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2010年1月28日 (木)

改正著作権法"ーダウンロード違法化について

さて、ご存じの方も多いでしょうが今年に入って権利者に無断でアップロードされている音楽と映像を、違法ファイルと知りながらダウンロードする行為が違法とする"改正著作権法"が施行されました。

業務等の都合で記事のアップが遅れたが、一応当ブログも音楽業界の今後に関するブログなのでこれに関する私の見解を述べさせていただく。しかしその前にインターネットに関する私の考え方がここ数年で大きく変わったことを告白しなければならない。

まず私もネット草創期にはインターネットの可能性に大きな期待をいだいていた人間で、インターネットによってお金をかけずにメジャーと同様なプロモーションが可能になるのではないか、という大きな期待を持っていた時代があった。つまりネットによるブランデイングが可能なのではないか、という期待を持ってさまざまな試行錯誤を続けていた。しかし先日の私の記事インターネットによるブランデイング敗北宣言」にも書いたが、それらは残念ながら幻想に過ぎないことを痛感した。これはマスメデイアで流れている「ネット万能論」「IT夢物語」への私自身の決別でもありネットの本当の実情を目の当たりにしたうえでの結論である。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)  の中川氏も伝えているように、ネットの現状は非常にドロドロした「B級的」なものであり、マスメデイアで流れている「ネット万能論」「IT夢物語」は実情からあまりにもかけ離れたものであることは実際にサイトやブログ等を運営していて肌で感じていることである。それに関する私の見解や中川氏のこの本を支持する人たちの見解をまとめると以下のようになる。

1.ネットで受けるものは基本的に「B級ネタ」で俗っぽい

2.基本的にはバカで暇人がネットの影響力や発言力を担っている。

3.西村ひろゆき氏がいうように「ネットの基本技術」は出尽くしており、もはや新たな技術は生まれない。   

上記の3についてだが、個人的には「ひろゆき」こと西村ひろゆき氏は好きではないのだが、しかし自らの管理経験からネットの実情はよく理解している。「ネットの可能性」を云う人がいるが実はネットの基本技術はもはや出尽くしており、あとはどれだけ高速になるか、どれだけ機能が組み合わさるかの違いでしかないことは昨今のパソコンの現状を見て明らかである。つまり「ネット万能論」「IT夢物語」が流れている一方で実情、実態を見ると我々はインターネットの基本的な雛がたはほぼだいたい出尽くしているといっても過言ではない。

さて、これを踏まえていうが、私はこのダウンロード違法化での権利者側とMIAUを代表しての津田さん、そして主婦連合会の方との議論で過程で漏れ伝わっている内容は私も読んできて思うに、(ITメデイアの記事だが..)やはりMIAU側の人にまだ「ネット万能論」的な見解を強く持っているという感を払拭できないのだ。(特にMIAUの白田秀彰法政大学准教授にはそれを強く感じる) 

勿論インターネットの新たな可能性を摘んでしまうのでは、という議論はわからないではない、だがMIAUの人たち全体を見ていて思うのはやはりネットのドロドロした部分、醜い部分をあまり見ていないような印象を持っている。

詳しくは以下の記事をお読み下さい。

■「ダウンロード違法化」なぜ必要 文化庁の配付資料全文
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/20/news110.html

■反対意見多数でも「ダウンロード違法化」のなぜ
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/18/news125.html

つまりMIAUはネットユーザーを性善説で論じているようだが、先ほどのウェブはバカと暇人のもの  の中川氏の本にも指摘してあるように,またネットの現場の実態を客観的に判断しても「ネットとユーザーに対する性善説、幻想、過度な期待は捨てるべき」である。MIAUの人たちの主張を見ているとどうしても「ネット万能論者」の集まりに見えてしまう。この人たちは2ちゃんやmixiだけでなくネットのドロドロとしたイヤな部分の実態をどれだけ知っているのだろうか?

尚、主婦連合会の方の議論も「消費者が買った以上、消費者の自由意志にゆだねるべき」という考え方のようにみえるが、その議論は「物品」だったらそれで正しい。しかし「知財」「物品」ではないのだ。だから個人がi-podで楽しむのと、勝手に第三者が音楽等の「知財」をダウンロードできる点を同じものさしで論じたら必ずおかしな議論になる。第三者が自由に無償でダウンロード可能になった時点は知財の権利は損なわれるのだ。そこがどうして理解してもらえないのだろうか?購入したのだからあとは消費者が煮て食おうがやいて食おうが自由、などという考え方で「知財」を論じるのは的外れである。「物品」「知財」は同じ商品でも性質が全く違うのだ。そこを理解して欲しい。

いずれにせよ"改正著作権法",違法ダウンロードで罰則はないがどれだけ効果が出るものであろうか? とにかく権利者も消費者も満足できるようなネット社会になってほしいと切に望む。

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2010年1月25日 (月)

作家の著作権をないがしろにする業界が「著作権を守れ」といっても説得力はない。

さて、先日のCDショップ大賞の第一回の発表が行なわれましたが、とにかく公正な投票によって決まるー本来なら当たり前のことが日本では殆ど行なわれてこなかったこの実態、これからいろんな意味で、いろんな面で大変だとは思いますが、是非関係者にがんばっていただき健全な音楽業界に戻していただきたいと思います。

ちなみにランキングについてはこんな記事があります。

「金で買ったランキング!?」新人歌手ICONIQの"着うた1位"に疑問符

http://www.cyzo.com/2010/01/post_3682.html

さて、昨日のブログでも少し触れましたが同じ「サイゾー」の記事で

作詞も作曲も......実は自分で作ってない? Jポップ界の"偽装表示"疑惑

http://www.cyzo.com/2010/01/post_3654.html

まあ「サイゾー」というネットメデイア、情報の信頼性に問題がない、といえば嘘にはなるがしかし大手メデイアが絶対に扱わない情報を報道するし、時々正しいことも報道しています。いわゆる芸能ワイドショー系の報道内容が殆ど信頼性がない現在、それよりは参考になると思います。特にここで書いてあることは音楽業界で働く人間としてはほぼ規定の事実といっていいです。

それと同時に、バンドマンや歌手のことを「アーティスト」と呼ぶ習慣も一般化した。「自分で作って、自分で歌い、さらにルックスもいい」というのが、音楽界で活躍するスターの条件となった感もある。しかし、ある音楽関係者は声を潜めてこう話す。

「実は、プロの作家に楽曲を提供してもらっているのに、あたかも自分で作ったかのようにして発表するアーティストは多いんです。自分で作った、と述べたほうがプロモーションの場でも盛り上がるでしょうし、ファンからも尊敬の眼差しで見られますからね」

 音楽業界でそうしたケースの代表格と目されているのが、俳優業もこなす大物歌手Gだ。彼の楽曲のほとんどは本人名義の作詞・作曲クレジットで発表されているが、実はその大半はプロの作家の手によるものだという。

「Gがすごいのは、インタビューなどでは100%自分で作ったように話すことですね。作家からレクチャーを受けた内容を整然と話すのは、さすが大物俳優(笑)。メディア側が気付かないケースも多いようですよ」(前出関係者)

実はゴースト作家の存在というのは音楽業界では半ば公然と当たり前のように存在しています。また誰かが書いた曲を土台にして別の人間が全く別の作品を作る、なんてこともよく行なわれます。(私も何回かやられたことがあります) そしてそうなった場合本来の作家にはクレジットはおろか一文も支払われない場合があります。(はっきりいって盗作でしょう) 

これらは嘘ではありません。しかしこの実態を訴えた人間が事実上業界より永久追放されたケースもあります。

ですからこのサイゾーの記事などは我々からすれば「何をいまさら」という記事なんですが、今までこういう記事は音楽事務所がつぶしていたために表沙汰にはなっていません。

私はそのためここ十数年、コンペというものにもわざと参加していませんし、そういう作業を行なう事務所とのつきあいも避けています。どこがこういうことをやっているかという固有名詞はさすがにここではいえませんが...

しかしこういうことはいえます。CDコピーのせいで音楽業界が駄目になった、という以前に一番作曲家や作詞家の権利をないがしろにしているのは音楽業界自身だという事実がある、という点です。アーチストの権利、著作権を守るなどといっても業界自体が作家の権利をないがしろにしているようじゃ説得力も何もあったもんじゃありません。

業界自身が著作権の決め方をいい加減にしているんだから一般消費者がさらにいい加減になるのも仕方ないのかもしれません。

アーチストや著作権を守るまえにまず自らの襟を正さないと不正コピーや著作権侵害の動きを止めることはできないでしょう。 本気で音楽業界を再生させたいのならまずそこからメスを入れるべきだと思います。


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2010年1月22日 (金)

音楽業界の改革の予感?ーCDショップ大賞

昨日は自分のイベントとかがあったのでコメントが遅れてしまいましたが、昨日全国のCDショップの投票によってアーチストを選ぶCDショップ大賞の発表が行なわれました。

http://www.cdshop-kumiai.jp/cdshop-taisho/

詳しい受賞者は上記のリンクを見ていただくとして、今まで既存の「日本レコード大賞」を始めとする賞自体はそれを受賞することによってCDの売上に貢献する、ということはなく逆にある意味で音楽事務所の政治力もからみ「音楽ユーザー」から離れている部分があるのは否めませんでした。このCDショップ大賞は投票の集計結果によって決まるという意味で公正な審査をモットーとしている画期的なもので、それによってCD売上にもよい影響を与える等の期待がもたれています。

まあCDの販売不振の時代になぜCDショップ大賞なのか?という疑問の声や「音楽配信」の時代にパッケージはもはや時代遅れである。といういわゆるIT系の人たちからの声も出ていたようです。しかし私が以前このブログでも書きましたように「配信があれば全てのモノの商品は無用の長物である」という配信を絶対視する人たちはエンタテインメントの現場や産業の本質をあまりにも理解していない見解であると思います。なぜならエンタテインメントはファンあってのビジネスであり、ファンというものは「モノ必ずしもCDとは限りません、Tシャツやその他のノベルテイもあります)を欲しがるものなのです」

実はこのCDショップ大賞の仕掛け人は私がよく知っている音楽制作会社の社長のS氏で、音楽業界をよく変えたいという強い情熱を持っている方です。時々その情熱が強すぎて、なおかつ少々ざっくばらん過ぎる(?)発言の仕方からmixi等のコミュニテイで「バカと暇人」にからまれて炎上状態になることもあるんですが(苦笑) 、その熱意と実行力、勇気には心から敬意を表したいと思います。

ただ残念なのは今回のCDショップ大賞ーこれだけ盛り上がっているにもかかわらず、それによって一番恩恵を受けるはずのCDショップチェーンで広告の面で協賛した会社がただの一社もなかった、というのは気になります。

もうかりそうなものはただ乗っかるだけ、しかし自分からは何もしないしたいした協力もしない、というのはちょっといかがなものでしょうか。S氏が最近機嫌が悪くなる理由はわかりますね。まあ死に体の業界なんてそんなもんかもしれませんが...

それにしてもちょっと前までは業界の惨状を語ることすら業界内ではタブーでした。私などはいまだにこのブログで圧倒的なPVがある「コラム「音楽業界の現状と将来、そしてある取るに足りない者からの業界への提言」(長文注意)」

http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2006/07/post_1324.html

を書いたときなんか複数の脅迫めいたメールが私の所に来ました。「お前二度と業界で仕事できないぞ!!」 「お前なんかつぶすの訳ねえぞ!1」 etc etc (笑)  この人たちは業界が今のような状態になっても考え方は変わらないでしょうか?

そういえば先日ネット雑誌「サイゾー」からこんな記事がアップされました。

作詞も作曲も......実は自分で作ってない? Jポップ界の"偽装表示"疑惑

http://www.cyzo.com/2010/01/post_3654.html

ちょっと前だったら間違いなく音楽事務所につぶされた記事です。こういうことを大っぴらに記事にできるようになっただけでも少しはマシな世の中になってきたのかな、という期待もありますね。はい。実は音楽業界の中ではもう半ば常識です。これについては別の機会に書きます。

もはや死に体の音楽業界、今日のCDショップ大賞を始め少しはよい方向に動いてくれるような気がします。

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2010年1月20日 (水)

インターネットによるブランデイング敗北宣言

さて、このブログをよく読んでくださっている方は私が音楽において従来の地上波のタイアップといった手法以外の新たなプロモーション方法についてさまざまな試行錯誤をしてきたことはご存じだと思う。ロングテールマーケテイングからアフィリエイト、ウイジェット、それらによる口コミ効果等、私もさまざまなことを行なってきた。一部の人はご存じの通りネットラジオも運営している。しかしはっきりいおう、上手く思い通りに結果が得られたものは殆どない、といってよい。

こうした時先日前々から読みたかった本を読む機会があった。元博報堂で「テレビブロス」の編集者、アメブロのニュースサイトの運営者の中川さんの本である、

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ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)      

この本に関する詳しいレビューはこちらをご覧いただくとして、http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20100116

この本は同時にネットのプロモーションやマーケテイングに焦点をあてており、その部分は私自身もおおいに参考になった。特にブランデイングの件に関しては考えさせられた。ここではそのブランデイングについて述べることにする。

実はこの本でネットで受けるものは基本的に「B級ネタ」であり企業のいうところのブランデイングはできない、と書いてある。つまりブランデイングとはキレイ、カッコイイ、おしゃれ、というイメージを構築することだがインターネットユーザーの嗜好、ネットで受けるものとは著者の中川氏によると

1. 話題にしたい部分があるもの、突っ込みところがあるもの
2. 身近なもの、B級なもの
3. 非常に意見が鋭いものー本当にすごいもの
4. テレビで紹介されているもの、テレビで人気があるもの、ヤフートピックスが選ぶもの
5. モラルを問うもの 
6 .芸能人関係のもの (井戸端会議、ワイドショー的ネタ)
7. エロチック関係、美人関係
8. その他時事性、タイムリーなもの

となるそうである。要は品がよいもの、美しいものは受けない、つまり企業がいうところのキレイ、カッコイイ、おしゃれといったブランデイングはできない ということである。

実は私自身、そういわれてみればかなり納得できるのだ。私は癒し系ボイスを売りにしている奥津恵というアーチストを売り出そうとしているし、癒しの音楽チャンネルというネットラジオも運営している。特に後者のネットラジオは現在podcast登録者4万三千人を獲得しているが、最近はやや頭打ちで伸び悩んでいる。そしてネットラジオでもアキバ系、イロモノ系の視聴者獲得のペースには遠く及ばない。これはなぜなのか、ずーっと悩んでいたのである。やはり奥津恵癒しの音楽チャンネルもインターネットにはキレイすぎるのであろうか?

恥ずかしながら中川氏が指摘するようなネットで商品が語られまくり自社ファンが自然に増えるという大企業がよくやる勘違いを私自身もものの見事にやってきたように思う。中川氏がこのウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)  で書いてあることはネットを使っていれば思い当たることばかりであり、かなりネットプロモーションに関して正しいことを書いているように思う。

インターネットでプロモーションは無駄だとは云わない。予算、費用のない者にとっては低コストでプロモーションできる有効なツールであることは確かであり、それを否定する気は毛頭ない。しかし結論からいってインターネットでプロモーションする場合、サブカルチャーレベルまで名前を広めることはできるかもしれないが、それ以上のレベルにはB級もの、イロモノ、H系等でない限りは行かないだろうと思う。これは私自身も実際自分でやってみて痛感している点である。そしてサブカルチャーレベルで終わってしまってはブランデイングにはならないのだ。

かといって既存の地上波テレビのタイアップ手法はリスクが高すぎるものになっている。しかしいずれにせよリアルな部分と組み合わせて地道に進めていくしかないのかもしれない。癒しの音楽チャンネルも計画をたてているが、何らかのリアルな部分を組み合わせて視聴者を増やしていこうと思っている。しかし期待するほど人を集めるのが難しそうな感じだ。なんせ「癒されるし」「キレイな」ものだから... 確かにネットで人を集めようとすること自体は意味があることだけど...

この中川氏のウェブはバカと暇人のもの  の副題は「現場からのネット敗北宣言」とある。おそらく光文社のスタッフが考えたものだとは思うが、敗北したのは巷にいまだにこれでもかと流れている「インターネット理想論」「IT夢物語」だと私は理解している。私も以前、このブログの記事に書いたがITジャーナリストといわれている人たちに極めて批判的な見解を持っている人間だし、アメリカやシリコンバレーがこうだから日本もこうなるべきだ、といった議論やマスコミがこれでもかと流す「IT夢物語」にはうんざりしている

私も結局相当IT革命論に振り回されたようだ。A.トフラーが「情報革命が来る」と説いたのは今から25年前だが、思うにたぶん、情報革命≠IT革命 ではないだろうか。これも前の記事で書いたが情報革命が起きるとしたらITとは全く無縁のところで起きるのかもしれない。

インターネットはBtoB(企業間取引、一対一の取引)のマーケテイングには非常に有効である。BtoCもサブカルチャーレベルならある程度有効である。しかし爆発的に一般コンシューマーに売らせる-マスに対するマーケテイングには向いていない。

というわけで私のインターネットによるブランデイング敗北宣言をここでさせていただきます。

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2010年1月 9日 (土)

「めちゃ×2イケてる!スペシャル」 だめだ!! 耐えられん 吐きそうだ!!

うちの子供は喜んでみているんだがオレはもう耐えられん。なんでこんな拷問に耐えなければならんのだ!!

今フジテレビでやっている「めちゃ×2イケてる!テレビの力は超無限大お年玉自腹スペシャル」でどちらがより「音痴」に歌っているかというコーナーをやっているのだが、もう聴くに耐えない。こんな状態で家族団欒になれるわけがない。
http://www.fujitv.co.jp/MECHA/index.html

うちの子供はよくこんなものを楽しんでみている。
冗談じゃない。人間の感性を壊す番組だ。 教育上いいわけがない。

出てくるどちらのタレントも半端じゃなく音痴だが、それにも増して「お前ら音楽を何だと思っとるんか!!」と怒鳴りたくなった。

オレの知り合いの制作会社の社長が見たら怒髪天を抜いて怒り狂うだろうな。音楽を茶化しの道具にするとは、文化というものを糞尿同然に思っているとしか思えん!! これは音楽文化の冒涜と音楽家全員への侮辱である。

最近のテレビのバラエテイを見ると脳みそが溶けそうになる。ホントにマジに気が狂いそうになった。もう耐えられん!! 吐きそうだ!!

こんなものを見るのを許したら人間がバカになる。というか最近のテレビは国民を愚民化させようとしているとしか思えん!! これからテレビ禁止令を出そうかと思い、今家の中が険悪な雰囲気になっている。

やはり地上波テレビの視聴ボイコット運動でも起すか。

マジで本当に発狂しそうになった。地上波テレビ、特にフジテレビは国民の感性を鈍感にし、脳みそを溶かし愚民化させるのが目的の会社らしい。

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2010年1月 5日 (火)

今日から始動、今年は原点に返りますー「仕事はもらうもんじゃない、作るものだ」

さて、今週は新年会とか年始の挨拶とかになりますがいよいよ今日から2010年を始動します。今年はいろんな意味で転機の年になると同時に個人的にはここ3年間やってきたことに対して結果を出さなければいけない年となっています。

私の会社は今までネット経由で結構多くの仕事を取ってきましたが昨年はうちの会社がパッケージ業務等の間口を拡大して以来最低の成約率に終わりました。景気の冷え込みは深刻で、すぐにその情勢が回復する兆しはありませんが、一応万全は期します。とはいえとてもあてにはできない状況です。

今年は自分が業界に入った時の原点に返り、自ら今まで仕掛けてきたことを含めいろんなことを仕掛けていこうと思います。不況になると大企業は「新規」とか「前例のないもの」というものをやりたがりませんが、しかしどの会社も全く何もやらないわけには行かないはずです。だから知恵をしぼっていろいろ仕掛けます。自分は業界に入った時のように仕事がないのなら作るしかないー そう 「仕事はもらうもんじゃない、つくるもんだ」 という考えで進めます。

私は音楽業界とも芸能界ともコネらしいコネは全くない状態から始めました。そこを自分から企画したりして音楽業界人の仲間入りができました。そして25年、この業界で仕事することができました。しかし音楽の仕事をこなしているうちにそういった初心をいつのまにか忘れていた、という風に思うんですね。そして未曾有の音楽不況、口を空けて待っていたって仕事なんか来やしません。大企業は守りに入っていますがうちのような零細企業は逆に攻めていかないといけないですね。頭を使い、創意工夫でこの状況を乗り切らないと今年こそ、本当に冗談抜きにヤバイと思います。

実は音楽業界ー芸能界もそうですがーは頭を使うことを極端に嫌う体質があります。それが音楽業界がこんな状況になっている一因でもあります。残念ながら音楽のビジネスモデルは既に実質的に崩壊しており、全く新たな発想でやるしか生き残る道はないと思います。しかし音楽業界人の大半は狭い業界の中しか見ていない傾向があり,まだ既存のビジネスモデルに殆どの人がこだわっています。

だからタイアップの広告費に数百万出していながら、CDはいわゆる「メジャー」であっても数百しか売れないなどという状態になっても、まだ同じことを繰り返そうとするんですね。他人ごとながら「もう少し頭を使ったら」と内心思っていますが、それが今の音楽業界の現状です。

「回収できるタイアップ」というのはいわゆるビッグアーチスト系のプロダクションとテレビ局で抑えていますから新人が入る余地は殆どないです。つまりはっきりいってメジャーレコードにはもはや新人アーチストを育てる力を完全に失ったといってもいいわけです。

まあこういう人たちが「メジャー」という肩書きにこだわるのはこの人たちにはこれしかないからですが、音楽業界から一歩でたらもうそんな肩書きは関係ないんですね。別にメジャーレコードだからそのCDを買うわけじゃない。「好きなアーチスト」のCDだから買うんです。 

だから音楽の既存のビジネスモデルはもはや機能していないわけです。そして今年は昨年よりさらにタイアップの効果が薄れていくのは避けられないです。

まあ音楽の既存のビジネスの形にあくまでこだわりたい人はこだわればいい。但し2011年まともに年を越せるかわからないですね。まあ他人は他人。しかし幸いなことに、この音楽業界の現状に対して何とかしようと考えている人たちは私の周囲に結構います。そういう人たちとの連携、コラボレーションも積極的に行なっていきます。その中から次のステップや活路が生まれてくると信じています。

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2010年1月 3日 (日)

新春コラムーいわゆるポストモダン時代のルーツ音楽の存在(例によって長文です)

お正月ということでいろいろ考えたりしていますが、今日はちょっと難しい話。難解だと感じた人は読む必要はありません。

だけどクリエーターとしては今後食べていこうと考えている方は自分の生き方を考える上で極めて重要なのでなるべく読まれるほうがよろしいかと

実は今回のこの考察は日本の情報社会論者の東 浩紀氏の次の著書に関して私が長い間頭の中で考えをまとめていたことをこのブログに記すものである。

<参考文献> 動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) ;東 浩紀著

これに関する私の考えを述べる前にまずフランスの社会学者ボードリヤールが定義したシュミラークルという言葉について説明しなければならない。シュミラークルとはあるオリジナル作品を「データベース化」し、そのデータベースをもとにオリジナル作品のコピー作品(いわゆる同人作品)が生まれ繁殖し、オリジナル作品は絶対的な価値を失い、すぐれたコピー作品と同等になる。こういった作品をシュミラークルという。

それを踏まえて上記の本について説明すると

かつて近代国家を近代国家たらしめていた政治や経済のシステム。イデオロギーや生産流通の方式。これらの総称を「大きな物語」と呼ぶ。ポスト近代にあってはこれらのシステムは有効性を失い、その空白を埋めるようにしてオタク系文化が登場する。かつては「大きな物語」を通して自己を決定していたのが、ポスト近代では逆に、自己が物語を読み込むようになる。近代が「大きな物語(世界)」→「私」というツリー型のモデルであったとすれば、ポスト近代では「私」→「世界」という世界観になる。この世界観をデータベース・モデルと呼ぶ。 その空白を埋めるのが同人作品ーシュミラークルでありデータベース型社会をシュミラークルが席巻する。そしてオリジナルであろうとコピーであろうと差を問わずに同等に扱い、自己の快感原則を満たす商品と戯れる消費者が登場する。このような状態をフランスの哲学者コジェーヴは「動物化」と呼んだ。要するにすべては情報に還元されてしまい、それを消費する消費者がいるということになる。

要約するとこういうことである。

1.「ロールモデル」が消失した。「こうしなくてはならない」などという「定型」が消失した。

2.すべては価値中立的である。なにがよくて何が悪いという考え方は意味を失った。

3.すべての文化が「データベース」に解体される。データベース同士も価値中立的である。

4.創作者側から、そのデータベースを解体して組み合わせて作品を作る行為が行われる。

5.そうやって作られた作品は、全てオリジナルとコピーとの区別がつかない。=シュミラークル

6.消費者側にとっては、その作品はすべてオリジナルとコピーとの区別がつかないー(=情報に還元される)「同じような」作品群になりそれを消費する。

7.そしてそれらシュミラークルは自己増殖する

8.そういう消費者の振舞いを、「動物的」であるとする。それが起こった原因は、厳しい生存競争から解放されて倦いた人間が快楽だけを求めて動物的に反応しているから哲学者コジェーヴは「動物化」と呼ぶ。

確かにテレビ放送が行なわれたり、PVのDVDが発売されても殆ど同時にYou tubeとかにアップされるし、ニコ動などはまさにシュミラークルそのものである。

実は私の知り合いの作曲家でこの東氏のシュミラークルの考え方を応用した試みをしようとしている人間がいる。昨今の音楽のありかたについて、オリジナル=ルーツ音楽と考え、ルーツ音楽のシュミラークルが増殖することによりかつては、「あるジャンル」とちゃんとわかるように」引用されていたものが、ゼロ年代においては、あるジャンルを構成する要素がばらばらに解体されて、R&Bのリズムでロック的なギターが入り、ラップをする、といういったような様相を帯びてくる。「ジャンルを構成する要素がばらばらデータベースに解体される」。それによってルーツ音楽の価値というものが事実上意味をなさなくなり、全ての要素は相対的なものでしかない。

よって彼は、「ルーツを知らなければいけない」という論には反対の立場をとりますが、「ルーツを尊重すべきだ」という論には賛成という立場を取り、それらのデータベースによる差異化をどう上手くやるかによって今後クリエーターの価値が出てくると考えているようだ。そしてそれは最近のJ-POP系のクリエーターのかなりの人間がそのように考えているようである。

さて、これに関する私の考え方を述べさせていただく。

まず東氏の昨今のネットや同人系の動きに関する分析に関しては確かに当たっている面はあるが、いくつかの疑問もある。

1. オリジナル作品とシュミラークルが作品的に同等というが、そもそもオリジナルが「それなりの魅力」を持っていなければそもそもシュミラークル自身が発生しないであろう。その「魅力」(例えばなぜ「萌える」のか、なぜ「はまる」のかについて)のデータベースについてはこの本では触れられていない。

2.もしシュミラークルな作品がオリジナルをしのぐとしたらそれはどのような場合なのか、そもそもシュミラークルな作品は「オリジナルと同等」と勘違いされているだけで作品クオリテイ的にオリジナルと本当に同等なのか。(例えて云えば宝石のニセモノを本物であるかのように消費者が買うのと同じなのでは?)

あと上記の作曲家のようにデータベースによる音楽について話をしよう。シュミラークルの理論からすると、ロックもジャズもR&Bもクラシックも全て「相対化した」音楽の手法というデータベースの一種に過ぎないという。つまりそれらのデータベースの「組み合わせ」に過ぎないのだが私が考えている大きな疑問の1つに、ではその「組み合わせ」によって人を動かせるほどの表現になるか、ということである。

音楽手法のデータベースというのは単なる作曲技法のエクリチュールに過ぎず、それは単なる表面的なものである。しかしその組み合わせで本当に「ノリ」とか「音楽の即興性」とかを表現できるものであろうか?ーつまり魅力」というものがデータベース化(オタク文化で云えばえばなぜ「萌える」のか、なぜ「はまる」のか、に当たる)できるのか?ということである、東氏はできると考えているようだが文化というのはそんな単純なものではない。

音楽に関していえば作曲技法のエクリチュールの機械的な組み合わせで確かに理論的には音楽ができる。だがそれは音楽の中の表面的な部分に過ぎず、それが「カッコイイ」「ノリのいい」音楽になるかはまた全く別の話である。コンピューターミュージックの黎明期にイリアック組曲という音楽史上初めてコンピューターで作られた音楽があった。それは音楽のデータベースを元にその組み合わせと情報理論を用いて作られたものであるが、歴史的には意味はあるものの音楽的にははっきりいってつまらないものである。

つまり私がいいたいのは表面的なデータベースだけを取り入れてもそれはその音楽のデータベースの本質「エッセンス」を理解したことにはならない。ということである。これは私が以前警鐘を鳴らした現代の情報社会の「わかったつもり症候群」にも通じている。「わかったつもり症候群」というのは断片的情報のみで判断する傾向のことをいい、データベースの表面的な部分だけを見てそれでそのデータベースの全ての部分を理解している、と勘違いしてしまうことをいう。例えば音楽でブルースは12小節で構成されているという基本中の基本を知らないで、昨今のJ-popの「R&B風のデータベース」で作られた音楽を聴いて自分がR&Bの全てを理解している、と錯覚してしまう点である。実際最近の若者にこういう人間が少なくない。勿論R&Bに限らない、ロックを始め他の音楽でも同様の傾向が見られる。

参考:■情報社会の落とし穴(1) モノを知らない人が増えている
http://d.hatena.ne.jp/KyojiOhno/20081031

この「わかったつもり症候群」は情報社会では極めて危険なことだと考える。そして全ての音楽のデータベースの表面的な部分のみをさらって組み合わされた音楽はどういうものになるか、おそらくこの音楽手法のデータベースの組み合わせでできる可能性があるのは例えて云えば「ノリのないロック」「即興のないジャズ」風のポップスだったりする可能性が高い。

あなたはそんな音楽を聴きたいと思いますか? 少なくとも私は聴きたくない。

あともう1つ私がポストモダン論者の観点で納得できないのは「既存の共同体の否定」である。ポストモダン論者は「真理」「道徳」「共同体」といったものに価値を見いださず、むしろそうしたもの はかえって自分たちを抑圧する存在であるとして、そうした世界から「軽やかに」「逃走」することを主張する。インターネットで世界がつながり「グローバルスタンダード」(但し多くの場合アメリカの価値観と同一視される)なるものが叫ばれると共同体そのものの意味がなくなる、とされる。

だがちょっと待って欲しい。これらはあくまでネットや情報を通じたバーチャルな世界の話ではないのか、ではリアルば面において本当に共同体というものが意味がなくなっているのか?

確かに東京とかニューヨークといった大都市ではそのような共同体にリアリテイがないというのもわかる。しかしヨーロッパの南(スペイン、イタリア、南フランス)や日本なら地方都市や沖縄を見てみるといい。インターネットで世界中つながっているにも関わらず共同体は確固として存在する。かれらはグローバルスタンダードによる「世界との均質化」を拒んでいる人たちである。(ちなみに地方都市の方がネットやBS CS衛星放送の使用頻度は大都市より多い)

実はそれを踏まえていうがそういったポストモダン時代による共同体の崩壊、というのは東氏のようなポストモダン論者が考えるほど起きてはいないのだ。そしてその「共同体」をつなげているのが音楽である。

アメリカのブラックコミュニテイは伝統的なゴスペルやR&Bが生活に根付いておりアメリカの黒人の大半はその生活に根付いた音楽を体にしみ込ませている。アメリカの白人のカントリーにしても同じ、その他スペインのフラメンコ、イタリアのカンツオーネ、全てそうである。つまり単なる表面的なデータベースではなく、音楽の精神的な「エッセンス」として彼らはルーツ、ファンダメンタルを形成している。但し、日本には残念ながらそれがない。唯一あるのは沖縄の人たちで、沖縄の人たちには生活に音楽が根付いており、沖縄出身のミュージシャンはそれらを「データベース」としてではなく「エッセンス」としてそれを持っている。この現状を見るにつけそれらを持たない日本本土のミュージシャンは決して沖縄のミュージシャンには勝てないなという印象を持った。

ルーツの音楽は「エッセンス」であり、それは「ノリ」とかリズム感とか、即興性、そして表現力そのものである。それらは1テーク、1テークは「データベース化」は可能かもしれないが法則化はほぼ不可能である。つまりルーツの「エッセンス」を完全にデータベース化することは不可能である。ということができる。

話が難しくなったが要はシュミラークルの時代でルーツの音楽ーつまりオリジナルでいずれシュミラークルと同等になる、といわれている時代でも結局はシュミラークルは所詮コピーの一種、表現力を伝える「エッセンス」まではシュミラークルはコピーできない、仕切れないのではないかと考える。「データベース」は所詮表面的なエクリチュール以上のものではないということである。

確かにポストモダン論者や情報社会に関する分析に関しては当たっている面もなくはないが、全般的にやや頭でっかちな面があるのは否めない。分析対象がデータに偏重しており、この動物化するポストモダンもクリエートする現場、映像文化を始め、音楽そのものの本質を理解している人間の発想とは思えない。もっともこれはIT系論客全般にいえることかもしれない。

いずれにせよ「エッセンス」のない音楽がよい音楽であるはずがない。「データベース」の組み合わせのみで作られてできる音楽は「ノリのないロック」「即興のないジャズ」風のものになる。例えどんな流行っている音楽でもあなたはそんな音楽を聴きたいと思いますか?

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