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2020年12月 6日 (日)

会田誠氏らのヌード講座は「セクハラ」裁判について思う事ー芸術の表現に対する日本人の無理解が予想以上に深刻な件

これは元からそうだったのか、それともここ10年ほどで日本人はこうなってしまったのかわからない。

しかし芸術表現、そして表現の自由というものに対するこの日本という国の人間の無理解は私の予想をはるかにこえるほど深刻な状況であることを感じざるを得ない。

このブログでも書いたが記憶に新しい「あいちトリエンナーレの『表現の不自由展』」での従軍慰安婦像展示に政治権力が介入し一次展示停止に追い込まれた件があった、この件に関しては河村名古屋市長があろうことか展示中止の先導を切ったのだが


■「日本人の心を傷つける」と称して表現の自由を踏みにじった河村名古屋市長と良識を保ち「権力の介入は憲法違反」と批判した愛知県知事

http://kyojiohno.hatenadiary.com/entry/2019/08/06/144114

 これに関しては以下の記事で私は見解を述べている

■あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」中止に伴う私と各表現者の声明。日本社会における表現の自由は本当に危機的な状況である。
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2019/08/post-d06f3b.html

「芸術表現」とは必ずしも心地よいものばかりとは限らない。なかには表現として一部の人にとっては不快に思えるものも存在する。しかしそういう「不快な表現」の存在も甘受し認めることが表現の自由ということだ。

だがどうやらそれがどうしても理解できない人がいるようだ。実は私の周囲にも一人いた。いくら説明しても残念ながら理解してもらえなかった..

そしてこの問題もそうだ、いわゆる「猥褻な表現」というものである。これに関しては当ブログでも何回も取り上げている。

そしてそれがとうとう裁判沙汰にまで発展してしまった。

■会田誠氏らのヌード講座は「セクハラ」 大学に賠償命令
https://digital.asahi.com/articles/ASND46HPJND4UTIL04J.html

今回は京都造形芸術大学が開催した公開講座の中のできごとらしい。
つまりこの場合、受講生は必ずしも美大生や美大関係者とは限らない、ということなのではないだろうか。もしかして美術に一定の関心はあるものの失礼ながら限りなくシロウトに近い人も受講していた可能性がある。

なぜそういうことをいうかというと少なくとも大学にて美術の専門教育を受ける、美大生、芸術大学生ならば裸婦の描き方や裸婦を描いた作品の歴史の勉強は美術の基本中の基本である、ということくらいは普通の美大生なら理解しているはずだからである。実際大学の授業で裸婦のスケッチの課題を行う授業が普通の美術大学ならあるはずである。

そしてもし裸婦ー女性の裸体を描いた作品を見せることがセクハラになる、ということであれば、ルネサンスからアングル等の古典派、そして印象派の大半の作品を見せることが全てセクハラになってしまう。写真もヘルムートニュートン等の写真を見せることも同様にセクハラになってしまう。これでは美術の授業、講義自体が成り立たなくなる。

これが市民団体が「女性の尊厳を傷つける」などと抗議する等、芸術のゲの字も理解しない団体ならともかく今回は大学主催の美術の公開講座で起きたことだけに事態を深刻化している、

伝えられている記事だけしか情報が入っていないのでこれ以上は語らないが、もし女性の裸婦や男性の裸体を見て苦痛だというのであればそもそもこの裁判を起こしている方は何を目的でこの公開講座を受講したのだろうか?正直理解に苦しむ。美術の専門的知識や技能を身に着けたいのであれば人間の体の仕組みまで理解した人体のスケッチ(勿論裸体である)を描くことから始めるのが基本である、ということが理解できないのであろうか?ダビンチ、の有名なスケッチとかみてみるとわかるはずだ。このダビンチの書いた「ウィトルウィウス的人体図」は完全に「学術的レベル」のものである。

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レオナルドダビンチの「ウィトルウィウス的人体図」

まぁ日本の裁判官に芸術理解しろ、と言っても無理かもしれないが、芸術に一定の理解を持っている人間であればこんなバカバカしい判決など出せないはずである。

事情があるかもしれないが、一部の人間が「見ていて不快」との理由でその表現方法そのものを否定されるようなことがあればこれは表現の自由にとってゆゆしき事態といわざるを得ない。

ただ前述のように「見ていて不快な表現も許される」ということを理解できない人が今の日本に相当数いることも私は感じている。正直そういう人たちは何をいっても理解しようとしない。この裁判を起こした人もそういう類の人かもしれない。

運営等に課題はあったかもしれないが、少なくともこれからは「公開講座」の受講者も「単に美術が好き」ではなく美術にたいして一定の専門知識を持っている人に限定することも考えてはどうだろうか?

 

 

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