続、佐村河内別人作曲問題ー「図形楽譜」に関する解説と「売るためには」作曲家作詞家の人権を蔑ろにしてもかまわないという音楽業界の体質の問題
昨日の記事から本日実際に作曲した新垣氏の会見等さまざまな情報が出てきた。
結論からいうと佐村河内氏が「何もやらないで」全て新垣氏が作曲した、というのはたぶん正しくない。いや、以下の画像が事実佐村河内氏が実際本当に書いたものだとすると事情が全く違ってくる
この画像をみて「訳の分からない」「こんなの誰でもできる」とかいろいろと誤解をする人がいたようなので、そこは一応音楽の専門家の立場から違うということは云っておこう
問題となっている「指導書」だが..
文字部分が小さくもう少し精査しないとわからない部分があるが、これは皆さんのよく知っている楽譜ではないかもしれないが、実はこれは立派に楽譜といっていい。
こういうのを図形楽譜というのだが、実は現代音楽ではよくこういう楽譜を書くことがある。
ジョンケージのFontana Mix
Roman Haubenstock の3人のためのコンチェルト
何のためにこんな楽譜にするかというと、要は既存の記譜法では表現することが不可能な表現があるためであって、そのためそれを図形化して表現する。いわゆる電子音楽(もはや死語だが)の黎明期にはよく使われた手法である。
図形楽譜の読み方には決まった法則はない。それは楽譜を使った作曲家が自由に決めることができるのだが、だいたい大きくわけると3-4通りの方法がある、しかしここでは長くなるので割愛する。
佐村河内氏に関して言えば、あの様子だと音楽の専門知識はやはりオーケストラ曲を自分で書くほどには持っていないようである。しかし自分の中では「表現したい」というイメージだけは持っていてそれを表現したのが上図の「図形」のような楽譜であろうと思われる。これはいわゆる伝統的な作曲の記譜法ではないが、このように自分のイメージを表現しているという意味では立派に作曲行為といっていい。その意味では佐村河内守作曲、というのはまんざら嘘ではないのである。百歩譲ってそれをみとめなくても、実際「演奏可能」な状態にしたのは新垣氏のは事実だが、少なくとも「プロデューサー」としてのクレジットは佐村河内氏に与えてもいい内容である。
問題は佐村河内氏には自分のイメージのオーケストレーションや編曲、及び見た感じではそれほど音楽の専門知識も殆ど持っていないようである。そのためにそれを具現化できる「職人」が必要でそれが今日会見した新垣隆氏である。新垣隆氏は桐朋学園の作曲家講師らしいが、おそらく図形楽譜の解読法に一定の理解を持っている人と思われる。
つまりどういうことか?
今回の広島交響曲等の一連の作品については最初から以下のように表記すれば何の問題もなかったのである。
つまり 佐村河内守 プロデユース、 作曲;佐村河内守 新垣隆 (共作)
あるいはあの図形楽譜を作曲という風にどうしても認められないというのなら
佐村河内守 プロデユース、 作曲;新垣隆 でもよい
ところがレコード会社、あるいはこれを企画した音楽事務所はそれをしなかった。
なぜか? 今回の問題を整理しよう
1.佐村河内氏のイメージを具現化し、一部作曲といえることを行った新垣隆氏のクレジットが一切入っていなかった件
2.そして佐村河内氏は全聾の作曲家ー現代のベートーベンーという触れ込みだが実際には全聾ではなかった件
なぜこんな大嘘をついたのか?
ここに昨日述べた音楽業界の問題がある。
ひとことでいえば「話題性」を作るために誰かが仕掛けたもの。
そのためには実際作曲した人間の人権など蔑ろにしても構わないという今の音楽業界の体質がある。
昨日の記事で作曲家、作詞家のゴースト強要などが音楽業界では当たり前のように行われている、と書いた。なぜそんなことをするかというと、「話題性」をでっちあげるために、誰でも名前を知っている、今話題になっている人が作曲(あるいは作詞)した、ということにすれば売れる可能性が高い、と音楽業界は考えているからである。
つまり一方ではいい音楽を買うのではなく「話題性のみ」でしか買わない消費者が確実に存在するという悲しい現実もあるのだ。日本人は特にこの傾向が強い。そのため作家、クリエーターの人権を蔑ろにしてでも、佐村河内氏のケースだと同氏を「現代のベートーベン」にするために全聾と偽ってまで「話題性」をでっち上げる音楽業界の体質が問題なのである。
しかしこんな業界ぐるみの人権侵害をいつまでも続けていいはずがない。無名の若手作曲家、作詞家は仕事にありつけたいために人権のない、奴隷同然の状態でもメーカーやプロダクションのいうことを聞いてしまうのである、すべては「仕事が欲しいから」である。
だが彼らがあのシステムの中に取り込まれている限り、クリエーターとして尊敬される身分になることは100%ない。いずれゴースト強要されない立場になる、などという幻想を持っていたらすぐに捨てるべきだ。なぜならそんなときは絶対に来ないからである。
これがアメリカだったらゴースト強要された作家が連帯して間違いなく裁判沙汰になるだろう。日本人は大人しすぎるのだ、だからメーカーやプロダクションのトップはつけあがる。
結論からいって佐村河内氏も新垣氏も腐りきった日本の音楽業界の体質の犠牲者である。
本当に悪いのは今の音楽業界そのものである。今こそメスを入れ坂本龍馬ならぬ「日本中を洗濯いたし候」を実行しなければならない。
でないと今回のようなことは必ずまた起きるであろう。
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