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2020年2月 9日 (日)

日本という国にはもはや真の意味での「音楽評論」がなどなく、ネットには偏った「ゴミ評論」しかない

音楽雑誌なるものを読まなくなったのはいつ頃からだろうか?昔は音楽評論家という職業が成り立っていたが、最近では音楽の基礎的な知識はもとより文化史や文化観を踏まえた音楽評論が少なくなった。かつては黒田恭一さん、中村とうようさん、相倉久人さんといった広い視野から音楽を語る人たちがいた。 だが自分のしっかりした音楽見識のある音楽評論家の多くは鬼籍に入ってしまい音楽雑誌の一部はまだ細々と続いてはいるものの音楽リスナーに対する影響力は残念ながら強いとはいえない。僅かにピーターバラカン氏や湯川れい子さんとかが頑張っているが日本の音楽評論は残念ながら事実上死んだ状態になっているといわざるを得ない。

なぜこうなってしまったのか。原因を探る

メーカーに「買収された」エセ評論が氾濫する音楽雑誌やネット

いつのころだろうか、レコード会社がアルバム新譜紹介から正当な「音楽評論」が消えてしまったのは。これはレコード会社が発売するアルバムが「悪いことを書かれないように」あらかじめ音楽評論家を「買収」(同様に出版社にも「広告料」としてお金がいく)するものでかくしていつの間にか音楽雑誌にはレコード会社子飼いの評論家によるアルバムの「レビューという名の広告」であふれた。一種のステマのようなことがだいぶ前に音楽雑誌で行われていたのである。これは勿論音楽雑誌の売れ行き不振にもつながっている。

勿論これはネットでのアーチストのアルバム紹介、SNSのアーチストページとかでもこの手の「レビューという名の広告」があふれることになった。当然これは音楽評論の質の低下に拍車をかけることになった。

Magazines_music
音楽雑誌で辛うじて生き残っている雑誌は確かにあるが..

音楽を理解していない「自称評論家」の偏った見解が影響力を持ってしまった

ネットというのは「検索」で何でも情報が手に入る。ネット社会では誰でも情報を発信できる時代になった反面、昨今の風潮は教養が軽視されているところがあるため、一部の人間は評論するうえで、ベーシックに共有している筈の、歴史観、文化史、文化観が欠落している人が多くそういう人が音楽を評論する場合、非常に偏った薄っぺらの見解になりがちで文化批評とはとても成立しない内容になってしまう。そしてそのようなあえていうが「自称評論家」の見解が今ネットではあたかも正論であるかのように受け止められ、身分不相応な影響力をもってしまったのである。

しかし昨今のネットの状況をみると残念ながらその手の「自称評論家」の見解があたかも正論として広まっている傾向が強く、かくしてこのようなことが起きてしまう

■日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある
https://news.line.me/issue/oa-president/60bf5c1eec33

日本のクラシック業界が衰退している。それはなぜか。指揮者の大友直人さんは「評論家やジャーナリストの質が変化している。極端にオタク的な評論が増えた結果、嫌いなものを認めない感性を持つ人を増やし、初心者は聞き方を押し付けられるようになってしまった」と指摘する――。

昨今のネットの現状を見るに自分の好きなものしか評価しない人、嫌いなもの=悪 という風潮が強くなっている。音楽だけでなく情報でも自分の好きなもの、興味があるもの、しか見ようとせず、嫌いなもの、興味がないものはたとえ客観的、社会的に重要なものであっても情報として見ない傾向が強くなっている。全世界的にみても日本人は特にこの傾向が顕著である。

その結果ネットでは基礎的な音楽観、文化観、知識など持たない単なる好き嫌いだけで全ての価値をきめる「自称音楽評論家」の「評論(らしきもの)」があたかも正論であるかのように伝わってしまっている、というのが今の現状ではないだろうか?

「音楽はこうでなければならない」、「それが音楽の正統派の道」と主張する人間は音楽を本当に理解していない人間の主張である

クラシックでもジャズスタンダードでもそうだが、時代を超えて残っているものは表面的な形式論や中途半端な知識の受け売りだけで語りつくされるものではない。そのような薄っぺらなものではない。しかし音楽を本当に理解していない人間ほどそういった情報に左右され、表面的な知識、マウンティング合戦で重箱の隅の知識で自分が専門家になったつもりになり、評論家気取りで自分の好き嫌いをベースにした論法があたかも音楽を語る上で正論であるかのように語る。今のネットの「自称音楽評論」をみるとそんなものばかりである。いずれも基礎的な知識に裏打ちされたものではないので本当の専門家が聞けばメチャクチャな理論とすぐわかるのだが、本人たちが自分の見解が非常に偏ったものということに気づかない。

今のネットは本当の意味での正しい。誤りではなく「間違った正義ーエセ正義」が大手をふってまかりとおり、基本はすべて自分の好き嫌いのみで判断する。酷い場合は「自分と意見が違う」というだけで自分が侮辱されたなどと勘違いし、結果他人の揚げ足取り、価値観の押し付けという空虚なコメント応酬になる。これはもはや議論ではない。揚げ足とり合戦であり無意味で無駄な空しい行為である。あえていう。ネットにはこういった偏った「ゴミ評論」しかない

サブスク時代に正規な音楽評論復活への期待

CDの時代が世界では終わりをつげ、日本ではまだCDにこだわる向きも少なくないが、そういう時代では音楽評論のありかたも自然に変わってくる。結論からいえば「いい音楽は聴かれる可能性が高い」時代になっているということだ。

アルバム、という形は辛うじて残っていはいるが基本的には曲単位になるだろう。その曲にたいしてきちんとした音楽の基礎、文化観をきちんと理解した音楽評論が果たして復活するか。

ストリーミング、サブスクの世界ではステマはほぼ不可能である。SporifyもApple MusicもAmazon MusicのEditorialなプレイリストを作る人は特定の企業や個人の意向でプレイリストを作ることは堅く禁じられている。日本のようにレコード会社や大手プロのpayrollでプレイリスト制作は禁止されているし、もしばれると永久追放が待っている。グローバルなネット環境では限りなくフェアでないとダメなのである。

そうした雰囲気で真の意味の音楽評論が果たして復活するか、淡い期待をするものである。

 

 

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