2009年9月23日 (水)

あえて問う!! 次世代パッケージの形を語ることは本当に時代遅れなのか?

始めにお断りしておくが、私は配信を否定するつもりは毛頭ない。既に配信の是非云々を論じる時代はとっくに過ぎておりこれは今後のコンテンツビジネスの中で大きな位置を占めることを疑うものではない。それどころか音楽の面では私は日本発のビジネスモデルである携帯の「着うた」に関しては寧ろ評価している。欧米ではこれが商品になるという発想すらなかったこのビジネスは「リングトーン」としていまや海外が日本の動きに追従する動きを見せている。この点に関してはなぜか日本のITジャーナリストや経済学者が頑強に評価することを拒んでいるが、海外では日本のこのビジネスモデルを高く評価している点は不思議なほど日本では殆ど伝わっていない。

無論、「着うた」は音質という点ではお話にはならないのは事実だ。しかしだからといってmp3の音質だってCDの音質に比べればひどいもんである。(驚くべき話だがいまだにCDとmp3が同じ音質だと思っているITジャーナリストや経済学者が驚くほど多い彼らの音質への感性や、理解力はその程度なのか、と疑ってしまう

多くのITジャーナリストや経済学者は配信こそが未来のメデイアであり、「モノ」のメデイアではありえない、と論じている。一例として以下のようなコラムがある。

東芝のHD DVD撤退は「朗報」──パッケージメディアの終わりの始まり (ASCII 記事ー池田信夫(経済学者)

http://ascii.jp/elem/000/000/108/108890/index-2.html

もともとIT系の論客たちは「モノ作り」「コンテンツ作り」旧態依然の産業と決め付け、最初から見下す傾向がある。正直このコラムはエンタテインメント産業を表面的な形でしか見ていない典型的な議論である。

例えばコンサートや映画での映画の舞台あいさつとかの現場をこの人たちは見たことがあるのだろうか? コンサートではCDを会場で買ってアーチストにサインしてもらう、そして握手をしてもらう、それがこうしたイベントの中で最大のファンの楽しみになっている。CDやその他のグッズの存在そのものを否定することは、ファンからそういう楽しみを奪うのと同じことである。

また「モノ」があってこそファンはアーチストや映画、コンテンツ等に愛着がわくのであり、一方では配信のデータは便利ではあっても、流行りが終わってしまえば以外に消費者は簡単にすててしまったりしている。私はこのブログで「音楽も映画も文化であってただのファイルではない」と繰り返し論じているが、やはり「データ」のみだとそのことに対する実感がわかず、コンテンツに対する愛着もわかないという点は否定できない。

おそらく池田氏を始め「配信を絶対視する」人たちは特定のアーチストや映画コンテンツのファンになった経験がない人たちであろう。一度でも自分たちを夢中になるコンテンツのファンになった経験があれば、CDやDVD, ブルーレイ等のメデイアを含め、Tシャツやフィギュアに至るまで、ファンの心をつかむためには「モノ」が必要であることがわかるはずだ。しかし「配信を絶対視する」人たちは配信以外のあらゆる「モノ」の存在は時代遅れどころか時代錯誤であり、不要なものであると主張しているように聞こえる

はっきりいってエンタテインメントの仕事をしている我々からすれば、こうした特定のアーチストや映画等のファンになった経験がないと思われる人たちがこれからのエンタテインメントの形についてマスメデイア等で論じていることに大きな疑問を感じざるを得ない。あえていうが配信さえあればあとはいらない、とか配信のみがこれからの産業のありかたである。と主張しているのはエンタテインメント産業の中身を表面的にしか見ていない証拠である。

しかしだからといってCDという商品の形がよいということではない。そもそもCDの仕様は44.1KHZのサンプリング周波数、16ビットというデジタル草創期の仕様である。現在のレコーデイング現場ではサンプリング周波数96KHZ, 128KHZが当たり前になりつつあり、マスタリングもシングルビットのマスタリングが主力になりつつある。こういう時代にCDの44.1という仕様がもはや時代遅れであることは明らかである。そのためにはCDに取って代わるより高音質のメデイアが必要なのはいうまでもない。

ちなみに音楽配信だが現在の環境ではmp3のレベルの音質、映像もウインドウズメデイアレベルの画質でしか配信できない環境であり。何度も書くが現行のCDやDVDと比べればはるかにクオリテイが落ちる形式である。このレベルのクオリテイしか配信できる環境しかないのに、この形式のみを絶対視する理由がわからない例えていえばMDという新しいメデイアができたからCDよりMDの方がいい、といっているようなものである昨今1G環境の光ファイバーが普及し始めているが、パソコンの環境がそのネットワークを生かしきれる環境に追いついていないのが現状である。せめてCDなみの音質のwavかDVDと同じ画質のmpeg4レベルのクオリテイ配信が当たり前になっている環境において、配信のみがこれからのコンテンツ産業の唯一のありかたと論じるのならまだ理解できる。ITジャーナリストや経済学者の視点からはこの部分が全く抜け落ちているとしか考えられない。

1つ大きな問題はもう忘れかけているSACDやDVD-Audio そして最近発表されたBlue Spec CD等が一向に定着するように見えない点である。産業界も配信のみがこれからのコンテンツ産業の唯一のありかたという風潮を見るに着け、本格的な拡販に踏み切れないのであろうか? アナログのLPからCDはあっさり切り替わったが、それ以降はなかなか進まない。だとすればこれは次世代のオーデイオソフトにとって非常に不幸なことである。

今一度改めて問いたい。次世代パッケージの形を語ることは本当に時代遅れなのか?、

困ったことに配信のみがこれからのコンテンツ産業の唯一のありかたと論調が経済産業省や総務省、そしてネット全般にあたかも正論であるかのように伝わっている。そのことを信じて疑わない人間も多い。まるでカルト宗教のように、

だが声を大にしていいたいのは、コンテンツビジネス、特に音楽や映画等のエンタテインメント産業はファンあっての産業なのである。表面的な形式のみにこだわりその産業の本質をみようとせずエンタテインメント産業の未来を論じたら必ずや取り返しのつかない事態になる。世間や社会のムードに流されず、もう一度エンタテインメント産業がどのように運営されているかを冷静に分析して、その中で未来の配信ビジネスはどうあるべきか、エンタテインメント産業の中でどう位置づけるべきか、について論じて欲しい。

でないと21世紀中にエンタテインメント産業は本当にこの世からなくなってしまうだろう。

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2009年8月15日 (土)

メジャーレーベルを捨てた矢沢永吉のニューアルバム『ROCK'N'ROLL』

メジャーレーベルを捨てた矢沢永吉の新作が音楽ビジネスを変える!? http://www.cyzo.com/2009/08/post_2558.html

正直いってやっと日本にもこういう動きが出てきたか、というのが率直な印象。海外ではマドンナがワーナーとの契約を解消するなど、海外では「メジャー離れ」はかなり加速しているのに日本ではこういう動きはなかなか起きなかった。

今CDの流通も配信もメジャーでなければできない理由はどこにもない。スタジオやスタッフに恵まれているアーティストは インディーズでもまったく問題ない。 それにメジャーといったってたいした宣伝をするわけじゃないし、そのくせマージンだけはわんさか取っている。普通に考えればこういったアーティストが出てくる事は至極自然な事。

しかしこれはメジャーで十分に知名度が行き渡り権力やパイプを持っているから可能なやり方ではある。 マドンナでもレディオヘッドでも無料DLやそれに近いやり方で新譜をリリースしてもビジネスとして成立するのはパッケージの世界での成功があり、ライブ公演で莫大な利益を得れるトップアーティストだからだ。新人アーチストはこうは行かない。それゆえ私も自社のアーチストの奥津恵のインキュベーションに七転八倒する毎日が続いている。

しかし奥津メジャーでなんてことは私は微塵にも思っていない。仮にメジャーに提出したところで給料の出ない印税のみ契約、ワンショット契約(デビューシングルが売れなかったらそこで終わり) と悲惨な契約となるのは火を見るより明らか、世の中に出ることもなく使い捨てにされる可能性の方が高い。私は奥津を使い捨ての消費財にするつもりは毛頭ない。それゆえ苦しくとも今の道を続けるしかない。

それでも「メジャーデビュー」「夢の芸能界」に憧れ不当な契約をする新人は少なくないだろうな。また日本の音楽事務所の連中はまだ「メジャー信仰」を持っている思考停止の人間が多いし、新人のアーチストの親とか親族からたんまり金を取ってデビューできないまま終わってしまう悲惨な例もたくさん知っている。そういう思考停止アナログな人間が多いから総務省や経済産業省でのコンテンツ流通促進委員会でIT関係の会社や役人にいいように付け込まれる。

 でも矢沢さんのようなビッグアーチストがこういう行動を取ることによってそうした「メジャー信仰」による幻想がなくなる方向に行くのであればそれはすばらしいことである。しかし私は正直懐疑的である。こういう動きが加速するかというと少なくとも日本国内では難しいかもしれない。

桑田圭祐さんやミスチルなどがいい例だがこういったアーティスト達は育ててもらったレコード会社を支えている為 インディーズで、なんて微塵も思わないだろう。実際こういうビッグアーチストの中で「メジャー」という肩書きにこだわっているアーチストも少なくない。

だがそうしている間に「メジャー」自体が全て崩壊する可能性もあるが... さて今年の夏から秋までを乗り切れる「メジャー」レコード会社や大手プロダクションはどれくらいあるだろうか?

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2009年7月26日 (日)

今のインデイースは昔のインデイースではない

まず、日付が変わって昨日渋谷Club Crawlでの奥津恵でのライブ、無事終了いたしました。ご来場いただいた方、ありがとうございました。m(_ _)m

 さて、先月と今月の二回にわたってVibirthと渋谷FM共同取材のイベントで現在インデイースでもトップクラスのアーチストたちと同じイベントでうちの奥津恵が競演したのですが、他の共演者の方からも恵の歌はとても好評でした。そして前回と今回のイベントで改めて驚いたのは出演者たちの演奏レベルの高さでした。

 「今のインデイースは昔のインデイースではない」-このことは今一部の音楽業界関係者にとっては「何をいまさら」といわれるくらい実は周知の事実なんですが、それでも「インデイース」という言葉の響きはまだなんとなくマイナーというイメージを持っている人が少なくありません。

 もしあなたが「インデイース」 と聞いて例えば二十年前のイカ天のバンドのようなイメージ、あるいはうす汚いライブハウスでアングラでひとりよがりな演奏をする超マイナーなバンド、等のイメージをまだ持っているとしたらそれは大変な間違いであることを指摘しておきたい。確かに私たちがバンドを若い頃バンド活動をしている時は、知名度や観客の動員力は勿論、音楽の面でもメジャーとインデイースは明確な差がありました。それこそメジャー=一軍、インデイース=二軍といってよかったですね。しかし今は違います。勿論そういうバンドやユニットもまだ存在しているのは事実だが、少なくとも今の「インデイース」 のトップアーチストといわれる人たちはこと音楽の質という面に限って言えば、メジャーと遜色ないどころかその辺のメジャーよりよっぽどクオリテイの高い音楽をやっているといっていいです。先月と今月のD-nextのライブでの恵以外のアーチストを見て、ほぼこの点については確信というか確証を得ることができました。

 ちょっと前の時代だったら先月のアーチストも今日出演したアーチストも全員文句なしにいわゆるメジャーデビューができたでしょう。しかし今のメジャーレコードはもはやこういう人たちを育てる力は残念ながら殆ど残っていないといっていいです。

よく「最近の音楽はつまらない」とか「ジャンクミュージックばかりだ」という発言を聞きます。しかしそういう人たちは地上波のテレビで垂れ流しになっている「メジャー(!?)」の音楽しか聞いていないからであって、実は見えないところでレベルの高いアーチストはいっぱいいるということが知られていないからだと思います。

つまりこれだけは声を大にしていいたいのです。

地上波のテレビやラジオで流れている音楽が世の中に存在する音楽の全てでは決して

ない

ということです。今の日本の音楽はジャンクミュージックばかりだと思っている方は、実は「見えないところで」クオリテイの高い音楽が存在していることを見逃しているといって過言ではありません。地上波のテレビで流されている音楽は「操作」された情報でありテレビ業界と音楽業界という既得権益で縛られている人たちによって、恣意的にコントロールされた情報や音楽しかないし、そういう音楽しか存在できない、といっても過言ではありません。

情報に対して受身的になるクセがどうしても抜けない日本人ですが、もしあなたが良質の音楽に飢えていて今の音楽はつまらない、ジャンクミュージックばかりだというのなら前述のVibirthを始め、ネット等「良い音楽を捜してみる」ことを私は強くおススメいたします。私たちが若い頃はデイスクユニオン等で何か面白い音楽はないか、と探したもんでした。そういう行動を今こそ見直してみてもいいのではないでしょうか?必ず今までと見方が変わるはずです。

繰り返します。今の音楽はつまらないとお思いなら「良い音楽を捜してみる」ことを是非やってみましょう!!。すぐには気に入った音楽は見つからないかもしれませんが、捜すというのは実は楽しいことでもある、ということを実感していただければ幸いです。

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2009年5月17日 (日)

昨日のperfumeの記事の続きー「パクり」と「影響を受ける」は違う

さて、昨日の記事

■Perfumeはもはや敵なし!? "フォロアー"が次々と自滅している(サイゾー)

http://www.cyzo.com/2009/05/post_2023.html

に関してついつい感情的になってしまいましたが、少し冷静になりましてここでは「パクり」について考えてみたいと思います。

まあポピュラーミュージックにおいて人間が「心地よい」音楽やメロデイーというのは音楽心理学上確かに限られているという面はありますし、特に日本人は「知っている」「聞いた事がある」曲を聴くと何となく「安心する」という傾向が非常に強い国民性でもあるのは事実だと思います。その面で全く「どこかで聞いたことがある」曲を作らないというのもポピュラーミュージックでは難しい点があるのも事実です。その意味では全く「模倣部分」のない音楽って、現状のポピュラリティーでは 存在しないのも事実でしょう。

但し、ここで同じ「模倣」であってもその音楽の本質を取り入れ、それを咀嚼(そしゃく)し自分のものにしていく場合と、単なる「パクリ」-表面的な部分のみを切った貼ったでつなげるという作業では天と地ほどの違いがあることを押さえていかなければなりません。

前者は私は「影響を受ける」という風に捉え、後者はただの真似ーあえていいますがニセモノに過ぎないということになります。さて、音楽の表現上はこの両者は全く別のものだと私は思います。

偉大なアーチストに影響を受けないなどということはよほど独りよがりなものを作らない限りまずありえないですし、(実験音楽ですらそうです)偉大なアーチストより影響を受けるというのは決して恥ずべきことではありません。

問題は今の日本の業界は徹底して前者を廃し、後者のみを受け入れるという体質になってしまっているという点ですね。生きた音楽表現という意味では文句なしに前者の方があるのはいうまでもありません。

Perfumeにしても私のようなYMO世代にとっては懐かしいサウンドではありますが、それでもちゃんとPerfumeらしさが出ています。なぜなら彼女たちとそれをプロデユースした中田ヤスタカ氏はきちんと80年台のテクノ音楽を咀嚼(そしゃく)し、自分たちの音楽表現にしているからだと思います。(だから次の二番煎じプロジェクトでは失敗しているんですが..(汗) そのため誰も真似しても彼女たちを超えられないんですね。

音楽の本質をよく咀嚼(そしゃく)し、それを自分のものにしたことによって「似てしまう」のは模倣ではなく、それはアーチスト性によるものです。単に表面だけマネしてできるもんではありません。

問題はそれを「パクる」ことによって簡単にできると思い込んでしまう体質に問題があるんじゃないでしょうか?

よく音楽業界では「誰々風に作る」ということを「リスペクト」などという言葉を使っています。勿論私のいう「影響を受けた」ポジテイブなものもありますが、多くの場合単に表面的なマネに終わってしまうケースが多いように思います。ですから大半は「リスペクト」といってもまやかしになってしまうことが多いと思います。

影響を受ける」と「パクり」ーこの両者の違いを理解できない人間が多すぎるのが問題だと思います。

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2009年5月15日 (金)

ネット(Webラジオ)と既存のラジオ

既に皆さんご存じの通り私は「癒しの音楽チャンネル」というネット放送を運営しています。これは単純に私自身が「癒し」というイメージが業界的にあるというのと、実際そういう音源が多いということもあり、それを切り口に自分の音楽のプロモーションチャンネルとして二年以上育て上げ、現在登録リスナー二万六千人以上、今月中にはよほどのことがない限り二万七千人行くでしょう。しかしだからどうなの? と正直思わなくもありません。なぜなら正直いってまだ私が期待しているほど「宣伝力がある」という感じにはなっていまないからです。

実際二万六千人の中常時放送を聴いている人はどれだけいるのか? そこがはっきりいって見えないですからね。あとその二万六千人で実際どれだけ購買に対するリアクションがあるのかということを考えるとやはり「少ない」と思ってしまいます。

ちなみに私はGoogleのAdsenseを利用していますがインプレッション(広告表示)に対するクリック率は1%ないですね。もうちょっと何とかならないものかとも思うんですが実際その程度です。その中から実際に購買というリアクションをする人は10%前後、平均は4-5%に過ぎないといいますから、それを考えると実際の広告効果というのはネットといえども天文学的に小さいですね。これがテレビの地上波になると更にもっと少ない確率になります。

というと本当に広告効果を持つにはまだ二万六千人では足りない、ということでしょうね。更に一桁上が必要です。

となるとまだそこまで行くには気が遠くなるほどの時間が今のペースでは必要ということになります。そこでネットのみで続けるにはやはり限界があることを悟り、既存のメデイア等のリアルの部分での提携を模索し始めました。

具体的にはFM局、まあキー局は難しいにせよまずはコミュニテイかミニFMとの連携を模索し、コミュニテイFMのコミュニテイでも提携の呼びかけをしたのですが、結果が惨憺たるものでした。FMのコミュニテイでなぜネットラジオが発言するなどと非難轟々で、こちらの主旨を全く汲み取ってもらえませんでしたし(こりゃ駄目だと思い、そのコミュニテイを退会しました)、知り合いのFM関係者に同様の話を持っていっても全く反応がありませんでした。ということで、このプロセスの可能性を捨てたわけではないですが方針を転換した方がよさそうだという結論に達しました。

ちなみにだいぶ前の記事ですが大阪高槻市のウエブラジオが大変な高視聴率を上げ注目されているという記事があります。

FMコミュニティ放送 か ウェブラジオ か

http://blog.livedoor.jp/fmtakatsuki/archives/51554594.html

この記事でRadio171という日本で初めて自治体が開設したウェブラジオ放送局に関する記事で高槻市と一般市民そして高槻市コミュニティ市民会議の赤大路地区コミュニティ協議会、この三者が協働してNPO法人高槻ブロードキャストを組織し運営しているとの話です。この三者が協働してNPO法人高槻ブロードキャストを組織し運営しています。
運営に掛かる費用も、各々が負担していますが、極めて少ない予算で運営されていることに、見学に来られる他の自治体関係者様は一応に驚きの声。また自治体が負担している金額にしては、あまりに少ない金額なのでこんな金額で出来るのか?・・・という反応です。

しかもRadio171の驚くべき点は予算もさること、視聴率(聴取率)!!! 
なんと1.8%!!(平成20年度高槻市市民意識調査より)

この数字、県域ラジオ局では、1%を超えるのはかなりの数字、高視聴率となります。
単純比較はできませんが、2008年10月度のラジオ聴取率の結果からみても

1位;TBSラジオの1・4%
2位:ニッポン放送の1・1%
3位:NHK第1とJ―WAVEが0・9%
5位;文化放送の0・8%

(ビデオリサーチより)

FMコミュニティ放送は殆どが0.1%くらい!!
それと比較すると驚くべき数字です

確かに私もコミュニテイFMの番組を制作していたことがありますが、確かに反応が全くなくてやる気を萎え、むなしさすら感じたのを覚えています。それを考えるとまあ今はまだマシかな、とも思います。

ちなみにどういう計算方法を取っているかわかりませんが、NiftyのPodcasting Juiceによると癒しの音楽チャンネルの視聴率(聴取率)は0.2%と出ていますのでまあ単純比較はできないでしょうがコミュニテイFMよりはちょっといい程度なんですね。まだまだです。

ちなみに単純比較はできないでしょうが、Podcasting Juiceで最高の視聴率(聴取率)を稼いでいる番組は何と7.1%などという驚異的な数字を挙げています。

いずれにせよネット(Web)ラジオの聴取率の高さには、FMコミュニティ放送はとうてい及ばないことが、今回の公的調査結果から言え、視聴率(聴取率)だけで言えば圧倒的にウェブラジオの方が優位性が高いことを測らずも証明することになりました。

またもしこのデータを信じるとしたら癒しの音楽チャンネルがコミュニテイFMと仮に組めたにしても視聴率的にはあまりメリットがないということになります。

しかし日本人にはまだ「電波信仰」が根強いですねー。音楽業界の人間でもネット(Web)ラジオというものをハナからバカにしている人が多いです。確かにネットラジオにはいいものもありますがひどいものもありますが、それらを全部一色丹に考える人が多いですね。私もFM関係者に提案するときも最初から「ネットよりも電波の方が格が上」であるかのような反応をする人が多いかった印象があります。そのくせ自分たちの放送を自由にネットで流せるようにしたい、などといっていますから云っていることとやっていることが違う印象があります。

ということでまだ根気よく癒しの音楽チャンネルを育てていくしかなさそうですね。しかしリアルな部分と連動するとよりネット放送というバーチャルば部分が生きるというのは、運営して実感していますので何か考えようと思っています。

それにしても日本人は既存のイメージというか「電波信仰」をどうして捨てられないんでしょうかね。殆どの音楽事務所関係がいまだにネット(Web)ラジオよりコミュニテイFMの方が「権威がある」と思い込んでいます。いかにデータを分析しない人が多いかでもありますね

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2009年4月 7日 (火)

大不況とアメリカのIT企業のコンテンツ制作の取り組みの実態

さて、ここ一ヶ月半くらい先日のコンサートやうちの会社の奥津恵のミニアルバム制作といろいろ多忙でしたが、経済の状況は相変わらずきついですね。先日金融サミットの発表で株価と円安になりましたが、それは一時的な現象、基本的な問題は何も解決されていませんから状況の好転は当分見込めないでしょう。

昨日私のもう1つのブログでもネットのトラフィック自体がかなり減っているということを書きました。そのため新規の受注案件の大幅減は避けられない状況です。ゴールデンウイークまで三週間、どこまで持ち直せるでしょうか?

そしてうちの会社の通常の業務である音楽だけでなく音声のコンテンツ制作では、見積額の削減に関する圧力が凄まじいものになっています。うちが取引があるのはe-learningボイスオーバーコンテンツの制作を請け負っている会社で末端のクライアントは主にアメリカのIT系企業です。今回の金融不安の影響をモロに受けている会社といっていいでしょう。うちもかなりコストパフォーマンスを目いっぱいやって対応していますが、実はこれらの会社との問題はそれだけではありません。

実は時々彼らのコストダウン要求があまりに我々の感覚では常軌を逸したものである場合があります。時々我々をプロではなくその辺のアルバイトか何かと勘違いしているのでは、あるいは業者を人間として思っていないんじゃないか、そう思いたくなることがあります。そのあたりにIT系企業のコンテンツというものに対する本音が見え隠れしているような気がして仕方ありません。

以前「シロウトほど簡単に考える傾向がある」という記事を書きましたが、彼らを見ているとコンテンツ制作が「簡単にすぐにパッとできる」と考えているとしか思えないところがあります。原稿とかを予定通り送ってこないくせに、「はい、明日納品して」とか、金曜の深夜近くに連絡が来て、「月曜の朝一に納品して」って自分は休んで俺たちは週末仕事しろっということだろ? 

送ってくる原稿も正直かなりひどいですね。ナレーターも読み辛そうです。中には明らかに日本語としておかしな表現があって、そこを変えたら「何で勝手に変える?」と来る。 じゃあ、あんたそんなことをいうなら立ち会って、というと「外国にいるからいけないじゃあ、どうすりゃいいんだよ!?

普通この手の仕事は末端のクライアントが必ず立会いのもとで行なわれるのが普通なんですが。この会社だけはそれがない。じゃあコンテンツの中身。原稿の内容に一体誰が責任を持つのか、非常に曖昧のまま進んでいます。うちの発注元には再三再四、誰か末端のクライアントの担当者に立ち合いを求めていますが「そんな担当者はいない」の一点ばり、ちなみにいずれもちゃんと日本の法人がれっきとして存在する誰もが知っているアメリカのIT系企業であります。その辺の失礼ながら訳のわからないITベンチャー企業ではありません。世界的な企業ですらこのていたらくですから、他は押して知るべきです残念ながらこれがIT企業のコンテンツ制作の実態であります

しかし、中にはそうでない例も先日ありました。ただしその会社は外資ではありましたが、世界の学会誌を扱う世界的な出版社系の会社で、やはり出版社としてのプライドもあってか立会いを要求、現場の我々としては喜んで引き受けました。いつももらう原稿のレベルの低さに逆に我々はその担当者に同情されてしまいました。やはりちゃんとした会社はきちんと事情を理解してくれます。

残念ながらこれを見るとアメリカのiT系企業のコンテンツ制作に対するいい加減な態度、コンテンツの価値に対する無理解、コンテンツ制作会社をどこか見下している態度がありありと受け取れるといわざるを得ません。どうやらこうした態度が世界中に波及し、それが最近のネット世界に充満するクリエーター軽視、権利に対する意識のなさ、何よりも「音楽も音声もコンテンツもーあんなの簡単にできるよ」といった安易な考えをネットに定着させてしまったということができます

どうも一部のIT系企業は「アマチュア」と「プロ」を混同するーひとい場合はなぜプロをなぜ特別扱いする、などという本末転倒な考え方をする人間が少なくないように思います。何よりも「次の工程に人間がいる」ということを忘れているとしか思えない人間が多いような気がします。

私どもは制作のプロとして仕事をしますが、こうした状況に対してできることはプロのプライドとしてやるが、できないことははっきりできない、といっております。やはりプロとしての最低限度のレベルを保つ仕事を行なうのはその最低限のコストというのがどうしてもかかります。そこを理解できない人間があまりに多すぎるような気がします

ネット社会が発展するには「良質なコンテンツ」が普及するのが必要です。しかしその「良質なコンテンツ」は

1.簡単にはできないこと
2.タダではできないこと
3.クリエータという人間が存在すること

この点をもう少し理解してもらえる人がこの業界に増えてくれることを期待します。

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2009年1月27日 (火)

少々遅いですが今年の音楽業界展望

一週間ぶりの更新です。

 世の中は不況の嵐が吹いていますが私はおかげさまで今のところ忙しくしています。オバマ政権も発足し、その政策が注目されていますが本当の不景気の恐怖はこれからです。80年前にF.D.ルーズベルトが大統領になった時はアメリカでも4人に1人(失業率25%!!)という状態でしたが、まあそこまで行かなくともかなりそれに近い状態になるでしょう。昨年末非正規社員の解雇がメデイアをにぎわしましたが、今度は「正社員」それもかなり大量の社員が路頭に迷う事態になるのはおそらく避けられません。そのくらいひどい状況です。だから今は忙しくしていますが何ヵ月後に同じ状態になるという保証はありません。

音楽の世界は残念ながら一番その煽りを食らうでしょう。音楽という「嗜好品」は最初に削 られてしまうからです。表面上今は健全に見えますが、4月ー7月にかけては非常に危険な状況になると思います。何度もいいますが、業界の大再編成は避けられないでしょう。大手レコード会社や大手芸能プロの倒産、吸収合併も80%以上の確率で起きると思います。

 とはいえ私は2008年音楽業界滅亡、なる記事をかいてしまいましたが(笑) たぶん表面上は「滅亡」していないように見えるでしょう。そして一部のネットユーザーは失望するかもしれませんが、業界がどんな状況になろうがJASRACがつぶれることはありません。規模の縮小はあるかもしれませんが..

 というのは演歌とか、クラシックの世界は健全に機能しているからです。演歌は現在メジャーレコードが一部のアーチストを除いて実質殆ど手を引いた状態ですが地方では非常に強力に展開しています。演歌系の人は「営業」で食べていて「営業」でCDとか売っていまして、それが下手なレコード店流通より売れている現状がありますから、正直たとえ今の音楽業界のシステムが崩壊しても演歌の世界は健全に生き延びるでしょう。ちなみにカラオケや有線は演歌系の人の大きな収入源(特に地方都市のカラオケ収入はまだ凄い)になっていますからはっきりいってレコードメーカーが全部つぶれても彼らはびくともしないでしょうね。

 同じことがクラシック系についてもいえるわけで、どちらも個々の金額は小さいですが総体としては実はJASRACを支えるのに充分なものです。したがってJASRACはつぶれません。一部のネットユーザーの間では極めて評判の悪い同団体ですがそれは期待しないほうがいいです。

 しかし早くも水面下ですが業界で動きがあります。私の会社は現在国内CDプレス工場(当たり前ですがいずれもJASRACPhilips認定工場ですが..)いずれも大幅な組織変更を発表しました。具体的には今唯一伸びているBlue rayの生産を主力にして、CDの部署を縮小する動きです。まあCDはなくならないにせよ、今後大幅に伸びる可能性は低いから当然の処置でしょうね。特に大手メーカーの製作体制が実質殆どなくなりつつある現状では当然だと思います。これで業界の製品の生産体制が大幅に変わります。そのうちCDは後回しにされる可能性すらありますね。

 しかしこういう厳しい情報ばかりですが前にも書きましたが決して私は悲観していません。寧ろ大きなチャンスだと思っています。特に幸か不幸かうちの会社は身軽なので。。実は先日その業界状況の影響と思われる動きがありました。ある大手制作会社からドラマ関係でインペグ関係の仕事を受注しました。今まではうちのような会社は無視されていたと思うんですが、おそらく今までその会社が発注していた会社が倒産したか何かしたんでしょうね。これから音楽事務所も制作会社も大幅に減る可能性が高いです。やる人間が減れば当然ビジネスチャンスが現れます。だから決して悲観する必要はないのです。勿論油断はできませんが...

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2009年1月 8日 (木)

今の時期を音楽業界再興のチャンスととらえよう

もうオトソ気分も脱して本格的に業務に動いている方も多いと思います。

 この「Kyojiの音楽ひとりごと 」では音楽業界の現状をかなり批判し、特に業界のトップに対して辛らつな表現も入れながら何とかこの衰退の流れを変えられないものかと考えておりました。しかし考えてみれば仮に業界のトップの人が私のような取るに足らない人間のいうことに耳に傾けそれなりの対策を打ったにしても今のような経済環境の陥ることは避けられなかったでしょう。このような状況になるのは2000年にアメリカでブッシュ大統領の誕生、日本では小泉政権が誕生した時点ーネオコン、新自由主義(市場原理主義)が世界を支配した時点ーでほぼ避けられなかったといっていいと思います。

 だが実際この世界不況ーまあ恐慌といっていいと思いますがーが来てしまった時点ではあまりネガテイブな情報を流してはかえって状況を悪くするだけだと思います。もう今の時点でレコード会社や大手プロダクションの幹部を批判したところでしょうがありません。寧ろ今の状況をどう生かすか、どのようにポジテイブな方向に持っていくか、今それが一番必要だし大事だと思います。

 今日知り合いの投資会社の社長のメールでなるほど、そのとおりだと思う一文がありましたのでここで引用させていただきます。

「生き残りをかけて」とか「不況を乗り切る」とか
そういう後ろ向きな発想をすれば人間の脳は後ろ向きに
機能します。

「チャンスを活かす」「不況を活かす」という発想すれば
前向きな気持ちになれます。

生き残りをかけて成功しても生き残るだけ、失敗すれば
死んじゃうのです。
不況を活かそうとして成功すれば飛躍できます。
失敗しても飛躍できない(今と変わらない)だけです。

100年に一度の千載一遇のチャンスを貴方はどう活かし、
戦略にしますか?

 はっきりいって音楽業界はある意味自民党の既得権益社会の縮図のような構造でした。体質も古く一部の資金力と「コネ(これは様々な方面の、を意味します)」がある人間だけがよい思いをする社会でした。

 しかし今それが崩れようとしています。今度の経済不況でなくならないにしてもそれらの利権構造はかなり壊滅的な打撃を受けるのは避けられないでしょう。

 だからこそ今は音楽業界がより健全な業界に生まれ変わり、音楽を本当に必要としている人たちに必要な音楽が届くシステムが構築できる絶好のチャンスだとも思うのです。本当に実力のあるアーチストやクリエーターがプロとしてきちんと評価される業界に..

あとはこのチャンスをどう生かすか、だけだと思います。私の悪いクセなんですがどうも詰めが甘い、まだ今の経済状況を生かす本当の術を身につけていない気がします。

私は前の記事で「生き残る」という言葉を使ってしまいました。この言葉自体が後ろ向きの言葉ですね。もう一度頭を冷やしてこの状況をさらに生かすにはどうすればいいか考えようと思います。あとで「詰めが甘かったー」と後悔しないように

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2008年12月 8日 (月)

音楽業界7年目のジンクスー世界大恐慌の対策が急務

「音楽業界7年目のジンクス」というのは私が勝手に呼んでいるものですが、20年以上音楽業界というところで仕事をしていて、だいたい7年ごとに大きな変化が起きているように感じます。1988年からの変化を考えますと

1.1988年ー 私はこの年を「音楽バブル元年」と呼んでいます。日本もいわゆるバブルに沸き始めた時期で、いわゆるメデイアとのタイアップでお金を湯水のように使うのはこの時期に始まったと思っています。音楽業界のプロモーション方法はこの時期から現在まで殆ど変わっていません。

2.1995年ー その「音楽バブル」にかげりが見え始めた時期です。業界の人間の大半がもう忘れていますが1995年の一時期急に仕事がなくなった時期がありました。今思うとその後の音楽業界の衰退の前奏曲だったような気がします。またお金の使い方もこの時から変わり始めました。音楽業界の数字的には1998年がピークですが、私は1995年が変曲点だったと思っています。

3.2002年ー レコード会社がアーチスト育英金、音楽制作費、専属契約金等を大幅にカットした年。もはや音楽事務所を支える力をレコード会社が失ったこともあって、音楽事務所がこの年バタバタつぶれていきました。今、はっきりいってレコード会社に期待する事務所は殆どないと思いますが、この年にそうした動きが始まりました。この年は多くの音楽事務所にとっては悪夢の年だったかもしれません。うちも存続が危ぶまれるほどの大打撃を受けました。

そして来年の2009年はその悪夢の年から7年目にあたります。

そしてそのジンクス通り未曾有の金融危機が既に始まっています。皆さんご存じの通りアメリカを発端とする金融危機、ネオコン政策の共和党は年明けの1月まで政権もアメリカ議会も支配していますが、それまで有効な対策を取ることは難しい状況です。でも金融危機はおそらく来年の1月まで待ってくれないでしょう。

船井総研の船井幸雄氏は既に9月の段階から「大恐慌は避けられない」と書いています。
http://www.funaiyukio.com/funa_ima/index.asp?dno=200809008

船井さんは経済の有識者でいたずらに不安を煽るような人ではありません。船井さんは事態の深刻さに一向に気づかない日本人全体に警告を発しています。また他のあらゆるデータを見ても深刻な情報ばかりで見れば見るほどげんなりする内容です。特に年末のクリスマス明けから来年の5-6月までが深刻です。そしておそらくその余波が少なくとも数年は続くでしょう。

何か日本国内を見ても、特に音楽業界の人間を見ても何か能天気な人が多いように思いますが気がついた時には既に遅いと思います。来年2009年をまず乗り切る対策を考えないと駄目かもしれません。今度の不況は今までの不況とは訳が違います。

大手メジャーレコード会社、大手プロダクションがつぶれる、なんて事態も冗談抜きに起きるでしょうね。さて残り数週間、生き残る対策を本気で考えないと

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2008年10月 1日 (水)

「情報やコンテンツはただであるべき」という考えは情報化社会をかえって崩壊させる。

10月に入りました。音楽や音声のコンテンツ制作屋としても作曲やアレンジャーとしてもこの秋はおかげ様で忙しくなりそうですが、最近「情報とコンテンツ」に関してある思いを強くするようになりました。

現代はいうまでもなく「情報過多社会」です。ネットは勿論いわゆるマスメデイアからも情報があふれています。しかしその分これは自然の摂理ですが情報のエントロピーも増大していて、おそらくこの傾向はどんどん加速していくでしょう。実は数学には「情報理論」というものがあり、式が難しいのでここでは記しませんが、要は情報が増えれば増えるほど情報の内容が無秩序になっていくというものです。私は大学でこれを専攻したのでわかりますが、現代社会はまさにこの状態になっているといえると思います。

情報量というのは「起こりにくさ」です。数値が高いほど「起こりにくい」ということになり、低いほど「起こり安い」と定義します。エントロピーは最終的に無限大の方向に行くというのが自然科学のエントロピーの法則といいますが、その情報量を扱う統計学のエントロピーは最終的には情報は無限大に拡散していくことを意味します。平たくいえば今の情報過多社会は今にもまして情報が洪水のように流れでる状態になっていくということになります

こうした中で情報やコンテンツがあふれていくということは何を意味するでしょうか?それは情報やコンテンツの供給過多を意味し、情報の需要を大きく上回ることになってしまいます。今既にこの状態になっています。それゆえ「全ての情報やコンテンツはタダ(無料)であるべきだ」という概念が台頭し、今ネットユーザーのおそらく過半数以上はそう考えているように思います。

だがちょっと待ってください。私が大学で情報理論を学んでいた時にずーっと引っかかっていて今でもひっかかっていることがあります情報量というのは単に「起こり辛さ」を表現しているに過ぎず(確率)、例えば「自分が宝くじに当たった」事象と「見知らぬAさんが宝くじに当たった」事象は、前者の方が有意義な情報に見えますが、両者の情報量は全く同じなのです。つまり数学の情報理論は個人・社会にとってどれだけ意義のあるものかというのは無関係なんですね。

しかし実際には情報に接する場合その情報が本人にとってどれだけ有意義でかというのが大事なのであって、情報がどんなにあふれていても本人にとって有意義でない情報ははっきりいってゴミ同然ということになります。つまり情報量が増えるということは、情報の自分にとっての価値ということを必然的に自分で高い次元で選択する能力が必要なわけです。そのためには情報やコンテンツに対するリテラシーを今まで以上に持つことが重要になります。

情報やコンテンツに対するリテラシーとは自分で情報やコンテンツの価値の内容を一定のレベルまで理解した上で信頼性を自分で調べ客観的に評価する能力のことです。流布されている情報を鵜呑みにしては決して駄目で、また情報やコンテンツを単に自分の好き嫌いだけで判断してもいけません。そういう能力を身に着けないとこれからの情報過多社会には生き残れないということがいえます。マスメデイアの情報に煽動され、踊らされる人々は情報弱者の類に入れられてしまうかもしれません。

無料=タダというのは要するに「価値がない」ことを意味していますから、情報やコンテンツに対するリテラシーが入る余地がなく、情報のエントロピーが増大することによってより無価値なものになってしまいます。つまり無料の情報やコンテンツは結局ゴミかゴミ以下の扱いしか受けなくなるということです。それを考えるとメデイア、特にマスメデイアの情報やコンテンツは一見無料とはいっても実際には「スポンサー」が買っているもので、その結果間違いなく恣意的かつ、意図的な情報操作を行っているものであります。そして情報が今後も今まで以上にあふれていく状況を考えればこの傾向は今後ますます強くなることはあっても弱くなることはありえない、といっていいでしょう

それらの情報は情報やコンテンツに対するリテラシーという観点から見れば失礼ながらゴミかゴミ以下の価値しかないものでしょう。情報やコンテンツを受容する人は無料で接するわけですから。つまり全ての情報やコンテンツをタダにすべきという議論は全ての情報やコンテンツを結果的にゴミかゴミ以下の価値にすべきだといっているに等しく、この考え方は情報化社会の情報やコンテンツの質の低下を招き、結果的に情報化社会を実質的に崩壊に招くといっていいでしょう。

そのためやはり有料コンテンツ、そしてコンテンツにお金を払う背景は残すべきであり、それに対するユーザーの啓蒙も必要でしょう。私の考えではネットが普及するに当たりそのコンテンツの権利、権利者への尊重の啓蒙をきちんとしていなかったのが今日の状況を作っているように思います。

コンテンツメーカーは今まで以上にコンテンツの質の向上にエネルギーを投入すべきであり、ユーザーがこのコンテンツならお金を払ってもいい、と思わせる内容にしなければなりません。音楽に限っていえば音楽配信のプラットフォームがmp3のままでよいのか、(いいはずがない)という問題があります。それと特に最近の若い世代に対して「音楽のすばらしさ」というものをいかに伝えていくかというのも重要な要素です。

ネットが社会に定着して十年以上、コンテンツビジネスがビジネスとして生き残れるか、コンテンツが文化として次の時代に継承されるか、これからが正念場でしょう。

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2008年8月20日 (水)

音楽業界に関して質問をいただきました。

先日ある高校生のA君よりメールをいただき、私のブログを読んでいくつかの質問をいただいた。私のこのブログは結構多くの学生さんに読まれているのは承知しているが、(アクセス解析でac.jpや.eduが結構たくさん来ているので) 直接質問をいただいたのは初めてである。何でも学校の「課題研究」で「音楽配信」のレポートを書いていらっしゃるらしい。

その件の詳細を書く前に、まず、私は音楽業界ではしがない1業者ーそれもかなり零細な業者ーに過ぎないということはご理解いただきたい。また一般の人から見れば必ずしも音楽業界のメインストリームの中にいるとは見えないかもしれない。本当に業界の中では「取るに足らない人間」の一人である。

そんな私が音楽業界のことをあれこれブログに書いているのは音楽家の端くれとして音楽文化を大事にしたいという思いと、1998年以来ずーっと右肩下がりの業界に対して業界のトップが改革を行おうという姿勢を全く示さないばかりか、現状を改革しようという人間をどんどん会社の外に追い出す、といった行動を見るに及びかなり怒りを覚えたのも事実である。そのため2-3年前の私の記事にはかなり辛らつな表現が入っている。

しかし今は経営のトップの人間ですらそんなことを考える余裕がないこともわかっているので最近はそういう書き方を控えているし、残念ながら現在の流れはもはや変えようがないということも感じている。それより自分がどうこの最悪ともいえる音楽業界の中でどう生き残っていくかを考えるほうがよっぽど大事である。それほど事態は深刻なのだ。

前置きが長くなったが、そのため本来なら以下のような質問は私なんかより津田大介さんにお聞きした方がより私よりも詳しくきちんとした答えができると思うのだが、なぜか津田さんと連絡がとれなかったらしくそれで私のところに来たらしい。津田さんは先日あるオフ会でお会いしたが非常に気さくな方だったので、きちんと紹介したら答えてくれるとは思うのだが... だが以下の質問は結構多くの方が持っている疑問だと思うのであえてここで公開して私の考えを述べさせていただきます。(勿論高校生のA君の了解はいただいています) あくまで私の考えなので的を得たものかどうかは皆さんで判断して下さい。

質問は3つあり、質問のあとに私がA君に対する答えを書いています。

>・今ネットや携帯での音楽配信が広く普及してCDの売り上げがますます下がって
いますが、この先CDが無くなってしまうことはあるのでしょうか

私個人はなくなることはないと、思っています。
少なくとも音楽配信が現在のmp3フォーマットのままでいる間は,という条件ですが、といいますのはmp3の音質ではCDの方がはるかにまさっていますので...

但し将来的に光ファイバーが現在よりはるかに高速になりさらに大容量のファイルの転送が可能になればまた事情が違ってくると思います。

注:mp3がCDと同じ音質だと思っている人が多いようですがそれは誤りです。

>音楽配信が広く普及することによって、レコード会社などの企業にどのような影響が及ぼされるのでしょうか
音楽産業の体制を変えざるを得なくなると思います。
現在はCDのみで利益を出す体制ですが、これからはCDだけでなく着メロ、音楽配信
等、アーチストの収入を総合的に管理する体制を作るしかなくなるでしょう。

>今海賊版の楽曲がたくさん出回っていますが、それがいずれ無くなる時がくるのでしょうか。そして海賊版に対して、レコード会社等はどのような対策をしているのでしょうか。
海賊版を完全になくすことは不可能です。
ただ、日本はまだ諸外国に比べればまだマシな方です。

とはいえ、現在ネットの世界で著作権やアーチストの権利を尊重する意識が非常に低いのも事実です。

うまくいく、という保証はありませんが、著作権を始めとするアーチスト、コンテンツ の権利に対する啓蒙が必要だと思います。それをやらないとコンテンツを作る人自体が将来いなくなる可能性すらあります。

今、懸念しているのは特にIT系の名だたる企業の代表ですら「全てのコンテンツは無料であるべき」といってはばからない人物がいることです。これは私の考えですがコンテンツを無料、もしくはタダ同然にすることによってプロのクリエーターの生活が成り立たなくなり最終的には、取引できるコンテンツ自体がなくなってしまう、そのことによってかえってコンテンツビジネス自体が崩壊してしまうことです。そのことを理解できない人間が現在あまりに多すぎると感じるこの頃です。

以上が私の質問に対する答えですが、皆さんはどうお考えでしょうか?


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2008年7月26日 (土)

新たな著作権の定義ーニコ動クリエーターに思う

もう既にだいぶ前の記事だが

座談会 UGCの可能性を考える(前編):

「ニコ動作家はもうけちゃダメ?」「才能、無駄遣いしていいの?」

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/18/news048.html

私も作家の端くれとして、正直な話自分のコンテンツが全くしらない誰かに勝手にいじられ、しかもそれで商売しているなんてことを聞いたらはっきりいっていい気持ちはしない。ただでさえネットの世界でのコンテンツに関する権利の意識の低がいわれているし、また同じコンテンツだからなぜプロのを特別扱いするんだ、という雰囲気がありプロとアマチュアの違いというのものを誤解している人間も多い。しかし一方ではこのニコ動の存在を見るにつけ著作権自体の考え方も既存のままでいいのかという考えも浮かんでくる。

ここでまず誤解して欲しくないのはこれはプロのコンテンツの既存の権利体勢を廃止すべきとか、その存在意義そのものに対して疑問を呈しているわけではないということである。その権利体勢は文化や芸術表現の水準を維持するという意味で基本的には堅持すべきであると考える。以前も言ったがプロとアマチュアを全く同等に扱えという主張は高校野球の選手とアメリカのメジャーリーガーの選手を同じ価値で扱えといっているのと同じである。だがニコ動を見るとネットならではの新たなクリエイテイビテイの可能性も感じている。それはどういうことかというと、既存のコンテンツの「コラージュ」や「再演出力」による新たな表現手段の可能性もある。

例えばマルセル・デユシャンL.H.O.O.Qという作品をご存じだろうか? モナリザの絵に口ひげとあごひげが描かれている作品で、コラージュが芸術作品になるという例を示した人である。ちなみにL.H.O.O.Qは「レデイメイドと偶像破壊的ダダイズムの結びつき」という意味だそうだ。レデイメイドとは既製品、すでにできあがっている素材を使った作品で、ご存じの方もいるだろうがマルセル・デユシャンは「便器」を出して「泉」という作品を作っている。

まあ全てのニコ動作家デユシャンと即定義するつもりは毛頭ないが、要はこうした既製品の素材を使ってすぐれたコラージュによる作品という概念はそれはそれで成り立つ。実は音楽の世界では既にかなり前からこうした「既製品」を使って独自の表現をしている連中がいる。クラブDJという連中である。

彼らは「音の既製品」をコラージュして全く新たな音楽表現を再構築する職人である。いわゆるREMIXや曲のつなぎ方の工夫で原曲からでは想像もつかないような新たな表現を引き出すことができる。クラブDJのこうした「テクニック」はもう二十年以上も前から一つの表現として確立されており、そのREMIX力、コラージュ力のあるDJが一流のDJとして世界じゅうのクラバーから評価される。こうした風潮はすでにクラブシーンでは完全に定着しているのは今さらいうまでもない。

となるとクラブDJの「作品」はどのように評価されるべきものなのか、これは既存の著作権の管理体制では評価し辛い部分がある。となると著作権の新たな定義、概念の導入が必要になるだろう。

とはいえ、クラブDJもいわゆるニコ動作家も既存の「既に著作権がある素材ーレデイメイド」を使ってあらたな「作品」にしているわけだから、0から素材を作る場合の著作権と全く同じ扱いをするのは難しいだろう。これは著作権の管理を追うべき団体ーニコ動ならニワンゴだがーがきちんとした著作権管理システムを構築するというのが大前提になるが、やはり「素材の作家」と「レデイメイドによるコラージュを行った作家」が公平に権利料を分配できるようなシステムが必要だろう。簡単なことではないことは重々承知の上だがニワンゴそしてその親会社のドワンゴもコンテンツビジネスの将来を見据えた上でクリエーターの権利に対する対価が公平になるように考えるべきだろう。間違っても「コンテンツはタダであるべき」といった声に押されてはならない。何度もいうがクリエーターの権利を奪う、コンテンツをタダがタダ同然で扱うというのは、コンテンツそのものの質の低下を招き強いてはコンテンツビジネス自体の崩壊を招いてしまうそしてこれも何度も書くが「コンテンツは単なるファイルではなく文化である」 そのことを理解してくれる人間が少しでも多くなってくれることを切に望む。

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2008年7月21日 (月)

音楽業界考察ー2008年7月

7月も下旬に入り、いよいよ夏休みシーズンに入る。今年の始め「2008年音楽業界滅亡を前提にー何をすべきか」という記事を書いたが、これだけ原油高、円高で明らかな景気後退に入っているにもかかわらずまだ現段階では「表面上は」音楽業界は持っているように見える。

http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2008/01/2008_dca0.html

とはいえ、音楽業界が1998年以来一向に回復する見込みがない状況は全く変わらない現状を考えると予断は全く許さない。

はっきりいって仮に今年一年持ったにしてもそれは運がよかっただけ、実質的にはどちらにせよそう長くは持たないだろうと思う。これは私だけでなく業界の現場で仕事をしている多くの人間のほぼ一致した見方である。というのももはや「レコード産業」というビジネスモデル自体がもはや存続できる社会状況ではないからである。そしてそれは不法コピーのせいのひとことで片付けられる問題ではない。

勿論、私は以前のブログでも書いたようにIT業界やネットユーザーに著作権に関する意識、コンテンツを文化として考える意識、クリエーターを尊重する気風が非常に低という面は何回か指摘してきた。そして不法コピーも確かに少なくない。しかしコピーの問題はカセットやMD等の新しいメデイアが出てくるたびに問題になってきたわけで不法コピーの問題自体は何も今に始まった問題ではない。

一番の問題は音楽のニーズが多様化してきたこと、そしてその多様化してきたニーズにレコード産業の既存の体勢ではもはや対応できなくなってきている点にある。それはCDのみならず、携帯の着メロ(これが今急激な伸びを示している)、着メロ以外の音楽配信(i-phoneの普及で加速?) 等があり「音楽の収益のフィールド」は多様化している。CDの売り上げというのはその「音楽の収益」の中の一分野にもはや過ぎなくなっている。にもかかわらず音楽業界、いわゆるレコ協加盟のメジャーの業界には大きな縛りがある。

まず「レコード会社」と「音楽出版会社」は同じ会社であってはならない、という原則がある。これはJASRACにいわせると「レコード会社」著作権を使う会社であり、「音楽出版会社」著作権を管理する会社のため同じ会社が同時にそれをやるのはおかしい、という理屈である。同じように「レコード会社」「芸能プロダクション」も同じであってはならない、という原則があり、この原則は今も生きているはずである。

しかしよく考えるとこれはおかしな話である。そもそもレコード販売する会社とアーチスト、作曲家というのはある意味運命共同体である。確かに「レコード会社」は原盤管理、「レコード会社」は著作権管理、と分けた方がJASRACは管理しやすいのだろうが「レコード会社」「音楽出版会社」原盤権や著作権両方守る義務がそもそもあり、またそれが両者のメリットでもあるはずなのだ。また実際「音楽出版会社」「芸能プロダクション」が原盤を持つ例は珍しくなく、また「音楽出版会社」「芸能プロダクション」が原盤や着メロ、カラオケ等の著作権収入を一括管理した方が収益があがるし、効率的で既に実質的のそのような体勢に変えているところも珍しくない。「レコード会社」「音楽出版会社」をわざわざ分ける必要があるのは単に、著作権を使う会社云々というよりはその方がJASRACというお役所にとって管理上都合がよいから、という理由の方が自然な気がする。

要はこの不文律のようなものが「レコード会社」がCD以外の販売事業に直接関与する道を事実上閉ざし、そのためCD以外の分野で収益を得るため、ニーズの多様化に対応するためにわざわざ別会社を作らざるを得なくなっている。これは業務や収益の回収を考えると非常に非効率的である。

レコ協の人たちは認めたくないかもしれないが、残念ながらもはや「レコード産業」という産業形態はもはや産業として成り立たないだろうこれからはCD,着メロ、カラオケ、ライブやコンサートの収入その他のギャランテイ、そしてその他のアーチストグッズ、それら全てを一括で管理する体制にしなければ到底収益は出ないだろう。

殆どのレコード会社はまだ「レコード産業」という古いビジネスモデルの形態にこだわっているように見える(少なくとも表面上は) しかし唯一そこから脱しようと明確に打ちだしているのはAvex社であろう。実はAvexはもうかなり前からもはやレコード会社ではない、ということをご存じだろうか? Avex社はレコード会社ではなくエンタテインメントの投資(ホールデイングス)会社というのが正しい表現で、Giga等の映画会社からドワンゴ等のITの分野、ダンス教室(これが実はかなりの利益を出している)等の経営と幅広い、実はCDというのはAvex社の商品の一分野に過ぎない、いつころかはっきりしないがかなり前からこういう路線に転換している。そしてそれはビジネス、マーケテイングの観点から見れば正しい選択である。個人的にはAvex社のアーチストの曲でいいと思ったものは殆どないが、この会社のマーケテイング力は評価せざるを得ない。

私個人はしがない零細制作会社の経営者だ。Avex社の方針に評価する面はあるにせよ別に対抗しようとは思わない。だが小さくともキラリと光るクリエーター集団は目指そうと思う。私の会社は文化として次世代に残る高品質な音楽の制作を目指す。きれいごとと笑う業界人の方もいるかもしれないが、音楽のクリエーターに対する尊重の意識が特にネット上で低いのは、音楽で感動した経験を持っている人間がそれだけ少ないからだからと思う私は制作現場の人間として最高の音質のものを作ることを心がけたいし、そういう姿勢で現場で仕事する動きを廃らせてはならないと思うからである

mp3レベルの商品だから音質はこんなもんでいいや、そんな姿勢が制作者サイドに蔓延したらそれは業界にとって自殺行為である。

またもし可能ならばCDに変わる新たな高音質なメデイアが必要である、音楽配信が出てきて記録メデイアについて語ること自体がアナクロだという人が特にIT系ジャーナリストに多いが何度もいうようにmp3の音質はCDに取って代わるほどの音質では到底ありえない。かといって今のネット環境は24bit 32bitのaiffやwavといった大メモリーを自由に配信する環境では到底ないのだつまり今の音楽配信のレベルを過信しすぎている人間が多すぎる。まだ本来あるべき音楽配信のレベルからすれば現行の音楽配信は赤子のレベルに過ぎない。しかも気になるのはパソコンの機能がここ4-5年殆ど進化していない点だが、このまま音楽配信の環境が更に高速化するのかについてはまだ先が見えていない状況にある。

CDの16bit 44.1KHZはデジタル技術草創期のレベルであり現代のデジタル技術の水準ではもはや時代遅れになりつつある。音楽配信が今のレベルであり続けるならやはり全く新たな高品質オーデイオのメデイアに頼らざるを得ないが、問題はそれを開発するメーカーがいるかどうかだしかし本当によい音を一般コンシューマーに提供する環境が何らかの形で存続しなければ音楽文化自体が廃れ、滅んでしまう。そういう事態は誰も望んでいないが、現在の傾向が続けばそうなってしまう可能性が高い。

話がそれてしまったが要は今ほどよい音、よい音楽が求められている時代はないと思うのだ小さくともキラリと光る会社として私はそこの部分を何とか攻めたい。

TSUTAYA online

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2008年5月17日 (土)

津田大介さん「音楽不況なのか」(朝日新聞「異見新言」を読んで

音楽業界に対するありかたに関する論客で業界では知る人ぞ知る津田大介さんが本日の朝日新聞「異見新言」にて「音楽不況なのか」というコラムを掲載して非常に興味深く読ませていただいた。残念ながらwebでのリンクが見つからないためだいたいの主旨を短く書かせていただくと

「音楽業界の不況の状況をCDの売り上げだけをものさしにするのは間違っている。実際には音楽配信を始めとするその他の売り上げは伸びており、音楽の需要は寧ろ伸びている。メーカーは多様化しているニーズに対応していないのと、CCCDを始めとした音楽ユーザーを敵に回す行為で消費者離れを起しているのが問題だ。」 

というのが大まかな主旨である。

私もこのブログを通じて日本の音楽業界の諸問題を論じてきたし、CDが売れない原因をネットのユーザーの不法コピーだけにするのは誤りだ、寧ろ根本的には音楽業界のマーケテイングミスや真の音楽ファンを大事にしなくなった点が最も大きな原因であると繰り返し論じてきた。またネットが本格的に普及した時点で、時代に対応しない旧態依然のビジネスのやりかたに固執する音楽業界のありかたも批判してきた。

だから勿論津田さんのこのコラムでの考えを原則的に、基本的には賛同する但し津田さんのように今後の音楽業界の収入の機軸を音楽配信を中心にする、という点に案しては最近私はやや懐疑的になりつつある。というのはコンテンツは無料であるべき」という考え方は確かにネットユーザーの中に厳然と存在するからである

だいぶ前の集計データだが「コンテンツにお金を支払うか」という点では既に7年前にジャパンインターネットコムがリサーチしており、「6割のユーザーが良いものならお金を払う」と解答しているが、逆に4割はいかなる場合でもコンテンツにはお金を払わないと回答。 コンテンツにお金を払うかどうかについては本質的にはほぼ半々といってよい。
http://japan.internet.com/research/20010517/print1.html

そしてそもそもその「音楽配信が伸びている」というのもレコ協のデータを良く見ると
http://www.riaj.or.jp/release/2008/pr080221.html

これによると754億円のうち680億円(つまり90%)がいわゆるモバイル(携帯)用の着うたの売り上げである。

いわゆるネットの純粋な意味での「音楽」の配信は59億円と全体の8%にも満たない。だから確かに伸び率は二桁ではあるがこのデータを持って「音楽配信市場が急成長」というのは正直しっくり来ない。 というのもこれは音楽をあくまで文化というよりはツールとしての使い方であり。また「ツール」以外の音楽配信は30%伸びているといっても元々の数字が小さすぎて、当たり前だがCD売り上げの落ち込みをカバーできるようなレベルではない。だからこの数字を持ってもし「これで音楽配信がCDにとって変わることが証明された」かのように考えている向きがあるとしたらそれは早計であると思う。

また映像に関してはもっとシビアなデータもある。i-tunesでもビデオ配信、映画配信を始めた、だからDVDの時代はもう終わったので日本の電気メーカーのDVDの戦略と規格の競争自体はナンセンスであり、もはやDVDは無用の長物である」、などと一部のITジャーナリストが云っているのを聴いたことがある。しかしおそらくそういう人は劇場で映画を見たり、ブルーレイのハイビジョン高画質で映画を見た経験のあまりない人だろうまさかm-peg4の画像がブルーレイの画質に勝るとでもいうのであろうか?

そういうコンテンツ配信の未来を信じる人にはショッキングなデータがある。2年前の日経新聞の「ねだんの力学」という特集の第3回目で映像・音楽配信 手ごわい無料の「常識」(日本経済新聞2006年1月12日朝刊、第11面)にこんなデータがあった。

記事の中にこんな一文がある:

「いくらなら映像配信サービスを利用しますか」。東映などが昨年9月設立した映像配信会社、シネマプラス(東京・中央)がサービス開始前に実施した調査結果を見て折坂哲郎社長は「軽い目まいを覚えた」。回答の大半は「0円」(!!)。経費が見えにくいネット流通の難しさを痛感した。

映像コンテンツにお金を払わない、というのはyoutubeの影響もあるかもしれない。しかしアメリカでは映画に配信ビジネスを本格的に考えているが、この辺りは日米と大きく違うかもしれない。事実こんな記事もある。

■日米で異なる映像配信ビジネスモデルの行方
http://japan.cnet.com/column/mori/story/0,2000055916,20094386,00.htm

日本人は元々形のないものはお金を払わない傾向がある。そうした傾向がビジネスのありかたに大きく違いを出すかもしれない。(中国などはもっとひどいだろうが..) いずれにせよIT業者のよくいう「アメリカでうまくいっているんだから」という奴がいたら、それは日本のマーケテイングをきちんとしていない会社と考えて間違いない。そう、彼らが考えるほど話は単純ではない。

ネットを始めとするデジタルの世界は地球全体をフラットにする、といわれる。これは言うなれば「情報」や「コンテンツ」の単価を著しく下げることになり、業者間の競合の関係上ユーザーへの浸透を意識した価格(=低価格)を設定することを余儀なくされる。特に前述のようにコンテンツは無料であるべきという考え方が根強いネットでは、それによりどんどん下がる価格が、さらにユーザーの「デジタルコンテンツ=無料」という意識を煽るという悪循環に陥ることも考えられる。(というか現実に今起き掛けている)

コンテンツを自由に取り扱いたいと考えるIT業者は「それが市場の要求だ」などというかもしれない。だが彼らは重要なことを忘れている。それは音楽を始めとして「コンテンツは物品ではない」ということである。クリエイテイヴな手作りのソフトウエアであり、文化である。価格が下がればクオリテイは必ずといっていいほど下がるものなのだ。従って「デジタルコンテンツ=無料」はコンテンツの質を低下させ、結果としてコンテンツビジネスそのものを崩壊させてしまう、つまり「デジタルコンテンツ=無料」という意識はIT業者にとっても最終的には自分で自分の首を絞めるということになるのだ。そこを理解していない人間があまりに多すぎる。何よりも「デジタルコンテンツ=無料」という意識は知財、知的所有権そのものを否定することにもなり、これはこれで世界的なビジネストレンドに逆行するものでもある。

それを考えると配信事業は開始当初からデフレスパイラルに陥ることが予想され、その面で配信事業を機軸に置くというのはマーケテイング戦略として必ずしも正しいとはいえないかもしれないのだ。寧ろ、パッケージのありかたやアーテイストのグッズにいたるまで、音楽の商材のありかたを全般的に見直した方が得策かもしれない。なぜならビジネス、マーケテイング戦略の根幹は「いかに付加価値をつけたものを市場に出すか」ということであり、コンテンツを無制限に安売りすることではないはずだ

津田さんのような論客は今の音楽業界にもっと必要なのは論を待たない。しかし私はもう少しバランスの取れた広い視野で音楽業界を論じていきたい。

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2008年2月 6日 (水)

見て欲しい(聴いて欲しい)の原点を忘れるな!!ーさすが吉本!!

吉本ファンダンゴの社長のコラムです。さすが世の中をよく見ていてきちんとした戦略を持っています。だからエンタテインメントでも最前線にいられるんでしょうね。
正直言って吉本の芸人は好きでないのも多いけどやはりエンタテインメントの原点にたっています。地上波テレビの有効性を認めながらもネット配信にも積極的に展開しているメデイア戦略をしているのがわかります。

・「見て欲しい」の本質忘れるな--吉本が語るネット時代の権利者像
(吉本ファンダンゴ社長 中井秀範氏)
http://japan.cnet.com/column/pers/story/0,2000055923,20366279,00.htm

私は以前から音楽業界はもっとネットを使って積極的にダイレクトマーケテイングや配信を臆することなくやるべきだと主張してきました。しかしそのことによって私があたかも「コンテンツの権利」そのものを放棄している、否定しているかの誤解をしている人が一部にいたようですが、勿論そんなことはありません。コンテンツビジネスはコンテンツの権利のビジネスなのですからそれを否定するはずがありません

以下いくつかの部分の引用します
「高度なビジネスモデルが構築された地上波テレビにおいても、創業以来の精神を忘れたわけではありません。放送事業者から得られるギャランティは、広告会社、広告主を経ているとはいえ元々はコンシューマーが負担しているものであり、テレビを通じて芸を提供させていただく。これもひとつのBtoCモデルであると考えてきました。

 ところが、通信インフラとテクノロジの発展によって、わざわざ人の手を借りずとも、直接お客様に芸を届けることができるようになってきました。そこで、従来の劇場展開同様のダイレクトマーケティングサービスに乗り出したわけです。

 中間流通を飛ばすことで余計な手数料をお支払いいだだかなくなったこともさることながら、著作権・肖像権を自由自在に操れるようになったことが大きいのです。地上波番組の場合、いくら弊社所属の芸人が出演していたとしても100%自由に権利を持つわけではありません。いわば「製造直販」が可能になったことで、ようやく自分たちのコンテンツを持てつようになりました。」


制作会社、プロダクションは本来コンテンツホルダーである。そのため自らのコンテンツの権利を管理するのは当たり前のこと。それを音楽の場合はJASRACに過剰に依存していた部分があります。インターネットはそんなものとは関係なく直接自分の権利を管理できるし。実はそれほど難しいことではありません。 自分で実際やっていますからわかります。

さらにネットに情報を配信することに否定的ー人によっては生理的に拒絶反応を示す人すらいますがーそんな人たちに以下の文を引用したい

「YouTubeに関していえば、「中に入ってこそできることがある」という考えが念頭にあります。弊社所属タレントも関係する違法コンテンツが数多く存在しているわけで、それらを削除してもらうにあたって内側から改善要求した方が効果的と考えたわけです。

 また、権利者と運営者の議論を見ていて思うことですが、原則対原則のぶつかりあいを続けていても事態は動かない。特に権利者側の方は、ネットが進化するスピードに置いていかれかねない。だからといって、一権利者として放置していくわけにもいかず、正式にパートナーとなることを選びました。」


残念ながら音事協にもレコ協にもここまで前向きな考え方をしている人間は殆どいないでしょう。違法コピーの元凶を本当に断つつもりならここまでやるくらいの覚悟が必要だと思いますが、「ネットは諸悪の根源」と非難するだけで根本的な対策を殆どやってこなかったツケが今来ているような気がします。無策が結局自分たちの首を絞めたということに音楽業界の殆どの人間は気づいていません。

最後に中井氏は以下の文章で締めくくっている
「こうした取り組みができるのは、優れたコンテンツを作るための芸人を多く抱えていることもさることながら、やはり権利関係を自由にできる出口を自ら持ったことが大きい。地上波番組は権利が錯綜していて、いくら弊社がGoサインを出してもネット提供はできません。「ファンダンゴ」そのものの成果はともかく、大枠で捉えた効果は計り知れないものがありますね。」

地上波は本当に利権の巣窟でやりたいことなんかできたもんじゃない。
だからこそネットで配信することも必要なのだが、音事協もレコ協もJASRACも事実上メジャーアーチストの参加ができないようにしている。

少しはこの考え方を見習って欲しいと思いますが、今さらもう手遅れか....
あわれ滅び行く業界

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2008年1月29日 (火)

2008年音楽業界滅亡を前提にー何をすべきか

早いもので1月ももう終わってしまう。既にニュース等でさんざん報道されているようにアメリカのサブプライム問題を発端に加え、異常な原油高、そして円高、更には例の「新建築基準法」による政府と行政の不手際による問題と残念ながら2008年はこのトリプルパンチで景気後退に入るのはほぼ避けられないという見通しで経済の専門家の見解はほぼ一致している。普通私はあまりエコノミストのいうことは信用しないのだが確かに経済の現状ははたから見て深刻なのは素人の私でもわかる。このトリプルパンチが来たらただでさえ体力のない音楽業界はもうひとたまりもないだろう。

加えてこのブログでも再三再四、音楽業界の問題点について論じてきたが残念ながら2008年は事実上音楽業界の既存の体制が滅亡するのは避けられないだろう、というのが大方の見方だ。実はもう既に数年前から音楽CD業界は殆ど業界の体をなしていない。本当に一握りのアーチスト以外、作曲家や音楽家の大半は事実上「ワーキングプア」状態になっており、殆どの人間が「副業」なしには食べていけない状態が続いている。

特に深刻なのが次々に閉店するレコード店の現状だ。経営状態の悪化の噂が耐えないHMV, そして昨年十二月十日の渋谷のCISCOの閉店、と音楽産業の売り上げの回収機能の崩壊が始まっていること。決定的なのはやはり10-20代の若者がCDというものを本当に買わなくなっている(pdf資料で特に12ページ参照)ということだろう。

CDを買わなくなっているのはファイルコピーのせいだ、などと相も変わらず業界関係者はいっている。勿論それは全くないとはいわないが、携帯に何万も使ってお金がない、という理由の方が大きいだろう。しかし私はそれよりもっと根本的な、音楽のマーケテイングの部分に理由があると見ている。次の私の疑問を見て驚く人もいるだろう。

それはそもそも音楽産業は本当に音楽が好きな人、音楽ファンを対象にCDを売り続けていたのだろうか? という根本的な疑問である。「音楽が好き?」と聞かれて「嫌い」という人は少ないだろうが、CD業界が頂点を極めた頃からの音楽の売られ方を冷静に分析してみると、実は音楽産業は本当に音楽好きな人をメインターゲットにしていたのではないことがわかる

実は音楽ー特にJ-popの大半は一般人にとって単なるコミュニケーションツールに過ぎなかった。勿論純粋にアーチストを支持した音楽ファンもいるにはいたがいつのまにかそういう人たちは音楽産業のメインターゲットからはずされたのだ。この傾向は10-15年前あたりから顕著になってきた。その頃から売れていたCD、音楽とはドラマやCMのタイアップ曲だったりカラオケで歌いやすい曲だったりした(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。特にいわゆるトレンデイドラマ全盛の時は若者であれば「誰もが見るもの」であり、メーカーはそのドラマタイアップ獲得のため湯水のようにお金を投入していた。

学校や職場の友達や同僚とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く、音楽はそのための単なる道具に過ぎなかった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くための道具であり、そのため「みんなが聞いているから」というのがCDを買う理由となった。いかにも日本人らしい音楽の買い方だと私見では思う。本人たちはそのタイアップの音楽が好きというつもりで買ったかもしれないが、実際はその曲の音楽性ではなく、単なる「学校や職場で孤立をしないための」ものであった。

しかし携帯が特に若者のコミュニケーションツールにとって変わるとコピーで事足りる音楽に金を使うものなどいない。そして10-15年前と違いCDを聞いてもモテない、友達は出来ない。と周囲のコミュニケーションツールとしての役割を音楽が果たせなくなった状態では売れなくなって当たり前だ。

20年前は「アーチストのファン」のためにCDを作った、いつのまにか音楽業界自体はその行為を事実上放棄した。次の時代の新人が育たないのは当たり前だ。そもそも音楽を本当に好きな人を対象にしていないのだから、いつのまにか「音楽の好きな人=マニアックな人」という短絡したマーケット感が定着し、現在もそれを基本的に変えようとしていない。音楽をコミュニケーションツールとして売り続ける路線に固執する以上どんどん業界は沈んでいく。そしてどうやらその通りになってしまうようである。

ここで根本的な問いかけをもう一度する。音楽ファン相手の音楽CDビジネスは本当にもうからないのだろうか? 少なくとも現在のいわゆるメジャーレコードのデイレクターと呼ばれる人の大半はそう考えているようだ。その証拠に殆どの関係者は「ただのコアなファンだ」のひとことで片付けてしまう。しかし私はやはりそれは違うと思う。私も双子のリリーズのサポートとかやって目の当たりにしたが、アーチストの真のファンはアーチストがCDを出せば配信やコピーがあろうが買ってくれるのである。問題は私は以前のコラムでも書いたが音楽業界はいつのまにかそういう人たちを大事にしなくなったことにある。それが音楽業界が犯した根本的な過ちだと私は考えている。

だがもう今さら変わるまい。ちなみにメジャーというがもうメジャーインデイースの区別など実質的にとっくの昔になくなっている。両社に差があるとすればレコ協がからむかどうか、そして宣伝費の違いくらいなもので、私がみたところこと制作される音楽のクオリテイという面では寧ろ一部のアーチストは逆転しているといっていい。

また世の中が本当に見えているプロダクション、制作会社の社長はもうメジャーインデイースなどというこだわりを捨てていて、それぞれの戦略で生き残りを測ろうとしている。アキバ系に走る会社(イロモノではあるが実はこれ結構オイシイ)もあれば、グラビア系に行くところもある。うちは好き嫌いは別として癒し系、ヒーリングが得意分野となっているのでそこを伸ばすしかないだろう。というわけで癒しの音楽チャンネルというネット放送をはじめ、ヒーリング癒し系の音楽をいかに有効にプロモーションするかについて現在考えている。

とはいえ大多数はメジャーという音楽業界の村社会的な自己満足の肩書きにこだわっている。残念ながらそういう会社は沈み行く音楽業界と運命を共にするしかないだろう。いわゆる有名レコード会社も会社自体は形として残っても実質的機能が死んだ状態になってしまうだろう。

勿論、レコード会社の経営者でもわかっている人はわかっている。だがもはや打つ手がなくタイタニックの船長のように沈没するのをわかっていても何もできない、という状態というのが本当のところだろう。残念ながら2008年はその沈没=滅亡の年になる可能性が極めて高い。

以上のことを前提としてじゃあどうやってこの2008年を乗り切ろうか、ということになる。しかし既成の音楽業界の体制が崩れても音楽そのものがなくなるわけではない。いや、寧ろ我々のような新興勢力にとっては寧ろ都合がよいかもしれない。音楽業界、CDの流通体制という枠内だけで見るから、音楽業界がつぶれても音楽が残るというのは嘘だなどという議論が出てくる。だがそれは違うと私は思う。なぜなら既成の音楽業界はそもそも本当の音楽愛好家の味方にはなってはいなかったのだ。それならそういう体制を作り直すしかない。云うのは簡単だが...

生き残り方は会社によってさまざまだろうが、結局各社の得意分野、特徴を最大限生かすしかあるまい。然る後どうやって音楽をアーチストのファンにいかに効率的に届けるか、それしかあるまい。

あともう一つ、これだけ音楽のファイルコピーが日常化している現状では作られた音楽の内容がかなりよくないと、あるいはアーチストそのものがよほど魅力的でないとそれらの音楽はただの聞き捨てBGMでしかなくなってしまう、ということになる。その場合ネットラジオで充分になってしまうだろう。つまり音楽の、アーチストのクオリテイが高い、本当に魅力的な音楽でないと音楽事業として成り立たなくなってしまう。もしそうだとしたらある意味、これは音楽文化にとって健全化するプロセスといえるかもしれない。あとはプロデユーサーの腕次第だ。

今まではメジャーでも結構くだらない曲が売れた。でもこれからはそういうことはもうないだろう。だとすればこれは音楽文化にとって必ずしも悪いことではない。制作者にとってはかなり大変な作業だが、 自戒をこめて私も自分の作品一つ一つに自分が考える最高のクオリテイの音創りを心がけたいと思っている。だとすれば2008年の音楽業界滅亡は新たな音楽の世界の夜明けになる可能性もある

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2008年1月 2日 (水)

新春コラムーデジタル技術は「コンテンツ制作現場」を理想的にしたか?

明けましておめでとうございます

このブログー音楽制作、音コンテンツの制作者のブログで特に「音楽業界」について述べてきましたが、今回もいささかIT関係者に対してやや刺激的なタイトルになってしまいました。

まあ先日世間にはびこっている「IT革命論」に対して批判的なコメントをした上で、今回のコラムのこのタイトル、これで私を「守旧派、保守派」「昔の方が良かった論者」であるかのようにレッテルを貼られ、私を誤解する人もいらっしゃると思いますので、あらかじめお断りさせていただきますが、私は日常の業務でDTMやDTPを行っている人間であります。MACなどはMac Classic以来20年来のユーザー、ClassicからSE30 Power Mac LCからG3 そして現在のG5 Dualで五台目になる。ほぼ4-5年に一度は機種変更をしている計算になる。
インターネットなどは殆ど中毒状態で長い間ネットやメールチェックしないと不安になる方だ。 ちなみに地上波のテレビは一週間でおそらくトータルしても四時間も見ないだろうが、ネットは少なく見積もってもその十倍の時間は見ている。そんな人間である。

そんな人間なら無条件で現在のデジタル化した社会やインターネットの可能性について諸手を挙げて賛同するであろうと思ってしまうだろう。勿論ネットの可能性やデジタル技術の恩恵などは人に云われるまでもなく人一倍認識している。ネットを含むデジタル技術のさまざまな恩恵については今ここで改めて述べるまでもない。また音楽を職業としている私を含めクリテイテイブな仕事をする人間が、業界の中で最前線で仕事をするためにはデジタル技術、DTM,DTP技術は必要不可欠といってよい。これがないと実際本当に仕事にならない。

尚、ここでお断りをさせていただくが、ここではあくまで制作現場、つまりコンテンツプロバイダーの立場からの視点で述べさせていただくものである。勿論、最終的にはそれはユーザーやそのマーケットにはねかえってくる問題ではあるのだが、クリエーターの生活現場環境が悪ければクリエイテイビテイや作品のクオリテイに悪影響を及ぼすのは必至だ。だがその点について巷にあふれているIT関係の書籍やメデイアに登場するデジタル社会の著作について、的確にその問題点も指摘している文書が驚くほど少ない。特に音楽制作、デザイン、写真等のクリエイテイブな分野の現場についての問題点を指摘した書籍は私の知る限り殆どない。

一般にデジタル技術によってコンテンツ制作の現場では少なくとも2点においてメリットがあるといわれている。

第一点は表現の可能性ー特に映像面においてはデジタル技術によって不可能が可能になった点は多いのは今更いうまでもない。

第二点は業務の効率化である。以前では一日作業だったのが半日で済んだり、といった作業の効率化が大幅に進んだ。当然それはコストダウンにも結びつき、実際大幅なコストダウンが画像、映像、音楽、デザイン等のコンテンツ制作の現場で実現した。これはユーザーにとって何よりのメリットだ。

だが実際にはその本来はコンテンツプロバイダーにとってもメリットであるはずのこの2点の裏にはいくつか問題がひそんでいる。そしてそれがかなり本来「理想的」な環境にするはずだったものが実際には寧ろ逆の方向に状況を誘導している。勿論業界によってやや事情が異なる面もある。特に上記の第一点は映像や画像の表現の可能性を拡大した。(特にCGの分野について) しかし第二点については多かれ少なかれどの業界にも共通していると私は思う。

ちなみに音楽の世界に限って云えば上記の第一点のメリットについては機能しているとは云いがたい。音楽のデジタル技術というとサンプリング音源やシンセ、特にソフトシンセの分野だが、皮肉なことに機材が充実した現代の方が、シンセサイザーや電子音楽の草創期の作品などと比べるとイマジネーションや表現力という点で残念ながらやや後退しているといえる。草創期には機材がなかっただけに作曲家、クリエーターが自分のイメージに合った音楽を作るためにさまざまな創意工夫があった。現代はボタンを押せばプリセットの音源で殆どの場合事足りてしまうという事情があって、プリセットの音源を大幅にいじって新たな音源を、などという工夫をしている人は寧ろ少ない、特に最近は曲制作に締め切り等の時間で余裕がないからかつてのように制作で膨大な時間をかける、ということが難しくなってきている。そのため創意工夫、イマジネーションという点ではこと音楽に関して言えば寧ろ後退しているだろう。寧ろ音の「演出力」という点ではDJ連中の方がよっぽど心得ていると思えるのが、音楽クリエーターの端くれとしては寧ろ悔しい

そして第二点のコストダウンー実はこれが大きな問題なのである。デジタル技術は音楽、写真、映像、デザイン等の制作の大幅コストダウンを実現した。特に90年代中頃からのデジタル技術の進歩は凄まじく加えて90年代末kらの長いデフレ期間は特に出版業界や音楽業界の制作単価を大幅に下げた。これはすなわちそれらの制作に従事している会社の売り上げを必然的に大幅に下げることにもなった。特に音楽業界についていえば音楽業界が好調でピークだった90年代初頭に比べアーチストのアルバムの制作費が大幅に減った

89-94年 一アルバムにつき  600 - 1000万
95-98年 一アルバムにつき  400 - 600万

現在   一アルバムにつき  100万-150万

ピーク時に比べなんと1/10近くである。最近はメジャーレコードでも製品に(!!) (そう、プリプロやデモではなく製品にである)宅録(pro tools等の機材で自宅で作れないかということ)で作れなどと平気で要求するデイレクターもいる始末。それがどういう意味か、わからずに、である。最近のデイレクターはスタジオでもどういう作業をしているのか把握していないで、単なる弁当の手配屋になっている場合が多い。当然こんな状況だから現場で仕事をしているスタッフの収入は寧ろ減っている。

コストダウンはユーザーにとってはよいことである。コストパフォーマンスも重要であることは確かだ。だが、コンテンツは物品ではない。クリエーテイビテイが反映している手作りのソフトである当然コストを過剰に落とせばクオリテイは落ちてしまうものなのだ。そこを忘れている人間が多すぎる

加えて既にこのブログで何回も述べているように音楽業界の慢性的な不況、その状況がさらに事態を悪化させた。

特に仕事によっては一曲千円とか、殆どアルバイト、それもかなり割りに合わないアルバイトの仕事もある。当然そんな仕事はプロがやる仕事ではない。そこそこの利益を出すためには仕事の量をこなすしかないが、量をこなすにしても限界がある。

何度もいうように「コストは際限なく下がる」なんていうのは幻想だ。 コストパフォーマンスには限界がある。加えてデジタル化によるコストダウンの波は作曲家、や音楽家、プレーヤーたちの生活を大幅に圧迫している。私の友人にカメラマンやデザイナーもいるが彼らの状況も似たようなものである。

つまり、デジタル技術はコンテンツ制作現場をどう変えたか?


答え;現場の人間の生活が苦しくなった。 である。



特にほんの一部の人間を除き、作曲家、アレンジャー、プレーヤー(演奏家)などは殆どワーキングプア状態といってよい

ついてにいえば「デジタル化」に対応するために、大幅に設備投資をした上で、仕事の量はたいして減らずに「売り上げが大幅に下がった」というのが実態だ。これはたまったものではない。

しかし残念ながら一度こういう傾向が始まったらもうこの流れはとまらないだろう。デジタル世界は地球全体をフラット化する、というのはこういうことである。これに対処するにはコストカット競争をし極限にコストダウンしたものを作るか、他人と違ったことー何か他と違う付加価値をつけたもので売るかのいずれかしかなくなる。しかしコストダウンはもはや限界を超えていることは明らかだから、やはり自分の仕事にいかに付加価値をつけるかー他人を明らかに差別化したコンテンツを作るかーしか生き残る道がなくなるだろう。

しかし音楽業界、特に日本の音楽業界とはおかしな業界で「他人と違った仕事をする」ことを是としない業界である。特に「売れセン」などというおかしな言葉が使われてから尚更「他人と違ったことをする」ということを極端に嫌うようになった。今の音楽業界はある傾向のサウンドが受けると業界全体がそれのマネをする、そしてそれがマーケテイングという大勘違いをもう十年以上続けているのだ。だがそういった考えではおそらくこれからのデジタル化によるグローバル社会では生き残れないだろう。私は以前から再三再四この点を指摘してきた。

そうした点を見るにつけ私はある結論に達した。デジタル化の波ではコンテンツプロバイダーが生き残るためには請負中心に仕事していてはおそらく未来はない、ということである。勿論そういう請負系の仕事がなくなることはないだろう。しかしそれで一財産を築けるなんてことはありえないし、安い単価の仕事を大量にこなしても「ワーキングプア」の状態から脱しきれまい。特にこの時代を生き残るためには「いかに人と違ったことをするか」「いかに人と差別化できるコンテンツを供給できるか」これしかあるまい。つまりデジタル化というものは、クリエーターの生き方まで大幅に変わらざるを得ない状況を作ってしまったといえる。

クリエーターとして生き残るためには発想を転換しよう。人から仕事をもらうことだけ考えては未来がない。残念ながらそれが現実のようだ。


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2007年8月 4日 (土)

アルバムの無料配布は増える? プリンスがニューアルバムを無料配布

「アルバムの無料配布は増える? プリンスがニューアルバムを無料配布

http://www.mtvjapan.com/news/music/news_music_detail.php?music_news_id=1828

実は私の知り合いで音楽事務所を経営している人間も同じ手法を取り始めている。
まあプリンスほどのアーチストならコンサートチケットも確実に売れるし熱烈なファンもいるし、こういうやりかたも一つの方法ではあるだろう

だが、ちょっと待って欲しい。このやりかたはプリンスのようなアーチストだから、というのもある。若手アーチストでこれからインキュベーションが必要なアーチストをはじめ、誰でもこういうやりかたが有効であるとは限らないのだ。だからこれをもってこれから「全てのCDはこれから無料配布されるだろう」などという議論が出てくるとしたらそれはあまりに早計であり、短絡的である。

確かに最近発表される曲は音質的な部分を含め本当にクオリテイが低い、下手すりゃその辺のインデイースの方がよっぽど高いクオリテイの音を作っている。つまり業界自らが自らの価値を下げていることに気がついておらず消費者からそっぽを向かれているという点もある。しかしそういう議論と今回のプリンスの行動(「ファンに感謝するため」とプリンス本人は説明している)とをごっちゃに議論すると話がおかしな方向に行ってしまう

ここで議論すべきなのは「CDのありかた」そのものである。従来のようにCDが音楽を商品として売る唯一の形態というビジネスモデルに固執するのではなく、「グッズ」としてのCDのありかた、今回のプリンスのような広告の世界でいう「ノベルテイ」的なありかた両方が今後ありうるということである。つまり音楽の商品や売り方が既に多様化しているにも関わらず、従来の形に固執する業界、そして市場の「適正価格」と明らかにずれた現在のCDの価格帯、これが大きな問題であるということである。

もしかしたらプリンスはそうした旧来の形にこだわり業界を皮肉っているのかもしれない

私はレコーデイング現場主体に仕事をしてきた人間なので、苦労して作った音楽(皆さん、音楽なんてそんなに簡単に作れるものではないんですよ)をタダで売るというプロセスに個人的には抵抗がある。「作る」という作業がどんなに苦しく大変な作業であるかを知っているからだ。しかしその私もCDという商品形態が音楽ビジネスの主役であることに大きな疑問を感じ始めている。

そこで今、ハードに音コンテンツを組み込むという作業を行っている。CD以外のマーチャンダイス商品を考えるしかないと感じているからだ。

CDはなくなることは(たぶん)ないと思う。だがCDのありかた、存在意義が変わっていくことはもはや避けられないだろう。

Apple Store(Japan)


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2007年3月 2日 (金)

私のコラム「なぜ私は音大へ行かなかったか 」に関して

私の2006年3月21日以前に書いたコラムのページ
http://homepage1.nifty.com/hyb-music/column.htm

この中にコラム「なぜ私は音大へ行かなかったか 」というコラムがあります
http://homepage1.nifty.com/hyb-music/m_school.htm

これは私がかつては音大受験を目指したもある事情で断念した背景を説明しそれに関して日本の音楽大学の現状に関して批判記事をかいたものである。なかにはあえて音大関係者にはやや刺激的な表現も盛り込んでいるがこれは一向に現状を改革しようという意図が音大の特にトップの人に見えないためあえてそのような表現を盛り込んだものである。

このコラムはもう掲載してから5-6年はたっておりあまりに昔に書いたものなので私も書いた正確な日にちは覚えていない。そしてこのコラムに関して何人かの音大生等から反応があったがどちらかというと内容に賛同したり等ポジテイブな反応が帰ってきてやや拍子抜けしていたが、先日音大関係者と思われる人物よりある反論が私に送信された。残念なことにその人物は自分の名前、ハンドルネームすら名乗っていない。そのため本来なら無視していもいい発言なのだが、問題の本質をやや突いている部分もあるのでその発言の主旨と私のそれに対する応えをここに掲載しておきます。これが今の音大及びクラシック音楽の教育に関してある問題提起、一石を投じることになればそれなりに意味があると考えた上でのこのブログの掲載です

尚、この人物非常に残念なことに私の回答に関して何も返信して来ていないのがとても残念である。文章はだいたいの主旨をまとめた形で公開させていただきます。
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「殆どの音大生はアドリブができない」「クラシック音楽以外の音楽に無知である」
この表現に関してこの発言者は「クラシック音楽は「再生芸術」であることを理解していない発言だ、「再生芸術」にアドリブなど必要ない。音大生がクラシック以外の音楽に無知だというのならあなたはクラシック音楽に関してあまりに無知だ」という主旨の発言をメールで送信してきました。

それに対する私の反論は以下の通りです

まずクラシック音楽が現在「再生芸術」であることくらいわかっております。ここで私が問題としているのは、我々が「クラシック音楽」と呼ばれている音楽は「最初から再生芸術だったのか」という点です。私はそれはNOだと思います。なぜならさまざまな資料から少なくとも19世紀中頃までは演奏家や作曲家の「即興」というのは間違いなく行われていることがわかっています。ショパンは「私の楽譜の裏の意味をわかって欲しい」といっていますし、リスト、パガニーニは即興の名手でした。あの古典的なイメージの強いブラームスですら、酒場でのピアノのアルバイト時代はかなりの即興の名手だったことがわかっています。(楽譜なしにどんな曲も瞬時に弾くことができたという記録が残っています)。
つまり少なくともリスト、ブラームスが生きていた時代までは我々が「クラシック音楽」と呼んでいる音楽は「再生芸術」ではなく「表現芸術」であったといって差し支えないのです。

それがだいたい19世紀末から20世紀の始めにかけて作曲家と演奏家の「分業化」が始まりました。と同時にご存じSachlich 注*(=即物的)なー楽譜に忠実に弾くという考え方が広まり、演奏家が即興するなんてとんでもない、などという価値観が急速に広がりました。これは作曲技法が複雑化したというのもありますが、20世紀に入り作品の初演に作曲家自らが演奏するということがだんだんなくなりました。(ただしバルトークなどは健康を害した晩年を除きピアノを使った大半の曲を自分で初演していました)そして現在に至っています

つまり私がいいたいのはかつて「表現芸術」であったものが現在「再生芸術」となっている。しかもその「即物的に楽譜に忠実に演奏する」方法があたかも作曲者の意図に忠実な唯一の正しい演奏方法であるかのように誰もが思っている、思わされている。私はそれに対して疑問を投げかけています。なぜなら「表現芸術」の演奏と「再生芸術」の演奏には自ずと表現の説得力に違いが出るからです。

演奏というのは本来は表現芸術であったはずです。それがいつのまにか「再生芸術」になったとたん、演奏に面白みがなくなったと感じた人が多いのではないかというのが私が提起した問題です。バッハの時代などは通奏低音だけで「好きなように弾くように」という感じで五線紙が空白なものがたくさんあります。リストの「ラカンパネルラ」はリストが即興で作ったものを楽譜にしたものです。私はその点を問題にしていることがおわかりいただけるでしょうか?

注:*Sachlich (ドイツ語)ザッハリッヒードイツ語で即物的のことをいう。特に「新即物主義」という芸術思潮が20世紀初頭ー主に第一次大戦儀に入り起こり「飾りめいたものを取り払って、物自体を描写していこう」という芸術運動がおき、演奏でも「余計な演奏はしないで、楽譜自体をそのまま忠実に弾こう」という意味になる。つまり「新即物主義」ーNowe Sachlichkeitに即した演奏とは即興や装飾的な演奏そのものを否定するものである。この運動を境にクラシック音楽は「再生芸術」と化した。
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ここに私は今の音楽教育の基本問題があるように思う。私見ではSachlichー「新即物主義」は第一次大戦後にヨーロッパで起こった一芸術運動に過ぎない。いってみれば過去の芸術思想である。その芸術思想に基づいた音楽の演奏法を100年以上も続けていることに誰も疑問を持たないのが私は不思議でならない。

何度でもいう、19世紀の作曲家・演奏家は間違いなく即興演奏をしていたのである。記録はいくらでも残っている
それがドイツの「新即物主義」以降そうした即興演奏を「悪」として、かつて「表現芸術」であったものが「再生芸術」になった、しかもその「即物主義」的な方法論こそが作曲家の意図を「正しく再生」する唯一の方法だと誰もが信じて疑わない。実際その演奏方法でバッハやモーツアルトやベートーベンが本当に喜ぶのだろうか?何か音楽の根本の部分を忘れていないか、と思うのである。

なぜ「新即物主義」的な演奏が定着していったのか、その原因を考えるに要は
1.新即物主義的な方法の方が演奏技法を指導しやすい。
2.方法論を「規格化」できるためアカデミズムを構築しやすい

という2つの原因が考えられる。つまりこの方法論の方が指導するのに楽だからというのが主な理由ではないかと思うのである。(反論のある音大の先生はいつでもコメントしてください)

私が音大を受験しようとしている時に「表現する」ことに関して否定的な指導されたことが私自身どうにも納得がいかなかった。ジャズやロックは「表現するのが当たり前」な音楽表現なのにクラシックはその「表現する」行為そのものを否定した。しかしモーツアルトは自分の演奏を本当に「ただ再生」していただけだろうか?

このコラムはそのことに関する問題提起でもありました。

いずれにせよ、16小説ソロを弾きなさい、コード譜はこうです、といってソロが弾けるようでないと少なくともポピュラーの世界でプロは務まりませんよ。ということはもう一度云って置きましょう。ちなみに私は音大出でもちゃんとアドリブやソロが弾けるプロフェッショナルな人たちをおおぜい知っています。

最後にこの記事の主旨とは関係ないがこの発言者、あまり感心できない発言もしている。私はこの発言にあまりに呆れてこの項目には触れる気がしなかった。発言の主旨は「音大を批判するなら音大を出てからにしろ」というもの、つまり音大出でない限り音大を批判するなということだが、外部からの批判を受け付けない、声に耳を傾けない体質があるとしたらこれは問題だと思いませんか? 私は日本の音楽文化が良くなってほしい、そのためには音楽の教育機関にもう少し時代に即した教育をして欲しいと願ってのこのコラムだが、音大卒でない奴は黙ってろということならこれは非常に傲慢な発言といわざるを得ない。これでは日本の音楽教育の明日は残念ながら暗い

せっかく問題の核心に触れる発言をしながら残念ながら最後の部分でこの発言者のレベルがわかってしまったのが残念である、

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2006年12月27日 (水)

[コラム」モーツアルト記念の年の最後ですがいわゆるモーツアルト効果について

以下のコラムは2年ほど前に私のメルマガの「Kyojiの音楽談義」に掲載されていたものです
今年はモーツアルト生誕250周年に当る年でその年末ですが念のためこのコラムを掲載した方がよいと思いここにも掲載します。尚、最後の部分は今回掲載するに当って一部加筆いたしました
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もうだいぶ前ですが北野武の番組で「モーツアルト効果」なるものが紹介されて、大反響だったようです。この「モーツアルト効果」というのはモーツアルトの音楽を聴くと単にリラクセーション効果だけでなく発想力や思考力が高まるといった内容でフランスの医師、ドンキャンベルが提唱したもので、それがたけしの番組でまことしやかに流れたものだから、大変な反響で発売元にユニバーサルはうれしい悲鳴を上げたとかという話です。

 私自身、モーツアルトの音楽は結構好きですが、しかしながら私自身はこの「モーツアルト効果」というものには懐疑的です。モーツアルトの音楽の特徴としてよく揚げられるのは

1 ダイナミックレンジが狭く、テンポの変化も少ないのでリラクセーション効果はある。
2 わかりやすいメロデイと高い芸術性が見事に融合している
3 音楽の構想が精密で厳格なため逆に展開も予想しやすい

といったものが揚げられます。ドンキャンベルはこの3つの要素が人間の思考を高めるといっていますが、まず1については殆どのニューエージ、環境音楽からイージーリスニングも同じ音楽の特性を持っており何もモーツアルトに限ったことではないと思っています。それに私が最もおかしいと思っているのはキャンベルが推奨しているモーツアルトの音楽のリストがあるのですが、その中の曲でテンポでかなり早い曲―たとえばプレストのような超早い曲も入っていることです。これは音楽療法の基礎である同質の原理を全く無視しており、人間の脈拍より遥かに早い曲をリラクセーション効果のある曲として推奨していること自体、このキャンベルという人は音楽療法の基礎をあまり知らないといわれても仕方がありません。どうも私の見たところ単にキャンベル氏の好みで曲を揚げているという風に考えた方が自然です。(ちなみにキャンベル氏はフランスのモーツアルト協会の理事もやっています)

2についてはモーツアルトの天才たる所以だと思っていますが3に関しては私は異論があります。モーツアルトは確かに音楽史上は「古典派」といわれ音楽の形式はきちんとはしていますが、それを持って展開が「予想できる」というのはあまりにも表面的な解釈しかしていないように思います。いずれにせよ上記の2,3が人間の頭脳、発想力をよくするという根拠は私にはまだ曖昧に思えます。
 実はモーツアルトに関してはこの「モーツアルト効果」だけでなくうつ病によいとか、胎教によいとか何かと音楽療法の議論の時に出てくるのですが、どうもすっきりしないものを感じるのです。モーツアルトの音楽の何曲かは確かにリラクセーション効果があるのは事実です。それを否定するつもりはありません。(但しモーツアルトであれば何でもよいとは限りませんけどねードンジョバニの幽霊のシーンとか、トルコ行進曲とかをリラクセーション効果があるという人ははっきりいって頭がおかしいと思います) しかしモーツアルトの音楽だけがリラクセーション効果があるわけではありません。

私の音楽コラム「ヒーリングCDとその効果について」にも書いていますがお医者さんにはなぜかクラシック好きな人が多く、彼らが音楽療法について語る時にどうしてもクラシック音楽中心になってしまうのがどうも私はなじめないのです。特にキャンベルの本を読んでいると、どうもきちんとした科学というよりはキャンベルの個人的趣味からモーツアルトといっているような気がしてならないのです。

<加筆>
先日NHKの視点・論点「まん延するニセ科学」という番組を見ました。
http://www.youtube.com/watch?v=9LNRYsyWgEY

見かけは科学のようで実は全く科学的ではないものの情報が氾濫しています。どこどこの大学の先生が云ったからといってそういう情報をあまり鵜呑みにししない方がいいのではないでしょうか?

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2006年10月15日 (日)

レビュー Sting"Songs from the Labyrinth"

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僕は休日の朝にバロック音楽やルネッサンス音楽が無性に聴きたくなるときがある。15-17世紀の音楽を聞きながらコーヒーを飲んでリラックスする。あわただしい毎日を忘れさせてくれる一時である。

そうした中Stingがイギリスのルネッサンスの曲を歌ったアルバムがあったので聞いてみた。主にジョンダウランド(1563-1626)の作品を歌ったものだが紹介には17世紀の作曲家となっているが、実際にはダウランドは16世紀にはかなりの作品を発表している。

実はダウランドやトマスモーリー等イギリスの古い音楽を聞くとわかるが、今のポップミュージック的なエッセンスをたぶんに含んでいる。ダウランドなどはその代表でこの時代の人間には珍しく宗教曲は殆ど書いていない。音楽史研究家はダウランドのような作曲家の曲を世俗楽曲(宗教曲と区別するためだが)などという実に厭な呼び方をされているが、リュート奏者兼吟遊詩人というのはまさしく現代でいえばシンガーソングライターそのものである。イギリスが現代のポップミュージックにこれだけの実績を作れたのもやはりこういう下地があったからではないだろうか。

実際ルネッサンスの曲をStingが歌っているという予備知識がなければこれらの曲はStingのオリジナルだと思ってしまうだろう。歌詞も一部を除けば口語調なので現代の英語とあまり変わらない

そういえばグリーンスリーブスをS&Gが歌っていたのを思い出した。よく知っている曲なのにあたかもS&Gのオリジナルに聞こえた。

またキングスシンガースがビートルズナンバーをルネッサンス風に編曲したのも聞いたことがある。全く違和感がなかった。S&Gもビートルズも結局はイギリスの音楽の伝統の延長上にいたということができる。

聴いていて実に心地よい一時を過ごしたがこういうアルバムを安易に「癒し系」などとは呼びたくない。最近はダンス系かハードロック系以外、静かな曲はみんな安直に「癒し系」とカテゴライズされてしまうが、このアルバムは純粋にアコーステイックにルネッサンス時代の昔のポップミュージックを楽しむという聞き方をしたい。

興味ある方はこちら,

Sting"Songs from the Labyrinth"

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2006年7月26日 (水)

コラム「音楽業界の現状と将来、そしてある取るに足りない者からの業界への提言」(長文注意)

今月に入り一段落していろいろと頭の中の整理を行った

ご存じの通り私は作曲家/編曲家/ピアニストであり音楽制作会社の代表でもある。音楽業界でもう22年間仕事をしている。その音楽業界はご存じの通り7年連続売り上げが前年割れという異常な事態にある。他の業界を見渡していてもここまで長く低迷している業界は他にない。先日の東芝EMIの大幅リストラの話は記憶に新しい。

しかし音楽業界というのは実に不思議な業界で、これほど長い間低迷しているにもかかわらず業界のやりかたを根本から考え直すという動きが殆どない。それどころかmixiのあるコミュで業界関係者から耳を疑う発言を目にしたことがある。「バブル時代より今の方が健全じゃないか、どこが悪いんだ」ー7年連続売り上げが落ち込んでいる業界の人間の発言である。 そしてどうやらこの考え方は決して業界では少数派ではないようである。いかに不思議な業界であるかこれだけでもおわかりだろう

この7年連続前年割れの原因のほぼ全てを、現在音楽業界のトップの人たちは「CDコピー」やインターネットのせいにしている。尚、私はこれが売り上げが下がる一因にはなっていることは一応認めてはいる。認めてはいるがこれだけで7年連続前年割れになるとは到底思えない。やはりもっと根本的な所が間違っている。時代のニーズ、社会の新しい動きに対応できていないのが原因だと私は考える。そうでなければ7年連続前年割れ、などという状況になるはずがないのだ。

では新しい時代に対応した音楽業界のモデルとは何か、その答えを探しつつ私は日本最大のSNSmixiで「音楽業界の未来を考える会」というコミュを主宰し、何か答えがないか考えてきた。特にインターネット、音楽配信、ネットラジオ、ネットTVとこれからの業界のありかた、絡み方について考えた。

しかしその関係の結論からいうと、少し皆さんを失望させるかもしれない。 というのはビジネスモデルの基本的な部分は残念ながら「おそらく変わらないだろう」というのがいろいろやっているうちに導き出された結論だからだ。
但し、いろんな面で発想の転換が必要になる。というのはやはり同じビジネスモデルの中でも時代の動きに適応していないものは排除もしくは淘汰されるべきだと私は考えるからだ。実はそういうものが音楽業界の発展を明らかに阻害しているからである。

しかし同時にこの業界のありかたについて考える時、改革派の方にも落とし穴がかなりある。例えば

落とし穴1−IT革命によって業界は変わる


実は私はこれに最も大きな期待をかけていた。IT革命論者の多くはネットが全てのメデイアを凌駕し、世の中の全てを変えると触れ込んだ。勿論ネットが普及して8年余り、確かに世の中のいろんな面は変わった。ホームページが当たり前になり、以前ではなかなか出会えなかった人たちとのコンタクトが取れやすくなった。私自身もこのネットを活用して大きな収穫を得た一人である。
しかし

残念ながらPCがネットの中心である限り「革命」というレベルまでいくことはないだろう。PCの普及台数は既に飽和状態に達しつつあり今後劇的な影響力の変化は起きにくいと思われる。(私はここ数年間の「変化」については肯定的に受け止めているし、その変化を認めていないわけではない)

また一部のIT革命論者が信じて疑わなかった「ネットが地上波のテレビの影響力を凌駕する」という見解も残念ながらそこまではいかないだろうというのが私の結論だ。確かに地上波のテレビの影響力は下がっており見る人はこれからも減ってはいくだろう。だが2011年のテレビ全面デジタル化(予定通り行われるかは疑問だが)になってもおそらくは変わるまい。なぜならネットはパーソナルなメデイアであって本質的にマスメデイアではないからである。 つまりテレビ=大衆性、 ネット=個人性 、テレビ=情報に受動的、ネット=情報に能動的、この図式は変わらない。そのため両者は共存するが片方が片方を凌駕するというのはおそらくないだろう、両者は本質的に全く別のものであることは認識しておいた方がいい。実際問題として情報に受動的な人と情報に能動的な人ではまだまだ前者の方が圧倒的に多いのが実情である。そして日本人特有の「何かあるかな、面白そうな事。」っていう、日本人の 下世話な国民性、自分の考えの前にまず他人の顔を見る国民性、これが変わらない限りは少なくとも日本においてはマスメデイアがなくなる,ネットの影響力が地上波を上回るということは残念ながらないだろう。

それに冷静に考えてみるとわかる。ネットは確かに影響力が上がっている唯一のメデイアではあるが、テレビ、ラジオ、雑誌等の紙媒体等、たくさんあるメデイアの中の一つに過ぎない。そろそろ"IT熱"から冷めて冷静にネットというメデイアについて考える必要はあるだろう。あまり過剰な期待をネットにかけない方がいい。期待しすぎると必ず失敗する。

但しネットが最も手軽でしかも安くプロモーションができるメデイアであることは事実である。またネットでの有効なプロモーション方法のノウハウを身につければかなり効率的にプロモーションができるだろう。個々の手法については事務所のノウハウに関係するのでここでは触れないが、以前私が「マネーボール」で書いたようなお金のかからないプロモーション方法をやるならはやりネット経由だろう。もうすでに下手なラジオ局のプロモーション力よりはネットは勝っている(如何に日本のラジオがだらしないかということにもなるのだが.) しかしそのためにはネットでのプロモーションで現在レコード協会やJASRACによる様々な規制を撤廃してもらう必要がある。現在メジャーアーチストがネットラジオやネットでプロモーションには規制が多すぎて有効なプロモーションができないでいる。現在経団連で「ネットでストリーミング可能なサーバーでの演奏は放送とみなせ」という提言をしているが日本レコード協会やJASRACの猛反対で頓挫している。ストリーミングサーバーならコピー不可能なのになぜこれにも反対しているのかわからない。ネットプロモーションそのものを否定しているとしか思えない。とはいえ、これもいずれは変わっていくものと思われる。変わっていかざるを得ないだろう。

一方ネットで有効なプロモーションをするにはネットのみでも不十分だ。ネットと他のメデイアとの連動、リアルば部分での連動があって始めて有効なプロモーションになる。いずれにせよ過剰なネット信仰は禁物だ

落とし穴2-メジャーとインデイースの差はなくなる。

表面上はその方向に行っているように見える。数例はまだ少ないがインデイースでも下手なメジャーより売れているアーチストはいる。また先日の東芝EMIの例を述べるまでもなくメジャーレコードメーカーの多くは実質的にただのデイストリビュータに成り下がり、辛うじて制作部を残している会社でも制作体制は大幅に弱体化した。これだけ見るとメジャーとインデイースの差はなくなっているように見える。しかし「メジャーなんかになりたくない」と云っているアーチストは実のところ少数である。なぜかというとこの日本という国にはもう1つ見えなくて、しかもやっかいな障害があるのだ。

確かにライブイベント、ツアー等の手売で何千枚売れたらおいしいし全部自分たちの取り分になるからそれを考えると流通で半額以上持って行かれるのは馬鹿馬鹿しいと思うのはわかる。しかしそうやって売れてもこの日本という国は「記録」に残らないのだ。それは単にネット販売の集計方法がないというだけの問題ではない

日本人には「ブランド信仰」がある。海外でブランド品を買いあさるのを見てもいかにそれが強いかがわかる。残念ながらいかにメジャーが落ちぶれたといっても「腐っても鯛」というのが実情である(数は減るとは思うが)。そして残念ながら今後もそうあり続けるだろう。テレビ局、メデイア局に行っても、インデイースアーチストで何十万枚売れようが、一般の待合室追いやられ素人扱い、千枚程度しか売れない「メジャーアーチスト」だとVIP待遇されてしまう。おかしい、と思うだろうがそれが現実である。いくらインデイースやアキバ系の娘たちが手売りで何千枚売ったとしても公の記録に残らない以上信用されない。社会上認知されない。残念ながらそれが現実だ。従っていくら「メジャーなんかバカバカしくてなれない」といっても少なくとも「社会認知上は」単なる自己マンに過ぎないと思われてしまう。(私自身はそう思っていません、念のため)

勿論本人たちがそれで満足しているのならそれで一向にかまわない。しかし実質的にそれで頂点にたつのは、たぶん、難しいだろうと思われる。なぜならアーチストというのは「ブランド」にならないといけないからだ。しかし社会認知をされない「ブランド」などありえない。残念ながらこの現実は重い。この「障害」はどうしようもなく乗り越えるのはきつい、日本人のブランド信仰体質が変わらない限りは....
実は日本人の国民性というのが結構障害になっている面があるのは否定できない。

落とし穴3-音楽配信でCDがなくなる。

実はいまだにこれに関する見方は別れている。結論からいうと私はCDパッケージはなくならないと考えている一人だが、一部の人はCD自体がなくなると考えている人も少なくない。
要はこれからの音楽業界は「音楽配信」が主体になるのか、CDが主体になるのかという話になるとこれは難しい話になる。正直いって将来はどうなるかは私にもわからない。しかし現在のPC中心の音楽配信環境ではまだ音楽配信が伸びているといっても採算レベルではまだない。i-tunesがあれだけのアーチストを揃え、あれだけ宣伝しても大もうけはしていない。あの程度なのだ

だがポイントは何といってもモバイルである。現在携帯各社がそれぞれ大手の音楽配信サイトと組もうとしている。
携帯とi-podやmp3プレーヤーが合体し、無線LANなみの通信速度になれば音楽配信が現在以上に飛躍的に上昇する可能性がある。その時始めて音楽配信が商売になるかもしれない。

しかしそうすると結局、各携帯キャリアとの提携が可能になった音楽配信サイトが生き残り他は淘汰されるということになるだろう。となると、結局ここでもインデイースだけの音楽配信サイトの今後はきつい。

いずれにせよ音楽配信がどの程度の比重をしめるか、だがCDがなくなることはないだろう。なぜならアーチストを
愛する人たちというのは確実に存在するから、この点はあとで述べる


以上音楽業界の未来を考える上での3つの落とし穴について述べたが、この3つを読むと結局何も変わらないじゃないか、という風に思うかもしれない。だが実は音楽業界の今後を考える時IT、ネットやシステム中心に見ると少し惑わされてしまうかもしれないと最近思うようになった

音楽業界低迷の原因

勿論インターネット社会に今の音楽業界は充分に適応しているとは言い難いのでそれも低迷の原因の1つでないとはいわない。しかし低迷の原因はもっと基本的な,根本的な点にある。それにはここ十年くらいやってきたことの大部分をある意味否定しなくてはならない。

原因1-マーケテイングミス

音楽業界は今まで10代後半ー20代の若者をメインターゲットに商品開発をしてきた。しかしこの若者世代は減って来ている。にもかかわらずこの基本的マーケテイング方針を変えようとしていない。まさかいまだ日本という国の少子化の傾向を知らない人は少ないとは思うが念のため総務省のデータを示そう
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2004np/

しかもこんなデータもある。厚生労働省のデータだと15歳ー29歳の若者でフリーター(無職)なのは337万人にも上る。これはこの年代の若者の約5人に1人に当たる。

http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/3450.html


つまり

この年代は基本的に金がないのだ


この金のない世代が携帯には万単位の金を使っている、その連中に\3000のCDを買え、というマーケテイングをいまだに続けている。ファッション業界やゲーム業界は既にメインターゲットをミドルからその上の年代にシフトをしているが音楽業界は全くといっていいほどその動きを示していない。他の業界に比べてマーケテイング戦略が遅れているといわれても仕方がないところだ。

既に日本レコード協会(RIAJ)のデータでは30代以上が10代ー20代のCDの購買数を上回っているのがデータで証明されている

http://www.riaj.or.jp/report/mediauser/pdf/softuser2005.pdf

にもかかわらず相も変わらず10代ー20代のみをターゲットとした基本戦略を変えようとしない。これは実に不思議なことである。特にフロントラインの商品で30代以上をターゲットとした商品は殆どない(強いていえば綾小路きみまろ、くらいーちなみにこのアーチストのCDを買っているのは殆ど40代以上の「おばさん」たちであるーそしてきみまろは今一番日本でCDを売っているアーチストでもある)

15-29歳の世代はこれからどんどん減っていく。少子化が止まらない限りこの傾向は続く、つまり奪い合うパイはどんどん減っていき、業界はまずまず小さくなっていく。そのことを理解できない人間が多いのは実に不思議だ

原因2-ファン獲得のミス

私事だが今年の3月から6月にかけてかつてのアイドルリリーズの復活プロジェクトに関わった。主にサウンドプロデユーサー、アレンジャーとしてチームに加わったわけだがそこで私は驚くべき現象を目にした。ご存じの通りリリーズは21年のブランクがあって復活したわけだが、その復活ライブ"Fantastic Forest"を見に行くのに何とわざわざ北海道や九州からファンがそのライブを見に来るためだけに駆けつけてきたことである。それも一人や二人ではない、相当数がわざわざ遠いところから来たのである。
大変失礼ながら現在一世を風靡しているレコード会社A社のアーチストがもし21年もブランクがあったとしたらその
復活ライブにファンがそこまでして駆けつけるだろうか? おそらく失礼ながら存在すら忘れられる可能性の方が高いと思う。

ところがここ十年ばかりで音楽業界はメーカーもプロダクションもそういった人たちを「ただのコアな層」というひとことで片付けてしまい、こういう熱心なファンを大事にしなくなってきているように思う。21年ぶりのライブを見に行くためだけに北海道や九州、全国から駆けつける、本当に心の底からそのアーチストを愛していなければできない行動である。そういう人たちをなぜ大事にしなくなってしまったのだろうか?

私はファンには大きくわけて3種類あると考えている
A層:いわゆるコアな層: アーチストの真のファン アルバムは必ず買ってくれコンサートにも極力来てくれる人たち
B層:中間層:コアというほどではないが一定の関心は持ってくれる層;CDもできがよければ買ってくれる
C層:いわゆるミーハー層 真のファンにはならないが「流行っている、みんなが聞いている」というと買う層
   数的にはA層、B層に比べ圧倒的に多い

私はこれが音楽業界が犯した最大の過ちだと考えているが、ここ十年でいつのまにかC層しか見なくなってしまったのではないかと考えている。理由は単純にC層が一番多いから、そこだけ相手にしていればプロモーション上は楽だからだ。あとは広告費を可能な限り流し込んであたかも「ヒットしている、流行っている」環境を作ればいい。そうすればC層のかなりの部分が買ってくれる。こういう考えでずーっと来ていた。しかしそのため若手アーチストを見ても、仮に前のCDがそこそこ売れても結局A層、B層というコアのファン層が育たなかったため、次の新譜の時にまた実質的に0からのスタートとなる。そのためまた膨大な広告費を投入して、なんてことを繰り返す、そのうち疲弊してしまう。その繰り返しではなかったかと思うのである

勿論、口でいうのは簡単だ。インデイースとか同人誌系アイドルや声優等はA層が主体になっているが、実はA層を広げるというのはとてつもない労力と手間がかかる。音楽業界はいわば「タイアップ至上主義」に慣れすぎてしまい「楽なやりかた」に慣れすぎてしまった。「面倒くさい」「手間のかかること」を極端に嫌うようになった。実際熱意、情熱を持ってアーチストをプロモーションしようという人間が少なくなってきている。全て金だけで解決がつくようにする習慣が身についてしまったからだと思われる

リリーズがアイドル時代のプロダクションにはこうした「地道な」「泥臭い」やりかたがまだ存在していたし、それをやったからこそ「コア層」が育っていった。こうした原点に帰ったアーチストの育て方を今一度見直すべきではないだろうか?

汗水たらしながらがんばるのはダサい、面倒くさい、泥臭いやりかたする奴はバカだーこういう考え方はバブル時代の日本の負の遺産だと思うがまだそういった考え方が根強く残っていないだろうか?

問題はアーチストをプロモートしたいという熱意である。楽なことではない。特に小さなプロダクションにとっては、アーチストと心中するくらいの意気込みが必要である。しかしそのくらいの覚悟がないと今後の発展は望めない


原因3-いまだにSeller's Marketにこだわっているミス

まず他の業界に目をやってみよう、この十年間で何が変わったか? 価格破壊、規制緩和、異業種交流、etc etc これらの言葉で共通することは何か?
そう。どの言葉も「音楽業界」に当てはまらない。という点である

ここ十年でまだ不十分な所はあるにせよ、日本はSellers MarketからBuyers Marketにある程度移行したと考えていいだろう。しかし音楽業界は「守られて」きた業界であり現在も殆どの経営者が「守り」に入っている。

特に日本レコード協会が必死になって守ろうとしている再版制度だがこれも実質的になくなる方向に動くだろう。
しかし私は必ずしも悪いことだとは思っていない。というのは再販制度廃止というのは価格の自由化を意味するが
確かにかなりのタイトルの価格が下がっていくだろうが、コンテンツやアーチストの付加価値を如何につけて売るかという企業努力の温床にもなる。うまく付加価値をつければ逆に価格を上げることも不可能ではない。極端な例を挙げれば1枚1万円のCDを出すことも可能なのだ。再版制度だとそれはやりにくいが価格自由化になればそういうこともありうる。要は如何にコンテンツに付加価値をつけるか、だ。頭の使い方次第、この業界頭を使う習慣がなくなっているがこれからは必要であると思う。

勿論、CDのようなソフト、コンテンツは一般の物品をデイスカウントショップで売るケースと全く同じわけにはいかない。なぜならソフトは権利ビジネスである知材だからである。そして先ほど私は「CDコピーが業界低迷の原因でないとはいわない」とわざわざ言ったのは、確かにこの知材に対してお金を払わない体質がこの日本という国に厳然と存在しているという事実である。例えば同じ文房具でもキャラクターがつくと高くなる。これはキャラクターの権利料が付加されるからだが、その「権利料」というものを理解できない人間が少なくないのも事実である。勿論中国などはいうに及ばずアジア全般にこういった傾向が強いのだが、この「知的所有権」に関する意識が低いままでいる状況は何とか変えないと今後日本がこれからの国際競争力を養う面で非常に不利になっていくことは明らかである。音楽をはじめソフトウエア、コンテンツは「知材」でありそれらは確かに形のないものではあるが立派に商品なのだ。このことに関する啓蒙は私は必要であると考える。

従って、他の業界のような価格破壊は起こらないかもしれない。しかし大事なことは>「消費者に選択の余地を与えること」である。例えば店頭で新譜を試聴させる、最近でこそようやく行われていることだが、これを導入する時でさえ業界は猛反対した。現状ではユーザーが音楽を普通に探すためには選択の余地がまだまだ少ない。I-tunesがまだ採算ベースまで行っていないとはいえユーザーに好評なのは全曲試聴が可能だからである。しかしこの「試聴」というものに対しては音楽業界の人間は極めて否定的な人間が多い。しかしユーザーに買ってもらうためには商品を理解してもらうことが必要であろう、その商品の良さを理解してもらう努力をしなくてはならないのだ。ゲーム業界などはオンラインゲームで一定限度無料にすることによって逆にファンを獲得し、今では業績がかなり回復してきている。なぜ同じことが音楽業界でできないのか。そこの所の頭の切り替えは必要性を私は提唱したい。

ちなみに先日の東芝EMIが大リストラした件は同社が最後までCCCD(コピー不可能なCD)にこだわったことが消費者の反発を招いたという説がある。セラーズマーケットにこだわっても消費者の反発をくらったらこういうことになる一例ではないだろうか。なぜCDが売れないかーそれはまがりなりにも消費者を味方にしていないからである。ここ十年の間に業績が急成長した会社はほぼ例外なく消費者にFriendlyな営業方針を貫いている。音楽業界もそういう方向に転換すべきだろう。でなければ本当にこの音楽業界自体が事実上滅亡するかもしれない。

取るに足りない者からの音楽業界に対する提言

長々と書いてしまった。まあ私のような一介のアレンジャー・作曲家のいうことなど取るに足らないと云われるかもしれないが、私は心の底から音楽の世界を愛しているからこそこういう発言をブログに書いている。そしてこの年々悪くなっている状況に対していてもたってもいられなくなっているというのが真実だ。私の業界に対する影響力など微々たるもので、現状を肯定しようとしている人間は無視するかもしれない。(実際現状肯定派がこの業界の大多数を占めている現実がある)、それでもあえて今までのことを踏まえた上で以下の提言を行いたい。

1.アーチスト+ファン手作りの勧め

「地道に」という言葉はこの音楽業界ではものすごく嫌われる言葉である。しかし私はやはりアーチストとアーチストを本当に好きなファンとでいっしょになって大きくなっていくシステムによるインキュベーションが必要だと考える。理想論だと笑う人がいるかもしれない。しかし先ほどのリリーズの例にもあるように「コアな層」こそ大事にすべきという発想の転換をしないと次世代のアーチストはいつまでたっても育たないであろう。確かに時間もかかる、リスクも半端ではない。大手プロダクションならともかく、小さいところはとてももたないかもしれない。
そこで提唱したいのは

1.リスクシェアリング
1つのプロダクションで全てリスクを負うのではなく、プロダクション、制作、アーチストがリスクを分担する
いうまでもないがリスクをシェアするのだからレベニュー(収入)もシェアする

2.アーチストも含め全員がスタッフである
プロジェクト成功のため、全員がプロモーションや運営に協力するスタッフという意識改革をする
私もリリーズのプロジェクトにはプロモーションに協力していたが、ただ「雇われた」という意識ではない
かかわりかたが必要であろう。勿論アーチストだから運営に何もしなくてはいいということにはならない。

3.ファンクラブ、ファンあってのアーチストである
これが基本でしょう。時々勘違いで自分の力で大きくなったと考える愚か者がいるがそんな人間は長続きしない
支えてくれるファンによって活動できる自分がいることは、アーチストは勿論、プロダクションスタッフ側も絶対に
忘れてはならない。活動するにしてもファンクラブと連動しお互いが大きくなっていく。これは本来基本のはずである

こうした手作り感覚を本当に今は忘れられている気がしてならない。今こそ原点に帰るべきではないのか

2.「売れセン」放棄の勧め

だいたい90年代中頃からだろうか「売れセン」なんて言葉が使われ始めたのは、勿論発売する以上は売れなくてはならない、当たり前の話だ。しかし実は「売れセン」なんてものは存在しないのだ。要はあるメーカーであるジャンル、スタイルの音楽がヒットするとその二番煎じ、三番煎じが出る、ということを繰り返してきた。そしてそれがマーケテイングだなどという大勘違いを業界全体で行ってきた。その繰り返しが明らかに低迷の原因となっている。要はアーチストの音楽に共感する人が多ければ、どんなスタイル、ジャンルだろうが関係ないはずである。そろそろ「売れセン」の放棄を私は勧めたい

3 ユーザー、ファンに優しい業界への転換の勧め

少なくともネットでも店頭でも音楽をもっと聴けるように、ユーザーに選択しやすい環境を作るべきだろう。
これは音楽以外の他の業界では当たり前になっている。だいたいどんな音楽かわからなければCDを買うはずがない。そのことを理解できない人間が多いのは本当に不思議である。ネットも例の「45秒の原則」を変えるのが嫌ならばせめて「ストリーミングサーバー」でのストリーミングを「放送」とみなすべきだ。ストリーミングサーバーなら不法コピーは殆ど不可能のはずである。余程超腕利きのハッカーでもない限りは(SSLサーバーを突破するだけの能力が必要といわれる) そのくらいの規制緩和は必要だと思う

今CDが売れない理由はいろいろいわれているが明らかに消費者を味方にしていない。CCCDにこだわって消費者を敵に回したらどうなるか東芝EMIの例を見ればわかるであろう。同じ轍を踏みたくなければ消費者を味方にする方策を考えるべきである。でないとこのリストラの波が収束することはないであろう

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以上が私の提言である。異論がある人も多いだろう。あくまで私個人の考え方だが、これをたたき台にしてもし今後のあり方についての議論等が業界人の間で活発に闘わされるのであればそれが私の本望である。できれば業界の中枢の人がこれに加わってくれれば、

このまま音楽業界が落ちぶれた状態が続くのを見たくない
何とかしてこの流れを断ち切りたいと思うが由の発言である





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2006年5月 7日 (日)

{コラム] 250周年のモーツアルト狂騒曲

丸の内の丸ビルで「モーツアルト展」なるものが
開かれているらしい

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060503-04412721-jijp-soci.view-001

誤解のないように断っておくが私はモーツアルトの音楽は 基本的に大好きである。また今年は生誕250周年(正確には今年の1月27日で生きていればモーツアルトは250才になる、 てーそんなことありえるはずがない(^^::) ということで モーツアルトの話題が多くなるのはわからなくはない

ただ根が天の邪鬼なのか誰でも彼でも「モーツアルトは いい」とかいう話になるといささか正直な話げんなりする。 実際文化人から、タレントまで「モーツアルト」の話を テレビなんかでしているのをよくみかける

まあNHK教育テレビのクラシック系の番組ならまだ 仕方ないかもしれない。

だけど僕自身どうしても次の2種類の人たちがモーツアルト のことを語っているのを聞くとどうにも癇に障る

1.訳のわからない音楽評論家や「モーツアルト研究家」 なる人間がモーツアルトを語っているのを聞くときまるでモーツアルトは市場最高の天才作曲家でモーツアルト 以外の作家は全てカスだといわんばかりに語る輩

2 音楽療法で「モーツアルト効果」なるまやかしの理論をもっともらしく論じている輩。モーツアルトの音楽にヒー リング効果がある曲があるのは事実としても、あたかも モーツアルトが他の音楽と比べあたかも特殊な音楽であるかのように語っている奴

(※モーツアルト効果とは
  モーツアルトの音楽には免疫力や、精神安定場合によってはうつ病にも効果があるというもの。モーツアルトの音楽 を聞くことによって受ける精神的作用をモーツアルト効果という。フランスの精神医学者デーブキャンベルが提唱しているものーちなみにデーブキャンベルはフランスのモーツアルト協会の理事でもある)

前者の場合ーだいたいクラシック系の音楽評論家にありがちなのだが自分の好きな作曲家を始め、ある特定の音楽形式を 絶対視しそれ以外の音楽を認めないという傾向がある。彼ら の話を聞いていると、寧ろ宗教に近いものを感じる。当然ポ ピュラーを含め音楽全般を客観的に評価する能力は彼らには ない。まあクラシック系の評論家でも黒田恭一さんのような 人がもう少し増えれば少しは偏った音楽観で音楽を語られなくなると思うのだが...

後者の場合は本当に困ったものだが実は日本の音楽療法学会では寧ろ主流になっている。だがはっきりいおう。別にモーツアルトでなくてもゆっくりとした美しい音楽であれば同じ効果は得られるのだ。絶対にモーツアルトの音楽でなければ こういう効果はでないという訳ではない。まあ埼玉医科大学の和合治久教授は必ずしもそこまでは云っていないようだがドンキャンベル氏などは明らかに全てのモーツアルトの音楽にこの効果があると述べているがこれは明らかに疑問だ。

例えばドンジョバーニの幽霊出現の音楽にヒーリング効果があるとは考えられない。

そして何よりもこの理論は個人の音楽的嗜好に関する観点が欠けていると思う。音楽療法というのはもっと多様的な面があり モーツアルトといえども、受動的音楽療法(私は受動的 音楽リハビリテーションと呼んでいるー詳しくは私の音楽 コラムー音楽療法についてをご覧下さい)の素材の1つに過ぎない。

モーツアルトの音楽は確かに美しい、すばらしい芸術である。またモーツアルトは(実際の人物像はかなりくだけた人物で あるが)比類なき天才であったことも確かだろう 。

しかしだからといってモーツアルトの音楽が他の音楽と比べ何か「特殊な」音楽であるという観点には同意できない。モーツアルト生誕250周年ーせっかくだから訳のわからない偏見は持たずに「普通に」モーツアルトの音楽を楽しもうでは ないか。モーツアルト自身もそれを望んでいるだろう

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2006年4月 7日 (金)

{コラム]なぜ私は「現代音楽」をやめたか

皆さんは「現代音楽」なる音楽のジャンルがあることをご存じだろうか
知らなくても決して恥にはならないし、この音楽を一生知らなくても損することは何もない

「現代音楽」とはアバンギャルドの流れ、もしくはクラシック音楽の近代以降の流れを踏襲している。音楽で、一応建前上は「最先端の感覚、時代の先を行く音楽」のことをいう。実はあの坂本龍一氏や久石譲氏もかつてはこの音楽をやっていたことは意外に知られていない。
私はクリエイテイヴに生きるということというコラムでも書いたが私自身作曲家、音楽家として生きようと決心した時にとにかく「クリエイテイブ」な人間ー音楽のクリエーターでありたいという思いは強かった。今でも基本的にはそれは変わっていない。
その「クリエイテイブ」な人間でありたいという思いが、もう20年も前の話になるが私に「現代音楽」なるものに向かわせた原因でもある。

しかし私ももうやめてしまった。そしておそらく二度と戻ることはないだろう

なぜ、やめたか? いろんな理由がある。こんな音楽をやっていたら「食えない」というのも勿論理由の1つでないとはいわない。しかし最も大きな理由は「現代音楽」というものが本当に「最先端の感覚、時代の先を行く音楽」なのかという点である。

はっきりいおう。「現代音楽」というやつは何やらすごく高度なことをやっているように見えても、とにかく大半の曲は聴いていてつまらない、聴くこと自体が苦痛ではっきりいって一度聴いたら二度と聴きたくない曲が殆ど。なかにはジョンケージといった人のさるまねでとても音楽とはいえないものもあった。(ちなみにジョンケージは私にいわせれば「音の思想家」であって「音楽家」ではない)何よりも「現代音楽」という名前でも殆ど聴いていて少しも現代を感じない、寧ろ古臭いものすら感じたのがすぐに離れてしまった理由である。

勿論収穫が全くなかったわけではない。音楽の視野が広がったし私が関わっている環境音楽などは間接的にミニマリズムの影響を受けている。実際ステイーヴライヒ、テリーライリーといった"ミニマル音楽"はいわゆる「現代音楽」というものの枠を超えて様々な音楽に影響を与えている。例えばクラブミュージックのトランス系等はミニマリズムをクラブ音楽風に料理したに過ぎない。またアンビエント、環境音楽はミニマリズムの変形という見方もできる。

また先ほど話が出たジョンケージのコンセプトも気がつかないうちに我々は影響を受けている自然音を音楽に取りいれたり、空き缶や新聞紙をパーカッションで使う(子供音楽の楽団によくあるやつーこれってなんて云ったっけ?)等はジョンケージが始めたことである

しかしそれも今から30-40年前の話、実はそれ以降本当の意味で新しいものは生まれていないのだ。またクラシック系の「現代音楽」についていえばアカデミズムが入り込んで「現代音楽」という1つの形になってしまった。こうなるともう音楽の表現は死んでしまう。
一方でアバンギャルド系はアバンギャルド系で「わからん奴らはバカだ」といったひとりよがりな態度をあらわにしている人間が多く、こちらも幻滅してしまう。いずれにせよこれを自分の生涯の仕事にするのは馬鹿馬鹿しいというのが私の結論である。

一方でそれじゃ今のいわゆる大衆音楽(私はこの言葉が大嫌いだーだって音楽って大衆のものでしょ?)や商業音楽の現状を肯定しているかというとそれはまた別の話だ。こちらの方も大きな問題を抱えている。音楽業界が1998年から現在に至るまで8年連続前年割れという市場の状況が全てを物語っている。その問題について話すととても紙面では足りないのでまた別の機会にしよう

最後に私が理想としている状態は何か?
それはコマーシャリズムと芸術性がバランスよく保たれ、ある特定の音楽を聞きたい人に音楽が自由に届く状況。商業的にも芸術的にも成功している作品のことである1960-70年代のロック音楽や1980年代のニューウエーブ、テクノといった音楽の時代にはそうした時期が確かにあった。またクラシック音楽で今、古典となっている音楽の多くは一部の例外を除き彼らが存命時代に商業的にも成功している音楽である

そうした状態に戻すにはどうすればよいか。それが今の私たちの課題である。
ネットを中心とした社会がそうした時代を復活させてくれることを私は期待している

(今回以降こういったコラムを今後掲載していく予定です)

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