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2014年3月 1日 (土)

改めて私の「現代音楽」観ー表現の可能性はもはや「現代音楽」にはない

2月はメチャクチャ忙しかったが3月に入ってようやく一段落

例の「作曲家ゴースト」問題で世間が大騒ぎしたのもつかの間、本当に日本人って熱しやすく冷めやすいというか、もう既に「過去の話題」として片づけられ始めている。

だが一応同業者がからむ問題なのでこの点だけは少しこだわって語ろうと思う。ここで問題にするのはいわゆる「現代音楽」というジャンルの音楽、それもクラシックなアカデミズムの流れに沿った「現代音楽」という様式(といっていいと思う)の音楽に対するもので、はっきりいってこの記事ではその批判記事になる。かなりどきつい表現が入っているのでそういう表現が苦手な方はこの記事を読まないでいただきたい。

もうだいぶ前になるが以前こういう記事を書いた

■なぜ私は現代音楽をやめたか
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2006/04/post_8725.html

ひとことでいえば、私が「現代音楽」をやめたのは「現代音楽」という名前ではあってもはっきりいって少しも「現代」を感じなかったからである。悪いが新垣氏ー「現代音楽」の重鎮である故三善晃氏の愛弟子だがーのやっている「現代音楽」などは私にいわせれば名前は現代でも古い時代遅れの音楽にしか思えないのだ。こんな音楽に自分の生涯をかけるのはアホらしいと思ってやめた。一言でいえばそれがやめた理由だ。

しかし一方で、じゃあこの「現代音楽」は全く意味のないものなのか?というとそれも違う。それには「現代音楽」というものをもう少し詳細に語らないと理解できないかもしれない。

ひとくちにジャズとかロックでもその中でいろんなスタイルの音楽があるのと同様、「現代音楽」といってもいろんなものがある。大きく分けると2つの流れがある。ひとつは新垣隆氏などがやっていたクラシックのアカデミズムの流れに沿った「現代音楽」であり、もう1つはそのアカデミズムの中に属さない、反アカデミズムといっていい「現代音楽」である。前者は新垣氏を始め師の三善晃、松村貞三等々、クラシック音楽の作曲技法をベースとした音楽で、後者はジョンケージ偶然性の音楽、プリペアードピアノやリビングルームミュージック(空き缶やいわゆる「楽器」でないものを楽器にする音楽)であったり、シュトックハウゼン電子音楽(今や死語だが..) ピエールシェフェール「ミュージックコンクレート」(これも死語)、イアニスクセナキスの「コンピュータ音楽(といってもmidiによるものではなく数学の情報理論や乱数使用の数学的技法による作曲)」などがある。

ステイーブライヒ
テリーライリーラモンテヤング等のミニマリズムも後者の反アカデミズムの「現代音楽」の中にいれていいだろう。

このアカデミズムの「現代音楽」反アカデミズムの「現代音楽」の間には決定的な違いがある。

それは前者はポストモダン以降の音楽に殆ど影響を及ぼさなかったが、後者は直接的ではないにせよ、ポストモダン以降や「現代音楽」「現代音楽」ではない)に何等かの形で影響を及ぼしている点である

つまり、前者のアカデミズムの「現代音楽」はクラシック音楽のアカデミズムの非常に限られた狭い世界の中で「作曲技法(これをエクリチュールという)」の複雑さを競うことを始め、そのアカデミズムの中ー云わばアカデミズム村ーの中でしか通用しない価値評価を行うため当然ながらそのアカデミズム村以外に対して影響を及ぼすことはない。ほぼ皆無といっていい。
一方反アカデミズムの「現代音楽」はジョンケージやシュトックハウゼンの「手法」が アンビエントを始めとする環境音楽、ヒーリングミュージックに影響を及ぼしている。例えば従来は「雑音」でしかなかった自然音をヒーリングミュージックで は「音楽の一部」として扱っているし、ライヒを始めとするミニマリズムはトランス系を始めとするクラブミュージックに大きな影響を与えている。最近のクラブミュージックは殆どライヒを始めとするミニマリズムをクラブミュージックの形式に焼きなおしたもの、といっても過言ではない。

つまり「現代音楽」がなければヒーリング音楽を始めとする環境音楽もクラブミュージック、テクノミュージックも存在しえなかったのである。その意味で少なくとも反アカデミズムの「現代音楽」の存在意義はそれなりにあったのである。

そのミニマリズムはブライアンイーノ「アンビエント」によってより昇華し、さらにニューヨークのニューウエーブムーブメントでローリーアンダースン(昨年亡くなったルーリードの奥さん)に発展した。私にとっての「現代音楽」はそちらを意味する。

一方、アカデミズムの「現代音楽」にはそこまでの発展性があるようには見られない。先日の記事で私が批判したように「わかりやすい音楽を書くのが恥ずかしい」「俺たちは高度な芸術音楽をやっていてお前らの音楽とは格が違うんだ」 という思い上がりがアカデミズムの「現代音楽」をやっている人たちに感じることができる。

私が問いたいのはそのような音楽に対する取り組み方で、たとえ現代では評価されなくても後世からは評価や共感をいずれされる、などと本気で考えているのか?という点である。

生前評価されなくてもいずれは評価されるー私はこれをシューベルトシンドローム、と呼んでいるが、現代のように情報やコンテンツが溢れている社会で、そんなことをもし本気で期待しているとしたら、バカとしかいいようがない。

一方反アカデミズムの「現代音楽」にしても、もう30年以上新たな表現技法を生み出していない。ステイーブライヒがミニマリズムの草分けとなる作品「ピアノフェーズ」を発表したのは1973年のこと、何と40年も前の話である。

それ以降、音楽の新たな可能性どころか、残念ながら寧ろ表現の可能性は退化した、と言われても仕方がない。

それを考えると新しい音楽の可能性を探る答えはもはやどちらの「現代音楽」の中にも見当たらない、といわざるを得ないかもしれない。

それに対する答え、それを私は作曲家として活動の中で見出そうと思ってはいる。後世の人からバカといわれるかもしれないが、でも誰かがそれをやり続けなければならない。 

■なぜ私は現代音楽をやめたか
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2006/04/post_8725.html

この記事での「現代音楽」というのはアカデミズムの「現代音楽」を意味し、音大の作曲科に入ろうとすると嫌でも触れる類の音楽である。この世界の人たちはアカデミズム村の中その答えが見つかると思っているかもしれないが、その可能性はたぶん殆ど0だろうと思う。そもそも他のジャンルの音楽を見下すような思い上がりを持っている限り、音楽に対する素直な聴き方など持っているはずもなく、歪んだフィルターを通した音楽は後世から評価されることはまずないであろう。

未来の新しい音楽ーもしそういうものが本当にあったとしてもそれは「現代音楽」の中にはない。それだけは自信を持っていうことができる。

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