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2014年3月25日 (火)

佐村河内事件を総括ー単なる「詐欺事件」ではなく日本の音楽文化そのものの問題(今回は特に長文注意)

今や佐村河内の事件よりはSTAP細胞論文の小保方晴子氏の話の方に世間の関心が移っているようだが、この佐村河内別人作曲家事件に関しては単なる「詐欺事件」ではなく、日本の音楽産業だけでなく音楽そのもののありかたについてさまざまな問題を内包しているので、最後にここで総括してこの事件の問題点を整理する必要があると思う。この問題は単に音楽ファンを騙したという単純な問題では決してないためである。悪いが今のマスコミにその問題点を整理する力はないだろう。

1つ1つ整理するとこの事件には以下の点が浮かび上がってくる

1.日本人の「音楽の聴き方」の問題

先日の私の記事にも書いたように関西大学教授高増明氏が指摘しているように日本人はいつのまにか音楽をちゃんと聴かなくなっている国民になっているという点。

どこどこのドラマやCMのテーマソングだから買う。話題になっているから買う、というモーテイベーションがないと音楽を買わなくなっている点、この佐村河内の件にしたって「現代のベートーベン」というキャッチフレーズがなかったらこんなに多くの人が買ったかどうか疑問だ。

作曲ゴーストの問題で新垣氏の音楽はクオリティ的にかなり高いものであるにも関わらずこの事件で音楽そのものの価値が全くなくなったかのような世間の論調

これらを見て1つ言えるのは日本人は音楽を買うのではなく「音楽のシチュエーション」を買っているという点が見えてくる。そして実際にその音楽のクオリティが高いかどうか、いいか悪いかの判断を自分ですることができない。素直に自分が感じていい音楽を選べばいいのにその自信がないため、他人と同じような選択をする日本人ならではの体質

つまり日本人は「きちんと」音楽を聴かない国民になってしまっているという点だ。一部の人を除いて「いい音楽」というものが自分で理解できない判断できなくなっていることがそもそもの背景としてある。

リスナーのせいにするな、という人がいるかもしれないがこの事件のそもそもの大きなファクターの1つであることは残念ながら否定できない。

そしてこの問題は非常に深刻である。自分で自分がいいと思う音楽が判断できないということはつまるところこの国にはもはや音楽文化といえるものが存在しない、ということに等しいからだ。もう一度国民全員が「音楽鑑賞とは何か」ということを基礎から学び直した方がいいかもしれない。

勿論この事件の問題はこれだけではない。まだまだ他のファクターも存在する

2.音楽業界の「体質」の問題

当ブログでもこの件に関してはさまざまな観点から論じている。

卵が先か鶏が先かという話になるがそもそも話題性のみでしか音楽を買わないユーザーを大量に生み出した音楽産業の画一的な量を追求するマーケテイングが原因でユーザーがそうなったのか、それともそもそも日本人のユーザーが最初からそういう体質だから音楽産業がこういうマーケテイングしたのか、どちらが最初なのかはわからない。

しかしはっきりいえるのはテレビのタイアップを中心とするメジャーレコードの画一的なマーケテイング戦略だけが突出して発展してしまい、それがあまりにも長期間続いたために日本の音楽リスナー全体がそういう音楽マーケテイングの手法にあまりにも慣らされてしまっている、という問題も背景にある、それらによる悪影響で日本人の中に自分できちんと音楽を聴くという習慣がいつのまにかなくなってしまった、という面は否定できない。

そしてそれがこのゴースト問題の背景にある。

そもそもなぜ音楽業界がゴースト作曲家、ゴースト作詞家を大量に用意するかというと、「話題性」をでっちあげるために、誰でも名前を知っている、今話題になっている人が作曲(あるいは作詞)した、ということにすれば売れる可能性が高い、と音楽業界は考えているからである。そして少なくとも今回の事件まではそれが営業的に成功してしまっている点が大きな問題。なぜならCDや音楽を、「話題性」のみでしか買わない消費者は確実に存在するからである。実際佐村河内氏のCD作品も「現代のベートーベン」にするために全聾と偽ってまで「話題性」をでっち上げなければ間違いなくこんなに売れなかったであろう。

だがこんなことはクリエーターの権利という観点から見れば本来はあってはならないことである。はっきりいってこんなクリエーターの権利を踏みにじることが大手を振ってまかり通っているのは日本の音楽業界だけであろう。そんなことを当たり前にやっている業界がどの面下げて「不法コピー禁止、違法ダウンロード禁止」などといっているのかいいたい。クリエーターの権利を蔑ろにしている業界にそんなことをいう資格などない。

3.弱い立場で尊敬されてない作曲家作詞家

こういう作曲家のゴースト強要、は私の知る限りは少なくとも20年前以上から行われていたと思う。実は私もゴーストを強要された経験があるが、その時には私はクリエーターというよりはまるで「小間使い」扱いだった。デイレクターの態度も高圧的で、作曲というスキルを持っている人間に対するリスペクトなど微塵も感じなかったというのが正直な印象だ。おそらくそういう思いをしたのは私だけではないだろう。

ただ不思議なのは今回これだけマスコミを始めゴースト作家に関して世間が大騒ぎしたにも関わらず新垣氏以外に「ゴーストにされた」ことを名乗り出た人物がいない点である。実際過去、このゴーストの実態を暴露しようとして業界から永久追放になった作曲家もいる。なぜ彼が名乗りでないのか不思議である。

考えられるのは私の所には来ていないものの、関係者に相当な圧力が加わっている点だろう、おそらく脅迫恐喝に近いことが行われている可能性がある。そして何よりもゴースト作家の人たちには「それをやれば業界から干される、追い出される」という強迫観念があるためであろう。これだけでいかに日本の若手作曲家、作詞家が弱い立場に置かれ、人権の抑圧対象になっているかがわかる

実は日本のクリエーターのそういう状態が問題なのである。

つまり日本はクリエーターの立場が弱すぎるのだ。社会風土としてクリエーターに対するリスペクトの意識が低すぎるのだ。それは以前書いた記事の以下のような例でもわかる

質が高い記事を書いてください。でもお金はほとんどありません。
最高のデザインをしてください。でも予算は少ないです。
ぜひコンサルしてください。飲み代おごりますから。

 
相応の対価を払わなければ、受け取ることはできない。
それは有形の商品でも、無形のサービス・ノウハウでも同じことです。
 
コンテンツに相応のお金を払わないのであれば、
ビジネスをやる資格はないと思います。
 
コンテンツに相応のお金を「払えない」のであれば、
それはビジネスモデルが破たんしているということです。
 
クリエイターやコンテンツホルダーに
相応の対価を払わないのは失礼。
 
ただし、クリエイター側にも責任がある。
そういう仕事を受けてしまうから。

ここの部分が今の日本社会のコンテンツクリエーターに対する意識を象徴的に描いている。私も同じようなことを何回か言われた経験がある。

だが音楽制作に無関係な人間がいうのならともかく、今音楽業界の人間まで同じような体質を持っている。(実際最近レコード会社のデイレクターとかいわれている奴らは音楽の専門知識すらロクに持っていない奴らが多い)

だがクリエーター、作曲家作詞家にも問題がある。結局「仕事欲しさ」にどんな無茶苦茶な条件でも受けてしまうのだ、平たくいえば足元見られてしまっている。仕事にありつけたいために人権のない、奴隷同然の状態でもメーカーやプロダクションのいうことを聞いてしまうのである、すべては「仕事が欲しいから」である。だからメーカーやプロダクションのトップはつけあがる。

つまり何がいいたいか、というとこれだけ音楽業界でゴースト強要が大手をふってまかり通らせたのは、簡単に足元を見られてしまうクリエーター、作曲家作詞家にも責任の一旦があるのだ。もっと毅然とした態度を取るか、作曲家が連帯してーたとえば日本作曲家協議会でも日本作曲家協会あるいは日本作詞家協会でもいいー団結して業界にゴースト強要をしないように申し入れ、弱い立場にいる若手作曲家を救済する動きをするだけでも効果がある。今回の事件でA〇〇XとかS●〇Y〇〇ージ〇クの連中は内心ビクビクしているはずだ。私はいずれの作曲家団体にも属していないがもしどれかの団体がそういう動きを取ろうとするのなら少しはこれらの団体に所属するメリットも出てこようというものだ。個人なら弱いが団体が動くと効果的なのである。

特に日本という社会は..

4.傲慢なクラシック現代音楽の体質

この点に関する詳しいことは既に最近の記事でずいぶん書いているので多くは書かない。

                                                                    

■ 改めて私の「現代音楽」観ー表現の可能性はもはや「現代音楽」にはない

特に最初の記事が今回の背景の1つである。新垣氏の発言にもあるように「親しみやすい音楽を書きたいが自分の名前を出すのが恥ずかしい」という発言から、佐村河内側(もしくは事務所側)の一連の作品で新垣氏をゴースト作家にする結果になった。

これは、「俺たちは高度な芸術音楽をやっていてお前らの音楽とは格が違うんだ」 という思い上がりを業界側につけこまれたために起きた。何回も書いているのでこれ以上は書かない。

クラシックのアカデミズムやアカデミズムの流れに沿った現代音楽関係者に提言したいのは「今のままの自分たちで本当にいいのか?」ということをこれを機会に自問自答することをお勧めする。

アカデミズムの現代音楽は全くといっていいほど後世の音楽に影響を及ぼしていない点

さらに音楽を歪んだフィルターで見る、偏見に満ちた目で見る音楽のありかたがそもそも健全なのかどうか、これを機会に熟考されることを提言する

5.この事件に関するマスコミの対応

最後に一番違和感を感じたのはこのマスコミの対応である。ひとことでいってまるで「イジメ」の構造だ、

佐村河内氏の最後の会見を見ると某読売の竹村記者よろしくまるでヤクザの恫喝である。とてもきちんとした組織の分別あるジャーナリストの行動には見えなかった。

例のSTAP細胞問題もそうだが最近のマスコミのパターンとして「持ち上げて叩く、総攻撃」というパターンが定着している。その方が「記事が売れるから」ということでやっているとすればそこにジャーナリズムはない。

佐村河内氏を持ち上げたことによって結果としてマスコミは「詐欺の片棒を担がされた、などという人がいる。もしそれが背景であのケンカ腰の記者会見になったとしたらそれは筋違いも甚だしい。

そもそもマスコミ関係者で音楽業界にせよ出版業界にせよゴースト作家の存在を知らないはずがない。出版業界など音楽業界より前にゴースト作家の存在はあった。新聞記者の端くれならそれを知らないはずはないだろう。

音楽業界のバブル華やかなりし頃から作曲作詞の有名アーチストの多くは実はゴースト作家によるものであることはそこそこのレベルの芸能記者なら知っているはず。知っていて見て見ぬふりをしていた、というのが本当のところではないのか。

つまりマスコミの佐村河内氏に対する恫喝は、云ってみれば自分たちの取材が十分でなかったことの腹いせ、八つ当たりを佐村河内氏にぶつけてイジメている、というのが実態である。だからあの記者会見は本当に醜い、ヒドいものだった。今のマスコミ記者の質の低さを露呈してしまったといっていい。

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以上5点が複雑にからみあって今回の事件が起きたといっていい。

ひとことでいって日本の音楽文化のありかたそのものが問われた事件なのである。単なる詐欺事件ではないのだ。日本の音楽、芸能、マスコミありとあらゆるものの悪い面が出た事件といっていい。

何よりも残念なのは音楽業界、レコード業界がこの件に関する再発防止に対して何の動きも見せていない点である早く嵐が立ち去ってくれ、そんな風にしか思っていないようである。

つまりこのままだと今回の事件から何の教訓も学ばず同じ事件がまた起きる可能性があるということだ、

もしそうだとすると音楽業界は愚か者しかいない業界である。


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