Kyoji "metanature"
i-tunesでも好評配信中!!
i-tuneページを表示するにはお客様のPCにi-tunesとquicktimeがインストールされている必要があります。 i-tunes及びquicktimeのダウンロードはこちら





2017年2月10日 (金)

JASRAC音楽教室から「著作権演奏権徴収」ーなぜ私は反対するのか?どこに問題があるのか(長文注意!!)

先日からJASRACが「演奏権」を根拠にヤマハ音楽振興会や河合楽器製作所の音楽教室から著作権演奏権を徴収すると発表して以来、私は反対運動を始めた関係で私の周囲の音楽関係者や音楽愛好家の多くは署名に参加していただいた、賛同して署名していただいた方には御礼を申し上げたい

■音楽教室から著作権料を取らないで!! 日本の音楽教育存続のために
http://bit.ly/2kEhYKP
(urlが長すぎるためにbit lyに変換しています)

但しどうも最近の日本という国は「反対運動する」という行動をネガテイブに受け止める向きが少なくない、というのも今回の署名活動で感じた。そういう風潮は私は権力者が好き放題できる土壌を作るもので極めて危険で困ったものだと考える。一方で以下のような反論や批判に遭遇した点については問題をわかりやすくするために論じておいた方がいいだろう。

・「カワイやヤマハは商売でやっているだから徴収は当然だ」
・「演奏権は『免除規定』に入っていないのであなたの主張はおかしい」
・「音楽教室が善でJASRACが悪であるかのような論法は問題だ」
等々

それらの論に私なりの考えを述べさせていただく。やや順が逆だが一番下のJASRAC=悪という流れはネット全体にかなり蔓延していたのは事実だが、私は寧ろネットのそうした論調には今までは やや距離をおいてきたつもりである。

しかし今回のJASRACの方針にはあまりにも問題がありすぎるのだ。あまりに問題がありすぎると同時に、本当に音楽教育や音楽制作の現場を知っている人が言い出したのかはっきりいって甚だ疑問だ。そのくらい的外れな主張なのだ。

と同時に何度もいうようにこれは音楽教育のシステムそのものを崩壊させる危険性がある。今回ばかりはJASRACは超えてはならない一線を越えた、といわざるを得ない

どこが問題かを整理すると以下のようになる

1.少人数、多くの場合1対1の音楽教室で「演奏権」を適用するのが適切かどうか

既にヤマハ音楽振興会や河合楽器製作所のほか、ピアノ教師らでつくる全日本ピアノ指導者協会など7企業・団体が「音楽教育を守る会」を結成したのでおそらくこの件は裁判にまで発展すると思われるが、その際に最大の争点になるのがここの部分であろう。

JASRACも批准している万国著作権条約パリ改正条約では教育目的での著作権は「免除規定」となっているが確かにそれは「複製権」や「翻訳権」を規定していて確かに「演奏権」は規定していない、それが今回のJASRACの新方針の根拠だが、なぜパリ条約で「演奏権」を規定されていなかったのかを考えると今回の争点のポイントが見えてくる。

音楽教育に詳しくない方、音楽の世界を知らない人には理解できないかもしれないが音楽教育は基本「個人レッスン」を中心に進行される。そもそもこの「個人レッスン」とは何かそのプロセスを知っているものなら、今回の「音楽教室」の「演奏権」摘要がいかに的外れなものかがわかるはずだ。なぜなら「個人レッスン」は演奏家の場合は「演奏の技術」を習得、練習するための「訓練」の時間のことをいう。著作権法では「公衆に聞かせるための演奏は使用料が発生する」と書かれているが、音楽教室では音楽的にみて「演奏」といわれるまでのレベルになるための「訓練の時間」であり、教師以外はその「演奏の訓練、練習」を聞いている人間はいないーつまりそこに聴衆はいないのだ

パリ改正条約に「演奏権」の規定がない、よく考えれば当たり前の話だ。なぜなら教育課程では「演奏」は一般に「訓練」であり人からお金をとるレベルの「演奏」ではないからである。これは国際的にコンセンサスが取れているはずであり、「訓練」「教育課程」である以上「演奏権」の規定などする必要はない、という判断でパリ改正条約はまとめられた、と考える方が自然である。

寧ろ「音楽教室」での「訓練」「練習」に「演奏権を摘要」などと海外にいったら「はあ?」何云っているの? バカじゃないの?」 という反応の方が強いはずだ。JASRACの中の誰が言い出したのか知らないが、今回の新方針は「演奏の訓練」ということをやったことのない音楽に無知な人間が言い出したか、CD関係の収入が減ったから他のところから搾り取ろうと考えて「演奏権」で難くせをつけて確信犯的に徴収すると言い出したか、どちらかと思われても仕方がないのだ。

実際海外の著作権信託団体 ASCAP BMI 等が今回のJASRACが主張するような形で著作権料を払っているというのは私は聞いたことがない。もし具体例があるのならご教示いただきたいものである

反論ある方、「荒らし」や「炎上」目的の発言でない限りいつでも受けて立ちますよ

続きを読む "JASRAC音楽教室から「著作権演奏権徴収」ーなぜ私は反対するのか?どこに問題があるのか(長文注意!!)"

| | コメント (2)

2017年2月 5日 (日)

音楽教室から「演奏権」寝耳に水徴収ー反対団体も発足し広がる反対運動ー今後の展望

既にご存じの通り私の方でも今回のJASRACの本来は「免除規定」の中で不文律となっていた教育現場での「演奏権」を問わない慣例を破って「演奏権」徴収の方針をまとめた件、
対抗措置としてヤマハ音楽振興会や河合楽器製作所のほか、ピアノ教師らでつくる全日本ピアノ指導者協会など7企業・団体が「音楽教育を守る会」を結成しました。

教室を運営する事業者に広く参加を呼びかけ、教室での演奏は教育目的で演奏権は及ばないという法解釈を共有していきたい。JASRACと主張が平行線をたどる場合は、司法判断を求めることも検討したい(代表に就任したヤマハ音楽振興会の三木渡・常務理事)

私もこの会の活動に対する支持を表明します。そもそも音楽教室は演奏を聞かせてお金を取る場ではなく、練習して、技能を身につける場です。そのために使用する楽曲は、楽譜や教本の購入時に著作権料を支払っています。少なくとも日々のレッスンは先生と生徒間でのみ使用されており、そこに聴衆は存在しません。そこから「演奏権」を取るなど全く持って筋違いも甚だしいです。なぜなら「演奏」を完成させるための練習であり、その「演奏」はまだ商品レベルにも達していないからです

ヤマハもカワイも庶民を対象とした音楽教育の根幹を担ってきた会社であり、この両社に対する「演奏権」の一方的な課金は単なるアリの一穴ではすみません。いずれ街の小さな音楽教室や個人のピアノ教室、さらには一般の学校教育にまで波及するのは火をみるより明らかです。これは日本国内の音楽教育の存続を危うくし日本の学校から音楽の授業が消える可能性すらあります。決して大袈裟な話ではなく音楽文化の苗床である音楽教室の殆どが運営していけなくなる、つまり音楽家の後進指導の苗床が根絶やしにされるという事態につながりかねません。

確かに著作権収入がCDの売り上げ減、配信の伸び悩み等で落ち込みが激しいことを理由から背に腹を変えられない状態に追い詰められているという点もあるようです。それだけにやみくもに重箱の隅をつついて金をしぼりとろうという、一番人から嫌われるパターンですが、そういう態度が見て取れます。

しかし何度も繰り返しますが著作権の「演奏権」はほぼJASRACが実質的に独占的に保有している権利であり、明らかに独禁法に抵触する内容だと思います。ここの部分を誰も突いてこないのが不思議でなりません。JASRACの「演奏権」独占を事実上取り上げる措置を取らない限りこの横暴はどんどんエスカレートしていくと思います。今回のJASRACの動きはその意味で極めて危険な兆候です。

ちなみに私も元JASRACの正会員ですが(現在は「信託者」ー単純に年会費払うののが嫌なので(笑))実はJASRACの個人の正会員や準会員等には「クラシック系」や「歌謡曲」系と大きく2つに分かれ、実はJ-pop系は本当に僅かです。(というか総会に行くとわかりますが殆どいません。)今回の措置についてたぶん浅石理事長は「あくまで営利目的のヤマハやカワイを対象にしたもの」などと説明するでしょうが、その説明を鵜呑みにして自分たちは無関係、などと本気で考えた正会員や準会員がいたらそれははっきりいってバカです。

なぜならこれは最終的には街の小さな音楽教室や街のピアノの先生、音楽講師をターゲットにしていることは明らかだからです。

私の知る限り正会員や準会員で生徒を持っていない、教えていない作曲家は殆どいないはずです。そういう人たちにも今回のJASRACから請求が来ます。殆ど会員が何らかの形で割を食うでしょうね。

そのことに気づいたら今年のJASRACの会員総会、果たしてどうなるでしょうね。はっきりいって紛糾しなかったら私は驚きますね (^o^)

いずれにせよJASRACの幹部が考えるほどこれはすんなりといかないと思います
私も署名活動で「抵抗」します

「JASRAC : 音楽教室から著作権料を取らないで!! 日本の音楽教育存続のために」 に賛同をお願いします!

署名 サイト ↓

皆さんの助けが必要です。よろしくお願いします

| | コメント (0)

JASRAC-音楽教室から著作権料を取らないで!! 日本の音楽教育存続のために

既に報道でご存じの方も多いと思いますが、JASRACはヤマハ音楽振興会と河合楽器製作所の音楽教室に対し音楽著作権の「演奏権」に関する著作権徴収の方針を固めました。通常教育目的の音楽使用は本来は「免除規定」の対象のはずなんですが、全く寝耳に水で音楽教室の著作権に関して「演奏権」の規定がないことをいいことに突然一方的に音楽著作権料を徴収すると宣言したものです。

ヤマハもカワイも庶民を対象とした音楽教育の根幹を担ってきた会社であり、この両社に対する「演奏権」の一方的な課金は単なるアリの一穴ではすみません。いずれ街の小さな音楽教室や個人のピアノ教室、さらには一般の学校教育にまで波及するのは火をみるより明らかです。これは日本国内の音楽教育の存続を危うくし日本の学校から音楽の授業が消える可能性すらあります。決して大袈裟な話ではなく音楽文化の苗床である音楽教室の殆どが運営していけなくなる、つまり音楽家の後進指導の苗床が根絶やしにされるという事態につながりかねません。

250pxjasrac_head_office_shibuya

その事態を避けるためにも皆さんの署名が必要です
「JASRAC : 音楽教室から著作権料を取らないで!! 日本の音楽教育存続のために」 に賛同をお願いします!

署名 サイト ↓


皆さんの助けが必要です。よろしくお願いします

| | コメント (0)

2017年1月10日 (火)

青山学院監督「強いチームの作り方」を読んで音楽産業の低迷の原因が笑えるほどみえてきた点

お正月恒例の行事の「箱根駅伝」 今さらいうまでもなく青学の三連覇、史上四校目の駅伝三冠を達成した圧倒的強さを見せた。

むろん勝てば官軍という感じだが、かつての弱小チームがこれほどまで圧倒的な強さを身に付けた原因は何なのか、ということは各方面から強い関心を抱かれている

そこで箱根駅伝開催前の青山学院大学の原晋監督のコメント
■青学・原監督が明かす「強いチームの作り方
http://toyokeizai.net/articles/-/151432

これを読んで思った。ここで「原監督」が強いチームを作るために「やってはならないこと」があまりにも笑ってしまうほど今の音楽産業、レコード会社にあてはまってしまうことに気づいたからだ

1.「業界の常識」を疑うことを知らない

まず必要なことは、「業界の常識を疑うこと」です。世の中にあるさまざまな業界、業種には、そこだけで通じる常識があります。中にいると気づかないかもしれませんが、その常識は、世間の常識と比較すると、ときに非常識と思えるものや時代遅れになっているものがあります。

そのとおり。
音楽業界の人間の間には「音楽業界でしか通用しない」常識というものがゴマンとある。音楽業界関係者同士である種の「ムラ社会」を形成し、この世界でしか通用しない価値観や常識で何でもごり押しをしようとする。

2.変化に気づかず新たな手段を調べることもなく否定し拒絶する

同じ場所に長くいると、時代の変化に気づかないだけでなく、気づこうとさえしなくなります。そういう組織だと、仮に新たな指導法があっても、「ああいうものはダメだ」と試すことも、調べることもせずに否定し、拒絶してしまいます。

これでは、チームを強くできません。

業界という小さな世界に固執して、大きな世界の流れを直視しないと、時代遅れどころか手遅れ。新しい発見やアイデアは外と交わることで生まれます。そのほうが業界内の常識を時代に合わせてダイナミックに転換できると、私は考えます。

音楽業界人とつきあっているとわかるが、「ちょっとでも従来と違うやりかた」をやろうとすると激しい拒絶反応が返ってくる。Spotifyが導入にこれだけ時間がかかったのも、結局は「新しいシステムを導入」することに対する根強い拒否反応が業界にあったからに他ならない。

続きを読む "青山学院監督「強いチームの作り方」を読んで音楽産業の低迷の原因が笑えるほどみえてきた点"

| | コメント (0)

2016年5月10日 (火)

ミュージシャンも意識改革を 受け身の姿勢でなく自分からどんどん働きかけましょう。でしゃばりで何が悪い!!

当ブログでは今更、という話だが音楽業界が低迷して長い。
しかし音楽業界のトップはいまだに改革を頑なに拒否し、いまだに過去のビジネスの形、慣習に固執している。そのため「従来の形」から少しでも逸脱したビジネス形態は非難の対象にすらなり、拒絶反応に近い反応がかえってくる。

しかしそれは業界トップではなくミュージシャンに対しても同じことがいえる場合がある。

結論からいって今昔の音楽事務所におんぶにだっこ、事務所に全てまかせっきりという意識でやっていてはダメだ。実際もはや音楽事務所だってミュージシャンをそんなに支えきれない。しかしミュージシャンの多くはまだそういう意識のままでいることも少なくないようだ。

ご存じの通り私はFacebookで「音楽家&音楽及び関連業界キャステイング」というグループを運営しているがそのグループでは音楽の仕事の募集案件を掲載している。他には俳優、女優、映画関係者も多数参加しているので映画、CMの出演案件も掲載している。(正直「音事協」関係者から見れば「けしからんサイト」ということになるであろう(笑))

その中で先日スポンサー名は守秘義務があるためいえないがこんな案件があり、グループ内の募集記事として投稿した。

CM出演案件 リゾート地での結婚式のCM  (全国OA)を始め全てのメデイアで放映

女性
▽オペラ歌手(新婦役)・・・オペラが歌える。(ほぼプロ並みが好ましい) 20代後半~30代前半 1名

男性
▽ピアノ伴奏者(新郎役)・・・楽譜を見てピアノが伴奏できる。20代後半~30代前半 1名

ギャラが女性が20万、男性10万 

続きを読む "ミュージシャンも意識改革を 受け身の姿勢でなく自分からどんどん働きかけましょう。でしゃばりで何が悪い!!"

| | コメント (0)

2016年3月26日 (土)

無料広告モデル終焉と映像コンテンツが主役の時代ー音楽は映像メデイアなしには拡がらない

今年の初めに書いた当ブログ記事のコラムでやや誤解する向きがあるので補足の意味を込めて書く

■デジタル偏重、デジタル絶対時代の終焉ーインターネットは「旧メデイア」に実は「完敗」したという事実
http;//kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2016/01/post-f2a0.html

ケーブルテレビ等の有料放送が定着しているアメリカは映画、ドラマ、等の「有料コンテンツ」が完全な主役であり、無料コンテンツのバラエテイやネットのバイラルメデイアを始めとする「トラフィックを稼ぐための」無料コンテンツ、のビジネスモデルは実質崩壊している、という点の主張だが、日本ではいまだにテレビ=地上波のテレビという風に受け取る向きが強い、ケーブル、スターチャンネル、WOWOWといった有料放送は「二次的なサービス」であるかのように扱われているからだ。

だが日本の地上波のテレビの番組がバラエテイを始めとする内容のない、差しさわりのないつまらないものになっていることはもはや周知の事実となっている、ネットでも同じだ、感傷的、感動的なコンテンツをあたかも自分の記事であるかのように掲載して姑息な手段でトラフィックを稼ぐバイラルメデイアを始め、デマやゴミ情報であふれるネットの現状を見て思うのは結局無料コンテンツ=ゴミ、という事実は動かしがたいものがある。それはよく考えれば当然のことで「無料」というのは価値がない、ということでこうなるのは必然の帰結ともいえる。

実際you tubeやツイキャスを始めとする映像コンテンツサービスも「有料ビジネス」が開始しているのも結局は無料でクオリティの低いコンテンツなどより、有料でも高いクオリティの映像を見た方がいい、というユーザーの意思が明確になったから、ということができるだろう。これは何よりもインターネットのプラットホームを作ったITグローバル企業がいち早くこの事実に気づいて動いている。実際、「ネットフリックス」「アマゾン」が劇場公開映画を制作する、という劇場公開やレンタルとストリーミング両方をてがけたハイブリッドな方向に動いており、Googleも映像パッケージを始めとする日用品の宅配という「リアル」な事業に乗り出しており、Appleやこの面では少し遅れをとっているマイクロソフトもいずれ、そちらの方向に動くと思われる。

ついこの間まで「全てのコンテンツは無料であるべき」などといった考え方があたかも正論であるかのようにいわれていた時代からみると隔世の感は確かにある。ネット住民が固執した「インターネットはあらゆるメデイアを凌駕し社会に革命をもたらす」という価値観はもはたネット住民のはかない夢となって終わったのである。

これらの傾向を見るとあることがはっきり見えてくる

それは 21世紀はやはり映像コンテンツが主役  という事実である

それも低クオリティないかにもシロウト作ったような映像コンテンツではダメだ。

クオリテイの高い映像コンテンツでないとダメなのである。そういう映像コンテンツの需要がこれから増えていくだろう、

このことは自動的に現在地上波のテレビやネットの無料コンテンツでトラフィックを姑息な手段で稼ぐといった無料広告モデルの事実上の終焉をも意味する

続きを読む "無料広告モデル終焉と映像コンテンツが主役の時代ー音楽は映像メデイアなしには拡がらない"

| | コメント (0)

2015年11月18日 (水)

相変わらず続く表現の自由を奪う安価な「正義」を武器としたナンセンスクレーム

既にご存じの方も多いだろうが新しい公開中の『劇場版 MOZU』に出演している俳優の伊勢谷友介が10日、同シリーズの喫煙シーンが大飯ということで問題視、批判の声が大きく上がっていたことに対してインタビューに答えた

■伊勢谷友介「MOZU」喫煙シーン批判に反論 ネット上では賛同の声
http://www.cinematoday.jp/page/N0078017

劇場版からシリーズに参加した伊勢谷はこの日、フォロワーからそのことについてどう思うかと尋ねられると、「本当にどうでも良いと思ってる。そういう所やーやー言われても、無視していくべきだと思う」と回答。

 続けて「映画の空気や、キャラクターのバックグラウンドを作る小道具捕まえて社会的な是非とか、本当に無駄だと思う。悪役の言葉使いが悪いとかと同じ範疇の話」と持論を展開した。

 さらに、別のフォロワーからの質問に答える形で伊勢谷は「論点が違うのよ。映画の小道具責めてもしょうがない」と自身の見解を明かし、「タバコが嫌いなのを映画に当てつけてる。映画の時代背景やキャラクターのバックグラウンドは善悪ではない」とつづっている。

 これまでもたびたび話題になってきた映画やドラマの喫煙シーン問題。おととし公開された宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』が問題視されたことも記憶に新しいが、伊勢谷の意見にネット上では「正論。例えも素晴らしい」「タバコ吸わないが、全くその通りだと思う」「小道具いとかまで含めて映画なんだから。別に喫煙をすすめる意図はないでしょ」などと賛同する声が目立っている。

伊勢谷自身が云っているとおり、「正論」を武器として重箱の隅をつつき、クレームを正義の味方気取りで映画やドラマ等のケチをつける愚か者が多すぎる。

映画で女性の裸が出たらレイプを奨励することになるのか?
映画の悪役が暴力を振るっているのを描いたら暴力を奨励していることになるのか?

違うでしょ? 

よって映画で喫煙シーンが多い=喫煙を奨励することにはならない。
そう主張するのは全くのナンセンス
ドラマ上の演出と現実の差がわからない人間が多すぎる。

私の別のブログ記事にも書いたが

攻撃の武器としての「正論」「正義」で攻撃を正当化する狂気社会
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20150829

おかしな「正義」おかしな「正論」というものがこの国を非常に不健康な社会にしていると思う。こういうエセ正義をまかりとおらせる風潮には恐ろしさすら感じる。過剰に禁欲的な世界を作ることが精神衛生上悪く腐敗のもとになっていくのは中世ヨーロッパの歴史が証明しているだろう。

「正論」「正義」で自分の行為の全てが正当化できる、などと考えて表現や言論の自由に対して圧力を加える輩が多いのは本当に困ったものである。


| | コメント (0)

2015年5月15日 (金)

クリエーターの矛盾ー自己矛盾があるからクリエーターになるというその本質

当ブログでもクリエイテイビテイについてさまざまな観点から論じているけど、こんな記事を見つけたので、

一応バイラルメデイアなのでシェアするのは若干心理的抵抗があるものの、断言はできないがどうやら著者本人が書いている記事のようなので...

■心理学者が指摘した、クリエイターにありがちな「10の矛盾」。一般人にはわからない?
http://tabi-labo.com/120317/paradoxical-creative-people/

一応クリエイターの端くれとして音楽、サウンドを制作しているが、ここで書いてあることは「クリエイターの矛盾」という書き方をしているが、クリエイターというものの本質を見事についているので紹介する。

矛盾というが、そもそも基本的に自己矛盾を抱えているからクリエイテイブに走るのであり、その自己矛盾をある意味「自己表現」というものに特化することによって精神のバランスを保っているのがクリエーターだと考えている。

ただただトレンドに沿って「何々風をぱくる」なんて行為の中には自己矛盾など存在しないし、そういう行為では決してクリエイテイブにはならない。

さて、この文章に揚げられている「10の矛盾」を自分にあてはめてみると

01.エネルギーに溢れているけど静かで落ち着いている

私をご存じの方からは普段の私の姿がどう見えるのかわからないが、確かに自分の中には燃えるような何かがまだ存在しているような気がする。時々自分でもてあましているくらいである。

02.賢いけれど無知な部分がある

確かに日本の音楽業界とかだと、「何が流行り」とかいう雑音が多く結構そういう情報に惑わされることも少なくない。若年の頃は結構そういう情報に流されていたと思うが最近はそういうものはどうでもよくなってきた。大事なことは「今、何をやりたいか」「何を表現したいか」ということ。それが原文にあるように「一般的常識と言われるような固定概念からは無知」といわれればそうなのかな。

03.遊びが大好きでも、無秩序は嫌い

ここでいう遊び、というのはテーマパークに行くとかそういうことではない。自分の感性、フィーリングを広げるという意味では確かに当たっている。それに意味のないバカ騒ぎ、というのは確かに昔から嫌いだった

04.空想の中にいるけれどとっても現実的

非常にに逆説的だけど「ヒット曲で一発あててやる」なんて考えて音楽やっている人間の殆どはあまり音楽業界では長持ちしていない。こんな作品を創りたい、未来の音楽はこうかもしれない、などと考えている人間の方が細々ではあるがしぶとく生き残っている。今の私そのもである。(^^;)

05.外交的で内向的

私もそうだがクリエーターというのは必ず両面性を持っている。ある意味二重人格といえるかもしれない。だから葛藤が生まれ新たな表現をしようという衝動が生まれる

続きを読む "クリエーターの矛盾ー自己矛盾があるからクリエーターになるというその本質"

| | コメント (1)

2015年1月29日 (木)

企画書作成ー昔と今

明日打ち合わせがあるのでそのための企画書作成の作業をしていました。

企画書というものを書くのは結構すきな方です。実はかつてペーペーの頃電通や博報堂のための「企画書」制作作業に従事していました。しかし企画書の書き方は昔と今でだいぶ趣が変わりました。

、今では考えられないですがかつては企画書を書くだけでお金をもらえる時代がありました。そのために調査資料等のデータも揃えなくてはならず、企画書は数十枚くらいになりました。その当時はB4で企画書を作るのが普通で企画書の作業だけで膨大なものでした。(官公庁は当時はB4での提出が原則だった)

今はA4で1-2枚です。それ以上は書いてはい けないのです。時代がかわりましたね。

一般的にはパワーポイントを使ってプレゼン資料を作るというのがかつては企画書の常道でしたが、最近はパワーポイントはあまり使われません。たぶんパワーポイントもそう遠くないうちに殆ど使われなくなるでしょう。

企画内容の要点と概略を書く。それで終わり。それ以上書いても誰も読まないからですね。

ただ個人的には文章読解力が社会全体として落ちているような気もします。従ってこういう企画書の書き方っていいことなのか、悪いことなのか、今でも私の中 でスッキリしません。

企画書の中身は勿論ここでは明かせませんが、私が年頭に書きましたいかに自分の価値を高めるかーいかにコンテンツの価値を高める、の活動の一環だと思います。仮に通りそうでしたら状況について引き続き書くことができますが、果たしてどうなりますか?


| | コメント (0)

2015年1月16日 (金)

Je suis n'est pas Charlieー言論の自由と風刺、誹謗のはき違えが横行する昨今について

この件に関してはいろいろと思うところがあったがなかなか書く時間がなかった。ようやく書くことができた。

パリでのCharlie Hebdo 紙についての記事内容は後述するとして、当たり前のことだが一連のテロ事件(スーパーマーケットでの罪なき人間が殺害された件は云うに及ばず)についてはいかなる論拠をもってしてもこの行為は正当化できるものではない。私も言論や表現の自由を何よりも尊重し、守る立場にある人間だが、しかしだからこそ今回の事件の背景を可能な限り客観的に検証していく必要があると思った。

今回の一連のテロ事件の背景にはCharlie Hebdo 紙のイスラム教の予言者マホメットに対する風刺が背景にあったという。勿論「風刺」や「批判」に対して暴力,テロを行使するのは論外だが、「風刺」の中身を検証すると確かに問題がないとはいえない部分がある。

O100lashes570

左図が数ある問題の風刺画の中の1枚だが、フランス語で「最後まで読んで笑わなかったら、ムチうち100回の刑だぞ」と書いてある。他にもいろんな風刺画があるが、この風刺画に関して一般のイスラム教徒の間で不快感や反発が広がっている。

そもそも欧米には「風刺」あるいは「皮肉」に関する文化がある。アメリカでも"Sarcasm(皮肉)"を用いたジョークがアメリカのスタンダップコメデイアン(一人の人間がジョークが「漫談」すること)の1ジャンルとして確立されており、「風刺」「茶化し」が文化の1つとして定着している。
ヨーロッパでも同様で「風刺画(カリカチュア)」の文化は19世紀の新聞の普及から定着している。しかしその「風刺」は主に政治家や「社会的地位のある人物」に向けられているものの、なかにはかなりえげつないものもあるのも事実である。

問題は欧米で定着しているこの「風刺」あるいは「皮肉」に関する文化は必ずしもアジア地域、とりわけイスラム圏に対して定着しているわけではない、という点だ。実際日本でも"Sarcasm(皮肉)"というものを否定的に受け取る社会的背景がある。ましてイスラム教は元々体質的にそういったものを受容しない傾向の強い宗教であることは想像に堅くない。

つまり冗談を通じない人間に冗談を云っても、ユーモアどころか1つ間違えれば誹謗中傷と受け取れかねない。

ということだ、

続きを読む "Je suis n'est pas Charlieー言論の自由と風刺、誹謗のはき違えが横行する昨今について"

| | コメント (0)

2014年12月30日 (火)

2014年が終わり今後の音楽のありかたについての昨今思う事

2014年もいよいよあと一日。

最近このブログで音楽業界関係の記事がない、と思う人もいるかもしれない。確かにそもそもこのブログは日本の音楽文化のありかた、今後の音楽業界のありかたについて論じることが目的で今から9年前にこのブログを立ち上げた。

しかし、今どんな状態になっているか、改めていうまでもない。

実は正直もう書く気すらなくなってんだよ。この件に関してはね。どうせ誰も耳を傾けないしもう10年以上前から業界の改革の必要性を論じてきたけど、全く現状の改革をしようとしない音楽業界のトップたち。

もう1998年をピークとしてずーっと下がり続けている各レコード会社の売り上げ。今年も殆どのレコード会社が前年度比15〜20%売り上げを落としているという。昨年も同様の傾向を示しており、つまり数年前から見れば半減、2005年からは少なくとも1/10くらいになっているという事

そのような状態にも関わらずつい5-6年くらいまでは「音楽業界は衰退していない」(!??)などと抜かすアホな業界人も少なくなかった。

まあそんなアホしかいない業界じゃ、云う方もバカバカしくなるわけ。何をいっても馬耳東風、馬の耳に念仏だ、

僕はいわゆるJ-pop風の曲も書いた時期があったけど、もう少なくともその辺のレコード会社の連中が望むようなものなど、まったく書く気はないし興味もない。

だから今日もレコ大があったけど全く興味がなかった。

でも悲しい現実だよね。これ?
グラミーの放送見るのと全然違うんだよな。
グラミーはまだ見たいと思うけどね

正直いってどの曲聴いても恐ろしくつまらないんだよ。ああいうのを「良し」としている感覚自体が私は理解できないね。

はっきりいう。CDが売れない、音楽が売れないというのは音楽配信とかサブスクリブションが原因とかシステムのせいにみんなしているけど、それは絶対に違う、

システムとは単なる手段に過ぎない。最近はある音楽を売る手段が出てきてその手段が絶対的なものである、かのような議論がとりわけネット内では多すぎる。だから今ネットとかブログとかSNSで語られる音楽業界に関することの殆どがシステム論から音楽業界のありかたを論じる内容ではっきりいって殆どがピントはずれの議論になっている。それもこのブログで何回も論じてきたこと。

ひとことでいえば音楽業界の衰退の本当の原因は日本の音楽ファンの「音楽離れ」だという事

それが日本の音楽業界の危機をつくっている。

続きを読む "2014年が終わり今後の音楽のありかたについての昨今思う事"

| | コメント (2)

2014年2月23日 (日)

コンテンツー形のないものにお金を払いたがらない日本人ー文化程度の低さ、文明国家とは到底いえないコンテンツに対する意識

私は作曲を始め、コンサルタントもやっているわけだけど以下の状況と同じ状況によく出くわす

以下はとあるfacebookでシェアされた記事だがあまりにも思い当たることが多いので引用させていただく。本人にご迷惑がかかるといけないので匿名にさせていただく

ふつう
レストランに入って「お金はないけど、高いものを出してくれ」
という人はいない。


ふつう
「お金がないから、今月は給料半分でいいよね」という会社もない


でも、コンテンツ業界にはそれがある


質が高い記事を書いてください。でもお金はほとんどありません。
最高のデザインをしてください。でも予算は少ないです。
ぜひコンサルしてください。飲み代おごりますから。


相応の対価を払わなければ、受け取ることはできない。
それは有形の商品でも、無形のサービス・ノウハウでも同じことです。

コンテンツに相応のお金を払わないのであれば、
ビジネスをやる資格はないと思います。

コンテンツに相応のお金を「払えない」のであれば、
それはビジネスモデルが破たんしているということです。

クリエイターやコンテンツホルダーに
相応の対価を払わないのは失礼。

ただし、クリエイター側にも責任がある。
そういう仕事を受けてしまうから。


そういう、失礼なダンピング業者と付き合わなくて済むように
常に自分が強く、成長していかなければいけないと思いました

私もよくこういうことを平気でいう会社や人に出会うけど、結局私自身が受けなくてもそういうタダ働きを率先してやってしまう奴がいるからこういうことが問題であることを考えもせず云ってくる人間が後を絶たないわけだね。

結構自治体やそれなりの社会団体でも平気でこういうことを云ってくるところが多い

続きを読む "コンテンツー形のないものにお金を払いたがらない日本人ー文化程度の低さ、文明国家とは到底いえないコンテンツに対する意識"

| | コメント (0)

2013年3月30日 (土)

コンテンツを世界に向けて発信する

私のブログをいつも読んでいただいている方はおわかりだと思いますが..

私はエコノミストとかIT系の人たちがよく論じる「グローバリズム」という主張とは一線を画した見解を持っています。
なぜなら彼らのいう「グローバリズム」にはどこかバランスを欠いているところがあるように感じるからです。

「グローバリズム」というのは決してアメリカやヨーロッパがこうだから日本もこうあるべきだ、という世界中が金太郎飴のように同じになることではなく

地域の特性ー「ローカリズム」をも考慮した上で「グローバル」な価値観とバランスを取って関係性を構築していくーーそのことによって地域の特色も生かせるし、その国特有、独特な文化を生み出し世界に対してもそれを発信することが可能になるからです。

どうも「グローバリスト」といわれる人たちはこの点を理解しているようには見えないんですね。この観点なしにTPPとか押し進めたら本当に日本という国は大変なことになってしまいますが

「グローバリズム」派のエコノミストといわれる人たちの論調を見るとこの観点が欠けているような気がしてしょうがありません。

しかし一方では日本という国は「変わる」ということを極端なくらい嫌う体質もあるのも事実です。今大河ドラマで「八重の桜」をやっていますが幕末から明治という日本の歴史の上でももっともドラステイックに社会が変わった時代を実現するのに、多くの幕末の志士を始めとする血が流れなければなりませんでした。

それくらい日本でものごとを大きく変える、というのは難しいことなのかもしれません。

しかしある意味今はそういう時代、同じような局面に差し掛かっているような気がします。

続きを読む "コンテンツを世界に向けて発信する"

| | コメント (0)

2013年1月17日 (木)

情報化社会のパラドックスー「美しいもの」というものに鈍感になっていき情報感度も下がっている現代人

Facebookを通じて次の写真と記事をシェアした。次の記事を読んでほしい

Joshua_bell_playingairport

ある寒い1月の朝、一人の男がワシントンD.C.の駅で座りながらバイオリンを弾き始めました。彼はバッハの曲を1時間程演奏しました。その時間帯は通勤ラッシュだったため、約1100人がその男の前を通りました。
 
3分後、ある中年の男はバイオリンを弾いている人がいると気づき、足を止めました。しかし、結局止まったのはほんの僅かな時間で、数秒後にはその場を離れました。
 
1分後、バイオリニストはやっとお金を稼ぐことができました。ある女性がケースに1ドル札を投げ入れましたが、彼女は止まることなく歩き続けました。
 
少しした後、壁に寄りかかって彼の音楽を聴く者が現れましたが、腕時計を見るとすぐに歩き始めました。会社に遅刻しそうだったのです。
 
一番彼の音楽が気になったのは、3歳の男の子でした。彼のお母さんは急いでいて、男の子の腕を強く引っ張りました。それでも男の子はバイオリニストを聞こ うと足を止めます。お母さんは男の子の背中を強く押し、無理やり歩かせました。それでも男の子はずっと後ろのバイオリニストを見ながら去って行きました。 他の子供も同様でしたが、親は全員例外なく止まることなくその場を去りました。
 
彼が演奏した一時間内で、足を止めて彼のバイオリンを聞いたのはたった6人でした。お金を入れてくれたのは20人程でしたが、止まった人は誰もいませんで した。稼いだお金はたったの32ドル。彼が演奏をやめ、駅が沈黙に包まれた時、気付いた人は誰一人いません。拍手はなく、このバイオリニストを認める人は いなかったのです。
 

続きを読む "情報化社会のパラドックスー「美しいもの」というものに鈍感になっていき情報感度も下がっている現代人"

| | コメント (0)

2012年3月11日 (日)

忘れられない日ー東日本大震災から一年を迎えて

あの日から今日で一年。

2011年3月11日は日本にとって忘れることのできない日になった。二万人の命が失われ、多くの人が考えもしなかった悲惨な生活に追い込まれ、今も住み慣れた土地に帰ることができないでいる。大地震と想像を絶する津波が人と建物、財産を飲み込み、原発事故はエネルギー政策に対する従来の価値観を変えざるを得なくした。それだけではないが、とにかくあの震災は第二次大戦の敗戦に匹敵するインパクトを日本社会に与えた。

この"311"はテロと自然災害(半分以上は人災だが)の違いはあるがアメリカ人にとっての"911"に匹敵するできごとである。あの時自分はどこにいて、何をしていただろう、ということを多くの人は思うに違いない。
その日、私は仕事場であるスタジオで作曲の作業をしていた。震源地から遠く離れていた自宅でも震度5強を記録し、パソコンやモニターを落ちないように懸命に抑えていたのを覚えている。震災のショックに輪をかけたのはよりによってその仕事は後になって私にとっては思い出したくもない仕事の1つに結果としてなってしまったこと。震災によって少なくとも4つの仕事が結果キャンセルとなり、年度末のかき入れ時に経営の面でも打撃を蒙った、そしてその後の計画停電により業務の進行にも支障をきたす事態も発生。本当に昨年の最初の三ヶ月は私にとっても最悪の時期だったといえる。

それは私の個人的な事情。もっとも深刻なのは震災から一年たっているのにもかかわらず被災地の復興が進んでいないこと。原発、放射能の関係でいまだに住み慣れた土地に帰れない人たち。瓦礫の処理も進まず復興の着手すらできないところも多い。日本の政治家の無能ぶり国民の生活よりは自分の保身しか頭にない日本の高級官僚(とりわけ原子量保安院などは震災発生時に適切な行動を取らなかったばかりか、嘘に嘘を重ねたという面で国民に対し重大な犯罪行為を犯したといってもいいだろう。今月で廃止されるが遅きに失したくらいだ)福島第一原発の対応も含め、東日本大震災は半分以上は間違いなく人災である。日本の政治行政が制度疲労を起している証拠でもある。

被災地の皆さんが心から笑顔で生活できる日は果たして来るのだろうか。そういう日が一日も早く来る日を願ってやまないが、仮にそうなっていても私たち日本人がこの東日本大震災を忘れることはないだろう。

| | コメント (0)

2011年9月21日 (水)

付加価値をつけないと生き残れないコンテンツビジネス

まずいずれ正式にお知らせするが、私が兼ねてから企画していた音楽(サウンド)をテーマとした新コーナーのオンエア日が決定した。1分ほどのコーナーだが、不思議なコーナーだからたぶんおわかりになると思う。内容は見てのお楽しみとして、いずれ然るべき時期になぜあのような企画を考えたかをこのブログで記そうと思う。

さて、音楽や映像といったものを扱うのをコンテンツビジネス、というようになったのは勿論インターネットやウエブサイトというメデイアが出てきたからだが、そもそもコンテンツというのは中身、中に入っているもの、のことをいう。だからただのテキスト情報の場合もあるし、画像、映像、そして音楽等、システム、ウエブサイトの中に表示されているもの全般をいう。

そしてそのコンテンツビジネスというものだが、一見聞こえはいいが実は実態はかなり問題がある。

というのはインターネットというのはよくも悪くも世の中をフラットにする。つまりインターネットという世界は情報やコンテンツが結果として供給過剰な状態になる。だから以前もこのブログの記事を書いたが、(しかも反論らしい反論がなかったからおそらく皆さん認めているんだろう)インターネットというのは情報やコンテンツの価格を下げるー値崩れさせる特性があるために、価値が下がる方向に行くことはあっても決して上がる方向にはいかない。

平たく言えば例えば弊社で行なっている音声コンテンツ制作の仕事ープロのナレーターを使って編集、ファイル化する作業ーはプロフェッショナルな作業ではあるが、同時にノウハウさえ、持っていればどこの制作会社でも制作可能である。つまり「替わり」が捜せば必ずいる仕事だ、そしてインターネットで「替わり」を見つけるのは難しいことではない。そうなるとインターネットを通じて制約した仕事のコストは放っておくとどんどん低下していく。しまいにはタダまでいかなくともタダ同然に近くなっていく。それが残念ながらインターネットにおけるコンテンツビジネスの運命である。

それを「市場の要求だから当然だ」というかもしれない。いわゆる市場原理主義者的な主張だが、最近わかったのは新自由主義ー市場原理主義者ーとインターネット万能論者ネットに関してちょっとでも否定的なことを書くと過剰反応する人々ーのかなりの部分は実はオーバーラップしていることがわかった。全員ではないかもしれないが、たぶん6-7割はほぼ同じ層(いわゆるB層?)だろうと思う。(いずれ別のブログで詳しく書くが大半がおそらくニートフリーターといった「勝ち組でない」人たちだ。)

つまり今のままでいけばコンテンツビジネスに明日などないのである。

そうした状況に対抗するには方法は1つしかない。

それはいかにコンテンツに付加価値をつけるか、である。

前にも書いたがインターネット情報やコンテンツの価格を下げることはあっても上げることはない。よってインターネットのみでブランド化するというのは不可能であり、付加価値をつけるのも不可能である。

となるとやはりインターネットというバーチャルな世界ではなく、リアルな世界で付加価値をつけることを考えるしかないのである。

これも何度も書いているがリアルがあるからこそバーチャルがある。インターネットではいまだに既存のメデイアよりネットの方が優れている、とかネットを中心とした新たなシステムは既存のメデイアやシステムを凌駕するといった類の言質でないと納得しない人間が少なくないが、いい加減そういったインターネット万能論の夢うつつから醒めて、もっと客観的に現実を見るべきだろう。だから我々はリアルな世界で付加価値をつけることを考えるべきである。

その付加価値の付け方は様々であろう。まさにケースバイケースである。
リアルがあるからこそバーチャルがあることを念頭に付加価値をつけることができれば主導権を握れるのはコンテンツプロバイダーである。そしてそれによってしか、コンテンツプロバイダーの生き残る道はないのである。 

| | コメント (0)

2011年5月17日 (火)

小さな音楽会社の備忘録ー芸能界と音楽界

芸能界と音楽界はお互い密接にリンクしているが違う。しかし基本的なシステム構造は同じである。基本は「マネージメント」「制作」に別れ前者はタレント、アーチストのブッキング、スケジュールを作り後者は 写真、映像、音楽等の「コンテンツ」を創る。私はずーっと後者の制作畑を歩んできた。今でも弊社アーチストの奥津の「マネージメント」の真似事をやむを得ずやっているが基本は「制作屋」である。

「制作屋」とはいってみれば「職人」である。作曲、編曲、レコーデイングからデイレクションまで創ることを仕事としている人間である。この分野に関してはその辺の制作会社の連中と比べかなりのノウハウを持っていると自負している。私は骨の髄まで「制作屋」である。

しかし芸能界と音楽界、両者は密接にリンクしているだけに体質も似ている。そしてそれは日本社会の縮図といっていい。

ひとことでいえばどちらも「力」が支配している世界である。「力」のある制作会社、「力」のある芸能プロ、これらが実質的に支配している。日本の経済界もそうである。中小企業は法人の数では95%をしめるがたった5%しかない大企業が実質的に日本を牛耳っている。いわゆる一部の製造業の分野はメーカー同士の競争は存在するが、それ以外の重電、建設、流通、金融、そして何よりも今問題となっている電力など最たるものだが、そういった部分は実は殆ど政治で商売をしていてそこに正統な競争など殆どない。会社同士の「力」関係で売上が決まる。

そして芸能界と音楽界には最初から競争はない、競争などという概念すらない。全て会社、事務所の「力」関係で決まる。音楽業界の衰退といわれていても基本的な「力」の関係は今もって全く変わっていない。これが現実である。

日本の経済界もそうであろう。いわゆる小泉、竹中といった連中が唱えた「改革」によって本当にどの分野でも正統な競争が行なわれるようになったか? 答えはいうまでもなくNOである。、基本は全く変わっていない。おきたのは「自己責任」という魔法の言葉で弱者切捨てを正当化されて大量にどん底に突き落とされた人たちが発生したこと。そしてその人たちに「再チャレンジ」の機会は二度と与えられず、実質的には「格差」を固定した1種の「身分社会」ができあがったこと。これは今も基本的には何も変わっていない。一度「失敗」をしたら二度と元に戻れない。そんな社会を作ったのが小泉と竹中だ。

今の日本社会が閉塞しているって? そういう社会を作ったのは誰だ?あんたらだろう? 二度と人間が再チャレンジできないシステムを作ったのだから こんな社会は閉塞しないほうがおかしい。しかしちょっと前まではこういうのを批判したら「自己責任おバカなネット小僧連中に攻撃されたが、まだこんなことをいう奴らはいるんだろうか?

しかしどんな世界にも隙間がある。私などはその隙間を渡り歩いてきたといっていい。会社といっても実質個人商店が「力」で勝てるわけはない。しかし小回りと頭を使えば勝てる、かもしれない。「力」の連中は独楽鼠のように動くことはできないから。

かといって芸能界や音楽界の「力」の連中の奴隷になるのは私は嫌だ。それが結局どういう結末になるかわかっているから、 自分がそういう連中の奴隷になっているのも知らずに有頂天になっている連中を見るとかわいそうですらある。いずれ使い捨てにされるのも知らないで..

正直こういうところは早くつぶれてくれんかな、と今でも思っているが日本の企業フューダリズムはまだまだ変わりそうにない。高級官僚、大企業、政治のなあなあ癒着の三点セットがある限り結局日本では変わらないのかもしれない。(マスコミも腐りきっているし..)

とにかく徹底的に隙間を動き回っていくしかないだろう。そして頭を使うことだ。なぜなら芸能界も音楽界のトップは頭を使うことに慣れていないから..


| | コメント (4)

2011年4月27日 (水)

GWは決算の時期ー2011年度からの方向性

もうすぐ、GW

子供はもうワクワクしているが、この時期になると私にとっては会社の決算の時期となる。そして今年も昨年同様、憂鬱な気分で決算作業せざるを得ない。

実は会社の売上としては正直いって二年連続最低を更新した。

特に例の震災の件だが年度末でせっかく、そしてようやく上向きになりつつありその流れにのって何とか追い上げようとしたその矢先という最悪のタイミングで震災が起きた、ということがかなりのダメージを会社に与えた。

業務の案件が3件ばかりキャンセルになったし、プロモーションやイベント計画もあの震災で全て頓挫した。地震からの直接のダメージは受けていない(棚から本やCDが落ち、台所でワイングラス2本割れた程度) が事業運営の面では測り知れないダメージを受けた。

この状況なら正直廃業してもおかしくない状況ではあるが...

だが唯一救いなのは、今年これからやるべきもの、方向性というのがある程度見えてきてそれがとりあえずはよい方向であるかのように思われる点だ。

クリエーターとしては一昨年あたりから劇伴、映画音楽関係に主軸を移すという目標で動いていたが、今年の始めからようやくそちらの方に動ける状態になった。映画産業も厳しい状況だが日本だけでなく全世界に向けて活動する方向に進んでおり、その方向性は間違っていない。

それと例の番組の企画、まだまだ流動的な状況だがこれを世の中に出せる段階となれば面白い状況にはなる。

いずれにせよ既存の「副業」(パッケージ制作、音声コンテンツ制作etc)中心で進めていったらもう未来はないのはわかっているし、日本の音楽文化、とりわけJ-popからみの動きはもはや死んだも同然だと私は思っている。(既に台湾や韓国にももう内容で負けているし..)

来年の今頃こそは「いい年度だった」といえるようにしたい。それが被災地の復興にもつながれば...


| | コメント (0)

2010年9月 9日 (木)

ジャーナリスズムの危機は今のジャーナリズムのシステムの中にある?

ここ数日忙殺された。もう月曜日のニュースだがアフガンで決死の取材活動の上、タリバン勢力に拘束された常岡浩介(つねおか・こうすけ)さんが無事解放される。とりあえず無事に帰ってこれてよかったと思う。

アフガンで不明の常岡さん、武装勢力から5カ月ぶり保護

http://www.asahi.com/international/update/0905/TKY201009050147.html

こういうフリージャーナリストの多くは大新聞等がなかなか行けない危険地域に出かけ、身の危険を百も承知で取材をする人たちで彼らの存在はまだ体を張ったジャーナリズムがまだ存在しており、私としては敬意を表する。mixiや2ちゃんでは彼らの背景も知らないくせに相も変わらず「自己責任だ」とか「みんなに迷惑をかけた」(彼らがおまえにどんな損害を与えたというんだ?)とかほざいているおばかさん連中が多いが、彼らは危険を百も承知で高いリスクを負って仕事をしており、大手新聞やマスコミが伝えられない真実を体を張って取材しているのだ。(当然彼らのギャラは普通のジャーナリストより圧倒的に高い)彼らのような存在はまだジャーナリズムの健全な部分を残している人たちといっていい。

だいたいいわゆるジャーナリストには大きく分けて3種類いる。

A: 上記の常岡さんのように大手新聞やマスコミが行けない危険地のリスクの高いところでフリーで取材するタイプ

B:  別の仕事を持ちつつその合間に取材活動をしているタイプ

C: ある特定の企業、団体の「スポンサー」のバックアップによって取材や執筆活動を行なうタイプー当然ながらある特定の企業、業界団体その他の利益を代弁する立場になる

実はジャーナリストでは上記の中では最後のCタイプが圧倒的に多いことをご存じだろうか? 特に音楽評論家、音楽ライターの大半はこのタイプだし、私がよく批判的なコメントを行なういわゆるITジャーナリストの殆どはこのCタイプに該当すると考えて差し支えない。

私はこういう連中がはっきりいって大嫌いである。しかし残念ながらもはや彼らの存在は完全に日本のジャーナリズムに定着してしまい、今さら彼らを否定したところでどうしようもない。このCタイプのジャーナリストは企業や業界団体の利益を代弁し、世論操作の役割も果たしている。事実上のロビイストといっていい。そして残念ながら多くの場合彼らの世論操作、誘導は見事なまでに成功している。

これはメデイアリテラシーが世界でも最低レベルといっていい日本だから余計効果的である。今でもマスメデイアで流されるCタイプジャーナリストの言質、発言を真実だと思い込みそのまま鵜呑みにしているとしか思えない人間が多い。

特に日本の音楽評論はもう20年くらい前に事実上死んだといっていい。まともに音楽を評論できない評論家、多くはメーカー系の手先で決してアーチストに対して否定的なことを書かないように彼らの言質は厳密に管理されている。ここに言論の自由の入り込むスキはない。

何かというと「言論の自由」とか「知る権利」とかを持ち出して自らの行動を正当化するマスコミ連中だが、実はこういったコマーシャリズムのコントロールによって言論の自由が事実上死んでしまっている現実がここにある。

これはジャーナリズムがビジネスになってしまったのが主原因である。法律的には言論の自由が存在しても、商業主義が言論の自由を殺してしまったのだ。

日本の音楽ジャーナリズムは死んでもう久しい。健全な音楽評論がなくなったため音楽家、クリエーターと音楽評論家のかつてのような葛藤、対立の構造はなくなっている。

音楽業界衰退の原因がここにもある。

大事なのは我々がジャーナリズムのいうことを鵜呑みにせず、もっと厳しい目でマスコミの報道をみなくてはならない。マスメデイアの情報が全て真実だと思い込むほど危険なことはない。

欧米では学校のカリキュラムにメデイアリテラシーに関するものを入れているが、日本はいまだにそれがない。文部科学省に答申されたことはあるようだが結局事実上握りつぶされている。 官僚にとってもマスコミにとっても視聴者が健全なメデイアリテラシーを持つことほど都合の悪いことはないからである。

ジャーナリスズムの本当の危機は今のジャーナリズムのシステムの中にある

|

2005年11月19日 (土)

クリエーターと人間性

実は先ほどのアレンジをしながらその合間にmixiに某コミュ二テイに時々書き込みをしていた。

そのコミュ二テイ、某テレビ関係者の非常に傲慢な態度と言動によってものすごく荒れていた。mixiをやっていてあんなに荒れたのは見たことがない。具体的には「意見を聞く」と称してトピックを立て、みんながいろいろ意見の書き込みを書いた後「実はこの意見をある会合のための参考にする」などとマスコミの隠れ取材的な方法を取った。発言者がみんな怒り出しだのは云うまでもない。(しかも自分は「良識あるマスコミ人」と自称するおまけつき)

まあこの男、マスコミの傲慢さ丸出しで最後には「嫌なら訴えろ、できないんだったら黙っている」とか「コミュの人たちの誹謗中傷(と本人は主張、この人には批判や疑問は全て誹謗中傷になるらしい)により「精神的苦痛を受けた」ので警察に訴えるなどと脅迫すつ始末。まあやれるもんならやってみろという感じだが、mixiがさながら2ちゃんねる状態になった。

まあマスコミ人には時々傲慢な人間がいるし、私もずいぶんそういう人間に会ってきたがここまでひどいのはちょっと記憶にない。ちなみに経験上、地方新聞や地方局といった小さなマスコミ関係者はきちんとしている人が多いが、いわゆる大新聞や地上波キー局(勿論NHKも含めて)には時々「オレはマスコミだ。文句あるか!!」といった唯我独尊的な傲慢な人間がいる。全員がそうだとは言わないが、決して少なくないのが現実だ。

ちなみにこの男「フジテレビ社長賞も頂いてるし、報道局長賞もいただいている」と主張している。ある人によると業界では有名な人なんていう情報もあるが、勿論その事実を確認したわけではない。こういう人間のいうことはあまりあてにはならないし、だいたいそんなところでそういうことを持ち出すなんてどうかね。私なら「それがどうした」といってやるがまあこういう人物はあまり相手にしたくないので...
(ちなみに私はSigraphとNHKから賞をいただいてますけどねーいいたくないけど..)

しかしその中の話でクリエーターは人間性よりも作品で評価されればそれでいい。という話が出たとき確かに少し考えてしまった。いや、この男が本当にクリエータだったのかは知らんし、知りたくもない。だが確かに北大路魯山人、三島由紀夫、太宰治などは作品は評価されても人間性はお世辞にもいいとはいえない。彼らの人間性について読むと3人とも決して友達にはしたくない人物である。 (もっとも作品が評価されたのは彼らの作品が人間の一面を 深くえぐっていたからだが)

また音楽でいえば歴史に残る有名な作曲家などは奇人変人そろいである。これに関しては私はネットにコラムを書いているので興味ある人は読んで下さい

http://homepage1.nifty.com/hyb-music/composer.htm

確かにそういう面はあるかもしれない。でもだからといって作品さえよければ人間性が最悪な人物でよい、というのは何か免罪符のような気がして私は嫌だ。

勿論私はクリエータの端くれという自認はあるし、音楽家、作曲家である以上自分の作品が全てなのは確かだ。私は作ってきた作品の全てがそうだったかはともかく、どの作品を作るにしても誠心誠意取り組んでいるつもりである。しかしそれと人間性0でいい、というのは全く別の問題のはずだ。

過去には確かにそういう人間は多かったかもしれない。しかし私は他人は他人、自分は自分でやっていくつもりだ


| | コメント (0)