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2010年1月 3日 (日)

新春コラムーいわゆるポストモダン時代のルーツ音楽の存在(例によって長文です)

お正月ということでいろいろ考えたりしていますが、今日はちょっと難しい話。難解だと感じた人は読む必要はありません。

だけどクリエーターとしては今後食べていこうと考えている方は自分の生き方を考える上で極めて重要なのでなるべく読まれるほうがよろしいかと

実は今回のこの考察は日本の情報社会論者の東 浩紀氏の次の著書に関して私が長い間頭の中で考えをまとめていたことをこのブログに記すものである。

<参考文献> 動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) ;東 浩紀著

これに関する私の考えを述べる前にまずフランスの社会学者ボードリヤールが定義したシュミラークルという言葉について説明しなければならない。シュミラークルとはあるオリジナル作品を「データベース化」し、そのデータベースをもとにオリジナル作品のコピー作品(いわゆる同人作品)が生まれ繁殖し、オリジナル作品は絶対的な価値を失い、すぐれたコピー作品と同等になる。こういった作品をシュミラークルという。

それを踏まえて上記の本について説明すると

かつて近代国家を近代国家たらしめていた政治や経済のシステム。イデオロギーや生産流通の方式。これらの総称を「大きな物語」と呼ぶ。ポスト近代にあってはこれらのシステムは有効性を失い、その空白を埋めるようにしてオタク系文化が登場する。かつては「大きな物語」を通して自己を決定していたのが、ポスト近代では逆に、自己が物語を読み込むようになる。近代が「大きな物語(世界)」→「私」というツリー型のモデルであったとすれば、ポスト近代では「私」→「世界」という世界観になる。この世界観をデータベース・モデルと呼ぶ。 その空白を埋めるのが同人作品ーシュミラークルでありデータベース型社会をシュミラークルが席巻する。そしてオリジナルであろうとコピーであろうと差を問わずに同等に扱い、自己の快感原則を満たす商品と戯れる消費者が登場する。このような状態をフランスの哲学者コジェーヴは「動物化」と呼んだ。要するにすべては情報に還元されてしまい、それを消費する消費者がいるということになる。

要約するとこういうことである。

1.「ロールモデル」が消失した。「こうしなくてはならない」などという「定型」が消失した。

2.すべては価値中立的である。なにがよくて何が悪いという考え方は意味を失った。

3.すべての文化が「データベース」に解体される。データベース同士も価値中立的である。

4.創作者側から、そのデータベースを解体して組み合わせて作品を作る行為が行われる。

5.そうやって作られた作品は、全てオリジナルとコピーとの区別がつかない。=シュミラークル

6.消費者側にとっては、その作品はすべてオリジナルとコピーとの区別がつかないー(=情報に還元される)「同じような」作品群になりそれを消費する。

7.そしてそれらシュミラークルは自己増殖する

8.そういう消費者の振舞いを、「動物的」であるとする。それが起こった原因は、厳しい生存競争から解放されて倦いた人間が快楽だけを求めて動物的に反応しているから哲学者コジェーヴは「動物化」と呼ぶ。

確かにテレビ放送が行なわれたり、PVのDVDが発売されても殆ど同時にYou tubeとかにアップされるし、ニコ動などはまさにシュミラークルそのものである。

実は私の知り合いの作曲家でこの東氏のシュミラークルの考え方を応用した試みをしようとしている人間がいる。昨今の音楽のありかたについて、オリジナル=ルーツ音楽と考え、ルーツ音楽のシュミラークルが増殖することによりかつては、「あるジャンル」とちゃんとわかるように」引用されていたものが、ゼロ年代においては、あるジャンルを構成する要素がばらばらに解体されて、R&Bのリズムでロック的なギターが入り、ラップをする、といういったような様相を帯びてくる。「ジャンルを構成する要素がばらばらデータベースに解体される」。それによってルーツ音楽の価値というものが事実上意味をなさなくなり、全ての要素は相対的なものでしかない。

よって彼は、「ルーツを知らなければいけない」という論には反対の立場をとりますが、「ルーツを尊重すべきだ」という論には賛成という立場を取り、それらのデータベースによる差異化をどう上手くやるかによって今後クリエーターの価値が出てくると考えているようだ。そしてそれは最近のJ-POP系のクリエーターのかなりの人間がそのように考えているようである。

さて、これに関する私の考え方を述べさせていただく。

まず東氏の昨今のネットや同人系の動きに関する分析に関しては確かに当たっている面はあるが、いくつかの疑問もある。

1. オリジナル作品とシュミラークルが作品的に同等というが、そもそもオリジナルが「それなりの魅力」を持っていなければそもそもシュミラークル自身が発生しないであろう。その「魅力」(例えばなぜ「萌える」のか、なぜ「はまる」のかについて)のデータベースについてはこの本では触れられていない。

2.もしシュミラークルな作品がオリジナルをしのぐとしたらそれはどのような場合なのか、そもそもシュミラークルな作品は「オリジナルと同等」と勘違いされているだけで作品クオリテイ的にオリジナルと本当に同等なのか。(例えて云えば宝石のニセモノを本物であるかのように消費者が買うのと同じなのでは?)

あと上記の作曲家のようにデータベースによる音楽について話をしよう。シュミラークルの理論からすると、ロックもジャズもR&Bもクラシックも全て「相対化した」音楽の手法というデータベースの一種に過ぎないという。つまりそれらのデータベースの「組み合わせ」に過ぎないのだが私が考えている大きな疑問の1つに、ではその「組み合わせ」によって人を動かせるほどの表現になるか、ということである。

音楽手法のデータベースというのは単なる作曲技法のエクリチュールに過ぎず、それは単なる表面的なものである。しかしその組み合わせで本当に「ノリ」とか「音楽の即興性」とかを表現できるものであろうか?ーつまり魅力」というものがデータベース化(オタク文化で云えばえばなぜ「萌える」のか、なぜ「はまる」のか、に当たる)できるのか?ということである、東氏はできると考えているようだが文化というのはそんな単純なものではない。

音楽に関していえば作曲技法のエクリチュールの機械的な組み合わせで確かに理論的には音楽ができる。だがそれは音楽の中の表面的な部分に過ぎず、それが「カッコイイ」「ノリのいい」音楽になるかはまた全く別の話である。コンピューターミュージックの黎明期にイリアック組曲という音楽史上初めてコンピューターで作られた音楽があった。それは音楽のデータベースを元にその組み合わせと情報理論を用いて作られたものであるが、歴史的には意味はあるものの音楽的にははっきりいってつまらないものである。

つまり私がいいたいのは表面的なデータベースだけを取り入れてもそれはその音楽のデータベースの本質「エッセンス」を理解したことにはならない。ということである。これは私が以前警鐘を鳴らした現代の情報社会の「わかったつもり症候群」にも通じている。「わかったつもり症候群」というのは断片的情報のみで判断する傾向のことをいい、データベースの表面的な部分だけを見てそれでそのデータベースの全ての部分を理解している、と勘違いしてしまうことをいう。例えば音楽でブルースは12小節で構成されているという基本中の基本を知らないで、昨今のJ-popの「R&B風のデータベース」で作られた音楽を聴いて自分がR&Bの全てを理解している、と錯覚してしまう点である。実際最近の若者にこういう人間が少なくない。勿論R&Bに限らない、ロックを始め他の音楽でも同様の傾向が見られる。

参考:■情報社会の落とし穴(1) モノを知らない人が増えている
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20081031

この「わかったつもり症候群」は情報社会では極めて危険なことだと考える。そして全ての音楽のデータベースの表面的な部分のみをさらって組み合わされた音楽はどういうものになるか、おそらくこの音楽手法のデータベースの組み合わせでできる可能性があるのは例えて云えば「ノリのないロック」「即興のないジャズ」風のポップスだったりする可能性が高い。

あなたはそんな音楽を聴きたいと思いますか? 少なくとも私は聴きたくない。

あともう1つ私がポストモダン論者の観点で納得できないのは「既存の共同体の否定」である。ポストモダン論者は「真理」「道徳」「共同体」といったものに価値を見いださず、むしろそうしたもの はかえって自分たちを抑圧する存在であるとして、そうした世界から「軽やかに」「逃走」することを主張する。インターネットで世界がつながり「グローバルスタンダード」(但し多くの場合アメリカの価値観と同一視される)なるものが叫ばれると共同体そのものの意味がなくなる、とされる。

だがちょっと待って欲しい。これらはあくまでネットや情報を通じたバーチャルな世界の話ではないのか、ではリアルば面において本当に共同体というものが意味がなくなっているのか?

確かに東京とかニューヨークといった大都市ではそのような共同体にリアリテイがないというのもわかる。しかしヨーロッパの南(スペイン、イタリア、南フランス)や日本なら地方都市や沖縄を見てみるといい。インターネットで世界中つながっているにも関わらず共同体は確固として存在する。かれらはグローバルスタンダードによる「世界との均質化」を拒んでいる人たちである。(ちなみに地方都市の方がネットやBS CS衛星放送の使用頻度は大都市より多い)

実はそれを踏まえていうがそういったポストモダン時代による共同体の崩壊、というのは東氏のようなポストモダン論者が考えるほど起きてはいないのだ。そしてその「共同体」をつなげているのが音楽である。

アメリカのブラックコミュニテイは伝統的なゴスペルやR&Bが生活に根付いておりアメリカの黒人の大半はその生活に根付いた音楽を体にしみ込ませている。アメリカの白人のカントリーにしても同じ、その他スペインのフラメンコ、イタリアのカンツオーネ、全てそうである。つまり単なる表面的なデータベースではなく、音楽の精神的な「エッセンス」として彼らはルーツ、ファンダメンタルを形成している。但し、日本には残念ながらそれがない。唯一あるのは沖縄の人たちで、沖縄の人たちには生活に音楽が根付いており、沖縄出身のミュージシャンはそれらを「データベース」としてではなく「エッセンス」としてそれを持っている。この現状を見るにつけそれらを持たない日本本土のミュージシャンは決して沖縄のミュージシャンには勝てないなという印象を持った。

ルーツの音楽は「エッセンス」であり、それは「ノリ」とかリズム感とか、即興性、そして表現力そのものである。それらは1テーク、1テークは「データベース化」は可能かもしれないが法則化はほぼ不可能である。つまりルーツの「エッセンス」を完全にデータベース化することは不可能である。ということができる。

話が難しくなったが要はシュミラークルの時代でルーツの音楽ーつまりオリジナルでいずれシュミラークルと同等になる、といわれている時代でも結局はシュミラークルは所詮コピーの一種、表現力を伝える「エッセンス」まではシュミラークルはコピーできない、仕切れないのではないかと考える。「データベース」は所詮表面的なエクリチュール以上のものではないということである。

確かにポストモダン論者や情報社会に関する分析に関しては当たっている面もなくはないが、全般的にやや頭でっかちな面があるのは否めない。分析対象がデータに偏重しており、この動物化するポストモダンもクリエートする現場、映像文化を始め、音楽そのものの本質を理解している人間の発想とは思えない。もっともこれはIT系論客全般にいえることかもしれない。

いずれにせよ「エッセンス」のない音楽がよい音楽であるはずがない。「データベース」の組み合わせのみで作られてできる音楽は「ノリのないロック」「即興のないジャズ」風のものになる。例えどんな流行っている音楽でもあなたはそんな音楽を聴きたいと思いますか?

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