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2017年11月23日 (木)

ブレードランナー2049を見てーハンズジマーとバンゲリスに見る「劇伴」と「映画音楽」の違い

告:ブレードランナー2049に関する若干のネタバレ情報があります。ご覧になっていない方は読まないことをお勧めします

ここ二か月半の業務の殺人的な多忙さで見たい映画をロクに見れなかったのだが昨日ようやく「ブレードランナー2049」を見ることができた

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実は4か月ぶりの映画館(^^;;)
ようやく「電気羊の夢」の続きをみることができました

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前作より30年後の世界。ネタバレになってしまうが、レプリカントは進化し人類と共存する時代となっている。30年内に「人類の飢餓」そして謎の「大停電」なんかもあったりするがその過程で「人類の救世主」ともなったウオレス社が倒産したタイレル社(旧レプリカンとネクサス6の開発)の資産を受け継ぐが、実はこのウオレス社が人類を支配するという背景でストーリーが始まる。
2049年のロサンジェレスは「強力わかもと」こそなかったが、相変わらず歌舞伎町のような街の感じで見に行った劇場が東宝シネマ新宿だっただけに余計に映画の余韻が残った。AIが駆動する初音ミクのようなバーチャル恋人あり、さまざまな今の日本を思わせるものが盛り込まれていたが、主人公のライアンゴスリング演じるKにもAIによるバーチャル恋人がいるが、演じたのはキューバ出身のアナ デ アーマス 可愛い女優さんなので今後人気が出てくるだろう。 正直いってこういうバーチャル恋人は10年以内には確実に現実化するような気がする。

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アナ デ アーマス 

さて映画自体はすごいよかったが、一応映画人として音楽をやっている人間からすると正直音楽はハンスジマーでなくバンゲリスの方がよかった、と思っている。最後にバンゲリスの音楽が一瞬流れたけど、エンドロールにもバンゲリスのブレードランナーのテーマを流してほしかったというのが正直な気持ちだ。それは最初のブレードランナーのバンゲリスの音楽がとても印象的だったということもあるが、自分の気持ちとしてブレードランナーのような名作には「映画音楽」があって欲しいと考えるからである。

私も最近になってわかってきたような気がするのだが「映画音楽」と「劇伴音楽」は実は違うのという点だ。

以前の記事で日本を代表する映画音楽の大家佐藤勝先生が
 「劇伴音楽というのは本来、差別用語である」という点について述べた。

佐藤勝先生は早坂文雄(七人の侍の音楽の方)、伊福部昭、武満徹などと並ぶ日本の映画音楽の大家であり、早坂先生亡き後の黒澤映画の音楽の常連(用心棒etc) を始め円谷の特撮映画(伊福部先生とほぼ交代で作っていた) そして岡本喜八監督とは名コンビといわれるくらいの日本の映画音楽の大御所といっていい方で伊福部先生と並ぶ大家といっていい。

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佐藤勝先生

この点をクラシックのアカデミズムの世界では映画音楽というものに対して「戦前から連なる映画音楽に対する差別用語」として『劇伴』という言葉が使われていたという解釈だし、確かにクラシックのアカデミズムでは今でも「劇伴」とか「商業音楽」の仕事を「お金のために魂を売った下衆な音楽」などと決めつけ、蔑むような風潮が現在でもクラシックアカデミズムの中に根強く残っているのも事実だ、

だがどうもそれだけではないということが最近わかったような気がする。

実は同じ映画やドラマのために作られた曲でも「映画音楽(あるいはドラマ音楽)」と「劇伴」は似て非なるものといっていいことがわかっている。

それが今回のブレードランナーでも顕著に表れている

結論からいうとバンゲリスは映画音楽作家でありハンスジマーは「劇伴音楽作家」なのだ。そして両者は本質において全く違うのだ。

では「劇伴音楽」と「映画音楽」はどう違うのか?

ひとことでいえば「映画音楽」は音楽として独立した存在になりうるが「劇伴音楽」はその映画、映像のために書いた音楽で映像とは不可分であるという点

そしてハンスジマーが最近これだけ注目されているのは映像と究極的に不可分であり、担当する映画の演出に徹した「究極の劇伴」として作られているからである。音楽作曲のスキルも多種多用で、エクリチュールの複雑さ、手法を楽しみたい人は堪能できるが、それらは映像と密着、不可分な存在として音楽が存在する。

だがハンスジマーの音楽、とりわけ最近の音楽を映像なしで聴いたらどんな風に思うだろうか? 映画を見た人ならおそらくハンスジマーの音楽を聴いてその音楽がなっていたシーンを思い出すかもしれない。だがそれはあくまで映画を見た人という条件がつく

誤解しないで欲しい。先ほど私はブレードランナー2049はハンスジマーではなくバンゲリスの方がいいと云った。だがそれは初作のブレードランナーのファンとしてバンゲリスの音楽に思い入れがあるからだ。しかしハンスジマーがブレードランナー2049のために書いたジマーの「究極の劇伴」が悪い作品という意味ではない。ジマーの作品は映像と音楽の隅々までのミクロなレベルでシンクロ、や「演出音」に徹したものであり、最近のジマーは音楽よりは「音効」に近いものになっている。

そしてそういう「劇伴」が最近のハリウッド映画の主流になっているのはまぎれもない事実だ。

一方、「映画音楽」というのは映像がなくても音楽として独立して存在しうるし、映画音楽だけで映画全体のイメージをマクロに観衆に伝えることができる音楽だ。

J ウイリアムズのご存じ「スターウオーズ」「インデイ―ジョーンズマーチ」はこのテーマを聴いただけでその映画全てを連想することが可能である。音楽として独立していると同時にその音楽の存在が映画そのものをマクロに表現している。

あるいは映画の名作としてマーラーの交響曲第五番の第四楽章「アダジエット」は音楽として独立しているが、ビスコンテイの名作「ベニスに死す」では音楽として強烈な存在感を放っている。 つまり映画音楽というのは映画の中でも強烈な存在感を音楽として持っているのだ。

実は私の経験で云うと、音楽が映画の中で強烈な存在感をもつことを嫌う監督も少なくない。「映像が音楽に負ける」「音楽が強すぎる」ということで嫌がるのだ。結構こういうタイプの映画監督は少なくない。そしてたぶん最近のハリウッド系の監督の多くはこのタイプではないかと思う

つまり「映画音楽」を好む映画監督と「劇伴に徹してほしい」映画監督とはっきり分かれている。先述の佐藤勝先生は後者のタイプの監督とは絶対に仕事しないだろう。そして最近の傾向として後者のタイプの映画監督の方が多いような気がする。

整理するとこのようになる

音楽のタイプ 映画音楽 劇伴音楽
音楽の表現 マクロ的(映画全体を表現) ミクロ的(映画の細部までこだわって表現)
音楽のタイプ 音楽そのものとしても独立して存在可能 映像と密着、一体化した音楽、反面映画を見ていない人にはわかりにくい
映画の中の位置 映画の中で強烈な存在感をもつ 映画の中では「脇役」に徹する。目立たないが効果的な音楽演出を目指す
音楽の印象 映画そのものの存在に近いため、メロデイその他の印象が観衆に残りやすい 全部がそうではないが、音楽として、メロデイとして印象に残りにくいことが多い
主な作曲家 エンニオ モリコーネ、ジョン ウイリアムズ、ミシェル ルグラン、最近だとアレクサンドル・デスプラ等が入るかも ハンスジマー、ベンジャミン ウォルフィッシュ,キャサリン、クルージ

念のために言っておくが私一応両方対応可能ではある。ただ映画音楽作家としての個人的な好みは「映画音楽作家」であることはいうまでもない。その意味で佐藤勝先生に私は賛同するものである。


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