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2008年7月14日 (月)

日本人はコンテンツを芸術ではなく単なるコミュニケーションツールとしか見ないのだろうか?

7月も中旬になり、2008年も後半、今年の始め2008年は音楽業界の滅亡の年になるのではという記事を書いたが

2008年音楽業界滅亡を前提にー何をすべきか
http://kyojiohno.cocolog-nifty.com/kyoji/2008/01/2008_dca0.html

ご存じの通り石油その他の高騰による消費の冷え込み、円高等で景気が後退しているのは明らかである。政府はまだこの時点になっても景気後退を認めていないが、これは既に明白な事実である。しかし今のところはその状況にも関らず何とか「まだ」持っている。

ネットのコピーが音楽業界衰退の原因ーそれを業界幹部はずーっと云い続けていた。確かにコンテンツはタダであるべき、という雰囲気はネットユーザーの中に根強くあるのは事実だが、しかし衰退の原因はそれではない。音楽業界が一番衰退した原因は何か、勿論それは音楽業界人がいまだに旧態依然のビジネスモデルにこだわり時代に対応していない、ということが大きいが、最大の原因を探すならばひとことでいえばそれはネットのせいではなく、それは「携帯のせい」ということになる。

またネットマガジンのサイゾーの引用になってしまうが、白田秀彰氏のインタビュー記事に日本人のコンテンツに対する意識を的確に表現したものなので紹介しておく。

新時代・あらゆるコンテンツは「ニコ動」でイジられる!(前編) (サイゾー)

http://www.cyzo.com/2008/07/post_728.html

同 後編) サイゾー

http://www.cyzo.com/2008/07/post_729.html

これを読んで少し絶望的な気持ちになったのは日本人はそもそも「コンテンツ」というものを芸術や文化としてみているのではなく、単なるコミュニケーションツールとしてしか見ていないということだ。つまり学校や職場で同僚や友人から孤立しないためのコミュニケーションツールとしてテレビ番組や音楽を利用するといった構図だ。

90年代のバブル時代は音楽とはドラマやCMのタイアップ曲だったりカラオケで歌いやすい曲だったりしたものがヒットした。(ヒット曲がカラオケで歌われるのではなく、カラオケで歌われる曲がヒットした)。特にいわゆるトレンデイドラマ全盛の当時は若者であれば「誰もが見るもの」であり、メーカーはそのドラマタイアップ獲得のため湯水のようにお金を投入していた。

つまり、学校や職場の友達や同僚とドラマの話をし、カラオケに遊びに行く、音楽はそのための単なる道具に過ぎなかった。音楽はコミュニケーションのネタであり、関係性を築くための道具であり、そのため「みんなが聞いているから」というのがCDを買う理由となった。いかにも日本人らしい音楽の買い方だと私見では思う。本人たちはそのタイアップの音楽が好きというつもりで買ったかもしれないが、実際はその曲の音楽性ではなく、単なる学校や職場で孤立をしないためのものであった。

しかし携帯が特に若者のコミュニケーションツールにとって変わるとコピーで事足りる音楽に金を使うものなどいない。そして10-15年前と違いCDを聞いても友達は出来ない。と周囲のコミュニケーションツールとしての役割を音楽が果たせなくなった状態では売れなくなって当たり前だ。つまり平たく言えばコミュニケーションツールとして携帯が音楽にとって変わったのである。

海外でもこういった面が全くないとはいわないが、そこが文化の基盤がきちんとできている欧米と日本との差、ヨーロッパにはクラシック音楽があり、アメリカの白人はカントリー、黒人はR&B ソウル、JAZZと「生活の隅々まで根ざした音楽が存在する」。しかし残念ながら日本は沖縄地方を除いてそれがないのだ。もし着メロやカラオケが「生活に根ざした音楽」だと思っている人がいたら、それは音楽文化を理解していない人の弁だ。

生活に根ざした音楽は音楽が鳴ると自然に踊るし、歌う。今日本人でカラオケボックスにいかないで自然に歌ったり踊ったりする人はどれくらいいるのだろうか? 日常生活に音楽がありますか? おそらく「ある」という人の方が少数派かもしれない。

ゆえに日本人にとってコンテンツは単なるツールでしかなく、ツールである以上煮て食おうが焼いて食おうがユーザーの勝手である。という理屈になる。そういう風土からはクリエーターに対する敬意や尊敬など生まれにくい土壌になるだろう。

こうした国に本当に次の時代に継承するコンテンツー文化、芸術が生まれるだろうか?

まあ先日の司馬遼の言葉じゃないがIT系の連中にとっては文化より文明を選ぶんだろうな。(「文化とは、民族内でしか通じないローカルルールであり、文明とは誰もが民族間でのコミュニケーションを実現するグローバルルールだ」 by 司馬遼太郎) でもそういう連中に限ってグローバリズムっといっておきながら、著作権関係の決め事では欧米の決まりごとより日本しか通じない「払わない」という理屈を優先するというご都合主義な人が多いですがね

それでクリエーターが日本からいなくなっても俺の知ったことか、ということなのだろう。

とにかくこういう話を聞くと日本という国が「コンテンツ王国」になる可能性は限りなく0に近い。


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