Kyoji "metanature"
i-tunesでも好評配信中!!
i-tuneページを表示するにはお客様のPCにi-tunesとquicktimeがインストールされている必要があります。 i-tunes及びquicktimeのダウンロードはこちら





« 「この坂道」主演女優の安住麻里さんの劇団「秘密兵器」の舞台に行ってきました | トップページ | クリエーターのプライドはどこ? オリンピック委員会の佐野研二郎氏が堤出した原案説明に思う »

2015年8月30日 (日)

間違いだらけの現代音楽史(4)ー生きた文化のありかたを捨てたアカデミズムが支配した「クラシック音楽」とその流れに贖った反アカデミズムの音楽

前回まで従来のクラシック音楽中心史観とは違い、「コード譜」や現在のポピュラーミュージックのアンサンブルのリズムセクション等の基本部分の成り立ちについて述べてきた。そこの部分はとりわけ音大系の音楽史研究家から完全に無視されてきた部分だからである。

今回は比較的今までの「現代音楽史」に比較的近い20世紀の音楽のありかたについて述べると思う。

とはいえ当然ながら従来の音大系の現代音楽史観とは基本的な観点が違うことはお断りしておく。

まずは下の図を見ていただきたい

Music_history2_2

ペースに限りがあるので必ずしも主だった人全員をいれたわけではないが、20世紀初頭から現在にいたるまで大まかな作曲家と音楽楽派の流れを書いたものである。

ドビュッシー、ラベルなどのいわゆる印象派(ドビュッシーは自分の音楽を「印象派」と呼ばれることを嫌っていた)に始まり、現代音楽史を考える上ではお決まりの、シェーンベルク、ストラビンスキー、バルトーク等の名前から現代に生きている作曲家まで網羅しているが、さすがに全員を入れるスペースはない

横軸は時代だが実はポイントはこの図の縦軸である。

多少順不同の部分はあるものの、実は上に行くほど「アカデミック」-もしくはクラシック的。下に行けばいくほどアカデミズムから離れ、下の方にいくとポピュラーミュージックに近くなる。

特に第二次大戦後の動きを中心に実はこの両極、つまりアカデミズム反アカデミズムの対比がクラシックー西洋音楽の流れの中で基軸に入っていく

誤解のないように書いておくが私は別にクラシック音楽とポピュラー音楽の両方を論じて、どちらがどちらより優れているとか、どちらが好きか云々を論じているわけではない。はっきりいってどちらより優れているなどという議論は全くのナンセンスである。

ただ20世紀に入ってからの調整の崩壊(厳密にはワグナーの「トリスタン和音」が崩壊の始まりともいわれる)が始まってから西洋の芸術音楽の混迷が始まると同時に、アメリカからラグタイム→デイクシーランド→ジャズという新たな音楽の息吹が生まれた時代に西洋音楽の混迷の部分のみを見て新たな音楽文化の息吹、ムーブメントを「大衆音楽」などという訳のわからないレッテルを貼ってその本質を知ろうともせず、無知と偏見と決めつけだけで終わらせている点が問題なのである。

そのような音楽史観がいまだに音楽大学を中心とする音楽観を支配しているというのは大変不幸な点であるが、その要因を作っている「音楽アカデミズム」については後で触れるとして、まずは上記の表の中で本人の生存した時期を表した横線で「オレンジ色」の作曲家は現代のポピュラー音楽を含めた「現代音楽(いわゆる「現代音楽」ではない)」に大きな影響を及ぼしていると考えている作曲家である。

その中で比較的真ん中(実際にはやや下)の「エリックサテイ」をご覧いただきたい。

220pxericsatie

エリックサテイは前回の「間違いだらけの現代音楽史(3)の最後でも述べたように単に現代のポピュラーミュージックの世界だけでなく、アート、演劇を始め19世紀末から20世紀初頭のありとあらゆる芸術に対して大きな影響をもたらした人物である。20世紀から現代における様々な新しい音楽には何らかの形でサテイの影響がある。

しかい音楽史家はサテイを「変わり者」、異色の作曲家としてとらえる向きが強い。だが上記の表を見ていただくとわかるが、サテイの後世への影響は広範囲に上る。サテイを崇拝したフランスの「六人組ーLe Six」の作曲家たちは結局無調主義の方向から西洋音楽の伝統をベースとした「現代音楽」の流れの方に発展し、一方ではサテイの「家具の音楽」をそのまま空き缶や日用品を打楽器にした「リビングルームミュージック」を始め、「音」という概念を変えた、ジョンケージやアンビエントのブライアンイーノにまで影響を見ることができる。

変わった作品ばかり、というイメージがあるサテイだがそれぞれ未来の音楽を見据えて現代音楽に強い影響を与えている。いわば現代の音楽の父、という位置づけをしてもよい。

さてここで私はわざわざ現代音楽という表現と「現代音楽」の2つをわざわざ分けている。なぜなら両者は名前は似ていても中身は全く違うからである。

ひとことでいえば前者は本当に現代という時代を反映した音楽であり、後者は「現代音楽」という名前の音楽のジャンルである。この「現代音楽」なる音楽のジャンルは大きく分けると二種類の音楽がある。

それは「音楽アカデミズム」(西洋音楽)の流れに基づいた音楽と、その動きと真逆の「反アカデミズム」の音楽である。「反アカデミズム」の音楽は従来の西洋音楽の伝統や作曲語法を大きく否定したものであり、その意味では同じ「現代音楽」と呼ばれる音楽でも両者は水と油である。

そもそもこの「音楽アカデミズム」が現在のような体制に構築されたのはいつ頃かはわからない。19世紀以前にも絵画の世界の「サロン」に相当する楽壇のようなものは存在したようだが現在のような形になったのはおそらく第二次大戦以降ではないだろうか。

この傾向は20世紀に入り作曲技法が複雑さを極め、19世紀までは作曲者が演奏に加わることは普通だった時代から、作曲者と演奏家が完全に「分業化」し始めたこととも関係する。(但しバルトークなどは健康状態がよい時は自作をよく初演していた)

「音楽アカデミズム」と。「反アカデミズム」の詳細について述べるととてもこのブログ記事では足りないが、やや乱暴かもしれないが両者の違いを表にすると以下のようになる。

現代音楽の種類 「アカデミズムの現代音楽」 「反アカデミズムの現代音楽」
基本姿勢 西洋音楽の伝統、作曲技法を尊重
機能美や構造美を追求
西洋音楽の伝統を破壊、ジャンルもポピュラー、民俗音楽、その他新たな要素を積極的に取り入れる
特徴 作曲技法(エクリチュール)の複雑さを競う 既存の音楽の手法を否定。場合によっては4分33秒(ジョンケージ)のような「作曲」ですらなくなる時も
演奏の姿勢 新即物主義的(Sachlich)で楽譜に忠実に、即興を嫌う 演奏家の自由を即興を含め容認。形に一切こだわらない
備考 基本的には20世紀前半までの西洋の伝統を尊重する「現代音楽=アカデミズムの現代音楽 民俗音楽、コンピューターミュージック、ポピュラーミュージック、電子音楽等あらゆる新しい要素を積極的に取り入れる
影響 アカデミズムの現代音楽以外の音楽には一切影響を及ぼしていない ミニマリズムやジョンケージの思想はアンビエント(環境音楽)やクラブミュージックに対して大きな影響をもたらした

ポイントは演奏の姿勢のところにある新即物主義的(Sachlich)である。新即物主義というのはパウルヒンデミートが展開した芸術運動であるが、ヒンデミートがそれを意図していたのかわからないが、西洋音楽の中で「即興=演奏家の勝手な主観的な行動」という考えで忌避され、否定されるようになった。

それが演奏家の演奏は元より、作曲家の作曲技法まである種の「方程式」、「メソード」以外を受け付けなくなり現在の「音楽アカデミズム」の形が完成した。これはいまだに東京芸大を始めとする音楽大学の音楽教育の基本姿勢である。

アカデミズム反アカデミズムの両者の社会的影響の差は明らかである。前者は音大系の世界を中心に非常に閉じられた(クローズド)な世界になり、アカデミズムという狭い世界の中でしか影響を及ぼしていないし、及ぼしようもない。昨年初めの佐村河内のゴースト騒動の当事者の新垣氏などはこの世界の出身だが私のように音大の作曲家受験を志した人間でない限り一般の方は知る機会など殆どないのがアカデミズムの「現代音楽」の世界である。

一方、反アカデミズムの方はジョンケージやラモンテヤングがプログレッシブロックからトランス系、ジャングル系のクラブミュージックに大きな影響を及ぼす等、現代音楽に大きく影響を及ぼした。特にステイーブライヒ、テリーライリー(R&Bのプロデユーサーとは別人)のミニマリズムは「モード」という新たな調整の概念を打ち出し、それがポピュラーミュージックの「コード譜」とも合体し、1990年末のクラブミュージックのムーブメントにも大きな影響を及ぼした。

元801、とロキシーミュージックのキーボーデイストだったブライアンイーノが上記の表で重要な位置を占めていることからも反アカデミズムの現代音楽がいかに現代の音楽シーンに大きな影響を及ぼしているかは明らかである。

即興的な演奏を否定し作曲家の作曲技法まである種の「方程式」、「メソード」以外を受け付けないーいわば生きた音楽文化のありかたを捨てたアカデミズムが支配した「クラシック音楽」の世界がクラシック音楽を芸術ではなくいわば芸能に近い存在にしてしまったことは大きな不幸といわざるを得ない。その意味で反アカデミズムの現代音楽の存在が20世紀後半の音楽文化の停滞を辛うじて防ぐことができたということができるかもしれない。

最近はクラシック系の演奏家でもそうした動きに対して異なる方向を模索している人たちがいる。そういう人たちがクラシック音楽のありかたそのものを変えるとまた少し面白いものになるかもしれない。

しかし残念ながらそれも80年―90年代までの話である。

最終回の次回は袋小路、音楽の歴史が実質的に止まってしまっている現状について述べる


|

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。