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« 続、佐村河内別人作曲問題ー「図形楽譜」に関する解説と「売るためには」作曲家作詞家の人権を蔑ろにしてもかまわないという音楽業界の体質の問題 | トップページ | 当事者気取りで『大声で」批判する表現の自由をなくす害虫たち »

2014年2月 9日 (日)

また別人作曲事件についてー「現代音楽の作曲家」の「商用音楽」への偏見を業界関係者につけこまれたのが原因

いささかこの事件、書きすぎと自分で思わないでもない
ただ音楽のジャンルが違うとはいえ、一応同業者であるという点もあり、どうしてもいろいろと思うところがある、今日の記事は以前「現代音楽」というものに関わったことがある人間としての記事を書かせていただく、というのもこの件については同業者ーとりわけクラシック系の作曲家がそれぞれの見解を述べているが、クラシック系の人たちの見解にも正直違和感を感じるのだ。

勿論新垣氏をユーザーやファンを騙した「共犯者」のようにいうのは筋違いである、という点での見解は一致している。だがそこには現代音楽系と私のようにポップスや彼らのいう「商用音楽」に関わる人間としての意識のギャップが大きいと感じた。

例えば以下の記事がある

偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ-あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905

<前略>

週刊文春を手にする多くの読者が、「作曲科を出たけれど食べられず、ゴーストライターをさせられていた売れない芸術家」のように新垣君を誤解しそうな文面なので、これを真っ先に否定しておかねばなりません。

 新垣隆君は、日本で芸術音楽の作曲に関わる者で知らない人のない、彼の世代のトップランナーの1人として20代前半から注目されてきた芸術家です。

 雑誌の記事には事情を知らないライターの「分かりやすいストーリー」で「ピアノの腕前もプロ並み」などと書かれていますが、とんでもないことです。

 彼はプロフェッショナルのピアニストを養成するうえで最も高度に教育指導できるピアノの教授者で、何千人という学生が彼の教えを受けてピアノ科出身者としてプロの仕事をしています。音楽家としての彼の挌は国際的に見ても超一級の折り紙がつけられるでしょう。

<中略>

ちなみにここで、文春記事はいかにも現代の日本社会が陥りそうな誤った観点で「芸術音楽を戯画化しているので、一本釘を刺させてもらいます。こんな素人談義で新垣君のような才能にあれこれ言われては、冗談にもなりません。記事は、

 「一般人には理解しがたい不協和音を駆使する現代音楽の作曲家である以上、その作品が日の目を見ることは本人ですら想像できないのが、日本のクラシック界の現実だ」

 以下、よく聴いていただきたいのです。 私自身も含め、音楽そのものの可能性のフロンティアでものを作ろうとする作曲の人間にとっては「予定調和」をなぞるほど恥ずかしく、非創造的な「仕事のやっつけ方」はないのです。

 こういう表現で新垣君が100%合意してくれるかは分かりませんが、言わんとすることは通じるでしょう。

 世間で流通する商用の音楽は、既存の書法の使いまわしでできています。その方が耳に親しみやすいし、ヒットもする。例えば連続ドラマ「あまちゃん」の音楽はよくヒットしました。ウイットとして面白いとも想いますが、そこに専門人は独自の新たな労作を見出しません。

<中略>

数万円のギャランティで、この「断片から楽曲を組み上げ、オーケストレーションして納品する」仕事を請け負った新垣君に対して、偽ベートーベンはこんなふうに言ったそうです。

 「この作品はぼくの名前で発表したい。君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」

 これに対して新垣君は、

 「私は、お金とか名声が欲しいのではありませんでした。(偽ベートーベン)の依頼は現代音楽ではなく、調性音楽(和音をベースにした音楽、と注が ついていますが、週刊文春としてこういう表現しか取れなかったのでしょう。これは誤りですが)でしたから、私の仕事の本流ではありません」

 この「私の仕事の本流ではありません」という短い一言に、多くの本質が集約しているのです。

 つまり、自分自身が一から創意を持って創作する真剣なチャレンジとしての「仕事」(ライフワーク)ではなく、初歩的な、既存の、別の表現を取れ ば、さんざん手垢のついた既成のスタイルでの楽曲書き、これは言ってみれば、「作曲課題の<実施>」に近いものと言えるでしょう。

 音楽課題の「実施」という言葉は、受験などしたことがある人はすべて知っており、そうでない人は一切知らない「方言」の代表と思います。

<中略>

「彼の申し出は一種の息抜きでした。あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者だったら誰でもできる。どうせ売れるわけはない、という思いもありました」

 要するに余技ですよね。わざわざ自分の名をつけるまでもない、調性で書いた気の利いた小品。こういうのが息抜きになるのは、本当によく分かります。正直私自身も、そういう気軽な小品を書くのが嫌いでありません。また名前をつけるのに抵抗があることが少なくありません。

<後略>

長いので残りはリンク先を読んで下さい

 

この記事のいわんとしていることはわかるし、勿論私は「現代音楽」をカルトやオタクなどとは思ってはいないが、特に後半の部分に関しては現代音楽やクラシック系の人がポップスや映画、ドラマの音楽(彼らのいう「商用音楽」)に対して持つ偏見のようなものを感じるのでそれに対して一言書かせていただく

というのも今回の事件は結局その「偏見」の部分を音楽業界関係者につけこまれた結果起きた可能性が高いからである。

私は昔一時的だが現代音楽というものに関わっていた。音大の作曲家も受けようと真剣に考えていた時期があるくらいで、いわゆる現代音楽の世界も最近の事情は知らないが、まあある程度知っている。いわゆる「現代音楽」的な曲も作ったことがある。

だが私はやめてしまった。なぜやめたのかは以前の記事を読んでいただきたい。

特に私が気になるのは上記の記事で以下のコメントである

つまり、自分自身が一から創意を持って創作する真剣なチャレンジとしての「仕事」(ライフワーク)ではなく、初歩的な、既存の、別の表現を取れ ば、さんざん手垢のついた既成のスタイルでの楽曲書き、これは言ってみれば、「作曲課題の<実施>」に近いものと言えるでしょう。

つまり現代音楽系、クラシック系の作曲家にとって彼らのいう「商用音楽」というものは「作曲課題の実施」に過ぎない、ということ、まさにクラシック系の人たちが持つ典型的な発想、あえて言わせてもらえば偏見といっていい。私が思うにこの人たちがブライアンイーノの映像音楽や武満徹氏の書いた映画音楽について、あるいは60-70年代のロック音楽がどれだけ音楽的に斬新なことをやっていたか、それらすべての点をどこまで内容を理解した上でこのような見解を取っているか甚だ疑問である。例えば武満氏が映画「怪談」で作った音楽は現代でも最先端の感覚の音楽といってよく、今でもどうやってこれを作ったかわからないくらいである。

要するに余技ですよね。わざわざ自分の名をつけるまでもない、調性で書いた気の利いた小品。こういうのが息抜きになるのは、本当によく分かります。正直私自身も、そういう気軽な小品を書くのが嫌いでありません。また名前をつけるのに抵抗があることが少なくありません。

まさに私が問題としている点はここで「芸術音楽」をやる人間が「親しみやすい音楽を書きたいが自分の名前を出すのが恥ずかしい」なんていうこと自体既に音楽をいかに屈折して捉えているかの証明だと思う。まさに「現代音楽系」の人にありがちな商用音楽を見下すような典型的なステレオタイプな偏見である。

本来音楽は全ての人のために書くもので「エクリチュール」がわかる人だけのものではないはずだ。今回の事件はクラシック系の「商用音楽を書くのが恥ずかしい」などという思い上がりも甚だしい思考傾向もその背景にある。新垣氏が実際本当にそう思っていたかはわからないが、上記の記事を読む限りはその可能性が高い。今回の事件は現代音楽のそういう体質を逆に音楽業界連中につけ込まれた結果起きた可能性が高い。新垣氏は確かに被害者だが同時に現代音楽系の体質も問われている

実際現代音楽系の人も「新しい斬新な表現」なんて書いているが実際は「新しい音楽の芸術表現」なんてミニマリズム以来出ていないのだ。いわゆる新垣氏がいるクラシック系の「現代音楽」の世界なんてエクリチュールの複雑さのみ競い「現代音楽」という一つの形になってしまった。すでにひとつの形になってしまっていること自体、これこそ予定調和に近いし、はっきりいわせてもらえば音楽としては既に死んだ表現である。私が現代音楽をやめた理由はまさにそこにある。

文春のこの記事は

「一般人には理解しがたい不協和音を駆使する現代音楽の作曲家である以上、その作品が日の目を見ることは本人ですら想像できないのが、日本のクラシック界の現実だ」

この記事に私は同意はしない。(私自身も劇伴等で不協和音やセリー等を使う) だがあえていわせてもらえばクラシック系の現代音楽の世界の体質を考えると世間一般の人たちからこう思われても仕方がない面があることも認識すべきだ。こういう事情もあり、クラシック系の作曲家はこういう音楽業界系の事情にどうしても疎い。そのため今回のような損な役回りを何の疑問もなく受け入れてしまいがちである。そういう体質を阿漕な業界人に利用されてしまったのである。

それはこのジャンルの音楽の一般社会に対するスタンスの問題なのだ、「俺たちは高度な芸術音楽をやっていてお前らの音楽とは格が違うんだ」 そういう思い上がりが音楽に対する素直な感覚を阻害しているような気がしてならない。

勿論今のポップスーとりわけJ-popの現状は酷いものだ。確かにその意味でクラシックの世界とはある意味対極にある。しかしだからといってこの思い上がりが正当化されていいとは思わない。

芸術音楽の本来のありかたは彼らのいう「商用音楽」と芸術性を両立させた音楽を目指すべきであって、実は今歴史に残っている音楽は一部を除き殆どがそうなっている。ベートーベンなど当時は破格の作曲料を取っていたし、ストラビンスキーだって自分の作品で食うことができた。ガーシュインは「ラプソデイーインブルー」という不朽の名作を書きつつ「スワニー」というヒット曲も生み出した。ヒット曲のスワニーもかなり芸術性が高い。

本来歴史に残る音楽というのはそういうものであったはずである。「芸術音楽だ。わからん奴はバカだ」なんていう態度では後世の人からは尊重も支持もされない。

私がそういう音楽を書けるかどうかはともかく、少なくともそういうものを目指したいと思っている、できるかどうかはわからないが..

最後にこの記事はクラシック系、現代音楽系の人たちのいう「商用音楽、売れる音楽」に対する偏見について批判したもので新垣氏への批判ではないことを念をおしておく。あくまで新垣氏は今回の事件の被害者であり、彼を今回の事件の「共犯者」であるかのようにいうのはとんでもない筋違いである。

ということでこの件に関してはいささか書きすぎたので今度こそ以上終わりにさせてもらう。

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