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2015年10月28日 (水)

「劇伴音楽」という言葉は「差別用語?」-ということで私は「劇伴音楽作家」ではなく「映画音楽作家」になります(笑)

まずかねてからお知らせしていました拙映画音楽新作の「退屈な休日」(さんみゅー主演ー中田圭監督作品)が「新人監督映画祭」でのプレミア上映されます。

Taikutsu_sanmyu

レッドカーペット&オープニングセレモニー
中野サンプラザ前特設ステージ 31日 12時~

1.  10月31日  14時ー 
2. 11月 3日   10時ー  どちらも中野サンプラザフォレストルームにて上映

新人監督映画祭  http://ndff.net/

今回のこの作品の中田監督とは今後さまざまなプロジェクトでごいっしょさせてもらうと思いますが、先日とある居酒屋で監督と飲んでいて面白い話を聞きました。

それは 「劇伴音楽というのは本来、差別用語である」という点

これは恥ずかしながら私も知らなかったのですが、それは日本の偉大な映画音楽作曲家の一人、佐藤勝先生の言葉らしいです。

実際私はアニメやゲームの音楽に関わったことがありますが、アニメやゲームの世界では普通に「劇伴音楽」という言葉を使いますので

佐藤勝先生は早坂文雄(七人の侍の音楽の方)、伊福部昭、武満徹などと並ぶ日本の映画音楽の大家であり、早坂先生亡き後の黒澤映画の音楽の常連(用心棒etc) を始め円谷の特撮映画(伊福部先生とほぼ交代で作っておられました) そして岡本喜八監督とは名コンビといわれるくらいの日本の映画音楽の大御所といっていい方です

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佐藤勝 1928-1999

佐藤先生の持論としてwikipediaを参照しますと「『劇伴』という映画音楽を意味する業界用語に関しては「戦前から連なる映画音楽に対する差別用語」として激しく嫌悪し続け、「俺は劇の伴奏なんか一度たりとも書いたことはない!」(2010年キネ旬ムック「オールタイム・ベスト映画遺産・映画音楽篇」キネマ旬報社)、「劇伴なんて言葉を使う監督とは組みたくない」(1991年の映画「大誘拐」パンフレットより)といった発言を多く残している。」と書いてあります。

確かに最近の映画監督のなかには音楽を単に「映像のBGMというレベルでしか考えていない人(映像の中で絶えず音楽が流れている)もいる一方で、映画の中で「音楽が目立つ」ことを極端に嫌う監督、もいますが、映画音楽を映画監督と作曲家のコラボレーション、という観点で語っている映画監督は減っているような気がします。

佐藤先生は「映画音楽は映像・作劇に溶け込むことで、初めて効果を生み出せるもの」という信念をもっていらっしゃったようで、自分の音楽がいかに映画に貢献できるかということに徹底してこだわり続けたそうですが、それは映画音楽作家の本来のありかたである、と考えます。そのためには映画監督と作曲家が徹底的に音楽について論じあい、音楽によってどういう効果を狙っているかについてお互いに考える機会というものが必要だと考えます。

前にも書きましたが映画音楽作家は音楽家であると同時に「映画人」でもないといけない、と思います。少なくともそういう意識を持たないといい映画音楽を作ることなどできない、と私は考えます。

伊福部昭先生はそうやって、あの有名なゴジラの鳴き声を本多猪四郎監督や円谷監督と共にさまざまな試行錯誤をした上であのなき声を作ったわけですし、武満徹も小林正樹監督の「怪談」で効果的なホラー音楽(クレジットには武満氏は『音楽・音響』となっていました)を作り上げました。(私見ではホラー音楽で最も怖い映画音楽といっていいと思います)

やはり映画音楽を作る上ではそういう取り組み方が必要だと考えますし、最近はハリウッドですらそういう映画音楽の作り方をしなくなっています。(最も昨年オスカーを取った「ブダペストホテル」の音楽はよくできていましたけど)

「退屈な休日」の中田圭監督はそういった考え方を理解し、今後のプロジェクトそういった試みを考えている、というのは非常にありがたい、と考えています。映画音楽というものを単なるBGMに終わらせない、真の意味のコラボレーションになりうると思います。

話を佐藤勝先生の戻しますが、確かにクラシックのアカデミズムの世界では映画音楽というものに対して「戦前から連なる映画音楽に対する差別用語」として『劇伴』というくくりで見下す雰囲気は確かにあったようです。実際一昨年の佐村河内事件の時もあるクラシックのアカデミズムの現代音楽作家が「映画音楽なんて所詮余技だ」「本来の作品じゃない」などといった発言をした人物がいました。これらの見解は映画音楽に対してある種の偏見が背景にある、といわざるを得ません。佐藤先生はそのことをいっていたのでしょう。

もっともそういう偏見にみちたクラシックのアカデミズムの現代音楽の作曲家たちはアカデミズムの世界でしか通用しない世界観で、後世に対する影響はクラシックの現代音楽以外の音楽には殆ど影響を及ぼしていない、という点は以前指摘しました。これは反アカデミズムの現代音楽だったミニマリズムやアンビエントがポピュラーミュージックを始め現代音楽に対して大きな影響を及ぼしている点とは対極にあります。非常に厳しい言い方をさせてもらえればクラシックのアカデミズムの現代音楽は狭いムラ社会にしか通用しない自己満足の自称芸術、以上のものではない、といってもいいと思います。

だからアカデミズムの現代音楽系が『劇伴』を佐藤先生のおっしゃる「戦前から連なる映画音楽に対する差別用語」として使ったところで、そんな連中のいうことなどスルーすればいい、と思わないでもないですが、まあ折角中田監督がこういう情報をくれたので、少なくとも中田監督の前では『劇伴』などという言葉は使わず、監督と映画音楽のコラボレーションを行う、というスタンスで行こうと考えております。


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