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2015年1月16日 (金)

Je suis n'est pas Charlieー言論の自由と風刺、誹謗のはき違えが横行する昨今について

この件に関してはいろいろと思うところがあったがなかなか書く時間がなかった。ようやく書くことができた。

パリでのCharlie Hebdo 紙についての記事内容は後述するとして、当たり前のことだが一連のテロ事件(スーパーマーケットでの罪なき人間が殺害された件は云うに及ばず)についてはいかなる論拠をもってしてもこの行為は正当化できるものではない。私も言論や表現の自由を何よりも尊重し、守る立場にある人間だが、しかしだからこそ今回の事件の背景を可能な限り客観的に検証していく必要があると思った。

今回の一連のテロ事件の背景にはCharlie Hebdo 紙のイスラム教の予言者マホメットに対する風刺が背景にあったという。勿論「風刺」や「批判」に対して暴力,テロを行使するのは論外だが、「風刺」の中身を検証すると確かに問題がないとはいえない部分がある。

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左図が数ある問題の風刺画の中の1枚だが、フランス語で「最後まで読んで笑わなかったら、ムチうち100回の刑だぞ」と書いてある。他にもいろんな風刺画があるが、この風刺画に関して一般のイスラム教徒の間で不快感や反発が広がっている。

そもそも欧米には「風刺」あるいは「皮肉」に関する文化がある。アメリカでも"Sarcasm(皮肉)"を用いたジョークがアメリカのスタンダップコメデイアン(一人の人間がジョークが「漫談」すること)の1ジャンルとして確立されており、「風刺」「茶化し」が文化の1つとして定着している。
ヨーロッパでも同様で「風刺画(カリカチュア)」の文化は19世紀の新聞の普及から定着している。しかしその「風刺」は主に政治家や「社会的地位のある人物」に向けられているものの、なかにはかなりえげつないものもあるのも事実である。

問題は欧米で定着しているこの「風刺」あるいは「皮肉」に関する文化は必ずしもアジア地域、とりわけイスラム圏に対して定着しているわけではない、という点だ。実際日本でも"Sarcasm(皮肉)"というものを否定的に受け取る社会的背景がある。ましてイスラム教は元々体質的にそういったものを受容しない傾向の強い宗教であることは想像に堅くない。

つまり冗談を通じない人間に冗談を云っても、ユーモアどころか1つ間違えれば誹謗中傷と受け取れかねない。

ということだ、

この件に関しては「言論の自由」とそれを守る戦い、という単純化した図式で語る傾向が全世界的にあるが、ことはそう単純ではない。

つまり言論の自由は重要だ、 だからといって誰に対して何をいってもいいわけではない。

元々言論や表現の自由というのは政治権力が自分たちの都合の悪い言論や表現を封鎖しようという動きを防ぐためにある。政府や政府のトップの政治家に対する批判、風刺は当然自由と民主主義を守るためには絶対必要なものであり、それはいかなる内容なものであっても容認すべきだ。この原理は「第二の権力(もっとも最近は政治権力にすり寄っているようにみえるが)」であるマスコミに対しても同様である。

だが政治権力やマスコミは社会的に強い影響力を持ち、社会的には強者である。

だからこそ政治家やニュースキャスターとかの社会的影響力の強い人間に対しては時には批判や風刺を容認すべきであり、それこそアメリカのスタンダップコメデイアンの"Sarcasm(皮肉)も容認すべきであり、寧ろ社会的バランスの上でも必要なことなのだ。

だが社会的影響力のない一般市民に対してはどうだろうか?

その場合は「風刺」あるいは「皮肉」に対しては最大限の配慮がなければならない、いや原則としてそれは仲間内で冗談が通じる間でない限りやってはならない。アメリカでも"Sarcasm ジョーク)は社会的弱者に向けてはならない、という不文律がある。当然のことである。

つまり「風刺」あるいは「皮肉」冗談と受け取るか、誹謗中傷と受け取るかは受け取る人間次第なのだ。

そしてそこには当然文化の違い、というものが介在する。

このブログでも何回も述べているがグローバルな社会であればあるほど、ローカライズ、つまり国別の文化の違いを認識することから始めなければならない。一部のエセグローバリストのいうような「世界中が金太郎飴のように均質な社会がグローバル」という視点は誤りである。

そのような状況でコンテンツ、文章、そしてあらゆる表現の形式は国境に関係なく広がってしまう。そうした場合に当然文化の違い、に基づく表現の受け止め方の違い、という問題は必ず発生する。

ある表現が特定の文化圏には受けても別の文化圏では受けない、そういうことも十分にありうるし我々コンテンツメーカーもそういったものを受容しなければならない。

そして当然、「風刺」あるいは「皮肉」がある特定の人に対して誹謗中傷になりうる、ということも想定しなければならない。

ここで最近、権利意識のはき違えが見られ大きな違和感を感じる。それは言論の自由はあっても他人を誹謗中傷する権利はない、という当たり前のことが理解できない人間が増えている点である。   

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それゆえ、この問題は単にテロが言論の自由を封鎖する、という単純な問題ではないことは明らかである。もしあなたが言論の自由だから、他人を茶化したり誹謗中傷するのも権利だ、などと考えているとしたら、ヘイトスピーチも言論の自由だ、などと主張する在特会のような恥ずべき団体とあなたは同じレベルの人間、ということになる。こいつらは国際的にも非難されているし、日本の恥といっていい存在である。

言論の自由という権利をはき違えるとこんなとんちんかんな屁理屈が平気で大手を振ってまかり通ることになる。

グローバルな時代だからこそ、文化の違いに基づく表現の受け止め方の違いを想定すべきであり、ましてパリは北アフリカから主にくるイスラム系住民も多いことからなおさら、その配慮をすべきであっただろう。その意味では私は"Je suis Charlie"(私はシャリ―)ではなく"Je suis n'est pas Charlie"(私はシャリ―ではない)の方である。

とはいえ、このような文化の違いに配慮しない「風刺」あるいは「皮肉」に対しては、同じく言論やその他の表現によって応酬すべきであり、テロのような暴力では事態を悪化させるだけだ。今回のテロ事件でフランスの一般イスラム系住民が迫害されたり暴力を受けたりという事件が発生しているようだが、フランス国民に対しては自制を呼びかけたい。

最後に少し救いがあるとすればフランス国民のテロの抗議デモでジョンレノン"Imagine"を全員が歌ったこと。英語の歌を人前で歌いたがらないフランス人には珍しいことである。

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そう戦争や暴力ではない、文化の違いを乗り越え話し合いの解決をすべきなのだ。

憎しみは憎しみしか生まないのである。




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