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2008年10月 1日 (水)

「情報やコンテンツはただであるべき」という考えは情報化社会をかえって崩壊させる。

10月に入りました。音楽や音声のコンテンツ制作屋としても作曲やアレンジャーとしてもこの秋はおかげ様で忙しくなりそうですが、最近「情報とコンテンツ」に関してある思いを強くするようになりました。

現代はいうまでもなく「情報過多社会」です。ネットは勿論いわゆるマスメデイアからも情報があふれています。しかしその分これは自然の摂理ですが情報のエントロピーも増大していて、おそらくこの傾向はどんどん加速していくでしょう。実は数学には「情報理論」というものがあり、式が難しいのでここでは記しませんが、要は情報が増えれば増えるほど情報の内容が無秩序になっていくというものです。私は大学でこれを専攻したのでわかりますが、現代社会はまさにこの状態になっているといえると思います。

情報量というのは「起こりにくさ」です。数値が高いほど「起こりにくい」ということになり、低いほど「起こり安い」と定義します。エントロピーは最終的に無限大の方向に行くというのが自然科学のエントロピーの法則といいますが、その情報量を扱う統計学のエントロピーは最終的には情報は無限大に拡散していくことを意味します。平たくいえば今の情報過多社会は今にもまして情報が洪水のように流れでる状態になっていくということになります

こうした中で情報やコンテンツがあふれていくということは何を意味するでしょうか?それは情報やコンテンツの供給過多を意味し、情報の需要を大きく上回ることになってしまいます。今既にこの状態になっています。それゆえ「全ての情報やコンテンツはタダ(無料)であるべきだ」という概念が台頭し、今ネットユーザーのおそらく過半数以上はそう考えているように思います。

だがちょっと待ってください。私が大学で情報理論を学んでいた時にずーっと引っかかっていて今でもひっかかっていることがあります情報量というのは単に「起こり辛さ」を表現しているに過ぎず(確率)、例えば「自分が宝くじに当たった」事象と「見知らぬAさんが宝くじに当たった」事象は、前者の方が有意義な情報に見えますが、両者の情報量は全く同じなのです。つまり数学の情報理論は個人・社会にとってどれだけ意義のあるものかというのは無関係なんですね。

しかし実際には情報に接する場合その情報が本人にとってどれだけ有意義でかというのが大事なのであって、情報がどんなにあふれていても本人にとって有意義でない情報ははっきりいってゴミ同然ということになります。つまり情報量が増えるということは、情報の自分にとっての価値ということを必然的に自分で高い次元で選択する能力が必要なわけです。そのためには情報やコンテンツに対するリテラシーを今まで以上に持つことが重要になります。

情報やコンテンツに対するリテラシーとは自分で情報やコンテンツの価値の内容を一定のレベルまで理解した上で信頼性を自分で調べ客観的に評価する能力のことです。流布されている情報を鵜呑みにしては決して駄目で、また情報やコンテンツを単に自分の好き嫌いだけで判断してもいけません。そういう能力を身に着けないとこれからの情報過多社会には生き残れないということがいえます。マスメデイアの情報に煽動され、踊らされる人々は情報弱者の類に入れられてしまうかもしれません。

無料=タダというのは要するに「価値がない」ことを意味していますから、情報やコンテンツに対するリテラシーが入る余地がなく、情報のエントロピーが増大することによってより無価値なものになってしまいます。つまり無料の情報やコンテンツは結局ゴミかゴミ以下の扱いしか受けなくなるということです。それを考えるとメデイア、特にマスメデイアの情報やコンテンツは一見無料とはいっても実際には「スポンサー」が買っているもので、その結果間違いなく恣意的かつ、意図的な情報操作を行っているものであります。そして情報が今後も今まで以上にあふれていく状況を考えればこの傾向は今後ますます強くなることはあっても弱くなることはありえない、といっていいでしょう

それらの情報は情報やコンテンツに対するリテラシーという観点から見れば失礼ながらゴミかゴミ以下の価値しかないものでしょう。情報やコンテンツを受容する人は無料で接するわけですから。つまり全ての情報やコンテンツをタダにすべきという議論は全ての情報やコンテンツを結果的にゴミかゴミ以下の価値にすべきだといっているに等しく、この考え方は情報化社会の情報やコンテンツの質の低下を招き、結果的に情報化社会を実質的に崩壊に招くといっていいでしょう。

そのためやはり有料コンテンツ、そしてコンテンツにお金を払う背景は残すべきであり、それに対するユーザーの啓蒙も必要でしょう。私の考えではネットが普及するに当たりそのコンテンツの権利、権利者への尊重の啓蒙をきちんとしていなかったのが今日の状況を作っているように思います。

コンテンツメーカーは今まで以上にコンテンツの質の向上にエネルギーを投入すべきであり、ユーザーがこのコンテンツならお金を払ってもいい、と思わせる内容にしなければなりません。音楽に限っていえば音楽配信のプラットフォームがmp3のままでよいのか、(いいはずがない)という問題があります。それと特に最近の若い世代に対して「音楽のすばらしさ」というものをいかに伝えていくかというのも重要な要素です。

ネットが社会に定着して十年以上、コンテンツビジネスがビジネスとして生き残れるか、コンテンツが文化として次の時代に継承されるか、これからが正念場でしょう。

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