新しいものは生まれていないのだ。またクラシック系の「現代音楽」についていえばアカデミズムが入り込んで「現代音楽」という1つの形になってしまった。こうなるともう音楽の表現は死んでしまう。
一方でアバンギャルド系はアバンギャルド系で「わからん奴らはバカだ」といったひとりよがりな態度をあらわにしている人間が多く、こちらも幻滅してしまう。いずれにせよこれを自分の生涯の仕事にするのは馬鹿馬鹿しいというのが私の結論である。

一方でそれじゃ今のいわゆる大衆音楽(私はこの言葉が大嫌いだーだって音楽って大衆のものでしょ?)や商業音楽の現状を肯定しているかというとそれはまた別の話だ。こちらの方も大きな問題を抱えている。音楽業界が1998年から現在に至るまで8年連続前年割れという市場の状況が全てを物語っている。その問題について話すととても紙面では足りないのでまた別の機会にしよう

最後に私が理想としている状態は何か?
それはコマーシャリズムと芸術性がバランスよく保たれ、ある特定の音楽を聞きたい人に音楽が自由に届く状況商業的にも芸術的にも成功している作品のことである1960-70年代のロック音楽や1980年代のニューウエーブ、テクノといった音楽の時代にはそうした時期が確かにあった。またクラシック音楽で今、古典となっている音楽の多くは一部の例外を除き彼らが存命時代に商業的にも成功している音楽である

そうした状態に戻すにはどうすればよいか。それが今の私たちの課題である。
ネットを中心とした社会がそうした時代を復活させてくれることを私は期待している

3月 7, 2006 音楽コラム | | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 7日 (土)

心に響く音楽を捜そう

音楽業界の慢性的な不況、と か最近メガヒット作がないとかいろいろいわれます。私はそれは単に不況のひとことでは解決できない問題があるように思います。しかし実はかながね気になっ ていたことは最近の若い世代に「忘れられない曲はありますか?」と聞いてもちゃんとした答えは帰って来ない点にあります

  私が少年時代の頃は、好きなアーチストのためにおこ使いをためてアルバムを買ったりしたものでした。私の世代ー40代(^^;)ーは誰でも自分の人生 で「忘れられない音楽」というものが1曲くらいはあったものでした。私も古い話で恐縮ですがピンクフロイドやロキシーミュージックといったアーチストがい なかったら今の自分はなかっただろうと断言することができます。しかし最近の若い世代の子でそうした体験を持っている人があまり多くないように思えます。

   その違いは一体どこにあるのだろう、と思っていますと私たちが少年時代を過ごしていた時と現代で根本的に違う点があります。それは現代はメデイアに コントロールされた音楽ー広告会社とのタイアップの音楽ーが中心に流されていて、特にメジャーレコードの音楽の殆どはそうした「仕掛け」によって売られて いる点です。私たちが少年時代の頃はメデイアはそこまで発展していませんでしたので、そうしたものあまり多くはありませんでした。実はそのタイアップ中心 というのは大きな意味を持っています。

   現代は情報化社会といわれますが,メデイアからは情報が洪水のように流れています。そのことが音楽のありかたに大きな影響を与えているようにも思い ます。つまりそのことによって、情報に対してパッシヴ(受け身的)な姿勢になりがちであるということです。自分が求めている情報を積極的に捜すーアクテイ ブな姿勢を得てして忘れてしまいがちになります。勿論インターネットでの検索というのがあります。しかしなぜかこと音楽に関してはこのメソードがあまり有 効に使われている印象がありません。

  私は作曲家としていわゆるヒーリング音楽といわれる種類の音楽を書いていますが、最近気になるのは音楽を聞いて「癒される」ということがあたかも珍し いことであるかのようないわれ方をしている点です。私はクラシックでもジャズでも、ロックでも美しい音楽を聞いて涙を流した経験があります。しかしそう いった経験を持つ人は意外に少ないようです。特に20代以下の若い世代の人でそういった経験を持つ人が極めて少ないのが気掛かりです。なぜこうなってし まったのでしょうか?

  私もインターネットをかなり多用する方ですし、音楽業界の人間として多くの情報を絶えず仕入れなくてはいけない立場にあります。しかし最近そこには落 とし穴があることがわかりました。つまり情報化社会というのは、情報や知識ばかりが先走り頭でっかちになってしまいがちであるという点です。しかも気を付 けなければならないのは伝えられる情報は必ずしも正確な情報とは限らないという点です。皆さんの中には「伝言ゲーム」というのをやったことがある方がい らっしゃると思いますが、大勢の人が伝言を伝えていくうちに最初の情報と全く違うものになっていくのを経験されたことがあると思います。それは不思議なこ とではなく、自然の法則なのです(難しいですがエントロピーの法則といいます)つまり何がいいたいかというと、伝えられている情報だけで自分が全てわかっ ているかのように考えるのは誤りであり、危険なことですらあるということです。

  そこで私は結局のところ一番古典的ではありますが、「自分の足で情報を仕入れる」ことが実は今まで以上に重要ではないかと考えるようになりました。結 局伝えられる情報だけでは知識はあっても実体験はない。それは本当に理解したことにはならないという気がしています。最近の若い世代の子を見て思うのは実 体験が乏しい子が非常に多いという点です。一方ではテレビや携帯のメールの情報に頼る子よりタレントの「追っ掛け」をやっている子の方がよほど実体験が豊 富だということがいえます。(^^) そうです。自分が本当にいいと思う音楽、好きな音楽は自分の足で捜すことが大事だと思うのです。

  メデイアタイアップされた音楽の全てが悪いとはいいませんが、メデイアコントロールされた音楽のみ追い掛けるというのは音楽の体験として少し寂しい気 がします。もっと自分の心を揺さぶる音楽はないものか、自分の足で捜してみませんか? あなたが好きなサウンドは何でしょうか? ロック? クラブミュー ジック? メタル? 人によって様々でしょうが本当の意味であなたの心に響く、心を揺さぶる、あるいはエキサイトさせる音楽を捜してみましょう。できれば HMVといった量販店のような場所ではなく、渋谷でも原宿でも 特定のジャンルの音楽の専門店があります。そういう所では自由に音楽を聞かせてくれますから、もしお暇ならそういう所を覗いてみましょう。私も10代の頃 はそうしてきました。皆さんも自分の足で自分の人生にとって忘れられない音楽を捜してみることをお勧めします。

1月 7, 2006 音楽コラム | | コメント (0)

2005年1月16日 (日)

なぜ私は音大へ行かなかったか

昨年から久しぶりにプレーヤーとしての活動を再開したのですが、お陰さまでいずれもお客様からすばらしい反応をいただきました。それ自体はうれしいのですが、時々「あなたはどこの音大を出たのですか?」と聞かれることがあります。こういう時「私は音大は出ていないのです」といいますとたいていの場合びっくりされます。

 私は音大、特に芸大の受験を真面目に考えてそのための準備をした時期があったのは事実ですが結局音楽大学には行きませんでした。そして実は音楽大学に行かなくてよかったと今でも思っています。おそらくもし音楽大学に行っていたら今の自分はなかっただろうと自信をもっていえます。

  なぜやめたかって? 理由はいろいろありますが一番の理由は音楽大学のアカデミズムの体質にどうしても合わなかったのが揚げられます。当時私は音楽の先生の芸大の作曲学科受験を勧められていたのですが、芸大というのはアカデミズムの最高峰、その教育内容、カリキュラムもそうですが何よりもその大学に入っているひとたちのメンタリテイに対して私は終止違和感を感じていました。1年以上続けていくうちに「このままでは自分の音楽の感覚がおかしくなる」と思い始めました。そしていよいよ音大受験の本番という矢先にやめてしまいました。

  これは今思うと正解だったと思います。私はその後普通の大学に入学しましたが、皮肉なことに普通の大学に入ってから本格的な音楽の勉強を始めました。ただしこの場合音大のようなクラシック音楽一遍倒ではなく、ロックやジャズ音楽の語法、バンド活動の参加を積極的に行いました。アルバイトでラウンジピアニストをやったのもこの頃です。そうしているうちに音楽理論の勉強は必要であると感じ、音楽理論を学ぶため再び芸大系の先生の門をたたいたりもしました。そうした折ミニマリズムや新しい音楽の表現にも触れ一時は現代音楽の方向に足を踏み入れたことがありましたがつまんなくなりすぐにやめてしまいました。

音楽大学の世界を知らない人は理解できないでしょうが、実は音大にいながらクラシック音楽以外の勉強をするのは少なくても当時はかなり難しい状況だったのです。音楽大学のアカデミズムに染まっている人はポピュラー音楽に対してひどい偏見を持っている人が多く、実は音大の学生がアルバイトでスタジオミュージシャンの仕事をしていたために退学させられたなどという信じられないことが昔本当にあったのです。最近はそこまでひどくはなくなったようですが、でも音楽大学の基本的な体質はまだ変わったとはいえません。

  意外にお思いになる方が多いでしょうが実は音楽大学をでてプロのミュージシャンになる人は極めて少ないです。全くいないとはいいませんが、殆どいないといっていい程極めて少ない、何千人に1人という程度なのです。実際問題として「音大を優秀な成績で出た」人でプロの現場で使い物になるケースはまずありません。その理由として以下の原因が揚げられます。

1. クラシック音楽以外の音楽に対して呆れる程無知である。
2.   アドリブが一切利かない
3. 変な意味で「プライド」が高いので、こちらの要求に応えらず極めて使いづらい


   1、3は論外だが私が問題だと思っているのは特に2でしょう。 アドリブ(即興)ができない演奏家は才能のない演奏家である

; これは私の持論です。これは必ずしも全てのクラシックの演奏家が才能がないといっているのではありません。実はクラシックでも一流の演奏家はある程度アドリブができるのです。しかし大半の音大出の演奏家はアドリブ、即興ができません。これはクラシックの演奏家は全て「楽譜通りに」演奏するのが是とされ、アドリブー即興は演奏家としてやってはいけないことだという教育をしているからです。だからスタジオで即興でソロを演奏しろといっても殆どの音大出の子はできません。コード譜のみ記されていても何をしてよいのかわからないようです。しかしそれではプロの現場では使い物になりません

一体いつの頃から「即興=悪」という教育が始まったのでしょうか。実はクラシック音楽でも少なくても19世紀の中頃までは即興をする演奏家はたくさんいました。リストなどは実は即興の名人でフジコ、ヘミングで有名になった「ラ・カンパネルラ」は実はリストが即興で作った曲ということは意外に知られていません。リストど同時代のバイオリンの名手ーパガニーニも即興演奏の名人でした。それがだいたい20世紀近くになってから音楽の構造も複雑になり、ストラビンスキーなどは「演奏家は作曲家の操り人形であるべきだ」と公言していつのまにか「即興=悪」という風土がクラシック音楽の世界に蔓延したのでした。私はこのことが音楽を非常につまらなくしていると感じています。

 誤解しないでいただきたいのですが私はクラシック音楽は大好きです。学生時代は寧ろクラシック少年でした。そしてクラシックの昔の演奏家の演奏に何度も感動させられた経験を持っています。ユーデイメニューイン、アイザックスターン、レオナルドバーンシュタイン、フリードリッヒグルダ、パブロカザルス。だが悪いのですが「海外のコンクールで優勝したetc」「いろんなコンクールで上位入賞」した演奏家の演奏を聴いても一部例外はあるが大抵聴いていてつまらない、全然感動しないのです。クラシック音楽自体は歴史の波にもまれながら生き残ってきた名作ばかりです。みんないい音楽です。しかし人気はないのはなぜでしょうか。それはクラシック音楽がつまらないのではありません、クラシック音楽の演奏家の演奏がつまらないのです。私は音大出ではないから好きなことをいえます、この発言でおそらくは音大出身者から総スカンを食らうかもしれません(^^:) でもこれは私が素直に正直に感じていることなのです。

  音大にいたらこうした点がみえなかったかもしれません。実は音大出でもプロのミュージシャンになっている人は殆ど例外なくこうした「音大的」価値観に染まっていない人が多いです。中には同級生から「あんな人いたの?」と云われる程学校に行かずにプロで現場経験していた人もいます。実際そういう人間の方がプロの世界に入って伸びているのです。残念ながらそれが現実なのです。

宮内庁に似ている(!?) 音楽大学の体質

 音楽大学は「クラシック音楽の基礎を学ぶ」ための教育期間ということになっています。だからプロのミュージシャンを育てるよりは学校の先生を多く育ててきました。今まではそれでよかったかもしれません。しかしこれからはそれで本当によいのでしょうか? 音楽大学というところは云ってみれば「宮内庁」に体質が似ています。ハッキリいって時代遅れどころか時代錯誤の部分があり、人によっては頭が19世紀で止まっている人も少なくありません。しかし残念ながらそういう人たちが音大の世界を牛耳っているのも事実です。いまだに西洋のクラシック音楽を唯一絶対の音楽であるという基本的ビジョンを変えようとせず、社会がどういう音楽人を必要としているかについて考えようとしていません。

これからは少子化のため学校の音楽の先生のポストも簡単には空きません。街の音楽教室の先生とて同様です。そうした状況にもかかわらず音大が今までの教育方針を根本から見直そうと考えている態度が見えて来ないのはとても残念な気がします。卒業しても社会に役に立つ人材を育てなければ教育機関としての社会的使命を果たしているといえるでしょうか。それを真面目に考えないとそのうち音楽大学の存続すら危うくなるかもしれません。

 

1月 16, 2005 音楽コラム | | コメント (0)