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2013年9月 8日 (日)

2020年東京五輪に向けて日本を真の意味で「クリエイテイブな国」にするための考察

今朝未明、2020年の東京五輪開催が決まった。福島原発の問題とかの懸念は払拭されないままだが、それは別の記事で論じるとして音楽の1クリエーターとして私がもっとも懸念し忸怩たる思いでいること。

それは今の日本音楽界のクリエイテイビテイがあまりにもお恥ずかしいほど酷いレベルであるという点

はっきりいう。このままじゃ日本の音楽は世界中からの笑いものになる、音楽制作の現場にいる人間としてはこの状況を打開するために何かを考えないと、現状では日本人としてあまりにも恥ずかしすぎる。あと7年あるが、7年しかないということもできる。

とはいえ、今の音楽業界のトップに発想の転換をさせるのは100%不可能である。文系の人間に偏微分sinθcosθの入った複雑な数式を理解しろというようなものである。となると我々が独自で何らかの方法を考えて世界中をアッといわせるようなものを作っていくしかない。開会式でAKBやジャニーズのようなものだけを全面に押し出されてしまってはたまったものではない。考えただけで精神的な拒絶反応を感じる。

そのためにも何らかの方策を早急に考えなくてはならないが、その前に現代においてそもそもクリエイテイブとは何ぞや? ということの自問自答から始めないといけない。その中で次の記事の中にヒントがあるような気がする。

■クリエイティビティという言葉を振り回すのではなく、本質的に創造的であれ
http://www.kohkoku.jp/sp/201310

MIT Media Labの教授の石井裕氏がカンヌ広告祭で今年から新設されたイノベーション部門史上初めて"Cinder"というコンピューターソフトウエアが受賞した時のインタビューである。

映画祭とならぶ世界的にも重要な広告祭でコンピューターソフトウエアが受賞したこと自体が前代未聞だが、長い文章なので、重要なポイントだけ引用する。

<前略>

「クリエイティビティ」と口で言うのは簡単だけど、なにが本当の創造性なのかという根源的な問題。まず伝えようと思ったのが、僕らがMITでやっているエンジニアリングやアートを結びつけようとする方法論や物の考え方。

 

カンヌが初めてソフトウェア自体を、創造力として評価したんです。広告クリエイターや映像作家がつくる作品ではなく、その作品を作ることを可能にしたコーディングのアーキテクチャ自体に賞を与えようと。むしろ、作品そのものより、アーキテクチャ(創造を下支えするための構造)>自体のほうが創造的な時代なんじゃないかと。

<中略>

自分は理系だとか、自分はネクタイをしめているサラリーマンだというように、「ラベル」を貼った段階で、既に決定的に、自分の戦う空間を狭くしてしまっている。 インターディシプリナリー(専門領域を超えること)はすごく大事なんだけれども、理系、文系、デザイナー、アーティスト、技術者がコラボレーションするというのは、本当のインターディシプリナリーじゃない。 アーティストというだけで、C+を駆使して、コーディングすることが、全く期待されてないのはなぜか。プログラムが、どういうふうにつくられるのか、何なのかが理解できない。何がつくれるか、つくれないかもわからないで良いと思っている。それは大きな機会損失だと思う。 一方、エンジニアに対しては、アーティスティックな、まさにこういうコンセプチュアルな貢献がまったく期待されてない。それぞれ自分たちの役割分担の中にとどまっている。 そういう定義された区分けから産まれるもの自体に、明らかな限界があって、各人が美学と工学の両方をつかんでいなければ本当はダメなんです。すなわち、アート、デザイン、サイエンス、エンジニアリング、そしてビジネス、この5つのランゲージを全部しゃべれて、すべての世界に翻訳するに耐え得る深いアイディアだけをやろうとしなければ、これからは一切戦えない。ですから、理系・文系とか、あるいは課長・部長とか、メディアとかアイディアだとか、なんだとか、ラベリングが完了した時点で、ものすごく人間本来のルネッサンス的、躍動的な才能の半分が封鎖されてしまっているということ。 これから求められるのは、絶対に、ルネッサンス・ボーイズやルネッサンス・ガールズです。

<中略>

そういう意味でMIT Media Labがユニークなのは、芸術と科学といったような分類学自体もほとんどなくて、サイエンスをやりながら音楽をやったりすることとかが、スタンダード。最高のハッカーでありながら、すごいスカルプター(彫刻家)であるとか、コンピュータグラフィックスのプロなんだけれども、ダンサーであるとか、少なくともアート&デザイン、アート&サイエンス両方ですごくとんがったものがない限り、化学反応は起きない。そういう意味で各人の頭の中にそういったエージェントがいて、切磋琢磨しながら常に議論している。それが普通。

 

自分の土俵でないところの様々な分野に自分のノウハウを持っていってリアルタイムで翻訳してみると、そこでまた僕の頭が活性化する。そのリアルタイムの翻訳力、インプロビゼーション、自分と違ったコミュニティの価値観が刺激になる。違う業界のランゲージをできれば500ミリセカンドで理解する。次の500ミリセカンドで自分のアイディアを翻訳して投げかえす。その訓練がとても大事なんです。

昨日話されていた中でオーラリーの天体模型のハンドルの話が、とても印象的でした。血液など循環系、身体性から筋肉、細胞に至るまでを動かしているハンドル、そういった部分を人間になぞらえると、極めて多くの情報をアニメイトしていくこと、それらを同期していくことで我々は生きていると。

<中略>

カンヌフェスティバルも、クリティカルなセミナーのタイトルなどを見ていると、本当かよ、本気で考えているのかよと、議論をふっかけたくなります。この製品を本当にアドバタイジングしたいのか、このパッケージを、この会社を。 クリエイティビティ・フェスティバルと銘打つのであれば、その場しのぎの雪かきみたいなものは、やめて欲しい。
飛行機の機内誌のただページを埋めているだけの商品広告とか。21世紀に創造的に生きようとしている人がこれだけいる中で、「一体これは何ですか?」と思わず言いたくなるのもあるじゃないですか。創造性という言葉だけは会場中を走り回っているのに。

<中略>

問いをつくること。受験戦争みたいに、正解の存在が保証された問題を速く解く、間違いなく解く。あるいは、あったりまえのことを言う。日本の優秀大学系の人は、いわゆる古い意味での優秀なので、失敗したくないんですね。例えば「どう思いますか」と聞くと、「とてもおもしろいです」。確かにそういう考え方もあると思いますが、全く意味がないですよね、悪いけど。エントロピーが全く減らない。一言で言うと、人の人生を無駄にする。ピンぼけで7秒無駄にしたという話で。
君との対話を通して、僕は一体どんな新しい事を学んだのだろう?「とてもおもしろかったです。ありがとうございます」。どんなレッスンを学んだの?140字に要約して呟いてみて。顔が点になってしまう。だから、何を学んだかも言えない。学んでない。学んでも、それを表現できない。人に伝えられない。

<中略>

去年ここで審査員をさせていただき、ひしひしと感じたのは、カンヌフェスティバルで受賞している企業って、結局、広告だけじゃなくて、会社の業績も企業カルチャーも非常にうまくいっているブランドばかりです。Google、Apple、BMW、MERCEDES、NIKE、素晴らしいフィロソフィーを発信するという広告と、商品設計が世界をリードしているということが、ほとんどイコールというか、いい意味での連鎖反応になっている。 つまり「ものがたり」と「ものづくり」の関係性こそが、企業じゃないか

<中略>

クルマや家電、PCにおけるこのスペック競争。何か思考停止しているんじゃないのと感じる部分もある。More is Betterじゃなくて、Less is Moreという、そういう哲学でなければいけない。昨日の講演後の対談でも言いましたが、サイレンス、あるいは空白が大事だということ。
人々の想像力と記憶で補完されて初めて完成する作品の強さ。


だから、エンプティーな心と物体の間を埋めさせること。音とドットの間にサイレンスがある。それが日本の美であって、そこを完膚無きまでにあらゆるピクセルで埋めてしまうのは、センスレスではないか。うちの父はIBMのコンピュータのプログラマーだったんです。彼からもいろいろ学びましたが、彼が持ち帰ってくるIBMの広報誌が『無限大』というすばらしい雑誌で、そこには文化的・哲学的なすばらしい考察があふれていました。たとえば歌舞伎や能に対する感性の考察で、余白にどれだけの趣が構築されているかを論じていた。アメリカ人というのは、文化的な不安で、無言を嫌ってしゃべりまくるでしょう、でかい声で。日本の美は、サイレンス。あるいは、空間の白い部分。
余白の設計で受け手の想像力を生めることが、日本の美学のコアだと思う。

<中略>

他流試合、異種格闘技を通して、彼ら、彼女らが急速に伸びる、そんな環境を作り続けたい。 僕は、出る杭力、道程力、造山力の3つって言っている。 出る杭力って、結局、出る杭は、力いっぱい頭を打たれて、打たれて。だから、生き延びるためには打たれないところまで、出すぎちゃうしかないんだと。道程力は、僕の前に道はない、僕の後に道はできる。要するに、自分で道を切り開く。100m競争で人より速く走ることは競争じゃない。誰も分け入ったことのない原野を一人切り開いて、孤独に耐えて全力疾走する。そこには観客も審判もストップウォッチもないんだということ。最後の造山力は僕の経験から。僕はMITに来たときに未踏の山を登ろうとやってきた。しかし、結局山は自分で造らなければならなかった、ということ。僕はゼロから山自体を造り、それに最初に登頂することができたからこそ、MITで生き残ることができた。そういう真剣勝負の緊張感を学生にも伝えたい。

<中略>

2200年の子孫に、2200年の地球に、一体どういうメッセージを、どういう文明を、残すことができるか。

最近はネットで長い文章を読むのが極端に苦手になった人が増えているのでポイントを整理するとこういうことになる。

1.作品の前にアーキテクチャー「創造を下支えするための構造」、つまり作品がおかれている環境、形式そのものを変えることから考えること

日本人は特に「形から入り形から少しでも離れたもの」を嫌う人間が多い、音楽の世界は特にその傾向が強い。しかしまずそれを否定することから始めないと創造的にはなれない

2.自分のフィールドだけに閉じこもるのではなく他分野との「他流試合」を積極的に行うこと。そこから新しいアイデアがわいてくる場合もある

音楽の世界の人はとかく近視眼的というか、自分の携わっている分野以外には興味を示さない人が多い。しかしこれだけメデイアや情報が発達した現代だからこそ自分とは一見無関係に思える分野とのコラボレーションから思わぬ展開や発想が生まれる可能性がある。
余談だが私が最近、劇伴関係に力を入れているのも、こういう「他流試合」から何かアイデアが生まれるのではないか、という期待もある。

3.たえず「問い」をつくること。今のやりかたでいいのか、何よりも今の作品が作品の受け手とコミュニケーションを取れる作品なのか

表現はコミュニケーションである。これが基本。その上で絶えず自問自答し世の中のいろんなことに対して問題意識を持つ。
あえていわせてもらえれば「今の売れセンを作れ」などという発想は完全に思考停止の発想である。今の音楽業界は作曲、作詞のクリエーターに思考停止を要求しているのである。そこにはクリテイブな世界は存在しない

4.その上でこの表現が「日本人にしかできない表現か」「日本独自のものになるか」を考える

これは必ずしも日本の伝統美を入れろ、とか日本の伝統音楽の素材を入れろとかそういうことではないと思う。勿論それらを素材とするのも1つのやりかたではあるけど本質的な問題ではない。何が日本人にしかできないものか、はクリエーター一人一人が考えればよい。

5.最後にこの作品が次の世代に残るものであるかどうか

実はクリエーターの中に「残るものを作る」と考えることを嘲笑する人たちがいる。「そんなこと考えても無駄だ、歴史のみがそれを決めることができる」という観点からだ。勿論自分で自分の作品が次の時代に残るなんてことを決めることはできない。しかし少なくとも残ることを願って作品を作ることは悪ではないはずだ。いわゆる現代音楽とかいわれる曲で残る曲など殆どないだろうが、それ以外の音楽なら残すことは可能なはずだ。
そして何よりも上記のインタビューの中で石井氏が書いた次の言葉

2200年の子孫に、2200年の地球に、一体どういうメッセージを、どういう文明を、残すことができるか。

クリエーターはそのことをたえず意識すべきであり、情報やコンテンツがあふれかえっている現代では寧ろそれを考えることの重要性が増してきているような気がする。

私は現在「新しいサウンドコンテンツ」の構想、打ち出し方に七転八倒しているのもここの「答え」を見つけようとしているからではあるが、....

石井氏のこのインタビュー記事を読むとやはり世界はこちらの方向に動き始めているんだろうなと感じる。

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