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2015年7月12日 (日)

間違いだらけの現代音楽史(1)ー1920年代は十二音技法もジャズも「最先端の音楽」だった

興味のない人にはどうでもいいかもしれないが、7月11日はジョージガーシュインの命日でもある。そのガーシュインは「ジャズとクラシックを融合させた作曲家」という評価を一般的に音楽史家によって下されているが、実は私はずーっとそれに違和感を持っていた。

理由はそもそもジャズという音楽はガ―シュインの人生とともに発展し市民権を得た音楽であり、ガーシュインが作曲家としてスタートしていた時期はまだジャズの黎明期ですらなかったからである。この点を理解しているクラシック系の音楽史家はどのくらいいるのであろうか? 少なくともガーシュインの初期のヒット曲「スワニー」「アイゴットリズム」の時はまだジャズの前身であるラグタイムの影響をはっきり見ることができ、ちょうどラグタイムが大衆によって飽きられ始め、ニューオーリアンスにてデイクシーランドをきっかけに新たな音楽へのムーブメントが産声を揚げはじめた頃ということはおさえていかねばならない。

20世紀の新たな音楽の動きについては殆どの音楽史研究家はドビュッシーやラベルの印象主義に始まり、シェーンベルクを始めとする十二音技法をきっかけとした、新ウイーン楽派による無調主義が20世紀に勃興し、これはいまだに現在に至るまで今日のヨーロッパの伝統的エクリチュールを用いた現代音楽(後述の「アカデミズムの流れの現代音楽)の主流の音楽語法となっている。

一方で同時代より発展してきた現代のポピュラーミュージックに対して強い影響を及ぼしている、ジャズやブルースといった音楽の流れはヨーロッパの音楽史研究家によってほぼ完全に無視されてきた、といっていい。彼らはポピュラーミュージックに対し、「大衆音楽」などという軽蔑的ニュアンスを持った言葉で語り、一部の音楽史研究家を除いて音楽史の流れの中でそれらの音楽をまともに扱うことはほぼなかったといっていい。

だがいまどき十二音技法が現代の私たちの聴く音楽(「現代音楽」ではない)に大きな影響を及ぼしたなどと感じている人などまともな感覚の人間なら殆どいないであろう。一方でジャズ、ブルース等で使われている「コード」の概念は完全に現在のポピュラーミュージックを制作する上で欠かせない概念である。ロックは勿論のこと、最近のクラブミュージックやノイズ音響系にいたるまで、ラグタイム→ジャズ→ブギウギ→ロックといった音楽の影響と無縁でいられる音楽など殆ど存在しないといっていい。

つまりどちらの音楽がより後世に大きく影響を与えたのは火をみるよりも明らかなのに、いまだにポピュラーミュージックを含めた形で音楽史をきちんと語るということが殆ど行われていないというのは驚くべきことだ。既に21世紀初頭も過ぎた現代でも私たちは20世紀の音楽を非常に偏った目で語るー当然学校の授業ですらそうであるーことが大手を振ってまかり通っているというのは不幸としかいいようがない。

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これというのも西洋の音楽史の基本的な視点が今世紀の初めのドイツの音楽評論家、哲学者のテオドール・アドルノ(1903-1969ー左写真)の強い影響下にあるためと考えられる。アドルノは彼と同時代のジャズを始めポピュラーミュージックに対する批判的見解を広め、それがいまだに西洋、特にクラシック音楽の世界のポピュラーミュージックに対する偏見や一面的理解を助長しているといわざるを得ない部分がある。一方で同時に後述する「アカデミズムの流れの現代音楽や西洋の伝統的音楽史観の限界点を見ることもできる。

これからの私の記述はどうしてもアドルノのポピュラーミュージック史観に対して批判的にならざるを得ない面はある。しかし一方で昨今のJ-popを始めとする現状にはアドルノの指摘が当たっている面も確かにあるのでそれは何回かあとのこのシリーズの記事でその点について書くことにする

夏休みシーズンにも入ったのでこの私の考える20世紀音楽史観について何回かに分けてこの点を論じようと思う。私は別にクラシック関係者ではないし、いわんや音楽大学のアカデミズムとは全く無縁なところで生活しているため、別に世の中の音楽史研究家から総スカンを食らったり非難されても正直痛くもかゆくもない。だが一応クラシックや現代音楽に対しては(特に「現代音楽」は一時やっていた時期があるので)一定の見識を持ち、同時にポピュラーミュージックの世界に身を置き、それらの音楽の流れについて一定の知識も持っている人間からすればどうしてもこの点を声を大にして言いたいのである。

20世紀の現代音楽史は間違いだらけ  と

尚、ここでいう音楽史というのは音楽の歴史の上での評価方法についてである。

まず最初のこの記述をみただけで既に多くの西洋音楽の音楽史研究家は卒倒するはずだ。

それは 

シェーンベルクもガ―シュインも1920年代の音楽の前衛(アバンギャルド)だった

という点

まず下の図を見てほしい。

20世紀初頭から中頃(1950年代)までの西洋音楽の動きとポピュラーミュージックの動きを示したものである。ロックの黎明期は厳密には1940年代末に息吹き始めるのだがこの表では割愛する。

History_music

シェーンベルクはガーシュインより四半世紀前に生まれているが、77歳と当時としても長命な人生ではあった。一方ガーシュインは僅か39歳で夭折したが、活躍していた時代は全部ではないが重なっている。

上の図でJAZZ(赤線)とシェーンベルクを始めとする新ウイーン楽派(黒線)見ていただくとおわかりだろうと思うがほぼ同時代にそれぞれのムーブメントが起きていることがわかるであろう。

シェーンベルクは無調、十二音技法を使った音楽語法で新たな表現の可能性を追求したのに対し、ガーシュインは当時大きな音楽ムーブメントになりつつあったジャズを通して新たな表現の可能性を追求した。要は「音楽の可能性」の追求のベクトルが違っていただけで当時勃興しつつあった新たな音楽による表現の可能性をともに追求していたのである。ちなみにシェーンベルクもガーシュインも一見音楽の共通点は見えないが、お互いかなり親交を結び認め合っていたことは事実のようである。実際ガーシュインは十二音技法に強い関心をよせていたという記録が残っている。

さて、結果的に後世の音楽にどれだけ影響を残したかどうかはさておき、十二音技法が1920年代当時は「今までにない音楽語法」であったことには異論の余地はない。

だがジャズに関しては先ほどのテオドールアドルノが激しく批判している。

ポピュラー音楽の特徴は『構造的な規格化」である。この「規格化」は「様々な反応をも規格に収まるよう方向づける。ポピュラー音楽に耳を傾けるという行為は、……自由で寛容な社会に生きる個人という理想とはまったく相容れないような、機械的な反応のメカニズムの中にからめとられることになる」

ポピュラー音楽の姿勢は「エセ個性尊重である」 その最も極端な例が「(ジャズの)即興演奏である。……今やそれはきっちり『寸法を合わせた』即興という名の偽りの個性尊重を規格に則った技巧で表現できるジャズ演奏専門の語法が全面的に開発されたといっていい

アドルノのいう『構造的な規格化」というのはメロデイ―がキャッチ―であったりというだけでなく一番、二番とソロとかAメロ、Bメロ、サビといった点を例えば西洋音楽のソナタ形式の第一主題(テーゼ)、第二主題(アンチテーゼ)と対照的なテーマを提示部、展開部、再現部という風に展開するヨーロッパ古典主義音楽との対比の観点から云っているようだが、一方で西洋音楽の歌曲も一番、二番、Aメロ、サビのような部分は存在するわけで、これを見る限りアドルノは西洋の古典派音楽形式以外は音楽ではない、といわんばかりである。それをいうのならイタリアオペラのアリアとか一体どうなるのだ?

自由で寛容な社会に生きる個人という理想とはまったく相容れないような、機械的な反応のメカニズムの中にからめとられることになる


もはやヨーロッパの古典主義形式の音楽など何の意味もなさない現代人からすれば寧ろ古典派音楽の形式の方がはっきりいって
自由で寛容な社会に生きる個人という理想とはまったく相容れない」形式であることは言うまでもない。

ちなみに先日私はピアノのための「ロックンロールソナタ」なる曲を書いた。曲自体は全くクラシックには聞こえず、たぶん大多数のクラシック演奏家はこの曲を演奏できまい。しかし音楽の形式をよく見てもらうとわかるが、アドルノの大好きな「西洋の古典音楽」形式になっている。そう「ソナタ」という以上本当にソナタ形式になっている。アドルノはこれを聴いたとしたらどういう反応を示すだろうか(笑)

アドルノのもう1つの即興演奏(ソロ)は「エセ個性尊重である」 論に至ってははっきりいってお笑い草だ。そもそも既に20世紀初頭に「即興演奏」そのものを否定した音楽演奏の即物主義(Sachlich)がクラシックの演奏で1930年代には完全に主流になっていることをアドルノは知らないのだろうか。知らなかったら無知の極みだし、知っててジャズの即興音楽に対しあれだけケチをつけるとしたら、そこには悪意すら感じてしまう。この演奏の即物主義(Sachlich)はいまだにクラシック音楽教育の基本姿勢になっており、実際この教育を受けた音大出身者の大半は即興演奏そのものができない。

大部分の人間が8小節、16小節のコード譜のみでソロすら満足に弾けないクラシックの人間がジャズの即興演奏を『寸法を合わせた』即興という名の偽りの個性などと決めつけることが滑稽極まりない言動である、ということに音大系の音楽史家はなぜ気づかないのだろうか? 私は不思議でならない

ちなみに私はフリージャズをやっていたのでいうがフリージャズなどは「決められた小節数」での即興である方が寧ろ少ない。ある程度ジャムセッションに慣れている人間なら他のプレーヤーとのアイコンタクトで「そろそろソロを終える」ことを伝えることが多い、本物の即興ジャズとなると演奏している演奏家ですら、どのくらいの演奏時間になるのか予想もつかないのが事実である。

アドルノの論法を見ていて思うのはおそらくラジオを通して聴いたジャズの「ヒット曲」しか聴いておらず実際のジャズのライブとか、ジャズやポピュラー音楽のアナリ-ゼなどは100%していない、と断言できる。それをしていればあんな狭い一面的な音楽解釈になるはずがないからだ。それどころかウイーン古典派の音楽は詳しいかもしれないが、たぶんそれ以外のロマン派の表題音楽、イタリアオペラ、といった「他のクラシック」も私はあまり聴いているようには思えない。はっきりいって音楽評論家にしても聴いている音楽はある特定の音楽に偏っており、視野も狭い一面的な音楽の理解しかできていない。このような人間の見解がなぜかくも尊重されるのか私は不思議である。

偏見とは無知から生まれる。アドルノのポピュラーミュージック批判論を見るとそういった典型的な無知による偏見のパターンであるといわざるを得ない。しかしそういうポピュラーミュージック批判論がクラシック音楽の音楽史観の主流になってきた、というのは不幸としかいいようがない。

さて、先程ガーシュインがジャズという語法で新しい音楽を追求したと述べた。音楽史家は十二音技法は調整を破壊することで既存の音楽を破壊したが、ジャズは調整は維持したままで表現語法を発展させていない、などという人もいるが、その人はジャズコードというものをどれだけ知っていて云っているのか疑問だ。

そもそもジャズコードは確かに基本となるキー(調)があるが西洋音楽の伝統的なT(トニック) (ドミナント) S(サブドミナント)(注:いわゆるこれが3コードというものである)なんていう決まりなどハナから無視しているし、基調となるキーも曖昧であることはよくある。専門的になるので詳細は触れないが、基本的にはジャズのコード進行は和声学でいう「借用和音」「偶成和音」の連続であり、またそれらの和音は西洋の和声学のように必ず「解決」するとは限らない、いや解決しないことの方が寧ろ多い。その意味でジャズコードも伝統的なヨーロッパの和声を破壊しているのである。

ちなみにチャーリーパーカーからジャズの「調整感」が崩れ始め、ジョンコルトレーンに至っては完全に無調、十二音の影響を思わせるものすらある。たぶんガーシュインが長生きしていたらコルトレーンのようなことをやっていたのではないか、とも思うのである。

いずれにせよ十二音もジャズもほぼ同時代に新たな表現語法として発展していった。そのためガーシュインの77回目の命日に合わせて彼の評価を次のように修正したい

ガーシュインはジャズとクラシックの融合を図った

         

ガーシュインはジャズという語法で新たな音楽を模索した

次回はこの新たな音楽語法とシェーンベルク以降の音楽への影響、そしてジャズ音楽のさまざまな語法の変化について述べる

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