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2014年3月22日 (土)

佐村河内氏の「調整への復権」について私の見解

またこの関連記事かとお思いかもしれないが、やはり同業者でもあるので..

以下の記事でポイントとなる部分だけを引用させていただく

佐村河内氏が記者会見で力説 「調性音楽の復権」はどのような文脈で登場したか
http://realsound.jp/2014/03/post-342.html

音楽学者の岡田暁生は著書『西洋音楽史』に おいて、20世紀における西洋音楽の行方を三つのモードに区分している。第一に広範な聴衆の支持を犠牲にしてでも「芸術」のエリート性を保とうとする、一 部の前衛的な作曲家たちが選んだ現代音楽。第二に創作面が現代音楽というある種のアングラ音楽と化していくなかで、西洋音楽の「公的音楽」としての側面が 演奏文化に継承されていく「クラシック音楽のクラシック化」 。新曲を楽しむというより固定されたレパートリーについて演奏の差異を味わうという音楽鑑賞の形態は、録音メディアの発達も後押しとなり20世紀に入って 加速度的に進行していくこととなる。そして第三にポピュラー音楽の勃興。娯楽音楽の発信地がヨーロッパからアメリカへと移行するなかで、サロン音楽をルー ツにもつポピュラー音楽がクラシック音楽の受け皿となった。従来ならオペラやサロン・ピアノ音楽などの作曲家になっていただろう多くの人が20世紀におい ては産業音楽に従事するようになったのは周知の事実である。

<中略>

クラシックジャーナルの編集長である中川右介氏はWEB RONZAでこう指摘する。「佐村河内氏は現代の音楽界への異議申し立てとして『自分はあえて昔ながらのロマン派風の交響曲を時代錯誤と分かっているけど 書くのだ』というようなことを言って登場した。それはそれでひとつの考えである。だからそういう考えで書いてそれが売れるのなら、それはある意味でクラ シック音楽業界が見逃していたマーケットの開拓である」

<中略>

しかし騒動前にこれだけの評価と賞賛を集め、普段はクラシックと縁遠いであろうリスナーまで惹きつけたことは事実として忘れてはならない。調性音楽としての完成度を備えた作品が、ポピュラー音楽のように一般のリスナーから歓迎され得ることが改めて示されたのである。 

当ブログの記事を読んで下さった方には私が元「現代音楽」の作曲家だった時代があり、現代音楽という名前ではあっても少しも現代を感じなかったのが私がやめた理由であるということはおわかりだと思う、それは今までの記事で書いた。ここではその点は多くは書かない。

さて上記の記事での「現代音楽」はあくまで先日の私の記事で書かれているアカデミズムの中の「現代音楽」について論じているが、実はこれだけではこの問題を論じる上では片手落ちである。先日の私の記事アカデミズムの「現代音楽」はポストモダン以降の音楽に殆ど影響を及ぼさず、反アカデミズムの「現代音楽」はヒーリングミュージックや環境音楽、テクノミュージック等のクラブミュージックに大きく影響を与えたことを述べた。上記の記者にとって反アカデミズムの「現代音楽」はもはや「クラシック音楽」とはいえないため議論の対象外にした可能性があるが、しかしそれでは現代の音楽の諸問題を語る上で非常に視野の狭い議論になってしまう。

岡田暁生氏の20世紀の西洋音楽(クラシック音楽)の流れについては上記の分析通りとはあるが、最初の「聴衆の支持を犠牲にしてでも「芸術」のエリート性を保とうとする」はいわゆる「現代音楽」の流れということになるのだろうが、実は反アカデミズムの「現代音楽」のクリエーターはその「芸術」観からアカデミズムという狭い枠では限界があることに早くから気づいていた。そのためだいたい70年代あたりからいわゆるアカデミズムとは袂を分かち、新たな音楽の可能性を模索した。

調整への回帰、と佐村河内氏は云ったようだが、実は反アカデミズムの「現代音楽」においては早くから調整への回帰を模索していた。その基本が主にミニマリズムで使われる」「モード」という概念である。

アメリカの作曲家ステイーブライヒ(1938- )はまだ現代音楽が無調が絶対という時代にあえて調整感のある単純なフレーズの繰り返しの曲ーピアノフェーズを発表し、当時の現代音楽のアカデミズムを敵にまわした。しかしこれが反アカデミズムの「現代音楽」が従来の「聴衆の支持を犠牲にしてでも「芸術」のエリート性を保とうとする」とは完全に別の道に行くきっかけを作ったといっていい。結果的にこのミニマリズムが現代のポピュラー音楽や環境音楽に与えた影響は膨大なものであった。私もこのミニマリズムにふれていわゆるアカデミズムの現代音楽と簡単に決別することができた。今でも判断は正しかったと思っている。なぜならミニマリズムは後世の音楽に影響を確実に与えたが、クラシックのアカデミズムの現代音楽は全くといっていいほど後世の音楽に影響を及ぼしていない。

また私の記事また別人作曲事件についてー「現代音楽の作曲家」の「商用音楽」への偏見を業界関係者につけこまれたのが原因に引用されている記事を読んでも失礼ながらアカデミズムの「現代音楽」の人たちは30年前と全く変わらないー少しも進歩していない人たちだと思わざるを得ない。

まさにそこが問題なのである。

さらに次の部分

クラシックジャーナルの編集長である中川右介氏はWEB RONZAでこう指摘する。「佐村河内氏は現代の音楽界への異議申し立てとして『自分はあえて昔ながらのロマン派風の交響曲を時代錯誤と分かっているけど 書くのだ』というようなことを言って登場した。それはそれでひとつの考えである。だからそういう考えで書いてそれが売れるのなら、それはある意味でクラ シック音楽業界が見逃していたマーケットの開拓である」

<中略>

しかし騒動前にこれだけの評価と賞賛を集め、普段はクラシックと縁遠いであろうリスナーまで惹きつけたことは事実として忘れてはならない。調性音楽としての完成度を備えた作品が、ポピュラー音楽のように一般のリスナーから歓迎され得ることが改めて示されたのである。 

マーケット論という観点からすれば一見正しいように思えるが、実は音楽の表現という観点では少し違う。実は無調音楽を書くのを拒否して19世紀的なロマン派の手法で作曲しているクラシック系の作曲家は大勢いる。日本では団伊玖磨中田喜直、別宮貞雄などがその代表だが、音楽表現という観点からすればそれは単なる懐古趣味の域を出ない。確かに新垣氏の書いた「佐村河内名義」の曲は19世紀的なロマン派の手法と云ってよく、それが多くの人に受け入れられたのも事実ではあるが、しかし単なる懐古趣味に走るのが答えか、というとやはりそれは違う

例えば武満徹氏の「カトレーン」以降の作品は明確に調整記号とかは書かれていないものの、明らかに「調整への回帰」を志向していた。晩年の作品は現代音楽の範疇に入るとはいえ美しく、芸術作品としても日本が世界に誇れるものである。

私はアカデミズムの「現代音楽」の作曲家から見れば彼らが軽蔑する商用音楽の作曲家ということになるのかもしれないが、別に音楽の芸術表現の可能性を捨てているわけではない。寧ろ自分は基本的に彼らが忌み嫌う反アカデミズムの「現代音楽」の流れにいる作曲家であることに最近気づいている。

そういう私からみれば「調整への回帰」は確かに必要だとは思うが、それは決して単なる懐古趣味であってはならない。なぜならそれは時計の針を戻す以外の意味はないからである。

ただ今回の事件でアカデミズムの「現代音楽」の作曲家たちは「今のままで自分たちで本当にいいのか?」ということを自問自答するいい機会ではないかと思う。クラシックのアカデミズムという狭い世界や音楽観にとらわれず、もっと民族音楽やポピュラー音楽などを含めた広い視野で音楽というものを見る習慣をつけるべきだ。何よりも「現代音楽」という名前でも自分たちは寧ろ時代遅れの音楽を書いていることを認識すべきだ。

そのためには「俺たちは高度な芸術音楽をやっていてお前らの音楽とは格が違うんだ」 とか「商用音楽を書くのが恥ずかしい」などという傲慢な姿勢を捨てるべきである。以前の記事でも書いたように今回の事件の背景はそういったアカデミズムの「現代音楽」の作曲家の姿勢を音楽業界側につけこまれたため起きた

音楽を歪んだフィルターで見るのではなく偏見を捨て、自分が素直に感じる音楽、自分が素直に「今の音楽」と感じる音楽。そういうものを作ることを心がけるべきだ。

そうすれば道は開けてくるし、今回の事件の再発も防ぐことができるであろう。


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