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2012年6月 7日 (木)

ネットの論調、論壇に対する私の不信感の背景

既にご存じの方も多いでだろうが、私の以下の記事がyahooの「違法ダウンロード処罰化」に対する是非を問うページの中でリンクを貼られた関係で一昨日から現在にかけてものすごいアクセスが増大した。

違法ダウンロード刑事罰導入と「ネットの自由」の問題点ー“手段の目的化を何よりも優先する

■政治クローズアップ ネットの議論「違法ダウンロード刑罰化は必要か」
http://seiji.yahoo.co.jp/close_up/1100/

まあ慶応大の岸さんの記事に結果として私が支持する内容の文章を書いたのだが、予想の範囲内とはいえ私や岸さんの考えはネット内では圧倒的な少数派に属している。

だが多くのネット関係者には申し訳ないが私はこの違法ダウンロード等の著作権関係の記述に限らず、ネットの論調、あるいはネットやIT関係の話に関する論壇(そもそも論壇などという高いレベルのものかどうかも疑わしい)議論の進め方に関しては大きな問題があると考えている。はっきりいえば私自身は大きな不信感を持っている。

そもそもネット内では「多数派」の意見であっても世間全般の意見として「多数派」であるとは限らない。実は寧ろ逆のパターンの方が多い。だから私自身は仮に上記の問題でネット内の論調では圧倒的少数派であってもそれほど気にしてはいない。また世間一般のネットの論調、記事に対する信頼感は少なくともIT関係者、ネット関係者が考えるほどそんなに高くはないのでは、と最近思っている。

私がネットに関する記事全般、論調、論壇に関して問題が多いと考えるのは以下の5つの傾向からである。

(1) インターネット自身を「特別視」し、インターネット推進を全てのことに優先し、そのためにはいかなること行なっても許されるなどと考える(特権意識を持っている)傾向がある。

当たり前だがインターネットといえどもたくさんあるメデイア(媒体)の中の1つに過ぎない。だがいわゆるインターネット推進派、ITジャーナリスト、ITギーグたちの論調を読むと、インターネットというものが他に類を見ない特別な存在、メデイア」であると考えているとしか思えない時がある。

確かにインターネットは便利なツールであり、世界中とつながりテレビやラジオのように「地域」で限定された既存のメデイアとは違い「世界中どこでも」その情報をピックアップできるという利点がある。それは今までのメデイアとは違う、インターネットが他のメデイアの「差別化」ができる点である。それは確かに事実だ。

しかしだからといってそれを「特別な存在」他の分野のビジネスの拡大を阻害してでもインターネットを優先すべきだ、というロジックは少し違うと思う。先ほどの引用された記事はまさにそのことを問題としているのだが、要はインターネット推進他のいかなるものよりも優先すべき(政策のトッププライオリテイ)ーもっといえばコンテンツその他のものを犠牲にしてでもネット利用を推進すべきだという論法ー推進者たちの主張を見るとそう考えているとしか思えない部分がある。

だが、はっきりいってインターネットや情報化はこれからの産業で重要な位置を示すことは事実としても「それで景気が回復する」とか「たくさんの雇用をもたらす」などというのは幻想だということを既に我々は知っている。実際IT企業なんてそんなに大勢の人員を必要としないし、はっきりいってIT企業の業績が復活するより彼らが「旧態依然の産業」などといって見下す車などのもの作りの産業の業績が回復した方が現実問題として景気に大きなプラスの影響を与えることは既に実証済みである。IT企業が景気の牽引車になる、などと本気で考えている経済学者がいたとしたらそれはエセ学者だ。

最近は投機的価値すらなくなっている。Facebook株の現在の状況を見るがいい。

にもかかわらずいまだにネット推進派、ITジャーナリスト、ITギーグたちの論調は「ネット推進」を全てのことに優先すべし、などと受け取れる発言を続けている。何か自分たちをある種の特権階級であるかのように考えているように見える、つまりネット推進のためにはそれこそ犯罪すら許される、などといわんばかりである。もうIT企業に関してだれも幻想など持っていないのだからいい加減そういった論調を続けるのはやめるべきだ。

(2) 「ネット」の中の断片的な情報で「全てをわかった気になり」議論が「頭でっかち」の方向に行ってしまうことが多い

インターネットは確かにいろんな情報が簡単に手に入る。検索をすればいろんな知識を得られる。しかしそのことによって「自分が世の中をこと全てをネットを通じて手にとるように理解できる」などという錯覚に陥りやすい。

しかし検索,wikipediaを始めとする情報はたいての場合単なる「概要」であり、表面的なものをさらっとなでた程度のものに過ぎない。つまり断片的な情報に過ぎないのだ。

しかしその断片的な情報「自分が全てを理解した」かのように勘違いする人間がネットでは後を絶たない。

かくして専門家でもないのに専門家のような口を聞いたり、現場を経験したこともないのに現場を見てきたような発言が乱立するといった事態が発生する。表面的な知識によって「頭でっかち」になる典型的な例である。

「知識が多いということは必ずしも賢いということではない」 いや、もっとはっきりいえば中途半端な知識(情報)で頭でっかちになり、自分が何もかもわかったような口を聞くのは賢くなるのではなく愚かになる、ということだと思う。

例えば音楽のプロモーション等で「CDが売れなきゃライブで稼げばいいじゃない、それでやっていけるはずでしょ」などという議論もまさにその典型だ。自分でアーチストの営業現場なんか経験したこともないのに、ネットの誰かのいったことを受け売りでそれが真実だと思い込む。そんな論調があとを絶たない。これがインターネットの議論のレベルを著しく下げているのはいうまでもない。

(3)偶然であるにもかかわらず 「成功の一例報告」の情報だけが一人歩きする

私は大学で通信工学の中の情報理論(統計学)を専攻した。その中で当然統計の傾向分析という項目がある。その中で統計や傾向の分析を行なう際、一番あてにならないデータとは何か、ということを勉強した。

実は一番あてにならないのは「一例報告」つまり例外的ともいえる例でありそれは統計学においては寧ろ除外すべきデータとして扱うべきなのである。

ところがネットではこの「一例報告」-特に例外的に成功した一例ーという情報が独り歩きし、あたかも「いつ誰が同じことをやっても成功例になる」などという情報になりやすい。

「音楽や演奏を全て無料にすれば必ず成功する」などと議論はまさにその典型的な例である。津田大介氏によって複数例報告されているために「一例報告ではない」-という人がいるかもしれないが、いずれも「無料」にしたこと以外に様々な条件が重なってその結果として成功例になっただけで、「例外的な成功例」の範疇をいずれも出るものではない。

しかしネットではこの情報が独り歩きし、例外的な事項であるにもかかわらず例外的でない事例であるかのように広まってしまったのである。

人間というのはある情報を手にすると本能的に「自分にとって都合のよい方向」に解釈する傾向がある。その影響か「アーチストが無料にして成功する」=お金を払わなくていい、という「都合のよい情報」だけが独り歩きしネット内でそういうイメージができあがってしまったのである。 逆に失敗例はその数十倍例があるのだが、そういう例は全くネットでは広がらない、無視されている。それはそれが「自分にとって都合の悪い情報」だからであろう。 まずいことにネットでは「自分にとって都合のよい情報」だけが広まる傾向があるのだ。

(4)「否定」「批判」情報を極端に嫌う傾向がある

これは特に最近の若い人に顕著なのだが今のネットに「ネガテイブさ」「批判精神」というものを極端に嫌う風潮が確実にあると思う。

先日も別記事で引用した精神医学者香山リカの以下の記事にも書いてある。

香山リカのほどほど論のススメー「ノマド」にとまどう「いい話にはウラがある」という感覚がなくなっている?

http://diamond.jp/articles/-/19288

素直なのは悪いことではありませんが、なぜ「そうはいってもキレイごとだけじゃなくて、ウラもあるだろう」と思えないのでしょう。

 要因の一つに、彼らが日常的に接しているSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は対象に直接つながっているため、自分がその対象の全部を見ている、理解しているような錯覚に陥ってしまうことがあるかもしれません。

 また、デジタルでは少ない文字数でいいきるトーンになりやすいため、物事を短絡的に捉えてしまう傾向も強まっているように感じます。

 つまり、物事は多面的であり、複雑な事情や経緯があるということを想像できない人が増えている気がしてならないのです。だから、逆にネガティブな情報に接すると、途端に拒否反応を起こしてしまうケースもあります。

 以前、女子学生たちに、「仕事と結婚・育児の両立っていったって、現実にはいくら頑張ってもうまくいかない人だっているんだよ」という話をしたところ、「せっかく頑張ろうとしているのに、ネガティブな話は聞きたくない」「ガッカリしてやる気が失せてしまった」という反応が返ってきました。

実際私などもあるこに関して批判記事を書くと「そんなことを書くなんて許せないっ!!」といった書き込みで絡んでくる若い子もいたりした。あたかもあることに関する批判や否定する行為を犯罪行為であるかのように感じているようである・

インターネット全般に関する記事に関しては特にその傾向が顕著で、かくして「インターネットは他のメデイアより優れている」とか「インターネットで革命を起こす」といった類の記事でないと納得しない輩が後を絶たないことになる。そしてそれを否定したりインターネットに関する「負」の部分を指摘しようもんなら、もうブログ炎上「荒らし」のオンパレードである。インターネットの問題点を指摘することをあたかも自分が誹謗中傷を受けたかのように考える人間がいまだに少なくない。

だが、それは別記事でも書いたが非常に危険なことである。これは結局は情報を無批判に受け入れ、鵜呑みにする行為であり非常にリテラシーの低い状態になるからである。

私の見るところネットの書き込み、記事の類の大半がこれにあてはまるような気がする

(5)上記4つの傾向でネット内の論調が一定方向に偏ったものになりやすい。

中川淳一郎さんのウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)にも書かれているように今ネットの論壇(そもそも論壇などと呼べるようなレベルの高いものかどうかは疑わしい)は「特定の人物」に固定される傾向があると書いてある。私の見るところ誰が誰とはいわないが、全員ではないにしろ、今ネットの論壇として揚げられている人たちの大半が上記の4つの傾向の少なくとも1つを傾向として持っている。そしてその論壇といわれる人たちにはネット内で「信者」がおり、その論壇以外の論調を受け付けない傾向があり、そしてその論壇といわれる人たちのネット内での影響力が突出して高くなってしまう。

かくしてネットの中の論調、記事、主張というものがある特定の方向に偏ったものになりやすい。それが私がネットの中の論調に対して不信感を持つ最大の理由かもしれない。

私の記事を読んでもらえばわかるが、私は音楽業界の衰退の原因が全てネットのせいだなどとは言っていない。だがネットのこうした論調の傾向は間違いなく音楽文化を文化として尊重しクリエーターに対して一定の敬意を示す、といった観点を著しく後退させているのは否定できない。

池田信夫氏のように著作権を持つ=特権だ、などと暴論をいう人も困るが、我々は別に特権をよこせなどと要求しているのではない。ネットを始めとする情報環境の中で普通に健全に音楽活動で生活できる環境にして欲しいと思っているだけである。「ネット推進のために違法ダウンロードに目をつぶり犠牲になれ」というのは真っ平ゴメンだ。

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