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2017年2月 9日 (木)

David Bowie is himeself (デビッドボウイ展) 見に行きました

正直決してアクセスがいいところではないのでなかなか行けなかったんですが、ようやく天王洲アイルの寺田倉庫内での「デビッドボウイ展ーDavid Bowie is himeself」を見に行きました。

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Davidの衣装の多くをデザインした山本寛斎のデザインした掲示板で来場者の多くが「寄せ書き」をしていました。

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会場内は勿論撮影はできませんので、撮影はここまでとなります。これ以降の写真は"David Bowie is himself"の公式サイトから借用しました。著作権、肖像権は"David Bowie is himself"にあります

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昨年の初め、ちょうど一年前のあの衝撃的な訃報から、いまだにその死を受け入れることができなくなっているほどアーチストDavid Bowie の存在はあまりにも大きいものでした。そしてこのExhibitionにて私たちが失ったものの大きさを改めて知ることにもなりました。

デビッドボウイー本名 David Robert Haywood Jones,は単にロックミュージシャンだけではなく、デビッドボウイというカルチャーそのものということができると思います。音楽だけでなく映像、アート、パフォーマンス、俳優としてこれほどの幅広い影響を与えたアーチストはいなかったと思います。このExhibitionではデビッドボウイの業績を見て改めていかにすごいアーチストであったかを実感することができると思います。

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2017年2月 3日 (金)

音楽教室から著作権徴収ーJASRACは過剰な著作権「演奏権」信託権濫用による徴収をやめよ!!(緊急声明)

ご存じの通り私が経営している会社の主要取引先は某楽器メーカーであり、音楽教室の教材の制作を行っている。それだけにこのニュースを聞いて驚いた

これまで著作権の徴収において教育現場での使用料徴収は教育を重視する立場から著作権料徴収はしない、というのが通例となっていた。ところがその通例をJASRACは「演奏権」を根拠に破ろうとしていることがわかった
■音楽教室から著作権料徴収へ JASRAC方針、反発も

http://www.asahi.com/articles/ASK213QYXK21UCVL00P.html

そもそも著作権を教育現場に条件的に摘要する場合は非常に限られている
http://www.jasrac.or.jp/info/school/
http://www.jasrac.or.jp/park/inschool/

だがこれらは学校でCD,DVDを配布する、楽譜をコピーして配布する、そして文化祭等にアーチストに対して報酬を払った場合、等のみを規定している。

そして万国著作権条約パリ改正条約の第五条の3-3にも「例外規定」として「この条の規定に基づく許可は、教育又は研究を目的とする場合に限り、与えることができる。」としている、

http://www.cric.or.jp/db/treaty/bap_index.html

だが上記いずれの規定の中にも「演奏権」に関する規定が含まれていない。今回のJASRACのヤマハ、カワイの音楽教室への課金はそれを根拠にしている。やりかたが実に姑息だ。そしてこれは明らかに万国著作権条約パリ改正条約の基本精神に反するものである。

・著作権の「演奏権」徴収を学校教育まで対象にする道を開く暴挙

今回のヤマハ、カワイに対する「演奏権」の著作権徴収は「演奏権」の規定を個人の音楽教室や学校教育にまで広げる道を開くことを意図しているのは明らかだ。ヤマハ、カワイの音楽教室の運営も決して楽ではないし、いわんや町でピアノを教えている個人のピアノ教師を始め小さな音楽教室などまず、徴収されればやっていけない。そして街の小さな音楽教室や学校での音楽授業にも「演奏権」に基づく著作権徴収を広げる可能性がある。いや、殆どそうなるのは時間の問題といっていいだろう。

これはいうまでもなく日本国内のほぼ全ての音楽教室の存続を危うくし、全ての学校の音楽の授業にまで適用すれば日本の学校から音楽の授業が消える可能性すらある、

これは決して大げさなことではない。JASRACが学校の音楽教育にまで「演奏権」の著作権料徴収を強行すればそうなる可能性が高い。

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2016年10月14日 (金)

ボブデイラン ノーベル賞受賞についてどう考えるか

毎年10月になるとノーベル賞の発表が行われる、今年も医学、生理学賞で日本の大隅良典東京工業大学教授が受賞する等の話題だった。そして毎年のように文学賞では村上春樹が受賞するのではないか、といわれていたが今年も受賞できなかった。

その文学賞になんとボブデイランが選ばれた。

■ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞
http://amass.jp/79450/

音楽文化に携わる私でもさすがにこれには驚いた。小説、詩、随筆等ではなくミュージシャンが選ばれたのである。

この受賞に関して当のボブデイランはノーコメントを貫き通しているが、スウェーデンのストックホルムにある選考委員会のダニウス事務局長によると

「選択は予想外に思えるかもしれないが、もし長い時を振り返ると、ホメロスとサッフォーが見えるでしょう。彼らは、音楽のもと、もしくは劇場の中演じられる必要のあった詩的テキストを書いていた。これは、ボブ・ディラン氏の場合も同様だ。我々はだって、今に至るまでホメロスとサッフォーを読み、私達にはそれが気に入っている。我々はディランを読めるし、読まないといけない」

スイス・アカデミーは「偉大な米国の歌の伝統の中で新たな詩的表現を作ってきた」として、ボブ・ディラン氏をノーベル文学賞受賞者に選考したらしいが、これはどう考えればいいだろうか?

ひとことでいえば歌詞の内容を文学のと同等に扱うようになった、ということじゃないか?と思う。

以前から歌のと文学でいうは違う、と私も云っていた。実際作り方がかなり違う

しかしどちらも言葉を使った上での表現、レトリックであることに変わりはない。歌詞はメロデイに乗せて歌われることを前提としている。詩の中には歌詞にされる場合もないわけではないが、一般に特定のメロデイに合わせて作ることを想定していない

今回のボブデイランのノーベル賞受賞はメロデイに乗せる歌詞も文学の一分野である、ということを明確に認めた、といえるのではないだろうか?

いずれにせよ音楽文化、そして音楽家にとって喜ばしい受賞であることに変わりはない

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2016年10月 2日 (日)

ボランテイア、ノーギャラで出演(演奏)していいケースー実はいわれているほど多くはない

先日の記事において俳優やアーチスト、演奏家、プロフェッショナルに対するブラックな求人広告、あるいは強制ボランテイア、ノーギャラで出演(演奏)するケースがいまだ頻発している点について述べた。こうしたケースは全く減るどころか寧ろ内容的に酷くなってきている印象がある。

私は演奏家として、クリエーターとしてボランテイアのありかたを決して否定するものではない。実際セプテンバーコンサートなどでボランテイアの演奏も行っている。

出演の中には「お金以外のメリット」が得られる場合がある、という人がいる。確かにそういう場合はないとはいわない。しかし最近その「お金以外のメリットがある」という点だけが一人歩きし、一部の人間に悪用されている傾向すら感じるのだ。映画出演でもどこかのイベントスペースでも当たり前のようにノーギャラ出演を要求することが頻発している。

だが「お金以外のメリット」が得られる場合というのは実はそんなに多くはないのだ。

例えば予算がないという理由で俳優に映画にノーギャラで出演するケースだが、「お金以外のメリット」が得られる場合というのはどのような場合か。考えられるケースをまとめてみよう。ノーギャラで出演していい場合だ

1.その映画が世界有数の映画祭等で入選、入賞する、あるいは劇場公開される等、出演した俳優、女優にとって「大きな実績」になる場合

こんな作品ははっきりいってそんなに多くはない。そのためノーギャラで出演を頼まれた場合は脚本やその監督の力量、将来性等をよく吟味する必要がある。はっきりいって「これは!」という作品はそんなにあるものではない

2.その映画が社会的、福祉的、(場合によっては政治的)テーマがあり、その映画の出演によって出演者自身の社会に対するメッセージを発信できるケース

これは出演者自身がかなり社会に対して強いメッセージを発したいという場合に限る

3.映画の主旨、映画のスタッフとの強い信頼関係があることを前提に「面白い作品」を作るためにノーギャラで出演する

当たり前だがこの場合映画のスタッフ、プロデユーサーと旧知の間柄でお互い強い信頼関係で結ばれている、というのが大前提である。お互い全然知らない者同士に要求することではない

少なくとも初対面でお互いよく知らない人間にノーギャラで出演させるという場合はよほど映画その他についてきちんと説明し、その主旨に賛同できるかきちんと確認することがポイントである。ノーギャラで引き受ける場合はこの案件が本当にお金以外のメリットが発生する可能性があるのかきちんと見分けてから判断する必要がある。その判断は決して簡単ではないので、そういう観点からも軽々しく引き受けてはならない

いずれにせよそうしていいケースは決して多くはない。

少なくともネットで一部の人間が考えるほど「お金以外のメリット」得られるケースなど滅多にないのだ

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2016年8月 6日 (土)

「音楽は趣味」という感覚が抜けず音楽を仕事としている人間をバカにする、また目に見えない技術やノウハウには価値がないーそう思い込んでいる人間が多数の国は絶対に「一流国」にはなれない

一昨日ブログ記事を書いて少し記事を書く気になってきたけど、前々からこのことについて書こうと思っていたのでやはり書かせて頂く

こんなブログ記事をみつけた。
■ミュージシャンに言ってはいけないこと
http://k-yahata.hatenablog.com/entry/2014/06/15/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%81%AB%E8%A8%80%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8

質問だけリストアップするとこうなる

1.プロ目指してるの?
2.音楽だけで食えてますか?
3.プロですか?
4. やっぱ上手いんすか?
5. 誰々って上手い?
6. 夢を追っかけてるんだ
7. 好きなことを仕事にできていいね
8. あーいう仕事しないの?
9. 楽器弾いて
10.教えるのなんて楽しくないでしょう?

まあ全部ではないが、私も上記の中のいくつかは実際本当にいわれたことがある。
まさしく「音楽=趣味」という感覚で、我々を「趣味を仕事としているろくでもない奴ら」と考えているとしか思えない発言ばかりである。実際私も仕事で企業だけでなく一般(つまり「音楽」や「芸能」の仕事に関わっていない人、という意味だー自分たちを「一般でない」という意味ではない、最近文章読解力が低い人間が増えているので困る)の人と音楽家の派遣やイベントの打ち合わせをしている時に「音楽なんて所詮娯楽だ」「空気と同じようなものだ」と受け取れるようなニュアンスの発言をよく聞く。言った本人は必ずしも悪気はないのかもしれないが、「音楽家」に対してある種の偏見を持っていると感じている人が多いのも事実である。

実際我々がステージに上がる、上がれるようになるためにどれだけの練習、検証、調査等を行っているかを理解している人がどれだけいるのだろうか? たぶん遊びながら、道楽にふけりながら面白おかしく暮らしている、などというステレオタイプの偏見で見ている人が多いのではないだろうか?

だからタダで演奏しろ、などと平気でいえるわけだし、音楽がネットで流れていてもそれがただであるのが当たり前だ、などという感覚が当たり前のように横行するわけだ、

要するに

形のないもの、技術、ノウハウー要するにモノでないものはただで当たり前だという感覚だ、

あえていう、それは日本という国がいかに文化の程度が低いか、ということの証明でもある

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2016年7月18日 (月)

コルビジェ設計の上野の国立西洋美術館が世界遺産登録ー実は大野も若干ですが関わりました

報道で既にご存じの通り20世紀の偉大な建築家であるル・コルビュジエが設計(実際には「基本設計」)した東京上野の国立西洋美術館が世界文化遺産として登録された。

この世界遺産登録の手続き自体は今から4年前くらいに始められ、3年前に「ル・コルビュジエと国立西洋美術館」という映像を制作した。この映像は私がよくおつきあいする製作会社による制作のため、この仕事で映像用の音楽を制作した

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Corbusier02

これはル・コルビジェの設計した貴重な文化遺産として紹介するために事実上、ユネスコ向けへのDVDを作ったもの。公である台東区が制作したプレゼン資料なので私は元より監督やス タッフのクレジットは一切入っていない。間違いなく世界遺産登録のための資料映像になっており、最終納品まで紆余曲折があったようだがとりあえず身を結んでよかったと思う。

東京都としては自然遺産である小笠原諸島に次ぐ世界遺産となり、東京都23区内では初めての世界遺産となる。いずれにせよ関係者の皆さん お疲れ様でした。

ちなみに何か祝賀式典でもあるのだろうか?式典でコルビジェにゆかりのある音楽というと実は現代音楽になってしまう。電子音楽の先駆者といわれる、エドガーヴァ―レーズとかコンピューターミュージック(といってもmidiとか生まれる20-30年以上も前の話し)の先駆者のイアニス・クセナキスとか。 ちなみにクセナキスは本職は建築家でコルビジェの建築事務所でも働いていたので、もし「コルビジェと音楽」なんていうイベントがあったらクセナキスの作品を取り上げないわけにはいかないだろう。

但しいずれもとてもじゃないが、「親しみやすい音楽」とは程遠い。

特にヴァ―レーズはともかく今クセナキスのようなやりかたで作曲や編曲をしている人間は皆無といっていいだろう。まあ、ああいうことをやってみました、という実験的試み以上の意味は残念ながらない。現代音楽にありがちだが、「どんな音楽」よりも「何をやったか」の方が重用視される時代だったからね

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2016年5月22日 (日)

アーチスト、音楽家、芸術家には二通りのタイプがいて両者は相容れない

もう結構音楽の分野でも映像だけでなくアート、その他様々な分野でも一定の仕事をしてきたので経験上あることがいえる、と自分では考えている。

これは音楽に限らないが、芸術家、アーチストには大きく分けて2通りのタイプがいるということだ。

1つはある特定の分野を狭く、深く追求するタイプで音楽でいえば、スタンダードジャズの正当派、アカデミックな背景のクラシック音楽等で徹底的に機能美、構造美、表現の形にこだわるタイプだ。基本的に自分が取り組んでいる音楽の形式、表現語法以外は興味を示さず、いわゆる「正当派」といわれる音楽語法の追及にこだわる人たちである。クラシック、ジャズ以外に演歌、ヘビーメタル系のハードロックもこのタイプに入る、機能美、構造美、形式美に徹底的にこだわる人たちだ。

そしてもう1つは前者とは全く逆、広く、浅く音楽語法を扱うタイプで前者とは逆で音楽の形式には全くこだわらず、新しい音楽のありかたを追求するタイプ。基本的に既成概念の音楽を破壊し、音楽語法の新たなる可能性を追求するタイプ。勿論、ベースとなる各音楽のジャンルはあるものの、必要なら全く違う音楽の世界とのコラボレーションや音楽語法の導入を厭わないタイプ

私の音楽をご存じの方ならわかるだろうが、私は明らかに後者のタイプである。そして音楽に限らず、私のやることなすこと全てがそうした考えの基で進められている。

しかしそうであるがゆえに私のやりかたを気に食わない、理解できないという人たちも少なくない、ということも感じている。いわゆる音楽業界でメインストリートを歩いている人たちの業界関係のトップの一部からあまりよく思われていないことは風の噂で聞いているが、同じ音楽家でも狭く、深く追求するタイプの人たちもどうも私のやりかたを理解できないらしい。

このブログで既に何回も書いているが、私はFacebook の「音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」というグループの管理人をしている。そのグループで先日、とりわけ音楽の分野の募集において参加している音楽家の人たちに対して苦言を呈した。それは当ブログのこの記事のリンクを貼り、是非皆さんに読んでほしいと思ったからである。

ミュージシャンも意識改革を 受け身の姿勢でなく自分からどんどん働きかけましょう
http://
kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2016/05/post-265f.html

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2016年2月15日 (月)

司馬遼太郎Nスぺ「この国のかたち」-「日本人は今無感動体質」になってしまっている

ご存じの通り私は歴史小説が好きで司馬遼太郎の作品も好きである。

その司馬遼太郎没後20年にあたり香川照之がホストとなっていた「この国のかたち」

非常に面白かった。と同時に司馬遼太郎が我々に残した未来の言葉を聴いていずれもドキッとした。二十年前といえばまだ日本がバブルにうかれてまもない頃、その頃に既に現在危機的な状況にある日本をある程度予見していたような部分を感じた。

第一回の第1集  “島国”ニッポンの叡智(えいち)

ここでは「島国」をキーワードに日本文化をどうかたち作ったのかに焦点を当て、境ゆえに海の向こうから来る普遍的な文化に憧れ続け、とりわけ江戸時代の鎖国政策が外国に対する好奇心を高め明治維新の「奇蹟」につながった点を揚げた。→日本人の感動体質

第二回の第2集  “  “武士”700年の遺産

鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神で江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった、と指摘している。

いずれも司馬遼太郎らしい的確な分析をしているが、冷静に考えてみて愕然としたことがある。なぜならいずれの点に関しても「現代の日本人が忘れつつある、いや既に忘れている」ことを指摘しているからである。

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2015年9月 2日 (水)

東京五輪エンブレム 使用中止事件を見てー「パクり」について考える

既に報道されているように2020年の東京オリンピックエンブレムの盗作問題で佐野研二郎氏のデザインの使用を中止する決定をオリンピック委員会は決定した。

東京五輪エンブレム 使用中止の方針固める
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150901/k10010212001000.html

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左がドビ氏、右が佐野氏の作品である。

当ブログの記事にも書いたが偶然の一致にしてはあまりに似すぎており、しかもこの記事を書いたあと佐野研二郎氏には他にも盗作疑惑とされている件があり、昨日の記事で書いたサンプルの時点からの工程を発表もさらに盗作疑惑が浮上するなど、さすがのオリンピック委員会も庇いきれなくなった、ということもあるだろう。

どうも佐野氏の制作スタイルとして画像や写真の共有サイトPinterestなるコレクションサイトからからのパクって作品を作るというのがあるらしい。ここで気になったのは、佐野氏は「作品をパクって作るのは現代では当たり前である」かのような言質を述べていた点である。

佐野氏はwikipediaを参考にさせていただくと博報堂デザインにいたようだが、私自身も博報堂とのおつきあいがあるが、多額の金額を扱う広告代理店の世界でもあのような仕事ぶりだったのだろうか?

何度も書くが、結果的に自分の仕事が他人の作品に似てしまう、ということはよくある。しかし今回の佐野氏のケースは明らかに「パクリ」という意図的な確信犯であり、それとは明らかに違う

■佐野氏 使用例で転用を認める
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20150901/4583271.html

お恥ずかしい話だがJ-popの世界では当たり前のようにこの「パクり」が行われている。それどころかいかに「他人のおいしいところを「わからない」ようにパクるか」ということが競われている始末である。

佐野氏が確信犯的に行い、本人の表情からみても「これのどこが悪いの?」かといわんばかりの表情を見るとデザインの世界でも当たり前のように行われているのだろう

そこであえて「パクリ」というものについて考えたいと思う。

まず大前提の話として「パクリ」結果的に似てしまう は全然違う、ということはおわかりいただけるだろう。結果的に偶然作品が似てしまう場合、似ている部分はあっても詳細な部分まで瓜二つ、などというケース は殆どないからである。佐野氏の上記の東京エンブレムのようにTのフォントの詳細まで偶然似てしまう、ということは通常まず考えられない。

そして大前提として作曲家を始めとするクリエーターは基本的には「意図的に」誰かの作品に似せた作品を作ってはならない。例えプロデユーサー/デイレクターに「誰々の作曲家のあの曲のような感じで」というオーダーを受けても「意図的にその作品を盗用」してはならない。

当たり前の話である、

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2015年8月31日 (月)

クリエーターのプライドはどこ? オリンピック委員会の佐野研二郎氏が堤出した原案説明に思う

この件に関しては以前当ブログの記事に書いたが

勿論どんな作品もたまたま誰かの作品に結果として似てしまう、ということは起こりうる。
但し実際にそういうことが起きた時に、1クリエーターとしてどう行動するかが重要である。

はっきりいってもし一応クリエーターの端くれであれば、「どの作品に極めて似ている」などと言われたら俺だったらその時点で別の作品に作り直す。 一応クリエーターとしての矜持があるのなら普通はそう考える

今回見ると最初のサンプルの時点からの工程を発表したようだが、そもそも最初の段階から別のパクリの疑惑まで出る始末ではっきりいって恥の上塗り

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ここに見えるのはクリエーターのプライドではなく「保身」だ。それが非常に残念である。

実に見苦しい言い訳や小手先の屁理屈だ。曲りなりも博報堂等の大手広告代理店で仕事をしていたにしてはお粗末すぎる。

悪いがこれだけでこの人のクリエーターの能力を疑わざるを得ない

何度も書くが結果として自分の作品が誰かの曲に似てしまう、ということはよくある。
しかし普通はあそこまで似ないね。

Pinterestなる写真共有、画像のコレクションサイトからのパクリのようだが、パクリが当たり前になっているJ-popにしたってロコツにわかるパクリはしない。ばれたら著作権問題に発展するからだ。

どうも佐野氏の手法を見るとそのあたりの「パクリ」に関しては大したデフォルメもバリエーションも加えないで使っているようにも見える。

つまり同じパクるにしても、もう少しマシなパクリの仕方にしろよ、ということだ。

もう発表して商品化してしまったらもう仕方ないけど、まだ商品化の前のはず。今だったら作り直す時間はあるだろう。何せまだ5年あるんだからね。

パクリ、が得意なクリエーター。なんてあまり聞こえのいいもんじゃないと思うが、

俺だったらそんないわれ方されるのは嫌だね

それがクリエーターのプライドってもんじゃないのか?


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2015年8月13日 (木)

エリックサテイとその時代展に行ってきました。

今年から「ラグタイムコンサート」のシリーズをやっていますが、その関係ですっかり忘れていたのですが今年はエリックサテイの没後90年でした。その関係で渋谷のBunkamuraにて「エリックサテイとその時代展」をやっていまして、ようやく今日見ることができました。

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エリックサテイは変人とかいわれますが、サテイ→J ケージ → Bイーノ
という「現代の音楽」(現代音楽ではない)に大きな系譜が存在し。ある意味では現代の音楽の租といってもいい人で影響は計り知れません。

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Erik Satie 1866-1925

この人がいなかったらアンビエントもニューエージミュージックもたぶんなかったといっていいでしょう。

エリックサテイという人は単に音楽家という枠だけに収まらない人で19世紀末から20世紀初頭のパリの芸術運動に大きな影響を与えた人でもあります。それだけにサテイの同時代の芸術家、演劇、映像といったものの展示が楽しみでした。

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2015年7月31日 (金)

2020年東京オリンピックのエンブレム盗作騒動ーはっきりいってこれはアウト!!

既にマスコミで報道もされているように2020年に開催される東京オリンピックのエンブレムについて、ベルギーのデザイナーが「自分のつくったロゴの盗作だ」と訴え、法的措置を取るという。

■「盗作だ」ベルギーのデザイナーが法的措置へ 2020年東京オリンピックのエンブレム
http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/29/emblem-plagiarism_n_7900370.html

一応クリエーターの端くれとしていうと結果的にできあがった作品が「誰かに似てしまう」ことは決して珍しいことではない。私も全く盗作の意図はないにしても「誰々のあの曲に似ている」などと言われたことがあるし、またテレビやとあるアーチストの曲でも「自分の曲に似ている」などというケースもよくある。

音楽の盗作騒動の裁判では有名なところでは服部克久と小林亜星両氏による裁判の例があり、この裁判は小林氏の勝訴で終わったが、実際にはこういう盗作裁判で決着をつくことは寧ろ稀である。

では今回のケースはどうだろう? 「盗作された」と主張するベルギーのオリビエ・ドビ氏のリエージュ劇場のロゴと渦中の佐野研二郎氏の作品を比べてみよう

Ologomarks570

左がドビ氏、右が佐野氏の作品である。

結論から言おう。 盗作かどうか、という関係でいうとこの作品は明らかにアウトである

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2015年7月 4日 (土)

コンテンツTOKYO基調講演ー株式会社KADOKAWA 角川会長の「ネットフリックスとコンテンツの未来」

前の記事にもかいてありましたが今年の「コンテンツTOKYO」のメインの目的は株式会社KADOKAWAの角川歴彦会長の基調講演を聞きに行くのが目的でした

ご存じのように角川歴彦会長は川上さんのドワンゴの合併(買収)を行い、旧角川書店とドワンゴを合併して株式会社KADOKAWAと命名しメガコンテンツパブリッシャーというコンセプトを打ち出した方です。

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実は当初は「一億総クリエーター時代の本格的到来とコンテンツ産業の未来」というタイトルでしたが、当ブログの記事にも書きました10月のネットフリックスの日本進出に鑑み、急きょ講演のタイトルを「ネットフリックスとコンテンツの未来」と講演の内容が変更になりました。

感想だけ先述べますと「きわめて有意義な講演だった」といっていいと思います。さまざまな面で大いに参考になりました。

そんな感じで講演がスタートしました

Kadokawa03

講演の基本的な中身はこんな内容で進行しました。

Kadokawa02

内容をざっくりまとめますと以下のようになります

1.NetFlixは第二の黒船か

実はなぜこのネットフリックスの日本進出が今後のコンテンツ産業に大きな影響を与えるかといいますとネットフリックス単体で既存の地上波テレビ、動画配信 サイトやモバイルのキャリアサービス(dアニメ。dTV等) 全てが関係してくるためです。

Apple Google 等の既存のIT企業とNetflixの違いは一口でいうと

Apple  Google  Amazon ー デジタル流通網はあるが、メデイアではない(コンテンツの制作もない)

NetFlix - デジタル流通網+ 制作 + メデイアを持っている

つまりNetFlix は元々ビデオのレンタル宅配業者からスタートしたこともあり映画、映像コンテンツの第一次(劇場) 第二次(DVD パッケージ) 第三次(ストリーミング配信)の全てを自前でできる点が従来と違う

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2015年6月 8日 (月)

トニー賞2015年を見て

「王様と私」で日本人として初めてトニー賞のノミネートを受けた渡辺謙で注目された今年のトニー賞

オスカーとかグラミーは毎年見るけどトニー賞を見るのは実は初めて。

舞台演劇、ミュージカルの最高賞で基本的にブロードウエイの劇場で公演が行われている演劇とミュージカルが対象の賞。 オスカーが基本的にハリウッド、ロサンジェレスでの劇場公開されている作品を対象にしているのと同じでいずれもアメリカの賞ではあるが、エンタテインメントの最高峰の賞であることに変わりはない。

ベストリバイバルミュージカル「王様と私」が選ばれたので渡辺謙の受賞に期待がもたれたが結局、残念ながら受賞ならず。しかし日本人としてここまで来たという実績を作った渡辺謙には最大限の敬意と賛辞を送りたい。

私は見ていないのでどんなミュージカルなのかわからないが、Fun Homeがベストミュージカルを初め主要4部門を受賞している。「王様と私」も四部門受賞【リバイバル賞、主演女優賞、助演女優賞、衣装賞)

トニー賞の詳細は英語だけどこちらをご覧ください。

http://www.tonyawards.com/en_US/nominees/index.html

初めてトニー賞授賞式を見た感想は、やはりミュージカルならではの各俳優さん、女優さんのパフォーマンスも楽しめるし、いろんなミュージカルの「オイシイ所」が楽しめるのでそれだけでも楽しい。

だが、見ながら思ったのはやはりこのトニー賞もオスカーやグラミーと同様の共通点が見られた点だ、

1.第一は過去の文化遺産をとても大事にして、それらを尊重している点である。それらを文化として尊重し、それらから多くを学んでから、新しいものを創造していく。これはクリエイテイビテイの基本である。

ところが当ブログで何回も指摘しているようにそこの部分を勘違いしている輩が日本には多い。よく「過去を知るかどうかは新しいものを生み出せるかどうかには関係ない。むしろ過去にとらわれないことが新しいものを生む可能性がある」という主張をしている連中、

こういうのはとりわけJ-pop系に多い

しかしこういう奴らの作品を聴いて「ものすごい作品」に出会った記憶は少なくとも私はない。どれも「何々風をぱくる」ものだったり、面白くもおかしくもない、創造性の欠片も見られない作品ばかりである。 

そこには文化などない。芸術なんていうのもおこがましい。
日本の音楽文化のレベルの低さがそういうところにも見られる。

2.第二は受賞作品は純粋に投票によって決められるということ。

賞の権威を保つためにはそれが絶対に必要なこと。本来は当たり前なのだが当たり前じゃないのが日本である。(涙) 日本の〇コード●賞とか有◎大賞等が舞台裏どうなっているかは今更ここで述べるまでもない

アメリカという国そのものについてはいろんな問題はあるが、エンタテインメントに関してはまだ健全に機能している。そして競争はとてつもなく激しいが努力した人間は評価される、

それが本来のあるべき姿である。

ちなみに私はとある映画で「ミュージカル(のまねごと)風の映画」をやったことはあるが、まだ本格的に舞台やミュージカルの音楽を書いた経験はない。ブロードウエイは「ブロードウエイの作り方」というのがあり、それを身に付けなければならないが、機会があればやってみたいものだ。


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2015年6月 2日 (火)

コンテンツ制作に「正当な」費用を払おうとしない人たち、コンテンツ制作は簡単にできると思っている人たち

実は最近、もう1つ気になっていることがある。

私は昨今の風潮から低バジェット(予算)の仕事をするには慣れているが、最近その低バジェットが限度を超えているレベルのものがある。
いくら低バジェットとはいえ、クオリティを保つのに最低限必要な金額というものがある。つまり低バジェットといっても、まともなクオリティを保つのは不可能なバジェット金額というものがある。

だが最近時々そういう「限度を超えた」バジェットで映画なり、音楽を作ろうとしている人たちがいる。しかもそれで「まともな」クオリティになると本気で考えているようなのだ。

それだけではない、そういう人たちの制作スケジュールを見るとほぼ例外なくメチャクチャなスケジュールを組んでいる。例えば映画制作でまだ予算確定もしないうちから撮影日程だけどんどん決定して行って、しかもまだクランクアップ(撮影終了)もしていない時に映画祭提出のスケジュールまで組んでいる。しかもその途中にまだ最初の映画もできていないうちから「次の映画の撮影日程」まで決める(!!!)」

ありえないだろう? 普通そんなこと?

どうも映画にしても何かホームビデオの撮影のノリでできる、音楽にしてもカラオケボックスで歌う感覚で音楽ができる、

そう考えているとしか思えない人たちがいる。

それが映画とか音楽とか全く関係のないズブのシロウトがやっているのならまだわかる。(それでもそういう認識の人たちは困るけど)

信じられないかもしれないが上記のメチャクチャな計画とバジェットで制作進行しようとしているのは、本来我々制作の世界に近いと思われる芸能事務所なり、モデル事務所だったりする。新規事業と称してそういったところが制作を始めているのだがそれが実にお粗末な実態で進行しているところが少なくない

自分たちの所属女優なり、モデルが撮影現場やスタジオでどれだけ制作現場が大変なものなのか、見ているはずである。
なのに誰が考えてもシロウト以下の考えで制作進行しようとしているところが少なくない。

まず第一に思うのは我々の制作の仕事はそんなに第三者からみて「簡単に」見えてしまうのだろうか?そんなに「誰でもできそうな仕事」に見えるのだろうか?

第二に音楽でも映像でもコンテンツ制作はタダでできるはずなどない。ITやコンピューターのソフトウエアまではいかないが、正当な予算は必要なのである。例えばITのシステム維持のソフトには数千万払う会社がなぜ音楽や映像を二束三文で作ろう、などという発想をするのだろうか?

何度もこのブログで論じているが、今この国は「クールジャパン」なる日本のアニメやゲームのコンテンツを初め、日本の文化を世界に売り込もうとするプロジェクトを経産省の旗振り役で押し進めようとしている。当然そのコンテンツはクリエーターによって創造されたものである。

だが上記の2点のような考えで、100円ショップの価格でコンテンツを作ろうなどと考えている会社にはクリエーターを尊重したり、敬意を示す態度は微塵も感じない。それどころかまともなクオリティで制作するのは不可能なスケジュールとバジェットでいいものができる、などともし本気で考えているとしたらそれは世の中で制作に従事しているスタッフ全員への侮辱に近い。
(そもそも100円ショップの商品程度の予算と工程しか組まない作品が映画祭で受賞どころか入選する作品という「宝石」に変わる、などと本気で考えているとしたらバカとしかいいようがない)

つまりコンテンツやクリエーターの仕事の価値など到底理解しているとは思えない。そのような国の人間が自分たちの国のコンテンツなどをまともに売れるわけなどないのである。

どこかの某有名IT企業のようにクリエーターにボランテイアを強制してギャラを支払わない、などというのは言語道断だが、同じようにコンテンツ制作関係者や専門家を愚弄しているとしか思えない会社ももってのほかである。

いずれの場合も3流以下の会社だ。そういうところとは仕事をしてはいけない。

ここで云う一流とは必ずしも「有名な企業」とか「有名人」という意味ではない。某有名IT企業のように誰でも知っている企業でも体質は3流以下の会社などいくらでもある。

問題は仕事の進め方が一流かどうか、だ。いわゆる有名企業や有名芸能人でなくても仕事ぶりが超一流の人はいっぱいいる。長年制作現場にいたので仕事の進め方が一流かそうでないかは見ていてわかる。

私はそういう人や会社としか仕事をしたくない。


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2014年8月26日 (火)

女優秦ありささんの個展に行ってきました

もう7年前の話になりますが、国内外で多くの賞を受賞し海外の多くの映画祭でも招待作品となった拙映画音楽担当の作品「俺たちの世界

この映画の主演女優の秦ありささんの個展が銀座のギャラリームサシで行われたとのことで見に行きました。

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まずはツーショット写真(笑)

ありささんは最近は舞台で活躍されていますが、やはり同じ映画に関わった女優さんには是非がんばっていただきたいと思いがあります。ありささんは女優、写真家、そしてボーカリストとしても多彩な活躍されている才媛です。

秦ありさ公式サイト  http://www.arisan.jp/top.html

初日は秦さんの友人でギタリストの大野元穀さんの珍しい楽器10弦ギターの演奏もありましたのでそれも大いに興味がありました。

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10弦ギターの大野元穀さん。同じ大野ですが親戚ではありませんww

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2014年8月19日 (火)

ろくでなし子や写真家・鷹野隆大の作品撤去騒動に見るもはや時代錯誤な日本の「猥褻」の定義とその馬鹿馬鹿しさ

このブログでも行政やその他が「猥褻」(わいせつ)に関して議論する際、その表面的、なおかつ芸術に関する無理解、無知をベースとして不毛な議論に対して批判をしてきた。

記憶に新しいアーチスト「ろくでなし子」さんの猥褻配布による逮捕騒動

■ろくでなし子さんが会見「女性器はありのままでいい」 無罪を訴える
http://www.huffingtonpost.jp/2014/07/24/rokudenashiko_n_5616007.html

そして名古屋市の愛知県美術館で開催されている「これからの写真」展でこんなことがあったらしい

撤去しなければ検挙するといわれ、やむなく展示変更となった愛知県美術館展示について写真家・鷹野隆大さんに聞く
http://www.webdice.jp/dice/detail/4347/

いずれも女性、男性の性器が表現される、というこの国のあまりに表面的で一律な「猥褻の定義」を元に警察が動いた例である。

鷹野さんの作品は結果的におおわれているため、実際に見ることができないが、何度もいうように芸術表現云々などという論議はあさっての方向に行く反面、「性器が表現されている=猥褻」などという一義的な猥褻の定義などいい加減やめたらどうなのか

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ヘルムートニュートンの墓石と生前の写真

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警察の「圧力」で展示方法を変えた鷹野作品

例えば世界的な写真家のヘルムート・ニュートン(1920-2004)、には性器が移っている写真作品などたくさんある。だが少なくとも日本国内以外でそれらの作品が猥褻だ、などという話は聞いたことがない。そんなバカなことをいっているのは日本人くらいである。

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;あとルネッサンスの絵を見れば性器が描かれている著名な芸術作品などゴマンとある。

たとえば、左図のルネッサンス画家マザッチョ(Masaccio)(1401年 - 1428年)の有名な「楽園追放」

いうまでもなく「禁断の実」を食べたアダムとイブが神の怒りを買い楽園を追放される様を描いた作品だが、見ての通りアダムの男性器がはっきり描かれている。

この作品が猥褻でなくて、鷹野隆大さんの作品(上記の「覆い隠された]作品)が猥褻である、という根拠、理由は一体どのようなものなのか警察に是非聞いてみたい。

もしマザッチョの作品が芸術で鷹野隆大さんの作品が芸術でないから、などという理由だとしたらこれは鷹野隆大さんに対する侮辱でもあり、警察がそのように結論づけた、理由、根拠は薄いといわざるを得ない。

たぶん私の予想ではそんな根拠など示すことなどできないであろう。

元々芸術のゲの字も知らん奴らが勝手に決めているだけの話だ。

いい加減こんなバカバカしい、時代錯誤ともいうべき猥褻の定義とやらをやめたらどうなのか。

実際性器がダメだ、などといっても今はインターネットの時代、海外のサーバーを使ってしまえば「無修正AV」などストリーミングし放題だ。そうなるとインターネットの時代ではもはや一国だけの猥褻の定義に固執したところでもはや何の意味もない。

日本の猥褻の定義が時代錯誤であるのは明らかである。

またいわゆるモザイクもの(無修正でない)AV作品でも女性の暴行や強姦を誘発しかねないようなAV作品も存在する。それらが猥褻でなくて ろくでなし子さんや鷹野さんの作品が猥褻だ、などという理論的根拠は一体どこにあるというのだ?

いかに馬鹿馬鹿しい定義であるかわかると同時に、この日本という国の文化程度の低さを実質的に露呈した結果となっている。

少なくとも鷹野さんの作品はいやしくも美術館で展示している、それだけで十分芸術を意図したものであることは明らかである。

もうこういうバカバカしい騒動はいい加減にしてほしい。あえていうが日本の恥だ。


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2014年5月19日 (月)

美味しんぼ騒動を見てー過剰反応と「風評」を盾にした言論と表現の弾圧、独裁国家の体をなしてきた日本(今回も長文注意)

既にご存じの通り「美味しんぼ」の福島の描写で騒動が起きている。

この騒動の成り行きを見ていると当ブログで書いた以下の構図と全く同じであると感じる、

■放送禁止のCMに見る日本の「表現の自由」の危機と日本社会を閉塞させている病原菌たち

http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2013/03/cm-b0f6.html

■ドラマ「明日ママがいない」その他CMの状況に見る、安部政権の表現の自由項改悪とは別のもう1つの危機

http:/kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/01/cm-af54.htmll;

■当事者気取りで『大声で」批判する表現の自由をなくす害虫たち;

http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2014/02/post-852e.html

すなわち以下の構図を見ることができる

ある表現に対して「過剰反応」するクレーマーの大合唱が起きる
(今回の場合、政治家、官僚そしてマスコミ)
             

これにネットの「ヒマ人」連中が便乗して叩く
           

その「批判」に表現の発行元が腰砕けになり、自粛、発行停止等の措置を取る
(事なかれ主義、発行元トップの「保身」

そして以下のようなことが実際に起こった

「美味しんぼ」休載へ=19日発売の最新号で釈明-小学館
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jiji-2014051700128/1.htm

「美味しんぼ」“風評”釈明で識者の見解集約 次号で特集記事掲載へ
http://www.oricon.co.jp/news/2037043/full/

私はこれは日本の表現の自由の危機である、と何回も書いてきた。クレーマーという害虫によって放送禁止の追い込まれた数々のCMや脚本を書きなおさざるを得なかったドラマ「明日ママがいない」それと同じ構図のことが今回も起きたわけである。

但しCMとドラマのケースと違うのは、今回のクレーマーは原発の悪影響を可能な限り「小さく」報道したいという思惑の政治家と官僚、そして電力会社の広告がなくなることを恐れた大手新聞を始めとするマスコミである。政治家、とりわけ原発の利権を守ろうとする政治家はまあ過剰反応するのは予想できる。だがいつものことだが、今回のマスコミの反応はいただけない。

さらに今回も問題なのは「きちんとした取材に基づく表現」と言っておきながらいとも簡単に腰砕けとなったビッグスピリッツの発行元の小学館である。

1.権力迎合、権力に従順なマスコミ

まず今回大々的にバッシングに加わったマスコミだが、1つ問いたいのはそもそもマスコミは今の福島の現状に対してどれだけきちんと取材活動をしているのか、という点である

あの震災から3年以上経過したが、福島第一原発の周囲には一部のフリージャーナリストを除き、マスコミ関係者は殆ど取材らしい取材をしていない。それは報道各社が「官邸記者クラブ」内の報道協定の元「コンプライアンス」に基づく取材自粛という名の「報道しない自由」を行使しているためである。殆どのマスコミの情報は政府や東電の流す、信憑性に乏しいといわざるを得ない情報を垂れ流ししているだけである。

つまりそんなマスコミがあの「美味しんぼ」の内容を風評をばらまく、などと批判する資格が果たしてあるのか? という点だ。

マスコミ各社がきちんとしたジャーナリズム精神に基づき、今福島で何が起きているのか、真実は何なのかをきちんと取材していた上での批判ならわかる。だが残念ながらどうみてもそのようには見えない。

そもそも放射能について「どのくらい以上が危険」で「どの程度なら問題ないのか」その情報が一般国民には殆ど開示されていない。そもそもシーベルト は値が問題なのではなく、その値がどれだけの時間枠(1時間なのか、一日なのか)表示されているのかが問題である。そのことを政府は勿論のこと、マスコミ 各社は殆ど何の取材もしていない。

私がとある専門家のサイトに書かれていることを記事に書いた。私が見たところもっとも信頼性が高い人の記事なのでご興味のある方はご覧いただきたい。

■放射能値ーどのくらいが危険かの認知方法について
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20131107

政治家の中でもこの知識が広がっているとは思えない

小泉進次郎氏「美味しんぼ」描写に反論 「あれだけ行ってるのに鼻血流したことない」「行くたびに元気
http://www.j-cast.com/2014/05/14204709.html

政治家なんてどうせ一瞬かそんなに長い間現地にいくわけではないだろう。問題は放射能の値ではなくその場所にどれだけ長くいたか、という点、そして抵抗力の低い子供たちと大人を同じ尺度で語るのもおかしい。そんなこともわからん奴が「反原発」など語るなといいたい。

反論があるマスコミ関係者は反論をしていただいて結構、ただしネットのヒマ人君たちはご遠慮願いたい。あなたたちにかまっている暇はない。

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2013年12月 1日 (日)

商業主義と芸術表現の融合を目指した文化人ー堤清二氏を悼む

出張等で記事が一日遅れてしまいました。

もう日付変わって3日前のできごとですが、セゾングループ代表の堤清二氏が86歳で亡くなりました。西武セゾングループを業界首位までに押し上げ、一方では辻井喬というペンネームで詩人、作家として活動した二つの顔を持っていた方です。

セゾングループは特徴あるアートワークで有名でまさに芸術表現とコマーシャリズムを見事に融合させた人で私自身も堤さんの考えに影響を受けました。セゾングループのさまざまなイメージ戦略の関係で私もずいぶんお仕事をさせていただきました。その意味では堤清二氏には多大な恩があるといっていいかもしれません。

■死去した堤清二氏、経営に文化を融合 セゾン文化生む
http://www.asahi.com/articles/TKY201311280405.html?ref=com_top6

ご本人は「自分は経営者でも作家としても問題児」と言っていましたが、私は寧ろそれを誇りにしていたように思います。 音楽の分野が特に顕著ですが昨今は商業主義ばかりが優先され、芸術表現、アーチスト独自の表現というものが著しく蔑ろにされている傾向を感じます。それだけに今こそ堤清二氏のような存在が必要だったということができるかもしれません。そう問題児のどこが悪い、そう言い放ってもいいのではないでしょうか?

心からご冥福をお祈り申し上げると同時に故人の生前の様々な功績に敬意を表させていただきます。

86歳で亡くなった元セゾングループ代表の堤清二さんは、業界首位にもなった百貨店を経営するかたわら、詩人・作家の辻井喬として日本の戦後をみつめてきた。経営者から作家まで幅広い人たちが、二つの顔を持っていた稀有(けう)な存在を惜しんだ。

 堤さんは、鉄道や百貨店を展開する西武グループ創業家の次男として生まれた。

 詩や小説に興味があった本人は、もともとは「家を継ぎたくなかった」という。ただ、父の故堤康次郎さんの遺言で、本業の鉄道は異母弟の義明氏に、百貨店は堤さんに継承された。

 堤さんの豊かな才能は、百貨店経営にいかされた。1973年には渋谷パルコを開店。このなかの西武劇場(現パルコ劇場)から小劇場ブームが広がった。小売業に、現代美術や演劇などの文化事業を融合させる経営手法は「セゾン文化」という言葉を生み、同社の売り上げを押し上げた。


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2013年9月 8日 (日)

2020年東京五輪に向けて日本を真の意味で「クリエイテイブな国」にするための考察

今朝未明、2020年の東京五輪開催が決まった。福島原発の問題とかの懸念は払拭されないままだが、それは別の記事で論じるとして音楽の1クリエーターとして私がもっとも懸念し忸怩たる思いでいること。

それは今の日本音楽界のクリエイテイビテイがあまりにもお恥ずかしいほど酷いレベルであるという点

はっきりいう。このままじゃ日本の音楽は世界中からの笑いものになる、音楽制作の現場にいる人間としてはこの状況を打開するために何かを考えないと、現状では日本人としてあまりにも恥ずかしすぎる。あと7年あるが、7年しかないということもできる。

とはいえ、今の音楽業界のトップに発想の転換をさせるのは100%不可能である。文系の人間に偏微分sinθcosθの入った複雑な数式を理解しろというようなものである。となると我々が独自で何らかの方法を考えて世界中をアッといわせるようなものを作っていくしかない。開会式でAKBやジャニーズのようなものだけを全面に押し出されてしまってはたまったものではない。考えただけで精神的な拒絶反応を感じる。

そのためにも何らかの方策を早急に考えなくてはならないが、その前に現代においてそもそもクリエイテイブとは何ぞや? ということの自問自答から始めないといけない。その中で次の記事の中にヒントがあるような気がする。

■クリエイティビティという言葉を振り回すのではなく、本質的に創造的であれ
http://www.kohkoku.jp/sp/201310

MIT Media Labの教授の石井裕氏がカンヌ広告祭で今年から新設されたイノベーション部門史上初めて"Cinder"というコンピューターソフトウエアが受賞した時のインタビューである。

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2013年6月14日 (金)

パロデイ論ー宮藤官九郎の「あまちゃん」の脚本とマルセル・デュシャンのレデイメイド思想

先日の記事、「あまちゃん」のkyon2の歌に見るパロテイとパクリの違いの続きになるんですが...

その記事で日本ではなぜか「パロデイーというものをあまり評価しない風土がある、と述べました。そしてパロデイーというものと、音楽業界が良くやる「パクリ」は全く違うという点を述べました。

どうも「パロデイー」というものを「えげつない」「(パロデイーされた人に対し)失礼だ」と考える向きがあるようです。
しかしそれは違うと思います。

たとえば今週放送した「海女ソニック」なるイベントも、いうまでもないですがとある有名な音楽イベントの立派なパロデイーですが、それ以外にニセの「レデイ―ガガ」が複数登場することでレデイ―ガガに似てもにつかない人物がレデイ―ガガをまねしようとするおかしさを演出していて、そのミスマッチぶりが笑えせてくれるのです。それはレデイ―ガガを誹謗したものではなく、レデイ―ガガという強烈な存在感があるアーチストだからこそ、それをまねしようとする「凡人」がおかしくみえるわけです。そこに「えげつない」笑いはありません。民放のお笑いバラエテイの方がよっぽど「えげつない」笑いだと思います。

さて下の写真を見てください

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これはフランスのアーチスト、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp  1887- 1968)の作品(?)でアートシーンにおけるパロデイーの先駆的な作品です。

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2013年4月14日 (日)

クリエーターやコンテンツ業者から支持されないクールジャパン推進会議の「官製」ポップパワー発信策

日本のポップパワー発信10策 --- 中村 伊知哉
http://agora-web.jp/archives/1528714.html

発信10策とは

1. 主要国首脳会議、World Economic Forumその他海外首脳の集まる会議において、ポップカルチャー宣言を首相が表明するとともに、ポップカルチャー政策を一元的に推進する機関を設立し、民間から登用する長官が世界中を渡り歩く。

2. アジア、南米等の新興国向けにポップカルチャー専用のテレビ3チャンネルを編成するとともに、同番組を世界にネット配信する。

3. 初音ミク、ピカチュー、ガンダムなどのキャラクターについて国際ネット投票を実施し、上位5名をポップカルチャー大使に任命し、Facebookやtwitter上で多言語観光キャンペーンを打つ。

4. 映画、放送番組、音楽、アニメ、マンガ、ゲーム、デザイン、7種のデジタル・アーカイブ構築を推進するため、著作権制度等の特例措置を講ずる。

5. 京都、沖縄などの地域やコミケ、ニコニコ超会議、沖縄国際映画祭などのイベントを10件、国際ポップカルチャー特区として認定し、二次創作や税制等の特例措置を講ずる。

6. 海外及び国内の20大学に日本ポップカルチャー講座を開設し、アーティストを講師として派遣するとともに、その場を利用してアニメ、ゲーム、音楽などを創作するワークショップを開催する。

7. 30本の人気アニメの権利を開放し、世界中のアニメファンに日本のPRビデオを二次創作してもらう。

8.  アニメやゲームの制作力に基づくデジタル教材を50本制作し、途上国にODAで情報システムとともに提供する。

9.  日本を代表する100人のクリエイターのメッセージ動画を配信する。

10. 正規コンテンツ配信サイト、アーティストのブログ、問題のないファンサイト等1000サイトを選定し、無償で英中西仏葡の翻訳を付して発信する。

上記の策でどういうことをしようとしているのか今1つ見えないし、そもそも4.5.7.8.などやりかたを1つ間違えると収集のつかなくなる可能性がある。何よりも上の話は「コンテンツ無償開放」とか「著作権特例措置」とかクリエーターから見れば権利をこのプロジェクトのために放棄しろ、という話ばかりである。それによってクリエーターやコンテンツホルダーによってどんなメリットが出てくるのかまったくわからない。

そして何よりもコンテンツ業者だけでなく別方面からもこの方策に批判的な記事が出ている。

「官製」ポップパワー発信策は“無用の長物”である!
http://blogos.com/article/60134/

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2013年4月 5日 (金)

秋元康のクールジャパン推進会議にみる政府と経産省のお粗末な内容とコンテンツやクリエーター軽視の態度

まずお断りしておくがの私は例のAKBのCD大量廃棄事件を始め、批判的な記事は書いてはいるもののプロデユーサー及びマーケッターとしての秋元康氏は評価している。

優秀なマーケット戦略家であることは認める。

だがはっきりいってクリエーターとしては評価していない。たしかに「川の流れのように」という傑作はある。しかしこの人自身は(一応)作詞家というクリエーターの肩書があるもののAKBやその他のプロジェクトにおける作曲家、作詞家の扱い方を見る限り本当にクリエーターという人たちを尊重しているようには正直いって見えない。

おそらくそう感じているのは私だけではないだろう。

そしてはたせるかな。こういう騒ぎが起きた。

大元はこの記事

国内クリエーター結集を=クールジャパン推進で―政府
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130403-00000133-jij-pol&1364988188&buffer_share=01e5c&utm_source=buffer

そしてその「クールジャパン」を運営するにあたって、

「超有名クリエーターに相場のギャラは支払えない」 秋元康の発言を「もしドラ」の岩崎夏海が弁護
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130404-00000004-jct-soci&p=2

そして「クリエーターにノーギャラで働いてもらう」などと秋元氏が発言したことに対しネットで批判が沸騰、炎上している。

「クリエーターは無報酬」秋元康のクールジャパン提案に批判殺到(Naver まとめ)
http://matome.naver.jp/odai/2136500391892882001

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2013年3月30日 (土)

Adobe調査ー「最もクリエイティブな国・都市」は日本・東京について

すでにいろんなところで報道されているAdobe社のこの調査

■「最もクリエイティブな国・都市」は日本・東京 でも日本人は自信がない──Adobe調査
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1204

「最もクリエイティブな国」は日本、「最もクリエイティブな都市」は東京──米Adobe Systemsによる「クリエイティビティー」(創造性)に関する調査でこうした結果が出た。日本は世界からクリエイティビティーを高く評価されている が、その日本人は自らをクリエイティブだとは考えていないという興味深い内容だ。

 調査は今年3月から4月にかけ、米国、英国、ドイツ、フランス、日本の18歳以上の成人5000人を対象にオンラインで実施した。

 「最もクリエイティブな国」として36%の回答者が日本を挙げ、米国の26%を10ポイント上回ってトップだった。英仏独では日本を挙げた人がトップだったが、米国と日本では米国を挙げた人が最多だった。

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「最もクリエイティブな国」。日本人と米国人は米国がトップ、英仏独は日本がトップ

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「最もクリエイティブな都市」

 

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2012年1月27日 (金)

偉大なイメージクリエーター石岡瑛子氏逝去

訃報の記事はあまり書きたくないのだが、日本が世界に誇る偉大なクリエーターの訃報を聞いた時は愕然とした。

■イメージ創出の巨人”石岡瑛子氏、逝去

http://www.advertimes.com/20120127/article52221/

私がまだ学生の頃PARCOの意味不明、しかし強烈なインパクトを与えたCMが話題になっていた。仕掛け人は石岡さんである。

どこからそういう発想が出てくるのだろうという豊富なイメージを打ち出し、しかもそれを商業的な成功にまだ結びつける手法は身を置いている世界は違うとはいえ、石岡さんの作品はクリエイテイビテイの面でいろんな意味でお手本といえるものだった。

コッポラの「ドラキュラ でコスチュームデザイナー賞でオスカー受賞、その他にもシルクド・ソレイユ「ヴァレカイ」, ロックミュージカル「スパイダーマン」の衣装を始め数々の世界の舞台で活躍されたのは周知のとおり

80年代に渡米し、ニューヨークを拠点に活動をしてからは日本に戻ってくることはなかった。やはり昨今の日本の現状を察知してクリエイテイビテイを全く重視しない日本の現状に愛想がつきたのではないか、と思う。

今日本、特に音楽業界では失敗を恐れるどころか失敗を絶対に許さない状況で、そこには「売れセン」(と彼らが勝手に考えている)曲以外は受け付けない、そして一度でも失敗すれば永久に仕事は来ない、そんな世界になってしまっている。そこにクリエイテイビテイが入る余地はない。いや、寧ろクリエイテイビテイ存在自体を否定しているといっても過言ではない。私はこれこそ音楽業界が衰退している原因だともうだいぶ前から言っているのだが、どうせそんなことをここで言っても無駄だ、石岡さんは日本の音楽界のこんな酷い状況におそらくは呆れて嘲笑しているに違いない。

石岡さんの表現は一見難解に見えるが実はかなり単純明快である。そしてクリエイテイビテイ商業性が見事に融合した作品だった。これこそがアートを始めとする表現のあるべき姿である。

石岡さんの訃報は日本に真の意味の表現者がいなくなってしまった。そんなことを象徴するできごとのような気がしてならない。

心からご冥福をお祈り申しあげます。

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2011年9月 7日 (水)

【台風12号】那智勝浦町の被害と熊野那智大社

台風12号 県内各地で暴風雨、洪水 土砂災害警戒続く 和歌山
http://bit.ly/plJk7N

  もう20年も大昔の話ですが、この辺りへフィールドレコーデイングに行きました。当時発売されたばかりの立体音響が録音できるダミーヘッドマイク”アーヘナコプフ"を使って森の音、せせらぎの音等の自然音の録音にいったことがありました。 とてもいいところだっただけに大変心を痛めています。

今年は本当に大きな災害が多いですね。フィールドレコーデイングとはスタジオ屋外の音を録音する作業のことをいいます。私の初期の環境音楽の背景にある鳥の声、せせらぎ、波の音はこの那智勝浦地域でフィールドレコーデイングで録音されたものを主に用いています。当時はサウンドエンジニア2人、レコード会社のプロデユーサーと私4人で那智勝浦から山間の川湯温泉の地域まで行きました。この辺りは原生林が多いところで自然音の録音には持って来いの場所でした。特に川湯温泉は大塔川から温泉が湧き出てきて天然の露天風呂が存在する地域で、とてもよい思い出があります。鮎の塩焼きも食べられるほど水も綺麗でした。その川湯温泉も大きな被害に見舞われたようです。

 ■世界遺産・熊野那智大社にも土砂 http://bit.ly/rg5hZe

世界遺産の熊野那智大社も大きな被害で土砂に相当埋まったようです。ここでは那智の滝の音を録りに行きました。もっとも滝の音はダミーヘッドマイク”アーヘナコプフ"を使ってもピンクノイズのようにしか録れませんでしたが...

現地は道路や鉄道も寸断され復旧に必要な物資や機材の輸送もままならないようです。この辺りを行った人ならわかりますが山からすぐに海になるくらい平地が少ないところです。道路も山や海沿いに作るしかない地形なんですね。

復旧には相当な時間がかかってしまうようです。今年は大震災もありましたし災害が多い年です。もうこれ以上ないことを祈ります。

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2010年12月15日 (水)

相変わらず曖昧な「性的描写」の定義と危険な規制強化

既にご存じの通り 都条例改正案:本会議で可決され、 性的描写の規制強化が始まった。

■都条例改正案:本会議で可決され、 性的描写の規制強化
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101216k0000m040042000c.html

当然ながら出版業界、漫画家を始める表現者は反対を表明した

都青少年条例:出版労連が抗議声明
http://mainichi.jp/enta/book/news/20101216k0000m040093000c.html

都青少年条例:「今後も反対」出版倫理協議会
http://mainichi.jp/enta/book/news/20101216k0000m040094000c.html

 

前にもこのブログで書いたように何をもって「猥褻なのか」の定義が曖昧である点を指摘していたが、ここで都側の定義を引用すると

「刑罰法規に触れる性的行為の中でも特に反社会性が強い強姦(ごうかん)、児童買春や、民法で婚姻が禁止されている近親者間の性交などを当然なことのように描いたり、全編のほぼ全てをこうしたシーンの描写に費やしたもの」

だそうだ。これで問題ないと思っている方はやはり表現の可能性を理解していない人たちである。この定義でもれっきとした文学的な作品でも容易に規制の対象に入れられてしまう可能性がある例をこれからお見せしよう。

例えば民法で婚姻が禁止されている近親者間の性交などを当然なことのように描くストーリー」という点。これだと次のような漫画作品があったとしたら規制の対象作品に加えられてしまう可能性がある。というか規制される可能性が高いといっていい。

例えば古代エジプトの王族では兄妹間の婚姻がごく普通に行なわれたが、仮に誰かがこの古代エジプトでの兄妹のラブストーリーを描いた、セックスシーンも豊富に描かれていた漫画があったとしよう。この場合どんなに文学的なストーリーとして組み立てても上記の定義では「猥褻な性的描写」の表現という範疇に入ってしまうだろう。(実際「王家の紋章」という漫画では登場人物に姉と弟の恋愛物語のストーリーがある)

もっといえば古事記の衣通姫 ~いそとおしひめ」允恭天皇の長男で実の兄と軽の太子との恋に落ちた古事記の中でももっとも美しく切ないラブストーリーだが、これは「有害図書」ということになるのだろうか? もし誰かが衣通姫と軽の太子とのロマンチックでエロチックな恋愛ストーリーを書いたとしたら記の定義だと民法で婚姻が禁止されている近親者間の性交などを当然なことのように描くストーリー」なってしまう。規制の対象になってしまう可能性が高い。

まだまだある。「源氏物語」「ギリシャ神話」など古典文学を題材にしたり、同性愛を描いた漫画は対象になるかという質問に「基準を超える性的な描写があるかで判断される。」というが「基準を超える性的描写」とは何か? あまりにも曖昧である。「源氏物語」などエロチックに書こうと思えばかなりかけるし実際登場人物の光源氏と紫の上とのやりとりにはかなりきわどい表現もある。「ギリシャ神話」ビーナスなど殆ど裸で登場している。

このように表現とはさまざまなケースが考えられるだけに一義的には決して決められない。そして何よりも恐ろしいのは上記の定義による「表現狩り」が推進されてしまうことである。こうなると漫画家を始めとする表現するアーチストの活動を極端に制限してしまう可能性が高い。(特に最近この手のものに異常なほど執念を燃やしかねない「ヒマ人」が多いことからも大いに懸念される)

都青少年条例:民主「世論」に配慮 出版業界、根強い反発
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101216k0000m040091000c.html

賛否を決めるために開いた10日の民主の総会では、明確な反対論も出たが、「世論への対応も必要」「妥協せざるをえない」など消極的な賛成が相次いだ。反 対してきた民主の若手都議は「執行部は統一地方選で『民主はあんな漫画を擁護するのか』と有権者から指摘される事態を懸念していた」と明かす。

有権者から指摘? 「声無き多数派?」  全く意味がわからない。具体的にどういう人たちなのか?声すら揚げない連中が一体何をしゃべっているというのか? 例えしゃべっていたとしてもそれが本当に社会の多数派なのか? 一部のノイジーマイノリテイと混同していないか?

今回の都の議会の決定は表現の自由という憲法が保障している基本的権利に対する重大な挑戦であり、「表現狩り」を推進するものとして重大かつ厳重なる抗議を表明する。何よりも日本が世界に数少なく誇れる「漫画」という文化を破壊する可能性が高い条例案であるといわざるを得ない。

ちなみにこの法案を推進した石原都知事はこんな発言をしている。(twitter経由)

石原都知事が、「大連立すればいい。みんなで渡れば怖くない。消費税も憲法改正も」と記者会見で。この男の真意は、結局そこにあるということ。

http://twitter.com/#!/kou_1970/status/14505496950087680

なんでこんな人間があんなに支持されるのか理解できない。リコール活動を起したいぐらいだ。


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2010年6月17日 (木)

都青少年健全育成条例改正案:都議会本会議で否決

さて、この件も先日の当ブログの記事
性描写規制改正案、都議会で否決の公算

http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2010/06/post-799c.html

昨日この改正案が都議会で民主、共産など野党会派の反対で否決されました。

都青少年健全育成条例改正案:都議会本会議で否決 9月にも再提案

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20100617ddm012010052000c.html


しかし都としては飽きもせず改正案を練り直し、9月定例会以後に再提案する方針だという。何度もいうように何が猥褻で何が猥褻でない、などということを明確に定義することなど不可能である。これは過去何回も試みがなされ、いずれも失敗している。そしていうまでもなく表現の自由にも抵触する問題である。

こういう問題を論じるときに危険なのは一部の人間の独断と偏見で訳のわからない線引きがされる可能性が高い点で、今回の都の基準でも水戸黄門の由美かおるやドラえもんの「しずかちゃん」の入浴シーンがよくて他は駄目、なんというあまりにも馬鹿馬鹿しい議論が大真面目に論じられるという事態が発生している。

「青少年の健全な育成」、というのは確かに大事なことだがそもそも「健全な育成」の定義は何か。そこの部分すら曖昧のまま、表現についての猥褻論議をするなど笑止千万である。何度もいうが芸術表現とは何たるかを理解していない人間がこんなことを論じることの危険さ、滑稽さはもう一度考えてみるべきだろう。

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2010年6月12日 (土)

性描写規制改正案、都議会で否決の公算

性描写規制改正案、都議会で否決の公算

http://www.news24.jp/nnn/news89040516.html

こうなることはやる前からわかっていたのではあるまいか。どれが猥褻でどれが猥褻でないか、なんてものは明確に定義できるものではないし、こういう会議があってきちんとまとまったためしがない。何でも水戸黄門の由美かおるやドラえもんの「しずかちゃん」の入浴シーンがよくて他は駄目、なんという引用するのもバカバカしい議論が大真面目に論じられているなんてことが伝えられるが、はっきりいって時間と税金の無駄使い以外の何者でないし、当ブログの先 日の記事にも書いたがまさしく、滑稽である。しかもこの行為、滑稽だが全く笑えない。

詳しくは当ブログのこの記事を参照されたい

■都で議論されている非実在のわいせつ表現規制の滑稽さ
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2010/05/post-7e66.html

先日の記事に関連したことだが、その記事で首都大学教授の宮台真司氏が指摘しているように子どものレイプ被害者は激減しており、1960年と2000年の比率だと10:1ーつまり10分の1に減ってい る。年齢別でも減っていて、子供に対する性犯罪が増えているとか、子どもがどんどん被害にあっているとか、そういう事実は少なくとも日本ではまったくない。そういう情報が流れればウソ、煽りということになる

詳しくは

「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/20/news084.html

そもそもこの「児童ポルノ」の問題はヨーロッパのとりわけカトリックキリスト教原理主義勢力から発しており、彼らお得意の「価値観の押し付け」により、日本に対して圧力がかかってきたわけである。このキリスト教原理主義勢力というのは実に困ったもので、体質ははっきりいってカルト宗教に限りなく近いのだが、アメリカや欧米諸国の政府に対して多大な影響力を持っている。いまだに終わる兆しが見えないイラク戦争にしたって、そもそもこのキリスト教原理主義勢力が実質的にブッシュ政権を動かしたものである。

だからこういう主張に対してあまり日本は相手にする必要はないのだが、どうも「海外の圧力=黒船」であるかのように勘違いする体質が日本にある。だが、これが表現の自由を制限する可能性があるのはここでわざわざ云うまでもない。

石原都知事は飽きもせず再提出しようとしているはずだが、元々は作家だった(あるいは本人はもう呆けてそのことをもう忘れたのか?)当人が表現の自由というものに対して理解がないというのは、表現者の端くれとして情けなくならないのか、私は不思議でならない。

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2010年5月22日 (土)

都で議論されている非実在のわいせつ表現規制の滑稽さ

宮台真司首都大学教授は著書によって賛同する場合としない場合があるのだが、今回の漫画家らが主催した「どうする!?どうなる?都条例──非実在青少年とケータイ規制を考える」に関しては宮台氏の見解に激しく賛同する。

そもそも児童ポルノなどというのは欧米の例によって他国の文化の短絡的な理解によって自分たちの価値観の押し付けから生じ、その結果それが日本に対して外圧として向けられたものだが、例によって「キリスト教的なファナテイックな思い込み」によって例によって猥褻の定義が非常に曖昧なまま決められようとしている。行政が政治が表現の本質を理解せず、自分たちの独断と偏見のみで決めようとするこういうことになる、というまさに典型である。宮台氏がいうようにここまで来るともはや「滑稽」である。

「ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」──宮台教授

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/20/news084.html

多くの方々がおっしゃってるように、子どものレイプ被害者は激減しています。1960年と2000年の比率ですと10:1、10分の1に減ってい る。年齢別でも減っていて、性犯罪が増えているとか、子どもがどんどん被害にあっているとか、そういう事実はまったくないので、そういう情報が流れればウソ、煽りということになりますね。

 山口弁護士 がおっしゃったことですが、第7条プラスアルファですが、非実在青少年に関わる姿勢は、ゾーニングの顔をした表現規制だということですよね。青少 年に頒布し、云々かんぬんと描いてあるんですが、これは構成要件が非常に不明確なんですね。構成要件が明確で罰則規定があるほうがまだマシで、構成要件が 不明確で、罰則がない。しかも第18条6、まん延抑止規定というやつですね、「青少年視覚描写物をまん延させることにより青少年をみだりに性的対象として 扱う風潮を助長すべきでないことについて……機運の醸成に努める責務」を都民全員が負うという。従って7条の努力義務と、責務を合わせると、市民の悪書狩 りを奨励する、あるいは非常に恣意的な行政指導を根拠付ける可能性があります。構成要件の不明確なゾーニングは表現規制に限りなく近い。

 これも山口弁護士がおっしゃったことですが、質問回答集は 完全に無意味。なぜかというと法理学の基本原則ですが、「憲法は立法意志がすべて。法律は条文がすべて」ということです。福田元首相が「法律の解釈は前内 閣に必ずしも引っ張られない」という有名な発言を残したことで知られています。人事異動や議員の改選があれば官僚答弁も付帯決議も法解釈を拘束しません。 「条例の解釈の誤解」(と都の担当者が説明していること)は苦笑です。本当はここで爆笑と書きたかったかったんですが……裁判官による「誤解」の可能性を 表すからです。その「誤解」を、将来は裁判官がまるまるやるでしょう。

 さらに言えば、誤解の可能性は官僚による裁量行政による権力と権益の余地を意味しているわけですね。<中略>

一般には保護法益、法律が立法される利益は明確でなければならない。なぜかというと、行政権力は社会のためにあるからです。社会が主で行政が従だか らです。で、保護法益には個人的法益と、社会的法益がある。つまり個人の、人権保護のための立法と、社会の利益のための立法の2つある。

 実在する青少年を被写体とする表現は、個人的法益を侵害します。この場合の個人的法益とは人権、あるいは人権のベースになる尊厳ですよね。だか ら、自己決定で子どもが出演していても、将来禍根を残さないようにパターナル、上から目線で介入せよという理屈が成り立つわけですが、非実在青少年の場合 には、そうした、人権を侵害される当事者は不在。ですから、表現規制は個人的法益が目的ではない。

 では社会的法益が目的になりますが、社会的法益には一般に2つの考え方があり、人 権内在説と人権外在説です。人権外在説は人権に外在する秩序の利益があるとする立場で、刑法175条(わいせつ物頒布など)の公序良俗という概念 が典型です。

 一般に、こうした表現規制に人が賛成する場合、とりわけ日本においては、秩序の利益、公序良俗に反するという通念が機能する場合が少なくないと想 像されます。社会が成熟するにつれて、大半の先進国は人権内在説にシフトしていきました。つまり人権の実現の両立可能性や共通基盤を焦点化する方向に変 わってきた。こうした人権内在説を踏まえると、非実在青少年規定に関わる社会的法益は極めてあいまいで、よく分からない。

 「ありうる理解」の1つは「悪影響論」ですね。改正案の7条の1に「青少年に対し性的感情を刺激し……犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害す る恐れのあるもの」を規制するんだと書いてあります。質問回答集を見ると「子どもの健全な成長が妨げられるのを防ぐため」と書いてあります。

 ところが、メディアに悪影響を帰責する「強 力効果説」なるものには学問的根拠は一切ありません。学問的に有効なのは、「限定効果」を証明するデータですね。1つはメディアが直接素因、つま り暴力性や性的変態性を形成するということはなく、引き金を引くだけだ、という限定性。もう1つは、対人関係に保護されずにメディアに接触する環境こそが 問題だと。つまり引き金を引く場合でも、人と一緒に見るかどうか、親しい人と一緒に見るかどうか、そうしたことで影響が全く異なってくるという実証データ があり、これがポイントなんですね。

 ですから、効果研究から主流学説が推奨するのは、メディアの受容環境の制御こそが最善の策ということなんですね。それができない場合の緊急避難と して表現規制があるべきだということです。そうした最善策の努力を放棄していきなり次善の策に飛びつくのであれば、これは完全に行政の怠慢であると言わざるをえない。

次に、社会的法益に関するもう1つの理解は「社会的意思表示論」という立場です。

 例えば刑事罰の機能については、(1)犯罪抑止あるいは犯罪被害の抑止、(2)被害者や家族、社会的正義の感情的回復、(3)そして「社会的意思 表示」、つまり社会の規範のありかを示す──という3つの機能があると言われています。

 で、強力効果説の無効と、実際の被害者の不在ゆえに、(1)も(2)も問題外で、残るは(3)、社会的意思表示がポイントになるんですね。規範の ありかを示すために条例があるんだという観点からすると、その描写の対象が実在するかどうかは確かに関係がないわけです。ただその場合には問題が2つあっ て、代替的な社会的意思表示の手段がないのかどうか、あるいは既にされていないのかどうか、あるいは副作用がどれくらい大きいのか、ということなんです ね。

 で、代替的意思表示手段は既に存在するんですよ。質問回答集項目5「これまでも、性的な刺激を強く受けるような漫画などについては、その子どもの 健全な成長が妨げられるのを防ぐため、条例により、子どもに売らない、見せないための取り組みを行ってきました」。<略>従来の取り組みで社会的意思表示の実現が不十分だったという証拠は一切ない。そういう世論もないんですね。

つまり代替的手段があるにもかかわらず、7条の2(非実在青少年の規定)を加えることの社会的副作用とはなんだろうか。なんといっても運用の恣意性 なんですよね。

 さっきの公序良俗問題と区別するために言っておくと、ぼくは国会や裁判所に呼ばれて、刑法175条は廃止しろという議論をずっとしてきています。 それは表現規制をやめてゾーニング規制にしろということなんですね。ゾーニングならすべていいわけではなくて、ゾーニングも限定されていないと意味がなく なってしまうんですけれども。

 学問的には「わいせつ物」という実体はなく、社会的文脈がわいせつ感情をもたらすだけなんですね。具体的に言えば、非性的空間に性的なものが持ち 込まれた時にわいせつ感情がもたらされる。だから、わいせつに関わる規制は、社会的文脈の制御だけが社会学的には合理性があります。夫婦の営みがわいせつ ですか? 学会における映写がわいせつですか? 違うんですね。文脈次第で変わるわけです。恋人に対してして良いことをそうじゃない人にすれば当然わいせ つになるわけです。

 ただし、複雑な社会ではわいせつ感情を含めて感情の働きが人それぞれ、つまり多様化する。であるがゆえに、幸福追求権に「不意打ちを食らわない権 利」を書き込むのが合理的だということになって、先進各国は表現規制からゾーニング規制にだんだんシフトしてきた。日本もシフトするべきだという立論をし てきたわけです。

 構成要件が非常に不明確であるがゆえに、表現規制として機能する7条の2を含む今回の改正案は、市民による検証を阻害する。表現規制による最大の 問題は、何が表現規制されたのかが、表現規制によって分からなくなってしまうところにあるんですね。ですから、厳格なゾーニングが一番良いわけです。

設定に関係なく子どもに見えることを取り締まれば、日本的表現への死の宣告です。「東京国際アニメフェア」を共催する東京都にとっても恥ずべき無理解の露呈になります<略>

子どもを守りたいのはみんな同じだよ、当たり前だよ。ここで事業仕分けと同じ論理が必要なんです。目的は良いとして、手段はそれでいいのか。官僚の 利権は、良さげな目的に隠れた不合理な手段にこそ宿るんですよ。高齢者保護の目的は良いとして、さてその手段で良いのか。同じように青少年保護の目的は良 いとして、さて、その手段で良いのか。これが問題なんですね。

 「子どもを守る」という目的はいいに決まってる。しかしメディア規制は疑問ですね。なぜかというと悪影響論はNGだったでしょ。社会的意思表示論 もNGですよね。そうすると、メディア規制によって何をしようとしているのかよく分からない。さらに、行政がこういう問題に関与することがいいのか。後で 言いますが、社会的な関わりを前提とした行政の関わりでない点、行政の勝手な暴走である点でNGです。関与の仕方の是非と言うことについては既にお話をし ました。全体および社会をスルーして、いきなり行政が出てくるところがおかしい。

 最後に「市民社会の本義」。これを確認したい。いわゆる「雨漏りバケツ」問題、つまり「雨漏りがまん延すればバケツへの需要が生じるのは当たり前 だから、市場や行政がバケツを用意すればOK」になります。しかし、本当は屋根を葺(ふ)き直すことが本義ではないでしょうか。バケツの提供はあくまで緊 急避難的な処置、弥縫策ではないでしょうか。

 これは比喩です。社会の自立こそが本義です。つまり屋根を葺き直すということですよ。社会が変なら社会をちゃんとする、それを補完するのが行政の 役割で、社会を行政に依存させてはダメ。ということはメディアの善し悪しについて、行政が呼び出されるわけはない。親がなんとか言えよって話ですよね。

「現実の枠」より「表現の枠」のほうが大きいのは当たり前ですよね。だからぼくたちは、表現を通じて現実を選べるわけです。従って、現実よりも表現 のほうに逸脱が目立つのは当たり前です。それは社会の常態=コモン・ステイトですよね。そして、この「現実の枠」を超えた表現に対して議論するのが社会成 員の責務であるわけです。

 ところが「現実の枠」を超えた表現を、行政が封殺しようとしている。これは社会の自立の自殺に当たるわけですね。まあ、他殺ですね、行政による。

<以下略>

卑しくも石原都知事は「以前は」作家だったはずである。その作家だった人間がこの論理を理解できないとしたら、作家としての評価も後世下がるのは避けられないだろうね。

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2010年5月15日 (土)

サラウンド立体音響によるインスタレーションー3Dサウンドで付加価値を

今日は立体音響に関してビジネスの面でコラボレーションを行なおうとしている事務所が代官山のギャラリーのMonkey Galleryサラウンド音響を使ったインスタレーションを行なっているというので見に行きました。

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既にこのブログでも発表しましたように私はバイノーラルRoland RSS等を使った立体音響システムに関してさまざまな仕事をした経験があり、実は博覧会関係でドルビーサラウンドの仕事もしたことがあります。しばらくこの方面から離れていたんですが例のアバターや昨今の映画の3Dブームもあわせ、再びこの分野での仕事に手を染めようと考えております。過去の私のバイノーラル関係のサウンドは下で聴くことができます。

立体音響ソリューションページ 
 http://www.hybridmusic.jp/3Dsounds.htm

ギャラリー自体は小さいのでサラウンドでもかなりコンパクトなシステムです。フロントのスピーカーのL C R
です。小さくてわかり辛いかもしれませんが、上の方にある小さい四角の黒いのがスピーカーです。BOSEで小型でも各10W は出ます。

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リアのL Rです

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      ギャラリー内でサラウンドの音響のDVD再生(サラウンド仕様にオーサリング) 結構いい感じです。今回は映像に合わせたサウンドでしかもギャラリー内なので音の回し方はおとなしめですが、充分にひきつけられるサウンドです。 これがギャラリーというクローズされた空間ではなく施設で常設できたらいい感じだと思いますね。実はこれを新開発のビルやショッピングモール、ミュージアム等の常設装置としてインストールすることを考え、企画として提案することを考えています。

とかく忘れられがちですが、音楽は時間と空間の中での芸術です。たまたまレコードーパッケージというメデイアを通して商品として売られていますが、レコードも何もなかった時代は音楽は演奏する会場にいなければ体験できませんでした。しかもこの立体音響はDVD等のメデイアに記録することは可能ですが、やはりその「場」で経験しないと本当の良さはわからないと思いますね。これはインターネットのデータ転送のスピードがどんなに速くなろうが、この体験はその場にいないと実感はわきません。

音楽のライブ模様をYou tube等の映像を見ただけで「体験した」気になっているとしたら、もしくはそれで音楽の本質を全て理解したつもりになっているとしたら、それは音楽の本質を理解していない証拠です。音楽のライブ感はネットがどんなに発展しようがその場に行かない限り体験できるものではありません。(いわゆる「ネット万能論者」の 中には本気でそう考えている人間がいる)

そうした意味でも、そして勿論サウンドコンテンツに付加価値をつける意味でもこうしたサウンド制作を推進していきたいと考えます。今CDが売れず配信も頭打ちの現状ですが逆にクラブとかは入場者数は増えているようです。もしかしたら今、そういう時代に戻りつつあるのかもしれません。いい悪いは別にしてみんなただ見たり聴いたりするのではなく「体験」を求めているような気がします。

というわけで今後このノウハウをベースにプロジェクト化して行こうと思います。この技術は映画や映像は勿論のこと、ミュージアムや水族館等の施設、遊園地施設、展示施設等にも応用可能です。

弊社3D音響の試聴はこちらからできます。

http://www.hybridmusic.jp/3Dsounds.htm

ご興味のある方、お問い合わせはこちらからどうぞ

http://homepage1.nifty.com/hyb-music/Inquiry.htm"

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2010年3月17日 (水)

芸術表現が何たるかわかっていない人間が「猥褻」の定義なんかできるのか

■都の漫画の性描写規制案 結論先送りの方向

http://www.news24.jp/articles/2010/03/17/07155505.html

例の「児童ポルノ」の件もそうだが、一体何が芸術で何が猥褻なのか、
それを一体誰が判断するのか?

非常に曖昧だし、やはりこれは危険な行為である。

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子供の裸=児童ポルノというのならレッドツェッぺリンの「聖なる館」のジャケット(写真)が猥褻になってしまうのか、
裸が猥褻というのならヘルムートニュートンはポルノなのか、

それと同じでデビルマンやキューテイーハニーが「漫画の性描写」に当たるのか、

こういうものを一部の人間の独断と偏見で決めるのはやめるべきだし、表現の自由を否定するものである。
こういう議論はずーっと昔からあって、結局判断基準が曖昧のまま進んでしまう。
完全な決着を見たためしがない。

芸術の価値もわからん人間が勝手に自分たちの基準で定めてしまうことに非常な危険を感じる。
芸術表現が何たるかわかっていない人間が「猥褻」の定義なんかできるのか

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2010年2月18日 (木)

「マクドナルド依存症」に見る最近の「ジャンクフード文化症候群」

Yomiuri Online の「発言小町」にこんなものがあった。

■マクドナルド依存症

http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0910/261932.htm?g=01

■33歳独身の日本人女性がマクドナルド依存症に苦悩する毎日 (ガジェット通信)

http://getnews.jp/archives/47706

私はハンバーガーに対してはうるさい人間だが、Macdonaldは先日のアメリカンバーガーは別としてあとは基本的にジャンクフードといっていい。

だいぶ前の記事だがこのブログでも以前こういう記事を書いた。

■生とリアルの価値が理解できない病気=ジャンクフード文化症候群http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2009/02/post-cad5.html/

ジャンクフードばかり食べていると人間の感覚が麻痺してくる。
本当によいもの、美しいものを受け付けなくなり、いわゆる本当の一流ものよりジャンクフード、大量生産ものの方が美味しい、美しいと感じる「感覚の倒錯」が起きる。

・リアルな女性よりも「アニメ美少女」の方がいいと考える人間。
・一流の演奏家の演奏より薄っぺらな打ち込み音楽の方がいいと感じる人間。
・生の楽器の音より安っぽいシンセの音の方が「いい音」と感じる人間
・一流のシェフの料理よりそれこそマックやコンビニの弁当の方が美味しいと感じる人間


実際こういう人間がものすごく増えている。

これが進むと歴史に残るような文化が蔑ろにされ、廃棄すらされてしまう危険性
そして大量生産もの、安物、ジャンクフード、ファストフードの方が「価値がある」という考え方が主流になってくる可能性がある。いや、すでにそう なりかけているかもしれない。

読売に投稿した女性はそうした自分の傾向に対して悩んでいるだけまだいい。
それに対して疑問すら思わない人間の方が圧倒的に多いはず。

これが現代人の感覚をどんどん鈍感にさせ、想像力等も失わせている、そんな気がしてならない。

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2009年3月 6日 (金)

文化庁への意見書公開

先日の当ブログの2月24日の記事にて現在文化庁が検討しているブルーレイディスクの政令指定に関するパブリックコメントを送付するように皆さんにお願いしました。

お願いした以上、私自身も送信しないわけにいきませんので呼びかけをした責任もあり、私の場合の文化庁に対する意見をあえてこのブログにて公開させていただきます。勿論特に一部のネットユーザーとは著しく意見を異にすることは承知の上ですが、これからの文化を守る上でも必要と考えました。

以下に公開します。

*************以下文化庁に対する意見書**********************

 著作権法施行令の一部を改正する政令案に関する意見

 

1.法人

2.氏名 有限会社ハイブリッドミュージック

3.住所 〒206-0013 多摩市桜ヶ丘1-38-5

4.連絡先 xxx-xxx-xxx5 FAX (xxx) xxx-xxx9

 xxxxxxxxx@xxxx.com

5.御意見

  弊社は音楽制作会社であり音楽出版社でもあります。コンテンツの制作現場の立場から今回の意見を表明させていただきます。まず、コンテンツビジネスというのは権利のビジネスであり、知財―知的財産―のビジネスであります。コンテンツは知財ということを大前提としてなぜ「録音による補償金」というものが必要なのか、をご説明させていただきます。なぜならとこの点が大変な誤解をされているように思うからです。ユーザーの方の多くが「なぜ自分の好きでない音楽の分まで払わなければならないのか?」という風にお考えのようですが、気持ちはわからないではないですが、それはものごとの表面的な部分しか見ていないと思います。

まず大前提としてメデイアに録画、録音するという行為は映像や音楽という「コンテンツ」という知財をコピーするという行為であり、これはコンテンツの中身がいかなるものであっても「個人使用」として世間一般の方が家電を使って著作者の許可なくコピーする行為であり、本来は「個人使用」する場合に権利者に支払われるべき対価がある工程で「支払われなくなる」という事態が発生することになります。ブルーレイに関して今行わようとしている改正は「個人使用」に際して本来は「支払われるべき」対価に対して権利者に対して目をつぶりなさい、といっているに等しい改正です。 勿論ユーザーの方がJASRACなり何なりに「個人使用でコピーした」という報告をしていただければいいですが、現実問題として個人使用のレベルで誰かどの曲をどれくらいコピーした、などと把握することなど不可能です。そのためにハードから一定率の金額を回収した金額を権利者に公正に分配する、という方法しか現実的にありません。

 

メーカーの方には補償金を「個人使用」の権利の侵害であるかのようにお考えの方が多いようですが、そういう方にお聞きしたいのは、もしハードの特許や実用新案を全く誰かが「個人使用」という目的で無許可でメーカーの特許や実用新案の技術を無断で使用された場合、「個人使用」に際して本来は「支払われるべき」対価に対してメーカーとして目をつぶりますか? 万が一その無許可で特許や実用新案を使った技術で、誰かが大もうけしてそれで特許料等の知財に関する費用をびた一文払いません、といわれたら「ああそうですか」といって引っ込みますか?

 

 特許もコンテンツの権利も細かいシステムは違いますが基本的には同じです。私は危惧するのはデジタル時代でコピーが簡単になったため、知的財産や知的所有権に関する意識、それを尊重する風土が年々低下している点であります。某大手IT企業の代表で「全てのコンテンツは無料であるべき」などといってはばからない人物もいる始末です。しかし「無料」というのは価値がない、ということであり、音楽や映像のコピーに対する対価を支払うのを拒否するのは音楽や映像の文化の価値自体を認めないといっているに等しく、このような態度は日本の音楽文化、映像文化を滅してしまいます。あえていいましょう。「全てのコンテンツは無料であるべき」という考えは逆に情報化社会をゴミ同然の価値のないコンテンツや情報であふれさせることになり、情報化社会を確実に崩壊させます。

 

そういう事態を避けるためにも、そして権利者が安心して新しいコンテンツを作れる環境を作るためにも今回の改正は大きな禍根を残すことになるでしょう。

 

最後にどうも総務省にも経済産業省にもコンテンツ業者が「何も企業努力を苦労していない」などと考えている人間がいるようですが、そういう方は一度映画や音楽の制作現場を見学されることをお勧めします。少なくとも皆さんが考えているほど音楽も映像も「簡単に」「楽に」できるものではないことがおわかりになると思います。クリエーターがどれだけ身を削る思いでコンテンツを作っているか、そのことを理解していない人、何か著作権料等のロイヤリテイによって「楽な生活をしている」などと本気で考えているような人間が少なくないような気がして仕方ありません。そういう方はぜひ一度レコーデイングや映画の撮影の現場を見てみるといいです。「楽をしている」人など一人もいないはずです。

 

 目先の利益のために文化やコンテンツの価値を何が何でも犠牲にするか、もしそういう選択をした場合は十年後はそもそもコピーしたくなる映像やコンテンツ自体がなくなってしまうでしょう。せっかく家電が普及してもそれを一般ユーザーが機器を使う機会自体がなくなる可能性があります。それでもコンテンツー知財の価値を犠牲にするべきだと思いますか?

 

                   (おおの きょうじ 作曲家、

                  有限会社ハイブリッドミュージック代表)

 

*****************************************************************

以上です。賛成する人、反対する人さまざまでしょうが、私は以上の意見を提出いたしました。私の意見が少数派でないことを祈りますが,,,


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2009年2月24日 (火)

皆さんへお願いー著作権のありかたについて皆さんのご意見をお聞かせ下さい

大先輩にあたる松武秀樹さんの呼びかけに応じて、松武さんのお許しをいただき転記させていただきます。このブログをご覧の方はかなりこの問題についてご関心がおありのことと思いますので、ブルーレイブルーレイディスクの著作権に関する政令指定に関して皆さんのご意見を文化庁の方に送っていただきますようお願い申し上げます。

まずメーカー側JEITAの言い分

http://home.jeita.or.jp/lip/inf.html

権利保護のCulture Firstの意見
■「著作権法施行令の一部を改正する政令案」に対する意見
http://www.culturefirst.jp/news/2009/02/post_3.html

どちらが正しい意見なのか民意に問いたいです。

両方の文章をお読みになり、こちらからブルーレイディスクの政令指定に関するパブリックコメントの送付をお願いします。(3/4〆切り)
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=Pcm1010&BID=185000369&OBJCD=&GROUP=

以下のpdfをダウンロードして下さい。

意見募集要領

著作権法施行令の一部を改正する政令案の概要

新旧対照条文

以下文化庁文章の引用です。

著作権法施行令の一部を改正する政令案に関する意見募集の実施について
平成2 1 年2 月3 日
文化庁長官官房著作権課
この度、文化庁では、著作権法施行令の改正を予定しています。
つきましては、本件に関し、行政手続法第39条に基き、意見募集を実施いたします。
御意見等がございましたら、下記の要領にて御提出ください。
【1.案の具体的内容】
→【別添】参照
【2.意見の提出方法】
(1)提出手段電子メール・FAX・郵送
(電話による意見の受付は致しかねますので、御了承ください)
(2)提出期限平成21年3月4日必着
(3)宛先
住所:〒100-8959 東京都千代田区霞が関3-2-2
文化庁長官官房著作権課法規係宛
FAX番号:03-6734-3813
電子メールアドレス:ch-houki@bunka.go.jp
(判別のため、件名は【著作権法施行令の改正案への意見】として下さい。また、
コンピューターウィルス対策のため、添付ファイルは開くことができません。必
ずメール本文に御意見を御記入下さい)
【3.意見提出様式】
以下の項目に従って、ご記載ください。記入事項を満たしていない御意見については、
受け付けられない場合がありますので、予め御了承願います。
1.個人/団体の別
2.氏名/団体名(団体の場合は、代表者の氏名も御記入下さい。)
3.住所
4.連絡先(電話番号、電子メールアドレスなど)
5.御意見
※メールでご意見をお送りいただく場合は、件名は、「著作権法施行令の改正案への意
見」としてください。件名が異なる場合、セキュリティの都合上メールを開封しな
い場合があります。
【4.備考】
① 様式を満たしていない御意見については、受け付けられない場合がありますので、あ
らかじめご了承願います。
② 御意見に対して個別には回答致しかねますので、あらかじめ御了承願います。
③ 御意見については、氏名、住所、電話番号を除いて公表されることがあります。なお、
氏名、住所、電話番号については、御意見の内容に不明な点があった場合の連絡以外の
用途では使用しません。
(文化庁長官官房著作権課法規係)

21世紀に文化がきちんと残るかどうかの今極めて大事な時期だと考えます。皆さんの積極的なご意見を文化庁に具申のほどをお願い申し上げます。

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2009年2月12日 (木)

生とリアルの価値が理解できない病気=ジャンクフード文化症候群

二次元の女と三次元の女、見つめたいのはどっち?

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0902/12/news017.html

女性の生肌よりアニメの「理想化」された視覚の方がよいと思う人たち、
この問題をいわゆるバーチャルとリアルとかを対比して論じるつもりはないし、いわゆる「オタク文化」に対する偏見を助長させるつもりは毛頭ない。アニメや二次元の画像を始め、DTM等の打ち込み音楽(「ノイズ」を排除した文化)の存在自体を否定するものではない。私自身その関連の仕事もしているのでその価値は理解しているつもりである。しかしこの問題は現代の文化を論じる面ではかなり深刻な問題を宿している。

実は音楽でも全く同じことが起きている。

生のフェンダーローズの音よりもシンセの「エレピ」の音の方が「よい音」と感じる若いミュージシャンが驚くほど多いし、ギターのフレットの音やバイオリンやチェロの弓の音を「ノイズ」だといって嫌う人間も多い。ピアノのサステインペダルの踏む音を「耐えられない」という若いミュージシャンがいたのを覚えている。

つまり全部市販のシンセの音が基準になり、シンセの音が全てよくて「生」の音は「ノイズっぽい音」「良くない音」という風になってしまう。

アニメの女性が良くて実写の女性を受け付けない、というのはまさにこれと同じ

例えて云えばカップラーメンやファストフードの味が基準になり、レストランの一流シェフの味の価値が理解できなくなる、そういう味が耐えられなくなってしまうのだ、私はこれを「ジャンクフード文化症候群」と呼んでいる。これははっきりいって立派な「現代病」である。つまりジャンクフードという客観的なレベルからみれば基準以下のレベルのものを「良い」と考え、基準以上のレベルのものを「悪い」と考える、つまり物事の価値の判断基準が本来の文化の基準と比べ完全に倒錯してしまう状態をいう。

実はこの現象、10代ー20代の若者に非常に多い。この状況はかなり深刻である。当然ながら本当の「本物の文化」を理解する感性などないし、その感性を磨かないで成長してしまったため、「本物の味、音。視覚等」を理解する感覚がすっかり麻痺あるいは退化してしまった状態である。

私はこれは現代の文化にとって極めて危機的な状況だと考える。「本物の料理、本物の音楽、本物の絵や美術」を理解する能力がなくなってしまえば、これらの文化が後世に伝えられることはないだろう。もしかしてそれらの価値を理解できない人間が、文化に対して取り返しのつかないことをする事態が起きることを懸念する。

オタクだから必ずしも生身の女性を受け付けない、ということとは限らないが、こうした「生」のものに対する「ジャンクフード文化症候群」がいわゆる「アキバ系」の大半になっているとしたらこれは問題だ。

人間の感性の危機かもしれない。特に従来の質の高い文化、伝統文化を「ノイズの多い文化ー無価値な文化」として理解されず、廃棄すらされてしまう可能性を大きく危惧する。

ちなみに音楽で以下の点に1つでもあてはまる人がいればあなたは「音のジャンクフード文化症候群」にかかっている可能性が高いといえよう

1.ギターのフレット(指が弦を押さえる音)をノイズ、うるさいと感じる

2.ピアノのペダルの音をノイズ、うるさいと感じる

3.ウッドベースの指が弦を押さえる音をノイズ、うるさいと感じる

4.トランペットやSAXなどの吹奏楽器から漏れる息の音をノイズ、うるさいと感じる

5.バイオリン、チェロ等の弦楽器の弓が弦に触れる音をノイズ、うるさいと感じる

6.バイオリン、チェロでフォルテ(強い音)を弾くときの弓の音(カチ!って音)をノイズ、うるさいと感じる

7.ドラムの皮を緩めたときになる共鳴音(周囲に伝わる振動音)を聞くとノイズ、うるさいと感じる


8.生ピアノやエレピよりシンセのエレピやピアノの音の方が「良い音」と感じる


9.ビンテージシンセの音より安物シンセの音の方が「良い音」と感じる。



まだまだあるけどこのくらいにしておきます。

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2008年7月14日 (月)

日本人はコンテンツを芸術ではなく単なるコミュニケーションツールとしか見ないのだろうか?

7月も中旬になり、2008年も後半、今年の始め2008年は音楽業界の滅亡の年になるのではという記事を書いたが

2008年音楽業界滅亡を前提にー何をすべきか
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2008/01/2008_dca0.html

ご存じの通り石油その他の高騰による消費の冷え込み、円高等で景気が後退しているのは明らかである。政府はまだこの時点になっても景気後退を認めていないが、これは既に明白な事実である。しかし今のところはその状況にも関らず何とか「まだ」持っている。

ネットのコピーが音楽業界衰退の原因ーそれを業界幹部はずーっと云い続けていた。確かにコンテンツはタダであるべき、という雰囲気はネットユーザーの中に根強くあるのは事実だが、しかし衰退の原因はそれではない。音楽業界が一番衰退した原因は何か、勿論それは音楽業界人がいまだに旧態依然のビジネスモデルにこだわり時代に対応していない、ということが大きいが、最大の原因を探すならばひとことでいえばそれはネットのせいではなく、それは「携帯のせい」ということになる。

またネットマガジンのサイゾーの引用になってしまうが、白田秀彰氏のインタビュー記事に日本人のコンテンツに対する意識を的確に表現したものなので紹介しておく。

新時代・あらゆるコンテンツは「ニコ動」でイジられる!(前編) (サイゾー)

http://www.cyzo.com/2008/07/post_728.html

同 後編) サイゾー

http://www.cyzo.com/2008/07/post_729.html

これを読んで少し絶望的な気持ちになったのは日本人はそもそも「コンテンツ」というものを芸術や文化としてみているのではなく、単なるコミュニケーションツールとしてしか見ていないということだ。つまり学校や職場で同僚や友人から孤立しないためのコミュニケーションツールとしてテレビ番組や音楽を利用するといった構図だ。

90年代のバブル時代は音楽とはドラマやCMのタイアップ曲だったりカラオケで歌いやすい曲だったりしたものがヒットした。(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。特にいわゆるトレンデイドラマ全盛の当時は若者であれば「誰もが見るもの」であり、メーカーはそのドラマタイアップ獲得のため湯水のようにお金を投入していた。

つまり、学校や職場の友達や同僚とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く、音楽はそのための単なる道具に過ぎなかった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くための道具であり、そのため「みんなが聞いているから」というのがCDを買う理由となった。いかにも日本人らしい音楽の買い方だと私見では思う。本人たちはそのタイアップの音楽が好きというつもりで買ったかもしれないが、実際はその曲の音楽性ではなく、単なる学校や職場で孤立をしないためのものであった。

しかし携帯が特に若者のコミュニケーションツールにとって変わるとコピーで事足りる音楽に金を使うものなどいない。そして10-15年前と違いCDを聞いても友達は出来ない。と周囲のコミュニケーションツールとしての役割を音楽が果たせなくなった状態では売れなくなって当たり前だ。つまり平たく言えばコミュニケーションツールとして携帯が音楽にとって変わったのである。

海外でもこういった面が全くないとはいわないが、そこが文化の基盤がきちんとできている欧米と日本との差、ヨーロッパにはクラシック音楽があり、アメリカの白人はカントリー、黒人はR&B ソウル、JAZZと「生活の隅々まで根ざした音楽が存在する」。しかし残念ながら日本は沖縄地方を除いてそれがないのだ。もし着メロやカラオケが「生活に根ざした音楽」だと思っている人がいたら、それは音楽文化を理解していない人の弁だ。

生活に根ざした音楽は音楽が鳴ると自然に踊るし、歌う。今日本人でカラオケボックスにいかないで自然に歌ったり踊ったりする人はどれくらいいるのだろうか? 日常生活に音楽がありますか? おそらく「ある」という人の方が少数派かもしれない。

ゆえに日本人にとってコンテンツは単なるツールでしかなく、ツールである以上煮て食おうが焼いて食おうがユーザーの勝手である。という理屈になる。そういう風土からはクリエーターに対する敬意や尊敬など生まれにくい土壌になるだろう。

こうした国に本当に次の時代に継承するコンテンツー文化、芸術が生まれるだろうか?

まあ先日の司馬遼の言葉じゃないがIT系の連中にとっては文化より文明を選ぶんだろうな。(「文化とは、民族内でしか通じないローカルルールであり、文明とは誰もが民族間でのコミュニケーションを実現するグローバルルールだ」 by 司馬遼太郎) でもそういう連中に限ってグローバリズムっといっておきながら、著作権関係の決め事では欧米の決まりごとより日本しか通じない「払わない」という理屈を優先するというご都合主義な人が多いですがね

それでクリエーターが日本からいなくなっても俺の知ったことか、ということなのだろう。

とにかくこういう話を聞くと日本という国が「コンテンツ王国」になる可能性は限りなく0に近い。


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2008年4月27日 (日)

美の巨人ー石田徹也

私の友人なら私があまり地上波のテレビを見ない人間であることはよく知っていると思うが、その中で数少なくレギュラーで見ている番組は何とテレビ東京の「美の巨人」(毎週土曜日: 22;00-22:30)である。

http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/index.html

世界遺産が日曜の六時に移って、薄っぺらな内容のない番組になりもう全く見る気が失せたから、今やこの番組が私がレギュラーで見ている地上波テレビの殆ど唯一の番組といえる。(あとは殆どBSかケーブルだ)

アレンジと打ち込みの作業中、手を休めて見たのだが、今回の特集は石田徹也」、1973年生まれの画家の作品はかなり衝撃的だった。日本にもこんなオリジナリテイあふれるインパクトのあるシュールな絵を書く人間がいたのかと思った。

Tetsuya002

 

「囚人」

Tetsuya012_3 「飛べなくなった人」

 Tetsuya040

 「燃料補給のような食事」

とても「イラスト」的だがどこかシニカルで滑稽でまたもの悲しさもある何とも不思議な絵である。絵に出てくる人間の表情は無表情で無気力ー何か現代の人間の姿を象徴している。ちなみに本人は否定しているがこの絵は自画像、もしくは自分の分身なのではと思っている。人間と機械を合体させる手法はキリコなどの表現主義的であり、またどこかマグリットをも思わせるシュールで幻想的でもある。それでいて私的にはかなり表現が「ストレート」な印象をも持った。

ようやく画壇に世界に誇れるほどの画家が出たと思ったら、残念ながら3年前に小田急線の踏切事故で夭折、まだ31歳の若さだった。(事故の状況が不自然なことから自殺という説もある)

公式サイト
http://www.tetsuyaishida.jp/

もう一人、タイプは全く違うが「天才」といわれた山田かまち(私と2つ違い)がいるが、彼も事故でまだ十代の若さで夭折している。この石田徹也にしろ「天才」といえる人間が長生きしないのはとても残念である。ちなみに山田かまちもギターのシールドと電源コードを間違えて感電死、と我々の常識じゃ考えられない事故で他界している。

いずれにせよ、自分にしかないオリジナルな表現をしている人間は日本という社会で生きていきにくいということだろう。この石田も晩年、かなり「自分の新しい表現に苦しんだようである」

海外でも非常に評価が急上昇の日本の画家である。事故死(!?)が本当に惜しまれる

それにしてもこういうアーチストが日本にいた。
日本のアートシーンもまだ捨てたもんじゃない。

音楽は? ふーむ(-_-\)


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2007年11月22日 (木)

モリース ベジャール死去 80歳ースイスローザンヌで

スイスのバレエの振付師のモリースベジャールがスイスのローザンヌで死去、80歳だったそうです

日本語のリンクはまだありません。とりあえずフランス語のリンクで
(後ほど日本の記事が出次第発表いたします)

「振付師のモリースベジャール死す」
http://www.20minutes.fr/article/196191/Culture-Maurice-Bejart-est-mort.php

フランス語は私は若干つたないですがだいたいの訳を書きますと
「ベジャール氏が創立者で20年以上代表を務めるスイス、ローザンヌ ベジャール現代バレエ団はモーリスベジャールが木曜日に80歳で死去したことを発表した。
 バレエ団として公式な発表は午後2時に次席代表のエリックトロール氏が発表したが、詳細で正確な情報はこれからとのこと
 ベジャール氏はここ数週間、肝臓の疾患で入院しており、ベジャール氏の訃報は同病院の12階(日本だと十三階に当たる)で行われた。 」
訳に一部不正確なところがあるかもしれませんー英語ほど自信がないので...)

ついでに

「振付師のモリースベジャール死去」
http://www.france-info.com/spip.php?article41470&theme=36&sous_theme=40

日本語のリンクです
・訃報:モーリス・ベジャールさん80歳=振付家
http://mainichi.jp/enta/art/news/20071123k0000m060109000c.html

もうあのボレロは見れないんでしょうかね

ちなみにYou tube にQueenとMozartを効果的に使った映像があります
http://www.youtube.com/watch?v=K5crrernfAY

ベジャールの言葉に「私のスペクタクルは、裏返しにはめた私の愛の手袋」
すばらしいですね。
また最高の表現者が逝ってしまいました。
心からご冥福をお祈りいたします




DHCオンラインショップ

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2006年1月30日 (月)

ビデオアートの先駆者ナムジュンパイク氏死去

ビデオやメデイアアーチストの先駆者として活躍したナムジュンパイク氏が死去したそうです。73歳だという

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060130i515.htm?from=main5

S1103r01

ビデオアートの先駆者として、私もニューヨーク滞在時代に 実際にホイットニー美術館でのレクチャーやローリーアンダーソンとのパフォーマンス等を見て大きな衝撃を受けたことがある。そして印象深いのは私がニューヨーク滞在時に初めて衛星放送やミュージックビデオ等を組み合わせた伝説のビデオショー「Good Morning Mr.Orwell(おはよう、Mrオーウエル)」のオンエアをみたこと。これはものすごい衝撃だった。

メデイアを使った新しい表現を絶えず追及していた姿勢は私に とっても芸術家として生きた見本であった。

ミュージックビデオ、いや今はPV(プロモーションビデオ)というのか。それが当たり前になったが、彼のGood Morning Mr.Orwellから22年、あれから音楽のみならず芸術全般の表現は斬新になっただろうか。私は寧ろ後退、退化している気がしてならない。-特に音楽に関しては

私はしばらくビデオアートなるものに関わったことがあるがそれは取りも直さずナムジュンパイク氏の影響である。<./p>

とにかく1つの時代が終わった感じがする

ご冥福を心よりお祈りいたします。 合掌

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2004年12月17日 (金)

私なりの20世紀音楽論

本来音楽史というと地球全体を見据えた上で何処かの音楽はどうだったといった議論になるはずなのだが、殆どこういった場合いわゆる欧米中心の歴史論になってしまう。たとえばインドなどは西洋に負けないどころかそれ以上の音楽体系と歴史があるのだが、私も残念ながらそれらをきちんと論じるほど勉強をしているわけではないので、ここではいわゆる伝統的な欧米中心の音楽歴史論になってしまうことをご容赦いただきたい。21世紀に入っているのにそのような狭い範囲でしか論じられない自分が少々情けないと思っている。

  20世紀の音楽のみならず文化芸術全般についてある歴史家は「大衆文化の花開いた世紀」などと論じるかもしれない。しかし私はそれは違うと思う。第一にこの大衆文化なる言葉は私は大嫌いだ。だって考えてみれば非常におかしな話で元々芸術、文化は大衆というか一般人民のものであり、別に一握りの音楽専門家のためでもないし、いわんやいわゆる特権階級のものではない。確かに表面的には19世紀.まで芸術文化は貴族や特権階級が中心に享受しているように見える。だが映画「アマデウス」でも描かれていたがモーツアルトの音楽を支持して、後世に伝えていたのは貴族や特権階級ではなく一般の市民階級であったことを思い出して欲しい。あるいはシューベルトは死後認められたというけど、当時の多くの人々は彼の愛らしい歌曲のメロデイは知っていた。(ただ作者はシューベルトとは知られてなかったようだが) 昔から良質の音楽は一般市民に支持されて後世に伝わっていたことが多いことを未だに多くの音楽史研究家や音楽評論家という人たちは認めようとしていない。そのためにこのような考えが未だに大手を振ってまかり通っている。

 それを云うなら貴族や特権階級のコントロールから完全に解放された世紀と云った方が私は正しいと思う。(最もヨーロッパ等の一部の国ではいまだに特権階級は存在するが) 一方では資本主義、商業主義の発展という別の面もあるが、とにかくいわゆるポピュラーミュージックが花開き、20世紀の音楽の発展に大きく寄与したことには誰も異論はないだろう。一方ではこれは19世紀以前から続いた伝統的な西洋音楽の事実上の終焉をも意味していると思う。

  前者には異論はなくても後者に異論を持つ人は多いかもしれない。特にいわゆるクラシック系の音楽をやっている人たちにとっては。では21世紀に入った現在、20世紀の伝統的な西洋音楽家で現在大きな影響を与えている人はどれくらいいるだろうか?

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2004年3月19日 (金)

クリエイテイヴに生きるということ

私はプロとして仕事をしてもうすぐ20年になります。たいていプロの世界で仕事をしていると、「よーし 一発当ててやる」という風に考えるものですが、私は天の邪鬼なのか「売れる」作家というよりは「クリエイテイヴ」な作家という風に思われたいのです。それはこの仕事を始めた時もそうでしたし今でもそうです。(当ててやろうと考えたことがないといえばウソになりますけど(^^:))

  しかしひと口に「クリエイテイヴ」といってもどういうものをいうのかと聞かれたらなかなか明確な答えはしにくいものです。簡単にいえば「人のやっていないことをやる」ということですが、ひとつ間違えると単なる変人になってしまう。「クリエイテイヴであること」と「自己満の世界」って結構紙一重の所がありますから....

  私はその答えを探すためにプログレッシヴロック、現代音楽、最近のトランス系やドラムエンドベース系のテクノ等あらゆるクリエイテイヴと思われる音楽に触れました。その中で一番幻滅したのは現代音楽で、何やらすごく高度なことをやっているように見えても、とにかく大半の曲は聴いていてつまらない、聴くこと自体が苦痛ではっきりいって一度聴いたら二度と聴きたくない曲が殆ど。唯一ステイーヴライヒ、テリーライリーといった"ミニマル音楽"にふれたのが収穫でした。何よりも「現代音楽」という名前でも殆ど聴いていて現代を感じない、寧ろ古臭いものすら感じたのでとにかくすぐに離れてしまいました。

  しかし、この現代音楽というやつは間接的ではあるにせよ実は私がやっているヒーリング音楽や最近のアンダーグラウンドのクラブシーンには結構影響を与えていることは否定できません。そもそも環境音楽という考え方自体、ジョンケージからの思想的影響を通してブライアンイーノに受け継がれているし、イーノの影響を否定できない私としても間接的には影響を受けているという見方もできます。また私自身は好きではないですがノイズミュージックのコンセプトはかつて"騒音の音楽"を提唱したルイジルッソロの考え方そのものですし、前述のクラブミュージックはミニマリズムのコンセプトそのものです。音楽評論家によっては環境音楽やクラブミュージックを「現代音楽」と呼んでいる人もいるくらいです。

 確かにレイヴイヴェント等は大きな音楽ムーブメントになっていますし、クリエイテイヴィテイという面では いろんな試みがされていますが、何分この世界はDJが支配しているので、私のような個人作曲家は面白くないところもないではありません。しかし今現在最も未来の音楽を暗示している音楽であることは事実でしょう。現在この方向から私なりの新たな音作りを模索しているところです。最も最近少し下火になりつつあるのを感じていますが........

 もうひとつの問題はやはり現代があまりにシステマテイックな世の中になっている点で、現代に生きようとすれば誰しもこのシステムから逃れられないという点かもしれません。どんな音楽も生産→消費、コマーシャリズムのシステムの一素材に過ぎずかつてのように芸術が"残りにくい"システムになっている面もあるかもしれません。それを克服するにはクリエイテイビテイとコマーシャリズムが両立できればよいのですが、云うのは簡単、特に最近はなかなか難しい世の中になっていると思います。

 70年代のプログレッシブロックについてはその「クリエイテイビテイとコマーシャリズムが両立できた」希有な例と云えるかもしれません。音楽にはパワーがあったし、絶えず新しい試みをしていたし、何よりも時代がああいう音楽を求めていたので興行的にも大成功しました。ああいうことが今果たしてできるでしょうか?私はできると信じて今までやってきたのですが最近は少し自信をなくしてきています。私は興行的成功は勿論目指しますが、何よりも絶えず新しい試みをする精神だけは大事にしたいと思っております。それを失ったらもはやクリエータとはいえないと思うからです。

  私は現代はある意味では人類史上「クリエイテイヴ」に生きるのが最も難しい時代かもしれません。確かに現代は表現の自由があり、テクノロジーもかつてない程進んで表現の可能性が広がったはずなのに私の作品を含めて何故か新鮮さを感じる作品が少ない感じがします。私が自分の生涯の中で誰もが新鮮に感じる音楽を創ることができるかどうか。もはや決して若いという年齢ではありませんが、チャレンジだけはしてみたいと思っております。

  音楽家というのは結局自分の音楽が全てです。もしこのページを読んでいる人で私がどういう音楽を作っているのか興味を持っていただければ幸いです。


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2004年2月22日 (日)

奇人変人が多い大作曲家の人物像

ここでは珍しくクラシック音楽の話をしよう

  クラシック音楽というものは歴史の波に揉まれているだけあって当然のことながら名曲、名作が多い。しかし「こんな素晴らしい曲を書く人なのだからすごく立派な人でしょう?」などといった世間知らずのお嬢さんのようなことを云うなかれ。実はいわゆる大作曲家の多くは奇人変人の類いにあてはまることが多い。

  しかし大作曲家といわれる人たちは多かれ少なかれ伝記作家や音楽評論家たちによって美化されている。特にモーツアルトやシューベルトといった人たちは若くしてしかも貧乏のうちに死んだということもあって過剰なまでに美化されている。しかし実像は今あるイメージとはかなりかけ離れているのを御存じだろうか。

   20年近く前に映画「アマデウス」というのがあったが、その映画に描かれている破天荒なモーツアルトの姿に憤慨したモーツアルトファンが少なくなかったようだ。だが実際のモーツアルトは(たぶん)あれよりもっとひどかったようである。実はモーツアルトは手が付けられない程のイタズラ小僧で舞踏会で女の子のスカートをまくったり、ウイッグにイタズラをしたり等しょっちゅう女の子にチョッカイを出していた。そのことがザルツブルグ大司教の怒りを買ったわけだが、それだけではない。モーツアルトの友人の手紙を見るとまあシモネタ、ウ◯コネタがバンバン書き込まれていて、「紅顔の天才美少年」というイメージはこの手紙を読むともろくも崩れ去る。実際あまり知られていないが「オレのケツを舐めろ」という題名の曲すらある。もっともこれは日本でいうアカンベーと同じニュアンスで英語にも"Kiss my ass"という表現がある。

 そしてシューベルトの場合だがこれはモーツアルトよりもっと深刻だ。彼が31才という若さで極貧のうちに死んだという人生を後の伝記作家や音楽評論家たちがあまりに美化し過ぎた結果、主にクラシック系の作曲家の間に「シューベルトシンドローム」なるものがはびこってしまったのである。つまり「生前は殆ど認められず極貧にも負けず素晴らしい作品を残したーなんて素晴らしい作曲家なんだ」というわけである。おかげで「生前認められなくてもいずれはシューベルトのように評価される」などという馬鹿馬鹿しいことを考える人間まで出てきた。シューベルトのような生き方こそ作曲家の理想であると云わんばかりだが、作曲家の端くれである私からみれば冗談じゃない、ふざけるなといいたい。迷惑もいいところである。

   実際にはシューベルトは物凄くだらしない男であった。背も小さく服装にも無頓着、人つきあいも悪く無愛想な男だったという。当然映画「未完成交響楽」(すげえクサイ映画(-_-;))のような恋愛などできるわけはない。また極貧というけど高荻泉氏によると割と頻繁に売春宿に出入りしていたらしい。女遊びをするくらいの金はあったようである。一般的なイメージの「清貧」とも違う。おかげで梅毒にかかってしまい、精神的にも不安定になったようである。例の「未完成交響曲」が未完成に終わったのもこの辺りと関係があるという話もあるが真相はわからない。いずれにせよシューベルトも一般に知られているイメージとはかなり違う。

   ついでにいうならー話をモーツアルトに戻すがーモーツアルトの晩年も後世云われる程貧乏ではなかったという。確かに以前より大幅に収入が減ったのは事実らしいが一部に伝えられているような「餓死」するほど貧窮はしていなかったようである。少ないギャラだったが作品の依頼は結構あったようだ。これも音楽学者、音楽評論家たちが美化するあまり「モーツアルトは清貧のうちに死んだ」というイメージでなければならないという思い込みが「餓死説」まで飛び出させた要因であろう。

  これらはほんの一例に過ぎない。各作曲家に対してよいイメージを持ちつづけたいとお考えの方には申し訳ないが、しばしば事実は小説より退屈なのだ。(これって誰の言葉だったっけ?)歴史に残る大作曲家がどんなに偏屈で、決して友だちにしたくない人間が多いか以下に示そう。タイプとしていくつかに分類できる

かんしゃく持ちタイプ
ベートーベン

  -数々の名曲を残したベートーベンだがまさに「偏屈が服を着て歩いている」という言葉がぴったりの人物だったという。しばしばかんしゃくを爆発させしかも元来の一本気な性格が禍いして多くの友人や恋人が彼のもとを離れていった。極めつけは弟の子を弟の死後引き取ったのだがこの甥のカールはベートーベンの過剰なまでの干渉についには自殺未遂まで行い、その結果この数少ない肉親から絶縁状までたたきつけられた。またベートーベンは数々の良家のお嬢さんと派手な恋愛をしたがいずれも別れてしまった。おそらく女性の方がついていけなかったんだろうね。ちなみにベートーベンの臨終の言葉は「喜劇は終わった」ーふーむ自分でちゃんとわかってはいたようだ。

   マーラー
       武川寛海氏によると「マーラーは天才だったらしい」何の天才かというと「敵を作る天才」だったという。この人もかんしゃく持ちで、自分と思想や思考が合わない人物に対してはどんな温厚な人物も怒らせてしまったらしい。つまりケンカの天才だったわけである。おかげでマーラーは「反ウイーン楽派」から徹底的に攻撃されることになった。晩年マーラーは極端な厭世感にとらわれるがこの時は人をよせつけない雰囲気に満ちていたという。個人的には初期のマーラーは結構好きなのだが晩年の厭世感あふれる雰囲気の曲には正直ついていけないところがある。武川氏の話しを聞いて納得、なるほど友だちになりたくてもなれない人物のようだ。

バルトークー
       バルトークの作品は私自身結構好きなのだが、その音楽は決してお世辞にも親しみやすいとはいえない。人間的にもその通りだったようでコリンウイルソン氏によると「バルトークはまれなほど親しみにくい人間だった」という。プライドも高くかなりのかんしゃく持ちだったという。確かに何となくあの音楽を聴いているとわかるような気がする。



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