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2016年2月15日 (月)

司馬遼太郎Nスぺ「この国のかたち」-「日本人は今無感動体質」になってしまっている

ご存じの通り私は歴史小説が好きで司馬遼太郎の作品も好きである。

その司馬遼太郎没後20年にあたり香川照之がホストとなっていた「この国のかたち」

非常に面白かった。と同時に司馬遼太郎が我々に残した未来の言葉を聴いていずれもドキッとした。二十年前といえばまだ日本がバブルにうかれてまもない頃、その頃に既に現在危機的な状況にある日本をある程度予見していたような部分を感じた。

第一回の第1集  “島国”ニッポンの叡智(えいち)

ここでは「島国」をキーワードに日本文化をどうかたち作ったのかに焦点を当て、境ゆえに海の向こうから来る普遍的な文化に憧れ続け、とりわけ江戸時代の鎖国政策が外国に対する好奇心を高め明治維新の「奇蹟」につながった点を揚げた。→日本人の感動体質

第二回の第2集  “  “武士”700年の遺産

鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神で江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった、と指摘している。

いずれも司馬遼太郎らしい的確な分析をしているが、冷静に考えてみて愕然としたことがある。なぜならいずれの点に関しても「現代の日本人が忘れつつある、いや既に忘れている」ことを指摘しているからである。

第1集  “島国”ニッポンの叡智(えいち)に関しては司馬遼太郎が懸念していた「日本人が無感動体質になるのが怖い」という点

そして第2集  “  “武士”700年の遺産では日本人が私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神を忘れる点である。

後者の“名こそ惜しけれ”の精神は今の政治家の姿を見れば一目瞭然であろう。先日辞任した甘利のように「政治資金」という名で私腹を肥やすことしか考えない昨今の政治家。

大久保にしても西郷にしても明治の著名な政治家は寧ろ死んで借金しか残さなかった。「あさが来た」で一躍注目された五代友厚も大阪の商工業に大きく寄与したが本人自体は借金しか残していない。初代首相の伊藤博文も殆ど財産を残さず、僅かに残った財産も死後地元に寄進している。明治の政治家には「公のため」のことしか考えず全く私利私欲の概念がなかったのである。今の政治家とえらい違いだ。

だがここは音楽や芸術関係のブログなので特に前者第1集  “島国”ニッポンの叡智(えいち)で司馬遼太郎が大きく懸念した「日本人が無感動体質になるのが怖い」という点にこだわってみたい。なぜなら私は既に現代の日本人は「無感動体質」になっていると感じているからである。

「無感動体質」とは何か? それはかつて日本人が向けた海外への好奇心、新たなものへの憧れと挑戦する心であった感動体質を失うということである。

特にこの傾向はインターネットが普及してからが顕著である。インターネットが普及することにより情報が氾濫し、ネット経由であらゆる情報を手にすることができるようになった。それがネットの四六時中はりついているような輩の間で「自分は世界のこと、ありとあらゆることを熟知している」などという勘違いをする輩を大量に生んだ。何を話すにしても「上から目線」で話しネットの断片的な情報で「自分は何でも知っている」という勘違いをする人間。これはちょうど江戸時代僅かに長崎の出島という狭いところでしか海外の情報が入ってこなかった江戸時代とは寧ろ対極にあるということができよう。

むろんそのような断片的な情報、そして安価な「正論」「正義」とかふりかざして他人を攻撃することも頻繁に行われるようになった。「荒らし」「炎上」「晒し」-我々が普段日常で嫌というほど目撃するインターネットによる負の部分である、

一方日本社会を見ると行政だけでなく、日本企業の間にはびこっている風潮ー「失敗を極度に恐れる風潮」「無難」「事なかれ主義」である。サラリーマン社会で何か問題が起きると「査定に影響する」一つ間違えれば「リストラの対象になる」などという強迫観念が蔓延し、「新しいことにチャレンジする」ことをためらう風潮が出てきた。こうした風潮は普通に考えれば馬鹿馬鹿しいナンセンスクレームにも過剰反応する風土を作り、かくしてクレーマーが何か難くせをつければCM、番組、映画等の上映、オンエアの禁止などということが頻発する社会になる。

どれもこれも日本人が「無感動体質」になっているからこそ起きることであり、司馬遼太郎の懸念はまさに的中してしまっている、

この「無感動体質」は日本人の後者の“名こそ惜しけれ”の精神を悪用されてさらに酷い状況を作っている。それがファシズム的な全体主義が蔓延し、ネトウヨを増長させている原動力にもなっている。司馬遼太郎も戦前の軍国主義の日本人の“名こそ惜しけれ”の体質が戦前の軍部の「統帥権」と結びつき、軍部の暴走を許した,としている。今安部政権は「緊急事態条項」で戦前の軍部の「統帥権」と同じことをやろうとしている。

まさに司馬遼太郎の懸念が現代の日本に当たってしまっている。まさにそんな状況ではないだろうか?

この流れを変えるには我々日本人が昨今の風潮に流されることなく、もう一度原点に戻り、素直に感覚を研ぎ澄まし、文化、コンテンツ、情報に対してもう一度かつてのような純粋な気持ちを取り戻すしかないのではないだろうか?その辺の知ったかぶりしているITギーグ、「ネット住民」ネトウヨなど無視し、再度の「感動体質」を取り戻すことを考えるしかあるまい。良質なコンテンツ、情報をクリエイトするのはそこの部分からでないと難しいだろう

今日本人は文化、経済、ありとあらゆる点で岐路に立っていることは間違いない。大事なことは思考停止の状態から脱し、「感動体質」と私利私欲を排し公(パブリックへの意識)をもった“名こそ惜しけれ”の精神をもう一度考え直す必要性に迫られているのかもしれない

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